やはり俺のアイドルプロデュースはまちがっている。 作:春雨2
アイドル。
それは人々の憧れであり、遠い存在。
そう言ったのは、濁ったような、淀んだような、どこかに斜に構えて物事を捉える、そんな目をした男の子だった。
ーーそう、男の子。
自分とそう歳の変わらない、どこにでもいるような普通の男の子。
……いや、どこにでもいるって言うのは、少し言い過ぎかな。あの人みたいなのがいっぱいいたら、正直色々と大変だと思う。
捻くれていて、素直じゃなくて、卑屈で不遜で、でも、本当は優しい男の子。
その在り方は不器用そのものではあったけど、きっと醜いものではなかった。一見しただけでは、表面だけを見るのであれば、それは歪で、とても完璧とは程遠いものではあったけど……
ーーそれでもきっと、それは美しいものだったんだ。
凛「……ねぇ、奈緒」
私は窓の外を流れる雲を見ながら、ぽつりと、言葉を零す。
凛「奈緒にとって、アイドルって何?」
それは、いつかあの少年から問われたこと。
自分に自信が持てず、憧れから目を背けていた、私への問い。
結局その時は答える事が出来なかったけれど、”それ”を探し続け、私は今も歩み続けている。
奈緒「あん?」
凛「だから、奈緒にとってアイドルは何なのかって、そう訊いてるの」
奈緒「それは……」
言葉を淀む奈緒。その表情は曇っていて……というより、訝しんでいた。
奈緒「……それは、今答えないといけないことか?」
私が押さえる椅子の上で、雑巾を持ちながら。
奈緒「急に真面目なトーンで話かけてくるかと思ったら、まさかそんなどこぞのインタビューみたいな質問をされるとは…」
凛「ごめんごめん、なんか窓の外を見てたら、ふと考えちゃって」
奈緒「そっから連想する時点で謎だよ。……うーん、そうだなぁ」
棚の上を拭きつつ、それでも奈緒は考えてくれている。
なんだかんだ言いつつ、こういう所は素直だよね。
奈緒「私にとっての、アイドルね……」
どこか明後日の方向を見つめるようにしていた奈緒は、そこで腕組みをしたかと思うと、静かに、そして何故だかとても恥ずかしそうに呟いた。
奈緒「……か、可愛さの頂点、かな」
凛「可愛さの、頂点……」
うん、なるほどね。確かにその言い方は分からなくもない。
女の子の夢、とも言われるくらいだし、間違ってはいないと思う。どこか可愛さに対して憧れのようなものを抱いている奈緒にはピッタリな表現かもしれない。
と、納得している人物がもう一人。
加蓮「ふんふん、なるほどなるほど。つまり奈緒は、可愛さの頂点に立てた、と」
奈緒「なっ、いや別に、アタシがそうって言うわけじゃなくてだな……!」
茶化すように言うのは、いつの間にか側で聞いていた加蓮。壁に寄りかかり、その手にはモップを携えている。
加蓮「いやいや、謙遜することないって~。奈緒は立派なアイドルだし、可愛さの頂点に立ってるとアタシも思うよ♪」
奈緒「~~っ! だ、だから、別にアタシのことじゃ……あーもう、だから言いたくなかったんだよ!」
顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向く奈緒。慌てて椅子を押さえ直す。そんなに動くと危ないんだけど……
凛「……それじゃあ、加蓮は?」
加蓮「ん? アタシ?」
ニマニマと楽しそうにしている加蓮に、今度は話を振る。なんとなく始めた話題ではあったけど、聞いていたら何だか興味が湧いてきた。
加蓮「そうだなぁ、アタシにとってのアイドルは……うーん……夢、かな?」
凛「夢……」
加蓮「あ、今なんか普通だなって思ったでしょ?」
凛「えっ、いや、そんなことは……」
ない、とは言い切れない。正直思った。というよりは、ポピュラーな言い回しだな、という感じだけど。
加蓮「アタシにとっては、ちょっと意味合いが違うんだよね。二つあるっていうか」
凛「二つ?」
加蓮「うん。アタシにとっての夢っていうのは、良い意味じゃなかったから」
そう言う加蓮の顔は、先程までと比べ少し儚げなものになる。
どこか哀愁を感じさせるその表情には、私も、そして奈緒も、覚えがあった。
加蓮「夢は叶えるもの、なーんてよく言うけど……アタシにとっては、夢は見るだけのものだったからさ」
奈緒「…………」
加蓮「でも、今は違うよ?」
一転、加蓮の表情は明るくなる。そこにいたのは、私たちが知る、いつもの加蓮。
加蓮「今のアタシにとっては、夢は叶ったもの。そして、これからも更に見続けるものだから」
凛「……そうだね」
思わず、自然と笑みがこぼれる。見てみれば、奈緒も同じ様子だった。
そう。ただ見ているだけだったのは昔の話。
今は夢を叶え、そしてずっと見続けている。加蓮だけじゃなく、私も、奈緒も。
アイドルは、可愛さの頂点であり、夢、か。
凛「…………」
ちひろ「こらこら。三人ともお喋りは良いですけど、掃除もちゃんとしてくださいね」
振り向くと、何やら段ボールを抱えたちひろさんが立っていた。その中身は、やたらに多い白封筒……あ、閉じられた。
ちひろ「午後からは合同レッスンがありますから、午前の内に終わらせちゃいましょう」
奈緒・加蓮「「は~い」」
凛「……ふふ」
まるで先生と生徒のようなそのやり取りに、思わず笑ってしまう。
辺りを見てみると、アイドルたちが皆一様に掃除へと勤しんでいる。雑巾がけしている子もいれば、掃除機をかける子に、棚の整理をしている子も。
普段であれば、業者の人たちがやっている仕事ではあるけど、今日は別。それも……
社長『この会社も設立して随分と経つ……たまには、社員皆で奇麗にして労おうじゃないか』
という社長の発言から、こういう事になってるというわけ。確かに、この事務所にはいつもお世話になってるし、良いことだよね。
きらり「こらー! 杏ちゃん! サボってないで、ちゃんとお掃除しないとダメだにぃ!」
杏「うぇー充分きれいじゃーん、もう終わりでよくなーい?」
……まぁ、一部めんどくさがってる子もいるけど。
凛「……けど、そっか」
ふと、事務所の一角へと視線を向ける。
事務スペースにある一つの机。今は誰も使っていない、何の道具も資料も置いていない、どこか空虚さすら感じる、何の変哲もない机。
今は丁度ちひろさんが掃除をしている所だ。その今は使われていない机を、丁寧に拭いている。
けど、なんでだろう。こうして皆で掃除をする時じゃなくても、ああしてちひろさんがあの机を掃除している光景を、よく目にするような気がするのは。
……たぶん、気のせいなんかじゃないんだろうな。
凛「ん……」
不意に、緩やかな風が頬をなでた。
視線を向けてみると、誰かが開けたんだろう。カーテンを揺らしながら、窓が開けている。
その切り取られた青い空を眺めていると、どうしても、あの約束を思い出してしまう。
いつも隣にいてくれた、あの少年との約束。
凛「……あれから、もうそんなに経つんだね」
いつもいた筈の彼は、今はいない。そしてそれが当たり前になってしまった。
