アイビス×マサキ(スパロボOG)   作:マナティ

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第十六章:戦わざる者、戦う者

 

 

   Ⅰ

 

 

 夜が明けた。

 

 早い時間に目を覚ましたアイビスだが、とくに微睡みもせず、すぐに身を起こすことができた。重力が和らいでいるかのように、いつになく快活な目覚めである。体が活動を求めていた。

 

 寝台の上でまずうんと伸びをした。両手を上げてゆっくりと体を反らすと、両肩あたりの筋肉が、癒着していたものが引き剥がされるようにぷちぷちと音をたててほぐれていった。ふと気付いて、アイビスは左肩だけをぐるぐると回してみた。昨夜確かに脱臼していたはずなのだが、なんの痛みもなく、何度か両手をグー、パーと開閉させるものの結果は同じだった。どうやら礼を言うべきことが一つ増えたようだと、やけに邪魔っけに思える隣のカーテンの方をちらりと見やった。

 

 アイビスは、こっそりと患者室を抜け出した。医務室の間取りには既にある程度詳しいので、薄暗くても難なく水場に辿り着くことができた。栓をひねって顔を洗い、口を濯ぎ、髪を整える。ついでに壁にかかっていたタオルを拝借して水に濡らし、首筋と胸元を拭った。冷たい水が骨の髄にまでしんしんと染みていくようで、そのあまりの気持ちよさに、アイビスはちらりと背後を気にしてからそそくさと上着を脱いだ。露になった上半身を丹念に拭っていく。砂埃まみれかとも思ったのだが、タオルはさほど汚れなかった。恐らく治療行為の際に拭われたのだろう。タオルを洗ってから壁にかけ直し、上着を着て、そのあと掌を杯にして四杯ほど水を飲んだ。

 

 とりあえずだが身支度を終え、アイビスは外に出て誰かに回復を伝えようかとも思ったが、結局はなんとなく後回しにしてしまった。そのうち誰かしら来るであろうからそれまではと心中で言い訳しつつ、アイビスは再び患者室に戻った。

 

 真っ先にアイビスは隣のベッドのカーテンを開けた。それだけで空気の匂いが変わり、素っ気も味気もない患者室が全く別の物になった。サイバスターを操っていたときも始終感じており、いまは寝汗が混じるせいか余計に露骨に感じられる若い少年の体臭の広がりを、アイビスは体全体で受け止めた。

 

 マサキはアイビスと揃いの患者服に身を包みながら、貪るように眠りこけていた。少年は見るからにひどい寝相で、毛布は寝台に対して約九十度ほど曲がっておりもはや腹部しか覆っておらず、足は大股開きで右足がベッド脇にはみ出していた。それまでも微かに聞こえていたいびきはカーテンを開けたことでより鮮明となり、運転席で聞く車のエンジン音に感覚としては近かった。

 

 そんな少年のあられもない姿に、アイビスはやりたいと思うことのいくつかをやり、いくつかを我慢した。何をやれたかと言えば、少年の毛布を整えたり、その中に少年の足を仕舞ったりなどといった母親じみた行為に終始していた。やれなかったことは色々ある。先に手を出したのは彼の方であるのだから、仕返しを試みても正当防衛に当て嵌まるような気がしないでもなかったが、結局アイビスは一歩を踏み出す事ができず、その代わりに彼のベッドに横座りになって、彼の寝顔に手を触れてみた。

 

 寝息に絶えず上下する頬。その波に己の手を同期させようとするかのように、アイビスは慎重に慎重に彼の頬に手の平を重ねた。鉄で出来たような少年であっても、肌の柔らかさは女とも変わらない。皮膚の乾燥で少々堅く思える程度だ。保湿クリームなどきっと彼は手に取ったこともないに違いない。たとえ貸したところで、ポケットに入れっぱなしのまますっかり忘れ、そのまま洗濯機に投げ入れてスイッチを押すところまで克明に想像できた。

 

 ねぇ、無精者さん。

 

 心の中で、アイビスは呼びかけた。

 

 あれは夢じゃないよね。

 

 そう問いかけもした。別段、疑っているわけでもないのだが、ただあまりに鮮烈な体験であったから。夢であってもおかしくないくらい、それこそ夢のような出来事であったから、訊いてみようと思ったのだ。

 

 ひどいことするよね。むりやりキスしてきてさ。

 

 アイビスの内心の独白は続いた。

 

 人が弱ってるところを。

 

 あんなに激しく。

 

 あたし初めてだったのに。

 

 そうしている間にも、アイビスは少年の頬の熱と、内側にある微妙な筋肉の動きを手の平全体で感じていた。少年の生命を証立てるものが、掌中にじんわりと滲みこんでくるようだった。それをアイビスはじっと受け止め続け、そんな我が身を、熱を出した自分を看病する母の像と重ねた。発熱した頬に母の手の平はほどよく冷たくて心地よかったのを覚えているが、いざ真似てみると母はなにも娘を快くさせるためだけにこうしていたわけではないように思えた。そう疑ってしまうくらい、他人の熱を感じるというのは、感じる者の胸を愛おしさで一杯にしてしまうのだとアイビスは理解してしまった。

 

 ほんと、ひどいよね。

 

 やがて肌寒さを覚え、アイビスは自分のベッドに戻り、もそもそと毛布の中に体をもぐらせていった。頭を枕の上にぼすんと乗せて、そして体を隣のベッドの方に向ける。そのまま、多少は折り目正しくなった少年の寝相をなんとはなしに眺め続ける。奇妙な動きがあるわけでも、珍妙な寝言が聞こえるわけでもなく、お世辞にも楽しい眺めではないのだが、なぜだろう、アイビスはいつまでもそれを見ていられるような気がした。

 

 ちょっと遠いな。

 

 不満があるとすれば、それくらいであった。

 

 

 

 マサキが目を覚ましたのは、アイビスに三十分ほど遅れてのことだった。いびきが止まった事で、アイビスにはそうと分かった。少年の頭がすぽんと毛布の中に沈み込み、中から「く、う、うう……」と苦悶じみた声が漏れてきた。

 

 あ、伸びをしてる。

 

 アイビスは毛布の中でくすりと笑った。

 

 やがて、もそりと少年の上半身が起き上がった。見事な寝癖が明るみに出て、アイビスはますます楽しく思った。コキコキと肩を鳴らしては「いつつ」と顔をしかめ、握りこぶしが入りそうなほどのあくびを一つ。そうして少年は、いかにも不機嫌そうな三白眼で辺りを鬱蒼と見渡し、すぐにアイビスの無遠慮な視線とぶつかった。

 

「や」

 

 毛布に包まったまま、アイビスは手を挙げた。

 

「んー」

 

 鎖骨の辺りをぽりぽりと掻きながら、マサキも手を挙げたが、すぐに力なく落とし、そのまま機能停止してしまう。座った状態で寝るのは、そういえば彼の得意技であった。ハガネに乗る前はサイバスターを我が家とする生活だったのだと、いつぞやに彼から聞いた事がある。

