ガタガタと揺れる窓の音に目を覚ます。
窓から差し込む薄らとした人工の光が部屋の中をグレーに染める。夜の暗闇は東京にはほとんど存在せず、糸守や和泉君の住んでいた集落のような完全な闇というのは遮光カーテンでも用意しない限りは実現しないのだろう。この家のリビングは表から光が入りやすい。夜でも闇に慣れれば、細部まで見渡せるくらいに明るい部屋なのだ。
私はずっしりと重い体の上に、落ちかかっていたタオルケットを乗せなおす。ソファの肘掛に頭を押し付け、背凭れの根元に体を押し込むようにして目を瞑る。
あの報道を見てからの記憶が曖昧だ。何度も何度も和泉君に連絡を取ろうとした事だけは覚えている。電話は繋がらず、ラインは私が狂ったように送信したメッセージの履歴だけが縦に連なっている。既読は一つもついていない。
時折、強い風が吹きつけてきて窓を叩いた。雨音が強くなり、雷の音が遠く響く。けれど、その轟音すらも別の世界で鳴っているように聞こえてしまう。それくらいに私は虚実が入り混じった精神状態にあるみたいだ。
お姉ちゃんはすごく心配してくれて、私の好きにさせてくれた。一日、ソファを占領しても何も言わなかった。私の反応から、ニュースで取り上げられている男の子が私と関わりがあるというのを察したのだろう。事が事だけに、お姉ちゃんも私にどう声をかけたらいいのか分からず困惑している雰囲気が漂ってきていた。
気持ち悪くて、吐きそうだった。
なのに、トイレに行っても喉から出てくるのは、つっかえたような音だけで私の苦しさを助長するばかりだった。
窓の外は嵐みたいになっている。ビルの間を駆け抜ける風雨も空を照らす雷も、私の心を代弁するかのように唸り声を上げている。
ぎゅっと目を瞑って、私はタオルケットを頭まで被った。
完全な闇の中で私は眠りに付きたかった。
朝目が覚めたら、今日の報道は全部なかった事になっていて、約束の時間に現れなかった事を謝罪する電話が私のスマホにかかってくる。それで、私は和泉君にぶつくさと文句を言いながら、もう一度会える日を相談するのだ。
こんな冗談みたいな悪夢からさっさと抜け出して、いつもの日常に戻りたい。何なら、和泉君と入れ替わったっていい。彼の声が聞きたい。彼がそこにいるのだと感じたかった。
次の日も、その次の日もそうやって過ごした。
七日が過ぎ去る頃には、彼がいなくなった事実が私の中に染み込んでしまっていた。
入れ替わりは起こらない。
ラインの返信も来ない。
それを当然の事だと、私は考えられるようにはなっていた。
だって、まだ知り合って一ヶ月も経っていない。
入れ替わりを乗り切るために、互いの情報を共有していただけの間柄だった。特別なものは何もなかった。私は和泉君の顔を知っていても、彼の表情も仕草も趣味嗜好も何もかもを知らないのだ。
なのに――――、
『……東京駅前での通り魔殺人から今日で一週間。事件現場となった丸の内駅舎前に設けられた献花台には、今でも多くの人がこうして花を手向けに訪れています』
キリキリと胃が痛くなる。
食事をしている手を止めて、私は唇を噛んだ。
ほとんど赤の他人と変わらないはずの小滝和泉という男子高校生の話題が聞こえるたびに、私の半分が痛むのだ。まるで幻肢痛を感じているかのように、そこにはない半身を求めている。
お姉ちゃんが慌ててチャンネルを変える。その勢いで、ガチャンと食器が音を立てる。
「あ、お姉ちゃん。ごめん」
「ううん、気にしないで。同じ話題ばかりで気が滅入るわ、ほんとにね」
困ったようにお姉ちゃんが笑みを浮かべる。
いつも通りに私に笑いかけようとしてくれているのがアリアリと見て取れた。この人は嘘をつくのが昔から下手なのだ。
お姉ちゃんは私と和泉君の関係を知らない。
けど、ここまで顕著に反応してしまっていたらいい加減和泉君と私が知人であった事くらいは理解している。尋ねてくる事は一度もなかったけれど、かなり気を使わせてしまっている。
これじゃあ、ダメだ。
いつまでも、ソファの上で現実逃避をしているわけにもいかない。それでは何も変わらない。迷惑をかけるばかりだ。もう夏休みも終わりに近いというのに。
