君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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第三話

 むくり、と私は体を起こす。

 窓の外に視線を向けると、まだ日が昇り始める直前の時間帯で東の空が薄らと紅色に色づいている。

 なんだか頭が重い。

 いつもはぱっちりと目が覚めるくらいに寝起きがいいというのにどうしてこんなにずっしりとしているのだろうか。開けた目がしょぼしょぼとする。風邪でも引いてしまったのだろうか。そんな事を考えながら、自分の髪に手を伸ばす。

「ん?」

 髪が、ない。

「え、え?」

 両手で頭を押さえるともっさりと手の平を押し上げる感触。髪はあった。だけどない。圧倒的に足りていない。それに、なんだか胸がちょっと軽い。

 目を落とすと、そこには断崖絶壁が。すとんと腹まで見える見晴らしの良さ。いつ以来だろうか。中学二年生くらい? 

「う、な、何……」

 それに、胸がない違和感を消し飛ばすくらいの違和感が下のほうにある。

 私は掛け布団を跳ね除けて、

(――――通天閣どころやない、スカイツリーや)

 そこから先の事は、よく覚えていない。

 

 

 

 ぴちょん、と水が跳ねる音がした。

「おたまじゃくし! おたまじゃくしいた!」

 私の隣ではしゃぐ幼児が水の中に手を突っ込んでいる。

 どこだ、ここ。

 何で私は知らない子どもと一緒にザリガニ釣りなんてしてるんだろうか。

 しばらく聞いていなかったヒグラシの声が遠くから聞こえてくる。里山だなあと私は思う。後数年もすれば、都会暮らしが人生の半分を占める事になる私にとって、穏やかな田園風景や山々の稜線は心に残る原風景と言ってもいい。

 隕石さえなければ。故郷が消し飛んでさえいなければ、私は今もこんな景色の中で学校に通いながら、巫女の修行に励んでいたのだろうか。

 それは、まあ、あれだ。

 嫌ってわけでもないけれど、かといって好き好んでするかというとどうだろう。

 「来世は東京のイケメン男子にしてくださーーーい」

 六年前。

 今の私と同じくらいの歳のお姉ちゃんが、夜の山々に向けて絶叫した事があった。

 あの頃の私はアホな人やなぁ、なんて思ったりもしたけれど、物質文明に毒された今の私なら、まあ前半部分くらいは理解してあげてもいい。イケメン男子よりは普通に女子でいいけれど。

 小さな用水路を流れるのは山から下る雪解け水で、この水は田んぼを潤し豊かな実りを後押しする。都会では余り見ない光景で、昔の私ならば当たり前のように眺めていた光景でもあった。

 湿った土の上にしゃがみ、透き通った水を見下ろした。水面に映る私の顔は、何故だか男子高校生の顔になっている。

 茶色味かかった短髪。強情そうな眉。肩幅は広いが細身の体形。顔立ちはまあまあ整っているほうだろう。悪くはない。地味だけど、クラスで三番目くらいのイケメンといったところかな。

 奇妙な夢を見ているなと思う。

 こんなに自由度の高い夢ってあるのだろうか。隣で水をバシャバシャして遊ぶ弟のユキ君の存在がリアリティの高さを物語る。

 しかし、弟が欲しいと思った事がないでもないけれど、男になりたいと思った覚えはない。

 どういう事なのフロイト先生。私には抑圧された男性化願望があったという事なの? お姉ちゃんみたいに、どこかに変な願いが隠れていたとでも?

