Ⅰ
出撃中のマサキからの緊急連絡により、通信士とダイテツ艦長を経由しながら、すぐさま医療班に事の次第は伝えられた。突然格納庫に集まり出した医療班のメンバーたちに作業中であった整備士やパイロットの面々は呆気に取られたが、事情を聞くと皆一斉に顔色を変えた。整備班チーフの提案により資材搬入作業を一旦中止し、リフトやトラクターを全て下がらせ、サイバスターのための着陸スペースを作った。機動兵器用の着艦口を使うより、直接横付けさせた方が早いと踏んだのだ。
ややあって、サイバスターが高空より飛来して来た。キョウスケからの指示に従い、サイバスターはハガネの右舷側に直接着陸し、すぐさまコクピットからマサキが飛び出してきた。
「医者だ。医者をよこせ!」
大声をあげるマサキの腕の中で、アイビスは依然震え続けていた。どれほどの恐怖に晒されればこうなるのか、目つきも顔色も平時の彼女とはかけ離れ、別人のように色を失っていた。
待機していた医療班が駆けつけアイビスを引き受けようとするが、そこで一悶着が起こった。身を引きはがされそうになったアイビスが抵抗したのだ。
「やめて!」
痛々しい悲鳴だった。歴戦の兵士ですら息をのむほどの。
「やめて、落ちる、落ちる!」
金切り声をあげて身をよじるアイビスに、マサキは咄嗟に腕を締めて抱え直した。落としたが最後、本当にアイビスが奈落へ落ちてしまうような気がした。
医療班もどうすべきかと、手をだしかねていた。救いを求めるようにマサキが周りを見渡すと、居合わせた者たちは一様に、恐れるようにマサキたちを遠巻きにしている。こうも人目につく場所に降り立ったことを、マサキは後悔した。
医師の一人が医務室から鎮静剤を引っ掴んできて、ようやく事態は一旦の落ち着きを見せた。無針式のそれに首筋をうたれ、アイビスはそれこそ墜ちるように気を失った。すかさず医師はアイビスの体を受け取り、慎重に担架へ乗せる。
運ばれていくアイビスに、マサキは不必要なまでの喪失感を覚えていた。内臓の一部が切り離され、奪われていくような、そんな感触があった。待て、返せと、筋違いな言葉が腹から湧き出て、肺に溜まった。
そうしている内に、アイビスの姿は艦内に吸い込まれ見えなくなった。それでも依然として、マサキは立ち尽くすばかりだった。
「まず、昨日から今日にかけて確認された彼女の症状を整理します」
数時間後に、一通りの見解をまとめ終えた医療班チーフがミーティング・ルームに出頭した。出迎えたのはダイテツ、レフィーナ両艦長の他、キョウスケ、カイ・キタムラといったパイロット部門の管理者たち。それにアイビスの直接の上司であるマサキと、関係者のツグミも加わって、報告会が始まることとなった。
「まず一つが被撃墜直後の緊張状態。極度の不安やストレスにより体の震えが止まらず、立つ事すら出来なかったと伺っております」
視線を向けられたが、マサキは反応を見せなかった。
「次に悪夢です。マサキさんからの報告にもありましたが、私自身、彼女が悪夢に魘されているところを何度も目撃しています。再体験症状といって、形式的にはこれが一ヶ月以上継続すれば、その者はPTSDを患っていると診断されます」
PTSD(Post traumatic stress disorder)とは、心的外傷後ストレス障害と和訳される精神疾患の一種である。命に関わる出来事を体験したのち、その記憶によって引き起こされる様々なストレス障害のことを指す。戦時中の軍人にとっては職業病といっても過言ではないほどメジャーな病気で、少なくともツグミを除いてこの場にいる誰もが、大なり小なりの実例を過去に目にした事がある。
「つまり昨日の時点で、アイビスが精神疾患を患っている可能性があると推定できたのだな」
質問を挟んだのはダイテツ艦長だった。
「その通りです」
「ではなぜ退院を許可したのだ。正確には明日許可する予定だったそうだが」
「あくまで可能性に過ぎなかったのと、仮にそうであったとしてもPTSDとは必ずしも入院して治療するものではないためです。重度な自傷行為を繰り返したり、その他の理由で外来が困難な患者はもちろん別ですが、それ以外で患者を拘束することはむしろ害となります。もちろん関係者には事情を説明するつもりでしたし、現場復帰……つまり出撃許可についてもしばらくは見合わせるつもりでした。整備や訓練といった通常業務を通して、何らかの症状が現れないかどうか様子を見ようと考えたのです」
「分かった。続けてくれ」
「そして本日、ツグミさんとマサキさんから、今朝のアイビスさんに軽度の躁状態が見られたとの証言を得ております。これについては私自身が目撃していないので断定はしかねるのと、またお二人の話を聞いても、決して対人関係にトラブルを起こすような深刻なものではなく、平時よりも若干明るく、また落ち着きを無くす程度のものだったようです」
医師は一旦言葉を切った。
「問題は次です。最初の症状である緊張状態の再発が認められました。直接の切っ掛けとなったのはサイバスターに同乗し、出撃した事と考えられます。フラッシュバックという言葉を聞いた事があると思います。高空に身を置いたことで、被撃墜時の状況を彼女の心と体が思い出した」
「マサキの言によれば、出撃後少なくとも一時間はアイビスに症状は現れなかったようですが」
次の質問者はキョウスケだった。
「その一時間の中で、双方の間で頻繁に会話が交わされていたとのことですので、それによって精神が安定……まぁ簡単に言えば気が紛れていたのでしょう。また下世話な物言いになってしまいますが、異性と個室に二人きりでいれば、また別の緊張も生じ得ます」
「少なくともその一時間の間、アイビスは自分の状況……つまり、高空にいることを強く意識していなかったと」
医師は頷いた。加えて言うならば、サイバスターに強力な慣性制御が働いていた事も、アイビスから飛行の実感を遠ざける一因となっていた。
「そしてその後、会話が途切れ始めてしばらく経ってから症状が発生した。おそらくその間にアイビスさんは周囲を見回すかなにかして、段々と昨日の状況と現在の状況をリンクさせていったのでしょう。おそらく、今回のことがなくとも遠からず訓練の際などに同様の結果が現れていたと思われます。仮に現れていなければ、それこそ最悪の結果になっていました」
「実戦で初めて発症するよりはまだ……ということか」
カイ・キタムラが、苦々しげに呟いた。
「次に今後についてです。アイビスさんの病状について、私の手で最終的な結論を出す事はできません。PTSDと断ずるにはまだ時が浅すぎますし、私も専門医ではありません。しかしはっきり申し上げることができるのは、彼女はもはや満足に機動兵器を操縦できる状態ではないということです。当然、出撃許可は今後も出せませんし、訓練も同様です。シミュレーターならまだしも、実機訓練の場合は周囲も巻き込んでの重大な事故に繋がり得ます。無論深く検証し恐怖の対象を特定できれば、何らかの抜け道が見つかるかもしれませんが……」
意味の無い庇立てであった。考慮の余地はなく、キョウスケもカイも口を開きすらしない。医師の言葉は、事実上の戦力外通告に等しかった。
「また彼女自身についても、早急に専門医の診断を受ける必要があるでしょうし、その結果ここでの予測が的中した場合、治療には長い時間と専用の設備が必要となります。現在作戦行動中のハガネ隊でそれらを用意することはできません。軍法に則り、早急にアイビスさんの任を解き、艦から下ろすことを正式に申請します。また……」
医師はためらうように口ごもった。
「艦の外のことには口を挟めませんが、あくまで忠告という意味ででしたら、それは彼女本来の職務についても同様です」
力の籠ったその言葉に、一部の人間の眉筋はこれ以上ないほど強張り、また一部の人間の手がぎりりと拳の形に握りしめられた。
ツグミの手が挙がった。
「艦から降りたあとのことは貴方の管轄ではないとも、また今回のことは貴方の専門ではないとも理解しています。その上で、参考として聞かせてください」
ツグミが何を言おうとしているのか、医師には手に取るように分かった。患者の身内であれば、誰もが一度は口にすることであり、彼自身何度も耳にして来たことだった。そして、医師にとってみれば最も訊かれたく無いことの一つでもある。
「アイビスは治りますか」
果たしてツグミの言葉は彼の予想を裏切らなかった。ゆえに医師は、これまで幾度となくそうしてきたように、首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。
