君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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第十四話

 私の意識は空にあった。

 天の川を泳ぐ魚のように、無数の星の中を何かに引っ張られるように滑っている。私の手から解れた組紐がどこか遠くに向かって伸びていく。私は組紐に絡め取られたまま、なすすべなく流れに身を任せている。抵抗しようという意思すらも湧いてこない。ただ流されるだけ。

 光の粒が幾重にも重なり、編み物のように折り重なっては一本の組紐のように束ねられ、私の手から伸びる組紐と結びついて一つの道を作り出す。

 光の粒一つひとつに見覚えがある事に、私は気付いた。

 具体的に言えば、光の粒の中に日常が広がっている。一つひとつの光の中に私の記憶にある日常の風景が封入されているみたいだ。

 これは私の記憶。光の粒すべてが、私が経験してきた過去を切り取ったものなのだ。

 私は自分の記憶の奔流に押し流されている。

 音はなく、触覚もない。ただ、視覚的イメージだけが全身に張り付いている。

 光の粒の一つが、ひと際大きく輝いた。イメージは大きくなり、私の体を包み込む。不意に景色が切り替わる。そこはどこかの神楽殿で、薄暗く広い板の間だった。宮水神社ではないはずなのに、どこかで見た事があるような気がする。

『そなたの背なには、時の流れにあるすべての宮水の女が添うておると知るがよい』

 優しげな声が耳元でした。知らない声だけど、聞き覚えのある声だ。誰だっけ、と思っているうちにまた場面が切り替わる。私は抗えずに強制的な場面変更を受け入れるしかない。

 今度は明るい蛍光灯の下だった。

 何人かの看護師なのか医師なのか病院関連の職業の人達がそこにはいて、部屋の中央に写真で見た事のある人が横たわっている。

 お母さんだ。その隣に若いお父さんがいて、保育器の中にいる赤ちゃんを感動なのか、驚愕なのか分からない顔で覗き込んでいる。

『名前はどうしよう』

 と、お父さんが言った。

『四葉にしなかったら、ずっと後になって三葉かこの子か、どちらかが怒りそう』

『どっちが怒るかな』

『両方?』

 夫婦は一緒のタイミングで笑いあった。

 分娩室には幸せが満ちていて、私は祝福されて生まれてきたんだと知った。こんな日常が私の周りにあったんだと初めて分かった。

 そして、時は早回しのように加速する。

 私は成長していく。三歳の頃にお母さんがいなくなり、その少し後でお父さんが家を出た。中学生になっていたお姉ちゃんからランドセルを譲り受けて小学校に入学し、そして夜空の彗星を見上げる。

 彗星は割れて、私達の神社を直撃する。忘れもしないあの瞬間を、私は俯瞰的に眺めている。轟音が四方に轟き、この世の終わりなんじゃないかと思えるくらいの衝撃が奔り抜け、そして町は形を変えた。誰もが呆然とする中で、お姉ちゃんだけが涙を流している。胸に突き刺さるその痛々しい姿の意味を私は六年経って初めて知った。

 別の光が私を包む。

 眩い光が消えると、私は鏡を覗き込んでいた。映っているのは私の顔ではなくて限界集落に暮らす男子高校生だ。

 ズキン、と心臓が苦しくなった。

 半月ほどの短い時間の中で起こった入れ替わりの日々を私は空から見ている。私が入れ替わるたびに、視点は東京と集落を行き来する。最初は迷惑そうにしていた記憶の中の私はいつの間にか入れ替わりの日常を楽しんでいた。こんな顔を私はしていたんだと恥ずかしくなる。和泉君の体でスマホを握り、私の体に入っている和泉君を叩き起こしてやろうとダイヤルする私。和泉君が私の体で何かやらかしていないかノートやスマホの履歴などなどを参照し、それを基にして和泉君に何を言ってやろうかと思案する私。彼との交流は電話かメモだけだったけれど、互いの生活を誰よりも深く知っていた。

 やがて、橙色の光が彼方から溢れ出す。

 カタワレ時だ。

 暖かい太陽の輝きが、私の視界を照らし出す。

 手首から伸びる組紐の先端がどこかと繋がったのを確信する。

 私はどことも知れない場所に落ちていく。体を包み込むあらゆる光が消えていき、すべてが暗闇に落ちていく。だけど、不安はまったくなかった。

『あるべきようになるから』

 暗闇の向こうから、どこか懐かしい声が聞こえた気がした。

 

 

 

 ■

 

 

 

