アイビス×マサキ(スパロボOG)   作:マナティ

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最終章:想い出の星空

 

 

 

 

   Ⅰ

 

 「Aileen(アイリーン)」と美麗な筆記体による看板が掲げられているそのバーは、今宵二人の若い女性を客に迎い入れていた。初めて見る客であったが、雨の日はそういう客が多い。予報外れのにわか雨で急遽雨宿り先を求め、しばしば新しい店と客の出会いが起こる。

 

 女性の二人連れというのは、そのバーにとっては日頃珍しいものだった。旧暦の頃のアナクロチックな内装を売りにしているといえば聞こえは良いが、瀟洒なアンティーク趣味とは程遠い店なので普段の女性の入りは少ない。店主の趣味で買い揃えた、市場ではとうに死滅した本物のレコード盤やブラウン管テレビ、そして馬鹿でかいレジ打ち機を面白がってくれるのは、やはり大体が男性ばかりだった。

 

 そういう事情もあって、マスター兼バータンダーの男は殊の外快く二人を迎え入れ、そして二人が迷わずテーブル席を所望したことに内心で残念がりもした。

 

 女性客は二人とも10代後半から20代前半といったところだった。五十路も半ばな店主から見ると若い娘で一括りにしてしまうが、どうやら先輩後輩程度の歳の開きはあるらしく、片方の赤毛の娘がもう一方の栗毛の娘に話しかけるときは口調は平易ながら若干畏まった雰囲気があった。それでも二人の間に絶えぬ笑顔から、互いに気の置けぬ友人と思い合っていることはありありと窺えた。髪色と顔立ちの違いさえなければ、姉妹のようにも見えただろう。

 

 戦争が終わってから、幸せそうな客が増えた。店主の胸に、そんな温かな感慨が湧いた。終戦記念に店で馬鹿騒ぎが開かれたこともあったが、こういうなんでもない客から何気無く感じる幸せの微粒子こそ、本当の意味で一つの時節が終わったことの証左なのだと思えた。経営的にもあまりやって良いことではないが、なんとなくいい気分になったので、店主はサービスで二人になにか一品振る舞おうと決めた。とっておきのブランデーがあるが、赤毛の妹分は酒を頼まなかったので、あまり喜ばれないかもしれない。ここはデザートにしておこうか。女房のベイクドチーズケーキが、今日はいつも以上に上手く焼けたんだ。テーブルについてから早速あれこれと姦しく話に興じている二人の顔が、絶品のケーキを前にしてさらに咲き誇るところを想像しながら、店主は在庫を確かめるべくいそいそと厨房に引っ込んでいった

 

 新西暦188年、冬。インスペクター事件、と後に呼ばれる異星軍との攻防戦が集結してから、早、半年が経過していた。

 

 

 

 ラングレー陥落という一大アクシデントを迎えながらも、その後オペレーション・プランタジネットは有象無象の紆余曲折を経つつもかろうじて推進されていった。修理を済ませたハガネ隊は、ブリジッダ率いるDC主力軍とともに宇宙へ上がり、月面都市へと進軍を開始。陸戦部隊と連携して住民や人質の救出を行いながら、並行して月そのものの奪還、宇宙での足場を確保した。ここまでがプランタジネットのフェイズである。

 

 次いで最終フェイズとして、連邦軍ならびにDC軍の全戦力をもって異星軍本拠地であるホワイトスターへ進軍。空間転移技術を持つ異星軍に道々で戦力を削られながらも、必要最低限の戦力を確保した上で彼らの眼前へと肉薄することに成功した。

 

 地球連邦軍、艦隻数にしてハガネ隊やDC軍も含めて27。異星軍、全て地球側から鹵獲したものであるが24隻。機動兵器の数は、大凡それぞれの数字を100倍にした数となる。数と数。物量と物量。一大会戦は熾烈を極めた。火薬と荷電粒子の光芒が、深遠なる宇宙に幾千幾万もの華を咲かせた。そして幾千幾万もの命が星のごとく瞬き、そして散っていった。

 

 質・量ともにほぼ同等、しかしながら地球軍の方は、己の本陣たる地球そのものを背にするためか、士気という点でこれ以上ないほどに充実していた。結果、全戦力の正面衝突は拮抗しつつも徐々に徐々に地球軍側が優勢になっていった。満を辞して、地球側は戦陣中央に向けて渾身の一槍を繰り出した。地上ハイエンドの技術と英知が結集した最精鋭部隊ハガネ隊。修復を済ませ、もはや勇姿に衰えなきハガネとヒリュウ改の二隻に、敵陣中央突破の命を投げ打ったのである。

 

 ハガネ隊が敵本陣にたどり着けば、それが終戦記念日となる。DC戦争におけるアイドネウス攻防戦、L5戦役におけるホワイトスター突入戦。過去二つの大戦に起因するジンクスは、兵たちの間でも根強く、なかば信仰にすら近いものだった。皆の祈り、願い、全てを背負い、ハガネ隊は駆けた。迎えくるものをことごとく振り払いながら、一直線に敵陣中央を突っ切った。そうしてホワイトスターにまで見事到達し、一息に外壁を打ち破って、基地内部への侵入を果たしたのである。

 

 あとの顛末は、おおよそL5戦役のときと様相を同じくする。敵陣へ殴り込んだハガネ隊。最後の決戦は、ホワイトスター内部でも随一の広大さを持つ、人類飼育用のマルチプルファームにて行われ、敵の首魁ウェンドロもそこで討ち果たされた。

 

 ディカステス。城塞を纏った魔獣とも言うべき異星軍の最高指揮官機。ハガネ隊の精鋭たちが放つ、それぞれが一撃必殺の火砲をものともせず、逆にただの一撃でハガネ隊の機体の半数を吹き飛ばして見せた正真正銘の怪物機。部隊を半壊させながらも不屈の精神で続けられたハガネ隊の猛攻の前に、その怪物もついに崩れ落ちる時が来た。

 

 ――強い、強過ぎる。

 

 ――覚えておくんだな。その力が銀河を滅ぼすんだ。

 

 今際の際にウェンドロが遺した言葉。それが単なる敗者の負け惜しみに過ぎないのか、それとも真実未来を言い当てたものなのか、それは誰にもわからないことだった。

 

 言えることはただ一つ。

 

 西暦188年、4月。敵首魁は討たれ、白き魔星は再び堕ちた。そうして、一つの戦争が終わりを告げた……。

 

 

 

「それでどうなったの?」

 

「なにが?」

 

「と・ぼ・け・な・い・で」

 

 そうやけに強く咎められたものの、対面に座るアイビスはなんのことか分からずに目を白黒とさせるばかりだった。アルコールのせいか、ツグミの目は平時よりもやや霞んでおり、しかしながら表情全体は一層のこと活力に満ち満ちていた。危険な兆候だ、とアイビスには見て取れた。

