トントントンというリズミカルな音が耳を叩き、寝返りを打つ。
ふわり、とした浮遊感が体を遅い、続いてドスンという鈍い音が部屋中に響く。
「いでッ」
右肩から床に落ちたみたいだ。
「あぁあ?」
のそり、と俺は起き上がる。フローリングの床とガラステーブルの脚が目に飛び込んでくる。
「ちょっと、四葉。どうしたの、大丈夫?」
「え、あ、ああ! 大丈夫! 落ちただけ!」
「……ほんとに大丈夫?」
俺は慌ててソファに座りなおしてコクコクと頷いた。
確か、三葉さん。宮水四葉の姉だったはずだ。掛け時計の時刻は七時を少し過ぎたくらい。朝食を作っているのだろう。
「そうか。今日は四葉の日か……」
俺、こと小滝和泉の奇妙な日々がいつから始まったのか明確には思い出せない。
多分、夏休みに入ってからだったかと思う。
夏休みで学校の寮が閉まるので、田舎の実家に帰省した時期とほぼ同時期に東京で暮らす女子高生の体に意識だけが入り込むようになった――――らしい。
とりあえず、俺は顔を洗うために脱衣所に向かった。
薬臭い東京の水道水で顔を洗い、タオルで水気を取ってからまじまじと鏡に映る顔を見つめる。
肌にはしみ一つなく、スキンケアもまめにやっているのだろう。夏も盛りのこの時期に、日焼けもせずにいるのはそれだけ四葉が手入れを欠かさずにしている証だ。
「綺麗な顔してんだよな」
ふと、そんな事を呟く。
同世代の女子のすっぴんなんて、最近はほとんどみなくなった。高校の同級生達は先生達に小言を言われない範囲で化粧をして登校している。女は化粧で化けるというけれど、こいつはわざわざ仮面を被る必要もないくらいには整った顔立ちをしていると思う。
洗面台の隣に置かれた棚には、化粧水とかファンデーションとかそういった「変身用」の小道具が置いてある。大半は、きっと三葉さんのものなのだろうけれど、この中のどれが四葉の化粧道具なのだろうか。
まずいな、と思う。
せっかくの東京だ。四葉の知り合いに出会わないようにしていれば、表に出て色々と見て回りたいと思うのだが、しかし、今日の天気は快晴だ。四葉の体を乗っ取っている俺が、四葉が不断の努力を積み上げてきたであろうスキンケアに泥を塗るような事をするのは気が引ける。
借り物の体だ。
できるだけ、綺麗なままで返さないとダメだろう。
「四葉、ご飯できとるよ。いつまで顔洗ってんの?」
「え、ああ、えーと」
ひょっこりと、三葉さんが顔を出す。
俺は不意を打たれて心臓をバクバクさせつつ、
「えと、お姉ちゃん。私のって、どれだっけ?」
「はあ?」
怪訝な顔をした三葉さん。
当然だよな。そして、結論を言えば洗面所にあったのは全部三葉さんのものだった。四葉は三葉さんの部屋に置いているスーツケースの中に化粧品を仕舞いこんでいた。
しょっぱなから成り切り作戦に躓いてしまった。
寝ぼけてた、で押し切ったが、これでは先が思いやられる。
「やっぱ、キツイな、これ」
何がって、すべてだ。
もともと高身長というわけでもない俺だが、四葉よりは十センチは高いはずだ。だから、俺からすればいきなり十センチ背丈が縮んだ事になるわけで、それに比例して手足も短くなっている。いつもの感覚で手を伸ばしても、指先が空を切る。今朝はそれで、しょうゆの瓶を取り落としそうになって三葉さんに不審がられた。
このイメージと実際の体の動きが違う困惑は、過去にも経験がある。
俺は中学までは運動部だった。高校に入ってから帰宅部になったが、それによって知らない間にかなり体が鈍っていたらしく体育の授業中、上手く手足が動かず転んだ事があった。
四葉の体は、その時の俺の感覚に近いぎこちなさを強制してくる。
「じゃあ、四葉。鍵は開けておくから、出るなら締めて出てね」
そう言って、三葉さんはカバンを肩にかけて出ていった。
