「そこ」は静かな農村だった。ショッピングモールは疎か、住宅街などというものも存在しない田舎の集落。山を切り開いた高台に位置し、段々畑と田んぼが連なる景色に私の視線が吸い寄せられた。
もうすぐ収穫の時期を迎える稲は輝かしい実りの色に染め上がり、燃えるような夕焼けが景色に彩りを添えている。
朽ちかけたバス停は、もう何年も修繕されていないのだろう。野ざらしのベンチも脚がさび付いている。
私はここに来た事がある。
東京を出て、すでに六時間が経過していた。
夢は、いつか、覚めて消える。
そんな事を聞いたのはいつの事だっただろうか。
私はスマホの画面を見つめる。
そこにはメモがしっかりと残っている。東京駅を出てから、このバス停までのルート。
ここは、和泉君が生きていた集落。
ここに彼がいて、私もいた。
ぼうっとしていると、忘れてしまうのではないかという悪寒があった。
心の中から大事な思い出が滑り落ちてしまう感覚をちょっと前に確かに味わった。
まるで白痴になってしまったかのように、私は一瞬目的を見失った。何気なくスマホの画面を確認しなかったら、そのままバス停を乗り過ごし、町まで戻ってしまっていたかもしれない。
「大丈夫、覚えてる」
蛇のようにくねった道の傍に建つ家に見覚えがある。
大きな樫の木の下にある郵便ポスト、四方を田んぼに囲まれた農具小屋、山の稜線から川のせせらぎまですべて覚えている。日本のどこにでもあるようなこの景色だけど、私は確かにここで過ごしたのだという実感があるのだ。和泉君の肌で感じた彼の故郷の気配がある。彼の目で見た故郷の色がある。見間違いでも思い違いでもない。私が来たかった場所はここなんだ。
この集落は太陽が山の稜線に顔を隠した途端に暗くなる。闇が広がる速さは、きっと慣れていないとびっくりするだろう。空の彼方は夕焼け空なのに、集落はそのものは山の影に飲まれて暗くなってしまうのだから。
長い昇り道を私は歩く。
「ここ、こんなにきつかったっけ」
息を荒げながら、額の汗を拭う。
そうか、私は和泉君の体でしかこの集落を知らないから、体力の差を痛感する破目になったのか。
やっぱり男子の筋力は私とは違う。
黙々と私は歩き続ける。
どこからか、鈴の音が聞こえた。
足を止めて周囲を見渡す。
右手の石段の先に、あの家がある。抜け落ちかけた思いを必死に繋ぎ止めて、私はその家を見上げる。
「ッ……」
じわり、と涙が湧き出てきた。
心を落ち着けるように深呼吸をして、石段を見上げた。
その先に、何度も見た彼の家が建っている。
石段を一歩ずつ私は上がっていく。
その度に、私の足は重くなっていく。
石段を昇りきった後、私は結末を知る。テレビを通してしか知らなかった事実を、確かなものとして理解させられる。
目を背けるなんて事はもうできない。
その覚悟が私にあるのか。
今なら、まだ引き返せる。取り返しの付かない結末を受け入れる用意ができていないのならば、先に進むべきではない。
それでも、私は石段を上がりきった。
この先、どうなるのかなんてもう気にしても仕方がない。どうしてここに来たのかなんて、もうどうでもいい。私は、ここに来なければならなかったから来たんだ。
彼が亡くなってからもう七日が過ぎている。たぶんお葬式も終わった後だろう。でも、まだ七日だ。家全体から漂ってくる沈鬱な雰囲気は、私の知る温かな小滝家とはまったく異なるものだった。私の錯覚なのか、それとも本当に家そのものが和泉君の死を悲しんでいるのか。
ご家族が一番辛いはずだ。悲しみかた立ち直るのに、七日は短すぎる。とても大変な時期のこんな時間に尋ねてしまうのはやはり非常識極まりない事だろう。
私は古い呼び鈴を押そうとして手を止める。本当に押してしまっていいのだろうか。どこかで野宿して、明日の昼間に尋ねた方がいいのではないか。そんな事を玄関先で思って体が固まってしまう。
「あら、どちら様?」
背後から声をかけられたのは、その時だった。
はっとして振り返ると、そこには三十代後半くらいの女性が立っている。
「あ、あの、私……」
