君の名は。 四葉アフター《完結》   作:山中 一

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第一話

 あの日。

 星が降った、あの夜。

 千二百年に一度の天体ショーが一転して惨劇を呼び起こしたあの時の事を時折夢に見る。

 空に棚引くエメラルド色の彗星とその周囲を流れるいくつもの流星に、幼い私は目を奪われた。こんな景色はもう二度と見る事はないのだろう。漠然と子ども心にそう思った。やがて、大きな彗星が二つに割れた。片割れはぐんぐんと高度を下げて、まさかと思った次の瞬間に湖の対岸――――私達の実家があった場所を目掛けて落下したのだ。

 ティアマト彗星の核が砕けるのを、誰も事前に予測できなかった。その欠片が天文学的確率を引き当てて、糸守町に落ちるなど世界の誰も予想だにしなかっただろう。

 降った星は一瞬にして周囲一帯を消し飛ばし、焼き払い、家も小学校も神社も私が暮らした場所を根こそぎ、地形ごと奪い去ってしまった。轟音と爆風が駆け抜け、大気が絶叫した後、私に――――私達に残ったのは命だけだった。

 本当にいろんな事が、あの後にあった。

 何せ家はないし、学校もない。糸守町は大半が壊滅していて行政機能は無に等しく、一年も経たずして行政単位としての糸守町は姿を消した。

 これからどうなるんだろうという不安はあった。避難所で何日も過ごし、先の見えない日々に嫌気が差した事も一度や二度ではない。

 けれど、私は生きていた。人的被害が皆無だったわけではないけれど、私の知り合いで命を失った人はいない。故郷を失った悲しみはあったけれど、取り返しの付かない被害じゃなかったと子どもの私は楽観していたのだ。

 案の定、私達はそう時を待たずして新たな生活を始めた。移住先の東京で、それまでとは全然違う景色と人に囲まれながら、慌しい生活を送る事になった。一年、二年と時を重ねるごとに糸守町の記憶は薄らいで、日常の中に埋没していく。

 それでも、目に焼きついている光景がある。

 耳に残った声がある。

 あの日。

 彗星が落ちた直後。家も仕事も何もかもを失い、絶句する人達の中でただ一人嗚咽を漏らして涙する姉。

 何故か手の平を見つめながら、姉はずっと涙を流していた。

 何と声をかけたらいいのか分からない私を、姉は力いっぱい抱きしめて泣いた。

 どうして、こんなに涙しているのだろうか。どうして、こんなに悲しそうなのだろうか。

「失くした。失くしちゃったよ。ここにあったのに……。さっきまで、確かにあったのに……!」

 うわ言のように姉は繰り返していた。

 私は何も言葉をかけられなかった。余計な事をすれば、海辺の砂山のようにあっさりと姉が崩れてしまうような気がして、私は結局姉に何もしてあげる事ができないまま、彼女の慟哭を聞き続けた。

 

 

 

 

 PIPI PIPI PIPI

 

 無機質なアラームの音に目を覚ます。

 身体を起こして眠たい眼を開けると、カーテンの隙間から流れ込む朝の光が網膜に突き刺さって涙が出てきた。

「まぶし……」

 私は気だるい体を引き摺ってベッドから下りる。

 ベッドの上にはまだ夢の中のお姉ちゃんが残される。

 スマホのアラームは無意識のうちに切っていたみたいだ。いつもの事。平日は六時三十分に起きる事にしているのだ――――学校の有無に関わらず。

 私はカーテンを開けて、ガラス戸を開ける。ベランダを通って入ってくる風は、朝方のくせにやけに暑い。

「うわ、今日も暑くなりそう」

 七月二十一日。

 東京で迎えた高校最初の夏休み初日を、私は大きく深呼吸して始めたのだった。

 

 

「ふんふんふーん」

 パチパチと油の弾ける音。

 鼻腔をくすぐる香ばしいベーコンの匂いが脳に活力を与える。

 お姉ちゃんが高校を卒業して一人暮らしを始めてから、ご飯を作るのは専ら私の仕事になった。お父さんは昔から別居していたし、お祖母ちゃんは今は老人ホームで生活中だ。つまり、私も一人暮らしをしている状態なのだが、寂しくはない。お姉ちゃんとラインのやり取りはしてるし、お父さんも仕事の合間に家に顔を出してくれる。まだ、お姉ちゃんとはギクシャクしているけれど、昔ほど険悪ではないみたいだ。

