時間遡行の魔弾の王   作:無貌の王

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もしもティグルが魔物の陰謀を防ぐことができなかった場合のifの物語です。気が向いたら書く感じです。


プロローグ

 果てしなく続く紫の大地を一人の若者が歩いていた。

 緑芽吹き、風が吹き抜け、優しい陽の光が降り注ぐ世界はもうない。あるのは魔性の物が跋扈する異世界。

 人間はみな死に絶え、残すは若者ただ一人。くすんだ赤髪を汚染された風に靡かせ、茫洋とした黒瞳で黒と赤の丸が浮かぶ空を仰ぎ見る。その顔に貼りつく感情は絶望、後悔、憤怒──

 ありとあらゆる負の感情を捏ねくりまわし、固めて、伸ばし、貼り付けたような表情。彼をよく知る者が見れば別人と間違えても致し方ないだろう。

 その大切な者たちも、変遷した世界に異物として排除されてしまった。もう二度と、彼ら彼女らと言葉をかわすことも、触れ合うことも、笑い合うことも叶わない。

 若者が未だこの変わり果てた世界に留まれているのは偏に彼が『弓』の遣い手であるがため。女神の代行者であり、世界を変遷させた『魔』に通ずる力を持つ彼だけは世界に適応してしまったのだ。

 無論、それは彼にとって微塵も喜ばしくもない。むしろ『魔』に侵された世界を眼前に突きつけられ、より一層の絶望と無力感にその身を苛まれている。

 

 ──何も守れなかった……。大切な人も、アルサスのみんなも、ブリューヌの民も、共に肩を並べた戦友も、愛した女性の一人として……。

 

 あまりにも無力だった。全てを失った若者に残されたものは漆黒の弓だけ。彼をこの地獄へと誘った女神が与えた神器のみだ。

 亡霊のように当てもなく彷徨う若者は、やがて陸地の終わりに辿り着く。

 潮の匂いを漂わせて波が引いては寄せ、幾隻もの船が浮かび、港では船乗りたちが忙しなく動き回っていただろう場所。しかし今は全て朽ち果て、美しい紺碧の海原は見るに堪えない原色緑に染まっている。吐き気を催す不快な臭いが立ち込め、かつての光景の面影は何処にもなかった。

 海も陸も空も、全てが『魔』に侵されてしまった世界で一人、若者は悲嘆に暮れる。涙は枯れ果てた。憤りも萎え尽きた。希望は、何処にもありはしない。

 このまま守れなかった世界を突きつけられながら死んでいくのだろうか。それはあまりにも残酷で、到底耐えられるものではない。

 だがこれが己に与えられた罰となるのならば、甘んじて受け入れる他ないのかもしれない。贖罪はもう二度と叶わないのだ。せめて罰くらいは課されなければ、先立った者たちに申し訳が立たなかった。

 緑の海をぼんやりと見つめたのち、若者は踵を返した。

 当てはやはりない。ただ目的もなく彷徨い歩くだけだ。

 何日歩いたのか、若者にも分からない。中天には太陽と月だった何かが常に揺蕩い続けている。時間感覚なんてものはとうの昔に麻痺していた。

 やがて若者は一つの神殿に辿り着く。材質不明の真っ黒な石造りの神殿だ。外観はそこそこに整えられており、建造されてから然程時間が経っていないと言われても納得できる。

 紫の大地に聳え立つ場違いともいえる神殿の存在に、しかし若者は驚くこともない。以前にも似たようなことを経験しているからだ。その時はもっと古びて所々崩れていたのだが、そこまで気を回す余裕など今の若者にはなかった。

 若者は特に行く当てもなかったので神殿へと踏み込む。前の時は栗色の髪の侍女が一緒にいたが、今回は若者一人だ。中で何が起こるかは予想だにできない。

 真っ暗闇の通路を進んでいく。壁に特殊な塗料が塗られているらしく、光が差し込まないのにも関わらず進むべき道が見える。若者にとっては都合が良かった。

 しばらく進んでいくと突き当たりにあたる。周囲の壁を見やれば女神の意匠が刻まれている。以前と同様、いや以前よりもくっきりと刻み込まれたそれらの女神を若者はよく覚えていた。

 

「──ティル=ナ=ファ」

 

 夜と闇と死の女神。かつての世界において一般的に信仰されていた十柱の神々の一柱であり、神々の王たるペルクナスの妻であり、姉であり、妹であり、生涯の宿敵とされる神だ。

 そして何より、漆黒の弓を人に与えた女神であり、この世界に破滅を齎した張本人でもある。

 若者は徐に左手に握る黒い弓に視線を落とす。漆黒の弓がまるで生きているかのように震えた。握り手を通して生物の心臓が如く鼓動が伝わってくる。

 不意に、神殿内を漂う空気が豹変した。

 

『──何もかも終わってしまったわね』

 

