がや、がや、がや、と耳に届くたくさんの人の声。賑わい。ここしばらく縁のなかった音の濁流に、思わずむせ返りそうになる。
列がぞろぞろと動き出す。
見上げる空は雲ひとつない晴天で太陽が燦燦と照りつけている。けれど、そんな太陽の光も少しくすんで見えるのは間違いではないのだろう。
「はあ」
ため息をつく。
何だってこんな事に……と思わずにはいられない。
自分が今いるのは真夏の太陽の真下であり、都内某所の大学の正門前だ。門を出入りするのは専らが学生服を着た――――つまりは高校生であり、大学にとっては恒例行事であるオープンキャンパスの季節が今年もやって来たのだということを示している。
堪らず、俺はスマホを取り出した。画面に反射して映りこむ自分の顔。
少し勝気っぽい印象の目元。整った眉。夏だというのに、健康的な白さを保つ頬。肩にかかる髪。なかなか可愛い顔立ちだと思う。こんなことを自分の顔に向かって思ったら、ナルシストだと言われてしまいそうだけれど、自分の顔ではないのだから別にいいだろう。
そう、自分の顔ではない。
俺の顔ではないし、俺の身体でもない。朝起きたら、見知らぬ女になっていた。知らない部屋でやけに美人な姉と朝食を摂り、何故か大学のオープンキャンパスに来なければならなかった。
いや、いや、見知らぬというのは嘘だ。
ちょっとだけ。
この前も、この女になっていた記憶がある。あの時とは部屋も家も違ったし、夢だとばかり思っていたから驚いたのだ。
前は誰にも会わず一日を終えられた。
今の俺が宮水四葉という名前の高校生だということも前回把握した。
だが、それだけだ。
どうして東京の女子高生として朝目覚めたのか、どうしてこのような状況になっているのか何もかも分からない。
「夢なら早く覚めてくれ」
誰にも聞こえないように小さく漏らして空をまた見上げる。
「……は」
行き交う人達を漠然と眺める。
東京。
大都会。
何年か前まで、俺もこの街で暮らしていた事がある。だから、いきなりこの景色の中に放り込まれた事に対して驚く事はあっても、景色そのものに圧倒されるという事はない。郷愁というのだろうか。そういった故郷に戻ってきたという懐かしさはぼんやりと感じる事がないでもないが。
「ちょっと、四葉! 何、無視してくれてんの!」
どんと肩を叩かれて、俺は視線を真横にスライドさせる。
「んあ?」
そこにいたのは短めのポニーテールの女子だった。今の俺よりも少し背が低く、垂れ眼がち。制服はきっちりと着ていて、しばしば視界に入ってくる制服を着崩したタイプの女子高生とは正反対を行っている。見た目だけならば、真面目の部類に入っているのではないかと感じさせるヤツだ。
俺はすぐに今朝のラインの文面を思い返し、彼女の名前を須田美由紀であると推測する。この一週間の履歴を参照し、家族よりも多く連絡を取り合っている人物だ。今日のオープンキャンパスも一緒に回ろうと話していたらしい。
正直、初めて会う相手だ。拒否しようにもオープンキャンパスは結構大事なイベントだし、不可抗力とはいえこの身体を乗っ取っている立場の俺としては資料くらいは取ってきてやらないととも思って参加している。問題は、須田美由紀とどう接していけばいいのか分からないという事だろう。
「四葉? 大丈夫?」
まず重要な第一声を何としたらいいのか、と悩んでいるところを不審に思ったのか美由紀が
「あ、ああ。須田、さん。おはよう」
「え、何、さん付け……? 熱でもあんの?」
いきなり顔を近づけられて仰け反った俺に、さらに追い討ちをかけるように須田美由紀が顔を寄せてくる。
「大丈夫大丈夫、……須田」
「は?」
「美由紀」
「うん」
なるほど、下の名前を呼び捨てだったか。心得た。
「あんた、今日どうしたの? 髪も結んでないじゃない。珍しい」
美由紀さんがそう言って髪の先端を指で摘んでくる。
「え、珍しい、のか」
「あんたいつもツインテじゃん。学校だけじゃなくて休みもさ。もしかして家の中では、結んでないの?」
どうやら宮水四葉の髪型はツインテールと相場が決まっているらしい。これは失敗した。髪を結ぶなどという経験は生まれてこの方皆無だ。髪を弄るという習慣自体が存在しない俺は、髪を意識するという事自体が頭から抜け落ちていた。
「今日、ちょっと寝過ごして慌ててたからさ」
俺は内心で焦りながらも、そう言ってその場を取り繕った。
「お祖母ちゃん並に早起きのあんたが寝坊? それマジ?」
おいおい、コイツマジで女子高生かよ。もっと惰眠を貪れよ。俺なんて布団から出るのも億劫だぞ! と、いきなり俺の設定が破綻しかけたところで、ふと腕時計に目を向ける。これだ、と思った。
「あ、時間」
「え、うそ。そんな立ち話してたっけ」
気付けば受付終了の五分前だった。
美由紀は慌てた様子で俺の背中を叩き、早く行こうと手を引っ張る。