 

「どうなったのって、ツグミだって知ってるでしょ。ずっと一緒に居たんだから。戦争が終わって、あたしたちの徴兵もお終いになって、そろってお役御免。二人でコロラドに帰って、プロジェクトに再参加を」

 

「ちがう、ちがうわよ。私が聞きたいのは彼のこと。彼と貴方がどういうゴールを迎えたのかってことよ」

 

 ああ、またその話か、とアイビスはやや疲れたように視線を逸らした。逸らした先で、店のマスターが古めかしい蓄音機にどこかウキウキとしながら新しいレコードを装着しているのが見えた。蓄音機といい、やけに古めかしいレジ打ち機といい、今時骨董屋ですら見かけないものだが、店主の趣味なのだろうか。

 

「で、どうなの」

 

「いや、どうもなにも、聞かなくたって分かるでしょ。あたしが休日こそこそと、誰かとデートしているように見える?」

 

「見えないわ。土日に誘っても、あなた全然断らないし」

 

「じゃぁ、結果は知れてるでしょ。聞かないで欲しいね、そういうことは」

 

「いいえ 聞かなくてはならないわ。こういうことは結果よりも経緯が重要なの。空の上で告白したのよね。やっとそこまでは聞き出せたわ。今日聞きたいのは、その続き」

 

「続きなんかないよ。それで終わり」

 

「終わりってことはないでしょ。返事はもらえたの?」

 

「貰ったと言えば貰ったけど、いいものじゃなかったよ」

 

 新しく煎れてもらった紅茶にかっぽかっぽと砂糖を入れながら、アイビスは一見して平然と言ってのけたが、ツグミの方はというとまるで納得した様子はない。

 

 アイビスの言は、端的に言えば彼女がフラれたことを示しているが、それにしてはカップを啜るアイビスの表情はいかにも暖かげで、失恋の陰りは見当たらない。終戦後半年間の月日によってすでに傷は癒やされたのか、と無理に解釈する必要はツグミには無かった。いまアイビスが誰とも定期的に逢瀬を重ねていないという点は、たしかにツグミとて認めざるを得ないが、一方でまた別の確信を抱いてもいた。

 

「アイビス、何か隠しているでしょう」

 

「え」

 

「フラれたのよね?」

 

「うん、まぁ」

 

「要は恋人になれなかったわけよね?」

 

「面と向かって言わないで欲しいなぁ」

 

「でもそうなのよね?」

 

「まぁそうだよ。ええ、そうですとも。『俺に恋人なんていらねえ』って、はっきり言われたから」

 

「『だから愛人で我慢しろよ』……ていう話でもないのよね?」

 

 愛人、という言葉の意味よりもまずその響きに、アイビスは堪らぬ様子で紅茶を吹き出した。

 

「ああ、もう分からない。いいから最初から全部話しなさい」

 

「ぷ、プライバシーの」

 

「あら、なんて? いずれ共に銀河を駆け巡るであろう一蓮托生のチームメイトに対して何ですって?」

 

「ううん……」

 

「ね、ね、お願い。話せるとこまでで良いから」

 

 この押しの強さ、ブロウニング少尉となんかダブるな。アイビスはそう思った。いつのまに友誼を結んだのか、それまであまり接点を持っていなかったツグミとエクセレンは、月へ昇る手前辺りから隊内でも良く話をするようになっていた。昼食でもよく席を同じくしており、一度何気なく同席しようとして、連れていたマサキに力一杯拒絶されたことがある。

 

 なんにせよ此度のツグミの追求はいつになく厳しく、これまで言を左右になんとか躱してきたアイビスであったが、今度ばかりはある程度まで話をせずには済まないようだった。二杯目のポットが運ばれてきたのを機にアイビスは腹を括り、どれ、とばかりに佇まいを直した。いつの間にか店内では、新西暦を迎えながらもなお歌い継がれるアメリカの民謡、「Home on the Range」が流れていた。故郷を想う、古い郷愁の歌だった。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

「ええと、どこから話そうか」

 

「まずは告白直後からよ。好きだと言って、二人でハガネの格納庫に帰って、それでどうなったの」

 

「ああ、格納庫ね。うんうん。別に何もなかったよ」

 

「またまた。もういいってば、そういうの」

 

「いや、本当に何もなかったんだって。機体から降りた後、あたしダッシュで逃げちゃったし」

 

「は?」

 

 嘘でも何でもなかった。告白直後、試験飛行を終えて格納庫に機体を入れ終えたアイビスは即座に機体の火を落とし、リフトロープで地上に降り立ったあと、そのまま一目散に格納庫を走り去った。相方の少年と顔を合わせたくない一心でのことだったが、それにしても竜頭蛇尾に過ぎる行いに、ツグミは呆れ顔になった。

 

「なにやってるの。それじゃ相手からしたら印象最悪じゃない」

 

「うん、確かに怒ってたっけ」

 

 過去の記憶と、流れ来る優しいメロディに浸ってか、アイビスは懐かしげに目を細めた。

 

 マサキが怒るのも無理からぬことで、なにせ驚くべきことにこれ以降二日間もの間、アイビスはマサキを避け続けた。無論二人きりの小隊であるのだから、たとえ一日たりとて二人は顔を合わせずに過ごすことはできないのだが、しかしアイビスは成し遂げてしまった。

 

 一例として挙げると、次のような出来事があった。試験飛行のあと、まんまとマサキから逃げおおせたアイビスだったが、実のところそのすぐ後にはキョウスケや医療班々長らも交えてのデブリーフィングが行われる予定になっており、当然ながらそこにはアイビスとマサキも同席する必要があった。要するにアイビスの逃亡はほんの十数分ほど首を繋げたに過ぎなかったのである。

 

 約束の時刻のおよそ7分前。ミーティングルームに一番乗りを果たしたのは、このとき珍しく道に迷うことのなかったマサキであった。誰も来ていない室内を一通り見回してから、どっかと椅子に座り込み、机に肘をつき顎を乗せる。だらしなくも平静な様子であったが、どこかぎこちなくもあり、ぼんやりと残りの面子を待つ間にも、落ち着き無く机を叩き続ける指先が、少年の内心の揺れを表していたのかもしれない。

 

 して、少年の待ち人は遠からずやって来た。プシュ、という圧縮空気の音と共にミーティングルームの扉が開かれ、彼のたった一人の部下がのこのこと姿を現した。息も止まるような沈黙……はしかし二秒ほどしか続かず、すぐさま二人の間は再度冷たい扉に遮られた。アイビスが扉を閉めたためである。

 