さっと玄関から飛び退いて、私は彼女と向き合った。
間違いなく、和泉君のお母さんだ。箒を持っているという事は、外を掃いていたところだったのだろう。全然、気が付かなかった。
顔に憂鬱な影を貼り付けたその人は、怪訝そうな表情で私を見つめている。
「あれ?」
お母さんは、少しばかり首を傾げた。
「え?」
何か変なところがあっただろうか、と私は急に不安になる。
「ああ、ごめんなさい。あなた、もしかして、和泉の彼女さん?」
「え……いや、そういうのではないのですけど!」
カッと顔が紅くなる。
そんな事は考えた事もなかった。我ながら情けないほどにうろたえてしまう。
「あ、その、和泉君と最近、連絡をよく取っていた者で、す。その、私、何ていうか」
どうしよう、ここに来て全然言葉が出てこない。
私と彼との関係を説明する言葉が浮かんでこない。ここに来た理由で説明できそうなものを探しても、どれもこれも私自身の胸を抉るようなものしか出てこない。どう足掻いても、和泉君の死に触れなければならないというのが、ただ只管に辛かった。
涙が零れ出てしまう。
「あ、ご、ごめんなさい。いきなり来て、こんな……」
慌てて涙を拭う私の手を和泉君のお母さんが優しく掴む。
「和泉のお知り合いね」
「……はい」
コクンと頷いた。
「こんな時間に来てしまってすみませんでした。その、本当に大変な、時なのに」
「いいの。あ、どうぞ、こんな家だけど上がっていって」
和泉君のお母さんは玄関の扉を開けて、私を中に誘導する。先に靴を脱いで、家に上がったお母さんは振り向いて、
「そういえば、名前聞いてなかった。あなた、何ていうのかしら?」
私はお母さんの顔を見上げて、搾り出すような声で答えた。
「……宮水、四葉です」
■
時計の針がさらに進む。
私はキッチンでお皿の水気をタオルで拭き取っている。すぐ隣で、和泉君のお母さんが洗い物をしていた。
「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「いいんです。夕食までいただいてしまって、こちらの方こそ、申し訳なくて」
「いいのよ、いいのよ。私もね、つい一人分多く作っちゃうから。……もう、作らなくても良いって、分かってるんだけどね」
声を詰まらせてお母さんは言った。
普段は気丈に振る舞っているけれど、言葉にすると思いが膨らんでしまう。その気持ちは私もよく分かっているつもりだ。
「四葉ちゃん。和泉とは、どこで知り合ったの?」
「えっと、SNSで」
「そう、最近の若い子はみんなそうなのかしらね。よく聞くけど」
「みんなってわけではないと思います。ネットは怖いってよく言いますし」
「そうよね。でも、四葉ちゃんは違ったのね」
「気が、あって。どうしてでしょうね。私も、よく分かりません」
私は今嘘を付いている。
入れ替わりなんて、そんな事を説明できるはずもないのだから苦肉の策だ。仕方ない。けれど、それでもやっぱり胸が痛い。
「でも、本当によくここまで来てくれたわね。ありがとう」
「そんな、ありがとうなんて言われるような事は何もしてないです。むしろ、ご迷惑をおかけしてしまって」
「そんな事ないわ。和泉が死んでからね、まだお友だちは誰も来てくれてなかったの」
「そうなん、ですか」
「そう。学校の先生は来てくれたけどね。ちょっと、あの子の学校生活、どうだったんだろうって思っちゃうのよ」
「……私、和泉君と直接会った事はないんですけど、でも、学校でも人気があったはずです。友達だって多かったみたいですよ。よく愚痴を聞かされましたから。ここに来てないっていうのも、遠いからだと思います。ここって交通の便が良いとは言えないですし」
「本当にね。もう少し、バスの本数を増やしても良いんじゃないかって思うんだけどね」
この限界集落では車が必需品となっている。
買い物をするにも遠出をしなければならず、バスの本数もまばらとしか言いようがない。そんな集落での生活は、不便な事の方が多い。当然、高校生がふらっと訪れるような場所ではない。私みたいに勢いのままにやって来て帰れなくなる事だってありえるだろう。
