時間遡行の魔弾の王 作:無貌の王
城砦から二ベルスタ以上は離れた雑草も疎らにしか生えない荒野にて二人の男が対峙していた。
荒れ果てた大地に仁王立つ黒い甲冑。元の体格も相まって巨人と見紛う威圧を纏い、宝剣デュランダルを携えているのは黒騎士ロラン。常勝不敗の騎士であり、ブリューヌ王国に並び立つ者なしと謳われる実力者だ。
相対するは革製の防具を着込んだ少年。ティグルヴルムド=ヴォルン、十二歳。左手に漆黒の弓を構え、右手に矢を一本を持って佇む姿に緊張や焦燥の類は見受けられない。黒い瞳には凪いだ湖面のような静けさがある。
二人から少し離れた位置から、ロランの副官たるオリビエとティグルの付き人であるティッタが見守っている。二人は今回の決闘の見届け人だ。
此度の決闘の内容は単純明快。ティグルが射た矢をロランが叩き落とす。矢が叩き落とされればロランの勝利。矢を叩き落とせず、または躱してしまった場合はティグルの勝ちだ。
これだけ聞くとティグルに有利な条件に思えるが、そんなことはない。相手は黒騎士ロラン。かつての世界で遥か彼方より射放たれた矢を軽々と斬り落とし、超常の能力を有する
両者の間合いはそう離れていない。声を張ればお互いの言葉が届く程度の距離だ。騎士と少年はその場から微動たりとせず互いの一挙一動に注目していた。
不意に、黒騎士ロランが声を上げた。
「正直に言って、驚いている。ティグルヴルムド卿は決して無謀な行いに走るような真似はしないと思っていた」
名を覚えると言ったからか、ロランは長く仰々しいティグルの名をきちんと呼んだ。義理堅く、筋は通すのが彼の主義なのだろう。
ティグルは吹き荒ぶ風を全身で感じながら答える。
「無謀かどうかはやってみなければ分からないでしょう。それよりも私としては、ロラン殿が決闘の申し込みを了承してくださったことの方が驚きですよ」
「貴殿の弓の技量には興味があったのでな。正当な評価が下されないブリューヌにおいて、四百アルシン先を狙い撃つ弓使いの実力。この目で確かめておきたかったのだ」
「ご期待に沿えるよう全力を尽くしますよ」
世辞ではない、一人の武人からの弓への評価にティグルは内心喜んだ。いくら慣れているとはいえ、それでもきちんと弓の技量を認めてもらえるのは嬉しいことだから。
心なし気分を弾ませながらも、ティグルは全神経を集中させて矢を番え、力の限り弓弦を引き絞る。キリキリと耳元近くにまで引っ張られた弦が張り詰めた音を発した。
ロランが長大な刀身を誇るデュランダルを両手で掲げる。そこから振り下ろす一撃は大地を割り、たかが一本の矢など抵抗もなく砕いてしまうだろう。
決闘の様子を離れた場所から見守るオリビエとティッタが固唾を呑む。オリビエはロランの勝利を疑っていないが、相手が怪物といっても過言ではない弓の腕前を持つことが気にかかって仕方ない。ティッタは勝ち負けなど二の次でティグルの無事を只管に願っていた。
二人の見届け人に見守られる中、ティグルは更に右腕を引く。弓全体が大きく湾曲し、軋みの音を上げる。普通の弓であったならこの時点で弓自体が折れるか弓弦が切れているだろう。
ティグルが握る弓はただの弓ではない。初代ヴォルン伯爵が女神より賜りし家宝であり、神器。魔弾を撃つことを可能とする超常の武器なのだ。ちょっとやそっとで壊れるなんてことはあり得ない。
故に弓に限界はない。あるのは肉体の限界のみ。そしてティグルはある要因から人の力の限界を超越している。そのために未だ成長し切っていない子供の肉体でありながらも四百アルシンという飛距離を叩き出せるのだ。
今出せる力の限界まで弓を引き切ったところでティグルは一度呼吸を整えた。
かつての世界で、ティグルは黒騎士ロランを打ち破った。しかしその時は弓の力と二人の戦姫の力があってこその勝利だ。普通に矢を射かけてロランに当てるなんてことは恐らく無理である。
だが今回の決闘において、ティグルは魔弾を撃つつもりはない。オリビエやティッタが側にいるからというのもあるが、純粋に弓の技量で黒騎士ロランに実力を示したいからだ。
謂わばこれはロランの矜持とティグルの意地のぶつかり合いだ。そこに超常の力が介在する余地はない。
弓弦を引く手が震えそうになるのを歯を食いしばって堪え、その一瞬を虎視眈々と待つ。矢は一本でチャンスもたった一度きり。失敗は許されない。
刹那、視界の端で砂煙が舞い上がった。
──ここだ!!