女子の手に触れたのはいつ以来だ、とちょっとドキドキしながら俺はキャンパスに吸い込まれていく。
東京での一日を終えて、ソファの上に横たわる。
宮水四葉の家。正確には四葉の姉の三葉さんが借りているアパートだ。状況を整理すると、夏休み期間中、四葉はお姉さんの家に泊まり、東京都心での女子高生ライフをエンジョイするつもりだったらしい。それで今日目覚めた時、以前と違う部屋だったのだ。前にこの夢を見た時は、紛れもなく四葉の部屋だったのだから。
宮水四葉は東京のN市に暮らす女子高生。歳は十六。同い年だ。何とあの糸守出身で糸守の奇跡の立役者である町長の娘。故郷がなくなった後、紆余曲折の末に東京でアパートを借りて生活しているという流れがあったらしい。
糸守町。
今はないその町の名を知らない人はまずいない。
六年前、彗星の片割れが落ちて一夜にして大きな湖の底に沈んだ悲劇の町。
それでいて、被害地域の住民が全員、その日偶然行われていた避難訓練で生き永らえた奇跡の町。
突然の避難訓練を強行したのは、当時町長を勤めていた四葉の父親だったらしい。
俺はそのニュースをどこか他人事のように聞いていた。実際、他人事ではあった。当時、東京に暮らしていた俺にとって糸守町なんて遠くの出来事でしかない。親類縁者がそこにいたわけでもない。なんだかすごい事件があったんだなと、印象には残っていた事件ではあったけれど、それだけだった。
「四葉ー。まだ起きてるの?」
三葉さんから声がかけられた。
彼女はキッチンに行き、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出してコップに注いでいる。
「四葉もいる?」
「いや……いいです」
「そう」
三葉さんは俺がインしている四葉に違和感を覚えたのか眉根を寄せていぶかしみつつ、かといって何か追及するわけでもなく麦茶を一気に飲み干して自室に戻って行った。
リビングを出る時、
「四葉、あんたほんとにそこで寝るの?」
と尋ねてきたので、もちろんですと答えた。
どうやら同じベッドで寝ていたらしい。どんだけ仲がいいんだよと言いたい。年頃の男子に、三葉さんのようなお姉さんと同じベッドというのはちょっと理想的ではあるけれど騙しているという罪悪感のほうが勝ってしまって受け入れられないのであった。
そんな自分の情けなさに涙しつつ、俺はスマホでラインを確認する。
それほど、履歴は多くない。
女子は日頃からたくさんの友人と情報交換をしている印象だったが、どうも四葉は大勢と同時につるむような事を好まない性格みたいだ。
よく連絡を取り合ってるのは今日一緒に行動した須田美由紀。次にみき♡。誰だ。フルネームで登録しとけやと苛立ちつつ、人のスマホの情報を必要以上に見るのも気が引けてラインと検索機能以外は使っていない。というか、人のラインを見ている時点でいろいろとアウトだと思うけれど、こればかりは仕方ない。許せ、四葉。
「あ」
そこで、俺ははたと思い出してソファの横に立てかけておいた
自習用と思われるノートには国数英社理を問わず様々な問題が書き連ねてある。提出用ではないのは明らかだ。ならばと俺は白紙のページを開いた。
■
「あれぇ」
太陽が瞼に突き刺さる。アラーム前に目が覚めて私は体を起こした。そして首を捻る。どうしてソファで寝てたんだろうか。本かゲームでもして、寝落ちしたんだろうか。それにしても無防備に過ぎるだろうと寝起きの頭でぼんやりと考える。
「んー」
妙にふわふわとした感覚に心臓をドキドキさせながら、私はここがお姉ちゃんの家のリビングだと再確認する。
本当についさっきまで、別の部屋にいたような――――この見慣れたはずの家にいることに疑問を抱いている自分がいたのだが、ものの十秒程度できれいさっぱり忘れ去った。
と、私の視線はガラステーブルに吸い込まれた。ソファの前に置かれた楕円形のガラステーブルは、脚と縁が黒いシンプルでお洒落なデザインだ。そのテーブルの上に私の自習用ノートが乗っかっていた。
「勉強して寝落ちしたんだっけ?」
そんなはずはない、と頭の中で否定する。
昨晩、勉強した記憶がない。昨日は朝にするべき事を済ませたはずだから、夜にまでその日のノルマを持ち越してはいないはずだ。
あやふやな記憶を辿りつつ、私はノートを開く。
パラパラとページを捲り、そして奇妙なページを見つけてしまう。
「なんや、これ」
よく見れば、そのページにはご丁寧に付箋紙が貼り付けてあった。そして、見た事のない筆跡で、
《本日の出費 昼食代260円 パニーニ代880円 缶コーヒー110円》
《須田美由紀とT大オープンキャンパス参加。学食利用 etc……》
などと書き付けられていた。
「は?」
私は目を疑い、そして固まった。
いつもは起きてすぐに纏める髪の毛を気にする事もできないくらいに私の中の時間が止まったのだ。
