あの日の声が耳に残る。いつものちょっとしたやりとり、その延長線上で、ちょっと不意を突かれただけ。
いつものようなトーンで、自然な流れで『ひかり』と名前を呼ばれて。後々思い返してみると、ぎこちなかったのだけれどその時の私は気付けなくて、思いっきり狼狽えてしまった。
中学生の頃から、親しい相手は男女関わらず『ひかり』なんて呼ばれていたからなんともないと思っていたのに……
ついでに言えば、返しで名前を呼ぶのはとても心臓に悪かった。名前は言われ慣れていても、言い慣れてはいなかったから。
結局チャイムが鳴って途中で逃げちゃったけど、あのままだったら私はまともに顔を見れなくて、会話だって出来なかったはずだ。
次の日には彼は元に戻っていて、妙に意識しているのは私だけかと、ちょっと理不尽さを感じたり。いいもん、意地でもやり返すんだから。
「ひまりー! 私先に行くねー!」
「お、おねーちゃんどうしたの……? 今日は何も行事ないよね?」
「ひまりが私のことどう思ってるのか、よおおくわかった! 毎日手伝って貰ってるわけじゃないのに!」
「私より先に起きて、手を貸す前に全部終わってることなんて数えるくらいしかないんだけど?」
「んもー! 先行くね!」
いつもはひまりに髪のセットを手伝ったりしてもらうけど、こうして早起き出来た日は、当たり前だけど全部自分でやっている。……大体は髪型が髪型だから、手を貸してもらってるけどね。
靴を履いてドアを開け、駆け足で道を走る。清々しい朝、地面を蹴る軽快な音に足が更に軽くなる。
学校へ近づくにつれて同じ制服を着た人が増えていく。まだ早い時間だから、その数もまばら。私が普段通る時間はいっぱいいるけれど、流石にそれより何十分も早いと流石に少ない。
校門前の緩やかな坂を一息に駆け上がり、校門を過ぎた辺りで息を整えて校舎へ入る。数週間も経てば流石に慣れるもので、迷わず教室へ。
「おっはよー!」
「はよー」「おはー」「おはようー」
「あれ? ひかりさん早いねー」
「今日はちょっとねー」
クラスメイトと話しながら、カバンから教科書ノート筆記用具と机に移していく。その過程でまた歴史の教科書を忘れてしまったことに気が付き、ひまりに怒られるなあとちょっと気分が沈む。頼めば貸してくれるけど、そこにお説教が必ず付いてくるのがひまりだった。
いや、それよりはまずこんなに早く登校した目的を果たそう。授業は後ろの時間だから、その前に借りればいい。
ちょっと友達に断りを入れて、隣のクラスを後ろのドアから覗き込む。うーん、いない。朝一番にやってやろうと思ったけれど、対象がいないのならばしょうがない。廊下で待っていた友達にありがととお礼を言って、その場でちょっとした雑談を始める。
「何々、彼氏ー?」
「ぅえっ!? ち、違う違う! 友達だよー友達! ってか隣のクラス見ただけでなんで彼氏って話になるのよー!」
「えー、ほら、ひかりさんってA組の佐竹君や日下部君と仲が良いでしょー、あと太田君」
いや、その三人と仲が良いならマッチーもユッキーも彼氏になると思うんだけどな。
「それもそうかー」と笑う友達に、私は息を軽く吐く。まったく、狼狽えた自分が馬鹿みたいじゃない……
「で? 実際のとこどうなの? 日下部君とは一緒に帰ったりしてるでしょ?」
「っ! それはー、そうだけどー……」
とか思ったらこれだ。危うく
ニヤニヤする友達に、なんてことを言うのと口を尖らせて抗議する。続けて「そんなんじゃないよ」と。
「の割には毎日喋ってるじゃない」
「よ、よく見てるねー私のこと」
「廊下で喋れば誰だって目に入ると思うけど」
それもそうだった。
けど、そんなに言われる程喋っているだろうか……と思い返してみる。
朝のホームルームの前、授業の合間の休憩、お昼休み、放課後、確かに毎日どこかのタイミングで最低一回は話してた。放課後は先生のとこへ行ったりするけど、それ以外は日下部の方から話しかけたり私から行ったり。
さらにさらに思い返せば……あれ? もしかして入学式から毎日何か喋ってる? うあー、全然意識してなかった。本当にもうそれが当たり前になってるんだし。
「友達と毎日喋るなんて当たり前のことじゃん」
「そうだけどさ、こう、雰囲気が違うみたいな?」
それはまた大雑把な答えだった。でも言いたいことはわかる。私だって日下部をちょっと特別視してるのは否定しない。
本当に、話しやすいのだ。
その時のことを思い出して、思わず首を振る。あんなに真正面から何の他意もなくべた褒めされたことなんて体験したことなかった。初めてのこと、だったから。
「どうしたの?」
「い、いやなんでもない!」
「あー! もしかして日下部君のこと考えてた?」
「ち、違うし! もー!」
勘の鋭い友達だった。バッチリと言い当てられて返す言葉が出てこない。それもこれも全部、日下部が悪いんだ。
「ほら、噂をすれば」
「はいはい……」
指された方に目を向ければ噂の当人、日下部の姿がそこにあった。眠そうにしながらも学校指定のバッグを持った手を肩に置きながら歩いてくる。
友達と話しているからなのか、私の方を一瞥したあと挨拶の代わりなのか軽く手を挙げて、そのまま横を通り過ぎる。
その時、閃いた。今完全に油断している日下部に、仕返しをするチャンスなんじゃないかって。
何時ものように、ずっとこう呼んでるようにと、へいじょーしんへいじょーしん。
「――おはよ、春明」
あ、転んだ。
起き上がることすらせずに、こっちをお化けでも見たかのような顔をする日下部に、私はとても満足したのだった。
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