アイビス×マサキ(スパロボOG)   作:マナティ

18 / 24
第十七章:星の少女は風の夢を

 

 

   Ⅰ

 

 

 奇妙な転回がその世界では起こっていた。

 

 戦士達は銃ではなしに剣を手に取った。その方が合理的であると知っているからである。

 

 賢者達は本を棚に戻し、神殿へと向かった。そこがより真理に近いと分かっているからである。

 

 兵士は騎士となり、学者は信仰者へと。一見して時代の逆行とも取れるその様は、実際のところまるで逆であった。幾星霜の時を経て、気が遠くなるほどに進歩と発達を重ねた末、その世界の文明はそういった形に辿り着いていた。進化と退化は紙一重。万物はすべからく円環する。そう証立てるような、本当に奇妙な革新がその世界では起こっていた。

 

 

 

 アイビスはいつものように、愛機を駆って大気を飛翔していた。アステリオンではない。今彼女が駆るのは全く別の、しかし確かにアステリオンに連なる機体であった。それはある一人の若者と、一人の少女の夢を鋼に刻んだもの。そして多くの英知によって削りだされ、ついに形を為したもの。

 

 シリーズ77α アルテリオン。

 

 地上においては現行最新最高の人型外宇宙航行機。

 

 また別のところでは「地上のディシュナス」とも称される高速の空戦騎。全長28.3メートルとサイズ自体はアステリオンよりも一回り大きいのだが、それでいて全体的な印象はより細く、軽やかなものとなっている。そう思わせるのは両肩から延びる、アステリオンの頃は大剣を思わせるほど大きく分厚かったテスラ・ドライブが、さながら槍のように細く鋭いものに替わっているためだろう。しかし頼りなさは微塵もない。進化と退化は紙一重。人の身で鳥に近づこうと無理に長大な翼を後付けていたかのようなアステリオンに対し、アルテリオンはまさしく鳥に生まれ変わったかのように自然のままに、最適な形の翼をその身に宿していた。

 

 歪さや奇形はすべからく洗練され、他のあらゆる要素が精錬され、ついに完成した未来の外宇宙航行機。まさしくプロジェクトTDの集大成と言えるそれを自在に操って、アイビスは風の中を駆け抜けていた。

 

 そう、風の中を。

 

 宇宙ではない。星の海はここにはない。

 

 ここは地球という名のボールの内側。頭上には不動の太陽。眼下には球内面状に歪曲する地平なき大地。そして閉じられた空。

 

 ここは異世界ラ・ギアス。その空をアイビスは飛んでいた。

 

「こちらフリングホルニ。どうかしら操縦の調子は。なんかおかしいところとかない?」

 

 不意に通信音声が降って湧き、モニターに紫の髪をした少女の姿が映った。アンティラス隊の自称天才メカニックであり、とある少年がいうところの「機械オタクのお姫様」だ。お姫様と呼ばれる通り、年若ながら気品のある整った顔立ちをしているのだが、遠慮無しに爛々と輝く瞳が、美しさよりもまず先に彼女自身の情熱とお転婆加減を強烈に主張していた。

 

「悪くないよ。けど不思議な感じ。思っただけで機体が動くなんてさ」

 

「ごめーん。プラーナ・コンバータを積むには、どうしても操縦系を弄らなくちゃいけないの。でも追従性は上がってるはずよ」

 

「うん、そう思う。なんか羽がもう一枚生えたみたい」

 

 お世辞ではなく、地上はおろかラ・ギアスですら並べる者数少ないアルテリオンの機動性が、さらに溌剌としているのをアイビスは如実に感じ取っていた。手動式であったそれまでの操作系統をラ・ギアス流の思考制御に切り替えたことによって、アイビスの意志がよりダイレクトにアルテリオンに伝わっているのである。染み付いた癖もあってやや戸惑うところもあるが、全体の感触としては非常に良好であった。

 

「魔装機神ほどじゃないけど、結界装甲によって機体剛性も上がっているわ。リミッターの位置も下げておいたから、もっともっと飛ばしても大丈夫よ。とはいってもプラーナ消費にだけは気をつけてね。こればっかりはプロペラントを積むってわけにはいかないから」

 

「限界速度でどのくらいもつの?」

 

「訓練で大分替わってくるけど、今時点だと休憩無しで四時間ってところね」

 

 航続性能を犠牲に、瞬発力が上がったといったところか。理にかなう調整にアイビスはひとつ頷いて納得した。

 

 他にも武装切替のプランがようやく固まりそうだと、通信窓の少女は口喧しくあれこれと捲し立てた。聞けば、アルテリオンに元々搭載されていたミサイル群はラ・ギアスでは補給が難しいので、熱素弾頭のものに換装されるらしい。Gドライバーについては、ラ・ギアスでも電磁加速砲がメジャーな兵器となっているので流用が効き、そのままにされるとのことだ。

 

 そうなれば使い勝手としては、従来ともあまり変わるまい。ラ・ギアス式に改造されると聞いたときは、たとえば水の魔装機神のように杖をもって様々な魔法を使いこなす羽目になったりはしないかと危惧していたアイビスだが、そんなことにはならなさそうで安堵する反面、ほんのすこし残念でもあった。

 