そんな風景が、”いつも通り”になってしまった。
これは、
彼がプロデューサーを辞めて、一年程たったある日の出来事。
*
社長の発案による掃除はその後も進み、ある程度片付いたのはお昼前くらいの時間だった。思ったよりも早い。
まぁ、アイドルも含めてこの会社には相当な人数の社員がいるからね。全員で取りかかれば、そりゃあ早く終わるはず。
あまり広いとは言えない事務所だけど、今では思い入れも強い。それだけの時間を、ここで過ごしてきた。
社長だけじゃなくアイドルもそう思ってるんだから、しばらくは移転も無さそうだね。
掃除が終わった後に昼休憩を挟んで、予定通り私たちはレッスンルームへと向かった。既に着替えは済ませている。
未央「私にとってのアイドル……すばり、星だね!」
壁によりかかり、レッスンが始まるまでの待ち時間。
キラン、と。それこそ星のように目を光らせて言う未央。
別に訊いて回るつもりもなかったんだけど、さっきの話をしたら何となく話題が続いてしまった。ちなみに、その奈緒と加蓮は少し離れた所でストレッチをしていた。……加蓮容赦無いなぁ。
凛「星って例えは、また未央らしいね」
未央「でしょ? 遥か高みにある、輝く星。それぞれ違うし、どれも奇麗。まさに、夢は星の数ほどあるって感じ?」
卯月「なるほど~」
こっちは、座ってスポーツドリンクを飲んでいた卯月。
卯月「素敵ですね。さすがは未央ちゃん」
未央「そ、そう?」
本人的にはちょっとカッコつけて言ったのかもしれないけど、卯月が屈託のない笑顔でそう言うもんだから、ちょっと気恥ずかしそうにしている。本当に純真だよね。
未央「それじゃあ、しまむーはどうなの?」
卯月「私ですか? 私は、そうだなぁ……」
むーっと、眉を寄せて考え始める卯月。
卯月「えーっとですね……」
未央「うんうん」
卯月「え、えーっと……」
未「……うん」
卯月「う、うぅー……ん~……?」
未央「……し、しまむー? そんなに真剣に考え込まなくても…」
頭から煙が出てくるんじゃないかと、そう思うくらい目をぐるぐるさせている。その様子はちょっと可愛らしいけど、何もそこまで悩まなくても。思わず苦笑する。
卯月「ダメです……何も良い例えが思い浮かびません……」
未央「別に良いって。大喜利やってるんじゃないんだからさ」
凛「そうだよ。卯月は、どうしてアイドルになりたいと思ったの?」
私がそう訊くと、卯月は思い出すかのように、虚空を見つめる。
その瞳、未央に負けないくらい光を灯していた。
卯月「憧れ……だったんです。キラキラしてて、あんな風に、なりたいなって」
未央「良いじゃん、憧れ! 私も分かるよ。っていうか、全世界の女の子の憧れだよね。アイドルって」
確かに、それはその通り。
女の子が一度は思い描く、理想の存在。正に憧れと言うに相応しいね。
卯月「えへへ……でも、良いんでしょうか? そんなに普通の答えで」
凛「悪いことなんてないよ。というか、別に私は普通だとは思わないけど」
卯月「え?」
凛「素敵なことだよ。……それに、アイドルを目指すくらい憧れを抱き続けるって、簡単なことじゃないと思うし」
私の台詞に、うんうんと未央も頷いている。
こうして憧れの存在になれた私たちだから分かるんだ。ここまでの道のりは決して簡単なものじゃなかったし、そしてこれからも、きっともっと大変なことが待ち受けてる。
凛「だから憧れを持ち続けている卯月は、凄いよ」
卯月「凛ちゃん……」
嬉しそうに、顔を綻ばせる卯月。ちょ、ちょっとくさかったかな。
そんな顔をされちゃうと、何だか非情に照れくさくなってくる。
未央「っていうか前から思ってたけど、しまむーってある意味普通じゃないよね」
凛「ああ、それは分かるかも。……普通じゃないね」
卯月「え、ええ!? どういう意味ですか!?」
こんな女の子らしい女の子はそうそういない。卯月を普通だなんて言ったら、たぶん世の女の子たちに怒られそうだ。
そうして雑談をしつつ準備運動をしていると、レッスンルームの扉が不意に開いた。
今ここにいるデレプロのアイドルたちは大体揃っているから、恐らく入ってきたのは……
「失礼します」
落ち着いた声音で礼儀正しく入ってるくるその人は、私も良く見知った人物。
……ううん、私だけじゃない。今最もトップアイドルに近い、もしくは、そう呼んでも過言ではないアイドルたちのプロダクション、765プロ。
その中でも、歌唱力の高さにおいて知らない人はいないであろうアイドルーー如月千早さん。
その千早さんが、このレッスンルームへと訪れた。
やっぱり、オーラって言うのかな。彼女が入ってきただけで、レッスンルームにいた皆に緊張感が走るのが分かった。
……まぁ、あの765プロの千早さんが来たんだから、そりゃ意識せずにはいられないよね。私だって未だにそうだ。
そして千早さんはルームの中を見渡し、こちらに気付くと、近くまで歩いてくる。
千早「こんにちは。渋谷さん」
凛「お久しぶりです。千早さん」
ぺこっと、思わず深くお辞儀をする。
……初めて会った時から随分経つけど、やっぱり今でも緊張しちゃうな。もちろん、話しかけてきてくれるのは凄い嬉しいんだけど。
千早「今日はよろしくお願いするわね」
凛「はい。こちらこそ」
そう。今日は765プロとデレプロの合同レッスン。
約三ヶ月後に控えている、合同ライブに向けてのレッスンである。
最初話を聞いた時は、本当に信じられないくらい驚いた。
どちらかと言えば、今まではライバルとしてイメージが強かったからかな。まさかこうして肩を並べてライブに挑む日が来るなんて、思いもしなかったよ。
凛「今日は765プロの皆さんは全員参加ですか?」
千早「いいえ、私を含めて5人かしら。みんな忙しいから、時間を見つけて来れる時に来るという感じね」
凛「なるほど……確かに、こっちもそんな感じですね」
デレプロの場合、今日来ているのは私と卯月と未央、あとは奈緒に加蓮、もう少ししたら愛梨や蘭子も来るはずだ。だから、今日の参加は7人。
……今回765プロとの合同ライブということで、当然ながらデレプロでは出演の選考があった。765プロに比べて、こっちはさすがに人数が多過ぎるからね。
最初は希望を募って、その先は完全に事務所側の抽選。最終的には、デレプロからは15人での参加となった。一応同じくらいの人数に合わせたみたい。
正直、選ばれないことも覚悟してたけど、選ばれて良かったな。こんな貴重な機会もそうそう無いだろうし……
何より、あの765プロと共演できるんだ。
出たくないわけがない。
千早「……元気そうね」
凛「? はい」
私の顔を見て、何故か含みのあるように笑う千早さん。
確かに元気ではあるけど、どうして今そんな風に確認したのだろう?
千早「それじゃあ、ああ言って間違いはなかったようね」
凛「何がですか?」
千早「ふふ、何でもないわ」
そう言って、また笑う。どういう意味?