 

「水飲む?」

 

「……」

 

 返事がないので、アイビスはいそいそとベッドから下り、先ほどの水場からコップ一杯の水を持って来た。

 

「はいこれ」

 

「……」

 

「ね、飲んで」

 

「……んー」

 

 なんとか再起動を果たしたマサキは、アイビスに支えられつつもコップを受け取った。それを飲み干してようやく人心地がついたのか、マサキは体内の淀む空気を全入れ替えするように、大きく大きく鼻で息をついた。それを横目にしながら、アイビスもマサキのベッドに横座りする。

 

「おはよう」

 

「ん、おはようさん……」

 

 挨拶をやり直し、その後しばしの間、二人して黙り込んだ。いまさら気まずさもなにもなく、二人は視線だけで簡素に意思疎通を行ないながら、舞い降りた沈黙に身を委ね合った。こんな何気ないやり取りを交わすまで、ずいぶんと紆余曲折があったのだ。ようやく一段落したのだなと、そんな共通した認識が二人の間で確かめ合われた。

 

「あれだな」

 

 口火を切ったのはマサキの方だった。

 

「ん?」

 

「とりあえず、お互いなんとか生きてるってわけだ」

 

「無事にね」

 

「体は大丈夫か?」

 

「こっちの台詞なんだけど」

 

 マサキはふたたび肩をこきこきと鳴らした。アイビスと同じように、手をグー・パーと開閉させる。重大な支障はなさそうだったが、なにかの折にふと目尻が硬直するところを見ると平常とは言い難いようだった。

 

「大丈夫みてえだ」

 

「いいよ、強がりは。痛む?」

 

「かすり傷だよ」

 

「バカ。死にかけてたんだから」

 

 詰め寄るアイビスに、マサキは気まずそうな顔をした。アイビスの責めるような態度もそうだが、妙に近い距離感が少年を戸惑わせていた。ややあってアイビスも、ばつが悪そうに体を退かせた。

 

「恩に着せるようだけどさ。大変だったんだから」

 

「……おう」

 

「本当にもう、だめかと思ったんだから」

 

「……悪かった」

 

「どうやって助かったか知らないでしょ。びっくりするよ」

 

「いんや、なんとなく覚えてる」

 

「嘘言って」

 

「本当だっての。半分、夢を見てるみてえだったけど、お前さんが必死こいてサイバスターを動かしてるのを、なんかこう、遠くから見てた気がする」

 

「やだ、ほんとに?」

 

「えらくおたおたしてて、正直見てらんなかったけどな。ま、なにはともあれ、お陰さまでこの通りだ。……よっと」

 

 痛む体を押して、マサキはベッドの上で佇まいを直した。

 

「礼を言うぜ。お前がいなかったら、多分死んでた。ほんと、ありがとよ」

 

 そうして深々と頭を下げた。寝癖まみれではあるが、ラングラン国王にすら碌に下げた事の無い頭だった。そんな人物の命の恩人という立場を晴れて獲得したアイビスは、しかしながらさほどうれしそうではなく、逆に一計を思いついたように面白げに瞳を瞬かせた。

 

「確かに頂戴しました。じゃ、顔あげてくれる?」

 

 どこか含んだような声音を不審に思いつつも、言われた通りにマサキは顔をあげ、そんな彼に入れ違いになるように、今度はアイビスの方が頭を下げた。

 

「助けてくれてありがとう」

 

「は?」

 

「あのときマサキが来てくれなかったら、あたしもツグミも、みんな死んでたと思う。本当に、本当にありがとう」

 

「いや、まぁ」

 

「この恩は忘れません。貴方は命の恩人です」

 

「へ、よせやい」

 

「頂いた御恩は、一生をかけてお返しいたします。あたしに出来ることなら、なんでもいたします」

 

「……?」

 

「わたくしは犬でございます。いっそ犬とお呼びください」

 

「おい」

 

「ははー、なんでしょう?」

 

 少年がいまどんな表情でいるか、アイビスには手に取るように分かったが、嫌がらせのように頭を下げ続けた。そして少年が声を荒げる寸前に、ぱっと顔を上げてみせる。その悪戯げな顔のあまりの腹立たしさに、マサキは拳骨を当てる振りをし、アイビスはきゃーと怯える振りをした。

 

 そうしてしばし戯れ合ったのち、何はともあれ話は済んだとマサキはぽんと膝を叩いた。どっこらしょと身を起こし、ベッドから下り立とうとする。

 

「便所」

 

 ついてこようとしたアイビスをその一言で止め、マサキは如何にも彼らしい素っ気無さで、すたすたと立ち去っていった。取り残されたアイビスはしばらくじっとしていたが、一人に耐えきれなくなったのか、やたらとそわそわしだし、やがて不貞腐れたようにそのままベッドに倒れ込んだ。シーツから立ち上った残り香が、虚しくも心地よかった。

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 アイビスとマサキ、共に目覚める。モーニングレポートでキョウスケがそう皆に伝える際には、多少の工夫が必要だった。聞いた瞬間に走り出してしまいそうな者、歓声を挙げそうな者、その他大騒ぎしてしまいそうな者に若干名ずつ心当たりがあり、迂闊に告げてしまえば猛獣に好餌を放り投げるも同じとなり、場の収拾がつかなくなる恐れがある。そのためキョウスケは、その他の必要伝達事項が済んだ後に、この話を話を切り出すことにした。

 

「……連絡は以上だ。それでは皆、今日も宜しく頼む」

 

 いつもの言葉で締めくくったのち、最後の最後にキョウスケはぽつりと付け加えた。

 

「言い忘れたが、アイビスとマサキが目を覚ました」

 

 秩序正しく解散しかけた群衆が、ぴたりと動きを止めた。なかでもツグミ・タカクラの反応は、パイロットとしてスカウトしたくなるくらい見事なものだったという。

 

「今朝会って来たが、二人とも元気そうだった。皆、空いた時間にでも」

 

 キョウスケは続きの言葉を飲み込んだ。もう誰一人として聞いていなかった。幾人かの人間は部屋の出入り口に殺到して鮨詰めとなっており、残る人間は歓声を挙げながら隣の者と手を叩き合ったり、抱き合ったり、小突き合ったりして、ちょっとした戦勝ムードな状態となっている。

 

 キョウスケが、自らの堅苦しい気性を恨めしく思うとすれば、こういう時だ。青年の顔面に張り付くいつもの鉄面皮が、どこか眩しげに和らいでいるような気もしたが、きっと気付ける者は極々僅かに違いない。

 

 仲間思いなのは結構な事だと、どこか手の届かない葡萄を揶揄するかのようなことを思いつつ、仏頂面の若き戦闘指揮官は一足先に退室しようとした。が、しばしの間待ち惚けに立ち尽くすことを余儀なくされた。タスクやらカチーナやらアラドやらが複雑に絡まって出来た物体により、扉が塞がってしまっていたためである。