三葉さんは社会人だ。俺達と違って夏でも出社しなければならない。どこの会社に勤めているのかは知らないが、夜が遅い事もあるみたいだ。やっぱ、社会人は大変だ。そこの辺り、うちの両親は会社勤めではないからか、俺にとっては新鮮な光景ではあった。
そうして、見知らぬ家に取り残された俺はテレビを眺めながらソファに座っている。
どうしようか、と考えて、どうしようもないという結論だけが出てくる。
だって、そうだろう。
朝、目が覚めたら別人の人生に迷い込んでいましたなんて、誰に相談しろというのだ。非科学的なんてものではない。オカルト中のオカルトだ。漫画や映画ではよくあるシチュエーションでも現実にはありえないはずの現象で、だからこそフィクションのお約束として人気があるというのに、ノンフィクションは洒落にならない。
とりあえず、今日一日をどう過ごすか。
俺はおっぱいを両手で揉みながら太ももの上に置いたスマホを見下ろした。
ネットか。
スマホがあるし、変なサイトにアクセスしなければ娯楽としてはそこそこいけるだろう。まさかパケホじゃないなんて事はないだろうし。
「東京のど真ん中にいるのに、スマホって。田舎とする事変わんねえじゃん」
何て言いながら、俺はアイツのスマホでネットにアクセスする。
ほんとに日焼け止めでも探し出して、東京都心探索に繰り出すか。
そんな事を考えている時にスマホが鳴動した。
「うおッ」
びっくりしてスマホを取り落としそうになる。
やべえ、誰だ。
四葉のスマホに電話をかけてくるヤツと俺が知り合いなんて事は百パーセントありえない。つまり、俺がここで電話に出ても、悪影響しか与えない。かといって無視するというのも……なんて思いながら画面を見る。
名前は表示されていなかった。
未登録の電話番号からの着信だ。
ますます誰だよ。
朝から俺を悩ませやがって。
電話番号の主に恨み言が言いたいくらいだ。
「え……」
けれど、そこで俺の思考は一時的に凍結する。
この電話番号に、見覚えがあったからだった。
■
暑い暑い暑い、朝から暑い!
なんなんやさ、マジで頭がおかしいくらいに太陽が元気良すぎる!
ジリジリと肌を焼く直射日光に曝されながら、私は畑に水をまく。
ホースで水を蛇のようにくねらせて、トマトとピーマンときゅうりに水分を届ける作業を黙々と続けている。
太陽光に曝されると本当に頭が熱を帯びる。
黒とその他の色の熱の集め方の違いを、こんなところで実感したくはなかった。
「こいよ、ホースなんてすててかかってこい!」
うーん。
目の前で水鉄砲を持った水着姿の保育園児が、映画の台詞を真似て挑発してくるので、額目掛けてジェットを叩きつけてやる。
「ああ~~~~」
楽しそうにTMRごっこを始めるユキ君。
この保育園児はエンタメにずいぶんと強いらしい。
もう三回目くらいになるだろう田舎の小滝和泉君の体で、やっと自分だけでなく周囲の状況を確認できる余裕ができてきたところだ。
小滝家は父親が開業医で母親が主婦。年の離れた弟妹がそれぞれ一人ずついて、和泉君は長男だ。この村には数年前に父親が診療所に赴任してきた際に一家丸々引っ越してきた。
この村には病院らしい病院が一つしかなく、前にそこに務めていた医者が引退したために地域そのものが衰退しかけた。そこで、和泉君のお父さんが一時的に診療所の穴を埋める事で何とか地域を支えているというのが現状だそうだ。
だからなのか、小滝家はこの高齢化の激しい地域の人達から妙に敬意を持たれている。
村の中を散策すれば和泉君和泉君と話しかけられる。
小さなコミュニティの中では、皆が家族みたいなものだ。地域で唯一の、しかも地域の衰退を止めるためにわざわざ地方にやってきてくれた医者というのは救い主みたいなものなのだろう。
そんな立派なお医者さんを父に持つ和泉君の人となりは、今現在でもいまいち掴めないでいる。
直接話をした事があるわけでもない。
