君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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四葉、男を知る


第六話

 ――――まったく。

 私はツンツンの髪をガシガシと掻いてスマホを勉強机の上に投げる。

 シリコン製の柔らかいスマホケースが鈍い音を立てて天板に着地を決めた。

 朝七時前。

 太陽に温められる前のすっきりとした空気が肺を満たす。

 私にはいくつか人に自慢できる事があって、寝起きがとてもいいのもその一つだ。昔から、六時には自然と目が覚めた。体質なのか習慣なのか分からないけれど、二度寝も絶対にしないしできない性質なのだ。それは、どうやら体が別人になってしまっても変わらないらしい。ああ、そうなると体質ではないという事になるのかな。この体の本当の持ち主は、どう考えても寝ぼすけだ。今日だって、電話をかけた時間はまだ寝ていたのだ。休日ならばまだしも、今日は夏期講習の日だというのに。

「うーん」

 正直に言って、心配だ。

 私も大分無茶振りをしてしまったと思う。まあ、学校に行かなければならないのに入れ替わっていたので、かなり慌ててしまったというところはある。

 かといってサボっていいよとはどうしても言えない。

 私も融通が利かないなあ、と後になってから悔いている。

 でも、よくよく考えれば私の姿をしていても中身まったくの別人なのだ。午前中だけとはいえ、どこかでボロが出るのは当たり前だ。その悪評を一身に受けるのは、結局私自身なのだから、もしかしたら、いややっぱり学校はサボってもらったほうがよかったかもしれない。

 でも、その一方でこの入れ替わりがいつ終わるか分からない。

 今は夏休み中だからトラブルが少ないだけで、九月になれば毎日学校に行く事になる。そうなれば、入れ替わったからサボろうなんて言えないしできない。

「じゃあ、今から慣れてもらったほうがいいかも」

 なんて、思う。

 そして、それは後半月もすれば私に降りかかってくる問題でもあった。

 私は和泉君の友だちとはまだ面識がない。

 街中でばったり会ったとしても、分からないだろう。

 そんな事を考えながら、私は私服に着替える。ジーンズとTシャツという簡素な格好。男の子は下着も含めて三枚で事足りるから楽でいい。お肌対策も特にしていないらしいので、本当に手早く朝の準備が終わってしまう。

 部屋を出て、階段を下り、それから立ち止まってどうしたものかと考えて、玄関に向かった。

「あれ、今日は早い日なのね」

 外に出ると和泉君のお母さんがいた。

 エプロンをつけて、玄関先の花に水やりをしているところだった。

「あ、うん。おはよう、ございます」

「何、改まって」

「え、いや、なんでもない」

 あはは、と愛想笑いをして私は頭の後ろを掻いた。

「水やり、代わるよ」

「そう? ありがと」

「この辺りのに、全部撒いておけばいいんだよね」

「そうそう。あ、裏のほうも頼むわね」

 私の肩をトンと叩いたお母さんは、家の裏手の家庭菜園の事も私に任せる。私は特に否やはなく頷いたのだが、お母さんは意外そうな顔をする。

「珍しい。何かあったの?」

「何が?」

 ドキッとしながら私は聞き返す。

「何か、あんたいつもと感じが違うわね。うーん、早く起きて寝ぼけてたりする?」

「……ちょっと、め、珍しく早く起きたからって、穿ちすぎじゃないかな」

 じろり、とねめつけられた私はバクバクと心臓を鳴らしながら言った。

 うっかり目を逸らそうものなら、何か新たな追及を受けるような気がする。

「まあ、いいわ。そんな日もあるわよね。終わったら、朝ごはんにするからね」

 興味を失ったように、お母さんは家の中に引っ込んでいく。

 ホッと息を吐いた。

 今のは危なかった。

 世の中のお母さんはあんなに勘が鋭いものなのだろうか。私にはお母さんの記憶がない。本当に小さい頃に、病気でかくりよに行ってしまったから、写真の中でしかお母さんを知らないんだ。

