アイビス×マサキ(スパロボOG)   作:マナティ

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第十八章:訪れた宿命

 

 

   Ⅰ

 

 

 ラングレー陥落から一週間。生存者の救助はそれなりに順調に進んでおり、すでにハガネ隊のみならず地元のレスキュー隊や連邦軍の工兵部隊もまた、救助活動のために現地入りしていた。より専門的な技術をもった救助部隊の到着により、本来であればハガネ隊には撤収命令が出てもよかったのだが、ハガネの航行能力に不安があることと、また僚艦であるヒリュウ改の引き揚げが未だ成らずということもあって、そのまま現地に待機し続けるよう連邦軍総司令部より指示が下されていた。ハガネの修復は「移動式工廠」とも称される修理専門の特務艦隊が現地で行う手はずとなり、すでにラングレーに向かっているところである。ハガネのみならず機動兵器の一斉修理も同時に行われることになっていた。

 

 そういうわけでハガネ隊は依然としてラングレーに留まり、パイロットの面々もレスキュー活動の各種支援を当面の間は続けることとなった。なにせい基地一つ分の面積にも及ぶ地殻陥没であるから、人手も機動兵器もいくらあっても足らない。動かすのが精一杯といった状態のマシンであっても重機やヘリの代わりくらいにはなる。機体の応急修理の済んだ者から次々とそういった作業に駆り出され、逆に機体が修理困難な者は整備班や医療班のサポートなどに加わった。

 

 怪我が回復するやいなや、マサキ・アンドーもまたその列に続いた。彼の場合はいささか皆とは事情が異なり、乗機はほぼ万全の状態にあるも、諸般の事情により衆目の目には晒しづらい機体であるため、あえて生身での労働に従事せざるを得なかった。

 

 ただ結果的にはむしろ効果的であったと言えるだろう。マサキが充てがわれたのは、実際に瓦礫群を歩き回り死傷者を捜索する作業だが、成果はなかなかに目覚しいものだった。災害地における救助犬の有用性は歴史的にも立証されているが、小さな黒猫と白猫の姿をとるマサキの使い魔たちは、犬並みの嗅覚こそ持たずとも人間並みの知性と言語能力、そして簡素ながらいくつかの魔術を操ることができた。そこには人間のプラーナ跡を辿る術も含まれており、救助犬に勝るとも劣らぬ精度をもって、瓦礫の中に潜む死傷者たちの存在を察知することができた。そうして彼らが本作業に取り掛かってからというもの、二日間の間ですでに10人以上の死傷者が発見されている。

 

「やれやれ。気が滅入る仕事だけど、使い魔ですらニャい犬っころたちに遅れは取れニャいぜ」

 

 アメリカ時間で午後十一時時頃。薄暗い谷底の一角を歩きながらそう言うのは使い魔シロである。並行して動員されている救助犬たちに、一応はネコ科に属する身として思うところあるらしく、それなりに張り切っていた。

 

「でもこの恰好とリードは勘弁して欲しいわね。邪魔くさいったらありゃしない」

 

 使い魔クロが文句をつけているのは、擬態のために彼らが着用している動物用ジャケットのことである。災害救助犬ならぬ救助猫であることを示すもので、目が覚めるようなオレンジ色の生地に「RESCUE」と銘打たれている。実用性はともかく、その野暮ったいデザインは女性的思考を持つクロのお気に召すものでは無かった。だがなにより癪に触るのは、彼女らの首からのびる長ったらしいリード紐の方だ。

 

「マサキのペット扱いニャんて心外だわ」

 

「そうだぜ。普段面倒見てやってるのはこっちだっていうのに」

 

 腐されたマサキは、無言で右手に握りしめるリードを引っ張ってやった。ふぎゃあ、との悲鳴が二匹分挙がる。

 

「まったく迂闊に喋るなっての。他のやつに聞かれたらまずいだろうが」

 

 ぶつくさ言いながらマサキは瓦礫の谷を淡々と歩いて行く。その表情に日頃の覇気は見られない。戦闘経験こそ豊富なマサキであったが、さすがにこれほどの規模の災害地を歩き回ったことはない。机、棚、建造物、車、機動兵器。かつて文明の利器であったものがことごとく粉砕され、積み上がり山と化したその圧倒的な光景が、マサキから平時の余裕を奪っていた。廃墟や廃屋が時にそうであるように、これもまたある種、幻想的とすら言える光景だった。たとえ何百という屍体がその山の中に埋まっていると知っていても。いや、知っているからこそ、そう感じるのかもしれない。

 

(なにを馬鹿な)

 

 愚にもつかない考えをため息と共に追い出すと、前を行くクロたちがぴたりと足を止めたことに気づいた。

 

「人か?」

 

「多分」

 

「そう深くニャいぜ。7メートルくらいか。このくらいニャら人の手の方が手っ取り早いニャ。助けを呼ぼうぜ」

 

 シロの言う通りに、マサキは懐から無線機を取り出した。ハガネ隊から借り受けたものだ。しかし、スイッチを入れようとしたところで一旦指を止める。聞き忘れていることがあった。