 ぺしぺしと頬を叩かれている。

「……は。……つは」

 耳元で誰かが話しかけている。

 私はまどろみの中で、それが呼びかけであるとやっと認識した。

「四葉!」

 ここで初めて意識が浮上する。

 ハッと目を開ける。

 私が最初に見たのは、私を覗き込んでいるお姉ちゃんの顔だった。

「お姉ちゃん?」

「四葉、あんた今日何時に出かけるんだっけ? 時間、大丈夫?」

「え?」

 私は何を言われているのか分からなくて体を起こした。

 おなかの上に乗っていたタオルケットが床に滑り落ちた。

 寝ぼけ眼を擦って周りを見渡す。

 どう見ても、ここはお姉ちゃんの家のリビングだった。

「え……とぉ……」

 寝ぼけ眼を擦って、視線を彷徨わせる。何度確認しても結果は同じだ。頭がぼうっとして状況が上手く掴めない。

 私は糸守町のご神体のところにいたはずではなかろうか。

 どうして、私はいつものソファで眠っていたのだろう。考えが纏ってくれなくて、しばらくの間固まってしまった。

 椅子に座ってテレビのリモコンを操作するお姉ちゃんは、ボタンを連打してチャンネルを忙しなく変えながら、私に尋ねてくる。

「四葉、聞いてる? 時間は?」

「え、時間? え、なんの?」

「今日デートじゃないの? 昨日、あんだけあれでもないこれでもないって私の服散らかしたじゃないの」

 お姉ちゃんは私の胸の中心を指差した。

 視線を落とすとベージュ色のフレアミニのワンピースと夏物の黒いカーディガンが私の体にくっついている。

 私の心がかつて無いほどの苦しみを覚えた夏の日に、私が着ていった服だ。

 それを私は今着ていた。

 彼にどんな風に見てもらえるのか不安だったり楽しみだったりいろんな気持ちが綯い交ぜになって、早く逢いたいような、もうちょっと待って欲しいような矛盾した思いを抱えていた。

 あの日の私がずっと遠くにいるような気がした。

「気付いたら昼寝しているし、遅刻じゃないの?」

「遅刻って、え、今日……デートッ!?」

 私は弾かれるように立ち上がった。お姉ちゃんが目を丸くして私を見ているが、枕元に置いてあるスマホのスリープモードを解除してカレンダーのアプリを呼び出す。

 表示された画面に私の目は釘付けになった。

 今日の部分だけ日付の色が金色に表示されるのが私のスマホの設定だ。

 それを見る限り、カレンダー上では和泉君と私が四ッ谷駅で会う約束をしたあの日になっている。そして、スマホの日付設定もまた同じ。

「戻ってきた……?」

 和泉君が命を失うあの日に、私は戻ってきたというのだろうか。

 本当に? 本当の本当に、私は今過去のあの日に帰ってきたのか。

 スマホのラインを起動して、和泉君とのやり取りを表示してみるとやはり和泉君がやってこなかったために何通も送ったメッセージが消えている。最後のメッセージは昨日の夜に、お母さんの写真のコピーを和泉君に依頼したやつだ。

 間違いないんだ。

 私はあの日にいる。

 たぶん、口噛み酒を飲んで、私自身と入れ替わった。そんな事がありえるのかどうかなんて知らない。どうでも良い事だ。重要なのは、私がこの日にいるという事実。

 どくどくどくどくどくと心臓が高鳴っている。

 私は――――、

「痛ッ!」

 いきなり、私の頭を締め付けるような激痛が襲った。

 針を脳みそに突き立てられるような痛みだった。思わずスマホを取り落とし、頭を手で押さえた。

「四葉? どうしたの? 大丈夫?」

 お姉ちゃんが腰を浮かせて私の事を心配する。

「だ、大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだから」

 痛みは一瞬で引いた。

 いったい、何だったのだろう。

 風邪でも引いたのだろうか。

「電話してくる」

 そう言って、私はスマホを拾い上げ、玄関から外に出た。

 電話帳から和泉君の電話番号を表示する。

 タップ一回で和泉君と繋がる。

 だけど、私は躊躇ってしまった。もしも、和泉君に繋がらなかったら。結局、これがリアルなだけの夢で、和泉君に電話をしても何の意味もなく、ただ彼が死んでしまった事実を再確認するだけだったとしたら。そうだったら、私は立ち直れない。

 それでも、これが千載一遇のチャンスなのは変わらないのだ。ここでやらなければ、私は一生後悔する。和泉君のお母さんやユキ君ミキちゃんに死んでも償えない罪を背負う事になる。

