雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

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第79話 王子と伝説と仕掛けられた罠

 ――それから約一時間後。

 

 ニューカッスル城の一画にある作戦会議室の中で、ある者は怒りに震え、またある者は悔し涙で顔中を濡らしていた。

 

「なんと汚らわしい……忌まわしい! このような非道が許されてよいものか!!」

 

 アルビオンの老王ジェームズ一世は、突如明かされた残酷な事実に打ちひしがれていた。そんな父王を息子であるウェールズ王子が叱咤する。

 

「父上、今は嘆いている場合ではありませぬ。これまでは我らが不徳ゆえに配下の者たちに見限られた、そう考えておりました。ですが、先住の秘宝のせいだとすれば全て納得できます。不可解な離反についても、敵軍の中に妖魔が混じっていることも……兵たちの間でまことしやかに語られていた不気味な『死兵』についても」

 

「誠に失礼ながら、その『死兵』とは一体?」

 

 太公望の問いかけに、侍従長のパリーが答えた。

 

「いくら急所を突いても倒れぬ、文字通りの『死なぬ兵』のことでございます。首を落とすか、火で焼き尽くさねば動きを止めぬため、これまでは『スキルニル』の類ではないかと考えられていたのですが……」

 

「スキルニル?」

 

 初めて聞く単語に首を傾げる生徒たち。小声でタバサが解説する。

 

「大昔に暇を持て余した王族が作り出した魔法人形。血を吸わせた人間の姿と能力を写し取る機能を持つ。ただし魔法の使用は不可能……あくまで、わたしが知る限りでは」

 

 さらに、ウェールズが頷きながら補足する。

 

「スキルニルは、破壊されれば人間から元の姿――つまり、人形に戻る。だが、件の『死兵』は人間の姿を保ったままだった。おまけに、当たり前のように魔法を使ってきた。その謎が解けぬうちに、我らは現在の状況まで追い込まれたというわけだ」

 

「丁寧な説明、痛み入ります。なるほど……それで理解できました。実は、こちらへ出向く前に、かつて王党派に属していたという傭兵たちから話を聞く機会があったのですが、そこでもやはり『死兵』らしきものが噂にのぼっておりました。わたくしも皆さま方と同じくスキルニル、またはガーゴイルの可能性を疑っていたのですが……」

 

 そう言って、太公望はちらりとモンモランシーに視線を向ける。

 

「わ、わたくしも、一緒にその話を聞いていたのですが……あの時はまだアンドバリの指輪のことを思い出すまでには至りませんでした。ですが、先程殿下が貴族派連盟の前で見せつけるように死んでみせると仰ったときに――記憶が繋がったのです」

 

 未だに身体の震えが止まらないモンモランシーの肩に、ギーシュがそっと手を置いた。それで、彼女はわずかながらも落ち着いたらしい。ふっと小さくため息をついた。

 

「だとすると、今我々を取り囲んでいる敵兵たちは、全てその指輪によって操られた死体だというのか……!?」

 

 畏れおののくように声を絞り出した国王へ、ウェールズが首を横に振ってみせた。

 

「いえ、父上。おそらく一部の将兵――それも、ごく少数の貴族のみが死兵化されているものと考えられます。それ以外の者たちは何も知らず、ただ上司に従っているだけのことでしょう。軍人、特にアルビオン人とはそういうものですから」

 

「息子よ、何故そう言い切れるのじゃ?」

 

 ウェールズは机の上にあった紙束を手に取り、それを軽く叩きながら言った。

 

「これまで上がってきた『死兵』に関する報告が極端に少ないからです。そして、実際に目撃された場所はレキシントンでの空軍造反、シティ・オブ・サウスゴータ包囲戦中やロンディニウム防衛戦中に外門が内部から開け放たれた時。ハヴィランド攻城戦の最中に起きた内部蜂起後。そこで死兵化していたのは全て、王家に忠実に仕えてくれていた者たちばかりでした」

 