次の瞬間、バシン! と凄まじい音が響くと同時に矢が解き放たれる。極限まで引き絞られた弓弦の張力によって飛ぶ矢は大気を引き裂き、目にも留まらぬ速さで黒騎士に迫る。常人であれば反応すら儘ならなずに鎧ごと貫かれる矢速だろう。
しかし相対するは王国最強の騎士ロラン。微塵の動揺も見せず、彼は大上段から大気と大地諸共に叩き斬る気迫でデュランダルを振り下ろした。
大地が揺れるほどの衝撃と轟音。ロランが振り下ろした大剣の一撃によって地面の一部が弾け飛ぶ。たった一度の斬撃で両者の間に横たわっていた荒野は見るも無残な穴ぼこだらけとなってしまっていた。
直後、カァン! と甲高い金属音が鳴り響く。大剣の一振りにて大地を文字通り砕いたロランの側に、くるくると回転しながら一本の矢が突き刺さった。
誰一人として言葉を発さない沈黙が流れる。
ロランとティグルは余韻を噛みしめるように微かに俯いている。見届け人であるオリビエとティッタはロランの尋常ならざる一撃を目の当たりにして混乱と戦慄の坩堝に陥っていた。二人とも勝負の結果は理解していない。
三十数えるほどの時間が過ぎたところで、ロランが口を開いた。
「──俺の、負けか……」
「そして、私の勝ちだ……」
互いに己の勝敗を申告する騎士と弓使い。その表情は清々しい、どこか晴れやかな笑みに彩られていた。
「どういうことだ、ロラン。俺にはお前が負けたようには見えなかったぞ?」
決着がついたと判断して側に近づいてきたオリビエが疑問をぶつける。彼自身、あの一瞬で勝負の行方がどうなったかを把握できていない。だから自分の上司であり、王国最強の騎士が負けを認めたのが信じられなかった。
ロランは少し戸惑ったような表情になって言う。
「実を言うと、俺自身完全に理解できたわけではない。ただ何が起きたかありのまま言葉にするならば、矢が剣を避けたとしか言えん」
「矢が避けただって? そんな馬鹿なことあるか……」
オリビエはいっそ笑い飛ばしてやりたかったが、ロランの真剣な眼差しに二の句を呑み込んだ。
ロランは嘘を言っていない。それは戦場で共に轡を並べて戦ってきたから分かる。だからといって彼の言葉を簡単に鵜呑みにもできなかった。
「まあ分からん以上は仕方ない。本人に訊けばいい話だ」
ロランの目が苦笑しながら肩を竦めるティグルを捉える。傍に我が事のように喜ぶ侍女を引き連れる弓使いは、どうやら話している内容が聞こえていたらしい。
「別段、呪いやイカサマの類は使っていませんよ」
「無論、そのような妖術を使ったなどとは言わん。それを承知の上で、何をしたのか、教えてはくれないか」
「分かりました」
己の手札を晒すような行為であるのだが、ティグルは躊躇うことなく何をしたのか種明かしを始めた──
あの一瞬の間に、ティグルは矢に三つの変化が生じるようにした。
一つに矢の角度。ロランの正中線に対してほんの僅かに斜めに入射するようにした。そうすることで肉厚なデュランダルの剣身に真芯を捉えられることを避けたのだ。
一つに弓弦を限界まで引いたこと。両者の間合いは声が届くほどの距離しかなかった。その程度の距離であれば限界一杯まで引き絞る必要はなかったのだが、ティグルはそこを敢えて四百アルシン先を射抜くくらいの加減で弓弦を引いた。その結果、尋常ならざる張力をもってして撃ち放たれた矢はロランの手元で激しくぶれたのだ。これによってロランは矢との距離感覚を見誤る。
一つに横殴りの風。ティグルは全身の感覚を研ぎ澄ませて荒野を吹き荒れる規則性のない風を確かに読み、ロランの剣と接触する直前に矢がほんの少しだけ横に流れるようにしたのだ。
これら三つの要因が完璧に揃ったことで、矢はロランの振り下ろした豪剣を逃れ、殆ど勢いを失いながらもその鏃を甲冑に届かせたのだった。
「──以上が、矢が剣を避けた絡繰です」
殊更誇るようなこともなく、ティグルは淡々と種明かしを終えた。
もはや人間技とは思えない芸当を何てことのないように語るティグルに、ロランとオリビエは戦慄していた。目の前の少年は自分がどれだけ常識を逸脱したことを口にしているのか理解しているのだろうか。
同時に二人は考える。この少年は未だ発展途上だ。身体はこれから大きく成長するだろうし、性格的に弓の技術にもさらなる成長を望むだろう。そんな少年が大人になって、領民を守るために戦場に立ったらどうなるか。
──敵対だけはしたくないな……。