 大きく深呼吸をして、私は通話キーをタップした。 

 呼び出し音が鳴った。

 私は祈るような気持ちで、呼び出し音に耳を傾ける。

『……はい、もしもし?』

「あ、ああ、ぁッ!」

 声が聞こえた。それだけで、私は感極まってしまう。言葉が出なくて、異音が喉から漏れた。

『宮水? どうしたんだ、いきなり』

「い、小滝君? ほんとに?」

『いや、俺だけど。何かあったか?』

 電話の向こうから聞こえる彼の声は多分に困惑の色合いを見せている。

「あの、あのね。ちょっと、大事な話があって! それで、えと、今、どこにいる?」

『今? 東京駅だけど?』

「と、東京駅ッ」

 さっと頭から血の気が引いた。

 そっか、和泉君達は東京駅の構内を散策した後で丸の内に繰り出したんだった。地方の人からすれば東京駅も十分に観光地だ。私だって、昔はそうだった。だけど、今に関しては大きな問題だ。

「すぐそこから出て!」

『は? 出るって』

「そこにいたら、小滝君死んじゃう、死んじゃうから! 丸の内から出ないで別の出口に行って!」

『おい、宮水? 何言ってんだ、いきなり』

 電話の向こうからはやっぱり困惑の声が聞こえてくる。いきなり変な事を言われて戸惑っているというのは分かる。

『なあ、どうしたんだよ、ほんとに。夢でも見たのか?』

「そうだよ」

『そうって』

「だけど、夢じゃない。分かるでしょ、小滝君だって同じだったんだから! 私、知ってるの。今日、東京駅の丸の内駅舎の前で通り魔事件が起こるの。もうすぐ、時間は……確か、1時……ッ」

 ビキ、と頭蓋がひび割れるような痛みがあった。

 唐突な突き抜けるような頭痛に私は呻く。私の何かが裂けたような痛み方だった。

「う、ぅ、はッ……あ」

『宮水? おい、どうした? 大丈夫か? 宮水?』

「だい、じょうぶ。大丈夫だから。とにかく、丸の内には近付かないで。駅の中にいるだけでもいいから」

『待て待て待て、何だよ通り魔って。なあ、何っていうか、俺と会いたくないんなら別にそう言ってくれても』

 根本的なところで、大変な誤解をされそうになっている。

 でも、ここで信じてもらわないとすべてが水の泡になる。これだけの奇跡を経験しても、まだ足りない。やり直しても結果が失敗では意味がないのだ。

「違う、そうじゃないの。本当なの。お願いだから信じて。今日、小滝君はユキ君を庇って、通り魔に刺される。それで、そのまま死んじゃう。訳分かんない事言ってるって分かってるよ。でも、本当なの」

『……いや、ああ……どういう事だよ』

「入れ替わった」

『誰と?』

「私と」

『はあ?』

 和泉君は要領を得ないとばかりに言葉を切った。呆れているのかどうなのか。そこまでは分からない。けれど、とにかく説明をしないとだめだ。

「私、自分と入れ替わったの。ここにいる私は未来から来た私。だから、小滝君が胸を刺されて死んじゃう事を知ってるの! 丸の内駅舎の前で。たくさん報道されたし、小滝君の家に行って、お母さんと話したよ」

『入れ替わったって、自分と? まあ、うん……それにお袋と話したって?』

「今日のお母さんとは話してないよ。あくまでも未来の話。信じないっていうなら、お母さんから聞いたあれこれを言っても良い。小5の運動会の話とか中学の時に一時期『漫画に影響された口調』になってた事とか知ってるんだからね」

『なッ! ちょ、いやッ、待て、何で知って……いやそんな事実はないにしても、そういうレッテル張るのは良くない。つーか、マジでか』

 和泉君はがっくしといった感じで声を落とした。

 私が知っている事は全部和泉君のお母さんから直接仕入れたものだ。和泉君の家を訪ねた日に、意気消沈していた彼のお母さんの思い出話を聞いているうちに出てきた情報だ。これは、私が和泉君のお母さんと直接話した事があるという絶対的な証拠となるものだ。

『宮水、お前、ほんとに未来から入れ替わってきたのか?』

「本当」

『ここに通り魔が出る?』

「そう、だから」

『なあ、宮水。丸の内ってレンガの駅舎の事か?』

 唐突な和泉君の問いかけに私は虚を突かれて言葉を詰まらせる。

「そうだけど」

 恐らくは東京駅といえばこの駅舎だというくらいに外観が知られている駅舎だと思う。

『……分かった。気をつける』

「わ、分かってくれた?」

『まあ、未来から入れ替わったって、正直どうかと思うけど。入れ替わり自体そもそもオカルトだしな。俺も経験してるし、信じるしかないだろ』

 良かった、と私はほっとした。

 和泉君の思考が柔軟で助かった。入れ替わりを彼も経験していたから、ありえないと一刀両断できなかったんだろう。

『その通り魔ってのは、どんなヤツか知ってるか? うっかり近付かないようにする』

「う、うん。確か、身長が165くらいの痩せ型で、白いTシャツとジーンズで、えーと、えと、後は髪が、こう脂ぎってるっていうか、長めの髪の無精髭が結構はっきりしてる感じ」