小滝和泉という高校生のパーソナリティは、彼の周囲の人間の反応から埋めて行くしかない。
で、今のところは面倒見のいいお兄ちゃんという評価以外には何もない。ラインの状況から考えて彼女もいないし、夏休みをこうして実家で過ごしている辺り部活もしていない。
「はいはい、終わり終わり」
ユキ君を連れ立って私は玄関に戻る。
頭からずぶ濡れになったユキ君を乾いたバスタオルで包み、水気を拭き取ってから家の中にあがりこむ。
他人の家なのに、我が物のように歩き回るのも釈然としないところはある。いや、今は私の家なのだから気にしなくてもいいのかもしれないけれど。
「水やり終わったよー」
玄関からどこかにいるであろうお母様に呼びかける。
「ありがとー」
なんて、どうやら台所にいるらしいお母様が声だけで返事をしてくる。
「おにちゃん」
くいくい、と私の服の裾を引っ張ってくるのは一番下の妹のミキちゃんだった。
さっと両手を挙げて何かを催促してくる。
「はいはい」
私はミキちゃんを抱きかかえて高い高いをする。
きゃあきゃあと楽しそうに笑う妹。うん、可愛い。後、結構重い。やっぱり、四歳にもなればそこそこの体重にはなるんだ。
そう思うと、このずっしりとした体重を支える両手の頼もしい事。やっぱり今の私は男子なんだと実感する。
「あ……」
そこで、私は大変な事に気がついた。
うっかり、ミキちゃんを取り落としそうになるくらいの重大事。
今までは、これは私の夢だと思っていた。リアリティのあるすごい夢。けれど、もし、もしも夢でなくて本当に小滝和泉君が実在しているのだとすれば、和泉君の体に私が入っている間、和泉君はどこにいるのだろうか、という事だ。
「あ、もしか、して」
その可能性に気付いて、私はぞわりとしてしまう。
そうだ。
小滝和泉の名前は、私のノートに書いてあった名前じゃないか。
という事は、考えたくもないしありえない事だけれど、こうして私が和泉君の体に入っているように、和泉君も私の体に入っていると考えるのが自然なのではないだろうか。
「おにちゃん、どうしたの?」
「うん、大丈夫」
妹を床に降ろして、私は考え込む。
私の想像が当たっていたとすれば、これはアレだ。漫画でよくある「入れ替わり」ってヤツだ。そうだ、そうに違いない。馬鹿げているけれど、今までに積みあがった状況証拠を組み合わせれば、それ以外にこの状況を説明できる言葉がない。
「おにちゃん?」
「あ、ミキちゃん。ちょっと、ユキ君と一緒に遊んでて。わた、俺、やる事があるからさ」
「えー」
「すぐに戻ってくるから。ほら」
ぐい、と私はしぶるミキちゃんの背中を押す。
トミカで一人運転手ごっこをして遊んでいる弟に無理矢理押し付けるようにして、私は和泉君の部屋へ向かって階段を駆け上がる。
和泉君のスマホを枕元から取り上げて、手を止める。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ考え込む。この夢みたいな摩訶不思議な現象が私の妄想でないという証拠はあるのか。本当に白昼夢を見ているだけではないのか。私の中の常識が最後の反論を投げかけてくる。
「まあ、普通に考えたら気が狂ってるとしか思えないよね」
だとしたら私の妄想も相当酷い。五感のすべてが幻に支配されているようなものだ。もしかしたら、初めから宮水四葉なんて人生はなくて、本当は小滝和泉が本当の私だったなんて事はないだろうか。今までの女子高生ライフは、すべて幻想で、本当は最初から男の子だったのだ、なんて笑えない話。それがありえないと言い切れないくらいに、私は今とんでもない状況にある。深く考えれば考えるほどに、気が狂いそうになってしまう。本当の私とは何か、とかこじらせた中学生か哲学者みたいな事を真剣に思案するとかどういう女子高生だ。ニーチェなの?