 変わり映えするものと言えば、せっかく導入したプラーナ技術を有効活用するためにも、オリハルコニウムの実体剣をひとつ装備することくらいだろうか。敵の結界装甲を破るには、操者のプラーナが込められた近接武器を敵操者の意識外、つまり側面や背後に叩き付けることが最も効率的であると聞く。魔装機同士の戦いが剣と剣による白兵戦を主としているのはそのためである。結界装甲を問答無用に貫ける遠距離火器は、本当に限られた砲戦型魔装機か、もしくは魔装機神しか装備していない。これは人と人の戦いにおいても同じ事が言え、だからこそこの世界では銃よりも剣技が尊ばれていた。

 

「さーらーにっ! アルテリオンにもともとあったドッキング用ハードポイントを利用した、あたし式追加ユニットの増設計画も目下絶賛推進中よ。あたしの中だけでだけど。それが完成すれば、もうそうなったらそれはもはやアルテリオンではないわ。アルテリオン・ロイ? アルテリオンR? ううん、それはアルテリオンを超えたアルテリオン。言うなればハイパー・アルテリオン。そう! つまり! 略して!」

 

 有り余る情熱の雄叫びを右耳から左耳にしながら、アイビスはテストフライトを切り上げ、母艦フリングホルニへと進路を変更することにした。そしてモニターのお姫様は、そんなことはおかまい無しに彼女自身の願望なり欲望なりを吐露し続けた。

 

 聞かれぬよう、アイビスはこっそりと溜め息を付いた。ハガネ隊も大概であったが、アンティラス隊面々の個性豊かさときたらその斜め上を行くかのようだ。このお姫様もれっきとした正魔装機操者であり、魔装機は操者のプラーナを力の源とする。そしてプラーナとは人の心に宿る精神力、あるいは感情のうねりそのものであり、そのせいなのかどうかは分からないが、アンティラス隊の魔装機操者はちょっとした奇人変人博覧会のような様相を呈していた。

 

 いまやその末席に自分がいるのだと思うと、アイビスはやや複雑な表情を見せながら、ぽりぽりと鼻のあたりを掻いた。魔装機神と同等の慣性制御システムを積んだ為に、窮屈なパイロットスーツを着ることなくアルテリオンに乗り込むことができるようになったささやかな恩恵であり、また、長らく一緒に過ごした誰かの癖がうつったものでもある。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 あらゆる国家から独立する魔装機神とその旗下に集う正魔装機たちは、「アンティラス隊」という組織名を聯盟から授与するに至り、ラ・ギアス全体の平和維持や、国家間の調停役を正式に担うこととなった。立ち位置としては地上の旧暦における国連軍にも近いのだが、昔の国連軍が連合に加盟する各国から必要に応じてその都度兵力を提供される、言わば臨時混成軍であったのに対し、アンティラス隊は初めから独自の兵力を有する独立部隊であるという点が明確に異なる。その代わり独自兵力の維持や経営もまた独自に行なわなくてはならず、その有り様はもはや一つの企業にも近い。否、どこの国に対しても指揮権を与えず、納税の義務も負わず、そしてその代償にどこの国からも保護や恩恵を授かれない彼らは、すでに一国家とすら呼ぶことができた。

 

 当然、そのようなことが限られた人数のパイロットたちだけで勤まるはずもなく、そのためかアンティラス隊の旗艦であるフリングホルニには地上の戦艦と比べて非戦闘員のクルーが異常に多い。この艦は戦艦である前に一つの国家であり、領土であり、そこに済む国民達の生活、働き、その他あらゆる営みの場なのだ。

 

 そしてたとえば国家間紛争の調停や邪神教団によるテロリズム防止など、平和維持に必要不可欠で尚かつ矛盾するようだが武力行使による早期決着を必要とする事態が発生した場合、アンティラス隊は聯盟からの依頼のもとこれらを為す。規模にもよるが、その達成報酬として数千万から億単位の報償金が聯盟より支払われ、これがアンティラス隊の主な収入源となっている。

 

 アイビスもまた、そんなアンティラス隊に属する者の一人だった。やることはこれまでと同じく一パイロット……とは全くもっていかなかったことが、アンティラス隊に入ってアイビスが最も驚いた事の一つだった。

 

 なにせ一国家も同然なアンティラス隊であり、魔装機神および正魔装機操者となればその代表であるから、やるべきことは山ほどある。他国政府や外交や折衝、諜報活動、国際会議の参加、練金学協会との技術交流、隊の財務管理、隊内軍法の立案と施行、隊内軍法会議の実施、艦内福祉の改善、報償金以外の収入源確保と運営、新型魔装機の設計や手配、補給物資の調達管理等々。ハガネ隊にいたころはハガネ隊以外の、恐らくはハガネ隊よりも遥かに大人数の者がやってくれていたであろうことを、アンティラス隊においては全て自分たちでこなさなくてはならなかった。

 

 つまりアンティラス隊における魔装機神および正魔装機操者というのは、言うなればパイロットの他にも大統領、外交官、国会議員、裁判官、諜報員、各種企業経営者、その他諸々の多種多様にして千差万別な役割を全てごちゃまぜにして、その上で自主的に担うか、適正を見込まれて任命されるか、あるいは適当にその場の勢いで割り振られてしまう者たちのことを指すのだ。そして魔装機神操者でも正魔装機操者でもないはずのアイビスもまた、その一味には違いないという理屈で同様の扱いを受ける羽目になってしまった。

 