 会議室に集っていた将兵たちは揃って呻き声を上げた。彼らは思い出していたのだ、全ての始まりを。軍港都市レキシントンが大量の離反者を出したことによって、わずか半日で陥落するという悪夢のような一日から続いてきた、異常ともいうべき毎日を。

 

 それまで共に王家へ忠誠を誓い続けてきた同僚が、友人が、親族たちが杖を向けてきた。彼らのあまりに急な変節に、戸惑う間もなく――いつしか王党派はアルビオン大陸の端まで追い遣られてしまった。

 

 ウェールズは苦々しげに吐き捨てた。

 

「おそらく――ですが。彼らは暗殺されたのです。モンモランシ嬢が語ってくれた、指輪の〝力〟を解放した水を飲ませることで相手の意志を奪うという能力によって。先住の魔力は〝魔法探知(ディテクト・マジック)〟に一切反応しない。井戸水やエールの樽に指輪の〝力〟が使われていたとしたら――彼らが容易に操られてしまったことは想像に難くありません。その上で、外へ誘い出した獲物を殺害して自分たちの都合良く動く『操り人形』とし、再び元の場所へ戻した。その結果が現在の状況なのだと僕は考えます」

 

 王子の出した結論に、国王はおろか、その場にいた将兵たちの誰一人として反論しようとしなかった。あまりにも心当たりが多すぎたがゆえに。

 

「おお、なんということだ……朕は、朕は、このように残酷な事実など知りたくはなかった! 王家の誇りと名誉を胸に抱き、ただ死んでゆきたかった!!」

 

「我らには栄光ある敗北すら許されないというのですか! 正々堂々討ち死にすることこそ武門の誉れ。それすらも先住の指輪によって汚されるなど、あってはならぬこと!」

 

 老王と年老いた侍従長の叫びに、ウェールズは固く――決意に満ちた声で反論した。

 

「いいや、そんなことはない。我らはまだ名誉と誇りを守れる。例の交易商人たちが運んできてくれた硫黄があるからな。叛徒どもが砲撃によって我らを破壊(・・)することを怖れているということは、これすなわち城に火をかけて自爆すれば……!」

 

 そんな悲壮感に溢れた王子の言葉を遮ったのは、太公望の声であった。

 

「何故、わざわざ死を選ぶ必要があるのです? 王党派には、まだ勝利の目が残されているというのに」

 

 その言葉に、居合わせた将兵たち全員が目を剥いた。そんな馬鹿なことがあるかと声を荒げる者もいたが、どこ吹く風といった様子で受け流し、太公望は発言を続けた。

 

「確かに、わずか三百で五万もの兵を打ち倒せというのは無理があります。ですが、王党派にとって幸いなことに、敵は詰めを誤りました。自らの兵力が強大であるがゆえに、あやつらは到底無視できない損害を――皆さまの行動次第で、致命傷を負うことになるでしょう」

 

 反論しようとした者が大勢いたものの――ウェールズがそれを制した。王子は決して無能な指揮官ではない。ここまでのやりとりによって、既に自分の側にいる少年が非凡な才を持つ者であると理解していた。よって、彼は先を促した。

 

「続けたまえ」

 

 ウェールズの目をまっすぐ見据えながら、太公望は言った。

 

「戦争とは、とかく金がかかるものです。矢弾や装備といった各種物資、兵士たちを養うための水や食料に加え、それらを運ぶための馬や荷車などが必要となるわけですが……はてさて、連中はこれらをいったいどうやって用意しているのでしょう?」

 

「貴族派の者ならば各自持ち寄りか、あるいは……」

 

 と、ようやくウェールズは気がついた。目の前の少年が告げようとしている大変な事実に。王子は腕組みしながら呟いた。

 

「これまでは王党派の拠点を落とし、そこにあった金品を奪うことで、膨れあがる軍事費を賄っていた。だが、今や我らの本拠地はこのニューカッスル城のみ。攻囲戦が長引けば、資金繰りが苦しくなるということか。五万もの兵を率いているとなれば、なおさらだ」

 

 ウェールズの発言に、太公望は頷いた。

 