首を傾げていると、再びレッスンルームの扉が開かれたのに気付く。
千早「他のみんなも来たみたいね」
千早さんのその言葉に、みんなの緊張感が更に高まったのは言うまでもない。
入ってきたのは、今日来る765プロアイドルの他の4人。
高槻やよいさん、四条貴音さん、水瀬伊織さん。そして、最後にあくびをしながら星井美希さんが入ってくる。
当たり前だけど、みんな本物の765プロのアイドルだ。テレビや雑誌で見たままの姿。むしろ、それよりも可愛く、奇麗に見えるかもしれないくらい。
まぁ、何人かは前にも会ったことはあるけど…
未央「うわー……凄いねしまむー! 本物だよ本物!」
卯月「はい! やっぱり、オーラってあるんですね!」
ヒソヒソと、何やら興奮して話し込んでる二人。全然ヒソヒソしてない。まぁ、気持ちは凄い分かるんだけどさ。
とりあえず、今いるメンバーだけでも挨拶をすることに。
緊張しつつも、みんな憧れのアイドルに会えて嬉しそうだ。
そして各々が挨拶を交わしてる中、高槻さんたちが私に気付いて歩いてくる。
やよい「うっうー! お疲れ様です、凛さん!」
凛「高槻さん、お久しぶりです。四条さんも」
貴音「ええ。お元気そうで……心配はいらなかったようですね」
凛「心配……?」
はて? とまた首を傾げていると、四条さんは千早さんと目を合わせて笑い出す。
まただ。一体どうしたんだろう……なんか視線がやけに生暖かいというか、優しげに感じるような……?
そう言えば、この3人とは初めてテレビに出演する時に共演した縁があった。因縁の相手、ってわけじゃないけど、私からすれば特別な印象を持っている。今日はいないけど、たぶん美嘉も。
……それに、高槻さんに関してはちょっとしたライバル心みたいなのも。個人的にね。
やよい「? どうしたんですか?」
凛「な、なんでもないよ……です」
危ない、またちょっと敬語が崩れた。どうも苦手なんだよね……
前に千早さんたちに同年代なんだしいらないとは言われたけど、他所の事務所の、その上大先輩だからね。さすがにそれは遠慮した。
早く慣れるよう頑張ろう。
あと挨拶していないのは……と、視線を彷徨わせると、やがて一人と目が合った。
相変わらずどこか眠たげな、金髪の少女。
こっちから歩いていき、失礼の無いよう先に告げる。
凛「渋谷凛です。よろしくお願いします、星井さん」
いたって普通の挨拶。
けど、星井さんはジッと私の顔を覗き込むように見て、何も言おうとしない。
凛「……?」
な、何か顔にでも付いてるのかな?
そんな風に不安になっていると、しかしすぐに星井さんは笑顔になる。
美希「うん。よろしくなの。凛」
テレビでよく見る、あの無邪気そうな笑顔。実際に見ると、より可愛さが際立っているように思う。
でも、さっきの表情はなんだったんだろう。
まるで、見定めるかのような……
美希「ねぇ、凛」
凛「はい?」
美希「これからストレッチしようと思うんだけど、相手をしてくれないかな?」
凛「えっ」
まさかの突然の申し出に驚く。
いや、別に嫌というわけじゃないんだけど、ちょっと予想外というか……
それにしても、いきなり名前呼びとは凄いフレンドリーだ。
美希「ほらほら、早くやるの」
凛「ちょ、ちょっと…」
手を引っ張られ、比較的空いたスペースに連れてかれる。ほ、星井さんって、こんなに積極的なタイプなの?
確かに765プロの人たちは奇数だし、ペアを作ったら一人溢れるけど……
と、何だか分からない内にストレッチが始まってしまった。
先に開脚をしている星井さんの背中を、ゆっくりと押してやる。
……さすが、柔らかいね。
他の756プロのアイドルたちも各々がストレッチを始め、その様子を他の子たちが見ている。まぁ、気持ちは分かるかな。ストレッチしてる姿だけでも中々お目にかかれるものじゃないし。
というか、こうして星井さんの相手をしている私自身ちょっと不思議な感じだ。
そのままストレッチをしていると、最初は無言だった星井さんが、不意に話し出す。
美希「……ねぇ、凛」
凛「なん、ですか?」
ぐっ、ぐっ、と。
背中を押しつつ、言葉を返す。
その時は、他愛のない話だろうと思って特に身構えてなかった。だからだろう。
星井さんの言った次の言葉に、思わず身体が固まってしまったのは。
美希「プロデューサーのこと、本当に大切に思ってたの?」
その、さっきまでと何ら変わらない声。
それなのに、その言葉はまるで刃物のように、鋭く渡しの胸に刺さった。
凛「…………えっ……」
言葉が、出てこない。
というより、上手く頭が働いていなかった。
突然すぎるその質問を、すぐに理解することが出来なかった。
それでも、星井さんは私の返答を待たずに話し続ける。
美希「はちまん、だっけ? 凛のプロデューサー。この前、少し会ったの」
凛「どうして……」
美希「んーそれは言わない方がいいのかな。まぁ、その内分かるよ」
あっけらかんとした物言い。
その内分かるって……彼が、765プロの星井美希と? 一体どんな理由があれば会うことになるのだろう。考えても全然分からない。
けどそれよりも、さっきの質問。
凛「……大切に思ってたのかって、どういう意味?」
美希「そのままの意味だよ。詳しくは知らないけど、事情があって辞めちゃったんだよね?」
凛「…………」
美希「それでも、普通にアイドルをやれてるみたいだから。ちょっと気になったの」
何でもない事のように、変わらないトーンで喋る星井さん。
背中をこちらに向けているため、今、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。
……それでも、中々踏み込みにくいことを訊いてくるものだ。
凛「…………大切だったよ。凄く」
だから、だからこそ私も、真摯に応えることにした。
きっと彼女も、自分が何を訊いてるか、分かった上で話してると思うから。
凛「もちろん、今でも大切に思ってる。だから約束を守る為に、私はアイドルをやってるんだ」
美希「約束?」
星井さんはチラッ、とこっちに首を回し、きょとんとした表情を見せる。
凛「うん。必ずトップアイドルになるって。そうしたら、必ず迎えに行くって約束」
もう一年くらい前にもなる、あの日交わした約束。
思えば、このことを人に話すのは初めてだ。そりゃ、話して回るようなことでもないしね。
そしてそれを聞いた星井さんは、少し面白そうにして声を上げた。
美希「あはっ。迎えに行くって、王子様みたいだね凛」
凛「そ、そんなカッコいいものじゃないと思うけど…」
美希「……まぁ、どっちが先かは分からないけど」
凛「え?」
ぼそっと、最後の方だけ聞こえないくらいの小さい声で喋るので、思わず聞き返した。
しかし星井さんはどこ吹く風。
美希「なーんでもないの!」
そう言って立ち上がり、今度は交代と私を座らせて背中を押す。
そう言えば、今はストレッチの最中だったね。途中から話し込んじゃって動いていなかった。
美希「さっき、凛は約束の為にアイドルをやってるって言ったよね」
凛「ん、うん」
背中を押しながら、星井さんは再び会話を続ける。
美希「じゃあ、その約束が無かったら、凛はアイドルやらないの?」
凛「え?」
またも、一瞬身体が止まる。
約束が無かったらって……
美希「もしプロデューサーが元々いなかったら、アイドルやってなかったの?」
凛「いや、それは……」
美希「それとも……プロデューサーが『アイドル辞めて結婚してくれー』って言ったら、辞めてた?」
凛「け、結婚!?」
思わず、上ずった声が出る。
け、結婚って、そんなの考えたことも……いや、確かに迎えに行くとは言ったけど。
狼狽する私を見て、星井さんは「大袈裟なの」とおかしそうに笑う。
けど、その後すぐに静かになって言ってくる。
美希「……ごめんね、急に色々訊いちゃって。ただ、ちょっと気になったの」
振り返ると、彼女はジッと私の目を見る。
さっき見せた、あの覗き込むような目。
美希「あんな奇麗な歌を唄う凛が、どんな思いで唄ってるのか」
奇麗な、歌。
どこかで、私の歌を聴いてくれていたのだろうか。だとすれば、その評価を含めてとても光栄なことだ。素直にそう思う。
美希「それに千早さんや、あの春香も気にかけてるみたいだしね」
凛「え?」
千早さんはともかくとして、ハルカというのは、あの天海春香さんでいいのだろうか。私は直接会ったことは無いはずだけど……どういうこと?