 たとえば大地の魔装機神操者などはアンティラス隊所属の魔装機をグッズ化したものや操者のプロマイド等を扱うブランドショップの経営をこなしている。といっても、さすがに彼女が本当に一から十まで経営を担うわけにもいかないので、業務監督役もしくは名誉会長もどき役を担っているというのが実際のところである。なんにせよ、地上であればジュニア・ハイスクールに通っていなければならない年齢にも関わらず、それに見合わぬ才覚の持ち主であったらしく、額はそこそこながら長期に渡る安定した収入を見事に維持しており、あまり思い出したくはないがアイビスも売り子としてその店の手伝いをしたことがある。

 

 他にも水の魔装機神操者がバゴニアという国と首脳会談を行なう際は、「女同士だし、アルテリオンだと早く着くから助かるわ」などという全く腑に落ちない理由でアイビスも連れて行かれてしまったことがある。案の定アイビスは緊張のあまり一国の首相の前で盛大な粗相をしでかしてしまい、バゴニアの歴史に不名誉な名を刻んでしまう羽目になった。 

 

 真剣に命の危険を感じたのは、炎の魔装機神操者がとあるテロリスト集団の首魁を直々に尋問したときのことだ。その際なぜかアイビスも書記官として同席することとなり、その首魁共々物言わぬ屍となっているところを翌朝尋問室で発見された。約十二時間ものあいだ尋問室でなにが起こっていたのか、なぜ自分は気絶していたのか、いまもなおアイビスの記憶は固く封印されたままであった。

 

 他にも例を挙げようとすれば、それこそ枚挙に暇が無い。会計士の手が足らないため隊内損益計算業務の手伝いに駆り出されたときなどは、しばらく数字に追いかけ回される悪夢に悩まされた。正魔装機操者とアンティラス隊のエース諜報員を兼ねる、ドイツ出身のややうさん臭い男に付き合わされたときは、あやうくボンドガールの真似事をさせられるところであった。さらにはインディアンの末裔にしてアル中一歩手前の女性正魔装機操者が「じゃんじゃん酒代ふんだくろうね」などと言いつつべろべろに酔っぱらった状態でアイビスの襟首を掴んできたこともある。どこに行くのかと問えば、「ん? 聯盟総会」ととんでもないことをあっさりと告げられ、アイビスは本当にこの世の終わりかとも思った。それで本当に予定よりゼロが一つばかし多い数字を獲得してしまったときは、アイビスは総会議事場のまっただ中で、つい懐かしの米語で「マイ・ゴッド」と悲鳴を挙げてしまった。

 

 夢を追いかけ、ひたすら空に挑み続けた日々は古いアルバムの一ページとなって遥か天球の彼方に吹き飛び、アイビスはそんなふうにして、四人の魔装機神操者を筆頭とする個性的すぎる仲間達と共に、忙しくせわしなく胃が痛む、しかしながら賑やかでなんとも面白可笑しい日々を送っていた。そして無論の事、有事の際は命をかけた戦場に身を投じ、力の限り戦い抜いた。

 

 元来、アイビスは戦いを好まない。そんな彼女がなぜ戦いを生業とする(それ以外の仕事も多々ありすぎるが)組織に所属しているかと問われれば、アイビスも返答に困ることだった。

 

 テストフライトを終え、フリングホルニ格納庫の定位置にアルテリオンを固定し終えたアイビスは、コクピット脇に待機していたリフターに乗って操作盤を軽く弄くった。イオンクラフトによって浮遊していたリフターが、音もなく地面に下りて行く。

 

「おかえりなさーい、アイビスさん」

 

 床に降り立ったアイビスに、そんな出迎えの言葉が届けられた。学生服に身を包んだアイビスよりも頭一つ背の低い少女が、なにかが決定的に間違った三匹のカモノハシを連れながら、元気よくアイビスに手を振っていた。

 

 どうみても女学生にしか見えない少女だが、れっきとした魔装機神操者の一人であり、大地の精霊の加護を受ける者である。アンティラス隊という名の国に君臨する四人の元首のうちの一人であり、他国家の大統領や国王、さらには聯盟事務総長すら、この少女に対して何の命令権も持たない。

 

 しかしそうと知った後でも、アイビスの瞳に写る少女は、やはり少女に過ぎなかった。やや突飛な言動なり趣味なりを持っていたりはするが、恋話には目を輝かせ、哀しい映画には目を潤ませ、美味しい食事には喜色満面となり、休日にはアイビスと一緒にショッピングに行ったりもする、なんて事のない普通の少女だった。

 

 やがて二人の側に、多くの人間が集い始めた。息を飲むほどの美貌を持った北欧系の女性。鉄で出来たようにまっすぐな眼差しを持った中華系の男性。さきほど通信でさんざんに喋り倒した機械好きの姫に、先ほどの北欧美女に輪をかけて、それこそ息をするのも忘れてしまうほど輝かしい美貌を持った練金術士。剣技なら隊内有数の腕前を誇る寡黙な剣士。まだ十歳程度の、あどけなくも可憐な少女と連れ立って現れたのは、優れた人格と非の打ち所のない能力とたった一つの致命的な短所を併せ持つ元バゴニア軍人だった。

 

 アイビスと同様、地上から来た者もいれば元々この世界で生まれた者たちもいる。そんな彼らと、アイビスはそれぞれに言葉を交わし、それぞれに笑い合った。

 