 

「で、生きてそうか?」

 

「多分だめね」

 

「そっか」

 

 平易な答えに平易に応じ、マサキは改めて無線のスイッチを入れた。簡素な状況説明と援軍要請ののち、程なく一体の機動兵器がホバーを利かせながらマサキらの上空に降下してきた。ライのR-2である。またその手の平には専門のレスキュー隊員たちが、機材を抱えながら乗り込んでいた。

 

「この直下七メートル程度だ。頼むぜ。だが多分死んでる」

 

 マサキがそう伝えると、手の平から降り立った隊員たちは素早く作業を開始した。マサキの指示は、専門の訓練を受けた動物を使っていたとしてもあまりに具体的すぎるものだったが、気付いているのかいないのか、そのことを問いただそうとする者はいなかった。終わりの見えない捜索に、皆疲れてだしているのかもしれない。

 

 雪崩を防ぐべく、楔やつっかえ棒を各所に配置して周辺の瓦礫を固定。そして次々と瓦礫の除去に取り掛かる。幸い積み重なる瓦礫のピースはそう大きいものではなく、リレー運びの要領で迅速に撤去を進められた。その際は、マサキとライディースも列に加わった。

 

 そのうちに乾いた血の香りが漂い始め、掘り出される瓦礫の色も灰色から赤褐色に変わっていった。しかし作業は依然、慎重に進められた。マサキの言に拠らずとも、焦ったところで結果は変わりないと誰もが悟っていた。

 

 やがて掘り起こされたのは一人の女性だった。二十代から三十代あたりで、連邦軍の軍服を着ている。制服の種類からして後方勤務者のようだ。髪は埃まみれ。顔も赤黒く凝固した血に覆われ、まるで仮面をかぶっているかのようだった。美人であったどうかもわからない。

 

 隊員の一人が型通りの確認と蘇生措置を行った。果たして結果は覆らず、隊員の一人が彼女をゆっくりと抱きあげ、すでに用意されていた屍体袋の上に横たわらせた。マサキが手を合わせると、ドイツ系のライも不思議なことにそれに習った。その他の隊員も十字を切ったり、指を組んだりなど、思い思いに弔いの所作をとる。

 

 掘り起こされた人物はレイチェル・スコットという名の女性だったが、この場にそれを知る者はいない。この先、知ることもない。また彼女がいた場所とそう遠くないところに、ヒューイット大佐の五体が散らばっているはずだったが、一面の血の匂いからそれを嗅ぎ分けることはクロとシロにもできなかった。彼女ら二人の間には、やや一方的ながらも確かに存在したささやかな物語があったが、それもまた、このさき誰にも知られることのないものだ。

 

(なんとか見つけてやったぞ。ラッキーだったな。気分はどうだ)

 

 丁重に袋に収められ、ジッパーで封をされていく彼女の姿に、マサキは益体なくも胸中で語りかけた。

 

(アギーハのやつは倒したぜ。俺が、と言えねえのが情けねえけどよ。ちったぁ、気が晴れてくれたか?)

 

 答えが返ってくるはずもない。

 

 やがて機材の片付けも済んで、隊員たちはふたたR-2の手の平に乗り込んでいった。

 

「もうすぐ昼だ。乗っていくか?」

 

「いや、もうちょいやってく」

 

 ライの誘いにそう答えて、マサキは再び使い魔を連れて歩き始めた。その背中を数秒間見送って、ライもまたR-2のコクピットへと戻っていった。

 

 遠ざかるホバー音を背に、黙々と歩みを進めるマサキ。無感情にも見える静けさだったが、事実はむしろ逆だった。体内でふつふつと高まっていく感情の熱源を、マサキは持て余していた。今にも走り出してしまいそうな両足を押さえつけながら、マサキは上空のそのまた遠くを睨みつけた。

 

 待っていろよ。心中で、マサキは告げる。待っていろよ、お前ら。すぐに行ってやるからな。

 

 押し隠しながらも明らかなマサキのプラーナの高まりに、足元を行く使い魔クロはふと主人を見上げた。クロは思う。やはりマサキは魔装機神操者だ。人々の無念、世の悲劇こそが彼を突き動かす。とある少女が、星の夜空に対してそうであるのと対照的に。あるいはまったくの同様に。

 

 まだまだ未熟で、どれほど浅慮であっても、やはり彼は魔装機神操者になるべくしてなった。使い魔としてそれを誇らしく思いながらも、同時にクロは、女性的思考を司るその性ゆえに、そんなマサキの姿にほんの少しの哀しみを覚えずにはいられなかった。

 

 

   Ⅱ

 

 

 現在異星軍は月とホワイトスターに戦力を集結させる動きを見せており、この段階でラングレーを含めた地上軍事施設に襲撃をかけてくる可能性は極めて低いと判断されている。敵が体勢を立て直しているということは、無論のこと地球側にすれば攻め込む好機でもあるのだが、仕切り直しを要する点では、地球側も同じかそれ以上であった。月とホワイトスターにある異星軍戦力は、機動兵器にして1000を超える見込みである。もともと戦力では劣勢であるのだから、多少の数を無視して敵陣に風穴を開けられるハガネ隊の立て直し無しでは戦略が成り立たなかった。