しかし、星井さんは特に説明はしたりしない。こうい所は本当にマイペースだ。
そして星井さんは、改めて問うてくる。
美希「だから、聞かせてくれないかな。あなたが、どんな思いでアイドルしているのか」
悪意なんて感じない。
冷やかしとか、皮肉とか、そんなものは一切感じない。
ただ純粋に、彼女は”アイドルとして”私に尋ねたいんだろう。
その気持ちに応えるべく、私はーー
凛「……私は」
と、そこで私の声は遮られる。
音の方を見てみれば、今日最後のアイドル、愛梨と蘭子が丁度来たところのようだった。
伊織「アンタたち、いつまで話してんのよ。みんな集まったみたいだからレッスン始めるわよ」
美希「むー、まだ話してるのに。でこちゃんってば厳しいの」
伊織「今日はレッスンしに来たんでしょうが!」
ぴしゃり、と叱ってのける水瀬さん。
こうして星井さんにはっきり言える人は案外珍しいように思う。
伊織「ほらアンタも」
凛「あ、はい」
言われ、慌てて立ち上がる。
すると何故か、水瀬さんは私の近くに寄ってきて小声で話し出した。
伊織「……ごめんなさいね。あの子も、悪気があるわけじゃないの」
言いながら見る視線の先には、ドリンクを取りに行った星井さんの背中。
凛「き、聞いてたんですか」
伊織「そりゃ、あれだけ普通に喋ってれば聞こえるわよ」
そこまで言われて気付いたが、他のアイドルたちも少し気まずげにこっちを見ている。そうじゃないのは今来た愛梨と蘭子だけだ。
凛「……まぁ、良いですよ。隠すようなことじゃないし、それに…」
伊織「それに?」
凛「星井さんが言ってたことは、私もずっと思っていたことでもあるから」
苦笑しつつそう言うと、水瀬さんは少し驚いたように目を丸くする。
そしてその後、同じように苦笑い。
伊織「アンタも大概面倒そうな性格ね。……プロデューサーとアイドルって似るのかしら」
凛「え?」
伊織「なんでもないわよ」
最後の方が聞こえなかったので聞き返すも、水瀬さんはさっさと行ってしまう。
……765プロのアイドルって、みんな何か含みのある言い方するよね。高槻さん以外。
あの人がファンになる理由が、ちょっと分かった気がする。
その後合同レッスンはつつがなく進み、予定より少し早めに終了した。
今日は顔合わせも兼ねていたので、内容としては軽いものだ。
そして着替えも終わって各々が帰り支度をしてる中、星井さんは「また明日ね」と去り際に言い残し、他の765プロのアイドルたちと一緒に帰っていった。確かに明日もレッスンはある。
……あの言い分じゃ、明日また訊かれるのかな。
デレプロのアイドルたちもそれぞれ帰宅。レッスン前の会話について誰も触れてこなかったのは、私に気を遣ってくれたんだろう。
未央「しぶりーん、早く帰ろー!」
凛「うん。……あ、ごめん。私ちょっと忘れ物しちゃったみたいだから、先行ってて」
出口の方で待っててくれていた未央と卯月にそう告げ、レッスンルームに戻る。
着替えの入った手提げを忘れちゃ、さすがにまずいよね。
暗い部屋の中、目当ての物を見つけてすぐに戻る。
出口へ向かう途中、しかしそこで思わぬ遭遇をすることになった。
「失礼しまーす……」
扉を開け、キャスケット帽を被った女の子が入ってきたのだ。
「あれ、もう終わっちゃったのかな……顔だけでも出しておこうかと思ったんだけど…」
キョロキョロと辺りを見渡し、そこで、ようやく私と目が合う。
眼鏡をかけ、帽子から少しだけ赤いリボンが見え隠れしてる、この人はーー
凛「……天海、春香さん?」
春香「あなたは……」
お互い目を丸くして、見つめ合う。
こうして、私は彼女と初めて出会った。
恐らく、今一番トップアイドルに近いであろう、彼女と。
*
前にも言ったけど、765プロというアイドルプロダクションは、この業界においてトップの知名度を誇る。
所属人数も、事務所の規模も、そこまで大きくはないと聞いたことがあるけど、それでも765プロは間違いなくトップアイドルへの座へと足を踏み入れている。それだけは確か。
それぞれのアイドルがそれぞれの分野で輝き、様々なことに常に挑戦し、時には、一致団結し最高のライブを届ける。
その輝く姿は、誰をも魅了してやまない。
もちろん、私もその一人。
そして、そんな765プロにおいて一人中心的アイドルがいる。
全員のライブではセンターを張り、765プロのアイドルたちを引っ張っていってる、そんなアイドル。
天海春香さん。
その人が、今、すぐ隣に座っている。
合同レッスンでいつか会う日が来るとは思っていたけど、まさか、こんな二人っきりの状況で偶然会うことになるなんてね。
春香「はい、これ」
レッスン場の廊下にある、備え付けのベンチ。
そこに腰掛けながら、天海さんはこちらに缶コーヒーを手渡してくる。
先程、側の自販機で買っていたものだ。
春香「コーヒーで良かった?」
凛「あ、うん。じゃなくて、すいません……っ」
受け取った後、慌てて鞄から財布を取り出す。
春香「あっ、いいよいいよ! これくらい!」
凛「でも……」
春香「お近づきの印ってことで、ご馳走させて?」
ニコッ、と。屈託のない笑顔でそう言う天海さん。
なんとなく、卯月を思い出した。
何と言えば良いんだろう。安心感、というか、素直に可愛らしいと心から思える、そんな笑顔。
凛「ありがとう……ございます」
お礼を言うと、彼女はまた笑ってくれた。
たまたま忘れ物を取りに戻ったことで偶然会った天海さん。
折角会えたのだから、という理由で、彼女はお話をしようと言ってくれた。もちろん私としても嬉しいんだけど……さっきの星井さんの件があるから、ちょっと怖い。
でも、この感じだと大丈夫そうかな。
卯月と未央には先に帰っていてほしいとお詫びのメールを送っておく。
春香「そっか。予定より早く終わってたんだね」
凛「はい。私は、ちょっと忘れものをしちゃったから」
春香「本当、偶然だったんだね~」
何でも、天海さんも重なっていた仕事が早く終わったので顔だけでも出そうと、レッスン場へ足を運んだらしい。
残念ながら入れ違いになってしまったけど、本当に偶然、私とは会うことができた。
春香「合同レッスンはどうだった? 上手くいった?」
凛「ええと……」
その質問に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
レッスン自体は良かったと思う。初日ということもあって軽めではあったし、765プロアイドルの動きを間近で見れたのも貴重な体験だった。
……ただ、星井さんとのアレがあったから、ね。
それをわざわざ説明するのもどうかと思うし、なんと言えばいいのか…
凛「レッスンは上手くいったと思います。ただ、その……」
春館「うん?」
な、なんて純真な目で見てくるんだろう。なんだか既視感を覚える。……たぶん卯月だろうけど。
まぁ、どうせその内聞くかもしれないとも思うし、言ってしまっても問題ないかな。
凛「ちょっと、星井さんとお話したんです」
春香「美希と?」
凛「はい。その、私のプロデューサーの件で。……元ですけど」
春香「えっ!?」
声を上げ、思った以上に大きなリアクションを取る天海さん。内容をまだ言っていあいのに、この驚きよう…
凛「もしかして、天海さんも会ったことあるんですか?」
春香「え、ええーっと、そう……だね」
私の質問に、天海さんは何とも答え辛そうに言う。ただ、その返答内容にも驚いた。
凛「美希さんといい、どうして……?」
春香「う、うーん……どこまで話していいのかな……」
聞き取れないくらいの小さな声で、ぶつぶつと何やら呟いている天海さん。
少しの間があった後、彼女は思い至ったように、思いもよらない発言をする。
春香「えっと、そう! 比企谷くんとは、友達なの!」
凛「……………………」
なの……なの………なの…………
と、天海さんの言葉が木霊していくのを感じる。
静寂が、辺りを包んだ。
凛「…………天海さん」