「どちらとも、断言できません」
その後、幾つかの話し合いがあって、報告会は幕を下ろすこととなった。アイビスの処遇は大部分において医師の見解に従うことで論を結ばれ、誰一人として異を唱えなかった。他になす術が無いと、皆が理解していた。
幾つかの所定の手続きを要するため正式な辞令はまた後日となるが、両艦長の裁量のもとこの場にてアイビスの除隊が決定された。以後彼女は民間人の立場となり、ハガネ隊にとって形式上は保護の対象となる。無論のこと、ほんの数時間前まで身内であった人物であるから、通常以上の融通を効かせられるであろうし、「なるべく不自由のないように」とのレフィーナからの指示もある。しかし、機動兵器への搭乗・出撃は厳しく禁じられることとなるだろう。
専門医の手配は医療班が担当することとなった。ハワイ州オアフ島には世界最大規模の軍病院があり、そこならば戦闘による精神疾患の症例にも事欠かない。無論アイビス本人の意向も踏まえなければならないが、そこと折り合いを付けられれば、治療環境としてこれ以上のものはなかった。一週間後にハガネ隊はラングレーを離れる予定でいるので、なんとかそれまでに方針を定めると医師は約束した。
最後に、アイビス本人への伝達はマサキが行うこととなった。
「俺から伝えようか」
そう言うキョウスケに、マサキは首を振った。他人には任せられないことだった。
それともう一つ、マサキには仕事があった。
「小隊の解散手続きを頼む。また書類が必要なら、書き方を教えてくれ」
キョウスケはたっぷり七秒ほど瞑目した。小隊発足当時のことが、走馬灯のように脳裏をよぎって行く。ほんの数ヶ月前のことなのに、とてもそんな気がしなかった。
「だれか人を付けよう」
「すまねえ」
Ⅱ
その日、結局アイビスは目を覚まさなかった。
ただ、一日の終わりにパイロット達の間で臨時夕礼が開かれ、そこで一連の経緯と今後の彼女の処遇について全パイロットたちに伝えられることとなった。
誰もが目を伏せた。中でもアイビスと親しかったカチーナやタスク、クスハらの翳りは深い。今朝までの勝戦気分は遠く過ぎ去って、まるで負け戦の直後であるかのような重苦しい沈鬱が皆の間に広がっていった。このままでは次の戦いにも影響しかねない。何らかの対策を講じる必要があるだろうと、キョウスケはもはや拭えぬ癖となった管理者の考え方をした。
夕礼が終わり、エクセレン・ブロウニングは重たい足取りでミーティング・ルームを後にしようとしていた。他の者に比べ彼女の表情は平静に近かったが、それでも見る者が見れば、日頃の明朗さに隠しきれぬ影が落ちていることに気づいた。
キョウスケとイルムに呼び止められ、マサキに編成変更手続きの仕方を教えるよう頼まれたとき、エクセレンは意外そうに首を傾げた。
「構わないけど、私だとマーサも嫌がるんじゃない?」
そのマサキは夕礼に参加していない。塞ぎ込んでいるのではとも囁かれたが、何時もの悪癖ではないかという意見もゼロではなかった。
エクセレンの問いに答えたのは、イルムの方だった。
「下手に気を使って恐る恐るやるより良いだろう。ほどほどに逆撫でしてやれ。却って力が出る」
「無責任な。嫌われるのは私なんですけど」
「嫌いやしないさ。俺が思うに、あいつは年上の女と相性が良い。なんのかんの言いながら、張り合いがある相手の方がいいはずだ」
「それってあれ? つまり口では嫌がってても体は……てやつ?」
「そうとも言うな」
「ご、ごくり……とまぁ冗談はさておき、分かったわ。私もちょっと調子がでないし、マーサと遊んで気分を変えてきます」
それでか? とイルムは思ったものの口にはしなかった。
話が終わってもエクセレンは立ち去ろうとせず、ゆっくりと部屋の壁に背を預けだしたので、キョウスケは返しかけた踵を止め、イルムの方はそのまま何も見えていないように場を後にした。他の者も一人また一人と部屋を去っていき、そうして二人きりになるのを待ってから、エクセレンは話を切り出した。
「二人の小隊、解散になるの?」
「ああ」
「その後、マーサはまた一人?」
「おそらくな」
「そう。でもきっと大丈夫なのよね」
「頼りになる奴だからな」
エクセレンは思い出すように、天井を見上げた。パネルの素っ気ない上っ面に、次々と浮かび上がってくるものがあった。
「アイビスちゃんとマーサ、上手く回ってたわよね」
「ああ」
「本当に、兄妹のように仲が良かったわ。マーサがぐいぐい引っ張って、それに懸命に付いて行って」
「負けん気の強い女とも、相性が良かったらしい」
「それが機体から降りると、今度は姉と弟みたいになって」
「戦闘以外では、全く頼りにならん奴だからな」
エクセレンは依然天井を見上げており、過去を振り返るようにも、肩にのしかかる重みに苦しんでいるようにもキョウスケには見えた。
「上役を差し置いて、お前がそこまで責任を感じてどうする」
「軍の都合で徴兵されて、それでこんなことになったのよ。私だって軍人の端くれだもの」
「確かに今回のことは責任重大だ。重すぎて、誰か個人の手に負えるものじゃない。アイビスには、軍そのものが償いをする。一人で抱え込むな」
「そう上手くいかないわよ。だって重たいんだもの。自己責任や、社会や時代のせいなんて、簡単に放り投げられないくらい重たいの」
滅入るようにエクセレンは嘆息した。ここまで物憂げな彼女を、キョウスケは久方ぶりに見る。
「今という時代、誰もがいつどうなるかわからない。命があるだけ、アイビスにはまだツキがある。他人の人生なんだ。そう簡単に望みが絶えたように言うんじゃない」
楽観的な物言いは納得させるためのものではない。アイビスが今後どうなるかなど、キョウスケにも分からないことだった。今はただ、目の前の女に少しでも解きほぐれてもらいたいと思ってキョウスケは言葉を紡いだ。
「だからそんな顔をするな」
それはいつになく懇願するような言い方だった。
「確かに俺たちはアイビスを追いやった。だがその点で言えば、最も罪の意識を感じているのは誰だと思うんだ。俺か? それともお前か?」
「違うわ。……うん、そうよね。そうね……」
力なく落とされるエクセレンの肩を一つ叩き、キョウスケは仕事に戻ろうとした。しかしエクセレンがジャンパーの裾を掴んで引き止めたので、キョウスケは少し考えてから、もう一歩彼女に歩み寄った。
強く抱き寄せる。
そうして、あらためて立ち去っていく彼を見送りながら、もう一声あってもよかったのに、とエクセレンは思った。でもありがとう、ともまた思った。
マサキはハガネの通路の中を一人歩いていた。初めは夕礼に参加するためミーティング・ルームを目指していたが、ちっとも辿り着けないまま集合時間が過ぎてしまった。やむなく自分の部屋に引き返そうとしたが、それすらも叶わない。結局マサキは、延々とハガネの中をうろつき回る羽目になった。
目的地も帰り道も、自分の位置すら見失い、彷徨うようにマサキは歩き続けた。なにもそれは地図上のことだけではなかったかもしれない。
その内にマサキは、導かれるように女性乗組員用の居住区へと足を踏み入れた。無個性に立ち並ぶドアの一つに「A-11」という標識を見つけ思わず足を止めると、マサキの体はぐらりとふらついて通路の壁にぶつかった。いつのまにか足はとっくに歩き疲れていた。
夕礼を終えて、ツグミはすでに部屋に戻っていた。一人だった。彼女をいつも出迎えてくれた同居人は今はいない。その替わりに珍しく来客があり、訪ねて来たその人物をツグミは無言で部屋の中に招き入れた。
ツグミは自分の椅子に座り、客人にはアイビスの椅子を勧めたが、マサキは座ろうとしなかった。
「……」
「……」
二人は立った状態と座った状態から、上下に見つめ合った。そのまま無言の時間が続いた。
マサキが彼女らの部屋を訪ねるのは、これが初めてだった。とある時期まで二人は定期的に会っていたのだが、その際はアイビスの目を避けて別室を使っていた。むろんやましい目的のためではなく、アイビスの訓練経過について報告会を開くためである。
二人の色気のない密会はそれなりに長く続いたが、フリューゲルス小隊が他小隊全撃破を達成し、高機動訓練に注力し始めた頃に幕を下ろすこととなった。密会のことをアイビスが知ったためである。訓練内容を練るにあたり、マサキはツグミからもらったプロジェクトTDの資料を参考資料に用いていた。そこから足がついたのだ。
――なんか感じ悪いよ。ずっと内緒で会ってたなんて。
――なにぶーたれてんだ。お前が上手くなるたびに、ツグミのやつ喜んでたぜ?