「はい、これ、最後の一枚」
「はい」
受け取った皿から水を拭き取って、水切り台に乗せる。単調な作業だけれど、話をしながらだとむしろちょうどいい。
「お茶、持って行くから居間に行ってて」
「分かりました」
私はキッチンを後にして、居間に戻る。その隣が仏間になっているのだけれど、私はまだ踏み入れていない。この前、ユキ君とミキちゃんと三人で野球の真似事をした部屋だけれど、同時に和泉君のお骨がある部屋でもある。そんなのは、きっと耐えられない。
居間で私は座布団に座って、お母さんがやって来るのを待った。
小さな物音がして、背後を振り返る。
襖が少しだけ開いていて、その奥からユキ君とミキちゃんが私をじっと見つめていた。
私と目が合うとユキ君は「見つかった!」と楽しそうに身を引いた。ミキちゃんは相変わらずのマイペースさで、あっさりと襖を開けて居間に入ってきた。
トコトコと私の隣までやって来る。
クイクイと私の袖を引っ張った。
「えと、どうしたの、ミキちゃん」
「……おにちゃん?」
「え……」
ドキッとした。
ここで、そんな事を言われるとは思わなかったからだ。
そうだ、確かにミキちゃんは入れ替わっていた時に和泉君と私の差異に気付いていた。明らかに別人だって認識していたのだ。この娘は、不思議な勘の持ち主だった。
「私はあなたのお兄ちゃんじゃないよ」
「うん? うん」
頷いたミキちゃんはそれでも隣からは動かず、その場に座り込んだ。何がしたいのだろうか。分からない。
「おーい、ミキー」
恐る恐るといった感じで、ユキ君が私とミキちゃんとを見比べている。
「こんにちは」
挨拶をしてみる。夕食の時にも会っていたのだけど、改めて。
「……こんにちは」
さっとユキ君は逃げるように襖の向こうに消えた。
「どうしたの、あんた、そんな走って」
お母さんの声が襖の向こうから聞こえた。
私はパッと立ち上がって襖を開ける。
「あ、ごめんなさいね。ありがとう」
お母さんは、お盆にメロンとお茶を乗せてやって来た。
お皿が四つ。
みんなの分もあるみたいだ。
「メロン!? やった!」
ユキ君は大喜びだ。今にも飛び跳ねんばかりで喜んでいる。
「ほら、ちゃんと座る」
お母さんに背中を押されて、ユキ君はテーブルに座った。
お盆からユキ君とミキちゃんの分のメロンを取って、二人の前に置いた。ユキ君は私の反対側に座っているけれど、ミキちゃんは相変わらず私の隣にいて、もっさもっさとメロンを食べている。小動物みたいだ。
「あら、珍しい」
「珍しい?」
「ミキは人見知りする娘だから。そんな風に初めて会った人の近くにいくのは滅多にないのよ」
「え、そうなんですか?」
ミキちゃんを見る。
口の周りにメロンの汁をたっぷりつけた幼女が私を見上げてくる。
「おにちゃん、どうしたの」
「いや、私は君のお兄ちゃんじゃないよ」
二度目の否定。
「おにちゃんだったよ。この前」
「あー、いや、えーと」
どう答えたら良いのだろう。このまま繰り返しても、同じ答えが返ってくるだけなのだろう。
「どういう事?」
お母さんまで聞いてくる。
「えーと、分かりません」
「そうよねえ……」
お母さんが困惑するのも当然だろう。ミキちゃんがよりにもよって今日会ったばかりの私をお兄ちゃんと同一視するかのような事を言うのだ。むしろ、心配するだろう。
「まあ、まだ小さいので」
「うん、そうね」
お母さんは微笑んで、それから二人に声をかける。
「それ食べた人から歯を磨いて寝る事。いいわね」
ミキちゃんは素直に頷いて、ユキ君は不満そうに顔を歪める。いつもの反応だ。この小さな男の子は、まだエネルギーが有り余っているのだろう。遊んでくれるお兄ちゃんがいないから、こうなってしまうのだ。
「騒がしかったわね」
「賑やかなのは、良い事だと思います」
二人が寝付いた後、私と和泉君のお母さんだけが居間に残された。
小さい子達がいなくなると、それだけで家の中がシン、と静まり返ってしまう。いよいよ、夜が深まったのだなと実感する。
「あの、今日、お父さんは」