春香「な、なに?」
凛「いいんですよ、別にあの人に気を遣わなくても」
春香「どういう意味!?」
いや、だってね……
友達って、そりゃ、最初に会った頃に比べればそういう関係も増えたみたいだけど。
春香「いや、本当だよ? ちょっと詳しくは話せないっていうか、言い辛いんだけど…」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話す天海さん。
春香「……友達っていうのは、間違いじゃないよ。もしかしたら、私がそう思ってるだけかもしれないけど」
そう言って、苦笑する。
あの天海さんにこんなことを言わせるなんて。本人はちゃんと自覚してるのかな……してないだろうね。あの人のことだし。
春香「それにほら、LINEのIDも交換してるし」
凛「えっ!?」
今度は私が思わず大きな声を出す。
ま、まさか本当に友達なの……? いや、天海さんは最初からそう言ってるんだけどさ…
と、今はそんな話をしてるんじゃなく。
凛「その、星井さんに言われたんです」
春香「言われた?」
凛「はい。……『プロデューサーのこと、本当に大切に思ってたの?』って」
その後の会話も含めて、大体のあらましを説明する。
話してる途中、天海さんはずっと申し訳なさそうな顔をしていた。
春香「ご、ごめんね! 美希がそんなこと話してたなんて…」
凛「いえ、良いんです。別に嫌なわけじゃなかったんで」
これは本当。
確かに凄い驚きはしたけど、言っていたことは、やっぱり向き合うべきことだから。
凛「なんていうか、再確認した気分です。私の気持ちを」
あの人と約束していなかったら、私はアイドルを続けなかったのか。
あの人がいなかったら、私はアイドルになっていなかったのか。
あの人が、結婚しよう、なんて事をもしも言っていたなら、私はアイドルを辞めていたのか。
そんな、誰に訊かれるでもない、誰に答えるでもない、自分への問い掛け。
それを、改めて訊かれただけの話なんだ。
凛「凄い人ですね、星井さん」
苦笑しつつ、素直に思ったことを口にする。
あんなことを面と向かって訊ける人は、中々いない。もちろん、良い意味で。
そんな私の様子を天海さんは少し意外そうな顔で見ていたかと思うと、不意に、安堵したかのように笑みをつくる。
春香「……なんだ」
凛「え?」
春香「もう、凛ちゃんの気持ちは決まってるんだね」
その台詞で、今度は逆に私が意表を突かれた。
私が驚いているのが伝わったのか、天海さんは少しおかしそうに笑って言う。
春香「だって凛ちゃん、そういう顔してるから」
凛「……なに、そういう顔って」
私も、つられて笑ってしまった。
そうだよ。
私の気持ちなんて、もうとっくに決まってる。
一頻り笑ったあと、天海さんはやけに嬉しそうに話す。
春香「凛ちゃん、やっと敬語とってくれたね」
凛「えっ……あ、すいません!」
春香「ううん、いいの。私はそっちの方が嬉しいな」
また、あの屈託のない笑顔。
凛「でも、先輩に向かってってのは……」
春香「それ以前に、もう友達でしょ?」
そんなことを言う天海さんに一瞬呆気にとられた後、思わず吹き出してしまう。
今日初めて会った後輩に、それ以前に友達だから、とはね。
何となく、あの人と友達と言うのも頷けてしまった。
この何とも言えない押しの強さに翻弄される姿が、目に浮かぶ。
凛「ふふ……」
春香「な、なんで笑うの? 私、変なこと言ったかな?」
凛「……ううん。全然?」
なんだが、無理をするのがバカらしくなった。
本人が良いと言うのであれば、良いのだろう。そう思うことにした。
その後結局レッスン場が閉められるまで話し込んでしまい、すっかり暗くなった頃に別れることとなった。
私はそこまで人見知りってほどじゃないけど、それでも、初めて会った人とこれだけ話せるんだから、天海さんは凄い。
春香「明日は私もレッスンに参加できそうだけど、凛ちゃんは?」
凛「私も明日はいるよ。……どうやら、星井さんもいるみたいだし」
春香「あはは、それは大変そうだね」
苦笑した後、天海さんはふと遠くの街の方を眺める。
つられて見れば、仄かに青さが残った暗い空の向こうに、ついさっき太陽が沈んだであろう微かな灯火が見えた。
その光へ辿っていくように、ぽつぽつと、まるで星のように街の明かりが灯り始めている。
なんだか、いつかの帰り道を思い出してしまう。
春香「……前も、こんな時間だったな」
凛「え?」
春香「ううん。こっちの話」
誤摩化すように笑う天海さんは、改めて私の方へ向き合う。
春香「頑張ってね。……って、私が言わなくても、凛ちゃんはもう頑張ってるよね。あはは」
凛「どうかな。必死ではあるけど、それが頑張ってることになるかは分からないし」
春香「あ、今の言い方比企谷くんっぽい」
凛「……それは、あまり嬉しくないかな」
まさか反面教師じゃなくて、真っ当に似てきているなんてね。そりゃ、見習いたい所もあるにはあるけどさ。
春香「……凛ちゃんも比企谷くんと同じくらい、悩んで考えて、必死に進もうとしてきたんだね」
凛「……それこそ、どうなんだろうね」
あの時、私は何もできなかった。
考えることもできず、悩むことすら放棄して、ただただ流れに身を任せてただけ。
そんな私の背中を押してくれたのは、やっぱり彼だった。
あれから一年。彼がいなくても、私なりになんとか頑張ろうともがいてきた。
悩んで、考えて、少しでも前へ、前へと。
でも、それも結局は自分の為なんだ。
そうして足掻いていないと、苦しいから。何もしない方が、じっとしている方が、苦痛になってしまったから。
だからこうして駆け抜けている間だけは、楽でいられる。ただ、それだけ。
そんな私の自分よがりな思いが、本当に、彼と一緒と言えるんだろうか。
春香「大丈夫だよ」
でも、彼女は笑って言ってくれる。
なんてことのないように、背中を、押すように。
春香「だって、二人ともそっくりだもん。私が保証するよ」
たったそれだけの言葉で、ただ笑顔でそう言ってくれるだけで、
何故だか、自分でも信じられないくらい安心することができた。
凛「……ありがとう、天海さん」
しかし私がお礼を言うと、彼女は少しむくれてしまう。
というより、呼び方が気に入らなかったようだ。
春香「もう。春香でいいよ、凛ちゃん」
凛「え? い、いいの、かな……?」
春香「いいの!」
ウインクし、まるでお願いするかのように、力強く言い放つ。
……なら、ここで渋るのも失礼な話か。
凛「……ありがとう、春香」
少々照れくさいけど、でも、他でもない彼女の頼みだから。
春香「うん。どういたしまして」
そうして、春香は満足げに微笑んだ。
やっぱり、トップアイドルって凄いんだね。
春香「それじゃあ、また明日ね」
凛「うん。また明日」
手を振り、春香と別れる。
逆方向へと向かって歩き出し、今日は色んなことがあったな……なんて考え出した時、
春香「凛ちゃん!」
突然の呼びかけ。
驚きすぐに振り返る。
5メートルほど離れた所にいる春香。彼女はバレることなどお構い無しに、よく通る大きな声で、私にエールを送ってくれた。
春香「昔の偉い人は言ったよ。……『乙女よ、大志を抱けっ!』」
そう良い残し、彼女は去っていった。
最初は呆気にとられていたが、遅れて笑いが起きてくる。
本当、強敵だなぁ。
あれがいずれ超えなきゃいけない存在なんだから、アイドルは大変だし、面白い。
たぶんその偉い人っていうのは、リボンを付けた笑顔のとてもよく似合う、可愛らしい女の子なんだろうね。
*
765プロアイドルとの予想外の出来事があった、その翌日。
私は少し早めに目が覚めた。昨日あんなことがあったせいかな。なんだか、とても懐かしい夢を見たような気がする。
今日は朝一から合同レッスンがあるし、折角だから早く家を出ることにしよう。もしかしたら、彼女も早く来てるかもしれないし。
……いや、あの人だったらギリギリまで寝てるかな。どうだろ?