 

 ゆえに今という時間は、敵も味方も小休止というタイミングになっている。荒海に降って湧いた、ほんの一時の凪のようなものだろうか。ボクシングと違ってラウンドも何もない命がけの戦争でも、時折そういう時間が訪れることがある。しかしそのことを有り難く思えるかどうかは、各人それぞれの都合によるだろう。現に、例えばマサキ・アンドーなどは異星人との戦いが思った以上に長引きそうなことに気を滅入らせている。

 

 一方アイビスはというと、どちらかといえば事態をあるがままに受け止めている方だった。無論プロジェクト再開のタイミングが遅れることについては忸怩たるものがあるが、それでもこうして機動兵器ではなく平凡なトラックのハンドルを握り、アメリカの街を呑気にドライブできる時間を持てていることを、それなりに好意的に受け止めていた。

 

「すんません、アイビスさん。運転任せっきりにしちゃって」

 

「いいよ、結構好きだし。それにしてもまさかアラドが運転できないなんて」

 

「いやぁ、スクールでは習わなくって。戦況が一段落したら、教習所に行くっす」

 

「運転できないと、アメリカとかじゃ生活できないしね。ちなみにうちの隊長も運転できないんだよ」

 

「うーん。あの人の場合、代わりに魔法の絨毯が使えても不思議じゃないよなぁ」

 

 ラングレー基地より南に五キロほど下った地点、ハンプトンロードブリッジの入り口あたりを、二人の乗った連邦軍トラックは走行していた。バージニア州を横切るジェームス川をさらに南北に縦断する道であり、3キロほどの海上道路と、2キロほどの海底トンネルが組み合わさって構成されている。

 

 橋を渡り終えて、さらに7キロほど南下したところにあるノーフォークを二人は目指していた。バージニアの中でも2番目か3番目くらいの湾岸都市であり、旧暦の頃は随一の米海軍基地としても有名であった。地球連邦軍に再編された際、ラングレー基地と基地機能は統合されたが、今でも軍需産業のメッカとされており、中でも造船業が盛んである。

 

 とはいえ二人がそのノーフォークを目指しているのは、何も戦艦の買い付けのためではなく、ただ単に日用品を買い揃えるためである。水や食料、医療物資など最低限の必需品については外部からラングレー跡地へと定期的に届けられているが(それでも滞りなくとは言い難いが)、その他の細かな日用品についてはなかなか行き届かない。そのためハガネ隊各部署の要望をまとめてリストアップし、アイビスたちがその買い出しを担うこととなったというわけである。わざわざ十キロ以上も離れたノーフォークを目的地に選んだのは、ラングレー近辺の街が基地陥落の影響の影響で、混雑・混乱著しいためである。実際、ハンプトンローズまでたどり着くのにも、二人は結構な長さの渋滞を乗り越えなくてはならなかった。

 

「にしてもこの買い物リスト、すごい量っすね。半日掛かりになりそうだな」

 

「遅くなったらどっかで食べるしかないね」

 

「いいっすね。頑張って値引きましょう」

 

 アラドはそう言うが、予算は必要量より多少の余裕しか見込まれていない。アラド・バランガは隊内でも有名な健啖家であり、どれほど頑張って値引交渉をしたところで、彼が満足するほどの夕食代が残るかはいささか疑問だった。しかしその代わり味には全くうるさくなく、下手をすれば山ほどのジャンクフードを買い込む羽目になるかもしれない。やはり急ぎで済ますようにしようと、アイビスは内心、気持ちを新たにした。

 

 

「力仕事は任せてください。3人分は働くっすよ」などと事前に豪語していた通り、アラドは街に着くと実によく働いた。薬物で肉体を強化されているという穏やかではない噂も聞いたことはあったが、事実アストロノーツとして鍛えているアイビスの目から見ても、アラドは並みはずれた体力を持っているようだった。

 

「よっこいせっと」

 

 やや年寄りじみた掛け声とともに、アラドは路上に停めたトラックの荷台に最後の荷物を詰め込んだ。生野菜が詰め込まれたダンボール三箱を一気に、である。引っ越し会社の者がこの場に入れば、即刻スカウトにかかっても不思議ではない。

 

「あー重かった」

 

「お疲れさん」

 

「へへ、やっぱ軍用食だけじゃ味気ないっすからね。けどそっちもえらい量っすね」

 

「量は多いけど、こっちはそんなに重くなかったから」

 

 アイビスが買い集めていたのは、主に女性用の日用品である。リストのなかには化粧品・香水などもさりげなく混ぜられていたが、最も共通して皆から求められていたのは生理用品の類だった。重量的には大したことはないが、隊内の女性数からすればダンボールでもかなりの量になる。さすがにこればかりはアラドに手伝ってもらうわけにもいかず、アイビスが一人でこなしていた。

 