 

 

 

「ようようようよう! お二人さん」

 

 タスクが大人数連れで患者部屋に押し掛けたとき、部屋にはアイビスとマサキと、いち早く到着して早速アイビスと抱き合っているツグミの三名が居た。ツグミだけは鮨詰めに巻き込まれる事なく、ミーティング・ルームの即時脱出に成功していたのだ。

 

 あとはもう大騒ぎであった。

 

 タスクはミイラ姿一歩手前なマサキを指差して笑い、他にもアイビスに妙なちょっかいをかけようとしては、ツグミとレオナの眼光に圧倒されすごすごと退散した。リオとクスハは真っ先にアイビスの元に駆け付け、彼女を両側から抱擁した。ちょっとした両手に花状態にどぎまぎしつつ、アイビスは二人に対して申し訳なさそうな顔をした。

 

「あのときは、ごめん……」

 

「いいのよ」

 

「本当に無事で良かった」

 

 そんなやり取りがあったが、詳しい事は語られないままクスハが泣き出してしまい有耶無耶となった。しきりに声を詰まらせるクスハの嗚咽は、まるで熱伝導のように周囲の女性陣にも伝わり、独奏は二重奏、三重奏と厚みを増していき、ついには泣き合奏会の様相を呈し始めた。

 

 ベッドの上で胡座をかいていたマサキは、呆れながら自分の膝の上に頬杖を付いた。女達のいかにもな女々しさにもうんざりするが、それはそれとしてなにやら蚊帳の外に置かれている気がしないでもなく、やや不貞腐れ気味となっていた。

 

 そんなマサキに、イルムとリュウセイが近寄っていく。

 

「よ、お疲れ」

 

 肩を叩くリュウセイに、マサキは「おう」とだけ返す。男同士だとこんなものだった。

 

「よくやったな、マサキ・アンドー小隊長殿」

 

 ちゃかすような、真剣なような、微妙な風味を含んだ声でそう言ったのはイルムである。

 

「小隊長ってのは部下を守り、生きて帰らせてこそ一人前だ。お前はそれを果たした。いつもなにかと小言を言ってきたが、今回ばっかりは言う事なしだ」

 

「誰に言ってやがる。新人扱いすんな」

 

 新人にこんなこと言うか、とイルムは肩を揺らした。一人のパイロットとして、単純な戦力としてなら、少年はハガネ隊に始めて加わった時からすでにとびっきりだった。しかしそれゆえに欠けているものもあり、自覚してかせずしてかはともかく、それをマサキが一人の少女の存在を通して不器用に積み上げて行くのを、イルムはこれまでずっと見てきたのである。

 

「きっと良い経験になると思うぞ」

 

「なにが」

 

「全部さ。故郷に行けば、部下なり仲間なりがいるんだろ?。きっと役に立つぞ」

 

 ラングレーでの戦いだけでなく、フリューゲルス小隊そのものを指して、イルムは言った。

 

「部下ねぇ」

 

 そんな可愛いものはいなかった気もするが、とマサキは体を後ろ手で支えながら天井を見上げた。なんとなく実感できるものもあった。主としてマサキが構築したフリューゲルス小隊の小隊戦術は、地底世界において同じく空戦を得意とした連中との連係パターンが下地になっている。同じ事が、再びラ・ギアスに帰ったときにも言えるのかもしれない。該当する者の顔を思い浮かべて(なぜか一人だけピントがずれたようにぼやけていたが)、そのむさ苦しい顔ぶれと隣のベッドで泣きむせぶアイビスをついつい見比べてしまい、マサキは少しばかりげんなりした。

 

 

 

「ねぇねぇ、マーサ。アイビスちゃんの病気って、結局なんだったの? マーサがなんとかしたんでしょ?」

 

 エクセレンが投げ入れてきた無自覚な爆弾に、マサキとは咄嗟に言葉を出せず、アイビスは「ヒクン」としゃっくりのような音と共に泣き声を止めた。

 

「ありゃプラーナ不足だよ。操者じゃないのにサイバスターを動かすなんて無茶をするから、根こそぎ吸い取られて干涸びるところだったのさ」

 

「サイバスターって、吸血鬼かなにかなの?」

 

「人聞きの悪いことを言うんじゃねえ。ま、ちゃんと水に戻してやったから、もう大丈夫だ。俺の隣に寝かせておいて正解だったな」

 

 エプロン姿のマサキが乾燥昆布を水に漬けるところを想像して、いまひとつ腑に落ちなかったエクセレンはもう一歩踏み込んでみた。微妙に誤摩化されている気配を嗅ぎ取っていた。

 

「水に戻すって、まさかお風呂に漬けたわけじゃないでしょ? 具体的にどうやったの」

 

「ひん」と小さな悲鳴が聞こえた。タスクからの差し入れである板チョコレートを落ち着き無くぱくついていたアイビスが、誤って己の唇を思い切り噛んでしまっていた。

 

「……そいつは言葉の綾だ。要はプラーナが足りてなかったから、補給してやったってだけだ」

 

「マーサがしたんだ」

 

「お、おう」

 

「どうやって?」

 

「あっと、ごめんなさい」

 

 アイビスの枕元にあったティッシュボックスが床に落ち、見事なコントロールでエクセレンの踵に当たったが、そのことにも気付かずエクセレンはさらに問いを重ねた。スクープの匂いを確信したのか、すでに両目が夜天の綺羅星のごとく輝いてしまっている。

 

「ねーえー、そこんとこどうなのよう」

 

「……クロ、説明してやれ!」

 

「プラーニャというのは誰にでもあって、呼吸や調気、瞑想によって、ある程度コントロールすることができるの。そして高めたプラーニャは、チャクラから放出することで、魔装機や他の人に伝えることができるわ。主要ニャチャクラは体の中心線上にあって、アイビスのときは彼女の眉間の辺りにマサキが指を置いて、その状態でプラーニャを高めていけば自動的に補給がされるってわけ」

 

 突如湧いて出たクロの整然とした説明に、エクセレンも引き下がらざるを得なかった。「ちぇ、邪魔しやがって」との本音を愛想笑いの中に隠しながら、「あらー、そうなのー、へー」と適当に相づちを打つ。

 

 ちなみにクロの話は全くの嘘ではなく、少量のプラーナ補給であれば本当にそれでも十分なのだが、欠乏状態の者を救助する場合には焼け石に水にしかならない。相当量のプラーナを他人に伝達するためは、互いの主要チャクラ同士を極力接近させる必要があり、しかもなるべく外気に触れないことが望ましい。そのため一番確実なのが頭部にある第五、第六、第七チャクラを利用した体内間伝達……要は口付けということになる。

 

 ちなみに、他にも第一チャクラを利用した方法も無くはないのだが、場所が場所だけに手間もかかり、また非合意下では御法度とされているため、救命方法としては不適切とみなされており、そのためマサキなどはそもそも存在自体を知らされていなかった。