「仕事。あの人、この近くで診療所をやってるのよ。今は、仕事に打ち込んでいたいんだって言ってね」
「そうですか」
和泉君のお父さんが忙しくしているのは知っている。家に帰って来れない日だって珍しくない。高齢化が進み、近くに病院のないこの集落では、お父さんが唯一応急処置ができる医者なのだ。夜中に飛び出す事もあるらしい。
けれど、和泉君のお父さんにとって彼の死はあまりにも大きな衝撃だったという。
これまでに何度も人の死を目の当たりにしてきたのに、それだけは受け止められなかった。だって、医者だから。自分の息子をみすみす死なせてしまった事を文字通り死ぬほど後悔している。
「どうしようもなかった。そう、思えれば一番なのかもしれないけどね」
疲れたようにお母さんが呟く。
「私も、あの時代わりになれたらって、何度も思った。そんな事しても、和泉は喜ばないって何度も言い聞かせてるけど、でもダメ……」
「そんな……ううん、そんなの当たり前です。何もできなかったって、思うのは私も同じですから。私、あの日和泉君と会う約束してたんです。四ッ谷駅で。東京駅まで、そんな時間はかかりません。あの時、四ツ谷駅じゃなくて、東京駅で待ち合わせてたらとか、あの場に私がいたらとか、そんな、事ばかり考えてます」
ポツポツと私は呟いた。
お母さんに触発されたのか、お母さんが私に触発されたのか。それはもう分からない。だけど、私達は後悔を共有している。傷の舐め合いなんて、言い方は悪いけれど、そういう事ができる。そんな安心感があって、私は自分の気持ちを少しずつ吐露していく。
「……私、実は今でも信じられなくて。和泉君の事。今日ここに来たのも、そうです。信じたくなかったんです。和泉君の家に来れば、ひょっこり彼が出てきてくれるんじゃないかって、そんな夢みたいな事、考えてしまって……馬鹿みたい、ですけど」
そして、また夢を見たかった。
和泉君の体でこの集落を感じて、安心したかった。今、私の前に広がっている光景が夢であるようにと何度も願った。
「その気持ち、私もあるよ」
と、和泉君のお母さんが言う。
「私もね、朝起きたらあの子が階段を下りてくるんじゃないかって期待してるもの。ユキとかミキが笑ってる声が聞こえると、和泉が遊んでくれてるんじゃないかって思っちゃう。夕食を作る時、和泉が好きだったコロッケにしようとか考えるの。でも、ダメね。あの子はもういないんだって、実感させられてばかり。でも切り替えられなくて、騙し騙しやってるしかない」
辛い、とお母さんは漏らす。
「どうしてかしらね。あなたとは初めて会った気がしないわ。こんな事、普通初対面の女の子に言ったりしないのにね」
「え、はい。そうかもしれません。……けど、私も、前に会ったような気はします」
実際には和泉君の目を通して、この人とは何度も会っている。だから、あながちそれは間違いではないのだ。和泉君のお母さんは小さく微笑んだ。
「やっぱり、二葉の娘さんだからなのかしらね」
「……あの、お母さんの事……」
「和泉から聞いてない? 私、あなたのお母さんとは同級生だったのよ」
「……この前聞いて、びっくりしました。和泉君のお母さんが糸守の人だったなんて」
「こういうの、ムスビって言うのよね。二葉がよく言ってたわ」
人と人を繋ぐもの。時間や食べ物、土地にすら人間はムスビつけられている。そうやって人は生きている。網のように絡まったムスビで時に苦しくなる事もあるかもしれないけれど、私達はそんなムスビに生かされているとも言える。
神道には明確な教義というものがないけれど、強いて言えばムスビというのは宮水神社における「教え」と言えるのではないだろうか。
「あの、お母さんってどんな人でしたか? 私、お母さんの事、何も覚えてないんです」
「そっか、それで」
何かに納得したように和泉君のお母さんは目を細めた。
「あなたのお母さんね、とってもすごい人だったのよ。美人で頭が良くて頼りになって、糸守のお爺ちゃん達はもう神様を拝むくらいの気持ちで二葉に接してたかもね」
「そんな、大袈裟な」