 どんだけ伝えるのへたくそなんだよと私は内心で叫ぶ。

 情報が上手く纏められていないではないか。

 和泉君関連のニュースを避けていたから、犯人の名前とか具体的なところを私はよく覚えていない。それでも完全には情報を遮断できていなくて、アナウンサーが機械的に読み上げた言葉やテレビに映し出された犯人の顔を思い出して伝えたのだ。

『じゃあ、ユキ達を迎えに行くから、一回切るぞ』

「うん」

 ぷつっと、通話が切れた。

 安堵した私はその場にへたり込んでしまった。

 だけど、あれ、と私の脳裏に疑問が鎌首を擡げてきた。

 これで、良かったのだろうか。

 まだ、引っかかっている事がある。

 和泉君はユキ君達を迎えに行くと最後に言った。それはつまり、今の今まで一緒に行動していなかったという事だ。

 私は立ち上がって家の中に飛び込んだ。

 床を踏み鳴らしてリビングに駆け込み、自分のショルダーバッグを乱暴に持ち上げる。

「お姉ちゃん、自転車貸して」

「え、うん。いいけど」

「ありがと」

 お姉ちゃんが自転車の鍵を貸してくれる。どこに駐輪しているのかは、何度か借りた事があるので知っている。

 突然の事に困惑するお姉ちゃんを残して、私は家を飛び出した。マンションの階段を下りながら和泉君にもう一度発信する。だけど、和泉君は出ない。通じてはいるけれど、気付いていないのだろう。

 マンションの下にある駐輪場からお姉ちゃんの自転車を見つけ出し、鍵を開けて跨った。思いっきり踏み込んで、四ツ谷駅に向けて私は走る。

 信号待ちの時間すらももどかしい。腕時計を確認すると、私の知る事件発生時刻まで四十分を切っている。四ッ谷駅に行き、電車に乗って東京駅に向かう。決して余裕があるとは言えない。そもそも、そこに行ったとして何ができるのか分からない。

 杞憂で終わればいい。だけど、私の予感が正しかった場合は最悪だ。

 もしも、和泉君以外の小滝家の人達が事件発生現場付近を観光しているのだとすれば、和泉君もそこに行くだろう。

 それで事件に巻き込まれるような事があったら、これまで積み上げてきたものが一気に瓦解してしまう。

 早く着かなくちゃ、もっと速く進まなきゃ。

 そんな風に気持ちばかりが焦ってしまう。

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 今日、俺は初めて四葉に会う。

 入れ替わりという不可思議な現象に互いに悩まされる仲であり、半月余りの間に何度も連絡を取り合った相手だ。顔も名前も分かる住んでいるところも知っている。だというのに、俺達は未だに直接会った事がないどころか、相手の声を自分の耳で聞いた事もなかったのだ。

 奇妙な事ではあるけれど、暗黙の了解のようなものがあった。

 入れ替わっていない状態で連絡を取る事に対して、少なくとも俺のほうは気恥ずかしさがあった。

 今まで女子と話をするよりは男子とふざけているほうが楽だというままに生きてきたわけで、当然ながらデートなんてした事もない。四葉には馬鹿にされたが、彼女のいない男子高校生なんて実のところ珍しくはないのだ、と声を大にして叫びたいところだ。

 とにかく、そんな俺にとって『東京にいる』『直接話した事のない』『同学年の女子』に誘いをかけるのはかなりの冒険だったのだ。

 正直、OKが出た時点でやりきった感じがしてしまうくらいには、緊張していた。いつも、入れ替わっている時には簡単に軽口が叩けるのに、連絡する大義名分がなければまともにメッセージの一つも送れないくらいのへたれだったのだと自覚するのに、そう時間はかからなかった。

 ただ会って、話をして、その辺りを回るだけ。東京は四葉のほうが詳しいだろうし、はっきり言って上手く一日を過ごせる自信は皆無と言っても良い。それでも、ここまで来た以上はやりきらなければ男が廃ると奮い立つ。アイツから貰ったミサンガを左手首に巻いて、俺は予定の時間までを東京駅で過ごしている。