――そ、それでもさ!
結局アイビスの主張もあって、それ以降は三人で打ち合わせをすることになったのだが、アイビスがそのことに少しの後悔も抱かなかったかどうかは定かではない。三者面談の場を居心地良く思う学生は少ないであろうから。
「……」
「……」
マサキとツグミは、依然として無言のままだった。しかし動きがなかったわけではなく、時間が過ぎるごとに、徐々にマサキの首は、何かに押し負けるようにうなだれていっていた。
「すまねえ」
やがてマサキはそう口にした。多くを考え、多くを述べようとしたが、脳からうまく降りて来たのは結局その一言だけだった。
「本当に、すまねえ……」
「……」
座るツグミも、彼と同様に顔を俯かせた。なんと応じれば良いのか、聡明な彼女にも分からなかった。理屈の上では、彼をなじることはツグミにはできない。先の戦場でアイビスを孤立させたのは、他ならぬマサキの判断によってである。しかしその判断が誤っていたとは、当時の状況と流れを考慮すれば断定しかねることだった。ましてやアイビスを危機から救ったのもマサキであり、そこまで耐え凌げられるようアイビスを鍛えたのもマサキなのだから。
しかし彼を気前良く許すこともまたツグミにはできはしなかった。理屈がどれほど是と訴えようと、ツグミは理屈だけの人間ではなかった。貴方が付いていながら。内心でなら、ツグミはいくらでもそう叫ぶことができた。貴方が付いていながら!
二人はまた黙り合った。空気漏れでも起こしているかのように、息の詰まる時間だった。それでも決して無意味な時間ではなく、言葉を交さずともただ共有するだけで和らぐ何かもあった。
ツグミにとって、見る影なくうなだれるマサキの姿は己を映す鏡だった。今の彼をみっともないと評するのなら、それは自らを罵倒するも同じであり、また別に、彼に奮い立ってほしいと願うのなら、まず自ら立たねばならないのだとツグミは理解した。
ゆえに、ツグミは奮い立った。自分も、彼も、いつまでもこうしていてはいけないのだ。
「私は諦めないわ」
やっとの思いで、ツグミは口を開いた。
「私は諦めない。きっとあの子も」
自分に言い聞かせるように、そう言い切った。
「私たちは宇宙に行くの。絶対に」
一歩も退かず、何一つ諦めず、ただ決意を新たにするようなその言霊に、マサキもまた顔を上げた。瞳には未だ力なく、気を持ち直したようには到底見えない。経験豊富な戦士にして、頼もしい教官。常にそう振る舞い、事実そうであった彼が、その実、自分よりも年下の少年であったことをツグミは思い出した。
ツグミはことさらに背筋を伸ばし、強く訴えかけるようにマサキを見つめた。ならばせめて、年長者として、こういうときだけでもと。
その後いくばくもなく、マサキはツグミの部屋を去った。「すまねえ」と、最後にまたそう繰り返して。
彼の心情如何ばかりか。自分の姿をどのように見て、何を思ってくれたのか、全容を察することはツグミには到底できない。彼女の知性にも限界があり、理性もまた同じだった。
ゆえにマサキが出て行ったあと、ツグミは一人、声を殺してすすり泣いた。今だけだ。誰にも見せまい。そう誓いながら。
Ⅲ
再びマサキは彷徨を始めた。頭を占めるものは一つだった。否、一つではなかったかもしれない。アイビス・ダグラスという宇宙にただ一人の人間が、これまでに見せてきた多くの顔、多くの表情をマサキは思い返していた。
笑顔があった。消沈の顔もあった。次々と浮かぶ過去の情景は尽きる事のないフィルムのようで、マサキの脳裏を絶え間なく通り抜けていった。思えば、ずっと一緒だったのだ。わずか数ヶ月感ではあったが、その間、彼らはずっと共にいたのだった。
やがてマサキは彼女が眠る医務室に辿り着いた。意図してのことではない。むしろ探していたのは自分の部屋である。いい加減疲れていたので眠ってしまいたかったのに、それでも彼はここに行き着いた。
ときおりマサキは己の悪癖について、ふと考えることがある。自分の方向音痴とはただの方向音痴ではなく、仕事や、義務や、役割といった瑣末なことを押しやって、本当に必要な場所へと自分を導くものなのではないかと。
無論、稚拙な自己正当化としか言いようがないが、それでも、さきほどはたまたまツグミの部屋に行き当たり、そして今こうしてアイビスの居場所の前に立っていることに、マサキは何か大きな意味があるような気がしてならなかった。
医師に声をかけ、患者部屋に足を踏み入れた。アイビスはまだ目が覚めず、ベッドの上でこんこんと眠り続けていた。静かな寝息だったが、寝汗で髪が肌に張り付いており、頬にはくっきりと涙の痕があった。今の今まで悪夢に苦しんでいたのかもしれない。
ベッドサイドの椅子に腰掛け、マサキは何とはなしにアイビスの寝顔を眺めた。汗と涙の痕を除けば、その寝顔はいたって穏やかで、子供のように安らかだ。ただし寝相はあまり良くないらしく、枕を両腕に抱きしめるように眠っている。お前も大変だな、とマサキはなんとなくその枕に親近感を抱いた。
「う……ぐっ……」
するとふいに、うめき声が聞こえた。いやま耳慣れたアイビスの苦悶の声だった。穏やかな寝顔は一瞬にして消し飛んで、見る見るうちに険しく歪んでいった。枕をきつく抱きしめながら、身に巣食う何かに苦しむように、アイビスは体中を強張らせた。目尻からこぼれた一粒の雫が、それが定めであるかのように、頬を走る赤い痕跡をゆっくりとなぞりゆく。
(ずっと、こうだったのか)
あまりに突然な、何の前触れもなく起こった異変、その全てをマサキは目の当たりににした。
(あれからずっと、お前はこうしていたのか)
繰り返される苦痛。終わらない悪夢。どこかの三文小説のような陳腐な文言が、いま目の前で人の形となって現れていた。それは想像以上に耐え難い不条理そのものだった。
思うよりも早く、マサキは行動した。弾かれたような動きだった。
「落ちる……落ちる……」
「落ちねえ」
マサキはアイビスの手を取った。枕に食い込む指を引きはがし、強く握った。自分の存在を伝えるように。
「どこにも落ちねえ」
「あ……うぅ……」
アイビスがサイバスターの中で口走っていたことを、マサキは思い出した。穴、と彼女は言っていた。穴が空いていると。
当時も今もそんなものはありはしない。しかしアイビスだけには見えていて、それが彼女の心を脅かしている。目に見え、手に触れられるものが相手なら、それがなんであろうとマサキは代わりに打ち倒してみせる。それこそ魔装機神の全能を尽くしてでも。
しかし如何に精霊と通じ合う身とはいえ、人の心に巣食う病魔を取り除く術をマサキは持たない。苦しみにあえぐアイビスに、マサキはなす術を持たなかった。
「だって穴なんかねえんだ」
だからマサキは手を握った。何の力も持たない凡百の人間がそうするように、苦しむアイビスの手を握った。せめてほんの少しでも、痛みが和らぐようにと。
「分かれよ。穴なんかねえんだよ。なぁ……」
その言葉が届いたのか、あるいはもとより一過性のものなのか、アイビスはゆっくりと落ち着きを取り戻し、また静かな寝息を立て始めた。それを目にしてからも、マサキはしばらくの間、彼女の手を握り続けた。
悪夢に苦しむくらいなら、いっそ叩き起こしてやれれば。そうして、夜が明けるまで今朝の馬鹿話の続きを聞かせてやれたら。
それでも人はいつかは眠らねばならず、夢を見なくてはならない。夢を見るな。アイビスにそう命じる自分を想像して、マサキは自嘲するように笑った。アイビスに夢を見るななどと、誰が言えるだろう。夢のために生きて来たような女であるのに。
それでもマサキは、明日アイビスに伝えなくてはならなかった。お前はもう飛べないのだと。飛べない体になってしまったのだと。それを癒すためにハガネ隊から外され、テスラ研にも戻れず、どこか別の病院に行くのだと。