手際良く準備を済ませ、両親とハナコに行ってきますとちゃんと挨拶をし、家を出る。
今日は気持ちがいいくらいの快晴だ。
きっと、良いことがある。
レッスン場へ着くと、何故だかほとんどのアイドルたちが揃っている。結構早めに着いたと思ったんだけど、もしかしたら765プロとの合同レッスンだってことで、みんな先に来ていようと気をつけたのかな。
でも、その765プロの人たちも既に全員来ているとは、さすがに予想外。
もちろん、その中には春香もいる。
春香「おはよう、凛ちゃん」
凛「おはよう、春香」
他に人がいる中で呼び捨てにするのは少し勇気が必要だったけど、思ったより周りの反応は小さい。……もしかして、私敬語とか使わないのが普通だと思われてる?
そしてレッスンルームの奥の方。壁に寄り掛かるようにしてる星井さんを見つけた。
星井さんは私に気付くと、いつもと変わらない笑顔で軽く手を振ってくる。
それに私も笑い返し、近くまで歩いて行った。
隣に立ち、寄り掛かるように私も壁へ背中を預ける。
美希「おはよ、凛」
凛「うん。おはよう……ございます」
私が取り繕うように後から付け足すと、星井さんはおかしそうに笑い出す。
美希「あはっ、もう敬語なんて使わなくていいの」
凛「そ、そう……かな」
美希「うん。それに昨日もほとんど使ってなかったよ?」
凛「えっ」
そう言われて思い返す。
確かにそう言われれば、そうかもしれない……あれ、なんか会話に集中してたせいで良く思い出せない。たぶん本当に使ってなかったんだろう。
美希「呼び方もミキでいいよ。今更、他人行儀なの」
凛「……なら、遠慮なく」
既に春香に対してそうだし、星井さん…じゃなくて、美希は同い年だ。
これも本人が良いと言うのであれば、遠慮なく呼ばせて貰おう。正直、私としても助かる。
……こんなんだから、敬語が使えないと思われてるのかもしれないけど。ほ、本人が良いって言ってるから良いの!
凛「朝は弱いのかと思ってたけど、随分早く来てたんだね」
美希「むー、レッスンは別なの! っていうか凛、はっきり言い過ぎじゃない?」
凛「あはは、ごめんごめん」
ぷんぷんと怒った風に言うが、全然怖くない。むしろ可愛らしいくらい。
美希「そう言う凛は、来てすぐにミキに会いにきたよね」
凛「ん。まぁ、昨日のこともあったしね」
美希「……じゃあ、聞かせてくれるんだ」
期待するかのような、それでいて、穏やかな目で私を見る美希。
どうしてそんなにも私のことが気になるのか、そこが少し不思議に思う。あの星井美希に興味を持たれるなんて光栄だけど、やっぱりちょっと信じられないからね。
私の歌にそこまでの魅力を感じてくれたなら、こんなに嬉しいことはないけど。
凛「私がどんな思いでアイドルをやっているのか……だったよね」
色んなことがあった。
アイドルになっていいのかと悩んだこともあった。
アイドルを続けていいのかと苦悩したことがあった。
私にとってアイドルとはなんなのか。そう、今でもずっと考え続けている。
正直、今でも気持ちが揺らいだり、どうしていいか分からなくなることもある。
でも一つだけ、たった一つだけ、はっきりと言えることがある。
胸を張って、確信を持って、堂々と言えることがある。
凛「楽しいから」
それは、とても簡単なこと。
凛「私は楽しいから、アイドルをやってるんだ」
至極単純で、シンプルすぎるその答え。
でも、だからこそ心からそう言える。
凛「歌を唄ってる時は気持ちがいいし、ライブが上手くいけば凄く嬉しい」
美希は、私の言葉に頷いてみせる。
凛「新しい仕事を貰えればやる気が溢れてくるし、ファンから応援されれば思わず舞い上がっちゃう」
美希「うん」
凛「辛いことも、苦しいことも沢山あるけど、でもそれ以上に、アイドルが楽しい」
美希「うん……分かるの」
毎日たくさんレッスンをして、仕事をこなして、くたくたになって眠りにつく。
起きれば、またレッスンや仕事をして、その繰り返し。
非難や中傷もある。応援や賞賛もある。
数え切れない、私もまだ見たことのない景色が、ここにある。
凛「こんな楽しいことを辞めちゃうのは、私は勿体無いなって、そう思うんだ」
それを教えてくれたのは、今は隣にいないあの人だけど。
でも、だからと言って私が手放す理由にはならない。
あの人と約束していなかったら、私はアイドルを続けなかったのか。
あの人がいなかったら、私はアイドルになっていなかったのか。
あの人が、結婚しよう、なんて事をもしも言っていたなら、私はアイドルを辞めていたのか。
その問いに対する答えは……否だ。
あの人との約束を叶えたい。
あの人が残した思いを無駄にしたくない。
あの人が背中を押してくれたことを無かったことにしたくない。
でも、それ以上に。
私は、私がやりたいから、アイドルをやるんだ。
それが、私の答え。
美希「……そっか」
じっと聞いていてくれた美希は、目を閉じて満足そうに微笑む。
彼女がほしい答えを、私は返すことができたのかな。
美希「それが、凛の思いなんだね」
凛「ただの我が侭だよ。誰の為でもない自分の為。そんな立派なものなんかじゃないんだ」
美希「そんなことないの。ミキだって、キラキラしたいからアイドルをやってるし」
キラキラしたい……
その例えは、何だかとても美希らしい。会って間もないけど、そんな風に思えた。
美希「もちろん、ハニーに喜んで貰いたいっていうのもあるけどね。あはっ」
凛「は、ハニー?」
もしかして、それは765プロのプロデューサーのことを言っているのかな。凄い呼び方だ。
美希「あ。あとこれは本当に興味があるから訊くんだけど…」
凛「な、なに?」
美希「凛は、ハチマンのことを好きだったの?」
また、なんともどストレートなその質問。
でも、正直予想はついてたかな。だから私は、特に言い淀むこともなく言う。
凛「……うん。好きだよ」
思いのほか、簡単にその言葉は出て来てくれた。
気恥ずかしくはあったけど、でも、相手が美希だからかな。こうしてちゃんと口にできたのは。
その答えが何やら嬉しかったのか、美希は「そっか」と言って、また微笑んだ。
そこで、なんとなく気付いた。
たぶん。美希もそうなんだろう。
自分のプロデューサーのことをハニーと呼ぶ彼女も、きっと私と同じで、同じように色んな思いを抱えてるのかもしれない。
だから、こうして歩み寄ってきてくれたのかな。
美希「なんだか甘酸っぱいね」
凛「甘酸っぱい?」
美希「うん。楽しいことや辛いことがあって、好きな人と出会ったり別れたりもして、なんていうか…」