 そんな時にスマホが振動したのに気付いた。発信元は四葉のスマホで、俺はすかさず電話に出たのだ。まさか、俺が刺されて死ぬだなんて事を言われるとは思わなかったし、最初は冗談なのだろうと思った。俺に会いたくなくて、嘘をついているのではないかとまで疑ったくらいだ。

 だけど、四葉はさらにぶっ飛んだ事を言い始めた。未来から過去の自分と入れ替わったのだと。だから、これから起こる事を知っているのだと。四葉は俺が死んだ未来で数日を過ごし、その間に俺の母親と直接会って話をしたのだと。

 俺が一言も言った事のない俺の過去をアイツは知っていた。俺になっていた時に聞いたと考える事もできるが、恐らくはないだろう。過去の一件でからかわれる事を俺は嫌っている。だから、母親もむやみに口には出さないはずだからだ。

 信じる信じないの二択なら、信じないのが普通だ。

 けれど、俺は違う。アイツと一緒に入れ替わりを経験していた俺はそれをオカルトの一言で片付ける事はできなかった。最終的には信じるしかなかったし、信じたかった。どうやって入れ替わったのかは知らない。でも、そうまでして俺を助けに来てくれたのだとすれば、ちょっとは期待してもいいんじゃないかとは思えてしまう。

 俺はアイツと連絡を取ってすぐに、母さんに電話をした。人込みの中で他人に会話を聞かれないように声を潜める。

『もしもし、どーしたの?』

 と、暢気な声が聞こえてくる。

「今さ、どこにいる?」

『どこって? 東京駅。あんたはどこにいるのよ。今日、デートでしょ。あ、まさか怖気づいたんじゃないでしょうね』

「んなわけあるか。てか、何でデートなんだよ」

 いや、男女で出かけるのならデートかもしれないが、そもそも俺は東京の友達と出かけるとしか言っていない。

「で、どこにいんの?」

『もうすぐ、丸の内。赤レンガで有名なとこ』

 やっぱりそうだ。

 これが、俺が四葉を信じた理由の一つでもある。

 アイツは事件が丸の内駅舎のほうで起きると言っていた。今日、母さん達は駅の構内で買い物をした後で、丸の内駅舎を見に行く予定だった。これは四葉では知りえない情報だ。

「さっき、友達が連絡くれたんだよ。丸の内の駅舎近くで不審者が出たらしい。刃物持ったヤツがうろついてるみたいなんだと。ユキとミキ連れて、そっから離れたほうがいい」

『え、何それ。本当? 周り、全然騒ぎ起きてないよ。気のせいじゃないの』

 案の定、母さんはまったく聞く耳を持たない。言葉を尽くして説明しようにも、俺には説得の材料がない。証拠も無く、実際に犯人を見たわけでもなく、そしてその犯人が騒ぎを起こしてもいないのだ。

 となれば、俺が直接母さん達と合流して事件現場から遠ざけないとダメだ。

 母さんとの電話も、まともに取り合ってもらえなかった。

 今の俺の注意喚起は行政が垂れ流す不審者情報と大して変わらない。一応目を通しても、自分は事件に巻き込まれないだろうと高を括ってしまう。

 人にぶつからないように、俺は早足で丸の内を目指した。

 その間に俺は駅員に声をかけて丸の内に不審者がいると情報提供をした。友人から電話が来て、危険な人がうろついていると聞いたんだと伝えた。けれど、反応はやっぱり芳しくない。思い切って警察に通報してみたが、結局うまく説明できなかった。事務的な対応を食らって終わりだ。そりゃ、そうだろうとは思うけどもやるせない気持ちになる。

 又聞きの情報だと、どれだけ言葉を尽くしても信憑性が生まれない。

 情報源となった「友達」が嘘をついているんじゃないかという方向に駅員達の思考は向かっていく。

 何度か誰かと肩をぶつけて「すみません」と謝っては足を速めた。

 気持ちがはやる。

 この駅はあまりにも広い。新宿駅が有名だけど、東京駅も地方の駅とは比較にならない規模の駅だ。

 俺はどうにか丸の内駅舎前に辿り着く。駅の中ほどには混んでいないから、人の顔の判別も付く。騒ぎが起きていないから、まだ事件が起こっていないのだろう。いつ事件が起きるのかも分からないけれど、1時台には起きる。アイツが1時と言いかけていたのを思い出す。