 この期に及んでの往生際の悪さに、マサキはすっかり肩を怒らせ、ズカズカと扉まで歩み寄った。乱暴に開閉ボタンを押し、三たび開かれるドア、と思いきや途中までしか開かれない。まさかこのタイミングで故障するはずもなく、単に廊下側のアイビスが手で扉を押さえ踏ん張っているのである。横開きの扉になんともご苦労な、そしてなんともトンチンカンな努力にマサキは言葉を失ったし、それは時を経た今になって話を聞くツグミもまた同じだった。

 

「なにやってるの?」

 

「いや、まぁ……」

 

 いずれにせよ程度の低い悪あがきに引導を渡すべく、マサキは中途まで開かれた扉に手をかけ、無理やりこじ開けようとした。アイビスも負けじと力を込めたが、腕力以前に扉の構造上からして勝てるはずもない。最終防衛線はあっさりと破られ、容赦なく扉から這い出てきた侵略者を前に、アイビスは顔面を蒼白にしながら後ずさった。絶体絶命の状況だが先の格納庫での一件しかり、こういったときのアイビスの素早さは中々に目を見張るものがあり、後ろ襟を掴もうとするマサキの手を寸でのところで掻い潜って、またもや脱兎のごとくその場を逃げ出すことに成功した。

 

 ひとつ違うのは、「まてこら」だの「逃げるな腰抜け」だの、なんやかんやと罵声を挙げながらマサキがその背を追ったことだろう。ただ結果までが変わることはなく、足の速さでは甲乙つけがたくとも、土地勘については3馬身ほど開きがあった。二、三度角を曲がられるともうマサキはアイビスに追走できなくなり、加えて自分の位置すら見失う羽目となった。マサキが追撃を諦めた地点から元の場所に戻るまで徒歩4分といったところだったが、その十倍以上かけてマサキがミーティングルームまで舞い戻ると、そこにはすでに話がついたのか、レフィーナや医療班々長とにこやかに握手を交わすアイビスの姿があった。ついでに、結局30分以上もの遅刻となったマサキに対して、これ以上なく白い目を向ける若き戦闘指揮官の姿もまた。

 

 物申したきこと幾十とあったにちがいないマサキだが、このときばかりは疲労感の方が勝ったか、キョウスケやレフィーナの小言に対してもただおとなしく項垂れるばかりであった。その間にもアイビスはまるで煙のようにその場から消え去っており、それを追おうという気力ももはやそのときのマサキには無かった……。

 

 

 

「なにやってるの?」

 

 一通り話を聞いて、ツグミは話にならないとばかりに頭を振った。とんだ笑い話だった。ジョークとしてはそれなりの出来だが、今宵彼女が聞きたいのは決してそういう類の話ではない。 

 

「いや、あのね」

 

「もう一度訊くね。なにやってるの?」

 

「あたしだって必死だったんだよ、あのときは。もうとにかく絶対断られると思ってたからさ。そんなこんなで二日くらい逃げ続けたもんだから、マサキってばますます怒っちゃって。目なんてこーんな釣りあがって、もう本当にどうしようかと」

 

「当たり前でしょうが。言うだけ言っておいて返事を拒んでどうするの。でもまぁ、それはそれとして、今『断られると思ってた』って言ったわよね。過去形だったわね。てことはまさか実際は違ったわけ?」

 

「まぁまぁ、物事には順序というものがあってだね」

 

「いいから。もうクライマックスに行ってくれていいから。返事を貰ったんでしょ? いつ? どこで? どういう風に?」

 

 全く気の早い、とでも言いたげにアイビスはやれやれと肩をすくめた。その頬を思い切り頬をつまみあげてやろうかと思ったが、ツグミは耐えた。話しをしやすいよう、アイビスの目を盗んで紅茶のポットにこっそりとブランデーを注ぎ足したのはツグミであるのだから、多少アイビスの気が大きくなっていようと受け流してやる義務があった。なによりアイビスとマサキの関係性の首尾についてはツグミにとっても他人事とは言い切れない。この機会に、なんとしても現状の正確なところを聞き出してしまいたかった。

 

 なんにせよ、アイビスは聴客の要望に応えるべく、やや意識をふらつかせながらも訥々と物語の佳境部分を語り始めた。つまりはアイビスの告白に対して、マサキからの返答を得たときのことである。それはかの試験飛行から三日後の、夕暮れ時のことだった。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 当時、アイビスは依然として覚悟を決めかねており、マサキに対する逃げ腰な態度もまだ改められていなかった。ゆえにこのとき踏み込んだのも、やはりマサキの方からであった。

 

 午後の労務も区切りがつき、入浴を終えた乗組員たちが徐々に食堂に集おうとしていた時分。アイビスもまた自室を出て屋外の共用食堂へ顔を出そうとしていたが、数歩も歩かない内に彼女の小隊長がその行く手に立ちはだかった。いい加減事態を疎んじたマサキが、今日こそ決着をつけるべく、アイビスが部屋から出てくるのを通路の角で待ち伏せていたのである。少年とはいえ歴とした男が、女性用フロアの一角に黙々と張り込む姿は相応に外聞の悪いものであったはずだが、幸い後にも先にもそのことが問題になることはなかった。要因こそ不明なものの、ここ数日のアイビスのマサキに対する奇矯な態度自体は他の乗組員たちにも広く知れ渡っており、マサキの不審な行いもそれに関連してのことだろうと見過ごされた。中にはリオ・メイロンのように「頑張ってね」などと肩を叩いていく者すらいたほどだ。

 

 そういった後押しもあってかどうかはともかく、マサキの捕獲作戦はこうして成功を見、二人は実に二日ぶりにまともに言葉を交わし合うこととなった。

 

「ちょいと面貸せ。理由は分かるな」

 

「は、はい……」

 

 単なる錯覚か、それともこれもプラーナなるものによるものなのか、怒気のあまり陽炎すら発しているように見えるマサキに、アイビスは猛獣を前にした子ウサギのように身をすくめるばかりだった。これでまたさらに無駄な抵抗を試みようものなら、彼の騎士が放つ必殺の敵味方識別広域兵器が、彼女にとってのみそうでなくなる可能性すら予見された。

 

 ひとまず場所を移すことになり、よく二人で出かけたハガネの屋外デッキへとアイビスは連れ込まれた。太陽はすでに地平線へと差し掛かっており、暖色の陰影がヴァージニアの稜線とラングレーの大穴を覆っている。風は柔らかく、肌寒く感じる一歩手前にそよいでおり居心地は悪くないが、今のアイビスの震え切った心胆を暖めるほどでもない。夕食時なだけに眼下の共同食堂は賑わっており、それに正比例してハガネのデッキにはアイビスとマサキの他に人影は見当たらなかった。