 

 それはそれとして、クロの弁舌の前にすごすごと退散するしかなかったエクセレンであるが、それでも捨て台詞でこんなことを言ってしまうのが彼女らしいところだった。

 

「でもなんだか体に良さそうよね。美容効果とかあったりして。ねぇねぇマーサ、今度私にもやってみてよう」

 

 マサキが何かを言う前に、床に落ちたティッシュボックスを拾おうとしていたアイビスが、盛大にベッドから転がり落ちる音がした。

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 彼女と始めて会ったときのことを、フィリオ・プレスティは今でも覚えている。

 

 昼食を終えたあとの昼休みの時間帯だった。空は晴れ晴れとしていて絶好の外食日和であり、普段は出不精のフィリオもその日ばかりは外のカフェでサンドイッチと紅茶を買い、近所の公園の芝生に寝そべりながら食べるという、いかにも優雅な昼食を終えたばかりだった。

 

 当時はただ平和であった。異星人もDCという言葉も一切紙面に載る事無く、かのビアン・ゾルダークも世界征服をもくろむ秘密結社の総帥などではなく、科学の命題と一人娘の反抗期に頭を悩ます一介の人間であった時代だ。世界中の英知が集うとも標榜される地球連邦宇宙開発局を、一人の浮浪児がふらりと訪ねてきたのは、そんな日のことである。

 

「うちゅうにいけるのは、ここ?」

 

 辿々しい共通語でそう訊いてくる浮浪児を応対したのは、開発局の人間ではなく付属大学から来ていた青二才の学生だった。その学生の目から見て浮浪児は十歳くらいの体格に見えたが、のちに再会したときに聞いた年齢から逆算すると、ティーンエイジになったばかりの頃と分かった。ぼさぼさの赤毛に、薄汚れた顔。コートは明らかにどこかで拾ったものらしき、ずたぼろな男物だった。ただその下については、趣味なのかそれとも動きやすさ重視なのか、思い返せば当時から割と露出が多かったように思う。

 

「うん、まぁ、ここだよ。ここは宇宙を勉強する世界一の研究所だから」

 

 戸惑いながらも、当て勘でフィリオが米語を使うと、浮浪児は迷子の末にようやく父母のもとへ辿り着いたかのようにほっとした顔を見せた。

 

「アポロ・イレブンも、ここから飛んだの?」

 

 彼女もまた米語を使った。激しい東部訛りにフィリオはいささか苦戦しながらも付いて行った。

 

「そうだよ。当時、ここはNASAと呼ばれていたんだ」

 

「それ知ってる! 最初にコロニーを作った人たちでしょう? あたし入りたい。どうすればいいの?」

 

 困ってしまったフィリオだが、元来人の良い彼は敷地内の屋外ベンチに彼女を誘って出来る限り説明することにした。彼女の全身から匂い立つように醸し出される「不幸な事情」の気配がそうさせたのかもしれなかった。

 

 日差しの暖かなベンチに座りながら、フィリオはあれこれと話をした。宇宙飛行士になるためには、ある程度の学歴と健康的な肉体が必要なこと、それを手にするために浮浪児がどうすればいいのか、これからどこへ向かえば良いのかを、叶うか叶わないかは別にしてフィリオは思いつく限りをのべ、そして浮浪児は懐から取り出した紙切れと小指ほどのサイズの鉛筆を使ってその全てを書き写した。知らない言葉があれば何度も何度も聞き直し、分からない場所があれば懐から数種類の地図を取り出して、念入りにその位置と方角を確かめた。

 

 最終確認のためルーズリーフにして三枚は超えそうな分量の紙を差し出され、フィリオは酷い悪筆に苦心しながらも隅々まで中身をチェックし、大きく頷いてみせた。それから浮浪児は、恐らく万が一紙を無くしてしまったときのために、なんどもなんども紙に書かれていることを小声で復唱し始めた。

 

「君、宇宙が好きなのかい」

 

「うん」

 

「いまどき、行くだけなら難しくないよ」

 

 なんであればコロニーへの往復便程度の運賃なら、いますぐ財布から取り出しても構わないという気にフィリオはなっていた。貧乏学生には少々高くつくことではあるが、不思議なことにフィリオは、この会ってたった数十分程度の少女に対して奇妙な信頼と尊敬の念を抱き始めていた。それなりの金額を渡したところで、きっとこの少女はその金を他の事には使うまい。そんな確信が、フィリオの中に生じていた。

 

「行くだけじゃいや」

 

 しかし少女の答えはつれなく、紙から目を離しすらしなかった。

 

「じゃぁ、どうしたいんだい?」

 

「シャトルは決まった道しか通らないでしょ? そういうんじゃなくて、あたしは宇宙に一人で行って、行きたいところに行きたいの」

 

「行きたいところ? ヒリュウに乗りたいってことじゃなくて? あ、ヒリュウって分かるかい?」

 

「馬鹿にしないで。冥王星に行ってる大っきな船のことでしょ? それにも乗りたかったけど、でも本当はそうじゃなくて、あたしは自分で歩いて行きたいの」

 

「歩い、て」

 

「そうよ。冥王星でもいいしお日様でもいいしシリウスでもいいし、夏の大三角でもいいの。そういうものを追いかけて、ぶらぶらと歩いて行きたいの。チェルシーからここまできたみたいにさ」

 

「そっか。なるほど、そうなのかい」

 

 あのときに芽生えた気持ちを、フィリオはいまもなお覚えている。人生に根っこがあるとして、その根っこの部分を、なんの啓蒙も指導も意見交換もなく、始めから共有できてしまっている人間というものがこの世にはいると聞く。生憎そんな人物にこれまでフィリオは一度も出会ったことがなかったのだが、それがどうもこんなところにいたらしい。よりにもよってこんな格好をした、こんなにも小さな少女がそうであるらしい。

 

 大学でもまだ誰にも打ち明けた事のない、彼だけの目論見、彼だけの野心があった。いまはまだ、それでもいつかはと幼少時よりずっとずっと暖め続けていたもの、それと同じものが、この小さな女の子の中にもあると分かって、フィリオはまったく柄でもないことに、運命などという言葉を信じてみる気になった。

 

「それはつまり、あれだね。『星の海を往く』というやつだね」

 

「なにそれ」

 

「古い歌のフレーズだよ」

 

 もはや己の人生の核となってしまっているものを、フィリオは別段事も無さげな風に説明した。

 

「でもぴったりだろう? いまは持ってないけど、どこかで聞いてみるといい。きっと気に入るよ、これも宇宙の歌なんだ」

 

「ふうん」

 