 腕時計が示す時刻は1時をとうに過ぎている。

 アイツの言っていた通りに事が運ぶなら、そろそろこの辺りに不審者が現れるはずだ。

 母さんとユキとミキはどこにいる? この辺りで駅舎を見ているのか、それとも構内に戻って買い物でも始めたのか。また電話をして聞かないとダメか。

 きょろきょろと辺りを見回すと、駅員の姿が目に飛び込んできた。仕事中なのか昼休みの最中なのか、そんな事はどうでもよかった。

「あの、すいません!」

 俺は駅員に駆け寄った。アイツの警告を無駄にしないために、少しでも警戒してもらえればと思うのだ。俺や俺の家族が逃げるだけだと、別の誰かが傷つくだろう。俺が助かっても、誰かが変わりに傷つくのは許せない。そんなのは、絶対に間違っている。俺はここで殺されるつもりはないし、家族を犠牲にするつもりもない。もちろん、傷つく誰かを見殺しにする事もできない。

 だって後悔するに決まっている。だから、全部解決して笑い話にしてからアイツに会いに行く。武勇伝の一つくらい手土産にしていいだろう。そこでふと思う。

 ――――アイツって……。

 大切に積み上げた砂山が、波にごっそりと持っていかれたような気がした。

 ざあ、と世界が遠のいていく。 

「どうかしましたか?」

 目の前の駅員が俺の様子に戸惑いながらも声をかけてくる。

 体調不良に思われたのか。

 俺は頭を過ぎった疑問を振り払って、駅員の顔を見上げる。

「いえ、大丈夫です。えっと……」

 不審者の事を駅員に知らせようとした瞬間、背後から悲鳴が聞こえてきた。

 咄嗟に振り返ると、高校生くらいの女の子が左手を押さえながら走っていくのが見えた。

「あ……」

 白いTシャツの男が包丁みたいな刃物を振り回して奇声を上げた。

「きゃあああああああああああ!」

 誰かが悲鳴を上げると同時に人波の動きが大きく変わった。

 ソイツはとにかく近くにいる人に向かって刃物を振り回している。もう何人か切られたみたいで刃物男が通った後には蹲る人や体の一部を押さえながら逃げていこうとする人がいる。

 それだけならまだしも、その男の向かう先にはジュースを飲んでいるユキとミキがいる。母さん一人では、二人を抱えて逃げるなんて出来ない。それを、あの男を見越したのだろう。真っ直ぐに三人に向かっていく。

「ま――――待て、この野郎ッ!」

 カッと頭に血が上った。

 走り出した俺は異様に足が遅かった。

 遅いと感じてしまうくらいに切羽詰っていたのだろう。刃物男よりも俺のほうが速いはずだけど、それでも俺が刃物男に追いつく前に、あの血塗れたナイフが俺の家族を襲うのは明らかだった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

「だから言ったのに!」

 私は悔しさに顔を歪めて走った。

 駅員さんの対応の遅さに苛立ちながら、悲鳴に向かって私は駆ける。

 その場に辿り着いてどうするとかそんな細かい事は何も考えていない。とにかく彼が無事ならそれで良い。そのためにここに来た。ここまで辿り着いたのだ。目の前でむざむざと持っていかれて堪るかと、それだけを考えて私は人の波に逆行する。

 どこで事件が起きているのか丸分かりだった。人が逃げてくる方向に向かっていけば良いのだから。

 中央口のすぐ外で、刃物を持った男がいろんな人を追い立てている。普通は怖いと思うのだろうけど、この時の私は感覚がおかしくなっていたのかそんな事はまったく思わなかった。

 どこかで見た事のある親子連れに向かって男が何かを喚き散らしているのを見た瞬間に弾かれるように私は手元にあったスマホを投げた。

 走ったって間に合わない。

 だけど、あの人達を傷付ける事は絶対に許さないと強く思った。

 私の大事なスマホはくるくると回転して自分でもびっくりするくらい正確に刃物男の脳天に直撃した。

 刃物男が驚いて足を止める。そこにその後ろから勢いよく走ってきた男の子が殴りかかった。

「人の家族に何してんだテメエ!」

 怒り心頭といった様子の男の子だ。どこかで会った事があるような彼に私は心が高鳴った。こんな時なのに、どうしてか嬉しくて仕方がなかった。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿い、邪魔するなァ!」