再起動までたっぷり十秒。
私は弾かれるようにテレビの電源を入れ、スマホのカレンダーを確認する。
「え、ええ? ええええ?」
確かに、スマホのカレンダーが示しているのはオープンキャンパスの翌日だった。テレビの朝のニュース番組も同じだ。私のスマホが壊れたわけじゃない。
それから私はソファの下に投げ出されていたカバンを取り上げて中を漁る。目的のものはすぐに見つかった。白い布袋。A4サイズのパンフレットやチラシが入った袋にはT大の文字とロゴがでかでかと印字してあった。
「な、なにこれ、どういう事……?」
覚えていない。
覚えていないけれど、資料が確かにここにある。何故か財布の中身が減っている。覚えのないノートの文字。まだ寝ぼけているのだろうかと思うくらい意味不明の状況だ。
「お、おおぉ、お姉ちゃーーーーん!」
堪らず、私はお姉ちゃんの部屋に飛び込んだ。
カーテンが締め切られ、朝なのに薄暗い部屋のベッドまで真っ直ぐに進んでいって、まだ小さく寝息を立てている社会人の肩を全力で揺すった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、起きて! ちょっと、聞きたい事があるんやけど!」
表ではすっかり封印した故郷の言葉が薄らと出てしまう程度には私も混乱しているのだろうな。
つーか、起きねーこの姉。
起きろ、それでいいのか社会人。
震度7クラスの揺れもかくやとばかりに揺すっているのに目覚める気配すらないとはどういう事だ――――いや、昔からだったな。お姉ちゃんは一度眠りに落ちれば断固として目覚めない悪癖があるのだった。しばらく離れて暮らしていたから忘れてしまっていた。しかし、これはいただけない。地震大国日本の、地震が多い関東圏で生活していてこの鈍感さは危険ではないか。私が物心ついたかどうかという時に放送していたというアニメのテーマにもされた首都直下型地震が起きた時、果たしてこの人は生きていられるのだろうか。
「起きろー! 朝だぞ社会人、遅刻! 八時過ぎてる!」
耳元でそう声を叩き付けると、お姉ちゃんの中の社畜根性が働いたのかカッと目を見開いて飛び起きた。
「は、八時ッ!?」
悲鳴のような声だった。
悪い事した、と一瞬思ったが、ああ、こうすればすぐに起きるんだと子どもの頃からの試行錯誤に一つの結果が出たという充足感が勝った。私がお姉ちゃんを確実に起こす方法を発明した後ろで、動転したお姉ちゃんはベッドから転がり落ちるようにして飛び出て、思い出したかのように枕元のスマホを鷲掴みにして画面を操作していた。
「………………四葉」
「え」
「まだ六時半やないの! 心臓止まるかと思ったわ!」
「ご、ゴメン」
結構本気で怒ってきたので私はその勢いに押されて小さくなってしまう。
「まだ三十分は寝れる……ふわあ……」
そう呟いて、お姉ちゃんは布団にもぐりこもうとする。
「ああ、まってお姉ちゃんちょっと聞きたいんだけど」
「えー、何」
「あの私、オープンキャンパス」
「オープンキャンパスぅ?」
お姉ちゃんは胡乱な目つきで私を見て、ごろんとベッドに横たわった。
「それなら昨日行ったじゃないの。何か友達と帰りにお菓子食べてきたんでしょ」
ひやりとした水滴が私の背筋を滑り降りたような感じがした。
オープンキャンパスに行った記憶そのものが、ない。
けれど私は確かに昨日、T大のオープンキャンパスに顔を出している。
これはいったいぜんたいどういう事なのだろうか。
まさか、この歳で健忘症でも発症したとでもいうのか。私は二度寝を始めたお姉ちゃんをベッドの上に残して部屋を後にする。
ソファに座って、書いた覚えのないノートに視線を落とす。
律儀な事にテープでレシートまで貼り付けてある。まるで簡単な家計簿だ。――――一日の支出を私に報告している――――報告。誰が、誰に? 昨日の私が今日の私に支出の報告をしているという事か。
「テッシーじゃないでしょうに」
私は大きくため息をつく。
お姉ちゃんの友人を思い返した。オカルト好きの彼ならば、何かしらの超常現象に準えて今の私を例えるのだろうか。
「笑えない……」
私は答えが出ないまま、とりあえずシャーペンを持った。
《あんた、だれ》
自分のノートにメッセージを残す。
誰に対するものでもない。人に見せないノートに誰何する。これぞ、まさしく自問自答。昨日の私への問いは誰にも知られる事なくノートの中に閉じ込められる。私以外に、このノートに触れる人なんていないのだから。この疑問はどこに辿る付く事もなく、当然答えが返ってくる事もない一方通行のままで終わるのだろう。
そのはずだった。
《小滝和泉》
何日か経ってからノートを開いた私は問いに対する答えが返ってきた事にまた冷や汗をかいた。
「いや、ほんとに誰よあんた」
聞いた事もなければ見た事もない四文字の羅列に私は眩暈すら覚えたのだった。