 焼いたベーコンと目玉焼き。そしてトースト。オーソドックスな朝の食事を二人前用意した。

 薄らと湯気の立つ熱々のトーストをテーブルに置き、ついでに夕食の残りの味噌汁を温めなおしてその隣に配置、麦茶と箸を持ってきて朝の支度は完了する。さて、後は……、

 ドアの前に立って、私はちょっと強めに三回ノックする。応答なし。仕方ないのでドアを開けて中を覗き込むと、髪をぼさぼさにした姉がぼけっとした顔でこっちを見ていた。

「ご、は、ん、できてるよ。早く来ない」

 言って、私はドアを閉めた。

 ここはお姉ちゃんが暮らすマンションの一室だ。私は夏休みの間、ここに居候する事になっている。家族ができるだけ一緒にいたほうがいいとお父さんやお姉ちゃんが思ったのかもしれない。お姉ちゃんが一人暮らしを始めてから、毎年長期休業の度に私はお姉ちゃんの部屋に転がり込んでいた。それも、きっと来年が最後になるんだろう。再来年には受験生になっているはずで、夏休みに遊んではいられないんじゃないかと思う。

 私は椅子に座ってトーストの耳を齧りながら、テレビを眺める。天気予報によれば、しばらくの間快晴が続くらしい。勘弁して欲しい。私が外に出ない日くらいは雨が降ってもいいんじゃないだろうか。熱いし。夏だし。

「うあー、おはよう四葉……」

「お姉ちゃんだらしないよ、髪、ぼっさぼさじゃん」

「今日休日や……いや、ほんと社会人の休日は大事なんよ」

 とてとてとやって来たお姉ちゃんは、私の前にゆっくりと腰を下ろした。

 私のお姉ちゃん。

 八つ年上で、社会人一年目の二十三歳。名前は宮水三葉。休日は心底だらしない姉だけれど、普段はきちんとスーツを着て仕事に行っている。

 お姉ちゃんは黙々とトーストを齧っている。

 昨日は大体九時くらいに帰ってきたっけ。お風呂に入って夕ご飯を食べて、そのままベッドに吸い込まれるように倒れこんだのだ。

「ねえ、お姉ちゃん」

「ん?」

「やっぱ、仕事って大変?」

 問われたお姉ちゃんは「ん?」とまた首を傾げてから、小さく笑みを浮かべた。

「まあまあ。人それぞれじゃない? 私は、今の仕事好きでやっとるよ。好きだから、大変でも何とかなるかな」

「へえ」

 何となく聞いてみただけなので、特にそれ以上この話題を繰り返す必要もない。

「あ、そうだ四葉。あんた、オープンキャンパスいつだったっけ?」

「えー、明後日に半日あるのが一番近いかな」

「明後日ね」

「何?」

「ううん、何でも。懐かしくなってさ。オープンキャンパス。私も高校の頃はよく行った。県内のヤツだけだけど」

「よくじゃないじゃん。というか、年に一回あるかどうかでしょ、それじゃあ」

 呆れながら私は言う。

 まあ、うちは元々ど田舎だったのだ。同級生の中には、当然家業を継ぐ人もいただろうし、進学ばかりに力を入れる学校でもなかったはずだ。

 尤も、お姉ちゃんが地元の高校に通えたのは二年生の秋までだ

 彗星の欠片で私達の故郷はなくなってしまった。お姉ちゃんは当時高校二年生だったから、転校してすぐに受験勉強に励む事になったと思う。家の事もあり、中々自由に時間を使えなかったんじゃないだろうか。

 さすがに六年も経てば、記憶の大半は薄らと消えてなくなってしまう。彗星に破壊されつくした町に唖然とした事も、生き延びられたのだという安堵も、何故か誰よりも嗚咽を漏らし涙を溢れさせていたお姉ちゃんの姿も、漠然とした記憶の海の中に紛れていってしまった。そういえば、そんな事もあったなと、何という事もなく思い返す事ができるくらいの時間を重ねてしまったのだろう。それとも、故郷を失ったショックから記憶に蓋をしてしまったのだろうか。

 トーストをまた一口食べてから、適当にテレビのリモコンを操作する。代わる代わる、朝の情報番組が入れ代わる。

「お」

 私の指が止まる。

 テレビに映し出されたのは、ひょうたん型の湖の写真。糸守湖と六年前の隕石によって生まれた新糸守湖の写真だった。

『あの隕石落下から六年。旧糸守町の今を探ります……』

 レポーターのお姉さんが厳粛な面持ちでそんな事を言う。

 ああ、まただ。

 こういう話題になると必ずと言っていいほどお父さんの写真が出てくる。

 隕石落下地点から湖を挟んで反対側の高校を避難所とし、落下投じる被害範囲の町民の大部分を生存させる事に成功した奇跡の町長として、彼は時折テレビに取り上げられるのだ。

 今なら昔のお姉ちゃんの気持ちも何となく分かる。

 実の父が全国放送で紹介されるなど、恥ずかしいにも程がある。うん、もちろん誇らしい気持ちもあるけれど、それを表に出せるほど私は無邪気ではないのだ。

「あ、懐かしい」

 テレビに映し出される光景は惨劇が起こったあの時のまま。今、テレビカメラがあるのは高台にある高校のグラウンドで、そこは糸守町を一望できる場所にある。町民が避難した場所という事もあり、まあ確かに取材するにはうってつけの場所だろうなと思う。