 若者の頭に直接声が響く。悲嘆と寂寥と失望、そして微かな喜悦を含んだ声音だ。

 声の正体を若者は知っている。接触されたのもこれが初めてではない。だから若者は酷く平坦な口調で答えた。

 

「何も守れなかった……。俺は負けたんだ……」

 

『そうね、全てはあなたの力不足。未熟さが招いたわ』

 

 殊更激しい口調ではなかったが辛辣な物言い。ただでさえ追い詰められている若者の精神を容赦なく抉る言葉だが、責められた若者はただ歪な笑みを浮かべるだけだった。

 

「ああ、そうだ。俺が弱かったから、みんなを守れなかったんだ……それなのに、どうして誰一人として俺を咎めなかったんだ。どうしてみんなして、あんな風に笑って逝けるんだ……!?」

 

 若者にとって大切だった者たちはみな、誰一人として彼を責めることなく逝った。それが若者にとって何よりも苦痛だった。いっそ責めて、憎んで、恨んでくれたほうが報われただろうに。

 

『これは重傷ね。もう立ち上がる気力すら持てないかしら』

 

 精神が擦り切れてしまった若者にこれ以上何を期待しているというのか。生存していた魔物は若者が激情のまま手ずから殺し尽くした。もうこの世界に少年の生きる目的はないはずだ。

 しかし女神の声の響きにはまだ知れぬ先があるように感じられた。その謎の感覚に若者は絶望に染まった顔を上げる。

 その反応に望みを託すだけの器量があると見て取ったのか、女神が告げる。

 

『あなたにもう一度だけチャンスを上げるわ。大切な者たちを守る、最初で最後のチャンスをね』

 

「な、に……? そんなことが、できるのか?」

 

 愕然とした表情で若者が尋ねる。返答は肯定だった。

 

『一度だけ、あなたを過去へと戻す。もう一度最初からやり直させてあげる』

 

「…………」

 

『そこで何を為すかはあなたの勝手よ。この結末を避けるために奮闘するもよし、また同じ轍を歩んでしまうのもあなた次第。好きにするといいわ。ただし二度目はないけれど』

 

 最後の一言は突き放すような口調だった。だが若者にはそれだけで十分である。

 光を失っていた瞳に獰猛な輝きが灯る。絶望に折れていた心が尋常ならざる執念によって立ち直り、幾度となく絶望的な状況を乗り越えてきた本来あるべき姿に戻っていく。

 いや、ただ立ち直っただけではない。一度は掌から零れ落ちてしまった大切な宝石たちを、今度こそは守り抜いてみせる。叶うならば、救えなかった悲劇すらも撃ち砕いてやる。

 そんなかつてないほどに傲慢で強欲で、個人の理想に余る想いを抱いて、若者──ティグルヴルムド=ヴォルンは再び立ち上がった。

 

『ふふっ、嬉しいわ。それでこそ私が認めたひと。だから、見せて頂戴。あなたの全てを──』

 

 女神の声が霞みがかったように遠ざかっていく。同時にティグルの身体が意思とは関係なく動き出す。

 左手に握る漆黒の弓を構え、右手で弓弦を引き絞る。矢は番えられていない。代わりに周囲を漂う闇の粒子が収束し、闇を塗り固めたかのような一本の矢が番えられた。

 

『さあ、撃ち抜きなさい。絶望も、悲劇も、世界すらも。その矢で撃ち砕き、望んだ世界(幸せ)を掴み取るのよ』

 

 僅かに肩に手を乗せられたような重みを感じて、次の瞬間、ティグルは漆黒の矢を射放った。

 放たれた漆黒の矢は凄まじい螺旋を伴って虚空を駆けた。轟音と共に大気と神殿が揺れる。尋常ならざる力の放出に建物どころか『魔』に侵食された世界すらもが悲鳴を上げているのだ。

 無論、ティグルにそんな意図はなかった。ただこの一矢が意味あるものだと確信して、想いの丈を全て込めて撃ち放っただけだ。

 はたして祈りにも似た渇望の一矢は天に届く。変わり果てた世界が脆いガラス細工のように崩壊する。漆黒の矢が穿った世界の穴から全てが砕け始めた。

 崩壊していく世界に呑まれるようにティグルの意識が遠のく。視界が黒く染まっていく中で、若者の脳裏を過ぎったのはこれまでに出会い、別れてきた人々の顔だ。

 その一人一人の顔を胸に刻みつけて、ティグルは終ぞ抱くことのなかった野心を胸に、過去へと旅立った──

 

 

 ♐︎

 

 

 その日、ブリューヌ王国のヴォルン伯爵家に一人の男児が産まれた。名をティグルヴルムド=ヴォルン。流星降り注ぐ夜に産まれ落ちた彼は、後に大陸全土に勇名を轟かせる英雄となる。

 はたして彼の英雄は己が大切なものを守り抜けるのか。それは神のみぞ知るだろう──

 

 

 

 

 


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