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「え、なんでもない、なんでもないよ、あはは……」

 愛想笑いを浮かべる私は、棒切れの先につけた糸を垂らしてザリガニを狙っているふりをする。

 自問自答。

 自問自答。

 ただひたすらに自問自答を繰り返す。答えなんて出るはずがない。これが夢なら、覚めれば消える。東京での女子高生の夏休みに戻れる。

 けど、

「夢っていつ覚めるんやさ」

「お兄ちゃん?」

 ユキ君が首を捻ってこっちを見ている。

 うーん、可愛い。

 やっぱり保育園児は最高やな、なんてアブナイ事を考えながら釣竿を小刻みに動かしてみる。

「ザリガニ、釣れた?」

「うーん、まだかな。この辺いないのかもね」

「えー、昨日ここで釣ったよ。お兄ちゃん」

「あー、そうだったっけ……」

 昨日もここに遊びに来てたのか。おまけにザリガニ釣りまでしていたと。二日連続か。この体の持ち主――――和泉なる高校生はよほど面倒見のいい少年のようだ。ちょっとだけ、評価を上方修正する。じゃあ、ちょっと本気を出しちゃいますか。

 一番の遊び盛りを超弩級の田舎で過ごした私の実力を見せてあげようじゃないの。

 

 

 山の向こうに太陽が落ちていく。

 すっかり日が暮れてしまう前に、保育園児の弟を連れて家に帰らなければならない。田舎だからといって危険がないわけではないのだ。不審者は少ないかもしれないけれど、自然の驚異はそこかしこに潜んでいる。小さな用水路だって、幼児に悲劇を与えるくらいはできてしまうのだから。

 やっぱり、ちゃんと手を繋いで帰らないとダメだろうな。

「あ! 猫ー!」

 脱兎の如く、ユキ君が駆け出していく。

「ちょっとー!」

 私はその後ろを慌てて追いかけて、ユキ君の小さな体を抱きかかえて引き戻した。

「もう暗いんだから勝手にどっか行っちゃダメ!」

「ええー」

 ユキ君は不満げに頬を膨らませるけれど、私はその頬をつついて空気を抜き、しっかりと手を繋いで帰路に就く。

 帰り道は分かる。というか見える。

 山の斜面に形成された小さな集落で、田畑と山以外の景色はない。そんなところにあるから、自宅の明かりは遠目にも良く見えた。

 もしかしたら、糸守よりも田舎なんじゃないだろうか。一応、糸守には電車が通っていたし、曲がりなりにも行政単位は町だったのだし、人口数百人程度のここは多分村だろう。きちんと確認していないけれど、これで町だったら驚きだ。それを言えば、糸守だって町なのが驚きなのだけれど。

 ポケットの中で和泉君のスマホが振動している。

 

《遅い! どこにいるの(怒)》

 

 ラインを通じて怒りの帰宅催促。

 もう戻るとだけ返信して、私はユキ君と和泉君の家に帰宅する。

 

 

 

 

 疲れた。

 ちょー疲れた。

 お兄さんって大変だ。

 私は和泉君の体でベッドに沈み込んだ。

 末っ子の私には分からない苦労があるんだなぁ、と今日一日で実感した。

 田舎暮らしには慣れているけれど、小さい弟と妹に囲まれる生活は初めてだ。

 今日一日一緒に過ごした弟のユキ君五歳とさらにその下にミキちゃん四歳がいて、夕食後はこの子達の面倒を見る事になった。

 お母さんとお父さんはそれぞれ家事や仕事で自分の世界。必然的に高校生の和泉君()が歳の離れた弟妹を見ている事になる。

「子どもって大変」

 目を離すとどこかに消えるし、何を言っているのか時々分からないし、いきなり引っ付いてくるし。

 私も昔はそんなんだったんだろうか。

 八つ離れたお姉ちゃんから見たら、あんな感じに見えていたのだろうか、何て事を思う。

 どっちかっていったら、あの人のほうがあぶなっかしかったような気がしないでもない。うん、そうだ。間違いない。うちが特別なのか、この家が特別なのかは分からないけれど、宮水家では妹のほうがしっかりしていたはずだ。

 まあ、それは置いといて、

「男の体なんて生で見たくなかったなぁ」

 乙女としての大事なところが穢されたような気がした。

 弟妹のためとはいえ、一緒にお風呂に入らなければならないなんて。無理なんですけどとは言えず、面倒だから一緒に入りなさいとお母さんらしき女性に叱咤されて、もごもごと口の中で文句を言いつつ私は服を脱ぐ羽目になった。