 刃物男は殴られた頬を押さえながら喚く。喚いて、またぎらりと光る刃物を彼に向けた。

 危ない。

 このままだと刺されてしまう。

 ダメだ。それだけは、とにかくダメなのだ。

 今までにないくらい必死になって、私は残り二十メートル弱を走った。錯乱しているのか彼しか目に入っていない刃物男の真横から、ショルダーバッグを全力でスイングする。

「和泉君に触んな!!」

 衝撃と共にバッグの中身が散らばった。

 財布やら筆箱やら定期やらが飛び出してしまう。

 私程度の筋力でも遠心力を加えたバッグの打撃はそこそこの威力になったみたいで、男がよろめく。

 けれど、そこまでだった。

 男を一撃で昏倒させるなんてできるはずもなく、刃物の狙いがこっちに切り替わるのはすぐだった。

 私は足が動かない。すっかり疲れてしまった事もあるし、バッグを振り回した直後だったという事もある。

「四葉、何でここに来てんだよ!」

 そんな私を助けたのは和泉君だった。必死の形相で男を背後から羽交い締めにしている。おかげで私は寸でのところで命拾いした。

「誰か、一緒に押さえて!」

 和泉君が叫ぶ。 

 逃げ散っていた人の中から勇気のある人が駆け寄ってくる。暴れる刃物男は和泉君一人では抑えられない。大人しくさせないと、暴れているうちに和泉君が刺されるかもしれない。

 今にも拘束から抜け出しそうな刃物男を前にして、私は咄嗟に右足を真上に蹴り上げた。

 何だかこの世のものとは思えないくらい、悲痛な声が響き渡った。

 

 

 駆けつけた警察に男が連行されていく。

 何人か切り付けられた人がいるけれど、死者は誰もいなくて騒然とした駅構内の空気も犯人が逮捕されて大分弛緩したみたいだ。

 私と和泉君は事件に巻き込まれた事もあって一時的に警察に保護される事になってしまい、呼び出されたお姉ちゃんから無茶苦茶してどうたらこうたらとしこたま怒られる羽目になってしまった。

 和泉君のほうは、お母さんが近くにいた事もあって割りと早く解放されたらしい。

 お姉ちゃんと連れ立って、私は警察署を出た。

 一時間半くらいは拘束されてしまったみたいだ。夕方というにはまだ早いけれど、これから遊びに出るには中途半端な時間帯だ。

「あ」

 私は足を止めた。

 警察署の前で、和泉君が立っていたからだ。和泉君は私を見て、軽く手を挙げた。

「あ、ちょ」

 私は咄嗟にお姉ちゃんを見た。

 私よりもちょっと高いところにあるお姉ちゃんの目がにやりと笑う。 

「はいはい、お邪魔虫は消えますよ。でも、あんまり夜遅くに帰ってくるのはダメだからね」

 お姉ちゃんは呆れたような、嬉しそうな顔で私を置いて警察署を後にする。

 私はそそくさと早足で和泉君のところまで歩いていく。

 頭の天辺からつま先まで、視線を満遍なく動かして和泉君その人であると確認する。

「遅かったな、宮水」

「うん、ちょっとお姉ちゃんに怒られてて」

 私は頬を掻く。

 和泉君はきょろきょろと周囲を見渡してから、

「ちょっと、歩こうか」

 と言った。

 私は頷いて、彼の少し後ろを歩く。

 隣を歩くのはどうしてた躊躇われた。何となく、気恥ずかしいから。

「今日は助かったよ。宮水の言ったとおりだった」

「だったら、初めから逃げてくれれば良かったのに。やっぱり、信じてなかったの?」

「そんな訳ないだろ。信じてなかったら、駅員とかに色々言わなかったっての」

 ぶっきらぼうな言い回しだけど、それだけで私は安堵する。

 駅員さんに刃物男の事を伝えていたというのなら、それは私の伝えた事をきちんと信じてくれた証になる。

「何か不思議な感じだな」

「何が?」

「宮水の事、自分の目で見るのは初めてじゃん。今まで何度も見てるはずなのにな」

「どっか、変なとこある?」

 私はちょっと慌てて身だしなみを確認した。まじまじと和泉君に観察されるのはとても緊張する。バクバクと鼓動が激しくなる。

「変なところなんてないよ」

「ほんと? 嘘じゃない?」

「マジだって。何? 疑ってる?」

 少しずつ私達の会話にリズムが生まれてきたと思った。

 探り探り和泉君の話に自分の話を合わせる。その逆もある。お互いの言葉の端々にあった絡まった緊張の糸を解き解し、心の綾を組み上げる。それはまるで組紐を組むように繊細で、難しい作業のように思われた。

 少しずつ調子を掴んだ私達は特異な経験を共有した事もあって会話が弾んだ。びっくりするくらい、自然に言葉のキャッチボールができる。

 東京駅を見下ろす屋上庭園のベンチで私達は足を休めた。

 今日一日、とても疲れた。疲労感が足に蓄積している感じがする。でも、ものすごい達成感があった。ずっと追い求めていたものに手が届いたようなそんな晴れ晴れしい気分だった。