今回の勝負はあくまで決闘で、命懸けの戦ではなかった。実戦においてどうなるかは分からないが、同じ手を食うような愚行は犯さない。それでも絶対に勝てるとは、ロランは断言できそうになかった。
オリビエも似たような想いに至ったのか、若干蒼い顔をロランに向ける。戦場で指揮を執る経験のある人間だからこそ、ティグルの恐ろしさを真に感じているのだ。
怪物の領域に足を踏み込んでいる弓の技量。もやは認めないわけにいかないだろう。
ロランはデュランダルを鞘に納めるとティグルの正面に立つ。二人の間にはかなりの身長差があるため、ロランは見下ろしティグルが見上げる格好となる。だが両者が互いを見る目は対等の相手に向けられるものであった。
「ティグルヴルムド卿。貴殿の想いと覚悟、それに見合う実力、確と見せてもらった。城砦での言葉は撤回させていただく。その上で貴殿に問う。俺に何を望む」
「遠からず起こる内乱の際、王国に巣食う膿を排斥するのに力を貸していただきたい」
「それだけか?」
ロランとしてはもっと個人的に力を貸してほしいなどという要求がくると予想していた。しかしティグルは緩やかに首を横に振る。
「あなた方はあくまで国王陛下の剣だ。我がアルサスの領地を守るのは私の役目。そこでロラン殿の力を借りることはありません」
あくまでロランの力を借りるのはテナルディエとガヌロンと戦う時だけ。それ以外で騎士の力を借りるのは問題であるし、何より己を認めてくれたロランに対する不誠実になってしまう。ティグルは味方こそ求めているが、強大な力を求めているわけではない。むしろ力に関しては間に合っている。
「それともう一つ。詳しい事情は話せませんが、ガヌロンに気をつけてほしい。あの男はロラン殿を、厳密には宝剣デュランダルを狙っている。それこそ隙あらば非道な手段だろうと躊躇うことなく弄してくるほどに」
かつての世界で、持ち主を失った宝剣デュランダルは盗まれた。ブリューヌ王国は盗んだ下手人を突き止め、デュランダルを取り返そうとしたものの尽力の甲斐はなかった。
しかしティグルは変わり果てた世界で宝剣デュランダルを操るガヌロンと対峙した。そこからデュランダル盗難の犯人がガヌロンであると確信したのだ。
ティグルの警告にロランは微かに驚きの感情を洩らすが、即座に引き締め直す。重々しく頷きを返し、忠告を受け入れた。
「情報源は気になるが、念頭に置いておこう」
「それだけで十分です」
油断さえしなければ余程のことがない限り、ロランがガヌロンの奸計に嵌ることはない。それにもしも危ない事態に陥りそうならば、自分が介入すればいいだけの話だ。
これでティグルがロランを訪問した目的は無事達せられた。城砦に矢を撃ち込んだり、ロランに一対一の決闘を申し込んだりと波乱に満ちた一日になったが、満足いく結果は出せただろう。
目的を達した以上、ここに居座る理由はもうない。それを察してかロランが尋ねてくる。
「これからどうなさるか」
「ここへは寄り道みたいなものでしたから。ブリューヌ王国内はもう見て回ったので、次は他の国を回りたいと思います」
「俺を寄り道扱いか」
王国最強の騎士を寄り道感覚で訪問するとは、冗談と分かっていてもやはりこの少年の胆力は並外れている。だがロランは気分を害することもなく、むしろティグルとこうして邂逅できたことを喜ばしく思えた。オリビエとティッタは恐れを知らないティグルの発言に唖然呆然としていたが。
「ならばザクスタンに向かうのは止めておけ。そろそろ連中がこちらへ侵攻をかけてくる時期だからな。アスヴァールも、行くのはいいが帰りに手間取るかもしれん」
「となると残るはムオジネルとジスタートですか……」
ムオジネルはブリューヌの南に、ジスタートは東に位置する国だ。ブリューヌとの関係性と両国の気風を鑑みて選ぶとすれば、ムオジネルよりジスタートの方がいいだろう。何せムオジネルはザクスタンと同等以上にブリューヌの肥沃な大地を狙っているのだから。
その旨を告げれば、ロランも納得してジスタートを勧めてくれた。
「それでは、私はジスタートへ向かいます」
「性急だな。なんであれば今日は城砦に一泊できるよう取り計らっても構わんぞ」
「魅力的な提案ですが、遠慮させていただきます。騎士団に一貴族との繋がりがあるだのと疑われては事でしょう」
ロランの気遣いをやんわりと断り、ティグルはロランとオリビエに別れの挨拶を告げる。そしてそのままティッタを引き連れて荒野を去っていった。
そして向かうはジスタート。七戦姫と国王が治める黒竜の王国へ、ティグルは歩みを進めた。