そうマサキは伝えなくてはならなかった。
Ⅲ
目が覚めたように世界が切り替わり、アイビスはいつの間にか柔らかい布の上に横たわっている自分に気づいた。最初夢を見ているのかと思った。突然異次元に投げ出されたかのような唐突感と、妙に現実感に欠ける肌に合わない空気がそのように思わせた。しかし怖々と辺りを見回すうちに考えが変わり、夢を見ているのではなく、むしろいま夢から覚めたのだと、三分ほどかけてアイビスはそう理解した。
下腹部を圧迫する存在も、切っ掛けとしては大きかった。仰向けに寝そべるアイビスの横合いから、何者かの足が無神経に伸びていて、毛布越しではあるがちょうどアイビスのへそ下あたりに乗せられていた。足を伝って視線を動かすと、ベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けて、こくりこくりと居眠りをする見慣れた少年の姿が見つかった。
かろうじて椅子に座ってはいるが、腰の位置は危ういほど浅く、腕を組み、肩をすくめ、狭苦しいなかに器用に体を収めて熟睡している。しかしさすがに足だけはどうにもならなかったらしい。
片足だけではあったものの体のいい足枕にされていたアイビスは、思うところありながらもひとまず起き上がることにした。マサキが転ばないよう慎重に彼の足を下腹部から腿の上に移しつつ、ゆっくりを上半身を起こす。
改めて、眠り続けるマサキを眺めた。あまり怒る気にはなれなかった。ずっと看病していてくれたのだと分かっていた。不躾な真似をしたのは寝ぼけていたためで、組んでいた足を戻そうとする際にでもこうなったのだろうと、誰からも説明を受けないうちにアイビスは独り合点した。どうせならずっと手を握っていてくれれば、それは映画のワンシーンにも採用されるくらいの出来すぎた光景だったろうに、その替わりに足というのが、何とも彼らしい素っ気ない触れ合い方だとアイビスには思えた。
部屋の明かりは落とされていたが、窓から漏れる光のため視界にさほど不自由はなく、ここがハガネの医務室であることにもアイビスは気付いていた。鳥の歌声が微かに聞こえる。朝であるらしい。カーテンから漏れる光の具合を見るに、あまり良い天気ではないようだ。
またアイビスはマサキに視線を戻した。他に見るものもないので仕方が無かった。しいていうならば手鏡が欲しかったが、あいにく近くにはない。そういえば寝起きのままだと、アイビスは申し訳程度に髪を整え、目をこすり、口を拭った。顔を洗う前にマサキと顔を合わせたくはなかったが、涎を垂らしながら平気で眠りこけるマサキを見ていると、どうでもいいような気もしてきた。
マサキを起こす気にはなれなかった。ベッドを譲っても良かったが、それよりも今の眠りを守ってやりたいと思った。
手持ち無沙汰でいるうちに、なんとはなしに、アイビスは腿の上にあるマサキの足を弄くり始めた。足裏を触るとそのたびにマサキは小さく体をびくつかせた。面白くはあったが椅子から落ちてはまずいので、アイビスは三回のみに留めることにした。
靴下ごしに親指と小指をつまんで、横に開いた。アイビスがイメージトレーニングの時に行うのと同じ形である。なんとも平べったい飛行機になった。つぎに交互に前後に倒してみる。1、2、1、2と繰り返す。触る感触から足の爪が伸びていることに気づき、だらしないことと思いつつアイビスはふと爪切りを探した。あいにく、それもなかった。
マサキの足をもてあそぶ。それに耽るばかりの自分。これが極めて象徴的な情景であることにアイビスは気づいた。いま彼の足は自分の手のうちにあり、引っ張れば彼は椅子からいとも簡単に転げ落ちるだろう。だから引っ張りはしないように、だけども離しもせず、こうして弄くりまわす。あるいはずっと自分はこうしてきたのではないかという気さえアイビスにはした。
「人の足を見ながら、なに考えてんだ?」
いつの間にか、マサキは起きていた。半開きの目は眠そうでも、胡散臭げにアイビスを見るようでもあった。
「ちょっと自分が嫌になったの」
「おかしな趣味でも発見したか?」
「ちがうよ。ずっとこうしてマサキの邪魔をしてたのかなって思ったんだ」
言うも愚かなら返事をするのも愚か、とマサキは足を引っ込め大きく伸びをする。体中の骨がバキバキと鳴った。このような目覚めは久しぶりだった。ハガネと出会う以前、サイバスター単機で世界を放浪していた頃は、毎日がこうだった。
「悪かったな。水虫はねえから安心してくれ」
「でもマサキ、お風呂入ってないんじゃない? 昨日のままだもん」
「てめえも一緒だろ」
「仕方ないじゃないか。ずっと寝てたんだから」
袖で口元を拭いながら、マサキは横目でアイビスを見た。その目が、淡く探るような色をたたえているので、アイビスは先に答えを言った。
「何も覚えてないよ」
何かの替わりに、アイビスは軽く己の手を包み、親指の爪を撫でた。パイロットという荒事をしているわりに、その爪は整い透き通っているようにマサキには見えた。
「サイバスターに二人で乗ったことは覚えてる。そこでたくさんおしゃべりしたことも。でも、その辺りから曖昧になって、それからのことは何も。ただ、ずっと夢を見てた気がする」
「どんな夢だったんだ」
「……それも覚えてない。でも深い夢だった。ベッドの上で目が覚めて、逆に夢かと思ったくらい」
「悪い夢だったか」
「多分」
暗がりの中、アイビスの横顔はヴェールを垂らしたように曖昧模糊としていた。思い詰めているようにも、そうでないようにも見えた。平静とはまたちがう。言うならむしろ空白だった。ただ爪を撫で続ける仕草だけが機械のように駆動していて、マサキに朽ちかけた歯車を連想させた。
「ねぇ、あたしどうしちゃったの?」
とん、と辺りに木霊した。何かの訪れを想起させた。
それを呼び水に、マサキは覚悟を決めるようにゆっくりと姿勢を正した。来る時が来たのだ。当初はツグミたちも呼んで話をするつもりだったが、あるいはこれも巡り合わせなのだろう。
終焉の宣告はそのようにして始まった。
昨日サイバスターの中で見せたアイビスの異常行動。それに対する医師の所見。アルファベット四文字からなる不吉な病名。アイビスにとっては、無実の罪を読み上げられるに等しく、自分の話をされている気すらしないことだった。
それでもアイビスは聞き続け、マサキは話し続けた。
アイビスとツグミの、ハガネ隊からの除隊が決定されたこと。アステリオンの修理は本日中に完了する予定であり、それを確認した上で、アイビスとツグミの両名に正式な辞令が数日中に下りること。
ツグミはそのままコロラドのテスラ研究所に戻るということ。しかしアイビスはそうならず、軍病院の近辺か軍病院そのものに移され、そこで専門的な診断・治療を受けることになるということ。
話の間、アイビスの表情に大きな変化はなかった。話をする前から、とうに失われていたためだ。それでもマサキが事実を一つ突きつけるたびに、それが目に見えぬ鎚となって、アイビスの内なる何かを破壊していき、その余波は彼女の目や指の動きに微かに現れていた。
「小隊は解散する。手続きも、こっちでやっとく」
最後にマサキがそう告げたとき、ひたすらに星を追う一途でひたむきな少女はもはや何処にもなく、もの言わぬ横顔にマサキは、遠き日に学び舎で見た血の通わぬ石膏像を思い出した。
自らが生物であることを思い出すように、アイビスは身じろぎした。ベッドの上で膝を立て、顔を埋める。少し汗の匂いがした。マサキが口を閉ざすと耳鳴りが聞こえるほど静けさがのしかかり、それから逃れようとアイビスは数度体を揺すった。
「嘘だよ、そんなの」
顔を埋めたまま、アイビスは言った。
「信じないよ」
「……」