凛「……青春してる?」
美希「そう! まさにそれなの」
青春、ときたか。
美希のその例えに、思わず苦笑してしまう。
それは、またなんとも皮肉が効いてるね。まさか、あの人が嘘であり悪であると言った青春を私が謳歌しているとは。
……うん。でも、確かにそうかも。
その言葉は、なんだか私にはとても素敵に聞こえた。
凛「……私にとってのアイドルは、青春なんだ」
他の人には笑われてしまうかもしれない。あの人が聞いても、たぶん苦い顔をするだろう。
でも、私は好きだな。
少なくとも、今隣にいる彼女もそう感じてくれている。
美希「ありがとね、凛。色々聞かせてくれて」
凛「ううん、こっちこそ。良い経験? になったよ」
美希「……ちょっと疑問系なの」
思わずジト目で見られる。
でもこっちだって結構驚いたんだから、これくらいは許してほしいかな。
美希「これからは、ライバルだね」
凛「……美希にそう言って貰えるなら、光栄だよ」
美希「あと、恋バナ友達?」
凛「それは、あまり大っぴらには言えないかな……」
でも、美希が私をライバルと言ってくれたように、私だって負けたくないとずっと思っていた。必ずあの頂きへ行くと、思い続けてきたんだ。
凛「……美希や千早さんや、春香にも。いつか追いついてみせるから」
私のその言葉に、美希はやや挑戦的に、不適に笑う。
美希「ふーん? 追いつくだけでいいの?」
その返しには思わずぽかんとしてしまったが、こっちも、負けじと笑い返してやる。
凛「まさか。追い抜いて……トップアイドルを目指すよ」
アイドル。
それは人々の憧れであり、遠い存在。
誰をも笑顔にして、勇気を与えて、元気をくれる。
キラキラしていて、懸命で、美しく、真っ直ぐで。
人々に希望を与え、輝きを見せる、そんな存在。
そんなまるでお伽噺のような、偶像と言われても仕方が無いような存在を、私は目指す。
きっと、それは難しいのだろう。
辛いし、苦しいし、数え切れない程の困難がきっと待っている。道は険しいなんてものじゃない。
もしかしたら、最初から辿り着けるような場所じゃないのかもしれない。
そもそも、そんなものは存在しなくて、ただの幻想なのかもしれない。
けど、私は諦めたくないんだ。
たとえ私が抱いているのが叶わぬ夢で、ありもしないものへの憧れだったとしてもーー
それでも、私は本物になりたい。
本物のアイドルに、なりたいんだ。
凛「……全力で、駆け抜けてみせるから」
いつか、彼と約束した時のように。
私は、私へと言い聞かせた。
と、そこでレッスンルームにトレーナーさんが入ってくるのに気付く。
もうそんな時間かと思って準備にかかろうとすると、何やら他のアイドルたちも慌てて動き始めている。
……この様子は、またみんな聞いてたな。
私も美希も、なんだかおかしくて笑ってしまった。
美希「凛、ストレッチしよっか」
凛「うん。よろしく」
その後はレッスンを順調にこなし、お昼頃まで取り組んだ。
昨日も集中してやっていたとは思うけど、でも、それでも頭の片隅には美希との件があったからね。どこか少なからず気持ちが入り切っていなかったかもしれない。
だからその分、今日はちゃんとやれたと思う。
……こうして見ると、やっぱり765プロのみんなは凄いね。
合同ライブまで、あと三ヶ月。
時間はまだ結構あるように感じるけど、きっとあっという間だ。
だから今のこの気持ちも、貴重な経験も、忘れないよう胸に刻んでおこう。
*
月日の流れは、本当に早い。
美希や春香、765プロのアイドルたちと出会ったあの日から、もう三ヶ月。
あれから何度もレッスンを重ね、打ち合わせし、時にはご飯へ一緒にいったり、親睦も深めたりもした。
……美希や春香、千早さんが家まで遊びに来た時は本当に驚いたよ。
どうやら他のアイドルのみんなも、それぞれ交流しているみたい。
春香と連絡先を交換できたと、卯月がとても嬉しそうにしていたのを思い出す。
765プロが憧れなのは、みんな一緒だからね。
そしてそんな日が続いて、今日は遂に、765プロとシンデレラプロダクションの合同ライブ。その当日だ。
きっと上手くいく。そう信じられる。
だって、デレプロも765プロも、みんなどうしようもないくらい素敵で、輝いているって、私が誰よりも知ってるから。
だから、きっと今日は大丈夫。
開場前の待機時間、各々は準備に取りかかったり、気持ちを落ち着かせたりしている。
もちろん私もその一人で、ステージの様子を確かめたり、他のみんなと話したりしてから、控え室に戻った。
凛「……あれ」
しかしデレプロの控え室に戻っても、そこには誰もいなかった。
いや、正確にはスタイリストさんやマネージャーさんが何人か出入りしているけど、アイドルは一人も見当たらない。
たぶん、まだ他の所にいるのかな。もしかしたら765プロの方へ挨拶へ行ったりしてるのかも。
ただ少し出歩いて疲れたので、私は座って待つことにする。その内誰か来るだろう。
凛「ふぅ……」
「ステージ、どうだった……?」
凛「ひぁっ!?」
どこからかの突然の声に、椅子ごと倒れそうになるくらい驚く。び、びっくりした……
凛「……輝子。またそんな所にいたの?」
輝子「フヒヒ……落ち着くから」
控え室の机の下、そこを覗けば、思った通り輝子がいた。アイドル衣装で。
っていうか、他にほとんど人がいないのに入る意味はあるのかな……落ち着くんなら良いけどね。
凛「ステージならもう準備万端だったよ。そろそろ開場じゃないかな」
輝子「そ、そうか……いよいよ、だな……」
ぷるぷると、緊張しているのか肩を振るわせる輝子。
でも、不思議と表情に陰りは見えない。むしろ、目をギラつかせているようにすら見える。
凛「……楽しみ?」
輝子「うん。……こんな大きなステージ、立てるとは、思わなかったから……」
凛「ふふ、そっか」
そうやって笑えるなら、きっと大丈夫だね。
なんだか、輝子がとても頼もしく思えた。
輝子「……凛ちゃんは、やっぱり平気そう、だな…」
凛「そんなことないよ。これでも緊張してる」
こういうライブは何度経験しても慣れるなんてことはない。しかも今日は756プロとの合同ライブ。平気なんてことはなく、強がっているだけだよ。
輝子「でもその割には、最初のレッスンの時、啖呵切ってたよな……」
凛「あ、あれは啖呵とかじゃないから!」
思わず反論してしまう。
いや、確かに追いつくとか追い抜くとか、そんなことを美希(と765プロアイドル)の前で言ったけど、あれは別にそういうつもりじゃなくてね?
