四葉が目を覚まして、瀧を見た瞬間の出来事だ。
その時、瀧の姿と三葉の姿が重なり、そして四葉はふと呟いた――
それが突然の四葉のお姉ちゃん宣言であり、そのせいで瀧は辺りの視線を集めた。
……言うに事欠いて、男に対してお姉ちゃんである。もう一度言おう、何の変哲も無い男に対して「お姉ちゃん」である。敢えて言えば割と男前に「お姉ちゃん」だ。
つまり何を言いたいかといえば――昨今の性事情を鑑みれば、あながちそれを否定することはできないのである、周りの他人からすれば。そのような趣味の漢、と勘違いされても言い訳のしようがないのである。
瀧は全力で焦る。何せ今彼がいる場所は普段彼が最寄駅で使っているところである。偶にしか使わない駅ならともかく、毎日使う場所でそんなことを言われ、そんな言われのない勘違いをされた上に噂が仮に広まれば、ひとたまりもなかった。
「だ、誰がお前の姉ちゃんだ! 流石にそれは洒落になんないから止めろよ!?」
「いひゃ!?」
突拍子もないことを言う四葉の額を瀧は指で弾くと、四葉は可愛らしい声を上げて目を見開いて瀧を見つめる。
その目は先程までの眠る状態と起きている状態のちょうど真ん中の状態ではなく、完全に覚醒していた。
「あ、あれ?瀧くん、なんでそんなところに……」
「それはこっちの台詞だ。無防備に寝てるかと思えば言うに事欠いてお姉ちゃんだ? なんだ、俺を煽るためにここにいたのか?」
瀧は多少唇を尖らせて文句を連ねたところで、四葉は自分がここにいる本当の理由を思い出す。
……そう、瀧と三葉の現在の状況を知るための今日1日を、すっかり忘れていた。
「あ……。ううん、違うよ。瀧くんを待ってたの。ちょっと話したいことがあったから……そしたらうたた寝しちゃってさ」
「……なるほどな。だけど、気をつけろよ? まだ明るかったのと、俺が見つけるのが早かったからよかったけど、お前は充分魅力的な部類に入るんだからさ」
瀧は不意に四葉の頭に掌をポンと置いて、撫でるような仕草を取る。
四葉はそれをされて嫌がるわけでもなく、目を見開いて軽く頬を赤く染めていた。
――それとともに、何故か瀧の姿が三葉と重なったのだ。
四葉は目を疑うように目を擦り、もう一度瀧を見る。もちろん映るのは自分の頭を撫でる優しげな男の表情だけだ。
……四葉は今のことを気のせいと考え、しかしながら不意に思い出したのは先ほどの夢で思い出した出来事だ。あの時の温かい気持ちと、今瀧に撫でられることで感じる温かい気持ちが同質のものということに気付いた。
「……ごめんなさい。私が軽率だったよ」
「分かればいいんだ。――で、俺に用だったな。つっても俺、仕事終わりでとりあえず家に一回戻りたいんだけど……」
四葉は瀧に素直に謝り、瀧は自分の心情を呟く。
その呟きを四葉が聞いたとき――四葉の瞳が輝いた。
「それなら瀧くん。私の望みと瀧くんの望みの二つを叶える手段があるよ?」
「……おいお前、まさかと思うが」
瀧は次に四葉が何を言うかが理解できたのか、顔を引きつらせて彼女の頭を撫でるのを止める。
そして次の瞬間、四葉が言い漏らした提案のせいで、瀧は頭を押さえる羽目になる。
……四葉はあざとく上目遣いで瀧を見て、提案だからか挙手をした上で言い放った。
「――瀧くんのお家にお邪魔します♪」
◯●◯●
あれから四葉を止めることが出来なかった瀧は、渋々といった表情で四葉を招き入れた。
瀧宅に入るなり四葉は部屋をジロジロと興味深そうに見回し、ほへぇ、と声を漏らしていた。
「結構綺麗にしてるんだー。お部屋もおっしゃれー」
「そっち関連の仕事してるんだからな。それにしょっちゅう三葉が来るもんだから油断できないんだよ」
「あー、なるほどね」