「酷いよ、起き抜けにさ。顔も洗ってないのに、汗も酷いし、見られたく無いのに、ずっとそばにいてくれて、足なんか乗せて、あっためてきてさ」
整理がつかぬままアイビスはまくしたてた。言うべき言葉を掴みとれず、心だけがあちこちを錯綜し、そのうちに夜空を見上げ始めた幼き頃の情景を行き来し始めた。
あの向こうに行きたいと、そう思い始めた切っ掛けは何だったか。父親に暴力を振るわれたときかもしれないし、母がむせび泣いているのを夜中に目撃したときかもしれないし、貧しさに負けて初めて盗みを犯したときかもしれない。気がつけばアイビスの精神の頭上には常に星空が広がるようになり、時間が許せば目を閉じて内なるそれを見上げ続ける日々が始まっていた。あれから月日が経ち、父母の顔も、恵まれない生活も遠くに霞み行き、アイビスは多くのものを忘れ、同じくらい多くのものを得て来た。それでも、ただ一文だけは変わらず残った。
星の海を往く。
右往左往して散らかるばかりだったアイビスの感情が、ようやく形を得始めた。どれほどさ迷い、どれほど混乱しても、深くかき分けていけば最後には必ず行き着く場所があった。
「アステリオンに乗せて」
青ざめた唇を微かに震わせてそう請われ、マサキは返答に困った。
「正式な辞令を出す前に、一度だけアステリオンに乗せて。あたしが飛べないなんて、そんなのありえない」
「馬鹿言え、危険だ」
「乗せて。お願い。このまま何もしないで除隊だなんて、ましてやプロジェクトにも戻れないなんて、そんなの……」
アイビスは俯き、体を震わせ始めた。それまでの能面のような顔がどうしたことか、明らかな感情を表し始めていた。震えるアイビスは絶望しているように見えた。悲しみに浸るようにもまた見えた。しかし実際は、そのどちらでもなかった。
「納得できない。できるわけがない!」
髪を振り乱し、アイビスは叫んだ。張り裂けるような声だった。溢れ出すような怒声だった。
アイビスはただ怒っていた。抜き身のナイフのように剣呑な雰囲気を発し、ひたすら屈辱に刃を白熱させていた。
「よくも言ったな……よりにもよってあんたが、他でもないあんたが……一番言ってほしくないことを、よくも言ったな……よくもよくも、よくも言ったな!」
ベッドから身を乗り出し、アイビスはマサキの胸ぐらを掴んだ。突き刺すような睨みに、マサキはアイビスの心底の怒りを察した。マサキは思ってもみなかったように唖然とするばかりだった。しかし別のところで、爛々と赤く輝く瞳に目を奪われもした。親の仇とのように浴びせられる怨嗟の声、射抜くように真っ直ぐな瞳、一心に注がれる怒りという怒り。その全てに目を奪われた。
心の琴線に触れるものがあった。そんな女を他に知っている気がする。出会うはずだったのに、どういうわけか出会わなかった、そんな女がいたような気がする。
訪れなかった出会いが少年の運命をどう変えるのか、それは誰にもわからないことだ。逃したものは果てしなく大きいものだったかもしれない。しかし、どれだけちっぽけでも、そのために得たものも確かにあった。
「……分かった」
胸ぐらを掴むアイビスの手を、マサキは掴み返した。乱暴ではあったが、どこか包むようでもあった。
「ただし一人じゃ行かせねえ。俺も一緒に飛ぶ。上役どもが五月蝿く言うなら、他の奴らにも頼む。修理具合の確認も兼ねて、一度だけ乗せてやる。これだけは絶対に、誰が何と言おうと、必ずだ」
「……本当?」
「男に二言はねえ。ただ仮にお前が上手い事やったとして、艦長らがなんて言うかまでは知らねえ。それでも信用ならねえってんなら、悪いが除隊はそのままだ」
アイビスが噛み付こうとしたところを、マサキは負けず劣らずの目つきで迎え撃った。ここだけは退けないと、猛禽と猛禽が睨み合う。
「どのみちてめえは軍人じゃねえんだ。奴らが降ろしたいっつーなら大人しく降りてろ。だが艦から降りたあとのことは別だ。一切口は出させねえ」
「あたしは降りない」
「うっせえ、降りろ」
「降りない!」
「だったらてめえで納得させろ。俺は知らねえ!」
「言われなくたってそうするさ。あんたなんか……!」
感極まったように、アイビスは二の句を飲み込んだ。忙しい奴だな、とマサキが思ってしまうくらい表情を情けなく一変させ、空気が抜けたように萎みきった。そのまま目を伏せ、マサキの胸元に額を落とす。温いなにかが、マサキの服に落ちて来た。
「おい、汗臭えぞ」
「お互い様だよ」
「なんなんだよ。怒ったりへこんだり」
「知らないよ、馬鹿……」
言われてマサキは憮然とし、アイビスは何かを押し殺すように言葉を続けた。
「……ありがとう」
Ⅳ
試験日は翌朝と決まった。
無論そこに至るまでは様々な紆余曲折と、喧々諤々の議論があったが、結論はそのようになった。強攻極まりないマサキの姿勢に、いっそ管理下でやってもらったほうがマシかと皆がさじを投げたがゆえのことだった。どう止めようと、結局は小隊長の立場などかなぐり捨てて飛び出されるのが目に見えていた。
医療班の方は、意外にもすんなりと承認の意を出した。無論入念な安全対策を施す事を条件としてではあったが、キョウスケが思うところを尋ねたところ、患者本人の強い自覚と克己心がPTSDの症状を緩和する事例もあるとの答えだった。またもし症状が出た場合は、アイビスも大人しく事態を受け止める気にもなり、どのような結果にしろ彼女のためになるというのが医療班チーフの意見だった。
かくしてダイテツとレフィーナ両艦長、そして全パイロットが見守る中、アイビスは入隊当初と同じく再び己を試されることとなる。
試験飛行の編成は以下の通りとなった。
グルンガスト、イルムガルト・カザハラ中尉。
R―1、リュウセイ・ダテ少尉。
サイバスター、マサキ・アンドー。
アステリオン、アイビス・ダグラス臨時曹長。
懐かしい編成だった。
アイビスとマサキ、そしてフリューゲルス小隊。その全てが、この四機編隊から始まったのだ。
夕方にアイビスは先んじてシミュレーターによる試験飛行を課せられることとなった。結果は問題無し。アイビスは平時と全く変わる事なく、鮮やかに仮想空間上のアステリオンを操ってみせた。
アイビスは無論の事、他の者らにとってもさほど意外なことではなかった。シミュレーターはあくまでシミュレーター。技術の限りを尽くして真に迫ってはいても、やはり視覚的にも皮膚感覚的にもまだまだ現実とは隔たりがある。明日こそ峠であることには変わりなかった。
その晩、夕食も早めにこなしてアイビスは深く眠りについた。自らに埋没するように。マサキの言う自分に巣食う何かを、この目で確かめんとするように。
そして眠りから目が覚めた時、やはり彼女の体は寝汗でぐっしょりと濡れ、頬には涙の痕があった。夢も見たような気がするが、内容は思い出せない。
構うものか。所詮は夢なのだから。
そう自分に言い聞かせ、アイビスは窓の外を見た。昨日と同じく、空は厚い雲に低く閉ざされていた。重苦しい曇天を、まるで何かの象徴のようだとアイビスは思った。
身支度を整え格納庫に向かうと、すでに関係者が勢揃いしていた。
「この四人で飛ぶのも久しぶりだな」
とイルム。
「気楽に行こうぜ」
とリュウセイ。
「……やるぞ」
そしてマサキ。
ツグミとキョウスケは艦長らと共にブリッジに詰めていた。そして他のパイロットたちも、ラウンジや食堂の窓際、外の滑走路など思い思いの場所に待機し、そして一様に空を見ていた。
機体に乗り込む前に、イルムから今回の試験飛行にあたって講じられた各種工夫についての説明があった。
一つ目。万が一操縦不能な事態に陥ったときのため、アステリオンには機動兵器サイズのパラシュートが装備されている。本来は輸送コンテナ等に使用される規格外品で、突貫工事で外付けされたものだ。