 私の体じゃない、男の体がそこにはあって。脱衣所の鏡にばっちり映っていて。一部にはできる限り目を向けないようにしつつ、意外に腹筋割れてんだなどと感心したりもして、やっと就寝の時間を迎えたのだ。

 大きくため息をつく。

 寝転がりながら、スマホを弄る。

 個人情報だけれど、どうせ夢だし。そんな事を思いながら「設定」を確認する。

 夢の中の私は小滝和泉という名前の男子高校生で、糸守なんて目じゃないくらいのど田舎暮らしをしているらしい。普段は高校の寮で生活しているけれど、今は夏休みなので実家に帰省しているらしい。らしいばかりで、なんら確定情報がない。私の夢なのに、まるで人の人生に迷い込んだみたいじゃないか。

「うーん」

 男の子になるっていうのは、不思議な感じだ。

 そんな願望はないと断言できるけれど、やっぱり本当なら絶対にできない体験だからか興味深くはある。

 これが、ずっと続くとなるとさすがにいやだけど。

 避暑地的な考えで、ちょっとだけならまあ許せるかなと思う。

「あ……れ……」

 スマホの画面に表示される、この体の個人情報。

 こたきいずみ。

 この名前。この文字列、どっかで見たことがあるような気がする。どこだったっけ。初対面? のはずだから、最近? うーんとしばらく悩んで答えが出てこず、結局私がした事はスマホの日記アプリを呼び出して、一日の報告をつづる事だった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 その日、目覚めは決して快調とは言えなかった。

 腹の上に感じる重量感。頬をぺちぺちと何者かが叩く。瞼の上から強烈な夏の日差し。冷房はいつの間にか消えていて、薄ら意識が浮上すると表現し難い夏の蒸し暑さに苦しめられる。

「あ゛あ゛」

 頑張って瞼を開けると、眼前に見知った顔がある。

「あー、ユキ。お前、人の腹の上に乗るなよ……」

 弟の頭に手を乗せて、ぐるぐると頭を回してやった後、その遠心力を利用してベッドの上に倒してやる。入れ代わるように俺はベッドから下りた。

「お兄ちゃん、今日はお寝坊さん」

「何言ってんだよ、今は夏休みだろー。子どもには関係ないだろうケドさ」

 ふわあ、と大あくびをして掛け時計に目を向けると午前八時三十分を過ぎたくらいだ。はっきり言って早い。特に予定のない休日は十時過ぎまで寝ている事も珍しくない俺からすれば、八時台に起床する事のほうがレアケースだ。

「えー、でもきのうは朝ごはん一緒に食べたよ」

 弟はベッドの上にちょこんと座りながら、そんな事を言う。

「朝ごはん? 一緒に食べた?」

 何を言ってるんだろう。

 そんな記憶はまったくない。

 昨日?

 何だろう、この違和感は。

 そもそも、どうしてコイツはここに来たんだろう。

 そう聞くと、

「お兄ちゃん。今日、おナス取るの一緒にするって言った」

「……今日はザリガニ釣りに行こうって言ってたじゃないか」

「?」

 弟はかくんと首を傾げる。

「ザリガニは昨日行ったよ。お兄ちゃんと一緒に」

「ああ、だけど、明日も一緒に行こうって言ったじゃん。忘れたのか?」

 何だろうか。

 この、何かどうしようもない陥穽に陥っているような不快感は。

 俺は誤魔化すように弟のふっくらした子どもらしい腹を突っつく。くすぐったそうに身を捩るユキ。

「んー、ザリガニ取るの、昨日と昨日の昨日やった。今日は畑でナス取るって約束だったよ」

「……ザリガニ取り、昨日と昨日の昨日やった?」

「えー、忘れちゃったのー?」

「え、いや……」

 俺の中で育っていく不安感はいったい何なんだ。

 そういえば、俺は昨日一日何をしていた?