私はお姉ちゃんが用意してくれたトーストを勢いよく頬張った。休みなく口を動かして、一気に食べきってしまう。味はよく分からなかった。ただ胃の中にトーストを押し込んだだけの食事で朝を済ませた。
頭の上に太陽が輝いている。
真夏の太陽は憂鬱な私の気持ちをあざ笑うかのように猛烈な熱を地上に落としている。ビルの間を吹き抜ける風も熱を運んでくるだけで何の慰めにもなりはしない。
ため息すら、私にはつく元気がない。
久しぶりに青空を仰ぎ見た私は、そのまま目に付いた生花店に入った。こじんまりとした個人経営の店で、手頃な値段の花束を買って、ショルダーバッグに押し込んだ。四ッ谷駅から改札を通り、黙々と中央線に乗り込んで東京駅に向かった。
今の私できる事は彼の死を悼み、献花台に花を手向けて手を合わせる事だけだ。和泉君がきちんと天国に行けるように、送り出してあげなくてはいけない。小さい弟を逃がすために犯人の前に立ち塞がった勇気を称えて、お疲れ様だと一声かけてあげる。それが今の私にできる事なのだ。そうするのが、彼と最後に連絡を取り合った友人としての務めなのだ。
ガタガタと揺れる電車で私は何度も呟いた。
これが私の為すべき事。
ショルダーバッグの革の持ち手を強く握り締める。
出勤時間はすっかり過ぎているけれど、平日の昼間だからだろうか、満員電車とは言えないまでもかなりの人が車両には乗り込んでいた。人の数に酔いそうになりながら、私の体は十分くらいで東京駅に運び込まれた。
人の波に逆らわないように丸の内方面を目指す。
ここに来るのは本当に久しぶりだ。日本の中心的な駅だけれど、私は別に用がないからほとんど使った事がない。私の行動範囲は、新宿近辺が精々だからだ。
人とぶつかって花が潰れないようにショルダーバッグを庇いながら、丸の内駅舎から外に出た。
赤レンガの駅舎は何年か前に修復されたんだか、保存されたんだかでコンクリート製のビルが立ち並ぶ東京の街並とは異なる風情を醸し出している。
相変わらず、人の足音が響き渡る。
たくさんの人の賑わいの中の一画に、人波を遮らないよう配慮して設置された小さなテントがあった。献花台が設置されているのはそこだ。献花台の前には十人くらいの人だかりがあって、それが報道の関係者だという事は持っているカメラを見てすぐに分かった。取材されているのは、見た事もないおばさん二人組みで、涙ぐみながらインタビューに答えている。
あれじゃ、花を手向けられない。
テレビに映るなんて、いやだ。
あの人達がいなくなるまで、どこかで時間を潰そう。
ちょうど、記者達を遠巻きに見ている野次馬が何人かいるので私はこっそりその中に入って、献花台周辺の様子を窺った。
取材を受けているおばさんは涙を拭いながら顔を悲痛な形に歪めている。
「……私にも同じくらいの歳の息子がいるので、本当に辛くて」
とか、
「……弟さんを庇って亡くなられたんだって聞いて、なんて勇気のある子なんだろうって。本当にかわいそうです」
そんな事を言っている。
あのおばさんの声が聞こえてくるごとに、ふつふつと私の中に煮えたぎる感情があった。
何も知らない癖に、何を知ったような口を利いてるんだ……。
和泉君は別にそんな風に取り上げられるようなヒーローじゃない。どこにでもいる当たり前の事を当たり前にできる普通の男の子だったんだ。一言も和泉君と話した事のない赤の他人が、勝手に和泉君像を造り上げて本物の和泉君を塗り潰そうとしている。あのおばさんの発言も、きっと世間一般がこの事件に抱いた当たり前の感想なのだろうけれど、それでも私は――――あんな風に知ったかぶりをして同情している風を装う誰かが許せなかった。
そう、この気持ちはきっと怒りなんだ。
和泉君の命を奪った理不尽に対する怒り、和泉君の死を英雄的に祀り上げようとする世間に対する怒り、そんな世間の流れに同調していこうとする私自身に対する怒り。いろんなものへの憤りが、私の頭の中で綯い交ぜになった。
あそこに置いてある花束の数だけ、あのおばさんと同じような事を考えていた人がいる。和泉君が慕われているという事ではない。この事件を聞きつけて、勝手に同情心を掻き立てられた赤の他人が自己満足のために置いていったものでしかない。あれは和泉君のためのものじゃない。自分の感情を満足させるためのものだ。例え、真実がどうあれ、今の私にはそうとしか思えなかった。