四葉はクルリと一回転し、スカートの丈をヒラヒラと靡かせながら、そのままソファーに圧し乗る。
その仕草を見て、瀧は不意に笑みを漏らした。
無防備というかなんというか……こういうところは姉妹そっくりだな、と思ったのだ。
三葉も二度目ほどの訪問の際に有頂天に同じことをしていたので、瀧からすれば面白いの一言だった。
「……あ、もしかして見えた?」
「心配しなくともお前のガードの固さは姉譲りだよ」
四葉はわざとらしくスカートを抑えてそう尋ねる。実際には回ってる間、スカートの裾は抑えていたので、下着が露出するはずがないのだが。
瀧はため息を吐きつつジャケットを上着掛けに掛け、ネクタイをその方の部分に掛けた。
そのままリビングに向かい、四葉のために飲み物を淹れ、カップを持ってソファー前の机の上に置いた。
「……ありがとー」
四葉は少し訛った口調でお礼を言ってカップに入っているココアに口を付ける――もちろんそれは好物であるが、瀧にそれを言ったことはなかったはず。
しかしよく考えてみれば瀧は三葉と付き合っているのである。世間話で自分の好物を知っていたも不思議ではないと考えた四葉は特に気にも止めずココアを飲んだ。
……仄かに温かく、甘さも四葉の好みに合っている。むしろ、四葉が一番好きな味のココアに限りなく近かった。
四葉がココアを好きになったのは、昔、先ほどの夢の後に三葉が淹れてくれたココアが理由だ。
……それを思い出して、心が温かくなる四葉。
瀧くんのくせに、なんて心の中で毒突いた。
「んで、俺に何のようなんだ?別に三葉と喧嘩とかしてないぞ」
「喧嘩どころか、いつもイチャイチャしてるくっせにー」
「……あれは三葉が、思った以上に甘えてくるからで――っと、流石に妹の前で言うことではないよな」
瀧は流石に自重したのか、それより先のことを言い淀む。しかし、四葉が聞きたいのはその踏み込んだ話だ。
ソファーの上で前のめりになりながら、目をキラキラさせて瀧に追求する。
「ええー、そこから先のことが面白いんじゃんかー。いいよいいよ、私、口堅いし」
「いいか、口が堅いって自分で言う奴の大半がペラッペラに口が軽いんだ」
「四葉は特別だよ?ね、だから教えてよー」
「強引に聞こうとしても無駄だからな。お前に弱み握られるとか不安でしかない」
瀧は頑なに情報を話そうとしないので、四葉もそれなりに考える。……行き着いた結論は、少しばかり姑息な手であった。
「じゃあいいや。ちなみに瀧くん、最近はお仕事順調なの?」
「……潔いな。まあ順調だよ。先輩には優しくしてもらってるし、最近は調子が良いから高く評価してもらってるんじゃないか?めぐ先輩も瀧くんはよく頑張ってるよーって言ってたし」
「――ほぉ、女の先輩に優しくしてもらってる、ねぇ」
瀧の何気ない呟きを聞き逃すほど小悪魔な四葉は甘くなかった。
まるでその言葉を待っていました! と言わんばかりに四葉はニヤリと笑い、ソファーの肘おきに肘をついて足を組んだ。
「――四葉、そのお話を詳しく聞きたいなぁ〜?」
「……あ」
今更ながら、瀧は自分が墓穴を掘ったことに気がついた。しかし既に手遅れである。瀧は一番知られてはいけない人に隠すべき情報を知られてしまったのであった。
……知られたからには、下手に黙っていた方があらぬ誤解を生むことがある。更に言ってしまえば、四葉の性格を考えるならば何も話さなければ三葉に事実だけが知られることになるのは必至だ。
……瀧としても、三葉とは喧嘩もなく、穏やかな恋人生活を送りたいのだ。だからこそ、瀧は仕方なく四葉のお願いを聞くことにした。
まあ実際には聞くのではなく、話すのだが。
「一応分かってると思うけど、俺は別に先輩と仲が良くもないからな? 仕事の先輩としてだけで、一緒にご飯さえ行ったことないから」