 なぜこの世界で戦うことを選んだのか。アイビスにとってその理由は色々ある。地上とよく似ていて、それでいてどこか違うこの世界の風景を美しいと思った。そこで得た気のいい仲間たちと、こうして語り合う時間を楽しいと思った。彼らとともに、慣れない仕事や生まれて初めて行なう業務に目を回しつづける日々を豊かなものに思った。

 

 それでも、やはり最たるものは一つであるのかもしれない。また道にでも迷っていたのか、その最たる理由は一同より十数分は遅れてのこのことやってきた。銀のジャケットにジーパン姿、両肩には二匹のネコをぶらさげたいつも通りの出で立ちで。

 

「おう、お疲れ」

 

 あの頃と何一つ変わらない姿で、少年はアイビスの前に立ち、軽く手を挙げた。ハガネ隊にいた頃にずっとずっと見てきたものと、本当に何一つ変わらない姿で。

 

 やはりこれなのだろうと、アイビスは思うのだ。一仕事を終わらせた後、あるいは死に物狂いの戦いが終わった後に、こうして彼が見せてくれる何気ない笑顔。掲げられる手の平。彼という存在そのもの。

 

 それら全てをアイビスは愛しいと思うのだ。失いたくないと強く強く思うのだ。だからこそ、それまで歩んでいた道を外れ、こうして異世界にて彼とともに生きることを選んだのである。

 

「あのねマサキ。自分の秘書に対して、もっと気の利いたねぎらいはないわけ?」

 

「いやご苦労。今年のボーナスは楽しみしておけ」

 

 大地の魔装機神操者からの苦言に、風の魔装機神操者は、その属性相性を立証するかのごとく斜め上の態度で応じた。だめだこりゃ、と肩を竦める少女であったが、アイビスにしてみれば何一つ気にすることではなかった。

 

 こんな日々がずっと続けば良い。こうして皆で笑い合い、彼と共に時を過ごせるのならそれでいい。そのためなら、アイビスはどんな敵とだって、いくらでも戦うことができた。

 

 いつか全てが終わり、彼と共に安らかな暮らしを送れるようになるその日まで。

 

 だからアイビスはいつものように、心からの満面の笑顔を見せて、こう言うのだ。

 

「ただいま、マサキ」

 

 

 

 そうして世界は暗転する。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

「もしもし。ねぇ聞こえる!? 二ヶ月だから! あと二ヶ月で帰るから! お願いだから前みたくすっかり忘れて、どっかにでかけちゃわないでよ! ちゃんと家で待っててね!」

 

「へいへ……ってるから……でけぇこ……じゃね……」

 

 太陽風の具合か、彗星による磁気嵐か。しきりに乱れる映像と途切れ途切れの音声と、それでいてなお火を見るよりも明らかな通信相手の気のない素振りにアイビスはやきもきするばかりだった。通信の乱れはますますひどくなり、結局碌に意思疎通もとれないまま、とうとう相手の方から通信を切られてしまった。

 

(あんまりだ……!)

 

 アイビスは大きく天を仰いだ。なんてことのないTV電話だが、外宇宙探査任務につくアストロノーツにとっては非常に重要な意味を持つことを、何度口酸っぱく言っても彼は理解しようとしない。それどころか、過去ものの見事にすっぽかされたこともあった。顔なじみの通信士から困ったような、同情するような、それでいて笑いを堪えるような顔で「さっき電話してみたら『忘れてた。まだ家だから今日はパス』だそうで」などと告げられたときは、アイビスは怒りと憎しみのあまり卒倒しそうになった。

 

 閉鎖的環境に数ヶ月間籠る事も珍しくないアイビスたち探査チームにとって、最大の敵となるのはスペースデブリでも異星人との遭遇でもなく精神的ストレスである。そのストレスを緩和させるのに家族や友人とのたった数分間の交流は非常に有用とされ、だからこそ任務中のアストロノーツたちには定期的な個人通信が半ば義務づけられてすらいるのだ。

 

 だというのに相手がこれでは、とアイビスは地団駄の一つでもしようかと思ったが、ここでいくら足を踏み鳴らしたところで70AUも離れた地球へ届くはずもない。

 

 いまアイビスがいるのは、地球からプロキシマ・ケンタウリ恒星系方面へ、先述したようにおよそ70AUほど進んだ地点である。AUとは地球と太陽の平均距離を1とした単位であり、70AUとはつまり約105億キロメートルを指す。地球から冥王星までの距離がおよそ50億キロメートルであるから、その倍に当たる距離を踏破したことになるのだが、まだまだ一光年=約6300AUにはほど遠い。そしてプロキシマ・ケンタウリまでの距離は4光年とされている。太陽系に最も近いと言われる恒星ですらそれなのだ。あまりにも宇宙は広かった。

 

 外宇宙探査プロジェクトも既に第四次を数えているが、探査チームと地球との間での通信精度にはまだまだ課題が残っていた。数十AUもの距離を隔ててしまうと、お世辞にもリアルタイムとは言い難い通信状態になるし、今のようにほんの少しでも周囲の電磁波が荒れていると碌に連絡が取れない羽目になる。

 

 無論、探査チームが孤立無援になってよいはずもなく、いまアイビスたちが乗る外宇宙航行用大型アーマード・モジュールより約一億キロメートルほど離れた中継点には、探査母艦であるヒリュウ2が待機している。そことの通信状態は今でも良好を維持しており、それにより探査作業中のアイビスらの安全も守られているのだが、少なくとも今はアイビスにとって関係のないことだった。

 