「あとはタオルとか洗剤……雑貨類だね。こっちは一緒に行こう。もうひと頑張りいける?」

 

「うっす」

 

 荷台の柵を閉めて固定用バンドを結び、二人は連れ立って運転席の方へ歩きだした。食料もそうだが、量が量だけにコンビニエンスストアやそこいらのスーパーマーケットでは金銭的に効率が悪いので、量販店を目指すのである。雑貨類に対応する総合量販店についてもすでに場所を調べてあった。

 

「アイビスさん、体はもうすっかり平気そうっすね」

 

 助手席に乗り込みシートベルトをつけながら、アラドは思い出したように言った。

 

「うん、嘘みたいに。隊長共々迷惑かけたね」

 

「とんでもないですよ。にしてもマサキさんの方はアイビスさん無しで大丈夫ですかね。今頃捜索される側に回ってたりして」

 

 気楽に笑うアラドに、アイビスはぽりぽりと頬をかいた。アイビス無しであいつは大丈夫か。具体的にいつ頃からかはアイビスも覚えていないが、フリューゲルス小隊が発足されてからしばらくののち、そのようなことをアイビスはよく周りから言われるようになっていた。小隊プレゼンや報告書作成など、隊長業務の大半をマサキがアイビスに任せきりにしている姿が周囲に浸透したためだろう。加えてアイビスが毎日律儀にマサキの道案内役を務めている姿も、ハガネ隊内では日常風景の一つになっていた。

 

 自分の小隊長を揶揄の対象にされればアイビスとしても思うところあるのだが、言い返す材料がいまひとつ不足しがちなのもまた事実であった。

 

「まぁ、きっと上手くやってるよ。もともとどちらかというと一匹狼だったし、別にあたしがいなけりゃってわけでも」

 

「でも相方っていうのは大事ですよ。というより、大事にしておけばよかったと、いなくなって初めて思うもんス」

 

 アラドが一般論として言っているわけではないことアイビスは知っていた。

 

「……そうだね。本当にね」

 

 アラドだけでなく、それはアイビスにとっても実体験に基づくことだった。幸いにもアラドと異なり、アイビスにとっては過去形で済ませられることであったが、それとてほんのすこしの行き違いでどうなっていたか分からない。

 

「アラドも、早く会えるといいね」

 

「いやぁ、俺はそう思ってるんすけど、向こうはどうかなぁ」

 

 アラドは窓の外を見上げながら、そうぼやいた。もしかすれば誰かの面影を探しているのかもしれない。もしも奇跡が働いて、彼が求める人物を見事捕まえることができたとき、きっと彼はその手を二度と離しはしないのだろう。そう思うとアイビスは、以前に名前だけは聞いたことのあるその人物を、すこしばかり羨ましく思った。

 

 対してアイビスの方はというと、彼女の相方は決して彼女を捕まえなどしてくれない。ただ手の平を掲げて立っているだけだ。しかし、それだけで満ち足りていた日々も確かにあった。

 

(しまったな。また考えちゃった)

 

 ここ数日、相方の顔を思い巡らすだけで、アイビスの胸中は不安定に波打った。努めて考えないようにしているが、考えないようにするというのはそれだけでひとつの矛盾であった。

 

 アイビスが抱える悩みとは、本来悩むようなことではなかった。どうしようもないことであり、黙って受け入れるしかないことのはずだった。だというのに、アイビスはなかなかそれが出来ずにいた。そうして煩悶だけがぐずぐずと増大していっている。

 

 戦況が静止しているのは、アイビスにとって一面的には幸運なことであったのかもしれない。このような状態でふたたび小隊を組んだとして、平時通りに役割を果たすことができるかどうか、アイビスは自分でも自分を怪しんでいた。

 

 

   Ⅲ

 

 

 量販店にはほんの二十分ほどのドライブで到着し、アイビスは入り口周辺の駐車スペースにトラックを止めて、早速店へと乗り出した。アラドも続いてトラックから降り、そしてアイビスに気付かれぬようそっと息をついた。本人に全く自覚はないようなので言葉にはしていないが、アイビスの運転は違反擦れ擦れのかなりのスピード感で、カーブや車線変更のたびに押し寄せる結構な慣性に、アラドは身が竦む思いだった。

 

 ともあれ買い物はとくに滞りなく進み、あらかた台車に積んではトラックに運び込み、また店へと戻るを繰り返すこと三回。調達リストの全項目にチェックマークがついたのは、日も暮れてすっかり夕食時になったころのことだった。運転席で斜線だらけのリストを二度三度確かめたアイビスは、ひとつ頷いて赤ペンを懐に仕舞った。

 

 役目はこれで終了であり、これからまたしばらくのドライブとなる。時間が時間であるので、先に夕食を済ませておくべきだろうとアイビスは判断した。この量販店の一階には、幾つかのチェーン店が店舗を出し合うフードコーナーがあった。ファストフードの類もあるのでアラドの胃袋も保たせられるだろうし、なんであれば何かひとつ包んで貰ってもいい。

 

 小隊長の喜ぶ顔と礼の言葉を想像しながら、アイビスは荷台の方へと回った。

 