 どんな人だったんだろうと思う事は少なくない。

 小さい頃はそうでもなかったけれど、中学の終わりくらいからだろうか。少しずつ気になり始めているのだ。

 ホースを蛇のようにくねらせて、花に水を撒いていく。

 日差しを浴びて、水飛沫が七色に輝いている。

 いつの間にやら蝉の合唱が始まった。強まる日差しと蝉の声が、夏らしさを演出する。

 視線を上げれば緑に包まれた山々が視界に飛び込んでくる。

 入れ替わりが起きるまで、こんな風に山を近くに感じる事はなかった。

 糸守町がなくなってから、あの田舎町の外に出てから私は少しずつ都会の色に染まっていったのだ。いつの間にか私の口は完璧な共通語を使っていた。薬臭い水道水を飲料水にしたり、星の見えない夜空に違和感を覚えなくなったりしたのはいつの頃からだろうか。

 次第に、私は糸守の人間から東京の人間に変わりつつあった。いや、もう変わってしまったのだろう。私の人生の半分は、もうすでに都会で過ごした事になるのだ。

 その事実に、私は愕然とした。

 入れ替わりが起こるまで、私は自然と触れ合う事すらほとんどなかった。糸守町の人間であると、どこまで自信を持って言えるのかと不安になるくらいに、糸守町と縁のない生活を送っていたのだ。

 薄情な小娘だと神様にも怒られるかもしれない。

 曲がりなりにも千年続く神社の娘だったのに、すっかり俗界に馴染んでしまった。

 この村は糸守とは似ても似つかない別物だ。

 けれど、緑に囲まれた風景のそこかしこにかつて私が暮らした町を偲ばせる色がある。

 郷愁と言うのだろうか。

 まさか、私が田舎の風景にそんな感情を抱く事になるなんて六年前の私は思いもしなかっただろう。

 田舎の景色を懐かしく思う――――それは、私がそれだけの時間を都会で過ごしていたのだと、容赦なく実感させるものだった。

 糸守町で過ごしたあの日々が、私の中で過去の遺物になりつつある。

 怖いと思った。ショックだった。でも、別に構わないとも思ってしまった。

 大きく緑の匂いを吸い込んで、吐き出した。深呼吸が頭に酸素を送り込んで、一晩のうちにたまりこんだ余計な不純物を外に押し出していくような感覚。

「よし、切り替え」

 うん、私の長所その二。

 気持ちの切り替えは得意分野だ。

 あっさりした女だと友達にはよく言われる。物事に強い拘りがない性なのだろうと自己分析したりもする。

 私はお母さんに頼まれていた家庭菜園の水やりを終えると、屋内に戻った。

 居間に入ると美味しそうな焼き鮭の匂いがする。ごはんのお供には最適だなと思いながら席に着く。

「おにちゃん、おはよー」

「おはよ」

 ミキちゃんが目をショボショボさせながら挨拶してくれるので、私はついつい破顔してしまう。

 ほんとに幼女可愛い。もちろん、その隣で半分寝ながらいちごを口に運んでいるユキ君も可愛い。結論から言えば眼福である。

 テレビを眺めながら、私はごはんを食べる。東京で食べるものよりも美味しく感じるのは間違いじゃないんだろう。私、普段は節約のために安物ばっかりだし。今、私が食べているのは完全無欠の地元産。綺麗な水と空気で育った米の美味しさすらも私はしばらく忘れていたみたいだ。

 朝食の後、特にする事もないので私はテレビを眺めながらぼーっとして過ごしている。

 当然の事ながら、家の近くに店はない。近くのコンビニに行くのに車を使わなければならないくらいの僻地なようで、うんざりとは行かずとも、時間を持て余してしまっている。

 入れ替わりの中で何度も思った事だが、東京とは生活環境がまるで違う。娯楽に溢れていた東京では、時間を使おうと思えばいくらでも浪費できた。自分の身にならない使い方をいくらでもする事ができた。暇を持て余すか、慌しく過ごすかは、ほぼ自分の裁量次第だった。

 だけど、ここは違う。

 少なくとも、女子高生がわいわい楽しめる物は皆無と言っていいだろう。

 本当にテレビくらいしか娯楽がない環境だ。お姉ちゃんが東京に出たがっていた気持ちが今ならば分かる気がする。

 昼を過ぎた頃に、私はユキ君と外に出た。

 この前はザリガニ釣りだったが、今日は虫取りだそうだ。

 うん、生粋の都会っ子ならば虫に触れない、見るのもおぞましいと震え上がるところなのだろうが生憎と私は田舎育ちだ。虫なんて見慣れているし、虫取りに精を出して草木を掻き分けた経験もある。もちろん、女子高生の私が虫取りを趣味にしているわけもなく、あくまでも小さい頃の話だ。そもそも東京で暮らしていて、虫を取りに行こうという話が出てくる事もまずない。

