――いつだったか。変な夢を見ることがあった。
それは変な話なんだけど、妙に現実のような夢であったことを、今になって思い出した。
……自分ではない誰かの人生を歩むっていう変わった夢。その中で
……その誰か、っていうのが、どうしようもなく浮かばない。存在は覚えているのに、顔と名前だけがどうしても思い出せない。
――それでも理解できる。
絶対に失いたくなくて、絶対に死んでほしくなくて、絶対に触れ合いたくて、会いたくて……それだけは、思い出せた。
……この光景はなんなんだろう。
まるで追憶のように、映像が流れていくように思い出す。
――それを思い出して、ただ懐かしい。そう感じていた。
――朝起きたとき、自分の体が違っていた。ただひたすらに胸が柔らかかった。
明らかに自分の体と違い色々な部分が柔らかかった。そこそこある揉み心地の良い胸に、俺は言葉にしようのない感動を覚えた。揉んでも元に戻ることにおぉっと感心した。思春期男子だからな。そりゃあ揉むだろう? むしろ揉まない奴がいたら、そいつがおかしい。
ともあれ、俺はあいつになっていた。意味が分からない夢だけど、夢ならば仕方ない。
幸いそのあいつの妹が自分の行き先を知っていたから、俺はいつもどおりシャツを着て、慣れないスカートを履いてあいつの学校に向かった。
……第一印象は、すげぇ田舎だなってことだ。見渡す限り自然豊かな綺麗な町並みだった。
すれ違うおじいちゃんやおばあちゃんは気持ちのいい挨拶をしてくれる。それは東京ではあまり体験できない経験だったから、俺も大きな声で挨拶した。
なんか途中で知らないおっさんに怒鳴られたけど、無視してやった。「お前、何をみっともない格好をしているんだ!」なんて言われて気づいた。……下着つけずにワイシャツ一枚だってことに。
学校に行くと、まずあいつの友達に怒られた。ブラはどうしたの、髪は? 寝癖直すからこっち来ない! ……それはもう散々怒られたもんだ。
散々怒られて、散々変な奴のように見られたな。いや、だって俺は元のあいつを知らないもんだから。
誰かも分からないあいつは、何でも割りと有名人であることをその時に知った。巫女で美人な癖に彼氏とかそういう浮ついた話が一切ない。友達が少なくて、あまり交流もないらしい。
――心底俺は気になった。そこまで驚かれる普段のあいつを。だから俺はあいつのノートに、お前は誰だ、と記した。
――朝、起きると周りの反応がおかしかった。
さやちんは私に昨日は大丈夫だって聞いてきて、テッシーは私のことを「狐憑き」なんて言ってきた。
全く何のことが分からず、ただ私は昨日何か夢を見ていたようなことをを朧ろげに思い出した。詳しいことは全く思い出せないけど。
……学校で授業を受けて、古典のノートの新しいページを開いたとき、そこに私の知らない文字で「お前は誰だ?」って記されてあった。
お前は誰だ? ……最初はテッシーのものと思ったけど、違った。ならなんなんだろう。誰かの悪戯? 何か釈然としないものを感じながら、私は面倒な家の行事をして、眠って……
そして――初めて私があの人になったとき、本当に何事かと思った。
朝起きたら自分ではない知らない男の子になっていた。自分よりも筋肉質の体に、少し乾燥した唇。目つきは少し鋭く男の子っぽくて、少しかっこよかった。
何が起きたか全く理解できない状況で男の子の友人から「走って来い」って連絡があって、家を出て――私の小さな夢の一つが叶った。
そのとき、私の視界を埋め尽くしたのは、夢にまで見た東京の景色だった。物がごった返すように人がたくさんいた。電車の中は経験したことのないようなほどの満員電車で、ただの町並みなのに別世界のように見えた。
そしてその男の子の学校に行き、その子の友人の人とお昼を食べ……そしてこれも憧れだったカフェに行った。
そのときは本当に驚いた! だってカフェにあるパンケーキ一つの値段で私、一ヶ月は生活できるんだもん。まぁ夢だし自分のお金でもないから一番高いパンケーキを頼んだけどね。
そんな時、また知らない誰かからメッセージが届いた。男の子のバイト先だった。もちろん私がその場所を知るはずがなく、男の子の友達から場所を聞いてバイト先に向かった。
私にとって唐突に迎えた初バイトは、十分に一回怒られるレベルで、そのときばかりは男の子にごめんなさいと心で謝った。バイト中、文句をつけて因縁を吹っかけて来る客に絡まれて大問題になりそうなときに、女の先輩が私を助けてくれた。
――そして私は友達になったんだ。彼女と。
――綺麗な字で、みつは。そう書かれていた。
その前日のことを俺は思い出せなかった。覚えてはいない代わりに、俺の目の前にあるのはその文字だけ。意味がわからなかったが、とりあえずスマフォの日記を確認した。……まるで覚えのない出来事がそこには記されていた。
奥寺先輩と仲良くなった? 私の女子力のおかげ? ……まるで意味がわからなかった。一瞬司の悪戯かと疑ったけど、あいつの反応を見る限りではそれも違った。
とりあえず俺は学校に行き、放課後に司と高木と喋って時間を潰し、バイトに行こうとした。
……バイトに行くなり先輩に肩掴まれて尋問されて、奥寺先輩は前よりも親しげで……本当に訳が分からなかった。