 地球との、もっと言えばアメリカ州テキサスにあるジョンソン宇宙センター、そこの管制室に栄えある探査チームの身内として特別招待を受け、いまごろは専用大型通信機の前で頬杖をつきながら耳の穴でも掻いているかもしれない一人の少年と、きちんとしたコミュニケーションを取れないことが非常に深刻な大問題なのである。

 

「あったまきた!」

 

 アイビスはがっぽがっぽと床を踏み鳴らしながら、ずかずかと居住区画の狭い廊下を進んで行った。靴底に仕込まれた磁石の為せる技だが、吸着音が余計に耳障りでもある。そのままトレーニングルーム……といっても7畳程度の広さしかない小さなものだが、その部屋のシャッタースイッチを乱暴に押し込んだ。

 

「どうした、不機嫌そうだな」

 

 中に入った途端に舞い降りてきた頭上からの声にアイビスが天井を見上げると、チームメイトの一人と上下から視線がぶつかった。背中まで黒髪を伸ばした結構な美人で、壁からにょっきりと垂直に生える自転車型エルゴメーターに乗り、えっちらおっちらとペダルを動かしている。このトレーニングルームは横に狭い代わりに縦に長いのだ。

 

「なんでもない。さーてあたしもエクササイズしよっと」

 

 無重力太りしたら大変、などと口にしながらアイビスもふんわりと宙に浮かび上がり、天地の感覚を九十度ほど傾けて同じマシンに跨がった。すると隣から未開封の飲料パックが流れてきて、アイビスは「ありがと」とにこやかにそれを受け取り、

 

「まだあの不法滞在者を養ってるのか。よく続くな」

 

 そして思わず握りつぶしてしまった。キャップが吹っ飛んで、オレンジ味のシャボン玉が大量に飲み口から発射された。

 

「不法滞在者ってなにさ。誰のこと?」

 

「国籍もビザもなくオーランドに居座ってるんだから、立派な不法滞在者だろうが」

 

 同僚が言い立てるのは、地球にてアイビスの帰りを待っている(はずの)アイビスの同居人のことだった。さきほどまでアイビスが必死に通信を試みていた相手でもある。結婚はしていないので同居人などという言い方になってしまうが、言うなれば同棲相手であり、はたまた内縁の夫という言い方をしてもさほど差し支えは無いだろうとアイビスなどは思っている。

 

 そんな同居人がなぜ不法滞在者呼ばわりされるのかというと、まさしく同僚の言った事が全てであった。さらに付け加えるとすれば、彼は過去に居住していた日本州政府よりとっくに失踪宣告が出されており、国籍やビザはおろかそもそも戸籍すら存在していなかった。

 

 むろん制度上は申し立てればすぐにでも回復できることであるし、当然アイビスはそうしようとしたのだが、あまり好ましくない結果に終わった。役所からは失踪期間中どこでなにをしていたのかをあれこれと尋ねられそれも煩わしくはあったが、最たるものはやはり、とある連邦軍高官の目にその情報が止まり、余計なくちばしを突っ込まれたことだろう。戸籍を取り戻したければ、彼唯一の個人資産を軍に提供しろ。そう言ってきた高官にアイビスの同居人がどう応じ、その結果高官がどのような災難に遭ったかはまた別の機会に語るとして、結果的には彼はいまだ無戸籍状態のままとなってしまっている。

 

 本人はさほど気にしている様子も無いが、アイビスとしては大問題であり、いずれ解決せねばならないことの一つとして数え上げていた。自宅にある彼女の部屋の引き出しには、書きかけのとある届け書がいまも一人寂しく眠っているのだ。早いところそれに日の目を見させてやりたかった。

 

「金も職もない男に入れ込む女もいなくはないが、まさか戸籍すらない男とはな」

 

 そんなアイビスの思いは余所に、同僚の女はまたも聞き捨てならないことを口にした。

 

「失礼な! 戸籍はともかくとして、うちの人はちゃんと働いてお金も稼いでくるよ。この前なんてミッドクリッド大統領のSPも務めたんだから。凄いんだから」

 

 見栄でもなんでもないれっきとした事実であるから、ことさらアイビスは胸を張ってみせた。

 

「それはもう一昨年の話だろ」

 

 しかしあっという間に撃ち落とされた。

 

「え、なんで知ってるの」

 

「何度も自慢されたからな。それ以降はどうなんだ」

 

「ええと軍の、というより諜報部かな? ギリアム中佐からの依頼だから。それを受けたりとかしてるよ。凄いでしょ」

 

 これもまた事実であるから、アイビスは我がごとのように胸を張ってみせた。

 

「一昨年と去年の二度だけだろ?」

 

 しかしこれもまた即座に撃墜された。

 

「な、なんで知ってるの?」

 

「これもさんざん聞かされたからな。結局それ以外はだれけっぱなしのヒモということか」

 

「まさか! あとは、ええと、そうだ。たまにディズニー・ボードウォークとかで」

 

「使い魔を使った大道芸で小銭を稼ぐ、か?」

 

 さすがにもう胸を張れなかったアイビスだが、こればかりは絶対に話していないであろうということまであっさりと看破され、さすがに怪訝な表情を見せた。もしや、と胡乱な目で同僚を睨みつけるも、同僚は小さく肩を竦めるばかりだった。

 

「私だってオーランドに住んでるんだから、見掛けて当たり前だろ」

 

「あそっか」

 