 そんな風に他愛のない世間話は続き、やがて暗記を終えた浮浪児はすっくと立ち上がって、親切な青年にぺこりと頭を下げた。開発局の中を見学していかないか、あるいは宿を用意しようか、そもそも保護者はどうしているんだ? 食事をするだけの金はあるのか。さまざまな言葉がフィリオの脳裏を踊ったが、一つも口に出すことはできなかった。それはあまりに差し出がましいことだ。夕暮れの町並みへとたった一人で、それでも迷いなく歩みを進めて行く小さな後ろ姿を見ていると、そう思えたのだ。

 

 

 

 そんな出会いであったから、その数年後に思わぬところで再会を果たした時は、フィリオはあわや腰が抜けそうになるのを全力で堪えねばならなかった。

 

 宇宙開発局が、極秘裏にではあるがDCという組織と繋がりを持ち始め、フィリオがちょうどその狭間で身の置き所に苦心していたころ、まるでいつかのように彼女のはふらるとフィリオの前に現れた。ぼさぼさだった赤毛は多少なりとも整えられていたが、しかしどこかざっくばらんに切り揃えられており、顔は薄汚れてはないものの化粧っけもなく、服装も真新しくはあったが見るからに安っぽく、布地も妙に節約されている。そんな佇まいであのときの浮浪児はフィリオの前に現れ、「こんどここの研修生になるアイビス・ダグラスです。初めまして」と使い込まれた共通語でそう名乗った。

 

 当時DCは後々の決起もふまえ、様々な名目で内外からパイロット候補生を呼び集め、訓練を施していた。そのため旧暦の頃のアストロノーツほどの狭き門ではなかったにしろ、それでもほんの数年前まで学歴も教養も財産も何一つ持っていなかったであろう浮浪児が、仮にもエリートだけが集うこの場所にまでどうやって辿りついたというのか。フィリオには皆目見当がつかなかったが、訊いたところで恐らく答えてはくれないだろうと何となく思え、想像のみに留めることにした。ティーンも半ばを過ぎたアイビスの表情は年相応にあどけなくはあったが、年不相応に陰ってもいた。ただ一心に目標へと向かい続ける意志だけが、その両の目に抜き身の刃物のごとく煌めいていた。

 

 ここに辿り着くまでに、彼女がどのような人生を歩んできたのか、フィリオには想像にあまりある。その道程の中ですっかり風化してしまったのか、かつて自分と一度出会っていることをアイビスは今でも思い出していない。それでも心に残るものはあってくれたらしく、後の軽い世間話のなかで知ったことだが、彼女が数年前から好きになり携帯端末にも入れてあるという古い曲は、彼の良く知るものでもあった。

 

 フィリオはそれだけで良いと思った。

 

 それだけで十分に思えた。

 

 

 

 タスクたち見舞客の大軍が押し寄せたあとのこと、その日の午後の大半をアイビスはツグミと共に通信室で過ごした。通信先はコロラドのテスラ研であり、本来ラングレー陥落の件さえなければ、ツグミなどは今頃とっくに向こうへ到着しているはずだったのだ。今の状況の説明と、アイビスの無事の報告も兼ねて、通話は時計の長針が一回りしてもなお続いてしまうほど長引くこととなった。

 

 プロジェクトTDの総責任者であるフィリオ・プレスティは、モニターに写る二人の女性の顔を代る代るに眺めながら、しみじみと一つの感想を幾度も反芻した。二人とも、本当に変わったものだった。口に出しても二人はきょとんと実感の伴わぬ顔をするだけであろうが、たまにしか顔を合わせられない彼にとって、それは手に取れる事実であった。

 

 かたや氷のように凍てついた表情で、数字とプログラム言語相手に延々かつ黙々と戦いを挑み続けるような女性であった。その薄皮一枚下に暖かなものが見え隠れしているような気がして、手を伸ばしてみようと思ったのはフィリオ自身であり、結果は一応予見通りであったのだが、そのあとでも彼以外の人間に対して、ツグミは依然として氷の女と称される通りに振る舞い続けた。

 

 もう一方は気難しい偏屈屋のパイロット候補生として知られていた。いつもいつも顰め面をして、食事や酒の席にもとんと参加せず常に一人でいて、それでいてシリーズ77パイロットという地位に並々ならぬ執着を見せる、プロジェクト内でもちょっとした名物娘だった。

 

 これには、自分も含めた周囲の人間にも原因があったとフィリオは見ている。技量も素養も悪いものではなく、フライトのたびに一つ一つ着実に成長していたというのに、アイビスに対する周囲の評価は冷めたものだった。原因として彼女の社交性不足以外のものを挙げるとすれば、最たるものはパイロットとしてあまりに完璧すぎるスレイ・プレスティの姿が、常に比較対象として彼女の隣にあったことだろう。スレイは高潔で優秀な人間だが、反面自尊心のあまり攻撃的なところがある。アイビスもアイビスで似たような面があるので、二人は同じ候補生同士として建設的な人間関係を育むには至らなかった。

 

 いずれにせよ、アイビスはプロジェクトの人間に半ば見放されながらも、一人黙々と努力に身をやつしていった。きっとアイビスにとって、それは苦痛でもなんでもないことだったのだ。あの頃のアイビスは、誰も寄せ付けず何者よりも速く巧みに飛ぶことだけをひたすらに追い求めていた。生憎、思いに対して実力はなかなか伴わなかったが、それでもそのときのアイビスは、言うなれば黙々と孤独を目指していたと言える。

 

 彼女の宇宙への執着に自らを重ねていたフィリオだったが、彼にとって難しかったのはアイビスを苦しめるスレイが実の肉親であり、それも彼の方が案じてしまうほど身内思いの妹であったことだろう。フィリオに出来たことは、結局のところ一方の面子を潰さぬ範囲でもう一方をなるだけ引き立てる、そんなヤジロベエのような人心調整だけだった。

 

 そんなアイビスとツグミは、いまモニターの向こうで、フィリオもそっちのけであれやこれやと無駄話に興じていた。余人を疎んだ孤高の女性はもうどこにもいない。ただ姉妹のように仲睦まじい二人が、一応フィリオに聞かせるという態ではあるのだがとてもそうは思えない勢いで、ハガネ隊におけるそれぞれの活躍なり失敗談なりをもてはやしたりあげつらったりなどして、話に花を咲かせていた。そんな様を眺めながらフィリオは、しかし本当の花は二人の方だと、そんな到底口に出せないようなことを考えていた。それくらい、仲睦まじげに向かい合う二人の笑顔は、花開くようなそれだったのだ。

 

 いまフィリオが夢見ることは何かと問われれば、ブロジェクトの完遂を抜きにすれば、その花々にいずれもう一輪が加わることだった。笑われるような身内贔屓かもしれないが、スレイの笑顔とてそう負けたものではないとフィリオは思うのだ。

 

 フィリオは手元のモニターをふと見やった。そこでは送信待機中のとあるデータファイルがいまかいまかとハガネへ向けて発信されるのを待っていた。それは、とある機体の正式図と仕様書のデータだった。異星人たちの監視と拘束の合間を縫って熟成を重ね、さらにテスラ研解放の際にツグミより届けられたアステリオンの実践データも組み込み、ついに正式出図に至ったものである。

 

 シリーズ77α アルテリオン。

 

 いくどかの試作を経て修正はされていくだろうが、ここまでくればすでに完成までカウント段階に入ったと言っても良い。さぁ、この話をいつ切り出そう。待てど暮らせど一向に終わりそうも無い女二人の姦しいやりとりが、せめて彼が口を挟める程度に一段落するのを、フィリオは退屈など欠片も感じない様子で待ち続けた。

 

 そんなおり、ふと懐かしい声が記憶層のなかで木霊した。

 

 うちゅうにいけるのは、ここ?