「それが大袈裟じゃないと思わせるような事は何度もあってね、私もうっかり二葉の信者になりそうだった。まあ、普段の二葉は茶目っ気もあったし、うっすらおかしい人やなって思ってたけど」
くすり、と笑う。過去を思い出して、懐かしそうに頬を緩めている。
「何か、お姉ちゃんみたいな人」
「え?」
「私のお姉ちゃんも、そんな感じです。うっすらおかしいってお姉ちゃんの友達からも言われてましたし。それに美人なのも」
「そうか、そういえばお姉さんがいるんだったね。確か、三葉さんって名前だったかしら」
「知ってるんですか?」
「名前だけ、聞いた事があるのよ。あの時は、二葉に子どもができるなんてって驚いたものだけど」
「どうして、ですか?」
「だって、全然浮いた話がなかったもの。あの見た目で気立てがいいのに、身持ちが固くて大学の時はいったい何人の男が玉砕したかってくらい。なのに、結婚はかなり早かったから、話を聞いてびっくりしたわ」
それから、和泉君のお母さんは麦茶で唇を濡らした。
「あれから、二十年以上経つのか……早いなぁ」
しみじみと呟いた言葉は部屋の空気に溶けていく。
この人が私のお母さんと出会ったのは小学校の時だって言っていたから、三十年来の友人という事にはなるのだろう。私が生まれるよりもずっと前からお母さんを知っている人とこうして話をするのは不思議な感じがする。
お母さんが死んだのは、私が生まれてから数年後の事だった。免疫系の病気だったって聞くけれど、詳しい事は何も知らない。
私には物心ついた頃からお祖母ちゃんとお姉ちゃんしかいなかった。家庭というのは、女三人で構成されているもので、別の場所にお父さんがいるのは知っていて交流も多少はあったけれど一緒に暮らした記憶はない。
世間一般で言えば、私の家庭は崩壊していたのだろう。崩壊後の安定期からが私の記憶だ。お母さんもお父さんもいないけれど、話に聞く荒れたお父さんを知らないからか、あの家庭に疑問を持つ事もなかった。
それでも、生活の折々にお母さんの気配を私は感じていた。
記憶には残っていないけれど、私の存在そのものがお母さんを感じている。そう思う事が時々あった。そういうのは、多分お姉ちゃんを通しての事が多いのだけど。
和泉君のお母さんが語る宮水二葉像と私が抱く宮水二葉像はどうしてか重なるところが多かった。
「あ、そうだ」
そう言って、お母さんは突然立ち上がって隣の仏間に入った。ごそごそと物音がしたと思ったが、四角いファイルを持って出てきた。
「これ、多分、和泉があなたに持っていったのだと思うわ」
「え?」
私はファイルを受け取る。
薄いほとんど何も綴じていないのだとすぐに分かる紙ファイルだった。
開けてみると中にはビニールの袋が入っていた。
袋の中に入っていたのは、数枚のB5サイズのコピー用紙だった。
「あ、この写真」
それは糸守の写真だった。
コピー用紙一枚につき、二枚の写真が印刷されている。
今はもうない糸守の風景と楽しそうに微笑む私のお母さんの写真。これを見るのは、二回目なのだけど、初めて見た時よりもずっと、胸に来る。
「私が頼んでた写真、です」
「やっぱりね」
うっすらと和泉君のお母さんは笑った。
「和泉、前の日にいきなり糸守のアルバムをコピーするって言い出してね。糸守出身の友達に渡すって言ってたのよ。まさか、それが二葉の娘さんとは思わなかったけどね」
「……はい。ありがとう、ございます」
ここにはたくさんの見た事のないお母さんが写っている。これを、和泉君が用意してくれていたのだと思うと、それだけでこのファイルの価値は唯一無二のものとなる。とても重たくて、でも手放したくない大事な彼との繋がりなんだと思えるからだ。
「布団、用意しておくからちょっと待ってね」
「ありがとうございます。連絡もしないで押しかけてきたのに、よくしてもらって」
「いいのよ。私もね、嬉しかった。和泉の事、ちゃんと思ってくれる人がいたんだって安心できたの。ああ、本当に――――」
何かを言いかけて、でも口を噤んで笑みを浮かべる。泣きそうな笑顔だった。無理をして、何かを押し隠す仮面のようだ。