そして、ここにある花束も同じだ。
私が私の気持ちを晴らすために買った。
和泉君のためになると言い訳をして、ここまで持ってきた物だ。
これを献花台に置いた時、私の夏は終わる。和泉君の姿で見た色鮮やかな景色も、彼とのラインのやり取りも、最後に聞いた彼の声も、私のこの気持ちも全部過去のものになってリセットされる。その他大勢の赤の他人の一人になって、夏休み前と同じように何事もない日常に戻れる。その確信があった。そうなるために、私はここまでやって来たんだ。
■
お姉ちゃんの家に戻った私は花束をゴミ箱に突っ込んで、洗濯を終えて畳んである私の服を手に取り、ビニール袋に詰め込んだ。
それからお姉ちゃんの部屋に置かせてもらっているスーツケースからも服を持ち出して、外出用に準備していたリュックに纏めて服を仕舞いこんだ。
財布をクロップドパンツの後ろポケットに入れて、スマホの充電状態を確認、コンセントから引っこ抜いた充電器をリュックに入れて、私は家を出た。
四ッ谷駅から東京駅に行って、今度は駅から外に出ないで新幹線のチケット購入した。アルバイトもしていない私にとってはかなり大きな出費だ。だけど、大丈夫。もともとお金の無駄遣いはしない性質だ。ここに来る前に郵便局で貯金をいくらか下ろしてきたし、これくらい何ともない。
和泉君の家があり、そして夏休み中、私自身が暮らした事もあるあの集落までの道のりをスマホが教えてくれる。
新幹線から電車を乗り継ぎ、バスに乗り換えよう。
東京駅の献花台なんかに、私の気持ちは渡せない。
どうして、こんなに執着するのか私も分からない。だけど、この気持ちは絶対に捨てて良いものじゃない。忘れてはいけないものなのだと思う。
他人にこんなに気持ちが揺さぶられるのは、生まれて初めての経験だ。
直接会って話をした事もないくせに、何を馬鹿な事をと思うけれど、仕方がない。だって、私と和泉君は経験を共有していたのだ。他の誰でもないあの人と私はムスビついていた。だから特別なのだ。だから、この体験を何という事のない日常に貶めたくなかった。たとえ終わるにしても、納得の出来る形で終わりたかった。悪夢だったと振り返りたくなかった。夢は覚めて、いつか消えてなくなるのだとしてもこんな消え方は許せなかった。
嘘みたいにあっさりと、新幹線は目的の駅に着いた。
東京と似たり寄ったりのでもどこか雰囲気の違うビル群が広がる地方都市の電車に乗り換えた。揺れる車内で、窓の外を眺めている。視界に映るビルが人家に変わる頃には、座席に座る事ができるくらいに人が減っていた。
まだ、揺れる。
一つひとつ駅名を確認し、乗り過ごさないように気を張り続ける。
後五つ。後四つ。後三つ。次の次だ。そうして私は辿り着く。日が傾きかけた夏の空はここでも澄んで青かった。
遅めの昼食を駅前の個人経営の売店で買って、バス停のベンチで食べた。
焦げ茶色の古い家屋が立ち並ぶ山間の町。ここからさらにバスで集落まで向かうのだ。
「あ、帰り」
どうしよう。
バスの時刻表を見て、次が最終だと気が付いた。私が向こうに付いた頃には帰りのバスがなくなっている。まあいい。行ってから考えよう。何なら野宿したって構わない。立ち止まっていられなかった。ほかに何かやるべき事があるにしても、何も思いつかない私は少しでも和泉君の近くに行きたかった。
時間通りにやって来たバスに乗って、私は集落を目指した。
キラキラとした清流の傍を上流に向かってバスは走っている。山の緑に囲まれた自然豊かな景色は、かつての糸守を思わせる。糸守以上の限界集落は伊達じゃないなと心の中で笑みを浮かべる。日本中のどこにも広がっているだろう景色だ。どこもさして変わりはないだろう。だけど、私にとっての特別はきっとここにあるのだ。この先の景色の彩りを私は何度もこの彼の目を通して見てきたのだ。ありふれた、だけどとても綺麗な景色だった。
私は膝の上に置いたリュックを抱きかかえ、窓の外に再び目を向ける。
もうすぐ、そこに辿り着く。
そして、後はあの家を目指して歩くだけだ。
「あれ……」
何だろう。
何かが抜けている。
そうだ。
そもそも「そこ」とか「あの家」とか、いったいどこの事を言っているのだろう。