朝起きると、またもやおかしな現象に頭を悩ませた。
腕に乱暴な字で「お前は誰なんだ?」と書かれていた。……当然私には記憶がなかった。っていうか私が自分でそんなことをするはずがない。
家を出て、学校に行くと、またもや異様なほど視線を感じた。私は居心地悪く自分の席に行き、さやちんに話しかけて――真実を知った。
自分の記憶がないのに、知らない間にしでかしたこと。嫌味を言われて、それを我慢せずにやり返ししたなんて私だったら絶対にしない。――私の知らないところで、私ではない私がしたんだ。
私は急いで家に帰って古典のノートを開いて、そこにあることを見て確信した。
――
あいつは凄まじい勢いで俺の人間関係を変えた。
女だからかは分からないけど、奥寺先輩と異様に仲良くしているのは明らかだった。だってあの奥寺先輩から凄い親しげなメールが来るんだ。
司とはベタベタするし、女言葉や訛るせいで周りから変な目で見られるし……本当に最悪だった。
あの人は本当に、ほんっっっとうに最低だ。四葉から聞いた限りでは私の胸を揉んでいたらしいし、テッシーとは異様に距離が近かった。男の子の体感で私の身体を扱うから、スカートで脚を広げるは、胸が揺れるのも関係なしに体育で大活躍するは……もうめちゃくちゃだ。だから私も仕返しのようにあの人の身体で好き勝手してやった。
――記憶にない思い出が、次々に頭の中を過っていく。
それが自分にとって本当に大切であったことを、思い出した。
……でも、そんな日常が、本当は苦じゃなかった。
何もない田舎町の生活。空気は上手いし、景色は綺麗で、妹は可愛いし、お婆ちゃんの料理は美味い。
あいつの親友は良い奴だし、……だからこそ、そんな人間関係を築けるあいつが、気になった。
……私は、あの人が羨ましかった。
私には出来ないことを、あの人はパっとしてしまう。決して言動はぶれないし、人生を楽しく好きに生きている。……それがどうしても羨ましかった。
――あの人はたぶん、意識していなかったと思う。私が言いたくても言えないことを、あの人は私に代わって言ってくれた。
陰口をたたかれても何も言えなかった私の代わりに、あの人はいつも行動で示した。当然それが褒められたやり方ではなかったこともある。
私だけではなく、それはたぶん周りにも、だ。
あの人と入れ替わってからテッシーとは違う意味で仲良くなって、少し楽し気な表情を浮かべるようになった。四葉が同級生に虐められた時だって、彼なりのやり方で四葉を慰めてくれた。
本当のあいつは、突然東京に来て、何も知らずにバイト先に行って、失敗を連続してもなおそれを笑顔でやり過ごしてしまうファンキーな女だ。自分の主張はちゃんと言えるはずなのに、ここでのあいつはずっとそれをしなかった。
内面と外面のギャップ。
静かな優等生で、自己主張がなく、どちらかといえば教室で静かにいるあいつ。
東京で持ち前のコミュニケーションスキルを駆使して次々に俺の人間関係を変えまくるあいつ。
……俺は一体、どっちのあいつに興味を持っているんだろう。
――夢の中の出来事はいつも、起きたら忘れている。
忘れたくないのに、いつも絶対に……だからこれも、忘れてしまうのかもしれない。
――だけど今は、覚えている!
――
だからもう忘れない! 目を覚ましても、きっと――
●○●○
――綺麗なまでの、夕焼けだった。
穏やかに山頂を照らす橙色の陽の光は、確かに美しかった。
あぁ、なんて美しい光景なんだろう。幻想的だ。これを見るのは、これが二度目だ。
……歩く。山頂を歩き、探す。
ご神体から出て、山頂の盆地をぐるりと取り囲む岩場の方に向かう。
だけど、あの時と違って名前を呼ぶ必要はない。
だって……いると、わかっているのだから。
「――綺麗だな」
――彼の声がする。
私の目の前で、横から光る夕陽を背景に。
「――そうだね。……うん。知ってる? この現象のこと」
――彼女の声がした。
夕陽に照らされる彼女はどこか優し気で、涙を少し溜めていた。
「……黄昏時?」
俺は彼女の質問に答える。
「……ううん――って、知ってるよね?」
私は本当は知っている癖にとぼける彼に、少しジト目で睨んでやった。
「……そうだな。ごめん、嘘ついた」
――太陽が雲の後ろに沈み、直射から間接光で周囲が色を満ちていた。
光と影が溶け合って、周りの景色が輪郭を失うようにぼんやりと柔らかくなる。
その空間がまるで別世界のようになる。
……
黄昏時よりも古い言い方で、この世ならざるものと出会う時間。
その名前は――
「「カタワレ時――」」
――彼女と声が重なる。
「……なぁ。聞かせてくれないか?」
「……何を?」
「――俺だけだったら、話が出来ないからさ」
「……そうだね」
――光は地上を照らす。
暗くなった山頂で、
指と指の間までしっかりと手を握る。
――あの時、俺は思い出せなかった。
――あの時、私は忘れてしまった。
……だけど、あの時の願いは叶った。私たちは、また出会うことが出来た。出会って、恋をした。
だからこれも、必然。だからきっと、質問はたった一つ。それを知れば、俺たちはまた――出会える。
「「――君の、名前は?」」
――そう、
カタワレ時は、繋いだ――切れてしまった、
――最後のムスビを。