さすがに自動展開システムまでは組み込めなかったので、パラシュートを開くためのスイッチがマサキの手に渡されることとなる。なおアステリオンの機関部にも手が加えられており、先のスイッチと連動してアステリオンの全推力が停止する仕組みになっている。
スイッチは簡素なスティック状のものだった。奪い取り、床に叩き付けてしまいたい衝動に駆られながらも、アイビスはマサキがそれを受け取るところを黙って見ていた。
二つ目。アステリオンの脱出装置についても改造が加えられており、コクピット内にある手動スイッチが封印されている。危険な措置だが、もし錯乱したアイビスが無理な体勢でそれを使ってしまえば、それこそ命に関わってしまうためである。なお機械が判断する自動脱出装置については平時と変わらず作動することになっている。努めて冷静に、アイビスはそれも承諾した。
三つ目。編隊構築完了後、アステリオンのコクピット内のモニタリングが開始され、リアルタイムで内部の様子がイルムたちとブリッジに届けられる手はずになっている。
四つ目。全武装の弾薬・弾頭は事前に抜かれている。
五つ目。イルムを始めとする三機は、アイビスの安全を最優先して行動する。そのためにもアイビスは、指定された航路を決して逸脱してはならない。
以上の五つ。パイロットとして小指の先ほども信用されていないことが如実に感じられる措置に、総じてアイビスは打ちのめされた。めった打ちとしか言いようがなかった。屈辱と悲しみのあまり身が焼き殺されそうになり、涙すらこみ上げてきた。
今だけだ。アイビスはそう念じて、すべてをこらえた。
今だけなんだ。これさえ乗り越えれば、きっとまた一昨日までの日々が戻ってくる。結果さえだせば、診断結果も除隊通告も覆せるに違いない。難しいことはない。出来ないはずもない。ただ飛ぶだけなのだから。
「よし、行くぞ!」
イルムのかけ声と共に、四人のパイロットたちは己の愛機に乗り込んだ。機体各所に異物を取り付けられた、不格好なアステリオンの姿をアイビスは見上げた。すぐに外してあげる。そう誓った。
出撃前の全工程は万事滞りなく、イルムとリュウセイの機体がカタパルトに乗って、矢継ぎ早に曇天の空に射出されていった。フォーメーションはアイビスを最前に置いた菱形陣形と取り決められていた。右翼にウィングガスト、左翼にR-ウィングがそれぞれ陣取り、次に来るサイバスターが後方を担当することとなる。
アイビスはグローブの指と指の間を交互に押し込んで、操縦桿とスロットル・レバーを握り込んだ。図らず呼吸が荒くなり、脈拍数も多少増し始めたが、決して異常値ではない。コンディションは全く問題ない。
「……っ」
躊躇したものの、やはり堪えきれず、アイビスはクローズト通信の回線を開いた。彼女の一番機はすぐさま応えてきた。
「マサキ……」
「おう」
アイビスとマサキ……フリューゲルス小隊の二番機と一番機は、これまで幾度となくそうしてきたように顔を合わせた。しかし、誰よりも頼りとしてきた小隊長の顔を、アイビスはこのとき直視することができなかった。そうするにはあまりにも後ろめたく、情けなかった。
「お願い。あたしを信じて」
せめて貴方だけでも、と、アイビスは内心で続けた。
「……それだけ。ごめん」
返答を聞くのが恐ろしく、アイビスは自分から回線を切ろうとした。その矢先のことだ。
「いいか、俺を呼べ」
唐突に言われ、アイビスは一瞬、惚けてしまった。
「危ないと思ったら俺を呼べ。それが合図だ。それが聞こえるまで、俺はこんなもん絶対に押さねえ。 イルムが何をほざこうと死んでも押さねえ。なんなら今すぐ踏みつぶしてやりてえくらいだ。んでもってお前は何が何でも成功しろ。あの糞みたいな小細工を考えた奴ら全員、一人残らず見返して、堂々と大手を振って出て行け。いいな」
「……」
「昨日の威勢はどこいきやがった。いいな!」
「……怒鳴らないでよ。うるさいなぁ」
「んだと!」
何かを懸命にこらえ、一つ一つ絞り出すように、アイビスは慎重に唇を動かした。たとえハリボテに過ぎずとも、今は死にものぐるいで見栄を張らねばならないという想いがあった。
「なんだその口の利き方は!」
「なにさ。そっちこそ何度言わせるの。あたしは……絶対降りない……」
「そうかよ、好きにしやがれ。んじゃ、またな」
ぼろを出す前に、いつものように素っ気なく通信は切られた。そう、いつものように。まるっきり一昨日までの日々と同じように。
アイビスは耐えかねたように息を大きく吐き、そして吸い、また唇を引き締めた。思い切り息を止めた。それでも嗚咽のようなものがもれた。
悪夢に犯されたのではない。もっと暖かな、熱いとすら言える熱源が体中に発生していて、それに今のアイビスは悶え苦しんでいた。
信じてくれている。誰が何と言おうと、彼は信じてくれている。
無論、完全にではない。万が一の事態を恐れる心は彼にもあって、でもそれでも彼は信じてくれている。
胸が震え、手足がしびれる。瞳の奥が、こんなにも熱い。
この気持ち。心の奥底から無尽蔵にこみ上げて、口々に何かを訴えかけてくるようなこの想いはなんなのか、アイビスには分からなかった。想いには元来、名前など無いのだから。だからアイビスは、ただそれを噛み締めた。
視線を前方に戻すと、見慣れた銀の騎士の後ろ姿がカタパルトに飲み込まれていき、そして空へと飛び出して行くところだった。
「こちらブリッジ。アステリオン、カタパルト接続を開始します」
改めて、アイビスは操縦桿を握りしめた。発作のような衝動はひとまず収まった。何一つ迷いは無く、あとは飛ぶだけだった。
「アステリオン、アイビス・ダグラス、発進よし」
「了解。アステリオン、発進どうぞ」
「行きます!」
カタパルト・ランチャーに光が走る。アイビスは下腹にりきを入れ、スロットル・レバーをわずかに押し込んだ。数秒後に、猛烈な電磁加速がアイビスの体に襲いかかる。
瞬く間に外界に投げ出されたのち、アイビスはスロットルを全開に入れた。エンジンが嘶く。スラスターが咆哮する。風を切り裂いて、アステリオンが速度に乗った。
その流星のように揺るぎない軌跡を、地上から多くの者が見上げていた。
がんばって、アイビス。リオは瞑目した。
へますんなよ。祈るように呟いたのはカチーナだ。
帰って来たら、ありったけの甘味をプレゼントしよう。そうタスクは心に決めた。
大丈夫だ。大丈夫に決まってる。アラドは以前の模擬戦のことを思い返していた。
多くの者が空を見上げ、流星を見つめた。そしてそれぞれに、思い思いの言葉をかけた。
ブリッジでは、手を組みひたすら祈りを捧げるツグミの姿があった。
(お願い。どうか、どうか……)
組んだ手は、微かに震えていた。神と、仏と、フィリオと、あの少年と、そしてアイビス自身。祈る対象はのべつまくなしに切り替わり、節操がなかった。ひたすら我武者らにツグミは祈った。
(アイビス、あなたは宇宙へ行くのよ。お願いアイビス。どうか……)
多くの祈りと多くの願いを翼に受けて、アステリオンが行く。イルムに右翼を、リュウセイを左翼を守られ、そして風の少年に背を支えられながら、暗雲の空を飛んで行く。
ひたすら希望だけを胸に、絶望の空へと飛んで行くく……。
Ⅴ
およそ十三分と二十秒のことだった。
アイビスの試験飛行にかかった時間のことである。
カウントの始めは、四機が編隊構築を完了してからだ。四機が前後左右の配置につき、イルムが試験スタートを宣告した時刻をゼロとして、そして全てが終わるまで。
およそ十三分と二十秒のことだった。
いつの間にか雨が降っていた。雲の上では天気など関係ない。いかなる悪天候でも、それよりもさらに高空へ出てしまえば、澄み切った空と太陽しかそこにはない。ほんの少し前まで、今日が曇りであったことすらマサキは忘れていた。