 あっさりと警戒を解いたアイビスに、同僚は今度こそ呆れ果てたように深く溜め息を付いた。

 

「よりにもよって、本当に面白すぎる相手を選んだものだな。お前にとっては白馬の王子かもしれんが、その白馬ももう大分錆び付いてるんじゃないか?」

 

「うっさいなぁ、いいのそれで」

 

 アイビスは力強く言いきった。

 

 実際のところ自慢話として話には出しつつも、同居人が時たま愛機を使ってのアルバイトに励むことをアイビスは快く思っていない。どれもが何気なく明細を開いたアイビスが思わずひっくり返ってしまったくらいの収入ではあったが、幸いなことに二人揃って浪費癖とは無縁であるため、アストロノーツとしてアイビスが稼ぐ給料だけでも生活には問題なかった。数度きりではあるが、既に支払われてしまった同居人のアルバイト料も合わせれば尚更だ。仮に、あくまで例え話で、全くもって万が一のことだが、どこからともなく三人目が現れることになったとしてもそれは同様だと、アイビスは深夜に一人電卓と格闘しながら試算に試算を重ねた事もあった。

 

 だとするならアイビスは、少年にはもうかの機体には乗って欲しくなかった。乗る必要がないのだから乗らなくて良い。それが正直な気持ちだった。

 

 不意に機内放送が鳴り響いた。曰く、探査任務は一旦終了。ヒリュウ2にて補給を住ませたのち、地球への帰還路につくため、クルーは全員操縦ブロックに移動せよとのこと。ナビゲーター兼放送案内係を務める三人目の同僚の鯱張った口調に、いつものことであるがアイビスと隣の者は顔を見合わせて笑った。

 

「ツグミのところに行くか。どうやら寂しがっているらしい」

 

「一人は誰だって寂しいよ。スレイもそうでしょ?」

 

 スレイ・プレスティは答えず、どこかはにかむように笑った。そうして三人のクルーがそれぞれ配置に付き、アイビスらが乗る大型アーマード・モジュールはヒリュウ2に向けて進路を変えた。

 

 シリーズ77Ω アーマード・モジュール・ハイペリオン。最新鋭の外宇宙探査機として既に12機が量産され、それぞれが専属チームによって運用されている、その最初の一機。ついにめぐり合い、ひとつとなった織り姫と彦星に、もはや行けないところはなく、叶えられない夢もない。二つのマシンと、一人の若者の遺志と、三人の女たちの夢。それらの輝きを一つにして、銀と緋色をした一つ星はどこまでも真っ直ぐに、星の海を突き進んでいった。どこまでもまっすぐに、まるで夜を切り裂いて行くかのように。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 そして時間軸は跳躍し、これより二ヶ月後。アイビスたち第四次外宇宙探査団がその任務を終えて、故郷に帰還する日となった。といっても大気圏再突入自体は既に三日前に何事も無く済まされており、その後検診とリハビリに三日間を費やし、そしてとうとう晴れて自由に自宅へ帰れる身となったのが今日というわけなのだった。長時間無重力に身を置くことは本来人間に様々な生理学的変化をもたらし、旧暦の頃の宇宙飛行士たちは帰還後一ヶ月半はリハビリに専念しなくてはならなかったのだが、宇宙食やサプリメントの発達によってアイビスたちの時代にはリハビリに要する日数は劇的に減っていた。

 

 ケネディ宇宙センターを出て、自家用車を飛ばすこと数十分。すでに夜八時を回っているが、アメリカ州屈指の観光地であるオーランドならば、そこまでの道のりも含めてまだまだ明るく、夜道には困らない。ディズニーワールドやユニバーサルリゾートなど、いくつもの娯楽施設を有する騒がしい街だが、ケネディ宇宙センターから最も近い都市でもあるので、アイビスやスレイ同様ここに住むアストロノーツはそれなりに多い。アイビス自身、通勤に便利なこの街をいたく気に入っていた。デート場所に困らない点も良かった。

 

 中心地と郊外の半ばにアイビスの家はある。スレイとツグミの家も割り合い近所にあるが、アイビスの家は彼女らのより一ランクは高級なものだった。閑静な住宅街の片隅にある庭付き一戸建てのそれは、「前の家に似ている」という同居人の何気ない一言のもと、アイビスが意を決して半ば衝動買いしたものだった。

 

 その前庭の玄関口を車で通るとき、それまで浮き浮き気分もいいところだったアイビスの心境は、一気に奈落の底まで突き落とされていた。外から見えるリビングの窓が暗いためである。あきらかに住人は外出中と見てとれた。

 

 ガレージに車を入れ、アイビスは鼻息荒く車を降りた。がちゃがちゃと乱暴に鍵を開けて、勢い良く玄関を扉を開ける。

 

「ただいま!」

 

 返事が返らないことなど承知の上で、アイビスは八つ当たりのように叫んだ。

 

 外宇宙探査は数年掛かりのプロジェクトである。といってもそのうちの大半は地上での事前準備や訓練に費やされ、その間は出張こそ多くなるもののまだ自宅に帰ることはできる。しかし実際に宇宙に飛んでしまえば、それこそ最低半年は自宅どころか地球の大地を踏む事すらできなくなる。事実アイビスがこの家に帰ってくるのも、そして未だ叶ってはいないが同居人と直接顔を合わせるのも、実に八ヶ月ぶりのことになるのであった。

 

 こんにち、外宇宙探査団といえばアストロノーツの中のアストロノーツとも呼ばれる選ばれし者たちである。それが任務を見事に達成し無事帰還したというのだから、当然世間は注目せずにはいられない。すでに連邦政府のお偉方との会談や記者会見、TV番組への出演予定等が目白押しとなっており、一日の休憩を挟んだ明後日からは、またもや連続長距離出張の日々となることが決定していた。

 

 だというのに、だというのに。

 

 なかなか帰れないものだから、せめて帰ってくる日くらいはと思っていたのに……!