「へー、そうなんだ。でもなんか向こうからお誘いとかあったりしないの?」
「……一応、この前同僚と昼食食ってる時に飲みに誘われたくらいだな。あの時は他の先輩もいたし」
「…………ふむ」
四葉は唇に人差し指をつけて、少しばかり考える。
彼女は瀧を客観的に観察した上で、今の彼はかなり好感的に評価していた。簡単に言えば前よりも良い男になったと思っている。
それは容姿もそうであるが、何よりも心にゆとりが出来たような余裕さが大人らしさを助長しているのだ。だからこそ、実は姉と同じように彼もまた社内で女性社員に人気があるのではないか、と思った。
――そう思って、何故かイラッとした。
「……最近、割と話掛けられたりしない? 特にその先輩に」
「ん~……まぁ言われてみると、そんな気も――って本当に何にもないからな? なぁ四葉、そんなに疑うなよ」
「疑っているというよりかは警戒ってのが合ってるよ――でもそっか。うんうん、良く分かった」
四葉はとりあえず知りたいことは確認できたので、満足する。
が、彼女の最も知りたいことはそれではなく、三葉と瀧がどこまで進んだのかということだ。既に四葉の興味はその部分にしかない。
一つ、四葉が今日一日で分かったことがある――それは自分が、少なからず瀧を気に入っているということ。
何故だか分からないのだが、瀧とは大好きな姉と同じように接することが出来るのだ。基本的にどんな男性にも一定の距離を空けている四葉にしてはこれは本当に珍しい。
だからこそ、自分の気に入っている二人のことを知りたい好奇心は強い。ただし、姉も同様に瀧がそれを四葉に早々に話すとは思ってもいないが。
「……質問じゃないけど、知ってる? 最近、お姉ちゃん仕事場ですごく人気があるんだって」
「……へぇ、ま、三葉は綺麗だから仕方ないんじゃないか?」
唐突な四葉の告白に、瀧は特に乱すことなくそう言い返す。しかしその表情はあまり面白くない顔をしていることを四葉は見抜く。
……ちょっとした嫉妬の表情であるが、その顔を見て四葉の悪戯心が働く。
「まあ元々すごい高嶺の花みたいな存在だったんだけどね。瀧くんと付き合った途端、物凄く狙われるようになったみたい――カレシくんとしては、複雑?」
「お前、分かって言ってるだろ」
瀧は四葉の隣にドサリと座って、彼女の頭を軽く小突く。それと共に、四葉の心拍数が少しばかり上がった。
――距離が、近いのだ。元々二人掛けのソファーなものだから、当然二人で掛けたら距離は近くなる。
瀧は基本、四葉に対してそこまで距離が遠くない。それは心の距離であるのだが、心の距離は身体の距離にも比例する。
「うっ……そ、それで? 瀧くん的にはどうなのかなって思って」
「……まぁ、面白くはないよな。彼女が他の男から嫌な目で見られてるんだから、それは仕方ないな」
……瀧はそっと手の平を開き、じっとそこを見つめる。
その時の表情は、どこか優しげだったと四葉は思った――まるで手の平を通じて三葉を想っているような、そんな気がした。
……キュッと、心が締め付けられる。こんなこと、今までの彼女にはなかったはずのことだった。
「でも、あんまり取り乱しはしてないんだね」
「まあそうだな。別に嫌なだけで、それでどうともならないし」
「どうともならない?」
「そうだ、当たり前のことだけど――俺、三葉のことをそんな軽い女だなんて思ってないから。あいつは俺だけを見てくれてる。誰よりもきっと、『俺』だけを見てくれると思うんだ」
――瀧はそう屈託のない笑顔で言いながら、四葉を見た。
……この顔だ。この顔を見ると、彼女は何も言えなくなってしまう。
同じなのだ。あの時の笑顔と――三葉が本当に幸せそうに笑った、あの時の笑顔と。あの時の彼女の微笑みに四葉は見惚れた。
