気がつくと、私は夜空を見上げていた。
小さい頃から当たり前のように見つめていた風景の一つ。何百何千という星の煌めきに彩られた夜のキャンパスには、いつもの違う輝きがひと際大きく描かれていた。
青い光の尾を引いて星の海を我が物顔で泳ぐ大きな彗星。
千二百年に一度の周期で地球に接近するというティアマト彗星は、夜の主役は自分であると喧伝しているかのように黒いキャンパスに青い光を塗りつけている。
ほうき星なんていうけれど、どっちかって言えば筆星じゃないかと思う。
青い絵の具をつけて、弧を描くように。自分勝手気ままに黒を塗り潰していくのだから。
この景色を私は知っている。
今よりもずっと目線が低くて、土と緑と水に囲まれた生活をしていた頃の景色だ。その最後の一瞬の景色だ。だったら、これは夢なんだろうと思った。
満天の星空に、美しい彗星。
私はこの時、呼吸すらも忘れて空を見上げていた。夢のように美しい眺めだったから。
この一時間後くらいに、私の故郷は姿を消す。
地球に接近した彗星の核が割れて流星となり、それが不幸にも糸守町に落ちたのだ。私たちは偶然にも
だけど、おかしい。
あの彗星を私は糸守高校のグラウンドで見守ったはずだ。
あの日、私はお祖母ちゃんと町役場に出向いて、お姉ちゃんの……事をお父さんに話していた。避難訓練が始まってすぐに私達は湖の反対側の高校まで車で移動した。そのはずなのに、私の視界は夏祭りで賑わう糸守神社に固定されている。
今は離れ離れになってしまった友だちと一緒に空を見上げている。
綺麗だね、とこれから起こる事を何も知らずに美しさに心を奪われている。
私も暢気に口を開けて彗星を指で追いかけている。
そこに居ちゃいけない、と私は思った。だけど、これは夢だから、どれだけ叫んでも言葉になんてなりはしない。
やがて、彗星の核が割れて流星となり、大気圏で赤々と燃え上がる。多くは地表に落ちる前に蒸発して消えていく。その天体ショーすらも、小学生の私は感動する事しかできない。
その時を迎えてもなお、私は空を見上げている。
それは一瞬の出来事で、私は熱いとも痛いとも思わなかった。きっと、何が起こったのかも理解しないままに意識が拡散したのだと思う。
■
耳障りな電子音に閉じていた瞼を歪める。
体重のすべてが沈み込むような柔らかいベッドの上で、薄い掛け布団に包まっていたいという欲求がスマホの音を無視させる。
ごろり、と転がる。
なにやら柔らかい壁があり、手足を伸ばすとそこも何か柔らかい壁にぶつかってしまう。寝ている場所の形がおかしい。ベッドではない、と脳みそが理解した瞬間、胸に感じた圧迫感が俺の中に寒風を呼び込んだ。
「んはッ」
妙な声が出た。
使い慣れない肺と喉が呼気を出しそびれてむせ返る。
飛び起きた俺は、そこがベッドではなくソファである事、胸に柔らかい丘が二つ生えている事の二点を真っ先に確認した。さらに言えば、自分の知らない部屋だった。リビングなのは間違いないが、見慣れないリビングの黒いソファの上で寝ていたらしい。
いや、なんだかどこかで見た覚えがあるようなないような。
ブルブルとスマホは鳴り止まずに振動している。
しつこいアラームだな、と思って画面を見るとなんと電話だ。
発信元は「俺」。
「相変わらず、早いな」
自分の名前が表示されているという可笑しな状況にも半ば慣れてしまった。
ちょっと悩んでから、通話ボタンをタップする。
『遅い、いつまで寝てんの』
不機嫌そうな男の声が耳朶を打つ。
「逆に聞くけど、お前な。今何時か分かってる?」
『六時四十五分。時差を気にする必要はないはずだけど?』
「早いんだよ。夏休みだろ」
『休みだろうが何だろうが六時に起きる事にしてるの。昔から。他人はいいとして、私の体で朝寝坊は辞めてよね。癖になったら、どうするのよ』
「それで毎回朝一で連絡してくるのかよ」
女子高生は皆そうなのだろうか。少なくとも俺だったら休みは十時くらいまで寝てる。できれば一日中寝ていたいと思う日もある。だが、四葉はどういうわけか日が昇ったらすぐに活動を開始したい性質らしい。ばあちゃんかと言いそうになったが、口をつぐんだ。さすがに女子高生相手にそんなツッコミは入れられない。特に自分の体を人質に取られている現状では、余計な事は言わないのが吉だ。
『今、どこにいる?』