だけど、そこに踏み込む事はできなかった。きっと、それはしてはいけない事だと思ったから。
■
朝が来て目が覚める。
木目の見える天井が頭の上にあって、私は掛け布団を跳ね除けた。咄嗟に自分の体を確認し、そして落胆した。一気に目が覚めた後に湧き上がったのは強い失意だった。
まさか、本当に和泉君になっているなんて事があるわけじゃないのに、八日目にしてまだ期待している自分がいる。
立ち上がった私は客間から外に出る。太陽が顔を出してからそう時間が経っていないので、家の中はまだ涼しさを残している。ひやりとした床の心地よさを感じながら洗面所で顔を洗い、寝癖を整えて寝巻き用のジャージから外に出られる格好に着替えた。
箒で石段を掃く音がする。
玄関から顔を出し、太陽の眩しさに一瞬くらっとしてから、表に出た。
「おはようございます」
和泉君のお母さんの背中に声をかける。
驚いたように振り返ったお母さんは朗らかに笑った。
「早いのね、四葉ちゃん」
「はい。昔から、寝起きだけはいいんです」
「そうなの」
箒を動かす手を止めて、お母さんは石段を上がってきた。
「最近の和泉もね、時々早起きしてたのよ」
「……そうなんですか? 私、和泉君は朝に弱いって聞いてたので、意外です」
多分、それは和泉君の中に入っている私だろう。実際に、私は和泉君の体で早起きをしてお母さんを驚かせた事がある。うん、彼の体は睡眠を欲していたけれど、その眠気を気力でねじ伏せたのだ。それが、もう十日近く前の話になるのだ。
「和泉は朝に弱かったから六時台に起きてくるなんて、まずなかったんだけど、もしかしたら四葉ちゃんのおかげかもね」
「え?」
「あの子が影響されるとしたら、それくらいでしょう。だとしたら、ますます四葉ちゃんには感謝しないと」
「そんな、感謝なんて! 私、何もしてないし」
「そんな事ないわよ。私ね、和泉が高校に入ってからろくに口も利けなかったのよ。こんな田舎に引っ越しちゃって、いきなりだったからね喧嘩も、かなりしたのよ」
「知らなかった、です」
和泉君がお母さんと喧嘩をする姿が想像できない。面倒見が良くて、優しいお兄ちゃんといった感じだったのに。
「まあ、子どもの立場からすれば当然。ほんの数年の予定ではあるんだけど、その数年があなたとか和泉くらいの年齢では大きいものね。大人の事情に振り回されて、周りに何もないとこに引っ越すなんて、そうそう許せないでしょう」
「私、田舎育ちなので何とも。ああ、でも、確かに今から田舎に引越しですって言われたら、ちょっと嫌かもしれないですね」
「うん。ま、それであの子には寮生活を強いる事になったし、苦労もかけたのよ。だから、夏休みになって普通に話が出来たのは、ちょっと驚いたの。どうしたんだろうって。きっとあなたのおかげよ。ありがとうね」
「そんな」
お母さんの言葉に、私は何て答えたらいいのだろう。
私が入っていない和泉君とも仲良くやっていられたというのなら、ちょっと嬉しい。私が和泉君に多少なりとも影響を与えられたというのは、特別な事だと思えたからだ。
だけど、その和泉君はもういない。
私にとっても、お母さんにとっても今年の夏の和泉君は夢のような存在だったのだ。
「朝ごはんにしましょう。ちょっと、早い?」
「いえ、いつもこれくらいですから」
私は答えて、お母さんと一緒に家の中に戻った。
ユキ君とミキちゃんはまだ寝ている。起こすにはやっぱりまだ早いから、自然と二人で食事を摂る事になる。
向かい合って、パンを食べる。
「あ、美味しい」
クロワッサンの仄かな甘味に焼き立ての香ばしさが混ざり合って、私の口の中で蕩けるようだ。
「そう? ありがと」
「手作りですか?」
「うん、まあね」
「石窯があるんだって聞きましたけど」
「最近は使ってないの。気力がなくてね」
「……すみません」
失言に恐縮し、それからパンを千切って口の中に放り込む。
お母さんの口ぶりから推測すると、和泉君が亡くなってからは、あの石窯も使われていないという事だろう。