ともかく、私は疑問を解消する必要があった。
あちらにある私の体がどうなっているのか。それを確認しなければならない。だってそうだろう。健全な美少女の体の中に多分健全な童貞男子高校生が入っているのだ。これは危険だ。危険極まりない。
ごくり、と生唾を飲んだ後私はスマホのダイヤル画面を呼び出した。それから、十一桁の番号を入力して、発信する。
スマホを耳に当てて、発信音に耳を澄ます。出ろ、出ろ、出ろ、と心の中で念じながら。やがて、ブツッと発信音が途切れて、
『……はい』
女の声がスマホを介して私の耳に届いた。
しまった、と思った。
電話をかけたはいいが、どう切り出すのかまったく考えていなかった。
たっぷり十秒ほどだろうか。
気まずい無言の時間が流れた。あちらからも応答がない。どうしよう。
『もしかして、宮水、四葉、さん?』
恐る恐るといった感じ、あちらの女が言った。
「じゃあ……小滝、和泉君?」
問うと、電話口で息を呑む気配が感じられた。
どうやら私は当たりを引いたようだ。
電話の向こうにあるのは私の体だ。聞き覚えがあるようなないような声なのは、自分の声が自分で聞いている音と実際に人に聞こえる音とで違うからだろう。骨伝導とかいうのが関わっているらしいが、今は置いておこう。
『宮水さん、やっぱりアレか。俺の中にいたりするのか?』
「……たぶん。小滝君のスマホだと思うんだけど、これ」
『だよな。俺の番号からかかってきたから、出たんだ』
私の声で、男が喋っている。
この奇妙極まりない違和感と同じ物をきっと相手も感じている。
私達は性別こそ違うけれど、同じ体験をしている。
また、会話が途切れた。
電話で互いの確認が取れた。
半信半疑だった「入れ替わり」現象が、ここに証明されたわけだ。
私――――宮水四葉は小滝和泉君の中に入り、彼――――小滝和泉君は私こと宮水四葉の中に入っている。
「ねえ、今までに何回か入れ替わってるよね、私達」
『たぶん、そうだと思う』
「オープンキャンパス行ったの、小滝君?」
『あー……すまん。まずかったよなぁ』
申し訳なさそうに電話口で謝罪してくる。
「いいよ、どうせ進路なんてまだ先の話だし、資料も貰っててくれたでしょ。出費は、まああれだけど、不可抗力だからいいとするけど」
『正直、申し訳ないと思ってる。いや、マジで……』
また和泉君は謝った。
話してみると、どことなく誠実さを感じる性格だと思った。私の中で構築された小滝和泉の人物像とそう大きく乖離していないと感じるくらいには。
彼は、このわけの分からない現象に曝されながらも
それから、私達は互いに状況の報告をしあった。
入れ替わりという現象に立ち向かうために、お互いの現状を把握する必要があったからだ。
東京で暮らす私と田舎で暮らす和泉君の入れ替わり現象。
原因は不明のまま。だけど、共通点を洗い出せば、トリガーが眠る事だというのは自ずと理解できた。
俺達は互いに入れ替わっていた時を夢だと思っていた。
朝、目が覚めたら別人になっていて、そのまま一日を過ごして翌朝、元の体に戻るというのを繰り返していたからだ。
入れ替わっていた時の記憶は元の体に戻ると少しずつ消えてしまう。けど、別の相手が自分の体を使って一日を過ごした形跡はそのまま残る。私のノートに和泉君の名前が書いてあったように。
丸一日記憶が飛ぶのはさすがに不味いと俺も宮水さんも理解していた。
だから、入れ替わっていた時の出来事を日記形式で残し、いつでも確認できるようにする事にした。
電話が通じるのは不幸中の幸いだ。
朝目覚めた時に入れ替わっていたら、電話で報告する事でその日一日を乗り切る準備ができる。
こうして私達は入れ替わりに対処するために、情報共有を密にするという場当たり的な対応で一日一日をやり過ごす事を確認しあった。
原因が分からない以上、問題の根本解決はできない。
対症療法ではあるけれど、私と和泉君の生活を守るためにできる事はこれくらいしかなかった。
いつまでこの状況が続くのかは分からないし、今が夏休みだから何とか誤魔化せるだけだったりもするのだろうけど、それでも何も分からないよりは多少は改善できたのではないか。
今は、それだけで満足しておくとする。これ以上は無い物強請りにしかならないから。