「全部買い終わったよ。あとどれくらい?」

 

「あとこれだけっす……よっと!」

 

 そういって勢いよく最後の荷物を荷台に載せたアラドだったが、いささか軽率であった。その衝撃のせいで、すぐ近くにある積みの甘かったダンボールの柱がぐらりと傾いてしまったのである。

 

「やば……!」

 

 気づいても、もう遅い。屋根も幌もない軽トラックで固定用のゴムバンドを外していたことも災いし、かくして重さ10キロにもおよぶ野菜入りダンボールの一つが、アイビスの頭上に落下してきた。アイビスは反射的に目をつむり、体を硬直させた。しかしいつまでたっても衝撃はやってこなかった。

 

「ふう、あぶないあぶない」

 

 強張るアイビスの耳元で、そんな声が聞こえた。アラドではない。どこか悪戯げな、若い女性の声。目を開けるとそこにはアイビスとさほど年の変わらない少女がいて、驚くべきことに10キロのダンボールを片手で受け止めていた。

 

「だ、大丈夫すか? いやもう、ほんとすんません」

 

 アラドが慌てて荷台から飛び降りて、女性からダンボールを受け取った。そして惚けているアイビスに対して何度も何度も平謝りし、それを見ているうちにようやくアイビスも我に帰ることができた。

 

 アラドに軽く笑いかけてから、アイビスは改めて恩人の姿を確認した。アイビスも他人のことは言えないが、冬にしてはやや薄手の格好をした人物だった。ファー付きのロングコートを羽織ってはいるものの、その下は真っ白なシャツ一枚で、短い丈のために臍が見えている。下半身はよほどの着古しか、それともファッションなのか、あちこちが破れて素肌を露出させるジーンズだった。

 

(かわいい)

 

 そうアイビスは率直に感じた。あざやかな金髪を肩まで伸ばした結構な器量好しで、道ですれ違えば多くの者が思わず目で追ってしまうだろう。淡い紫の瞳が快活に、愛想よく、それでいてどこか油断なく瞬いていた。

 

「ありがとうございます。本当に助かりました」

 

「いいって、いいって。それよりあんた達、連邦軍の人で合ってる? 彼の服、軍服に見えるけど、随分若いからさぁ」

 

 少女の言う通り、いまアラドが来ているのはハガネ隊から支給された軍服であった。ちなみにアイビスの方はというと私服の上に、いつもの銀色のジャケットを身にまとっている。ラングレーの騒動があるまではプロジェクトTDの制服で通していたものだが、もともとハガネ隊は服装にうるさい風紀ではなく、また公言はできないことだが、プロジェクトTDの制服を実のところアイビスはあまり気に入っていない。暖色系の色合いも、スカートも好みではなく、良い機会であるので今後は私服で通そうとしていた。

 

「はい、一応そうです」

 

「てことはラングレー基地の人?」

 

「はい。あの、あなたは?」

 

「あたしは、その、これ」

 

 どこか言いにくそうにしながら、少女はコートのポケットから小さな徽章を取り出した。曇り方からかなりの年季ものと思われるそれは、奇しくもアイビスとアラド、双方にとって見覚えのありすぎる代物だった。

 

「DCの徽章?」

 

「え、じゃぁお姉さんDC兵っすか?」

 

 二人から驚愕の眼差しで見つめられ、少女は気まずそうに頭をかいた。

 

「そう構えないで欲しいな。気持ちはわかるけど」

 

「DCの人が、どうして?」

 

「水くさいね。ラングレーでは一緒に戦った仲でしょ? まぁ結局こんなことになっちゃったけど、遅ればせながらDCの方でも救援部隊を出すことが決まってさ。あたしもそれに混ざって、これからラングレーに向かうところってわけ」

 

 服装と言動、どちらにおいても全く軍人らしさのない女性だったが、アイビスもアラドも疑いはしなかった。DCから支援が届くという話自体はハガネ隊のモーニングレポートでも触れられていた事柄であるし、なにより駐車場の入り口の方から、こちらはどう見てもDC式の軍服を纏った男性が三人の元へと駆け寄ってきたためだ。その顔が判別できる距離までその男性が近づくと、アイビスの横でアラドが「あ」と声を上げた。

 

「探しましたよ、ご令嬢。好きに動き回られると困るのですが」

 

「いやぁ、ここのパスタはなかなかいけてたよ。あんたたちに囲まれてじゃ、なに食べても美味しくないからね。それよりもほら、ラングレーの人たちと偶然会ったよ。しばらく一緒に働くんだし、挨拶しといたら?」

 

 男の方はしばし不服そうに黙ったが、すぐに諦めたような顔を浮かべてアイビスらに視線を移した。やや気障に髪を伸ばしたそれなりのハンサムで、少女と合わせれば結構な美男美女となるが、不思議とあまりお似合いという感じはしない。

 

「DC所属のユウキ・ジェグナン少尉だ。我が隊は本日ラングレー入りをし、動けないハガネ隊の護衛と、救助活動の支援を担当することになる。よろしく頼む」

 