 ユキの発言を真に受けるのなら、二度目のザリガニ釣りを敢行していたはずだ。けれど、俺にはその記憶がない。ユキとザリガニ釣りをしたのは、「昨日」の一回だけのはずだ。そして、「今日」二回目のザリガニ釣りに出かけるはずだ。そうでなければ、辻褄が合わない。ユキは夢を見ていたんだろう。そう思おうとした。だけど、

「あ、和泉。あんた、昨日取ってきたザリガニ、ちゃんと逃がしてきなさいよ。あんなにいっぱい、さすがに飼いきれないわよ」

 二階の自室から一階の居間に向かっている時、台所から顔を出した母さんがそんな事を言ってきた。

「え、俺、そんなに取ってきたっけ」

「何言ってんの、二十匹はいたわよ。一昨日取ってきたのと合わせたら三十匹にはなるんじゃない? いくらなんでも取りすぎ」

「そ、そう」

 何だこれは。

 本当に昨日、俺は大量のザリガニを取ってきたっていうのか?

 サンダルを履いて、外に出る。

 昨日の夜に雨でも降ったのか、路上は湿っていて、庭の草木にはまだ水滴がついているものもあった。俺は指先が濡れるのも構わず、乱暴に地を蹴って庭先に置いてあるバケツに駆け寄った。

 水の張ったバケツの中に、赤黒い生命体が無数に蠢いていた。

 この辺によくいる――――というか、田んぼがあればどこにでもいるだろうザリガニがうじゃうじゃと押し込まれていた。

 これじゃあ共食いしちゃうじゃないか、と思いつつこんなに大量のザリガニを捕まえた記憶が本当になくて背中に寝汗ではない嫌な汗をかいた。

「和泉ー、朝できてるからさっさと食べて」

 背中から母さんに声をかけられて、俺は現実に引き戻された。

「まったく、昨日は珍しく早く起きてきたかと思えば」

 何て事を母さんはぶつくさと言っている。

 ありえないだろ。

 早く起きるって何だよ。

 そんな事した記憶はまったくないぞ。

 それから俺は慌てて家に飛び込み、階段を駆け上がった。自分の部屋のベッドの上に放置されていたスマホを手にとって、カレンダーを確認する。

「……火曜」

 俺がユキとザリガニを取りに行ったのは、日曜のはずだ。

 月曜日の記憶が、丸々抜け落ちている事に俺は気付いた。

 ぞわりとした感覚が俺の背中を這い上がってくる。

 昨日の事を全然、まったく、これっぽっちも覚えていない。

 ザリガニを取りに行った事、一日中ユキの面倒を見続けていた事、珍しく夕食後の食器洗いを引き受けた事、妙に風呂に入るのを渋った事。何一つ、身に覚えがなかった。

 挙句の果てにはこのスマホ。

 

『ユキ君もミキちゃんもすごい可愛いO(≧▽≦)O やっぱ小さい子は素直でいいなあ』

 

『お父さんは開業医! なんかカッコイイ!』

 

『夢とはいえ男ってのはアレだけど、弟と妹が持てて幸せo(*^▽^*)o』

 

「何言ってんだ、コイツ」

 思わず、呟いてしまう。

 俺のスマホだ。

 誰のものでもない、俺しか扱わないスマホだ。

 なのに、どこの誰だ。俺のスマホに勝手に訳の分からない事を打ち込んだのは!