「ユキ君。いきなり走り出さないでね」

「うん」

 虫篭と虫取り網を持ったユキ君と私が辿り着いたのは、家からユキ君ペースで徒歩十分ほどのところにある休耕田だった。

「過疎ってるなぁ」

 高台から見渡せば、集落の中にいくつもこうした土地があるのが分かるだろう。

 誰の土地かも分からない休耕田に蔓延る背の高い雑草の中に足を踏み入れると、イナゴやショウリョウバッタが飛び出してくる。

 がっさがっさと草むらを踏み荒らし、飛び出る虫を追いかける弟。あのくらいの年齢だと、自然はほんとうに不思議の宝庫に見えるのだろう。男の子ならばなおさらだ。

「最近、見なかったなぁ」

 バッタすら懐かしく思える。

 まあ女子高生が草むらに入る機会なんて滅多にあるわけじゃないから仕方ないね。

 東京は都会だけど、実は緑も結構あるのだ。航空写真を見れば分かると思うけれど。だから、動植物には結構恵まれていたりする。でも、身近に潜んでいるとしても、こちらから捜しに行かなければ目には入らないものだ。私は進んで虫を探す事はしないので、結果的に野山に棲む虫達を懐かしいと思ってしまう。

「ふん、ふん」

 気合を入れて、ユキ君は網を振る。

 長い虫取り網に翻弄されているのは、虫ではなくて彼のほうじゃないか。

 保育園児の筋力では、虫取り網の遠心力でふら付く事もあるか。

 草の背丈が高いので、うっかり目を離すと大変な事になる。

 虫なんかどうでもいいが、人様の家の子どもをうっかり怪我させるなんてとんでもない事をやらかしたくはないので、常に手が届く範囲にいるようにする。

 虫取り網を振り回すユキ君は、まったく虫を捕らえられていない。バッタの敏捷性にユキ君の反応速度が追いついていないのだ。

「ん、ん、ん!!」

 さすがに苛立ってきたのか、ユキ君は乱暴に虫取り網を振り回している。

 むきになってバッタを追い回す姿も可愛い。うん、一応、私はショタコンではないという事を念押ししておく。

「ユキ君、そんな風に振り回しても捕まえられないよ。ちゃんと、止まってるところを狙わないとね」

 そう言って、私はユキ君の隣に歩み寄る。

 それが、間違いだったと気付いたのは後になってからの事だったけれど、この時の私には直後に起こる悲劇を予想するのは無理だった。

 長物を振り回している人間に不用意に近付くものじゃない。幼い子どもであってもそれは同じ。バットやラケットのような重い物ではなく、虫取り網というとても武器にはならないような物品であっても、当たり所によっては激しい痛みをもたらすのだと私は学んだ。

 

 

 