 

 ああ、ここだとも。ここが君の家だ。ここが君の生きる世界なんだ。

 

 フィリオは心の中で強く頷いた。どうも歳をとると、涙もろくなっていけなかった。

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 動いて。

 

 何事もものは試しと、アイビスは祈りを捧げた。冷厳なる見定める者に、あらん限りの思いを注いだ。しかし沈黙のみが返った。予想できた事であったので、とりたててアイビスは驚きはしない。魔装機神は機械であって機械ではなく、固有の意志を持ち自ら操者を選ぶ。この世界で彼の騎士が応じるべくは、ただひとりの呼びかけのみだった。

 

 それはそれとして、用が済めばもう知らぬ存ぜぬという態度はいささか現金すぎはしないかと、アイビスは不満を覚えないでもなかった。さきほどから何度試みてもうんともすんとも言わぬコネクタの、その冷え渡るような硬質さに、アイビスはどこか女性的な意地の悪さを感じ取った。精霊に性別があるのかどうかなどアイビスには知る由もないが、そういえばいつか誰とも知らぬ女性の声を聞いたような、いやまさか、などと実の成らない考えに頭を巡らせていると、いかにも退屈そうなあくび混じりの声が背中から聞こえてきた。

 

「気は済んだか?」

 

「うん、まぁ」

 

 済んだ訳ではないのだが、そうアイビスはそう答えるしかなかった。サイバスターのシートを他人に譲り、背もたれの後ろに引っ込んでいるマサキの、そのあまりにも不釣り合いな姿に詮無い疑問はすっかり吹き飛んだ。心臓があばらにあるような違和感すらある。

 

「ごめん、返すね」

 

「だったら降りるぜ。どのみち修復中だしな」

 

 そう言うマサキに連れられ、格納庫の床に降り立ったアイビスは、なんとはなしに背後の銀騎士の姿を振り返った。力強い五体。白と銀の鎧。三層一対の翼。猛禽の爪。風の魔装機神。アイビスの意を汲んで何処までも駆け抜けたあの夜は遥か遠く、今は少年の意志しか受け付けない、少年以外の人間とっては単なる石像と化していた。

 

 この機体の事を、実のところアイビスはすこぶる気に入っていた。アステリオンを人と航空機が合わさったような姿と表現するなら、サイバスターは人と鳥が合わさったようなニュアンスを秘めている。空へ挑む者と空に生きる者。根本を異ならせながら、結果的に同じ特性と同じ色を得るに至る。そのような対比が、どこか乗り手にも重なるような気がして、それをアイビスは彼との得難い繋がりのように思えるのだ。

 

 もはやアイビスなど一顧だにせず屹立するばかりの銀騎士に、ふとアイビスはもう一度祈りを捧げてみる気になった。

 

 ありがとう。

 

 ただそう思った。一度選んだ操者に最期まで尽くす、その約定を背負った魔装機神が、一度とはいえ自分に身を委ねてくれた。そのおかげで、今の自分と少年がいる。その奇跡に、アイビスはひたすら感謝を捧げた。本当にありがとう。

 

 そしてその隣に立つ、こちらは本当に自分の愛機であるもう一つの銀色の姿を見やった。シリーズ77αプロト、アーマードモジュール・アステリオン。その直線かつ工業的な輪郭を、ひたすらアイビスは懐かしく思った。

 

 ただいま。また会えたね。

 

 また、飛べるね。

 

 一方、マサキは気のない素振りを見せつつ、アイビスがサイバスターに受け入れられなかったことにほんの少しだがほっとしていた。もしもアイビスが自分と同様にサイバスターを動かせてしまえれば、いささか面倒な話にもなっていた。

 

 サイバスターの所有権を譲るつもりなどマサキには毛頭なく、しかしアイビスにも資格があるという事実が広まれば、無用なちょっかいをかける動きが出てこないとも限らない。ハガネ隊の人間には話したことはないが、マサキが単独で地球圏を駆け巡っていたころには、サイバスターを鹵獲しようとした連邦軍部隊と一戦交え、ものの見事に叩き潰した一幕もあったのだ。

 

 ことが最悪な方向に転がれば、それこそアイビスと争わなくてはならない羽目にもなったかもしれない。そんな日の事を、マサキは想像もしたくなかった。

 

(冷や冷やさせるなよ、ほんと)

 

 自分を救うためとはいえ、掟を犯した愛機に向けてマサキや八つ当たりにも近い感情を抱いた。そして心の中で、何度も何度も念を押す。忘れるな、お前は俺のもんだ。その代わり、俺もお前のもんになってやる。

 

 そうしてこれからも戦い続け、いつの日か共に故郷へ帰るのだ。そして帰ってからも、また戦い続ける。いつか何かが二人を分つ、その日まで。

 

 

 アイビスとマサキ。対照的な二人は、同じく対照的な互いの愛機をそれぞれに見上げていた。各々の胸に、やはりどこか対照的な思いを抱きながら。並び立つ二機が似通いながらも正反対であるように、二人もまた並び合い同じ方向を見詰めていながら、どこかかけ離れていた。

 

 あるいはそれは、一つの象徴的な姿であったのかもしれない。否応もなく、何かを暗示する光景だった。避けられない一つの未来を、思い起こさせるものだった。

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 夕暮れ時、いつぞやと同じように二人は屋外デッキへと繰り出していた。風に当たろう言い出したのはやはりアイビスで、マサキはやはり嫌そうな顔をしつつも付いて来ていた。

 

 デッキからは海が見えた。バージニア州は大西洋に面する場所であり、ラングレー基地からもその水平線を一望することができる。またバージニアビーチといえば世界最長の海水浴場として知られており、アメリカ大陸に数多く存在する名所の一つに数えられる。

 

 そして緑豊かな州でもある。都市部を少し離れれば、すぐに豊かな森林や山々が姿を現す。アメリカではそう珍しいことではない。環境保護が盛んということもあるが、人工物で埋め尽くすにはアメリカという大陸は広すぎるのだ。

 

 ハガネの屋外デッキからアイビスはそれらの光景にじっと見入っていた。美しいと思った。人と自然の息づかいが聞こえてくるようだった。

 

 しかし何より目を引くのは、やはりただ一つだった。

 