「なあ、宮水。今日、本当は俺、死んでたんだよな」

 奥行きのある白いベンチに座る和泉君は、ふとそんな事を言った。

 隣で和泉君の言葉を聞いた私は小さく頷いた。

「うん。でも、もう本当じゃない。本当の小滝君はここにいるもん」

 本当なら、という言い方は今の和泉君が嘘のような気がして嫌だ。本当を嘘にするためにここにきた。そして、悪夢は去って、夢が本当になったのだ。

「和泉君が生きててくれた。それだけで、今日は満足かな」

「お前、恥ずかしい事言うな。マジで」

 心底恥ずかしそうに和泉君は顔を紅くした。

 そんな表情は初めて見たので、思わずドキッとした。何ていうかこう、もっと弄ってみたくなる感じ。

「あ、そうだ」

 羞恥心を誤魔化すように、和泉君は唐突に話題を変える。

 和泉君は背負っていたリュックを下ろして、膝に抱え、チャックを開けた。

 中から和泉君が取り出したのはファイルだった。

「ほら、頼まれてたヤツ」

 渡されたファイルには、お母さんと糸守の写真が何枚も入っていた。

「コピー用紙に印刷したヤツで悪かったな。うちの集落には写真屋なんてなくてさ。プリンターもあまりいいもんじゃないし」

「そんな事無いよ。……最高。ありがと」

 じわりと涙が溢れ出る。

 お母さんの写真が見れた事よりも、和泉君が約束を果たしてくれた事が嬉しかった。ここに和泉君がいるのだと、改めて実感できた。

 彼が生きている。それが、こんなにも嬉しいなんて。

「まさか、東京駅までお前が来てくれるなんて思わなかった」

 和泉君は神妙な口調でそう言った。

「今度は、俺が四葉に会いに行く」

 そんな事をとても真剣な顔で言うものだから、私は声にならないくぐもった返事をしてしまう。

 今度は私の顔が紅くなる番だったみたいだ。

 全身の血が顔に集まってくるのを感じて、私はビルの窓ガラスに反射する夕日の光が誤魔化してくれる事を全力で願う。

 私は逃げるように立ち上がる。

「まあ、期待しないで待ってる。実際、一度は置いてけぼりを食らってるし」

「それ、もしかして、お前が言うところの嘘のほうの俺の事か? だったら俺とは関係ないんじゃないか?」

「ダメー。小滝君に付けられた傷は深いから、その分はきっちり返してもらうからね」

「んな、目茶苦茶な」

 困ったように和泉君は肩を竦める。

 そして、どちらともなく笑った。泣いたり笑ったり、今日の私はどうにも忙しい。

 不意に周囲が暗くなる。

 ビルの向こうのあった太陽がいよいよ姿を消す時間となったのだ。

「カタワレ時が――――」

 私はビルに隠れた太陽を思い、顔を上げた。

 そして、まるでブレーカーが落ちるように神様がくれた奇跡の時間は唐突に終わった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 目が覚めると、見た事のない天井が私の上に覆いかぶさっていた。

 真っ白で無機質な部屋と腕から伸びるなんらかのコードが機械に繋がっている。

 私は知らない部屋のベッドの上で寝ているらしい。

 どこだろうと視線を廻らせると、椅子に座ったお姉ちゃんが何かの雑誌を読んでいるところだった。

「お姉ちゃん?」

「え、あ、四葉?」

 私と目が合ったお姉ちゃんは、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がって、私の顔を覗きこむ。泣きそうな顔だった。

「四葉、四葉、四葉~~~~、良かった。良かった、目が覚めたぁ~~~~」

 泣き崩れたお姉ちゃんに私は何と声をかけたら良いのか分からなかった。

 だって、何が起こっているのかも分からないのだから。

「ねえ、ここ、どこ?」

 それに妙に息苦しい。

「病院に決まってるでしょ! 心配させて! 今、お父さんと先生呼んでくるから!」

 どたばたと、お姉ちゃんは部屋を飛び出ていった。

 そうか、ここは病室なのか。

 私はどうやら入院しているらしい。でも、どうして入院する事になったのかまったく覚えていない。

「痛い」

 枕に頭を預けた私は見上げる天井に向かって呟いた。

 どこが、どのように痛むのか分からないけれど口を突いてそんな言葉が出てきた。

 なんだか息苦しい。

 体のどこかが痛んでいる。

 でも痛みはない。 

 そんな奇妙な感覚が私にはあって、それはまるで自分の体じゃない別の何かが引き裂かれたような寂しさを伴うものだった。

 どうしてだろうか。

 急に、何の前触れも無く私は涙を流した。嬉しいような悲しいよな、やっぱり寂しいだろうか。

 長く浸っていたかった大切な夢から、たった今覚めてしまった。

 そんなナイフのような実感が私の心に深々と突き刺さった。


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