 

「来たわ、ついに来たわね。やっと盛り上がってきたわマスター、もう一杯!」

 

「あ、あたしもお代わり。こんなに美味しい紅茶、初めて!」

 

 そんな時空を隔てた馬鹿騒ぎなど当然ながらつゆ知らずに、先導するようにデッキへ先に立ち入ったマサキは、靴音を立てて後ろを振り返った。よもやとも思ったが、今度ばかりは彼の部下も腹を括ったらしく、おとなしく付いて来ていた。

 

 てっきり怒鳴り散らされるものとばかり思い込んでいたアイビスは、マサキが振り向いたと同時に思わず顔を伏せた。しかし意外にも待てど暮らせどお呼びがかからず、アイビスは恐る恐るに少年の顔色を伺った。

 

「……」

 

「……」

 

 言葉なしに二人は見つめ合い、そして諸々のことを理解し合った。色濃い焦燥の影、落ち着きのない視線。全く平静でないマサキの様子に、アイビスはこの瞬間の訪れを恐れていたのは自分だけではなかったことを悟った。そしてアイビスがそう悟ったことにマサキもまた気付き、不機嫌そうに腕を組んだ。防壁を求めるときに人が無意識にとる所作と言うが、彼の場合、さきほどからちっとも落ち着かぬ心拍を押さえ込もうとする意味合いもまた強かった。

 

 埒の明かぬ沈黙を振り払うように、やがてマサキの方から声をあげた。

 

「えーっとだな」

 

「はい」

 

 間を持たせるように、マサキはとんとんと二度つま先で地面を打ち、アイビスはそっとお腹の前で手を組んだ。

 

「その、だな」

 

「はい」

 

 またもや間が生じた。痒くもないのにマサキはしきりに片方の二の腕をわさわさと掻き毟り、アイビスは自分の手の甲に浮かぶ血管の色合いをつぶさに観察しだした。

 

「いや、だからよ」

 

「はい」

 

「な、なんだよその口調は。話しづらいからやめろ」

 

「ごめん。それで?」

 

「あ、いや、えーっと、その、だからよ」

 

 三度目の間。そのまま永遠に口籠り続けてしまいそうなマサキであったが、やがて踏ん切りをつけたのか一つかぶりを振り、打って変わって矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。

 

「お、お、俺は、その、なんだ。好きだのなんだの、そういうのは、なんつーかあれでよ。ましてや俺は、隊長だろ んでもって、魔装機神操者だ。好きだの何だの、言ってられる立場じゃねえんだ」

 

 果たしてマサキの言は理路整然とはお世辞にも言えず、文意は曖昧で聞くに堪えなかった。それでも、要約するとだいたい次のようになった。

 

 国家を持たず、ただの一個人で確固たる国際的立場を有する魔装機神操者は、それゆえに世界各国に対して厳然とした中立性を求められる。警察が守るべき市民を選り好みしてはならないように、税務署が税の取り立て先を選んではならないように、それは魔装機神が、あらゆる国家に対して一切の義務を持たないがために自ずと発生する「義務なきゆえの義務」であった。彼らの力が発揮されるべきはただ一国のためでなく、誰か一人のためでもない。如何なる体制にも権威にも属さない魔装機神は、しかしだからこそ誰よりも公人でなければならない。

 

 ましてや特定の一人に対して個人的な感情を拗らせ、大局を見失うなど、魔装機神操者が最も避けなくてはならないことの一つだった。事実として、といっても魔装機神操者は故人を含めてもわずか四人しか存在せず、統計の母数としては少なすぎるものの、魔装機神操者が同じ魔装機神操者以外に恋人を作ったケースはこれまでに無い。また恋愛とは180度ベクトルが異なるものの、マサキが生涯の仇敵と見なすシュウ・シラカワさえ、それは彼が義父の仇である以前に、世の仇と成りうる存在と見定めてのことである。

 

「つまり! そういうわけだから! あれだ! 俺に……恋人なんていらねえ!」

 

「……」

 

 マサキはそう論を結んだ。彼らしくもない長口舌は、アイビスに聞かせる以上に彼自身が考えを整理するためのものだったのだろう。いかにも慣れぬような、たどたどしい弁舌であったが、それでも断りの意だけは誤魔化さずはっきりと口にした。

 

 そして、それは間違いなく彼女の耳にしっかと届き、臓腑にまで降りていった。

 

 俺に恋人なんていらねえ。

 

 彼はそう言った。そう言ったのだ。

 

 アイビスはじっと、なにかを堪えるように自分の手元を見つめ続け、そしてややあって、顔を上げた。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

「だめじゃない」

 

 ツグミは唖然として言った。拍子抜けとはこのことだった。いつのまにか店内のBGMも変わっており、2世紀近く前の古典バラードが鳴り響いていた。たしか「Yesterday」という曲で、失恋の歌であったはずだ。その哀しげな曲調に取り憑かれてか、アイビスはいつしかテーブルに突っ伏したまま動かなくなってしまった。

 

「断られてるじゃない。思いっきり」

 

「だから、さっきも言ったでしょ」

 

「いや、そうだけど、でも」

 

「だから話したくなかったのに……」

 

 そうして鼻をすする音すら聞こえてきた。

 

 古傷を抉ったに等しい我が身を省みて、今更ながらツグミは慌てた。慌てたが、彼女の聡明な理性はまた一方でどうにも得心がいかぬものを感じていた。それでは説明つかないことが多すぎるのだ。

 

 ヒリュウ改とハガネの修理が済んでから間もなく、ハガネ隊は宇宙へ上がり、オペレーション・プランタジネットのあと詰め、つまりは月の奪還とホワイトスターの制圧に乗り出した。月でもホワイトスターにおいても、戦場におけるフリューゲルス小隊の連携に一切の齟齬は見当たらず、むしろ睦み合う比翼のように一層流麗なチームワークを発揮していた。艦内においても二人の間柄には拗れた様子もなく、空での告白にしたって終戦後に話を聞くまでツグミは、そんな劇的なことが起こっていたなどと思いもよらなかったほどだ。告白し、振られたような間柄でそんなことが可能であるはずがない。プロフェッショナリズなどこの際関係ない。人間である以上、どのようなパイロットも情緒と無縁ではいられない。

 

 そのあたりを踏まえてみると、悲嘆にくれるアイビスの姿はどうにもわざとらしく見える。意を決して、ツグミはアイビスの頭を両手で掴み、えいやと持ち上げてみた。果たしてぱちくりと瞬くアイビスの目からは涙など欠片も見えず、表情も平素どころか、酔いのためかいつもより上機嫌なくらいだった。

 

「アイビス……」

 

「ん? どうしました? チーフ」

 