だけど――それと同時に、羨ましく感じたのだ。
そんな笑顔を浮かべられるほど幸せな姉に対して、心の底からそのような相手がいることを。
……四葉はふと気づくと、瀧の手を握っていた。瀧の開かれた手を軽く握って、その温度を感じ取っていた。
「……どうした? 妹」
しかし瀧は、どうしようもなく優し気な声で、彼女を気遣う。
……まるで姉のように。
「……そういえば、と思っただけ。瀧くんって、私のことを妹か『四葉』って呼ぶよね。私ってさ、基本的に『ちゃん』付けなんだよ。お姉ちゃんの友達とか、学校の男子とか友達の女の子にも絶対に。でも瀧くんは最初から私のことを名前で呼んでくれたんだよね」
「ああ、そういえば意識したことなかったな。……でもなんでかしっくりしたんだよな。四葉って名前、なんか呼びやすくてさ」
「……そっか」
……四葉はどうしようもなく幸せを感じた。瀧の手の平から伝わる温もりを感じつつ、これが姉の幸せの元なのかとも思った。
――これは流石に彼女も自覚した。自分は姉とそっくりであると。姉が瀧にベタ惚れの意味も理解できた。
年下の四葉からすれば、三葉から見る瀧とはまた違うのだろう。
四葉からしたら瀧は理想のお兄ちゃんという見方が強かった。優しくて、でもちょっとそっけないところがある年上の男性。気が利いて、自分の我が儘も聞いてくれて、しかも頭を撫でるのが上手い。
……それは自分が好意的に思うわけだ、と自分の心にツッコむ四葉。
「(瀧くん、ズルいな……。お姉ちゃんのものだって分かってるのに……)」
四葉は心がズキッと痛くなる。この行動が、姉に対しての裏切りのように感じて辛かった。
しかし、繋いだ手を振りほどけないのだ。
「……四葉。あのな、俺、一応お前の姉の彼氏なわけでさ」
「……ダメ? どーせ瀧くんはお姉ちゃん一筋だから大丈夫でしょ?」
「そう言う問題じゃないだろ!? ほら、こんなの三葉が知ったら俺、怒られるからさ――四葉に何、手ぇ出してるん!? ……ってさ」
「あ、お姉ちゃんの真似上手いね」
「はぐらかすな、馬鹿妹」
瀧は彼女の額を軽く指で弾き、少しため息を吐いて諦めたように力を抜く。
四葉は罪悪感を感じつつもまだ触れられることに安堵して、そっと瀧の方に体重を掛けようとした――その矢先の出来事だった。
――ピンポーン、と突然瀧の部屋のインターンホンが鳴り響いた。
瀧はそれにビクッと反応し、四葉の手を離してフロントと繋がるカメラのモニターの方に行った。
四葉はせっかくの幸せが遠のいたように感じ、少しイラッとする。
「――誰やの、もう……」
そう小言のように呟い、ソファーの上で体育座りでモニター越しで訪問者を確認している瀧を見る。
すると、瀧から声が聞こえた。
「――あれ、三葉? どうしたんだ、こんな時間に」
『仕事が長引いて、疲れちゃって……その、お邪魔しようか~って思って』
――それは他の誰でもない、三葉であった。
四葉はそのことを知った瞬間、ドキッとする。まさか今日も姉が来ることを予想していなかったのだろう。姉にこんなことを知られたら……と思うと同時に一つ、思いつくように閃いた。
「……そっか。あ、でもちょうど良かった。今さ――」
瀧は四葉がいることを三葉に伝えようとした瞬間であった。
いつの間にか彼の背後にいた四葉は瀧を引っ張って抱き寄せて、三葉に聞こえないように耳元でそっと呟いた。
「――私、隠れるからお姉ちゃんといつも通り接してね♪」
「は、お前何言って――」
瀧の了承も受けず、四葉は自分の荷物を持ってリビングにあるクローゼットの中に隠れにいく。何気に靴をしっかりと持って。
……しかしながら、こうされては仕方ない。瀧はそう思って三葉との会話を再開する。