 

 世の単身赴任者や、長距離出張の連続を強いられる者たちに、アイビスは心からの共感と同情と、それとほんの少しばかりの身勝手な怒りを覚えた。会社の出張くらいなんだ。いまどき地球の反対にいたって、手紙もTV電話も高速シャトルも使い放題じゃないか。こちとら太陽系の外だ。声を聞くのだって一苦労なんだ!

 

 怒りとともにアイビスはコートのポケットから携帯端末を取り出した。軍用GPS機能を使って彼の居る座標をセンチメートル単位で検索しようというのだ。プライバシーの侵害といえばその通りではあるのだが、彼の持病を思えば共に暮らす上でのちょっとした工夫とも言えた。

 

 これでいかがわしい店にでもいようものなら(いままでそういう例は皆無であったが)、すぐにでも現地に赴いて 彼の腰にすがりつき、店中に響く声で泣きわめいてやると、強気なのか弱気なのかよく分からないことを心に誓いながら、アイビスはその機能を作動させようとした。しようとして、その寸前で、ぴたりと指の動きを止めた。ふと、自分をこそ見詰め直してはどうだという内側からの声が聞こえたのである。

 

 難色を示す彼をむりやり説き伏せて、力づくでこの家に住まわせたのは自分である。そしてもうどこにも行かせまいとあの手この手で同居人の首に鎖を付けて、家に閉じ込め、頑丈な鍵をかけてしまったのも自分だ。そのくせ碌に家にも帰らずに悠々と人生を謳歌しているのも自分であるし、そしてたまに家に帰ってきては、意のままにならぬ同居人に対してこうして怒りを振りまくのも自分であった。

 

 アイビスは目がくらむような思いにもなった。こんな理不尽なことはない。醜悪なまでに不公平な家族としての有り様がそこにはあった。それこそ幼き頃にさんざん目にした、アイビスの両親たちのそれに勝るとも劣らぬほどに。

 

 怒りと悔しさはたちまちの内に消え去り、その代わりに途方も無い哀しみと、重苦しい罪悪感がアイビスの胸中をあっというまに占領し、涙すら込み上げてきた。

 

 そうして玄関先に立ち尽くしたまま、アイビスは頭を抱えて自らを罵倒し続けた。泣く資格も怒る権利も自分になどあるものか。だって自分は罪人ではないか。閉じ込めていはいけない人を、こうして閉じ込めてしまっているというのに。本当であればこんなところにいてはいけない人を、むりやりつなぎ止めてしまっているというのに。

 

 ああ自分は駄目だ。本当に駄目な女だ。これでは愛想を尽かされて当然だ。きっともう、彼は二度と帰ってこない。あたしのせいだ。あたしが魅力も甲斐性もない駄目な女だから。ああ、こんなあたしなんて……!

 

 アイビスの精神は留まるところを知らずに、どこまでも奈落へと落ちて行った。何年にも渡る宇宙飛行士のメンタル訓練も、人間の本質を変えるには至らないらしい。彼女の人生においてもはや気の置けぬ友人とも言える泥沼の自己嫌悪が、久方ぶりに最高潮まで高まっていた。

 

 しかしながら一体全体どういう世の仕組みか、一人の少年がどこからともなくふらりと彼女の前に姿を現すのは、得てしてこういうときなのであった。こればかりは本当に、昔からそうなのであった。

 

「よ、帰ってたか」

 

 背中から掛かってきた声に、アイビスの両肩は雷に撃たれたように震えた。

 

「飯でも作ってやろうと買い物に行ってたんだけどよ、ちょいと道に迷って遅くなっちまった。久しぶりにすき焼きをご馳走してやるよ」

 

 アイビスは振り向けなかった。

 

「んで、玄関先でどうして頭なんか抱えてるんだ? 忘れ物でも思い出したか? まったくお前はいつになっても……」

 

 アイビスはやはり振り向けなかった。彫像と化したような彼女に首を傾げるのもそこそこに、少年は買い物袋を持ったまますたすたとキッチンへ向かっていった。やがて漂ってきたソイソースとスイート・サケの香ばしい香りにアイビスはふと我に帰り、そのままおそるおそると、家主のくせして泥棒かなにかのような格好でキッチンの扉を覗き込んだ。

 

 ジャケットにジーパンをはいた、見慣れた姿がそこにはあった。両袖をまくりあげ、慣れた手つきでトーフを切っていく少年の、本当にあの頃と何一つ変わらない後ろ姿があった。まったくもって現金なもので、それまでアイビスの頬を濡らしていたものは、瞬く間に別の意味を持つようになった。

 

 思うよりも早く、アイビスは走り出した。まったく反射的なことであった。料理中の者にそれをしては……などという当たり前の常識には一切耳を貸すこと無く、アイビスは力一杯に駆け出し、そして何一つ躊躇することなく彼のもとに飛び込んだ。

 

「ただいま、マサキ! 会いたかったよぉ!」

 