 ツグミは今確信した。なにか裏がある。これまでの話は全て嘘……いや、それはない。即興の作り話を滔々と語りあげるような器用さとは無縁の娘だ。疑うべきは、話の続き。なにか大きなどんでん返しが、その後に隠されているのだ。

 

「教えなさい」

 

「定時後なので、命令は受け付けません」

 

「ね、教えて。ツグミのお願い」

 

 ツグミもいい加減酔っ払っていた。

 

「ね、ね。いいでしょ」

 

「あたし甘いものが食べたいなぁ」

 

「マスター、この子にケーキ一つ!」

 

「チーズが恋しいなぁ」

 

「マスター、とびっきりのチーズケーキでお願い!」

 

 そんなこんなで、話は続けられることとなった。

 

 

 

 一体どうしたことか、そのときアイビスは至極冷静そのものな表情を浮かべていた。冷静とはつまり「冷たく」「静か」な状態を指し、その言葉の通りアイビスは、マサキの言に対して悲しむわけでも怒るわけでもなく、ただ「なにを言っているんだろう、この人は」とでも言いたげな表情で見返すばかりだった。

 

 アイビスにしてみれば、そもそもがズレた話であった。というより、客観的にみればこの場合はアイビスの思考が先へ進み過ぎていたと言うべきか。

 

 彼は魔装機神操者である。

 

 そんなことは知っている。

 

 世界を守らなくてはならない。

 

 それも知っている。

 

 シュウ・シラカワを倒した暁には地底の異世界に帰らなくてはならないことも、そこでもまた戦い続けなくてはならないことも知っている。彼がその務めに背くことも、また自分がそれに付いて行くこともまたありえないと知っている。避けえない別れがすでに間近に迫ってきていることなど、とうに分かりきっているのだ。

 

 その上で、アイビスはマサキに想いを告げた。得るもの、残るものが無くとも、この気持ちを伝えることに大きな意味があると信じた。だからこそアイビスは、マサキの答えにまったく納得がいかない。断られること自体は覚悟していたことだが、しかしその理由として、あまりにも非本質的な了見をこれ見よがしに振りかざし、それで全てが済んだ気になっている彼の顔がどうにも憎たらしくてならなかった。

 

(やれ魔装機神だの世界だの、大仰な言葉を使えば誤魔化せると思って)

 

 マサキの長ったらしい説明は、アイビスに言わせればとどのつまり「仕事が忙しいからパス」ということ以外、何も語っていない。有史以来、世の男性たちが何百億回と使い、きっとその度に大なり小なり世の女性たちの不興を買ってきた、有り触れた断り文句である。そしてそれは此度もまた同じであった。

 

(ええ、確かにそれはそうなんでしょうとも。でもそうじゃない。問題は、全然そんなことじゃぁない)

 

 言うべきことを言い終えた、とでも勝手に思い込んでいるのか、憎々しい想い人は気まずげにしながらも一息ついたような様子だった。その様にアイビスの胸中は戦意という戦意に燃え盛り、瞳は剣呑なまでに爛々と輝いた。遠慮は無用と見える。半ば腹いせにも似た気持ちでアイビスは、健気にも生涯胸に留めておこうと考えていた彼の最大の弱みを、全力で突いてやることにした。

 

「ふぅん。あ、そうですか」

 

「……?」

 

 突然の淡白な素振りに、マサキの目に不審の色が浮かんだ。しかしその色は、即刻別のものに変わることになる。

 

「ひどいこと言うよね。むりやりキスしてきたくせにさ」

 

「んなっ!」

 

 真実、それは少年にとって最大の弱みであった。誰にも言われてはならぬことを、もっとも言われてはならぬ相手にこれ以上なくしたたかに不意打たれ、マサキは顎を外さんばかりに愕然とした。

 

「人が弱ってるところを」

 

「うっ!」

 

「あんなに激しく」

 

「ぐっ!」

 

「あたし初めてだったのに」

 

「……! ……!」

 

 もはや声にもならなかった。平静を取り戻したはずの少年の心はあっという間に地崩れを起こし、さらにアイビスの次なる一言で今度は隕石まで降ってきた。

 

「あたし、あんたが好きだよ。前も言ったけど、本当に好き。愛してるよ。マサキはどうなの」

 

 あまりにのっぴきならない言葉に、マサキは音声らしきものを発することもできなかった。ぐうの音も出ないとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 

「今日この場で、あたしがあんたの口から聞きたいのはそれだけなんだ。魔装機神の権利も義務も知らないよ。聞きたいのは、本当にそれだけ。お願いだから、好きじゃないなら好きじゃないって、そうはっきり言ってよ」

 

 悲しいかなアイビスが想いを露わにすればするほど、マサキの混乱と焦燥は天を衝く勢いで極まっていった。脳内で次々と銅鑼が叩き鳴らされ、心臓が爆縮を開始し始めた。

 

 自分が体良く話を逸らしていたことに、ようやくマサキは気が付いたたのだ。アイビスはマサキが好きだという気持ちを伝えた。彼はそれに対して、己の立場や社会性を答えた。しかし肝心要の、彼自身の気持ちについてを彼は一つも口にしていない。いまアイビスが指摘したのもそこだった。

 

 だからといって、いや失敬などと嘯き、やすやすと言を付け足せるマサキでもない。自身の気持ちや本心を口にすることは時に恐ろしく、非常な困難を要する人類普遍の壁であった。世の誰もがそれに苦しみ、躊躇する。戦場においては勇気の化身といっても良いマサキにおいてもそれは例外なく、どころかマサキは、今すぐにでもサイバスターに乗りこんで、この場から飛び去りたい衝動に駆られていた。飛び去って、地底に広がる第二の故郷に帰り、懐かしの我が家に逃げ込んでしまいたい。何事かと目を丸くする義妹の横を走り抜け、自室に飛び込み鍵をかけ、毛布にくるまりなにもかも忘れて眠ってしまいたかった。

 

 無論、そのようなことをアイビスが許すはずもない。

 

(狼狽えちゃって。見てらんない)

 

 二日前の一幕とすっかり攻守を反転させ、一躍獲物を追い詰める猛獣役となったアイビスだが、マサキの憔悴ぶりに一種憐れみを覚えないでもなかった。

 

(そっか)

 

 ふと、アイビスの胸中で思い起こされたことがあった。雪が溶けて水となり霞となり、その中からまるで生まれ芽吹くかのように、忘れていた事実がぽこんと顔を出した。

 

(そういえば年下なんだっけ)

 

 年下の男の子。

 

 サイバスターの操者。前大戦の裏撃墜王。地底世界では一国の君主に匹敵する権力を持つらしく、さらにマサキ自身すら知らないことまで付け加えると、日本円換算で約70億円もの私的財産を所有するそうな。