「あ、ええと、アイビス・ダグラスです。階級は臨時軍曹」

 

「ア、アラド・バランガです。ども、お久しぶりです」

 

「知らん顔だが、どこかで会ったか?」

 

 ユウキのわざとらしいほど酷薄な目つきに、アラドは恐縮しきったように顔を伏せ、頻りに額をぬぐった。そういえばアラドは元DC所属であり、寝返る形でハガネ隊に参加したのだということをアイビスは思い出した。

 

「まぁいい。積もる話は、向こうで落ち着いてからしよう。お前も俺に訊きたいことがあるだろう」

 

「す、すみません。でも、なんだか不思議っす。ユウキさんたちが連邦を助けるなんて」

 

「俺だってそうだ。正直、気は進まん」

 

「まぁまぁ」

 

 手をひらひらさせて取りなしたのは、令嬢と呼ばれた件の少女だった。

 

「異星人を叩き出すまでは、連邦とDCは盟友なんでしょ?なら友軍のピンチを助けるのは当然。むしろ遅れて申し訳ないくらいだよ。あんま堅苦しく考えず、顎でこき使ってやってよ」

 

「……」

 

「はいはい、黙りますよ。そう仏頂面しなさんなって」

 

「もう出発の時間です。大人しくトレーラーに戻って頂けますか、ご令嬢」

 

「やめなって言ってるだろ、それ」

 

 少女はユウキをじろりと睨みつけた後、アイビスらには打って変わって愛想よく片目をつむり、

 

「んじゃ、あたしたちは先に行ってるよ。ラングレーで会おうね」

 

 そうして、ユウキを連れ立って踵を返していった。突然の、あまりに不可思議な出会いに、アイビスとアラドは二人して目を白黒させるばかりだったが、ややあって少女の方が立ち止まり、二人の方を振り返った。金糸の髪が華やかに踊った。

 

「そうそう。名乗ってなかったね。あたしはリューネ。よろしくね」

 

 

   Ⅳ

 

 

 リューネとユウキが言った通り、DCの援軍部隊はその日のうちにラングレー入りをした。人員117名、機動兵器32機、その他重機類や物資も兼ね備えた大所帯であり、当日は準備と挨拶のみに留まり、翌朝から正式稼動を開始した。

 

 もとは不倶戴天の敵同士、DCとハガネ隊の協調を疑問視する声も少なくはなかったが、ひとまず両軍の長同士の挨拶についてはとくに滞りなく済んだ。あるいはそれ目的で選抜されたか、DCの援軍部隊を率いているブリジッダ・アンサルディ中佐は、穏やかな物腰とユーモアセンスに富む女性佐官で、とりわけテツヤ副長やレフィーナ艦長、ショーン副長らの緊張を解くのに大いに手腕を発揮した。アラドを初めとしてハガネ隊には過去にDCと縁を持つ者も少なくないのだが、その点についても特に何かを言う事もなかった。

 

 いずれにせよ、今後彼女率いる部隊は救助活動の支援と、なにより実質戦闘不能状態に陥っているハガネ隊の護衛の任に就くことになる。敵を守る、敵に守られるとあっては、守る側も守られる側も到底平静ではいられまいが、これもひとつの時勢であった。事態を粛々と受け入れるよう、間違っても無用な諍いは起こさぬよう、両軍の長は各々の配下に厳しく言い含めた。

 

 なおそういう状況もあってか、アンサルディ中佐の命により翌朝にDC兵たちが真っ先に取り掛かったのは屋外厨房ならびに食堂スペースの設営だった。二つの集団の緊張関係を解くにあたって、同じ釜の飯を食うに如くはなし。両軍共用の食堂を作り、同じものを食べることで少しでも緊張緩和を促進させようという目論見だった。

 

 いかにも女性ならではのアイディアに、ダイテツ艦長らも反対する理由を持たず、むしろ厨房係の支援として自部隊の司厨員と、ついでにパイロットでありながらしきりに腕を鳴らしているレーツェル・ファインシュメッカーを提供した。そのようにして作られた交流の場は、予想以上に有効的に機能したようである。ハガネ隊、DC軍は無論のことだが、第三軍であるレスキュー部隊、医療関係者らも上手く緩衝材の役割を果たして、各軍各職入り混じった一大団欒会場が出来上がっていた。

 

「アラド、あんた一体全体今まで何してたの! ひとっつも連絡よこさないで!」

 

「ま、待てゼオラ。とりあえず包丁を置けよ」

 

 DCが合流してから早二日。昼食時の屋外食堂ではそんなやや穏やかでないやりとりも含め、あちこちで談笑・喧騒が巻き起こっていた。延々と続く屍体漁りに辟易としていたハガネ隊・救助隊らにしても、DC軍の来訪は良い気持ちの切り替え時になったのだろう。連邦軍服とDC軍服が肩を並べて飯を突く光景も、もはや珍しいものではなくなっている。

 