『どうしたん? もしかして都合悪い?』
「いや、大丈夫だよ――あのバカも、ちょっとしたら満足するだろ」
『ん?』
瀧は溜息を吐きつつ、しかし三葉が訪れてくれたことに少し嬉しさを覚えながらフロントのロックを解除した。
●○●○
「ん~……瀧くんの部屋は落ち着くなー」
「それ、毎回言ってるからな? ……何か飲む?」
「う~ん……じゃあホットレモネードで!」
「あれ、好きだよな三葉」
「それはもう、瀧くんが私のために初めて作ってくれたものやもん。いいでしょ?」
瀧は三葉を招き入れて、一緒にソファーに座っていた。
瀧と三葉が一緒にいて、それを観察するように妹の四葉がクローゼットの中にいるという何とも言えない状況であるが。
瀧はふと、テーブルの上を見る。そこには四葉のために淹れたココアのカップが残っていたが、瀧としては別に四葉がいることを知られたくないわけではない。
特に気にも止めず席を立って三葉のために飲み物を淹れようとリビングに行くと、何故か三葉もついてきた。
「どうした、別に座って休んでくれてていいんだぞ?」
「ううん。瀧くんが飲み物作るのすごく上手いから、ちょっと見ようかなって思って」
「……ま、昔から色々なカフェ行ってたからな。行っている内に自分でも作りたくなったんだよ。で、レパートリーが増えったってわけ――まあ料理はあんまり出来ないから、そこで三葉と良いバランスじゃないか?」
「出来へんことないくせに~……ん」
三葉は瀧の後ろに子どものように抱き着き、背中を頬擦る。そんな甘えた行動を受けて瀧は苦笑しながらも特に嫌がることなくホットレモネードを作った。
「見に来たくせに、見てないじゃん」
「瀧くんの背中が広いのがいけないんよ? んん~……幸せぇ」
「今日は一段と甘えてくるな」
「うん。今日、仕事場に四葉が来て色々瀧くんの話をしたからね~……だから来たんよ? 無性に瀧くんの顔見たいなーって思って」
「……俺は別に、毎日でも」
瀧は自分に対して真っ直ぐ甘えて、真っ直ぐな物言いをしてくる三葉にしどろもどろになりそうになるが、ぶっきらぼうにそう言った。
その態度が少し可愛いと感じた三葉は更に強く抱き着く。
……ちなみに、その一部始終を見ている四葉。間近でそれを見ているため、何とも言えないドキドキに襲われていた。
「(お、お姉ちゃんってあんな甘え方するん!? ……でも、あれやられた男の人堪らないよね。普段のお姉ちゃん知ってる分、余計に可愛く見えるもん)」
なんて冷静に解釈してる時点で何気に四葉も肝っ玉が据わっていた。
「瀧くん可愛い~」
「か、可愛いとか止めろよな。あんまり嬉しくないんだぞ、男って可愛いって言われるの」
「って反論する辺りが三葉さんの好みにドンピシャなんよ?」
三葉は瀧を珍しく年下扱いのように弄る。瀧も反抗はするものの、最後は諦めたようだ。
三葉の長い髪を撫でながら、三葉の視線を盗んで四葉のいるクローゼットを睨む。
流石に瀧も羞恥心というものはある。三葉の妹である四葉の前で、姉である彼女に対してあまり下手なことはできないのだ。今の段階でもギリギリであるので余計に気を遣う。
しかし三葉はそんな事情は知らないので、いつも通り――
「っていうか、仕事場に四葉が来たのか?」
すると瀧は、先ほど三葉が言っていたことを思い出して尋ねた。当然、あえて四葉がいる状況で彼女の話題を出したのはわざとである。せめてものやり返しというべきだろう。
「うん。お弁当忘れちゃって、届けてくれたんだ~」
「おいおい、俺のところ来る余裕があるなら忘れるなよ」
「何、私が朝来て嫌なの?」
「……嬉しいけどさ」
「ならまた来るね!」
三葉は満面の笑みでそういうと、彼の肩に頭を乗っけた。
