「先生、お話があるんですけど」
「その振りかぶった腕を降ろしてから話そう」
最早止まれぬこの思い。テツ先生には悪いが本気で数発殴りたい気分だった。
いや、悪くはないんだ。テツせんせーは亜人に理解があって、大人で、先生で。だから小鳥遊もその線引きを理解しているからこそ簡単に出来たのだと、そう思いたい。
「だあああって! 教師が! 生徒に! ちゅーしてもらったとか!」
「おおっとそれ以上は駄目だ。どこで聞いたそれを」
「昨日、本人から……」
「ひかりが言ったのか?」
「まあ口を滑らしてって感じでしたけど」
テツ先生はさも意外そうな顔をするが、あれは事故のようなものだ。いや、ほんと衝撃的だった。小鳥遊は本当に小さく漏らしただけなんだけど、それを俺が運悪く拾ってしまったというか。
その時はもう何て言うか笑いしか出てこないというか、佐竹と木村が怯えた目をしていたのが印象的だったというか。どうかしてたよあの時の俺は。
――
色々考えさせられた翌日、木村がまず言い出して、井森が追随した。
「
「友達なんだしさ、頼られないってのも寂しいじゃん」
次に佐竹が大いに乗り気で、太田も関心を隠し切れない声色で同意した。
「いいなそれ! そうすればお前らもあだ名つけられるんじゃねーか!?」
「佐竹はちょっと黙ってて、ほら春明がまた暗黒面に……それはそれとして、僕も賛成、『ちょっと違う面』を知らないと、ずっとこのままだからね」
言葉に出すまでもなく春明も賛成だった。
あとは思い立ったが吉日、女子二人から
最初は一人の
「日下部、ちょっと肌とか触らせて欲しいなー」
「うん、いいよ? 冷たいと思うけど」
「……こんなに冷たいのね、あと肌がすべすべ」
「そ、それは偶然かな?」
「どんなお手入れしたらこうなるの……」
井森敦美と小鳥遊ひまりが日下部雪と、
「町の顔とか持ってみたいな」
「ち、ちょっと重たいから落とさないでね?」
「責任重大だな、とけっこう重っ!」
「あはは、人間の頭って体重の約10%ぐらいの重さって言われてるからね、そりゃ重いよ。町さんがガッシリしてるのはそれを常日頃から持ってるからだろうね」
「太田、おめーデリカシーないな」
「何で!?」
「木村さん、私は大丈夫だから!!」
木村静香と太田淳一が町京子と、
「吸血鬼って噛みついて血を吸うってのが一般的だけどさ、あれ、首以外はどっか噛みつきたいなーとか思ったりしねーの?」
「それなら腕とか! 噛みつきたい衝動はたまに来るの、その度に首を噛むのは大変だし鬱陶しいから、その点腕なら綺麗な肌も見えてるし血管が見えてると視覚的にもプラスだったり。それでこの前せんせー達と噛みつきたい腕選手権をして点数付けしたりしたよ!」
佐竹裕介が小鳥遊ひかりと、それぞれが好きなように語り合って冗談を飛ばし合っていた。心なしか、
さて、春明はその中で一番最後、当然ながら小鳥遊ひかりと佐竹裕介に混じって参加していた。他の
――佐竹に悪気はなかった。語らいの流れでそれを聞いただけだし、それ自体はなんでもないこと。そもそも春明だってその流れに乗ったのだから誰も悪くはない。
「じゃあ俺の腕はどうよ? 噛みつきたい度何点?」
ぐいと佐竹が制服の袖を捲る。それを小鳥遊がぺたぺたと触ったりぐいと力を込めて押したりして、
「う~~~ん……………………4点!」
ひでぇ。思わず言葉が出てくるくらいには低評価だった。「10点満点だよな?」佐竹の一縷の望みをかけた声も、「ううん、100点満点!」とバッサリだった。その鋭さたるや吸血鬼の牙に勝るとも劣らない。
春明が理由を聞いてみれば、美味しそうじゃない、ユッキーみたいな肌じゃない、柔らかさが足りない、良い匂いがしないと散々だった。
佐竹は今度こそ地面に手をつくことになった。容赦ない言葉に心が抉られたようだ。
「まあなんだ、どんまい佐竹。ところで……」
――小鳥遊的に俺の腕はどうなんだ?