 

 そんな歩く超常現象のような相手を、「年下の男の子」などと軽はずみに言い表して良いものかどうか、アイビスには判断つきかねた。しかし、これもまた曲げられない事実なのである。四大魔装機神の一角を担うのは、異性からの率直な求愛に対し、恐ろしげな態度しかとれない初心な少年だった。なんとか拒絶の言葉をひねり出しながらも、少しつつけばあっさりと水が漏れ泡を食うような、未成熟な少年そのものだった。

 

 胸の奥からむずむずと、さきほどまでの戦意とはまるで違う、何かむず痒いものがこみ上げるのをアイビスは如実に感じ取った。確信と共に、今この場で自分がどう振る舞うべきかをアイビスは理解した。

 

 アイビスはマサキの両肩に手を置き、真正面からマサキの目を見据えた。まじまじと見詰めてみせた。たったそれだけでマサキは哀れなほどに狼狽え、後ずさった。どのような大軍・強敵相手にも怯まない、あのマサキが。

 

「ちょ、お前……!」

 

「目、閉じて」

 

 アイビスは努めて囁きかけるように言った。そういう風にするものだと、リオから勧められた少女漫画にはあった。男女逆だった気もするが。

 

「ま、待て。待て待て待て待て!」

 

 アイビスは待たなかった。子供の恐がりにいちいち付き合っていてはお化け屋敷で遊べない。怯える子供に必要なのは、大人が手を引っ張ることだ。子供に、恐怖を乗り越える歓びを教える為にも。

 

 少年は風であり、誰にも縛ることはできない。しかし、そもそもその必要すらなかったことにアイビスは気づいたのだ。風は縛るものではなく、立ち向かうべきものだった。そうして風を自らの推力に変えて、ジェットエンジンは空を飛ぶのだから。

 

「お願い。嫌なら言って」

 

 そう言うアイビスの態度は、ある意味では卑怯とも言える。言われるはずがないと、アイビスには分かっていた。問いかけに対する答えは、いまだ少年の胸の内に閉じ込められたままだ。しかし、それがアイビスにとって悪いものではないことは、そのトマトのように茹で上がった顔色を見れば火を見るよりも明らかだった。

 

 そうして両者の距離がとうとうゼロになろうとすると、マサキはもはやこれまでと観念し、ぐっと力一杯に目をつむった。シルベルヴィントの発射寸前の主砲より、いまのアイビスの顔の方が少年にとってはよほど恐ろしいらしかった。

 

 無様に死に体をさらすマサキに、アイビスは胸のむずむずがいよいよ堪らなくなり、そうして彼女自身も目をつむり、一思いに止めをくれてやった。

 

 残念だったのは、あの夜のような熱は感じなかったことだ。

 

 幸福だったのは、その分、ただ感触だけがあったことだ。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 誰かが言ったのだ。

 

 人を好きになるというのは、人間が持つ中で最も根本的な感情なのだと。世界を守るという使命を帯びる者がいたとして、その者が世界という言葉を使うとき、必ず誰かの顔が胸に浮かんでいるはずだと。みんな結局は、自分の好きな人のために戦っているのだと。

 

 マサキがあれこれと御託を並べながら結局アイビスを拒みきれなかったのは、やはりそういった理由であったのかもしれない。マサキは思う。自分は魔装機神操者だ。世界を守らなくてはならない。しかしアイビスに、そして自分自身にそう言って聞かせる間にも、どうにも説き伏せきれない内側からの声がずっと聞こえてきていた。

 

 だとすれば、なぜ自分はあのときアイビスを助けたのか。

 

 薄暗い墓穴の中。彼方より迫り来る銀影と、彼を待ち受け鎮座する愛機に背を向けて、なぜ彼女の下へと走ってしまったのか。

 

 その自分からの問いに、マサキはどうしても明確な答えを出すことができなかった。結局そのことが迷いとなって敵の侵攻を防ぎきれず、結果、部下相手に無残にも大敗を喫する要因となった。

 

 人影が二つ。アイビスとマサキは屋外デッキの柵に寄りかかり、並んでぼんやりと外を眺めていた。眼下は相変わらず食事時で賑わっており、さながら二人だけが世の中から取り残されたかのようだった。

 

 沈みゆく日差しのなかで二人は隙間なくぴったりとくっつきあい、デッキの床に落ちる二人の影は、さながら三本足の別の生き物にも見えた。マサキとしてはいかにも狭苦しく、苦言を呈したきこと山々なのだが、妙な迫力で好き放題された先ほどよりは多少なりともましな状況に思え、仏頂面を浮かべつつも逃げずにじっとしていた。

 

「好きだよ、マサキ」

 

 そんな言葉が聞こえた。本当に何気ない、まるで唇からぽろりと落っこちて来たような響きに、マサキは明後日の方向を向いて聞こえない振りをした。

 

「本当に好き……」

 

 二度も言うなよ、とマサキは思った。

 

「ねえ、ほんとだよ」

 

 うっせーよ、訊いてねーよ、とマサキは思った。

 

「マサキくんもそうだといーなー、お姉さんは」

 

 わざとらしい年上振りが癪に触り、じろりと睨みつけてやるものの、見透かし待ち構えていたアイビスは、やっとこっちを見てくれたと如何にも嬉しそうに微笑むばかりで、みるみるうちに気を滅入らせたマサキは、無言で明後日の方向に向き直った。なお、結局のところアイビスの問いかけに対して、いまだマサキは明瞭な答えを返せていない。マサキはどうなの、などと言われてもマサキとしては困るのだ。そんなもの、どうもこうもあるものか。

 

 嫌いじゃねえ。言えるとすれば、それだけだ。

 

 強気かと思えば弱々しくて、無駄に傷つきやすく、かといって変なところでゾンビ染みたしぶとさもあって。そんな、世界でたった一人の部下のことを、マサキは、全くもって嫌いではなかった。

 

「前にも言ったけどよ。異星人を片付けたら俺はハガネを降りるぜ」

 

 やがて、マサキはそんなことを言った。負け惜しみじみていることは否めないが、事実でもある。

 

「うん、知ってる」

 

「シュウを片付けたら、地元に戻る。長くて半年ってとこだな」

 

「そうだね」

 

「なんもしてやれねぇぜ」

 

「いいよ、別に」

 

 全くへこたれずに、アイビスはマサキの左腕を退けて、その下に体を滑り込ませた。そうしてこともあろうに、横から少年の体に絡みついてしまう。マサキは半ば意地になって口元を引き結び、ひたすら沈みゆく太陽を睨み続けた。

 