このままだと、きっとこれから先も使われない。そんな気がする。もったいないと思うのだけど、こればかりは当人の感情の問題だ。
あの石窯の前で食べたピザを私は思いだす。
楽しそうに笑っていたこの人は、あの時の私を和泉君だと思っている。あの日の楽しさがある限り、和泉君を失った悲しみと石窯がムスビついてしまうのかもしれない。悪いムスビがあの石窯から感じられてしまっては、もう使う気力も起きないだろう。
朝食を食べ終えて、食器洗いを手伝い、ユキ君とミキちゃんの朝食作りを手伝った。手伝ったといっても、お皿を出したり、テーブルを拭いたりしただけだけど、泊めてもらった手前少しでも手伝いたかったのだ。
ユキ君とミキちゃんが布団から抜け出して、ご飯を食べると朝の仕事が一段落する。
携帯ゲーム機で遊んでいる二人を横目に眺めていると、お母さんが声をかけてきた。
「四葉ちゃん、十時のバスで帰るんだったわね」
「はい」
私は頷いた。
今は九時を過ぎたくらい。そろそろ、この家を辞する時間が近付いていた。
「ちょっと、お願いがあるんだけど」
「あ、はい。何ですか?」
「これなんだけど」
お母さんが差し出してきたのは、赤い組紐だった。
色が褪せて、くすんでしまっている。ずいぶんと古い組紐だ。けど、この模様、形、織り方は間違いなく糸守のもの。それも、宮水神社のものではないか。
「これって……」
ピンと来た。
声が震えるのが分かる。
「私が糸守を出て上京する時、二葉から貰った組紐なの。どんなに離れていても、私達はムスビついているからね、何てカッコイイ事言ってね」
私はゆっくりと赤い組紐を受け取った。
とても綺麗だ。
隙間なく並んだ模様には一切の乱れがない。静かな心で、端整込めて作った作品なんだと一目で分かる。私だって、組紐作りを何回もやらされたのだ。この組紐を作るのに、どれだけの時間と労力が必要だったか実体験を通して理解できた。
「あなたが持ってて」
「でも、これ」
私の手をお母さんが握った。暖かい手の平が私の反論を封殺する。
「これは、あなたが持っているべき組紐よ。何となくだけど、私には分かる。ちょっと、見た目は悪くなっちゃったけど、頑丈さは変わってないはずよ。多分ね」
「多分って」
その言い回しに、私は思わず笑みを零した。
■
あなたに会えて、良かった。
そんな風に言ってもらえた事なんて、今までに一度もなかった。
バス停まで見送ってくれた和泉君のお母さんとユキ君、ミキちゃんの三人に私は一回ずつハグをした。そんな習慣が私にあったなんて驚きだったけれど、みんな私を受け入れて抱きとめてくれた。まあ、年下二人は困惑気味だったけれど。
バスに乗った後は、お姉ちゃんのいる新宿に帰るだけ。
それは作業に近い。
何も考えなくても、体は勝手に新宿まで運ばれていくだろう。
私の中で何かが終わった。
一つの区切りが付いたのだ。
和泉君の家に行って、結局線香の一つも上げる事はできなかったけれど、それでも私が今すべき事は全部終わった。
後は日常に戻って、残った夏休み課題をこなし、学校に通ってテストに向けて頑張るだけだ。
そうやって、日々を回して行けば良い。
いつの間にか家に着いていた。
お姉ちゃんは私の姿を見るなり、「心配させて!」と怒ってきた。一応、ラインで連絡は入れていたのだけど、私の様子がおかしかった事もあってかなり心配させてしまったみたいだ。
夕食を食べて、歯を磨いて、お風呂に入って、日常に戻ってきた私はソファに座り込む。なんだか、とても長い夢を見ていたみたいだ。体がずっしりと重くて、このままどこまでも沈んでいってしまいそう。
真横に倒れた私は手首に巻いた赤い組紐を眺めている。
私のお母さんが、和泉君のお母さんのために組んだという組紐は、二十年以上も前のものなのにしっかりとしていて、解れる気配を微塵も見せない。
これが、ムスビ。
ムスビとは何だろう。
誰かと自分が繋がっているという事。捻れて絡まり、戻っては進んでいく時の流れ、命そのもの。神様であり、運命であり、自然だ。どこにでもある繋がりそのものを指す言葉。
だったら、私のムスビはどこに行ってしまったの?