「穴が空いてるね」

 

「ああ」

 

 そう、穴が空いている。ハガネの右舷から約150メートル。面積にして300ヘクタールにもおよび、深さは800メートルに届き、幾千もの人々と、幾千もの人生を飲み干した、巨大な墓穴がそこにある。

 

 墓穴からの救助活動は着々と進んでおり、救出された負傷者は今日にでも百に届くとのことだった。しかし誰もが知っている。その幾十倍もの死者が、あの中で二度と覚めない眠りについているのだと。

 

 アイビスは思う。自分もまた、ずっとあの穴の中にいたのだ。穴の中にいた頃はそれこそ地獄の底とすら思えたのに、夕暮れの暖かな日差しの中で外から見下ろすと、どこかそれは呆気なかった。アステリオンならば、ほんの一息で飛び越せてしまえる程度の大きさだった。

 

 アギーハもあるいはこんな気持ちで、あの大惨事を見下ろしていたのだろうか。そう思うと、あの穴をこうして見下ろすこと自体、非常に罪深いことのように思えた。

 

「ねぇ、マサキ」

 

「んー?」

 

「戦争って悲しいね」

 

 アイビスはそう言った。そうとしか言いようの無いことだった。鉄柵の上に頬杖をついていたマサキは、体勢を崩す事なく、ただ「そうだな」とだけ答えた。

 

 アイビスは鉄柵の上に顔を伏せた。昨晩まで、アイビスも死の淵に立っていた。マサキも同じだ。戦えば誰かが死ぬ。誰も彼もが等しく、マサキの言を借りれば、殺しても死にそうにない者ほどあっさりと。

 

 死は誰にとっても哀しい。恐らくは異星人にとっても、きっと。だというのに、哀しいものと知っているはずなのに、誰もがそれを追い求めてしまう時代がある。

 

 そんな当たり前のことを、有史以来何度も何度も繰り返されてきたであろうことを、アイビスは、この世に生まれ落ちた人間の一人として今更ながらに悲しんだ。

 

「マサキ」

 

「んー?」

 

「平和が欲しいよ」

 

「おう」

 

 一方で、アイビスの悲しみはマサキにとっては見慣れたものだった。もう何度も何度も目にしてきたものだった。だからこそ、気のない返事になる。

 

 しかしマサキは、アイビスの悲しみを受け流してはいなかった。彼女の悲哀とその奥底に流れる願いを、少年はただ静かに受け止めて、そしてこれまでずっとそうしてきたように、背中に背負う見えない籠の中にひょいと投げ入れていた。既に数えきれないくらいの荷物が詰め込まれているその籠が、また一つ、ずっしりと重みを増す。それをマサキは苦しいとは思わない。その重みにもまた、少年は慣れきっていた。

 

「早く平和が欲しい」

 

「ああ」

 

 またも聞こえた同じようなつぶやきに、マサキは同じように応じた。また一つ増えた荷に、マサキは頭上を見上げる。重さに喘ぐのではなく、千切れ雲と、南天の日差しのさらに向こう、空の彼方のどこかにいるのであろう敵の姿を探してのことだ。敵を倒さねば戦いは終わらないと彼は知っていた。無論、一つの敵を倒せば全ての戦いが終わる訳ではない。それでも、目の前の敵を倒さなければ、いま起こっている悲劇は無くならない。

 

「もう二度と、こんなことが起こらないようなさ」

 

「おう、任せとけ」

 

 てっきり同じく簡素な返事が来ると思っていたアイビスは思わず顔を上げた。任せとけと、少年は言った。いたって軽い、まるでコンビニに買い物にでも行くような物言いが、なぜだろう、途轍もない恐ろしさをもってアイビスの胸の奥を震わせた。

 

 任せとけ?

 

 なんなの、それ。何だってそんな風に! 

 

 アイビスがどこか恐る恐るに隣を覗くと、マサキは依然として空を見上げ続けていた。アイビスが顔を伏せて地を見下ろす間、マサキはずっと空を見ていた。一つの対比が、アイビスの脳裏で弾けていた。アステリオンは火器を後付けした航宙機。サイバスターは翼を持った戦闘兵器。似通った特性は、結果に過ぎない。だとすれば、だとすればその二機は……。

 

 アイビスは頭を抱えた。この上なく嫌な想像がこびりついて、そのあまりの恐ろしさに唇が震えすらした。

 

 そんなはずはない。

 

 いや、そうなのかもしれない。

 

 しかし受け入れられるはずもない。

 

 いや、初めから分かっていたはずのことだった。

 

 めくるめくように答えと答えが乱舞する。

 

 ――ねえ、戦争が終わったらマサキはどうするの。

 

 いつかの夜、そう問い掛けた者がいた。その者に、相手は何と答えただろう。その答えは、一抹の寂しさと共に質問者に受け入れられたはずだった。戦争が終われば、彼はまた次の戦場に。自分はきっと戦いのない場所に。そう理解を示した者がいて、いったいそれが誰であるのか、アイビスは覚えていても思い出したくなかった。

 

「ねぇ、マサキはなんで戦うの?」

 

 耐えきれず、戦わざる者は戦う者にそう問い掛けた。とうてい視線は合わせられずに。

 

「なんだ、急に」

 

「言われたんでしょう? いきなり剣と魔法の世界に呼びだされて、伝説の武器を渡されて、さぁ魔王を倒せって。どうして断らなかったの? 戦争なんて御免だって、どうして思わなかったの」

 

 何故と言われてもマサキは返答に困り、ぽりぽりと頬を掻いた。断らなかったからこうしている。少年にとってはそれが全てだった。

 

「もう戦争はいいや。これからは平和に暮らそう。そう思った事はない?」

 

「なくもねえけどよ」

 

「静かな場所に家を構えて、そこでのんびりと暮らしていこうなんて、そんな風に思わないの?」

 

「なんだよ。当たり前だろ? 平和に暮らしたいなんていうのは、誰だって」

 

「でもマサキ、そうしてないじゃないか。ずっと戦って来たし、これからも戦おうとしてるじゃないか。なんなら今すぐにでも、サイバスターから降りたっていい。そうしたって、誰も責めたりしないのに」

 

 ここにいる二人はマシンではない。人間のはずだった。確固たる設計思想も、定められた運用目的もない、生きた人間のはずだった。

 

 もしマサキがこれまでの道に背いたとして、それを責める者がいたとしたら、アイビスはきっと全力でその者らに立ち向かうだろう。これでもかと腕を広げて前に立ちはだかり、自らの体でマサキを覆い隠し、非難する者あれば反論し、力づくで止めようとする者がいれば蹴っ飛ばすだろう。それでもなお追いすがる者があれば、アイビスは、マサキを抱きかかえて冥王星にだって行ってみせる。

 

 そんな相方の心情は露知らずに、ますますマサキは返答に困っていた。心のうちを言葉にすることは、少年の最も苦手とすることの一つだった。いつだってマサキは言葉や理論ではなく、自らの心の波動に従って来た。