傘すら差さずに立ち尽くす彼は、頭から爪先まで無惨な濡れネズミとなっていた。みすぼらしく、哀れですらあった。それでも彼の目の前でしゃがみ込む少女に比べれば、まだましであったかもしれない。
そうか、終わっちまったか。
マサキはとうとう、そう受け入れた。
事態は、ある意味で予定調和に最悪な方向へと流れて行った。
試験が始まってから四機編隊は徐々に、まるでアイビスの限界を見定めるかのようにゆっくりと高度を上げていいった。そして高度およそ一万メートルまで到達する。雲海の遥か上空、対流圏と成層圏のちょうど境目あたり。地平線に沿って弧を描く青空と陽光、そして頭上には深遠な宇宙の色が広がる世界。ここまでで、飛行開始からおよそ五分ほどが経過していた。
この時点で、マサキはモニターに映るアイビスに異変が起きていることを察知した。スーツの上からでも明らかなほど、アイビスの全身が震え出している。マサキは即座に二人にも伝え、機体を寄せてアイビスに呼びかけを始めた。二人も代わる代わるにアイビスの名を呼ぶが、アイビスからの応答は無し。うめき声のようなものが返ってくるばかりだった。
約七分目。アステリオンの挙動が見るからにおかしくなった。無闇な旋回と加減速を繰り返し、ついには地上目掛けて突進を始めた。かろうじて垂直ではないが、明らかに常軌を逸した機動である。まともな操縦とは到底考えられなかった。
この時点でイルムからスイッチを作動させるようマサキに指示が下ったが、マサキは無視した。吠え立てるイルムを余所に、全速力でアステリオンの後を追った。
約九分目。高度は六千メートルまで落ちていた。マサキはアイビスを呼びかけ続けた。
このとき、アイビスも押し寄せる幻影の波と懸命に戦っていた。強い自覚が病状の改善に繋がるかもしれないという医師の見解は、ある意味でその通りとなっていた。
異変が起こるより前、果てない空を映すモニターと計器の値を眺めていたアイビスの視界に、まるで覆いかぶさるように暗黒が現れ始め、アイビスは愕然としつつも状況を理解した。サイバスター内部での出来事が、堰を切ったように思い出された。こいつだ。こいつがあたしを陥れようとしている。
ついで背後に、彼女の体を支えるシートの遥か後方に底知れぬ圧倒的な存在が現れ始めた。振り向きもしていないのに、どうしてそんなものが感じられるのか、アイビスにも分からない。ただ、分かるのだ。
――穴が空いている。
負けるものか。アイビスは歯を食いしばった。モニターも計器も闇夜の中に薄らいで来て、前には銀の凶相が形を為す。果てしない落下の感覚がアイビスの肌に押し寄せる。その全てにアイビスは抗った。
(幻だ。こんなもの嘘っぱちだ。あたしは落ちていない。落ちていないんだ……!)
それでも、いくら懸命に四肢を動かそうとしても、アイビスの肉体はまるで答えてくれなかった。いいや、答えてくれているのかもしれない。しかしそれをアイビスは認識できなかった。
(嘘だ……!)
夜の帳はますます圧倒的になり、微かに、それこそ幻のように垣間見えていたコクピットの風景が完全に掻き消える。身を支えるシートすら消え失せ、アイビスは闇夜の中に一人放り落とされた。
(こんなの嘘だ……!)
体が凍え始めた。歯の根が合わない。アイビスは恐怖せずにはいられなかった。あまりの光景に、自分がいまアステリオンに乗っていることこそが、信じがたくなった。強い・弱い、勝つ・負けるの問題ではもとよりなかった。目が、耳が、皮膚が、脳が、すべての感覚器が今ある光景を肯定する以上、彼女という肉体にとってはこれこそが現実であり、それを否定することこそ現実逃避に他ならなかった。
そうしてアイビスは、「現実」を受け入れ始めた。
約十分目。高度は三千メートルまで落ちていた。マサキの感覚ではちょうど富士山の高さに近い。大地は間近だった。
イルムとリュウセイから、繰り返しスイッチを押すよう指示が下っていた。もはや怒声であった。ブリッジからは艦長やキョウスケらまでもが声を荒げていた。
もう諦めろと彼らは言う。
もう無理だと言う。
そんなことがあるものか。マサキは全てをはねのけた。
使い魔に命じラプラス・コンピュータで算出させた最後のデッドラインまで、まだ猶予がある。すでにアステリオンは手が届く範囲に補足しており、その気になればいつでも助けることができる。
なによりアイビスはまだ戦っている。万が一の場合は言えといった言葉を聞いていない。自分の名を呼んでいない。約束したのだ。なら押さない。絶対押さない。
マサキは呼びかけを続けた。
そしてアイビスは依然として幻影に脅かされ続けていた。幼い頃から見上げ続けた闇夜は、もはや見上げるものではなく彼女を永劫に陥れ続けるものとなった。自分は、こんなものに憧れていたのか。そのときアイビスの中で何かが一つ砕けた。
押し寄せる風圧に到底目を開けていられない。何も見えず何も聞こえず、音をも越えて落下し続けるような皮膚感覚と三半規管の悲鳴だけがある。助けを求めようとアイビスは口を開きかけ、それをかみ殺した。現実の全てが幻と消えた今でも、かろうじて残るものがあった。しかしそれも欠片のみで、なぜいま自分が口を閉ざしたのかアイビスは理由を思い出せなかった。ただ、また一つ何かが砕けたような感触だけがある。
約十分と十五秒目。高度約千メートル。マサキは声を枯らして呼びかけ続けた。それは悲鳴にも似ていた。
アイビスもまた悲鳴を挙げようとしていた。限界まで彼女を踏み留めていたもの、その全てが逆風に吹き飛ばされた。身を縛ってたものを失い、アイビスは大きく息を吸った。
約十分と三十秒目。高度約七百メートル。依然、マサキは呼びかけ続けた。「目を覚ませ」とも「高度を上げろ」とももはや言わなかった。ただ彼女の名だけを呼び続けた。
アイビスもまた叫んだ。わけもわからず、理性の全てを放棄して、胸の奥で何もかもが砕けていくのをどこかで感じながら一心に叫んだ。だというのに、放たれた言葉には失われたはずの、ある一つの意味があった。
名前であった。誰のかは知らない。顔も声も存在すらも風圧で吹き飛んでいた。しかしその名を呼んだ。
そして約十一分目。そのときマサキは、通信機の向こうからアイビスの微かな声を聞いたような気がした。
――マサキ……。
そう呼ばれた気がした。
同時にデッドラインを迎え、マサキは、それまでの頑なさが嘘のように、いやに平坦な気持ちでスイッチを押した。アステリオンは即座に機関停止、テスラ・ドライブも呼吸を止める。
高度・速度ともに既にパラシュートだけで凌げる値を逸している。マサキはサイバスターをアステリオンの直下に回り込ませ、下からアステリオンを抱きとめた。鮮やかな動きだった。
直後にエーテル・スラスターを噴射させる。上からはパラシュートに引き上げられ、下からはサイバスターに支えられ、アステリオンはゆっくりと、舞い落ちる木の葉のように地上へと降下していった。
マサキがコクピットに乗り込んだ際、さんざん身をよじって暴れ回ったアイビスだったが、外に担ぎ出され降り出した雨に身を打たれたとき、時を止められたように動きを静止させた。
呆然と、心底信じられぬように、それこそ夢でも見ていたとしか思えぬような面持ちで、アイビスは自分を抱きとめるマサキの顔を窺った。
見上げてくる彼女の目に、マサキは何も言ってやることができなかった。何かを言うには、もう彼の喉は枯れきっていた。
彼の瞳の色からおおよそを理解して、アイビスはマサキから体を離し、草地にへたり込んだ。全てはとうに砕け散っていた。それをようやく自覚することができた。
二人の現在地はラングレー西方の、野生動物保護区に指定されている丘陵地帯の裾野だった。およそ60キロメートルほどの距離を飛行したことになるが、欠片の自覚もアイビスにはありはしなかった。