「ねえ、お姉ちゃん」

 声をかけても、答えはない。

 目の前に座るお姉ちゃんは、食事の手を止めてテレビを眺めている。そう、眺めているだけだ。私の声が聞こえていないだけじゃなくて、テレビの音も届いていないのだろう。

「お姉ちゃんってば」

「え、あ、何?」

「もう、寝ぼけてるの? さっきから声、かけてるんだけど」

「え、ゴメン。聞こえんかった」

「その歳で耳が遠くなったの?」

「ちょ、その言い方ないんじゃない? ちょっとぼうっとしてただけでしょ」

 心外だ、とばかりにお姉ちゃんは反論してくる。

 ちょっと、じゃないんだよな。しょっちゅうなのだ。昔に比べて頻度は大分減っているけれど、お姉ちゃんは時々、ああして意識をどこか遠くに飛ばしている。

 まるで、そこにはない何かを探しているように。

 私はトーストの最後の一欠けらを口に押し込み咀嚼して、飲みこんだ。

「もう、早く食べちゃってよ」

「はーい、あ、そのままにしといていいよ。私が後はやっておくから」

 お姉ちゃんの言葉に甘えて席を立った私は、間借りしている部屋に向かう。

 ドアを開けて中に入ると、お姉ちゃんの色に染まった部屋が視界いっぱいに広がる。

 好きなバンドのポスターが張ってある壁、どこかのゆるキャラのぬいぐるみが置かれた飾り棚、小説や漫画、エクセルやワードの基礎テキストが押し込まれた書棚はどこにでもある平均的な女子の部屋を演出している。特徴があるとすれば、窓際にどかんと置かれた枝ぶりの見事な金のなる木が異彩を放っているくらいだろうか。何でも、大学生の時に貰ったのだそうだが、そのまま巨大化を続けているらしい。

 お姉ちゃんはこういうところは几帳面だから、世話をきちんとしているのだろう。書棚の中にも、園芸の本が何冊か入っているようだし。

「漫画も結構充実してるんやね」

 方向性がまったく定まっていない買い方をしているなとは思う。きっと、その時の気分や流行に合わせて勢いで買っているのだろう。

 故郷には本屋すらなかった。

 東京に出てから、こうした嗜好品に触れる機会が増えたのは私も同じだ。だから、買い漁りたくなる気持ちは否定しない。

「社会人かー。お金があるっていいなー」

 私のお小遣いは月に五千円。バイトを始めるまでの期間限定だ。服とか買ってたら、五千円なんてあっという間になくなってしまう。

 私は少年漫画の最新刊を取り出して、机の上に置いた。それから、持ってきたカバンからノートと数学の副教材、それから夏休み課題の一覧表を取り出した。

「いんすうぶんかいやる気起きんな」

 名前を見るだけでうんざりする。

 副教材のテキスト十ページばかりが出題範囲だ。夏休みが終われば、即日課題テストが待っている。学校の先輩によれば、夏休みの課題テストなんて出題範囲の問題を暗記していればそのまま出るらしいが、だからといって苦手な数学に進んで取り組みたくはない。――――だからこそ、夏休みの初日から一気呵成に攻め立てて、できれば一週間もかけずに課題を終えてしまいたかったのだ。

 朝から取り組むのも、夏を大いに楽しむため。まだ活動する必要のない朝方にその日のノルマを終えてしまおうという算段だった。

 ノートを開き、白紙のページを探し出す。

「ん?」

 あれ、何か妙な……。

 私はふとページをめくる手を止める。

 使用済みページの大半は赤青黄色の三色のマーカーが多分に使われた明るい見た目。しかし、後半の三ページは妙に角ばった汚い字で数式が書き連ねてあるだけだ。色は赤と黒しかなく、赤色は丸付けに使うボールペンだけだ。その丸付けも結構雑にやっている。

「あれ、私こんな問題やったっけ……」

 思わずノートの表紙を確認してしまう。そこには、確かに宮水四葉の名前が書いてある。つまり、私のノートで間違いない。

 けれど、ノートに書かれた字は明らかに私の筆跡ではなかった。へたくそな字やなぁ、と感想を心の中で漏らす。

 誰か間違って私のノートで計算したのだろうか。

「誰かって誰よ」

 少なくとも昨日この家にやってきてから私はノートを開いていない。となれば、ここに来る前にこのノートは使われたという事だろうがそれもまた可笑しな話だ。私の課題用ノートを誰が勝手に使うというのか。悪戯をするならばまだしも、夏休み課題の一部を解くようなまねをする意味が分からない。

「んんぅ?」

 まあ、解く問題が減ったのはありがたいけれど。

 いや、どう見ても私の字じゃないから、このまま提出するのまずいよなぁ、とも思う。

 私はしばらくの間、このノートの続きから課題を進めるか、それともノートを新しくするかで悩むのだった。

 


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