「叛徒どもが政治的な勝利を得るためには、国民の支持が絶対に必要です。やつらは『聖地奪還』を標榜しております。つまり、民の支持を集めつつ戦争を継続するためには、自分たちが『金持ちで有能』だと世に知らしめる必要があるわけです。よって、物資を徴発するなどもってのほか。正規の料金を支払い、買い求めるしかないのですよ」

 

 将兵のひとりが手を挙げた。

 

「恥知らずの貴族派連盟が、平民たちから略奪することは考えられませぬか?」

 

「いいや、それはないじゃろう」

 

 ここへ来て、なんとアルビオン国王ジェームズ一世が自ら意見を述べた。

 

「略奪を行った土地を治める貴族に反発されるのが目に見えておる。此度の戦によって領地を得んと欲する者ならば、間違いなく止めに入るじゃろう。ただでさえ避難民たちの多くが他国へ流出しているのだ。自分の土地を耕してくれる者たちを、一時の欲によって逃したくはなかろうて。荒れ果てた畑から生み出される物など、何もないのじゃから」

 

「た、確かに……」

 

「ならば、今展開している兵たちは……どうやって養われているのです?」

 

 その問いに、太公望は人の悪い笑みを浮かべた。

 

「それですよ。貴族派はともかく『レコン・キスタ』の者どもが掲げる『国境を越えた優秀な貴族の連盟』という言葉からもわかる通り、連中の全てがアルビオン人で構成されているわけではありませぬ。ほぼ間違いなく、外から支援を受けているはずです」

 

 ウェールズも太公望と全く同意見だと表明した上で、自身の見解を述べた。

 

「外国からの資金や物資の持ち込みには、それなりの手間と時間がかかる。手持ちが心許なくなったからといって、すぐさま用意することなどできない。なればこそ、我らは空賊を装ってまで貴族派連盟の補給路を断つべく行動していたのだ」

 

「そして既に、敵軍の持つ資金はともかく物資のほうは限界に近い」

 

「何故そう言い切れるのかね?」

 

「明日の正午に総攻撃をかけるなどという、見え透いた脅しをかけてきたからですよ。おそらく、これ以上物資を消耗させたくない状況に陥っているのです。そう――つまり! あやつらが兵の展開をやめることができない状態にしてやれば……!」

 

「その方法とは?」

 

「なに、現時点でやつらが最も嫌がることをしてやればよいのです」

 

「……具体的には?」

 

「貴族派連盟――いや、オリヴァー・クロムウェルは、王党派の皆さまが真正面から(・・・・・)名誉ある戦い(・・・・・・)を仕掛けて来ることを願っているのです。つまり、その逆。全員揃って、秘密の地下港から逃げればよいのですよ」

 

 会議室が、しんと静まり返った。全員がぽかんとした表情を見せている。開いた口が塞がらないといった一同に、太公望は畳み掛けるように説明を続けた。

 

「当初は――不敬な発言を何卒お許しください――陛下と殿下の遺体を回収し〝固定化〟によって保存した上で血液を採取し、スキルニルへ植え付けることがやつらの狙いだと考えておりました。お二方がご存命の場合は魔法薬や〝制約(ギアス)〟でもって心を縛ることすらありうると」

 

 太公望の発言に、静寂を保っていた会議室内がどよめいた。

 

「なんと悪辣な!」

 

「おぞましいことを考えるな……」

 

「しかし、奴らならやりかねんぞ」

 

「申し訳ございません。そのため、皆さまが決して逃げ出さぬよう岬の先端で孤立させ、精神的な追い込みをかけているのだという考えに至った訳ですが……」

 

「先ほどウェールズが申していた件だな?」

 

 白の王の疑問に、太公望は淀みなく答える。

 

「はい。先ほどウェールズ殿下からご説明がありました通り、陸軍三千で封鎖できる城を五万で取り囲む必要などありませぬ。そのため、わたくしは現時点で敵が仕掛けてきているのは心理戦……王党派の皆様方を、自分たちの都合の良いように動かそうとしていると判断した次第です」