 想いは伝えられ、いま二人はこうして触れ合っている。これまでとはほんの少しばかりなにかが変わっていたが、しかしだからといって解決したものは一つもない。依然としては二人は住む世界を異ならせる。場所の意味でも、生き方としても。

 

 しかしアイビスは思うのだ。

 

「一緒にいることだけが愛し合うことじゃないよ。あたしは空の上に行く。マサキは地の底に帰る。それで良いと思う」

 

 合うってなんだ、合うって……と思いはしつつ、マサキは口を挟まなかった。

 

「アステリオンは星の海で、サイバスターは大気の海でそれぞれに飛ぶ。でも、どんなにすごい翼を持った鳥でも、いつかは疲れてどこかに足を下ろすでしょ そんなときに、こうして触れ合うことができれば、それでいいよ」

 

「そんなんで良いのかよ。男と女っつったら、もっとこう……」

 

 彼氏彼女に浮かれる学生時代の友人たちを思い出そうとして、マサキはうまくいかなかった。彼自身が驚いてしまうくらい、それらはとうに掠れきった記憶だった。

 

「デートとか?」

 

「まぁ、そうだ」

 

「してくれるなら嬉しいけど、そんな暇ないと思うよ。戦争が終われば特に」

 

「ならよ」

 

「いらないよ。そんなの良いんだ。数年に一度でも、こうして抱きつかせてもらえるなら、他に何もいらないよ」

 

 本心からアイビスは言った。

 

 そしてもしそれが叶えば、その幸せの形はいつかに見た二つ目の夢とそう変わらぬことにもまた気づいた。違うのは、アイビスが宇宙にいる間も少年は大人しく待ってなどいないということだ。きっと一つ目の夢で見たように、愛機や仲間たちと共に、日々全力で戦い、助け合い、笑い合い、そして生きてゆく。そのさなかに生じる、ほんのひとときの憩いの節。安らぎの場。その中に、どうか互いの姿があってほしいと、アイビスはそれだけを願った。

 

(なんだ。あれは悪夢なんかじゃなかったんだ……)

 

 そうと気づくも、アイビスはやがて考えることを止め、目を閉じた。今はただ、この温もりと匂いに包まれたまま、静かに時間を味わっていたかった。これさえあればいい。他になんにもいらない。このときだけは本当に、そんな風に思った。 

 

 一方、依然として外を眺め続けるマサキは、心中腹立たしさを禁じ得なかった。先ほどから人の体をまるで自分のもののように扱ってくる彼女にも、そのくせ殊勝というか、無欲な言葉しか口にしないことにも、そしてそれに対して気の利いたことを言ってやれない自分にも腹が立った。

 

 ただどうやら一つ言えることとして、自分に触れると彼女は笑顔になれるらしい。さっきもそうだったし、決して見てなどやらないが、きっと今もそうなのだ。そしてどうやらこれからも同じらしい。彼女の笑顔を見ることは少年にとっても嫌なものでは無く、それを心から欲した瞬間もあったような気がしないでもなかったが、しかしそれはそれとして、なにはともあれ腹立たしいものは腹立たしいのだ。

 

 マサキは一体どうすれば今のこの甘ったるい空気を入れ替えることができるのか、あれこれと考えを巡らし始めた。腹の虫もそれなりに鳴き始めており、アイビスはなにやら霞だけで生きていけそうな顔をしているが、マサキの方ははそうもいかない

 

 さてなんと言って飯に行くよう切り出すか、マサキは賑やかな眼下の食堂を見下ろしながら、ぼんやりと考え込んだ。

 

 正反対の翼を持つ二人は、ここでもやはり対照的だった。依然としては住む世界を異ならせ、思うところはどこかちぐはぐで、不揃いだ。しかしそれでも二人はいま寄り添い合っていた。互いの互いの翼を預け合い、安らぎを覚えていた。たとえ教科書の中の1ページに過ぎずとも歴史が歴史であるように、それは誰にも否定できないことだった。

 

 そのことを一方はひたすら幸福に思い、もう一方は「まぁ悪くはねえけどよ」となどと、誰にとも無く言い訳するように心中でぼやいた。

 

 日は陰り、一日が終わろうとしている。やがて灯りが消えて、誰かが言うところの本当の空の色が現れ出す。

 

 久しぶりに、一緒に見ようか。

 

 どちらともなく、二人はそう思った。

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 ようやく物語が閉幕を迎え、ツグミはやれやれと大きく息をついた。夜はすっかり更けて、いつの間にか雨も止んでいた。いまツグミが傾けるグラスも、それが何杯目であるのかツグミ自身覚えていなかった。

 

 して、語られた物語については、なんと言えば良いのか。なんと評すれば良いのか。

 

「それにしても全然気づかなかった。狭い艦内でよくもまぁしらばっくれられたわね」

 

「戦争中だったからね、別に示し合わせたわけじゃないけど、なんか自然にそうなってた」

 

 二人の言葉通り、その後の艦内における二人の様子は平時とさほど変わりなく、いっとき余所余所しかった二人がめでたく仲直りを果たしたことは周知されても、気持ちを通わせあったこと(アイビス曰く)まではハガネ隊内の誰にも知られていなかった。アステリオンのフライトレコーダーに記録されている件の告白についても、ツグミの手に届く前にアイビスが細工をして処分していた。

 

 ただ中には例外もおり、リューネという名の一人の少女がそれだった。アイビスとっては勇気をくれた相手への恩返しのつもりであったが、気を悪くするといけないのでツグミには言わないでおいている。

 

「でもまぁ、言えば大騒ぎだったかもね。みんな物見高かったし、きっとこれでもかってくらい冷やかされてたわよ」

 

「そんなことになってたら、きっと改めてフラれてたね、あたし。『我慢ならねえ。やっぱ止めだ』とか言ってさ」

 

「そうねえ」

 

 言いながらもツグミはきょろきょろと辺りを見回し、コホンと一つ咳払いをしてから、声のボリュームを若干落として言った。

 

「で、そこからどこまで行ったの?」

 

「んん? 月までだけど。知ってるでしょうに」

 

「ままま。ここまで来たんだから、勿体つけなくても」

 

「いくらなんでもプライバシー保護対象ですね。言いませんよ、あたしは。だいたいさっきも言ったけど、戦争中だったんだよ? あたしたち」

 

 だから怪しいんじゃない、とツグミは内心で言い返した。吊り橋効果というものがあるが、それを言うならばアイビスらは吊り橋の上で寝食を共にしていたようなものであり、むしろ燃え上がって当然の状況と言えた。実際、戦時中の兵士らの間では刹那的な恋愛が多いともよく言われ、ハガネ隊に艦内カップルが多く見られたことも、そのあたりと無関係ではないだろうとツグミは踏んでいた。

 