「どこって……うーん、いつもの部屋と違うよな。黒いソファの上。どこだ、ここ」
『やっぱり、寝起き。そこ、私の実家。昨日、お姉ちゃんのとこから帰ったの』
「ああ、そう」
頭を掻いて、俺はソファから降りた。
前に入れ替わった時、一度だけこの部屋で過ごしたような気がする。入れ替わり現象の最初の頃の事は正直、ほとんど覚えていない。夢だと思っていたからだろうか。
リビングには無駄なものが一つもなく、観葉植物とテレビが置かれ四段組の本棚には料理雑誌やDVDが整然と並べられている。俺の家のように子どもが遊び散らかした玩具が転がっているという事もなく、清掃が隅々まで行き届いているように見えた。
気になる事といえば、食器の数が少ないように見える。生活感があまりない。
「一人暮らしなのか」
『そうだよ』
「え?」
何気なく呟いたら、四葉はあっさりと認めた。
「高校で一人暮らししてんのか」
『お祖母ちゃんは老人ホームから出れないし、お父さんは仕事で飛び回ってるからね。まあ、お父さん、お祖母ちゃんと仲よくないから揃うのは本当に滅多にないかな』
そして、お姉さんは都心で一人暮らしをしている。
母親の話がない。
四葉が意図的に避けているのかどうなのかは分からない。しかし、何となくそれを聞くのは野暮だと思った。人の家庭事情をあまりあれこれと詮索するものじゃない。それくらいの常識は俺だって持っている。
『あ、そうそう。今日は登校日だから、学校行ってよ』
「は? はあ!? 登校!?」
『うちの学校、夏休みにも登校日あるの。午前中だけの講習ね。遅刻しないでよ』
「いや、何言ってんの? この状況で行けると思ってんの?」
『だって仕方ないでしょ。学校休むなんて簡単にはいかないっての。推薦とかに絡むかもしれないでしょ』
さすがに驚いた。
高校一年でそこまで先の事を考えているなんて思ってもいなかった。俺だけじゃない。回りの友人達でさえ、卒業後の事は漠然としか考えていないヤツがほとんどだ。そういえば、コイツはオープンキャンパスにも進んで行っていた。
何がそこまで彼女をしっかりさせるのだろうか。
生来のものなのか、それとも生活環境がそうさせるのか。一人暮らし、糸守出身。その辺が関わってくるのだろうか。
『……聞いてる?』
「あ、すまん。ぼーっとしてた」
『何か気が気じゃないんだけど……とにかく、学校には行く事。テーブルの上に座席表置いといたから』
「座席表?」
テーブルの上にA4サイズの紙が何枚かホチキスで留めてあった。その一番上の紙が、手書きの座席表だった。三十人学級。四葉の席は窓際の前から三番目だ。
『よくしゃべる娘の呼び方も書いてあるから、学校に行くまでに覚えて行ってね』
「マジか」
『マジ。和泉君の予定は何かある?』
「何もないので弟達をよろしくお願いします」
『りょーかい』
そう言い残して、通話が切れた。
ツー、ツーという音の後で、俺はだらしとスマホを持っている手を下ろした。
「学校行くのか。マジか」
朝から絶望的な気持ちになってしまう。
四葉はいつ入れ替わってもいいように、翌日の予定をきっちり把握して準備をしていたらしい。
座席表のほかにも先生や友人の呼び方が書かれたメモや学校周辺の地図、仲のよい友人の写真、バスの時刻表などが一式取り揃えられている。
入れ替わったら外部との繋がりを断って引き篭もるという発想は、四葉にはないみたいだ。俺としては、四葉の知り合いと会いたくはないし、何かしら失敗して四葉の悪評を生むのも気が引けるので学校なんて行きたくないのだが、推薦に響くとまで言われては登校せざるを得ない。
これは、もう諦めるしかないか。
予定表を見れば午前中に国数英があるだけだ。
さっさと行って、終わったら速攻で帰宅する。それがいい。そうしよう。そんな感じの事を、ソファに座り直した俺は胸を揉み解しながら考えている。
仕方ない、男だからな。誰だってそーする、俺だってそーする。
ふにふに、とちょっと強めに揉む。柔らかいけれども弾力がある。巨乳ではないが、小さくもない。揉んでいて、お、あるなと感動できるくらいにはある。
「あ、制服」
どこだろう、と思って視線を彷徨わせると木製のカーテンレールに架かっている事に気付いた。
歩み寄って制服を手に取る。
ブレザーの制服は飾り気がなく、どこにでもある一般的なデザインだ。