雨が勢いを増してきた。二人してずぶぬれになっていくも取り合わず、かたや立ち尽くし、かたやへたり込んだまま微動だにしなかった。やがてイルムらも追いついて来て近くに機体を着陸させたが、アイビスもマサキも、そちらを気にするどころか、気づいているかどうかすら怪しいほど見向きもしなかった。機体から降り立った二人も、そんな彼らに易々と近づくことを躊躇った。
先に動いたのはマサキの方だった。うなだれるアイビスの肩に触れようとした。一昨日の夜と同じく、結局そんなことしか彼に出来ることはなかった。
「触らないで」
一瞬躊躇いはしたものの、マサキはさらに手を伸ばした。
「触らないでったら!」
そしてアイビスに突き飛ばされた。
突き飛ばされた勢いでマサキは倒れ込み、尻餅をついた。小石の感触が肌に食い込み、針のような痛みを覚えた。
(そういや)
ほぼ同時に、全くどうでもいいことが、二人の脳裏によぎった。
(ラングレーのあとから、やってなかった)
マサキは胸を強く押され、軽く息を詰まらせたが、どうということはなかった。臀部の衝撃も痛みとすら言えないほど小さなものだ。しかし二人は、なぜだろう、まるで崖から突き落としてしまったかのような、突き落とされたかのような、そんな取り返しのつかない感覚をそれぞれに覚えていた。
二人して、アイビスの肩から伸びるそれを呆然と眺めた。それが、たったいまマサキを突き飛ばしていた。
アイビス・ダグラスの手の平が、マサキ・アンドーに害を及ぼしたのだ。
あの、手の平が。
「ざまあないね。あたし……」
アイビスはくぐもった笑い声を漏らし、マサキは未だ信じがたいように、そんな彼女を見た。ふつふつと心にわき上がってくるものがあった。
「失望したでしょ」
「……」
それは悲しみであったし、同情であったし、罪悪感でもあった。あるいは全く別種の感情もあったのかもしれない。
「あたしもだよ。本当に、やんなるくらい、見損なったよ。ごめんね。信じてなんて、無理を言って」
「……」
それらが少年の心のなかで、複雑に混ぜ合わされ、撹拌され、練りに練られ、するとさらに膨張しはじめたので、さらに撹拌し、また練り込んで、
「馬鹿だったね、あたし。ふ……ふふ……」
「…………っ!」
そして一つの形を与えられたとき、不思議な事にそれは元のものとは全くかけ離れた代物となっていた。悲しみなどではない。同情などでは到底無い。名付けるとしたら、それは憎悪という言葉がもっとも相応しかった。昨日のアイビスに似た感情の突然変異が、彼の中でもまた起こった。
その憎悪のままにマサキは立ち上がり、いつぞやの仕返しのように、力の限りにアイビスの胸ぐらを掴み上げた。
「立て!」
喉の痛みなど地平線の彼方まで忘れ去り、殺意すらこめて叫んだ。渾身の力で彼女を殴り飛ばすことすら、今の彼なら容易に出来た。それほどまでに、少年は怒っていた。
「立て! 立ってもう一度、あのアステリオンとかいうガラクタに乗ってみろ! 泣こうが喚こうが、首根っこ掴んででも引きずり回してやる!」
「やめてよ……」
アイビスが顔を背けようが、マサキは構わなかった。否、ますます激情を募らせた。
「ざまあないだと? ああ、ざまあねえとも! なにがアストロノーツだ、なにが星の海だ! 糞みたいなたわ言を言い続けるつもりが少しでも残ってんなら、もういっぺん根性見せてみろ!」
「やめてったらぁっ!」
アイビスもまた叫び、再びマサキを突き飛ばした。彼に劣らず、アイビスの目もまた焼くような憎しみに満ちていた。それは昨日の勢いを遥かに上回り、越えてはならぬ一線を越えたかのように。
少年に対する、これまで日を追うごとに高まり続けてきた一つの感情が、一線を突き抜けていた。全くの異次元にまで到達してしまったかのように、まるで相反するものに転じていた。
「あんたには分かんないよ! あんたにだけは!」
いつのまにかアイビスの両の瞳からは涙が溢れていたが、それでも決壊した彼女の心から溢れるものには到底足りなかった。
「無敵のサイバスターに選ばれて、おとぎ話の主人公をやっているあんたには、あたしの気持ちなんて分かりっこない。ううん! あたしが馬鹿だったんだ! いっときでも、そんなあんたと肩を並べられてるって思い込んでて。あたしもやれば出来るんだって勘違いしてて!」
奇妙なことに、マサキを憎みながらも、彼女が言い募る言葉は全くそれにそぐわぬものだった。それは先のマサキも同じであったのかもしれない。イルムとリュウセイが声すら発せず遠巻きにするほど、今の彼らは思いと言葉と、憎しみとそれ以外のものが奇怪にねじくれ合っていた。何もかもが、軋みをあげてねじ曲がっていた。
「変わったと思ったんだ! 昇っていると思ったんだ! そうしていつか、夢に届くって希望が見えていた! なのに……その結果がこれだ! おかしいと思っていた! 夢でも見てるみたいに毎日が楽しかった! 当たり前だった、だって夢だったんだから!」
「てんめえっ! たった一度こけたくらいで何を偉そうに寝言ほざいてやがる! 俺んとこで、これまでいったい何やって来た! 脳みそあんのか!」
「ああ、あるとも! どんなに狂ってても、それでも覚えてるさ! あんたのとこだよ! あんたのとこで、さんざん頑張って、それでこのざまだ!」
アイビスは一歩踏み出した。マサキは退きこそしなかったものの、それでもたじろぎを覚えた。津波のような彼女の激情は、圧力すら発していた。
「馬鹿みたいに夢を見て、馬鹿みたいに自分を過大評価して、馬鹿みたいに浮かれきって、いっぱしの主人公の気持ちでいて、その挙げ句がこのざまだ! 間違っていた! 全部、全部間違っていた! あんたと腕試しをやったあの日から、あたしは全部を間違えていたんだ!」
「てめえ……てめえ……よくもっ!」
「殴りたいの? いいよ、殴れば。どうぞ殴ってよ! ねぇ、あたしを見てよ。今のあたしをよく見てよ!」
ずぶ濡れの、泥にまみれた体をアイビスはこれ見よがしに張って見せた。さも自信に溢れるように、尊厳に満ちているように空虚な器を晒してみせた。
それを前にしたマサキは、この世の悲壮全てを目の当たりにしたように、歯を食いしばった。
「ねぇ……どうしようもないでしょ? なんにも無いでしょ? もうなんにも……残ってない。それで、あたしに何をしろっていうの? なにが出来るっていうの……?」
昨日の写し絵のように、アイビスの語気がみるみるうちにしぼんで行った。
「やめてよ……あっちへ行ってよぉ……」
やがて精も根も尽きたのか、体から力という力を霧散させて、アイビスはふたたびへたり込んだ。恥じ入るように両手で顔を覆いかくして。
「……見ないでよ……恥ずかしいよぉ……自分が、とても恥ずかしい……」
さきほどまでの敵意は霞と消え、命乞いをするように呟くアイビスに、マサキは二の句を継げることも、握りしめた拳を叩き付けることもできなかった。そうするには、泣き続けるアイビスの姿はどうしようもなく哀れに過ぎて、死者にむち打つも同然だった。
行き場を失った彼の感情は雨に打たれるばかりで、ひたすら火花を挙げて空転していた。肺を雁字搦めに縛り上げられ、呼吸すら覚束なくなり、マサキもまた耐えきれぬように膝を付いた。
「ちきしょう。ふざけやがって……」
せめてとばかりに、拳を大地に叩き付ける。しかし、それで晴れるものなど何一つなかった。
完膚なきまでの敗北感を覚えていた。二度と立ち上がれないのではと錯覚するほど、重く苦しいこの感覚。これほどまでのものは、彼の生涯で三度目のことだった。師と誇りを失い、国と友を失い、そしていま彼は部下と、先の二例に匹敵しうる何かを失ったのだ。一体、何度繰り返せば良いのだろう。
大嵐はなにもかもをなぎ倒して、過ぎ去った。そこには無惨な敗者と、むせび泣く一人の少女だけが残されていた。
フリューゲルス小隊の最期だった。