しかし輝子は、分かった分かった、みたいなしたり顔で頷くのみ。絶対分かってないでしょ。
凛「……そう言えば、レッスン二日目の時は輝子もいたんだったね。みんなしてばっちり聞いてるんだから…」
輝子「フフ……私、存在感が薄いから……」
凛「ああいや、そういう意味で言ったんじゃなくてね?」
というか、ある意味じゃとてつもない存在感を放ってる気がするけど。
特にライブなんかはそう。その誰もの目を引く存在感に、私も負けてられないと常に思っている。……まぁ、気恥ずかしくて本人には言えてないけど。
凛「……別にあの時の話を聞かれたのは良いんだけどさ。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいね」
輝子「なんでだ……?」
凛「だって、結局は私の独りよがりな思いだからね。アイドルの答えとして良いとは言えないでしょ?」
私がそう言うと、輝子は「ふむ……」と頷くようにする。
輝子「……確かに、”アイドルとして”は良くないかもな」
凛「うっ……思ったよりハッキリ言うね…」
輝子「ただ……」
凛「?」
輝子はそこで言葉を切ると、ニッっと笑みを見せ、真っ直ぐな目で私を見つめる。
輝子「私はそれ以前に……凛ちゃんの親友だから、な……」
凛「っ!」
輝子「あの時の凛ちゃん……かっこ良かったぜ」
フヒヒ……と、何故だか嬉しそうに笑う輝子。
……嬉しいのは、こっちの方だってば。
凛「……ありがとう、輝子」
私もニッと笑みを返し、お互い笑い合う。
全く……こんな台詞を当然のように言えるんだから、本当にニクい。
私には、勿体無いくらいの親友だ。
そうしていると、スタッフさんの一人が開場の始まりを教えてくれる。
ステージ裏に招集とのことで、たぶん他のみんなも直接向かっている頃だろう。
凛「それじゃあ、私たちも行こっか」
輝子「おう……フヒヒ……」
机の下から出てきた輝子(まだいた)と共に、ステージ裏へと向かう。途中、他のアイドルたち何人かとも合流した。
ステージ裏には、もうほとんどのメンバーが集まっている。
そこには、いつもお世話になっている事務員さんの姿も。
凛「ちひろさん。お疲れ様です」
ちひろ「あ、凛ちゃん。お疲れ様です」
ぺこっとお辞儀。手には、何やら色々な資料を持っている。
凛「もしかして、アナウンスの準備ですか?」
ちひろ「ええ。デレプロのライブでも毎回やらせて頂いてますけど、今回は765プロの事務員さんの音無さんと一緒にやることになりまして…」
ちらっ、と。ちひろさんの視線を辿ってみれば、ショートヘアーのこれまたアイドルのような容姿をした女性がスタッフさんと話をしている。ちひろさんに負けず劣らずの美人だ。
というか、事務員さんがアナウンスをするのは伝統か何かなのかな……?
ちひろ「アイドルのみなさんには敵いませんが、やっぱり緊張しますね」
凛「ふふ……いつもありがとうございます。ちひろさんも、頑張ってくださいね」
ちひろ「はい。凛ちゃんも」
と、そこでちひろさんは何かを思い出したように耳打ちをしてくる。
内容はそこまで秘密にしたいことではなかったけど、一応気を遣ってくれたらしい。
ちひろ「今日のチケット、ちゃんと彼に送っておきましたよ」
彼……というのは、もう言うまでもないね。
来てくれるかどうかは分からなかったけど、それでも、この晴れ舞台を見てほしいという思いはあった。
無理強いはしたくないし、連絡も特にしていない。チケットが送られても、向こうからも何か返事が来ることは今日まで無かった。
ちひろ「……彼のことです。きっと、どこかで見てますよ」
微笑みながら、ちひろさんはそう言う。
凛「大丈夫だよ」
ちひろ「え?」
たとえあの人が来ていなくても、それでも私がすることは変わらない。
今は隣にいなくても、全力で私は駆け抜けるだけだから。
凛「あの人がどこにいたって、私は歌うし……全力でアイドルをやるよ」
どこかで、今日も私を信じて待ってくれていると、そう信じてるから。
ちひろ「……そうですか」
ちひろさんは最初目を丸くしていたが、その後微笑んで言ってくれる。
ちひろ「彼が残したものは……こうして、今も輝いているんですね」
凛「……まぁ、良くないものも色々と残していった気もするけどね」
ちひろ「それは確かに」
言って、お互い声を出して笑う。
……本当、ただでいなくならないんだから、あの人は。
ちひろ「それじゃあ、そろそろ準備をお願いしますね」
凛「はい。行ってきます」
ちひろ「行ってらっしゃい!」
踵を返し、集まっているアイドルたちの方へ歩き出す。
しかし向かう途中で、「凛ちゃん!」とちひろさんに再び呼ばれてしまい慌てて足を止めた。
振り返ってみれば、ちひろさんは小さなフラワーバスケットを抱えている。
ちひろ「はい、これ。凛ちゃんにです」
凛「私に? 誰から……」
と、そこでメッセージカードに気付く。
バスケットをちひろさんに預け、開封し、中のカードを取り出す。
カードには、ただ一言。
『 しっかりな 』
とだけ、書かれていた。
凛「…………」
ちひろ「凛ちゃん?」
凛「……ふふ」
思わず、笑いが零れてくる。
その、不器用さを隠そうともしないたった一言。
何を書くかと悩んで、考え込んで、何とか絞り出したのがこれだと思うと、なんだか無償におかしかった。
凛「……アザレア、か」
フラワーバスケットの花を見て、私の好きな歌を覚えてたんだなと、少し嬉しくなった。
とりあえず、次会った時にはうちの花屋を差し置いてどこでこれを買ったのか、問い詰めなくちゃね。
そんな私の様子を見て、ちひろさんも何だかおかしそうにしている。
ちひろ「……さっきより良い顔してますよ?」
それは、何とも複雑な台詞だ。少し顔が熱くなる。
どうやら、私もまだまだらしい。
隣にいなくたって、こうしてあなたの一押しが、私の力になるんだからね。
凛「ーー行ってくるね」
だから、もう一度私は告げる。
この会場のどこかにいる、あの人に向かって、そう言ってやる。
誰も見たことのないような景色を、キラキラとした最高の光景を。
あの人と、会場にいる全員に見せてあげよう。
今はまだ至らない、未熟なアイドルだけど。
情熱と憧れを手に、ずっと走り続ける。
ステージの、その輝きの向こう側。
そこを目指し、私は駆け出す。
いつか違った道が交わるようにと、思いを込めて。
了