不意に三葉特有の髪の匂いが鼻孔をくすぐる。……まずい、と瀧は思った。
こういう何気ない女性らしさに瀧はめっぽう弱い。無自覚ではあるものの、三葉は瀧の好みに直球な仕草を頻繁にするのだ。
ふと、三葉が瀧を見上げる。当然、彼の目が向かう先は唇だ。
……瀧はあの唇の柔らかさを知っている。瑞々しさを、温かさを肌で覚えている。
――まるでそんな瀧の思考を汲み取ったように、三葉は瀧に顔を近づけた。そしてその唇を、捉える。
「んん……ん」
「み、……んっ!?」
突然三葉に唇を奪われる。
瀧はそのことに驚き、口を離して彼女の名を呼ぼうとするが、それを阻止するように三葉は再び、しかし先ほどよりも深く彼の唇を奪う。
……瀧の舌と、三葉の舌が少しだけ触れる。それに両者とも――厳密に言えば三人はそれぞれ顔を真っ赤にしていた。
……二人の唇が離れる。離れた口からは妖艶にも唾液が糸を引き、三葉は少し息を乱しながら瀧を見つめていた。
「……キス、好きなんよ。なんか、してるだけで幸せ。前のやり返しやよ?」
「――生意気」
……瀧はこの時、四葉のことを完全に忘れていた。
瀧はソファーの上で三葉を押し倒して、少し強引に唇を奪う。
その光景を見ていた四葉は、これ以上ないほどに胸がドクンドクンと高鳴っていた。
「(ダメダメダメダメ、こんなんダメや!! さ、流石にもう見てられへんよぉ!!)」
まさかキスまで進んでいるとは思っていなかったのだ。更にあの瀧が姉を押し倒した瞬間に、彼女の許容範囲を越えてしまった。
今もなお、瀧は先ほどよりも深いキスを三葉にしている。四葉には刺激が強すぎた。
「た、き……くん」
「……三葉、ごめん」
「――謝らないで。ちょっと、嬉しいから。瀧くんが自分を求めてくれてるんだって思えば、むしろ……もっと、とか」
――本当に、三葉は男心を無意識にくすぐる。
瀧の本能が振り切れそうになって、彼女の唇を再び奪おうとした――その時、彼女の人差し指が彼の唇を止めるように触れた。
「――やけど、続きはやっぱり二人きりの時にしたいな」
――ガンッ! ……っと、クローゼットから物音が響く。
三葉は瀧の唇に軽くキスをして彼の下からどき、そして先ほど音の鳴り響いたクローゼットに向かった。
そしてその扉を開いて、そこにいる少女をニッコリと見た。
「――お昼ぶり、よーつは?」
「お、お姉ちゃん? え、い、いつから……」
四葉は満面の笑みの姉を前にして、慌てふためく。当然だ。自分がここにいることを三葉は知らないと思っていたのだ。
しかし蓋を開ければ、まるで三葉は最初から四葉がいることが分かっていたというような表情をしている。
――三葉は笑顔で怒る。それが満面に近ければ近いほどニコニコするのだ。
四葉の体温は急激に下がる。そんな四葉の頭を三葉は鷲掴んだ。
「――四葉、ちょっとお話しない?」
「……は、はい」
その光景を引き笑いで見ていた瀧は二つのことを思っていた。
一つは、その台詞が自分の知っているものとは違い、お話ではないこと。
そしてもう一つは――三葉を怒らせてはならないということだ。
●◯●◯
瀧と四葉はソファーに座り、三葉は腕を組んで二人の前に立ちはだかる。瀧は完全に被害者なのであるが、流石に四葉を一人怒られるのを見てるだけ薄情ではない。
そもそも自分も黙っていたことを同罪と考えて彼女の隣で追求を受けることにしたのだ。
そんな三葉であるのだが、どちらかと言えば怒っているというよりかは呆れている側面が多くを占める。
そもそも何故彼女が、瀧の元に四葉がいるということを知ったかと言えば――
「珍しく私のところに来て、しかも昼間はさやちんとテッシーのとこ行っとったって聞いたときは驚いたよ。それで四葉が私の周辺のことを調べてるって思って、一応瀧くんのところに来たの」