 指を切ったか、それとも鍋でも引っくり返したか、とにかく何かしらの痛みによる少年の絶叫と、それを覆い尽くしてなお余りあるアイビスの溢れんばかり嬌声が、フロリダの夜に響き渡った。

 

 

 

 そうして世界は暗転する。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 深い海の底から浮かび上がるように、ようやくアイビスは目を覚ました。あたりは真っ暗であった。深夜3時ということもあって患者部屋は全消灯されており、窓から差し込む月明かりだけが、暗闇をうっすらと照らしている。

 

 ベッドの上で、うつろな瞳のままアイビスは首を傾げた。なにか大きな齟齬を感じた。なぜ、こんなところでこうしているのだろう。あたしはたしか……。茫洋とした意識の湖に、そんな疑問が波紋のように広がっていく。

 

 アイビスは、見るからに夢心地といった頼りない動きでよろよろとベッドの上で寝返りをうった。現実の記憶によるものか、それとも本能的なものか、そうすれば答えが分かると知っているかのようだった。

 

 お揃いの患者服を着て、大いびきをかきながら、隣のベッドで呑気に眠りこけているマサキの姿を、アイビスはじっと見詰め続けた。安堵しているのか、それとも逆なのか、外からはまるで判別つかない。まだ意識の大半が夢の中にあるためか、アイビスの眼差しは冬の湖のように混じりけのなかった。

 

 しかしその少年の姿を切っ掛けになんとか夢と現の区別を掴みはじめたらしく、アイビスの眼差しは、ゆっくりと時間をかけて、段々と平時通りのものに変わっていった。

 

(そっか。あたし、ずっと夢を見ていた……)

 

 そう理解することができた。

 

 ここはラングレー停泊中のハガネ医療室、その患者部屋。異世界でもフロリダでもない。アイビス・ダグラスはなんとか隊の一員ではなく、マサキ・アンドーもまた誰かのヒモではない。

 

 おおよその現状認識がまとまって、アイビスはふたたび寝返りをうって、天井を見上げた。素っ気無いパネルの上っ面に、つぎつぎと浮かび上がってくるものがあった。

 

 一つ目の夢を、アイビスは考えた。

 

 楽しかった。みんなみんな良い人で、楽しい人たちだった。そして楽しい艦だった。どこまでいっても果てのない閉じられた空、外宇宙航行機であるアルテリオンがそれ以外のなにかに作り替えられて行く事。心のどこかでそれらに引っかかりを覚えつつも、しかしそれ以上になにもかもが珍しくて、なにもかもが新しく初めてで、目の回るような忙しなさではあったけれども、確かに充実した日々だった。

 

 そんな日々を共に過ごした、掛け替えの無い仲間達の顔をアイビスは思い出そうとしたが、しかしどうしてか一人も思い出すことができなかった。夢の中ではもう何年も一緒に過ごしていたかのように気心が知れていたのに、いまはもう誰も彼もが深い霧の向こうに消えてしまっていた。

 

 アイビスは名残惜しさを感じつつも、諦めざるをえなかった。きっとそういうものなのだろう。だってあれは夢なのだから。

 

 二つ目の夢を、アイビスは考えた。

 

 幸せだった。日頃なかなか会えないのは寂しい事だったが、それを補ってあまりあるくらい幸福と平穏と、そして恥ずかしいくらいに自己愛に満ちた夢であった。

 

 彼には愛機にも碌に乗らせず、務めも放棄させ、それでいて一人だけぬけぬけと夢を叶えた自分。人生の大部分を星の海を思う存分に駆け巡ることに費やし、さらに大部分をそのための準備に費やし、そして残るほんの僅かな日々を少年のもとで過ごす。少年はずっと、それを家で待っていてくれる。

 

 卑劣なまでに独善的な夢だった。しかしだからこそ、こうして思い出すだけで涙が込み上げてしまうほど幸せな夢だった。

 

 だからアイビスはその夢を嫌いはせず、一夜の宝物としてそっと胸の奥の宝石箱にしまった。本当に、まったくもって自己愛の権化のような夢であったが構うまい。きっとそういうものなのだろう。だってあれは夢なのだから。

 

 月明かりの差し込む患者部屋の片隅で、アイビスは静かに枕を濡らし続けた。少年の高いびきがまだ聞こえるが、それでも今だけは、彼の方を向く気にはなれなかった。

 

 叶わないからこそ人は夢想し、そしては夢は夢であるからこそ美しい。一つ目の夢も、二つ目の夢も、結局はそういうものだった。アイビスが星の海を諦める事、マサキが務めを放棄する事、それはどちらもあり得ないことだ。そしてそのどちらかを前提にして初めて、あの二つの夢は成り立った。

 

 アイビスは憎しみすら感じながら、誰でもないなにかに問いかけた。なら何故、自分はあんなものを見てしまったのだろう。自分もあの少年もそんなものは望まない分かりきっているのに、何故、二つの夢はあんなにも美しかったのだろう。目覚めた今も、こうして涙してまうくらい、何故あんなにも……。

 

 答えはどこからも返ってこない。月はどこまでも冷たくて、となりの少年は依然として眠り続けていた。そうしてアイビスは一人、どこまでも孤独に夜を過ごしていった。夜が明けて、少年が目を覚ますその時までそれは続いた。

 

 眠りたくはなかった。眠るものかと思った。

 

 あんなにも素敵な夢は、もう二度と見たくなかった。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。