まず、小鳥遊の時間が止まった。
ぐいと差し出した腕を見て文字通り、表情が、呼吸が、身体が、全ての動きが止まった。いや、目だけは止まっていなかった。
最初に手首を凝視していたそれは、やがて腕を辿って肩に至り、そのまま制服の隙間から見える首へと移って、数瞬の後に評定を待って小鳥遊を見つめる春明と視線がかち合った結果――静かに爆発した。
「ぜ」
「え」
「ぜ、ぜろ、てん……」
「春明ー!! 気をしっかり持て!! まだ致命傷だー!!」
「いや致命傷じゃ駄目でしょ」
佐竹の絶叫と、何事かと町の顔ごとこちらを見た木村の的確な突っ込みが響き渡る。
死にたい、4点を宣告された佐竹を鼻で笑っていたら、それ以下の点数、というかまったく良いところなし。
意中の相手にそんなことを言われるなど、この世の終わりより恐ろしいことで、それを今まさに体験している春明の胸中など、想像すら生ぬるい。
春明の世界は文字通り終わり、周りがなんか騒いでるという認識はあるが何を喋っているのかわからない状態で、しかしそんな状態でも小鳥遊の声だけは集音マイクもビックリな性能を発揮して拾っていた。
「先生にチューするより恥ずかしいってどういうことよぉ……」
哀れ春明はラスボスの前に今度こそ死を迎えることとなる。
「おい! なんか笑い出したんだが! 戻ってこーい!!」
「……もうこのまま放置でよくね?」
――
「道理であんな空気になっていたのか」
「先生見てたんですか?」
「まあ教頭先生と一緒にな。というか声かけたんだが、覚えてないのか?」
まったく覚えていなかった。そう言えば途中から参加者が多くなったような感じはしていたけど、それがテツせんせーだったかどうかを覚えていない。重症にも程がある。
それはさておき、こうして今ここにいるのはそのラスボスに一矢報いるためだった。流石に翌日まで死んでいられる程親は甘くない。もうずっと寝ていたいと早朝に起こした反乱が、恋愛小説の一冊を持ち出して鈍器代わりに一発、さっさと学校行けの一言と共に鎮圧させられた。
「0ですよ0、10とか100とかじゃなくて、0。どうしようもなくないですか」
「オレに言われてもな……ちなみにオレは赤点だったぞ?」
「赤点でも0よりは上でしょ!」
「いや赤点だから0点もあり得るんだが」
「屁理屈はいらねーですよ」
「あぁ、うん、すまん」
学校へ行けば反乱の罪は不問になると有難いお言葉を頂戴し、昨日のダメージを負ったまま学校へとやってきた。
佐竹や太田はやる気のない挨拶に気持ちを察したのか特に変わらず接してくれたが、木村や井森からは元気出せとジュースを貰い、ひまりさんはもう哀れで仕方がなかったのか必死に慰めてくれた。その行動がまた心に響くんだよ……
小鳥遊の顔なんて当然まともに見れるはずもなく、心配そうな声に大丈夫の一言でそそくさと教室へと逃げてしまった。
「ふむ、でもまあ、そうか」
「何か?」
「いいや? 思うところは色々あるが、それを言うには立場がな」
「わ、大人っぽい」
「失敬な」
言いたい、けど言ってはいけない。そんな空気を纏う先生は、しかしそのもどかしさとは別に楽しさを含んでる気がした。
理由を聞いても、さあなの一点張り。優しい先生はどこへ行ったのやら。こっちにとっては死活問題だと言うのに。
「はあああ! 夏前には小鳥遊に告白しようとか思ってたのに! お先真っ暗ですよこれ!!」
「気持ちはわかるがあまり大きな声出すなよ? いくら放課後で人が滅多にこない場所とは言え、もしかしたら誰かが来るかもしれない。それこそひかりが来てこの会話が聞かれたらどうなるんだ」
「それなら抜かりはないですよ、ちゃんとひまりさんから小鳥遊は今日用事あるらしいって聞いてますから」
それを警戒しない俺ではない。ひまりさんに小鳥遊の動向は聞きだしている。用事があるならここへは来ないはずだ。実際、こうして訪れてからそこそこ時間が経っているが、小鳥遊はおろか誰かが来る気配すらない。
「まあ、それならいいが」
「それより生徒に抱きつかれた挙句、ちゅーまでされた先生の釈明を聞きたいです」
「頬ならセーフじゃないか……?」
「苦しい良い訳ですね、ギルティです」
「アイツも特に深い意味もなく、勢いでやったみたいだったが」
「そうかもしれないですけど、俺にとってはそれでも羨ましいですよ!」
つまりは嫉妬だ。あだ名を付けられた佐竹に、小鳥遊に色々なスキンシップを取られる先生に。
こうして先生に喚いているのも、ただの八つ当たり。きっと先生も、それを解って付き合ってくれている。
高橋鉄男は良い教師、その立場に、ちょっと甘えたかった。
――
ところで、吸血鬼の
吸血鬼が暗闇の中で獲物を襲うために発達したそれは、現代に至るまでも失われることなく、程度の差こそあれ吸血鬼の
高橋鉄男は気付かない。日下部春明も気付かない。
生物準備室の扉の少し先、階段を登ってきた存在に、人間である二人は気付けない。
ただしその登ってきた存在は、二人の語らいをその鋭敏な聴覚でしっかりと捉えていた。
捉えて、しまった。
――はあああ! 夏前には小鳥遊に告白しようとか思ってたのに! お先真っ暗ですよこれ!!
心臓が、跳ねる。
何かの聞き間違えなんじゃないかと疑うその叫びは、しかし普段から聞き慣れた声だからこそ幻聴でないと脳が裁定を下す。
小鳥遊ひまりに用事があるからと伝えたが、その用事こそ高橋先生への相談事だった。
登るために動かしていた足が回れ右をして降りるために動き出す。最初はゆっくりだったその足取りも、一階に辿り着くころには早足になり、校門を出た頃には全力疾走へと変わっていた。
意図せぬこととは言え、盗み聞いてしまったことに胸が罪悪感で溢れていく。
どうしていいかわからなくて、ただ身体だけが動いて、心がぐちゃぐちゃになって。
そうして息を切らして、靴を脱ぎ捨てて、父親の声も無視して自室のベッドに身体を投げる。
小鳥遊ひかりは、自分の心がわからない。こんなの、経験したことがないから。
昨日、日下部春明の腕を見てちょっとでも吸血衝動が湧いてしまって、それがとても恥ずかしくて。
その翌日にこれだから、小鳥遊ひかりはそれを整理する余裕なんてどこにもない。夕食までに元に戻らなきゃと思うも、それが出来るかどうかわからない。
小鳥遊ひかりは、何もかもがわからなかった。