「で、でも私、靴も隠してたなのに」
「――毎日一緒に生活しとって、あんたのシャンプーの匂いわからんと思う? お姉ちゃん舐めたらダメやよ」
三葉は四葉をジロッと睨みながらそう言った。
しかしながら、瀧は納得する――三葉は四葉がいると分かっていたからこそ、あそこまで甘えてきたのだ。
彼女をからかうため、といえば良いだろう。少なくともおいたをした妹にはうってつけな罰だ。
……当の瀧は、そんなこともいざ知らず危うく四葉の前で三葉を抱こうとしていた辺りを心の底から反省をしていたのだが。
「――それで、あんたの知りたいことも知れた?」
「はい、お姉様。ぶっちゃけ知りたかったのは二人の進展具合です。もう嫌っていうほどわかりました」
「……もう。ホントは恥ずかしかったんだよ? でも正直、私もやり過ぎたとは思う――キスしてたら、四葉のことを忘れてたのも事実だし」
三葉は頬を赤らめて恥ずかしそうにそういうと、先ほどの濡れ場を見て悶絶していた四葉の記憶も戻ってくる。
――四葉は思った。姉を馬鹿にしたら怪我をすると。
少なくともこの姉には敵わないと生まれて17年目にして初めて知ったのだった。
――っと、三葉はそこで四葉に近づいて彼女の頭を撫でた。
「お姉、ちゃん?」
「……こんなことしたのってさ、最近私が四葉に構っていなかったからだよね?」
「え、っと、その……そうかも」
――四葉はそう言われて、納得する。彼女がつまらなかったのは、大好きな姉が自分に構わず瀧にばかり構っていたからだったということを。
特別仲の良い友人がいない四葉にとって、三葉の存在は家族であり、尊敬する存在であり、どこか親友のような存在なのである。だからこそ、その姉がご執心になる人のことを知りたくなった。
四葉の今日の行動という暴走は、嫉妬と好奇心が合わさったものだったのだ。
……四葉は今更になって、自分がシスコンであると自覚した。
「……私ね、今は毎日がすごく楽しいんやよ。瀧くんと過ごす毎日はすっごく新鮮で、すっごくドキドキして――でもね? 私が楽しい毎日には四葉もしっかり入ってるの。四葉は私にとって、すっごく大切な妹だから」
――四葉の目頭が、少しだけ熱くなる。心のどこかで、大好きな姉は自分のことをどうでもいいのかと考えていた。
でも、そんなことがあるはずがない。
――だって彼女は、三葉はどうしようもなく優しいのだったから。
「……お姉ちゃん!」
四葉は三葉に抱きつく。三葉はそんな四葉を抱きしめ返し、ポンポンと頭を撫でていた。
……ふと、瀧と三葉の視線が合う。
――最近四葉が少し元気がない、という会話を二人はしていた。瀧がわざわざ彼女を家に招き入れたのも、元を辿れば彼女を心配してのものだった。
……実を言えば、三葉が四葉を見たとき、既に四葉には元気が戻っていた。そして四葉を元気にしてくれた瀧だと確信して、彼に感謝する。
――四葉の1日は、そのような形で終わりを迎える。
そのとき、四葉の心には今朝の時のようなつまらなさは微塵も残っていなかった。
――そんな姉妹の愛情劇も終わり、二人は瀧の家から帰宅することになった。三葉は先に家を出ていて、玄関口で瀧は四葉を見送ろうとしていた。
……四葉はふと、瀧を見る。
「どうした?」
「…………」
自分の顔をじっと見る四葉を不思議に思ったのか、瀧はそう聞くも彼女は黙ったまま何も言わない。
――四葉は思った。瀧くんと、もっと接してみたいと。姉とは違う側面から、彼のことをもっと知りたいと。
この感情はきっと、三葉のモノとは違うものだということを確信する――だって四葉が瀧と接して得られるものは、安心なのだから。
だからこの気持ちはきっと親愛だ。……そう、心に強く思った。