それは、まあいいとしてこれからこれを着るのかと思うと複雑な心境だ。
意識としては男なのに女物の服を着る。それも制服だ。女子しか着ない女子の制服を男の意識で着用する事に、何とも言えない拒否感情が出てしまう。ジャージで登校とかダメだろか。ダメだろうな。
スマホで現在地を確認しつつ、俺は外に出た。
制服にちょっと梃子摺ったが、鏡で確認した限りでは可笑しなところはない。いつも学校で見る女子と同じ見た目だ。
髪型は面倒なので後ろで結った。ポニーテールであっていると思う。普段はツインテールだというが、左右対称に二つ結うのは面倒だったのだ。
スクールバッグを担いで外に出ると、一面に広がる新しい街並に目を奪われる。
この景色を見るのは、これが初めてだ。新鮮ではあった。都心ほどビルが立ち並んでいるわけでもなく、住宅地というべき場所にある。大通りに近く、スーパーや家電量販店に行く事ができる。四葉の家は七階にあって、このマンションと同等の高さの建造物は目に見える範囲に別のマンションが点在する程度だった。
「はあー、こんなとこに住んでんのか」
やはり、俺の実家がある田舎とはまったく異なる世界だ。とはいえ、この雰囲気。俺が普段暮らしている学生寮の周囲に近い。経済の中心から微妙にずれたところにある住宅地。こういうところを何と言うんだったか。ベッドタウンとかそんなんだったような気がする。
何だか知らない環境に放り出されてドキドキしている。緊張している事もあるが、それ以上に新しい世界に好奇心が刺激されているのだ。
四葉にとっては見慣れた景色も、俺にとってはこれだけで新鮮だ。
ついつい視線が彷徨ってしまう。
バス停までの道を歩いていて、歩幅がいつもと違う事に気付かされる。想定した時間通りに目的地までたどり着けないような気がして、俺は早足になる。
財布に入っていた通学定期でバスに乗り、十分ほどの道のりを揺られる。
あまり人が乗っていなくて座る事ができたのは、もともと乗車率が低い路線なのか夏休みで利用する学生が少ないからなのかどっちなのだろう、などと益体もなく考えながら四葉が用意した資料に目を落とす。最低でも自分の席に近いクラスメイトの名前くらいは把握していなければ不審がられてしまう。
これから半日、宮水四葉を演じなければならないのだ。
お、この前オープンキャンパス一緒に行ったのが近くにいるじゃん。
四葉の姿で話した事がある娘が近くにいる。
それだけで、ほんのちょっと救われたような気持ちになった。
時刻は八時三十分ちょっと前。
つまり始業開始ギリギリに俺は教室に入った。
普段、四葉が何時に教室に来ているのかは知らないが、俺はできる限り人と会話する時間を作りたくなかった。だから、遅刻しないギリギリのところを狙い済まして登校したわけだ。バス停から高校までほぼ一本道で迷うような事もなかったのが幸いした。
すみやかに自分の席に座り、カバンから教科書とノートを取り出して机の中に仕舞いこみ、ハリネズミのキーホルダーがついた筆箱を天板の上に置く。
とりあえずは完璧だ。
一切の瑕疵なく教室に入る事ができたはずだ。
少し、周りからの視線を感じるけれど多分思い過ごしだろう。俺が内心ビクビクしているからそう思うに違いない。
そんな事を考えながら、できるだけ周囲に関わらないようにと念じながらついつい頬杖をついて外を眺めていると担任が入ってきて朝の挨拶を始めた。
若い女教師だった。眼鏡をかけているがキツイ印象はなく、むしろ暖かみのある雰囲気を演出している。
名前は確か大淀先生。四葉の資料には国語教師とも書かれていた。なら、一時間目の国語はこのまま行くのだろう。
「はい、それじゃあ朝の小テスト始めまーす」
何、テスト? 何の?
慌てて、隣の女子――――ええと、みっちゃん? に話しかける。
「あのさ、テストって?」
小声で話しかえられたみっちゃんはぎょっとして、
「古文の単語テスト。え、何、宮水さん忘れてたの?」
「え゛、あ、いや。大丈夫、うん」
俺は背中に薄らと冷や汗を流しながら、前を向いた。スッと背筋を伸ばして不動の姿勢を取る。どんな問題が来ても受けて立とうという覚悟を決める。
おそらくは優秀であろう宮水四葉の脳みそがここにあるのだ。きっと、多分、乗り切れる。
――――まあ、俺は古文が一番の苦手科目なわけだが。