 ふと、脳裏にフラッシュバックのように明滅する景色が浮かび上がる。

 大都会東京。昔、一時期暮らした事のある日本の首都の街並だ。

『四葉、大丈夫?』

 誰かの声が聞こえた気がした。

 四葉。

 俺に向かって、誰かがそう呼びかけた。

「みやみず、よつは……」

 不意に浮かび上がる誰かの名前に、俺は妙に親近感を抱く。

「まさか、お前か」

 俺の中で何かがどこかに繋がった。

 この名前を、確かに俺は聞いた事がある。

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

「四葉、あんた昨日大丈夫だった?」

 起き抜けにお姉ちゃんにそんな事を言われた。

 朝のモーニングコーヒーを飲んでいたところだった。

「どしたのいきなり」

「だって、髪全然整えないで外に行こうとしてたから。私が言うまで、櫛も入れなかったじゃない」

「え?」

 意味が分かんない。

 私は昔のお姉ちゃんみたいに必要以上に身だしなみに気をつけているわけではないし、髪の毛を複雑怪奇な編み方にしているわけでもない。

 けれど、一介の女子高生として最低限の身なりはいつも気にかけている。髪だって、左右で結うのを忘れた事はない。少なくとも外出する時は。

「……お姉ちゃん。昨日、私なんか変な事してた?」

「え、変? うーん、そうね」

 お姉ちゃんは形のよい唇に指を当てて、昨日の記憶を掘り起こす。

 私は祈るような気持ちで、お姉ちゃんの次の言葉を待った。

「あ、そういえば朝珍しく遅く起きてたみたいね。私より遅かったから」

「そ、そう」

 よかった。

 よくはないけど、その程度なら大丈夫。

 いや、大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、十分すぎるほど大丈夫じゃないけれど。何せ覚えていないのだから。

「後、寝る前におっぱい揉んでたかな」

「…………――――嘘」

 私の中で大事な何かが崩れていくのを感じた。

 ぴろりん、と軽い電子音。

 私のスマホに友だちからのメッセージが送られてきたのだ。

 

『あんた、昨日大丈夫だった? 熱中症とかなってないよね?』

 

 体調を気遣うラインメッセージ。

 ああ、何だ。

 この娘とは終業式以来会ってない……はずなのに。

 私は画面をタップ。

 

『なんで?』

 

 音が鳴る。

 すぐに返信が来た。さすが女子高生。

 

『体調悪いって言って、途中で帰ったじゃん。初めから様子がおかしかったし。うちらの顔と名前が一致してないっぽかったよ。本当に大丈夫?』

 

 さあっと血の気が引いていくのが嫌と言うほど実感できた。

 こんなのは初めてだ。

 私の足場がぐらぐらと揺れて、ガラガラと崩落していく感じがする。

 そんなのは覚えていない。 

 昨日、昨日、昨日っていつだ?

 私は、昨日何をしていたんだ?

 考えがまとまらない。

「四葉? 体調悪いなら、今日は一日寝てなさい」

「あ、うん……」

「じゃあ、私仕事行くから」

 お姉ちゃんは仕事着に着替えてカバンを肩にかけて部屋を出て行く。その後ろ姿を見て、何かカッコイイな何て、思ってしまったりする。そんな事を考えている場合じゃないのは百も承知。けど、現実逃避はしていたい。

 ラインで体調不良で今日は一日寝ている旨を返信し、私はスマホを投げ出した。

 頭を抱える。

 私じゃない私が、昨日好き勝手に行動していた?

 何それ笑えない。

 多重人格? それとも若年性健忘症? もしかして隕石災害から来るPTSD? 受診するとしたら、どこの医者だろうか? 町医者の心療内科? 大学付属の精神科? 狐憑きだったら陰陽師にでも見てもらえばいい? あ、お祖母ちゃんが詳しそう。

 で、どうする。

 一日分の記憶が抜け落ちてて、その間別人のように行動していた? そんな事を相談してたら、本当に入院させられてしまう。

 ふいに私はカバンを開けてノートを取り出した。

 付箋紙が貼り付けてあるページを開く。

「こたき、いずみ」

 どくん、と心臓が高鳴った。

 私ではない誰かの筆跡で書かれた、誰かの名前。

 次のページからは使った覚えがないのに、どうしてだろう。何故、また律儀にもレシートを貼り付けているのだろう。いったい誰が、何てもう思わない。私でないとすれば、ただ一人だけだ。ありえない可能性ではあるけれど。

 それにしてもああ、もったいない。

 デゼルに行ったんなら、ブルーベリーパイを頼むべきでしょうに。

 いや、それよりも。そんな事よりも、

「ほんとに……和泉君、なの……?」

 疑問符は尽きることなく私の頭の中で暴れている。

 だけど、ありえないはずの仮定が異様なまでにしっくりと来る。

 私の中で、何かがどこかに繋がった。

 この名前、やっぱり聞いた覚えがある。

 


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