「――瀧くん、結構罪作りな男やな」
「は? 何言ってんだよ。生まれてこの方、三葉以外にモテた試しがねぇよ」
「……それはたぶん、周りが見る目ないだけ。……瀧くん」
四葉は彼の手を取って、そっと握る。……ドキドキなんてしない。顔も熱くない。ただ手を握っているだけ、この人はもっとすごいことをお姉ちゃんとしている。
……四葉は願う――この高鳴りが、一過性のものであるということを。
「――ホント、ズルい」
四葉のその言葉は、きっと二人に向けたものであっただろう。
しかし、その言葉と共に四葉に浮かんだ表情は――満面の、笑みだった。
○●○●
――その日の夜中、瀧の元に二通のメッセージが届く。
一つは四葉からで、瀧はスマートフォンを操作して文面を見る。
『今日はありがとうと、そしてごめんなさい。でも瀧くんのおかげでなんか気持ちに整理もつきました♪ これからもよろしくね?――お兄ちゃん』
……四葉の最後の一言を見て、あんな妹が居ても楽しかっただろうと思ってしまう。だけど意外とお兄ちゃんという言葉がしっくりと来た。
一人っ子である瀧にとって兄妹は少し憧れがあったため、実は三葉と四葉のような仲の良い姉妹が羨ましくあった。
……しかし、この最後の文字を打つ辺りが何とも四葉らしいと瀧は思った。どうせニヤニヤしながら俺の反応を予想しているんだろうとも思った。
「……せめて義理はつけろよな、あの馬鹿」
それを見て、瀧は自然と笑む。
……しかし、だ。短く書かれたメッセージには、空欄が長く続いていた。瀧は画面の上下にスクロールして、その先の文章を読む。
――そして、その追伸を見て青ざめた。
『あ、それとお姉ちゃんに聞かれたから全部話しちゃった♪』
――全部。その言葉を見て、寒気がした。
つまり、自分の会社でのことを、女性関連のことを、更には四葉と少し恋人のような触れ合いをしたことを。
その全てを四葉は三葉に言った、ということだろう。
……人間とは不思議なもので、危機に陥れば陥るほど、心は一瞬冷静になる。
――恐る恐る、二通目のメッセージの送り主の名を見た。
そこに書かれていたのは……
「――み、つ、は……」
……瀧の手は震える。タイミング的にも、明らかにこれは不味いと瀧は思った。
そっと指は画面に向かい、メッセージを押す。そして……瀧は文章を見た。
『全部聞きました。瀧くん、今度オハナシがあります。覚悟していてね?』
「…………」
瀧は一瞬だけ、押し黙る。次に出るのは渇いた笑いで、その次に来るのは――
「――四葉ァァァァァッ!!!」
夜中にも関わらず、瀧は叫ぶしか出来なかった。実質言えば彼は何も悪くない被害者ではあるのだが、今の彼にはそれを理解できる術を知らなかった。
とりあえず言えることが一つあるとするならば――この日、瀧は心の底から四葉を恨んだのであった。
宮水四葉、彼女はやはり小悪魔な女子高生である。
先に更新して、後書きはその少し後に書いてます。
バイトの休憩中に最後、急いで書いたため最後の描き方が雑になったので少し修正加筆しました。
そして更新してすっげぇ反響あって驚いた(笑) バイト終わってマイページ飛んだら感想がたくさん来ていてビックリしました!
感想は作者の励みになるので、もっとください!(切実)
そしてそして、おかげさまで自分の知る限りでは本作、日間ランキングで二位まで行きました!(更新段階では確か7位) 評価も赤いゲージで、お気に入りも止まらず増えていっていることにまずは感謝を!
他の作品でもこの短期間でここまでなったことはなかったので、それだけ君の名は。が素晴らしい作品と実感しています。
それでは次回もまた楽しい(自分が)話を書くので、よければご覧ください!
それでは失礼します!!