 

「ふむ」

 

「あらゆる逃げ道を塞ぎ、陛下と殿下の身柄を確保する。それが貴族派連盟の狙いであることは、ほぼ間違いありませぬ。例の指輪のようなものがあるとなればなおさらかと。しかも、うまくやれば旧王家に忠実な『死兵』を三百も手にすることができる。対外的にも、内政的な面においても、そのほうが都合がよいでしょうな」

 

 ガタンと音を立てて椅子から立ち上がったウェールズが、叫んだ。

 

「そうか! それこそが君が言っていた『王党派に仕掛けられた罠』なのか! 数々の裏切りによって我らの心を徹底的に疲弊させ、圧倒的な戦力をもって威圧することで最後の拠り所である名誉と誇りに縋らせ……逃げるという『道』を断つことが!」

 

 それまで大人しく話を聞いていた水精霊団の生徒たちが、義憤の声をあげた。

 

「なんて汚い連中なの! 貴族の名誉と誇りをそんなふうに利用するだなんて!!」

 

「恥知らずにも程がある!!」

 

「追い込みかけて、玉砕誘うとか……いくらなんでもエグすぎだろ」

 

「悪趣味」

 

「こんなの、生命への冒とくよ!」

 

「これが、貴族派連盟が並べ立ててる『正義』? 笑う気にもなれないわ」

 

「まったくだよ。いくら戦争でも、やっていいことと悪いことがある」

 

 戦争というものの裏を知り尽くしているコルベールは何も言わなかった。だが、その表情は固く、唇は強く噛み締められていた。

 

 集まった将兵たちの顔も、赤と青を行ったり来たりしている。それも当然だろう、自分たちの名誉と誇りを罠にかけるための餌にされていたと言われてしまったのだから。そこへ、太公望がさらなる追い打ちをかける。

 

「貴族派連盟側は、間違っても王党派の皆さまを逃すわけにはいかないのですよ。そうなったが最後、金食い虫である兵を食わせ続けねばならなくなりますからな。いつ敵が戻ってくるかわからない、しかも新たな軍勢を伴ってくる可能性すらあるわけですから」

 

 太公望は身振り手振りを加えながら、熱心な声で続けた。

 

「だからこそ、皆さま方を大陸の先端へ追い込み、五万もの兵で周囲を見張らせ、巨大戦艦で空を封鎖しているのです。こちらへ伺う前に、殿下はわたくしたちにこう仰いました。『王軍旗を掲げてはすぐさま敵のフネに取り囲まれる』と」

 

 ウェールズは唸った。

 

「ああ、確かに言った。なるほど、空軍を回せないのは全ての港町を監視し、我らが避難船によって逃げ出すことを防ぐ意味合いもあったのだな……もっとも、叛徒どもは『イーグル』号と我らが秘密の港については全く気付いていないようだが」

 

 太公望は頷いた。

 

「フクロウの中継所が全て抑えられているのも、同様の理由からだと思われます。王党派に対し、外からの支援者が現れることを畏れているのでしょう。この城の地下に逃げ道があることを知らぬからこそ、徹底的に情報伝達の手段を断ってきたのです」

 

「しかし、王軍が逃げたとなれば、あの者どもは……!」

 

 将兵のひとりが放った言葉を、しかしジェームズ一世が遮った。

 

「いいや、逃げられたなどとは間違っても言えまいて」

 

 全員の視線が老いた国王に向いた。王は……なんと、くつくつと笑っていた。

 

「どこにも行き場がない岬の突端にある城を五万もの兵に見張らせていただけではない! 上空から『ロイヤル・ソヴリン』号で完全封鎖していた。にも関わらず、我らを取り逃がしたなどと世間に伝わったらどうなるか!」

 

 ウェールズが、この部屋に来てから初めて笑みを浮かべた。

 

「間違いなく、連中は能力を疑われますな!」

 

 王子の言葉に、太公望が実に悪い笑みを見せながら追従した。

 

「その程度のことすらできない者に、聖地奪還が可能だと思えますか?」

 