 そんな食堂スペースの賑わいを他所に、屋外厨房の一角を借りて、アイビスは簡単な手料理を作っていた。あまり料理は得意ではないのだが、サンドイッチやホットドッグ程度なら全く問題ない。それにお茶を添えて、簡単な弁当を作ろうとしていたところで、ちょっとした知人とのささやかな再会を果たすこととなった。

 

「や、また会ったね」

 

「あ、リューネさん」

 

 駐車場以来の邂逅となる。といってもアイビスの方は、リューネのことをこの二日間でもしばしば見かけはしていた。捜索部隊の手伝いに入り、大男でも手こずるような巨大な瓦礫を、笑いながら軽々と持ち上げる姿が印象に残っている。

 

「リューネでいいよ。同い年か、あたしの方が下でしょ? ねぇ、よかったら一緒に食べない? 今のDCって女の子が少なくて、身の置き場がさ。ゼオラもカーラも男にべったりだし、ちょっと前は女だけの部隊とかもあったりしたんだけどねー」

 

「喜んでと言いたいけど、ごめん。あたしこれから下に降りなくちゃいけないんだ」

 

「ありゃま、休憩時間なのに。急ぎの要・救助者がいるの?」

 

「まぁ、そうだね。遭難者の救助ってやつ。早く迎えにいってあげないと。その替わり、よければ今晩一緒にどう? みんなを紹介するよ」

 

「いいね。楽しみにしてる」

 

 二人はそう笑い合って再会を約束し、この場は別れることなった。

 

 アイビスは手早く二人分の弁当をつつみ、お茶を入れた水筒も持って足早に出かけて行った。目指すは陥没地帯の底、瓦礫の谷である。機動兵器やヘリに乗せてもらえれば手っ取り早いが、食事時に頼めることではないので歩きで行くことにしていた。救助隊が何百枚にも及んで設営したタラップを使えば、時間はかかるものの歩きで直接谷底へ降りていけるようになっていた。

 

 幾重にも折り返す鉄製の坂道を下りていくこと、片道15分。ようやく瓦礫の谷に降り立って、アイビスは携帯端末を取り出しGPSナビを作動させた。軍用のもので、メートル単位で対象の信号を探査できる。そうして早速目標物の反応を見つけた。彼なりに一生懸命ここを目指していたようで案外近くにいるが、そこから徐々に逆方向へ移動していることから、やはり来て良かったと見るべきだった。

 

 数分後、これもまた救助隊が設営した歩行路を使って、アイビスは難なく小隊長の下にたどり着いていた。

 

「はい、お迎えに来ましたよーだ」

 

「……」

 

 ばつが悪そうに、マサキは顔をしかめた。

 

「いい加減、単独行動は控えて欲しいですねぇ」

 

「こいつらの声を聞かれるわけにもいかねえだろ」

 

 そうマサキは言い訳をし、その責任転嫁としか言いようのない言葉にクロとシロは揃って抗議の鳴き声を挙げ、総じて全く平常運転な何時ものやりとりに、アイビスは仕方なさげに微笑んだ。

 

 二人はいつものように地上へと続くタラップのところで足を止めた。

 

「今日もここにする?」

 

「おう」

 

 一面見渡す限りの瓦礫の海を眺めながら食事をするのもいかがなものであるが、上で人混みの中あれこれ喧しく言い合いながら取る食事もそれなりに大変である。とりわけマサキなどは、立場上なにかと話題の好餌になりやすい。また少年ほど煙たがりはせずとも、人混みを得意としないのはアイビスも同じだった。

 

 二人は並んでタラップに腰掛け、アイビス手製の弁当を広げた。

 

「そうそう、DCにすごい人がいるよ。あたしと同じくらいの女の子なんだけど、こんな大きな岩も持ち上げちゃうの」

 

「ゴリラみてえだな。いるんだな、そういう漫画みてえなの」

 

「ところがどっこい、てんでそう見えないの。腕も腰も細いというか、豹みたいにしなやかでさ。あたし、最初見たときはダンサーかロック歌手かなんかだと思ったくらいだもん」

 

「ふうん、見てみてえもんだ」

 

 興味2割、義務感8割でそう言いながら、マサキはサンドイッチを咥え込んだ。そしてその状態のままタラップの先を振り返って、何かを探す所作をした。

 

「どうしたの?」

 

「いんや。誰かに見られているような気がしてな」

 

「んん?」

 

 アイビスが振り返っても誰もいない。マサキとて別に確信があったわけでなく、「なんとなくそんな気がした」程度の感覚であったので、気にせず食事に戻った。

 

 そうして、二人でサンドイッチをパクつく時間が続く。

 

「夜はちゃんと上に行こうね。買ってきた食材で、レーツェルさんが腕を振るってくれるってさ」

 

「そりゃいいな。米はあるか?」

 

「贅沢言っちゃ駄目だよ。レーツェルさん洋食派なんだから。あたしが今度ライスボール作ってあげる」

 

「マジでか、梅干し入りで頼むぜ。いや好き嫌いはねえけど、握り飯といったら俺は断然梅干しだな」

 

「ウメボシ……あぁ、ピクルド・ウメか。どっかにあるかなぁ」

 