 

 それでも、アイビスの問いに対する端的な答えとなるものを、一つマサキは記憶の中から見つけることができた。

 

「務めだからだ」

 

「務め?」

 

「そう、務め。義務なんだ」

 

 かつて、とある人物に言われたことがあった。ラ・ギアスに君臨する最強の四機神。その操者に選ばれた者は、この世のあらゆる権威や地位に従わなくてもよい権利を持つ。その代わりに魔装機神操者は、ひとたび世界の危機が訪れたとき、全てを捨ててそれに立ち向かわなくてはならない。

 

 それを、マサキは務めと言った。アイビスはそれを定めた何者かに対して敵意すら抱いた。甘んじて受け入れるマサキも到底理解に及ばなかった。なぜならそこには自由がない。そして終わりもない。国家権力すら無効化する魔装機神操者の自由は、なるほど大層なものだろう。かといって、延々と屍の山で過ごすような日々を強いられるに足るものとはどうしても思えなかった。平穏な生活に替わるものとは、どうしても。

 

「それって、どうしてもマサキがやらなきゃいけないものなの? やめちゃってもいいものじゃないの?」

 

「お前、プロジェクトのことをそう言われたらどう思うんだよ」

 

「あれは務めなんかじゃない! あれはあたしの夢だ。あたしの生き甲斐なんだ。マサキにとっては、その務めがそうだっていうの? 戦う事が、マサキの生き甲斐なの?」

 

「怒鳴ることねえだろ。そうじゃねえさ。生き甲斐とかそういうんじゃなくて、あれは……」

 

 あれは何なのだろう。またもやマサキは言葉に詰まってしまった。魔装機神操者の務めを、自分はいったいどう捉え、受け止めているのか。

 

 魔装機神操者の権利と義務。まだサイバスターに選ばれて間もない頃にそれを聞かされたマサキは、ただ思ったのだ。「それって当たり前のことじゃないのか」と。

 

「当たり、前のこと……?」

 

 アイビスは、この世の理不尽全てを目の当たりにしたような気にもなった。目の前でいかにも自信なさげに頭を掻く人物が、少年の形をした全く違う何かにすら見えた。

 

「まぁ、そんな感じだ。よく分からねえけど」

 

 無論それは、浅慮と不見識に由来する軽はずみな言葉には違いなかった。それでも当時のマサキはそうとしか思えなかったし、実のところ今でもあまり変わらない。

 

 自分がサイバスターに乗って戦うのは、当たり前のことだ。世を乱さんとする悪意に対し、平穏な暮らしも当たり前の生活もかなぐり捨てて、命をかけて立ち向かうことは、本当にただ当たり前の事なのだ。魔装機神操者の務めを、その過酷さをマサキは確かに楽観視しているかもしれなかった。しかし一方で、ごく自然に体得してもいた。

 

「だから俺は戦うし、これからも同じだ」

 

「シュウを倒しても?」

 

「その次はラ・ギアスだ。あそこも今、色々大変でな」

 

「それがも済んでからも、ずっと?」

 

「必要ならな」

 

「死ぬまで?」

 

「まぁ、そう簡単にくたばりゃしねえが」

 

 それまでは、戦い続ける。いつか月日が経って戦えない体となるか、あるいは魔装機神が真の意味で必要とされなくなる、その日まで。

 

 くじけることはあるかもしれない。失うものだって多々あるに違いない。それでも戦い続ける。さながら魚が水に暮らすように、サイバスターが空に在り続けるように、それは当たり前のことだった。

 

 機械と異なり、人間には確固たる設計思想も、定められた運用目的もない。しかし運命というものはあった。他の道があると頭では分かっていても、どうしてもそれしか選べない、選ぶ事が出来ない、そんな摩訶不思議な道筋のようなものが人の人生には存在した。マサキだけのことではなく、きっとそれはアイビスにも同じ事が言えるのだ。

 

 浮浪児同然のアイビスが宇宙開発局でフィリオと出会ったように、マサキは異世界にてサイバスターと出会った。そして別段特に何を思うわけでもなく足を踏み出し、そして今日に至るまで歩き続けてきた。アイビスもまた同じだ。そしていかなる偶然か、それとも必然なのか、その道の途中で二人は出会ったのである。

 

「まぁ、そういうわけだから……て、おい」

 

 マサキの言葉を遮るように、アイビスの体がマサキの腕に寄りかかって来た。

 

「どうした。大丈夫か」

 

「うん、平気……」

 

 そうは言うも、アイビスはマサキの腕にすがりつきながら俯くばかりだった。立ち眩みでも起こしたかと、マサキは焦った。まだ互いに病み上がりであるのだから、外の寒さが堪えたのではないかと。

 

「いい加減戻るぞ。歩けるか」

 

「ちょっとだけ、休ませて」

 

「寒くねえのか」

 

「大丈夫。だからちょっとだけ、お願い……」

 

 そういうアイビスの声は震えていた。気のせいか、鼻を啜る音もした。やはり寒いのではとマサキは案じるも、彼の袖を掴むアイビスの必死さすら感じるほど強い握力に、しばらくは黙っていようという気になった。

 

 一方、アイビスは苦しみに喘いでいた。神をも恐れぬ不埒な考えに胸中を占められ、その罪深さに苦しんでいた。

 

 あの日に帰りたい。アイビスはそう思っていた。あの穴の底で、血塗れの少年を担ぎながら黙々と瓦礫の谷を歩いた、あの瞬間に帰りたいと思った。あるいはサイバスターの一夜限りの操者となったときでもいい。彼と共に光り輝き、シルベルヴィントへと真っ直ぐに突撃していったあの瞬間に帰りたいと思った。

 

 幾千幾万の痛みと苦しみが、あの穴の中にはあった。あそこほど不幸に溢れた時と場所もそうはない。それでも、その中でアイビスはたった一つの掛け替えの無いものを見つけたはずだった。己の人生の核となるもののもう一つを、そこで手に入れたはずなのに、いまはもうその在処が見えなくなっていた。

 

 避けられない別れが、すでに扉を開けて二人を待ち構えている。とうに分かりきっていたはずのことに、今更ながらにアイビスは気付いたのだ。アイビスがどんなにそれを忌避し、疎んだとしても、扉を避けることはできない。なぜなら少年自身が、迷いなくそちらへと進んで行ってしまうから。次の戦いへ向かうべく、務めを果たすべく、これまでずっとそうしてきたように、当たり前のように歩いて行ってしまうから。

 

 そんな少年があまりにも憎々しくて、だからこそ愛しくもあって、アイビスはマサキに悟られぬよう嗚咽を堪え、無音のままに涙を流した。石に染み入っていくように、静かに泣いた。

 

 離れたくない。

 

 アイビスは心から思った。

 

 離れたくない……。

 

 

 

 


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