 私は路上にしゃがみこんで呻いていた。隣ではユキ君が泣きそうな顔で私の背中を摩ってくれている。大丈夫と声をかけてあげたいけれど、生まれて初めての激痛に声も出ない。

 まさか、ユキ君が振り回した虫取り網が男の子限定の当たってはいけない場所に当たってしまうなんて思わなかった。

「お兄ちゃん、大丈夫? お兄ちゃん」

「う、おう……うん」

 ああ、クッソ。

 私は今、男だった。

 すっかり忘れていた。

 噂には聞いていたけれど、まさかここまで酷いなんて知らなかった。

 腹部に鈍痛。

 吐き気すら感じている。

 まさに悶絶。

 じわりと脂汗が吹き出ているのが分かる。

 一撃をもらった時の衝撃を、私は表現する事ができない。

 男って大変だ、と思いつつ、やっぱり男は馬鹿だと思った。こんな弱点丸出しの構造をしているなんて、もう本当に遺伝子レベルで救いようがない。

「うぅ、ん、大丈夫。落ち着いてきた」

 金的を食らった時の適切な対処法が分からない。じっとしていたら何とか調子が戻ってきたけれど、大丈夫だろうか。

 立ち上がってみる。

 アソコに鈍痛が残るが、動けるようにはなってきた。

 五分くらいで大きな痛みの波が引いてくれたのは幸いだ。瞬間的な痛みは想像を絶するレベルだったけれど、あまり長続きはしないみたいだ。一つ勉強になった。

「お兄ちゃん」

「大丈夫、治った。多分」

 そう言って、ユキ君の頭を撫でる。

 頑張って笑顔を作り、安心させてあげるとユキ君も笑顔を作った。

「バッタの捕り方な、おね、お兄ちゃんが教えてあげよう」

 私は手近な所には生えている薄の葉を一枚引っこ抜いて、その場に座り込む。それから、葉脈に沿って半分くらいまで縦に切れ目を入れた。

「何、それ?」

「まあ、見ててみ」

 薄の葉を裏返し、折り、絡める。折り紙のように緑を扱い、手早く一匹のバッタを作った。

「え、おお! すごい、バッタだ!」

「ふふ、そうでしょ。バッタなのだよ。で、これをこうして……」

 私はポケットに忍ばせてたタコ糸をへし折った薄の柄に結わえ、もう一方の先端に作ったバッタを結びつける。

 そして、二人で適当に暴れまわった休耕田の中に狙いを定める。

 私達が通った所は背の高い草がなぎ倒されて日当たりがよくなっている。そこに体を温めようと虫達が集まっているのが見て取れる。その虫の中に、ひと際大きな虫がいるのを私は見逃さない。トノサマバッタだ。私はさっと、即製の釣竿をふるってトノサマバッタの前に「えさ」を放り投げる。

「静かに」

 ユキ君を牽制しつつ、ゆっくりとトノサマバッタの前でえさを動かす。

 すると、トノサマバッタがえさに飛びついた。

「こいつ、ちょろいな」

 思いのほかあっさりと食いついたので拍子抜けしつつ、私はジリジリとトノサマバッタを引き寄せて、虫取り網を上から被せた。

「はい、捕った」

 トノサマバッタをしっかりと捕まえて虫篭に入れて捕獲完了だ。

「すごい、すごい! お兄ちゃん、すごい!」

「あはは、そうでしょう」

 私は得意げになって笑う。

 手放しの賞賛に調子に乗ってしまいそうになる。

「やってみる?」

 ユキ君は大きく頷いて、釣竿を手に取った。

 何とか兄の威厳を保てただろうか。

 私が失敗して和泉君の評価を下げるのは申し訳ないからね。

 

 

 

 その夜、私は和泉君の勉強机の上で糸を編んでいた。

 糸の端を天板にテープで固定して糸を編む、とても簡素な組紐だ。

 糸守千年の歴史は彗星の日に終わりを迎えた。

 けれど、小さい頃から叩き込まれた組紐は私の中で癖になっている。もしかしたら、無意識のうちに糸守を思い出そうとしているのかもしれない。

 刺繍糸を使った平編みにしてみよう。私はそう思い立ち、お母さんに頼んで糸を分けてもらったのだ。

 糸の声に耳を傾ける。そんな領域に私は至っていないし、未だにお祖母ちゃんが言っていた事の半分も理解できていないと思う。

 糸はしゃべらないし感情も流れない。

 うん、でもこうして糸を組み合わせて紋様を描き出す過程で、私はどこかと繋がっているような気がしてくるのは不思議だ。これが集中しているという事なのだろうか。いつもいつも、糸を組み合わせている時は時間を忘れて没頭する。

「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、また繋がり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ……」

 小さく口ずさみながら、私は糸を寄り合わせる。

 形を整え、脳裏に描いた設計図を手で再現する。

 昔に比べて、大分上手くなってきたと実感する。

 夏の暑さも、クーラーの風の冷たさも、今の私とは別の世界に存在している。私は今、糸を介して現在を離れているような気持ちにすらなる。

 この感覚が心地いい。

 組紐が形になっていくに連れて、私は心臓がトクトクと音を立てるのに気が付いた。

 早く早く、今すぐにでも完成させたい。

 だけど、焦って事を進めてもいい組紐は作れない。じっくりコトコト煮込む事で味のあるスープができる。そんな感じで、組紐もゆっくり完成を目指せばいい。

「ふう」

 息を吐いて時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。

 寝よう。

 私は組紐の隣にコピー用紙を置いて、「製作中、触るな」とメモ書きを残してベッドに飛び込んだ。

 人の家で何やってんだろうと心の中で呟いた。

 慣れてきたからだろか。 

 結構、好き勝手にやっているなと自嘲気味に笑って、私は睡魔に身を任せた。


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