 他愛のないやりとりであった。あまりに平穏で当たり障りのない、毒に薬にもならない、平らかな会話。しかしアイビスはこれで良いような気がしていた。

 

 彼女のなかには一つの煩悶の渦があって、その渦が彼女をも苦しめている。実のところ、こうしている今でさえもだ。それでも、この穏やかな時間を失ってしまうことに比べれば、どうってことのないように思えるのだ。有り体にいえばアイビスは変化を恐れていた。

 

 避けえない別れがいつかやって来る。避けえないのならば受け入れるしかない。ならばせめてそのときまでは、激しい喜びはなくとも、深い悲しみもない、寄り添い合う花のように和やかな関係性を続けられればいい。

 

 アイビスは本当に、それだけで良いように思えた。

 

 

 それでも、変化の兆しは否応無しにやってくる。それもまた、こつんこつんとタラップを叩く静かな足音ともにやってきた。マサキが振り返る。アイビスもまた。今度こそ、そこにはゆっくりと歩み寄ってくる新たな来訪者の姿があった。

 

 そうして彼女はアイビスたちの元へ、あるいはそのうちのただ一人の元へ、まるでそれが不可侵の宿命であるかのように、何気なくやってきた。

 

 

   Ⅴ

 

 

「フリューゲルス小隊っていうのはあんた達?」

 

 そう声がかかった。ダンサーみたいと先ほどアイビス自身が評じたそのしなやかな肢体と淡いアメジストの瞳に、なんとなくアイビスは気圧されるものを感じた。

 

 いや、先ほどの厨房でも、あるいは初めて出会った時もそうであったかもしれない。なんとなく彼女の笑顔を前にすると、アイビスは思わず半歩下がってしまうような、そんな感覚を覚えるのだ。

 

「ハガネの艦長がお呼びだよ。今の所、動ける艦載機はあんた達だけなんだってね。何かあったときは連携しなきゃいけないし、今のうちにきちんと顔合わせをしとけってさ」

 

 リューネは、今度はアイビスの方を見た。さきほどまでずっと、彼女はパンを口にくわえたままのマサキの方をじっと見つめていた。

 

「アイビスもハガネ隊のパイロットだったんだね。驚いちゃった」

 

「言ってなかった? まぁ、臨時の雇われなんだけど」

 

「あは。じゃぁ、あたしと同じだ」

 

「リューネもパイロット?」

 

「うん、まぁ。改めて宜しくね」

 

 そしてリューネは、まるでそちらが本来の目的であるかのようにマサキの方へ視線を戻した。

 

「で、そっちがマサキ・アンドー? ハガネ隊の裏撃墜王の」

 

「撃墜王かどうかは知らねえが、マサキってのは俺だ」

 

 さすがに座ったまま初対面の挨拶もない。食べ終わった弁当を包み直して、マサキはゆったりと立ち上がった。アイビスの胸に、かすかに不安のそよ風が吹く。マサキが撃墜王であることは、そのまま人一倍多くのDC兵を葬ってきたことを意味する。

 

「そう、あたしはリューネ。宜しく」

 

「DCだっつうんなら、ひょっとしてどこかで会ってるか?」

 

「ううん、これが初めて。でも会うのは楽しみにしてた」

 

 二人は型通りに握手を交わした。その手にも、またリューネの表情からも剣呑なものは伺えない。しかし何故だろう。アイビスの胸中のざわつきは鳴り止まなかった。アイビスの中の何かが言っている。あるいは世を見渡す何者かがアイビスに囁いている。出会ってはならない二人が出会ってしまったのだと訴えかけている。

 

 そんなアイビスの、彼女自身正体が掴めない動揺はつゆ知らずに、リューネは早々に手を戻して、二人に道を開けるように壁際へと下がった。

 

 それだけの所作であったが、マサキはなんとなく彼女の動きから武芸の匂いを感じ取った。第二の故郷で散々目にしてきた達人の立ち振る舞いと同じ感触があった。

 

「早めに上に戻ったら? みんな待ってるからさ」

 

「そうだな。行くか」

 

 言われてアイビスも立ち上がり、アイビスとマサキは連れ立って歩き出した。立ち退いたリューネの前をマサキが通り過ぎ、そしてアイビスも続こうとする。ふと何気なく、本当になんの怪しさもなく、マサキの肩がリューネの前を過ぎった瞬間に、彼女の両手がコートのポケットにそっと仕舞われた。アイビスはちらりと少女の方を伺い、そしてそのまま通り過ぎた。瞳を隠す前髪と、微笑みの形のまま張り付いたように動かない口元が、なんとなく印象に残った。

 

 数十メートルの崖を下るため、タラップの坂道は何度も折り返すようになっている。その一つで向きを変え、アイビスは自然とリューネの姿を眼下に探した。リューネはさっきの場所から動いていなかった。表情の方は窺い知れない。ただぼんやりと空を見上げているように見える。買い出しの車中でアラドが見せたように、まるで誰かの面影を、空に探すように。

 

 

 

 

 


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