 ともあれ、いくらなんでもプライバシーだというアイビスの言には、ツグミとて同意するところであり、ツグミはさほど食い下がることあくあっさりと矛先を引っ込めた。気になることは気になるが、いずれアイビスが口を滑らせるのを待てばよいことであった。

 

「言いませんってば」

 

「まぁまぁ。そういう話を無性にしたくなる時も人生あるってものよ」

 

「なにそれ、変なの」

 

 笑いながらアイビスはうんと伸びをして、疲れたように背もたれに体重を預けた。不意に、多くのものが次々と彼女の内側から湧き出て、天井に浮かび上がっていった。

 

「もう、半年か」

 

「そうね」

 

「七ヶ月、だっけ。あたしたちがいたの」

 

「ええ、それくらい」

 

 アイビスとツグミが、ハガネ隊に在籍していた期間のことである。わずか七ヶ月。たった七ヶ月。

 

「夢中だった。本当に夢の中にいたみたいだった」

 

「うん」

 

「なにもかも世界が変わってさ。不思議の国のアリスみたいに、全部がひっくり返って……」

 

「うん」

 

 アイビスは視線を正面に戻した。ぼんやりと壁時計を眺めるツグミの柔らかな笑顔がそこにあった。彼女の胸も、いま様々な記憶で一杯となっているのかもしれない。

 

「いいところだったね」

 

「とても素敵な艦だった」

 

 ハガネ隊の話は、そう締めくくられた。

 

 

 

 宴もたけなわなところで、二人は連れ立って店を出た。

 

「ケーキも紅茶も最高でした。また来ます」

 

 帰りがけにアイビスがそう伝えた時の、店主の顔のほころびようが印象的だった。ツグミ抜きでは今日の紅茶の味を再び味わうことはできないのだが、彼女が出歩く時は大抵ツグミも一緒であり、小さな悪戯が露呈するのはさて何時のことになるだろうか。

 

 風が冷たかった。薄着好きのアイビスですらさすがにコートの前を閉め、酔いのためか冗談めかしてツグミと腕など組みつつ、夜のコロラドを二人してのんびりと歩いた。

 

 ゆったりとした歩みのなか、ツグミはこっそりと連れの顔を盗み見た。物語は終わり、いまの二人の姿こそがその結末である。アイビスは決して一人ではないが、しかし連れ添う相手はあの少年ではない。

 

 異星人を倒し、その後に突如地球に対して反旗を翻し、宣戦を布告してきたたシュウ・シラカワと、ハガネ隊は刃を交えた。異星人全てを打倒した後になってもなお恐怖に値した、神の偉力を体現したかのようなあの蒼の魔神。彼とハガネ隊の戦いについては、ここで語ることでもない。結果として、シュウ・シラカワはかの銀騎士の繰り出した新星の光に散り、彼の目的を知り得るただ一人の人物、マサキ・アンドーはそのことについて何一つ語ることなく地上を去った。それから半年、彼とは一度も会っていないとは他ならぬアイビスの言である。

 

 アイビスの想いは一面としては間違いなく実を結んだ。果肉の味もまた、間違いなく幸福の味だった。しかし種は残らず、ただその余韻だけがアイビスの味蕾に色濃く残っている。要はそんなところなのだろうとツグミは納得し、その結末を残念に思いつつも、それでも物語の価値を貶める気にはなれなかった。

 

 良い出逢いだったのだ。二人はとても良い出逢いをした。それだけで十分に思えた。

 

 一方、アイビスはツグミを片腕にぶら下げたまま、ポケットから取り出したアンティーク調の小さなコンパクトを開いていた。瀟洒な装飾を施された貝殻のようなデザインで、化粧道具にしても品が良く、小洒落ている。

 

「良いわね、それ。どこで買ったの?」

 

「貰いものだよ。餞別品」

 

「へぇ」

 

 ツグミは多くを尋ねなかった。思うところはあったが、いまは酔いの心地に身を任せていたかった。あの少年らしからぬ品の良さに感心しつつ、ツグミはアイビスにもたれかかりながら、ゆったりと目をつむった。

 

 ツグミの考えにはいくつか勘違いがあった。そのコンパクトは確かにマサキがアイビスに贈ったものではあるが、彼が買ったものではない。化粧道具にも見えるそれは、彼が異世界から持ち込んでいた、電波ではなくエーテルを利用して相手に文章を届ける通信端末だった。

 

 アイビスはいまも覚えている。彼との別れの日。池上における全ての義務を果たした彼が、故郷へと帰還するその約束の日。

 

 多くは語り合わなかった。

 

 ――元気でね。

 

 ――おう。

 

 ――また会おうね。

 

 ――……ああ。

 

 覚えているのはそれくらいだ。それでも相手の顔だけは胸に深く刻むべく、穴のあくほどに見つめ続けた。マサキはそんな相方の眼差しにむず痒そうにしながらも、懐から件のコンパクトを取り出し、アイビスにほれと手渡した。

 

 ――こいつを渡しとく。なにかあったら使え。

 

 少年はそう言って、これが地上と地底での通信を可能にする機械であることを説明した。

 

 ――言っとくが、くだらないことには使うなよ。

 

 そうとも付け加えられたが、その忠告をこれまでアイビスは碌に守ったことがない。今日もまた同じだった。

 

 今日、ツグミと晩御飯を食べました。初めて行く店で、変わった内装でしたが、紅茶もケーキもとても美味しかったです。

 

 いつものように、アイビスはそんな他愛ない文面を打ち込み、送信ボタンを押した。この半年の間で、アイビスがマサキに送りつけたメールは100件以上にもなるが、その内容ときたら、こういったものばかりだった。美味しいものを食べた時、綺麗な景色を見た時、面白い番組を見た時、その時の気持ちや想いを赤裸々に打ち込んでは送信ボタンを押す。あるいはそれは、手紙というよりは日記に近かったのかもしれない。

 

 それらを受け取るたびに、きっと次元の向こうで彼は呆れ顔をしているだろう。それでも、2、3日遅れたり、素っ気ない内容であったりはするものの、返事がこなかったことは一度もなかった。

 

 これがツグミの勘違いの今ひとつ。種はこうして残っていた。次元を隔てて別れた二人。それでも種はこうしてアイビスの手の中で暖められ、いずれ芽を出すときが来るかもしれない。何時になるのか分からないにせよ、しかし何時の日か、再び二人が出会う日が来るかもしれない。

 

 続けて、アイビスはもう一度文面を打ち込んだ。

 

 マサキ、星がとても綺麗です。あの日と同じくらい。

 

 貴方の顔が見えます。

 

 一通の手紙は、そうしてエーテルの川を流れ、遠い遠い無精者の彦星の下へと旅立っていった。

 

 


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