和泉君と私は特別にムスビついていたはずだ。体が入れ替わるなんてありえない形で出会ったからには、何か意味がなければおかしい。だっていうのに、突然、私と彼を結ぶ糸は断ち切られた。宙ぶらりんの思いを抱えた私は、どこにも繋がらない糸を持って佇んでいる。
和泉君は時間の流れに取り残されて、やがて私の記憶からも姿を消してしまう。このままだと、あんなにも鮮やかだった彼との想い出は時を重ねるうちに褪せていってしまうのかもしれない。私は時間に流されて、和泉君からどんどん遠ざかっていって、いつの間にかこの日々を何という事のない過去の一ページとして振り返る事になる。和泉君の死すらも、アルバムを見返して懐かしむようになるなんて、私は受け入れられない。
こんなにも強く、今を否定したいのに、凪いだ海原に取り残された帆船のように、私はただ流される事しかできない。どこにも辿り着けないまま、何も納得できないままに、時間が勝手に終わりを運んでくる。そんなの絶対に嫌なのに、どうする事もできないもどかしさが胸の中で渦巻いている。
何だ、結局何一つ解決なんてしていない。私は和泉君の事で、僅かたりとも納得したりはしなかった。そう言い聞かせて目を背けたかっただけだったのだ。
やっと、理解した。
私は大事なものを失くした。
その実感が心に押し寄せてきた。
初めてだった。
お母さんが死んだ事もお父さんが出て行った事も物心付く前の話で、故郷を失くしたといっても大事な人達はみんな無事だった。
私は、これまで大切な人を亡くした事が一度たりともなかったんだ。
涙が頬を伝って、組紐に落ちていく。糸の中に私の涙が吸い込まれて染みになる。ダメだ、止まらない。お姉ちゃんに見られるわけにはいかないのに、胸の苦しさが消えてくれない。こんなに苦しいのなら、ムスビなんていらなかった。どこにも繋がりたくなかった。この痛みを知らないままに、一生をコドクのままに終えたかった。
「四葉?」
リビングに入ってきたお姉ちゃんが私を見て驚いたように目を見開いた。
「あ、私。ちがう、これは」
ごしごしと目を拭う。
強く擦ったせいで目の周りがヒリヒリする。
喉が震えて、上手くしゃべれない。
私はこれから、何か言い訳をしないといけないのに。
お姉ちゃんは、そんな情緒不安定の私の隣にゆっくりと腰掛けた。ふわりとした、優しい空気が私の周りに溢れたような気がした。
「辛かったね、四葉」
お姉ちゃんが左手で私の肩を抱く。暖かい、お姉ちゃんの体温が私の心に平静さを取り戻させる。冷めて荒れた頭の中が、じっくりと暖められているみたいだった。
お姉ちゃんの右手が私の手首に触れる。組紐をなぞる。
「懐かしい組紐」
「お姉ちゃん?」
お姉ちゃんは優しげな顔で私の頭を撫でてくれる。すごく、落ち着く。このまま眠ってしまいたくなるような、そんな心地よさだった。
「もう少しだけ、頑張れる?」
「え?」
「物事はね、あるべきようなるものよ。自然なところに導いてくれるのもムスビ。あなたが今を変えたいと思うのなら、今は自然な状態じゃないんだと思うのなら、もうちょっとだけ頑張ってみなさい」
お姉ちゃんが私の髪を指で梳く。
それからぎゅっと私を抱きしめる。
どうしたんだろうという疑問はある。だけど、何も言葉にならなかった。
「大丈夫。千年も頑張ったんだもの。最後の宮水の我が侭くらい、神様だって聞いてくれるわ」
大丈夫。
何の理屈もない目茶苦茶な言葉が、どうしてかすっと、私の胸に届いた。
不思議なくらいすっぽりとお姉ちゃんの言葉は私の中に納まったのだ。疑問も何も湧き上がる余地がない。言葉の意味を考える前に、理屈を通り越した説得力で私を納得させてしまった。
昔から、お姉ちゃんには不思議な影響力があった。
だけど、これは――――、
「お姉ちゃん?」
「ん、何? てか、あんたあんなに泣いて、やっぱり今日は早く休みなさい。もう、ここ電気消す?」
そう言って、お姉ちゃんはすっくと立ち上がって、リビングの電気を消しに行ってしまう。
じゃあ、お休み。
お姉ちゃんはさっさと電気を消して、自分の部屋に戻ってしまった。
唐突過ぎるけれど、それもまたお姉ちゃんらしい。
暗くなったリビングに取り残された私はソファに横たわる。
お姉ちゃんの言葉の意味を私は考える。考えながら、瞼を閉じる。大丈夫だと、あの人は言った。なら、きっとまだ希望はある。それがどんな結末なのかは分からないけれど、どういう形で結論が出るのか想像も付かないけれど、悪いようにはならない。だから、私は頑張る。頑張って生きる。強く、そう誓った。