 パリーがにっこりと笑った。

 

「到底無理でしょうな。貴族議会の運営すら不可能では? このていたらくでは、外国の貴族からの支援も打ち切られるやもしれませぬ」

 

 将兵たちも、笑っていた。

 

「五万の兵士全員に、口止めをすることができると思うか?」

 

「たとえ先住魔法を使ったとしても、難しいだろうな」

 

 そこにいた全員が、にやにやと笑っている。

 

 彼らはついに気が付いたのだ。自分たちがただ逃げるだけで、貴族派連盟に与えることのできる損害の大きさに。馬鹿正直に真正面から戦うよりも、相手が失う物は多いのだと。

 

 ウェールズは将兵たちを見遣りながら言った。

 

「戦いが終わったから、その場で軍を解散――と、いうわけにはいかない。目標が忽然と消えたとなれば、なおさらだ。全く気を緩めることができなくなった叛徒どもは、空の上で停滞し――金品や物資を消耗してゆくことになるだろう。そればかりか、ここまで破竹の勢いで勝ち続けることによって得た名声や信用にも大きなヒビが入る」

 

 そこへジェームズ一世が補足した。

 

「かといって、接収した領地から略奪を行うような真似をすればどうなるか。先程朕が述べたように民心を失い、それが新たな叛乱の口火となって、貴族派連盟そのものが瓦解する可能性すらあるじゃろう」

 

 会議室に詰めていた将兵たちがざわめく。

 

 これは敵の連携に楔を打ち込む絶妙な一手だ。しかも、敵・味方共に傷つく者は最小限で済む。何も知らずに『死兵』の元で働いている兵士たちが真実を知れば、揃って自分たちの側についてくれる公算が高い。

 

 それどころか『指輪』の情報を上手く使うことができれば、全世界を味方につけることすらできるかもしれない。この場に集う将兵たちの顔には、もはや諦観の色はない。代わりに彼らの瞳には未来への希望が宿っていた。

 

「問題は撤退する場所についてだが……」

 

「それについては、わたくしどもにいくつか心当たりがございますれば」

 

 そう言うと、太公望はキュルケに視線を投げた。彼女はそれを見て一瞬驚いたようだが、すぐさまにっこりと微笑むと、優雅にお辞儀した。特徴的な赤い髪に小麦色の肌。典型的なゲルマニア人の容貌を持つ少女を見た将兵たちは、逃亡先は十中八九ゲルマニアであると推測した。

 

 ジェームズ一世は会議を締めるために椅子から立ち上がろうとしたが、長い療養生活と老齢による衰えで足元がふらつき、倒れそうになった。しかしそんな父王を、側にいたウェールズがしっかりと支える。

 

 ふたりの姿を見た将兵たちは、軽口を叩いた。

 

「陛下! お倒れになるのはまだ早いですぞ!」

 

「そうですとも! 再びアルビオンへ戻ってくるその日までお立ちになっていてもらわねば、我々が困る!」

 

 ジェームズ一世は、そんな部下たちの言葉に気分を害した風もなく、にかっと人懐っこい笑みを浮かべた。先程まで彼の顔に表れていた悲嘆の色は最早欠片も無くなっていた。

 

「なに。座っていて、ちと足が痺れただけじゃ」

 

 国王はこほんと軽く咳をすると、居並ぶ一同が一斉に直立した。

 

「諸君。忠勇なる臣下の諸君に告げる。今ここに、新たな『道』が開かれた。朕は、たとえ国と民を捨て、異国へ逃げた恥知らずな王と罵倒されてもよい。『始祖』の怒りをこの身に受けることも厭わぬ。諸君が叛徒どもの手にかかり、名誉と誇りのみならず、魂までをも汚される姿など見とうはない! そのような世界で、生きる意志もない!!」

 

 ジェームズ一世は声の限りに叫んだ。

 

「よって、皆の者。朕を腰抜けと罵ってくれてもかまわぬ。どうか、共に逃げてくれ! いつの日か必ずこの地へ舞い戻り……雪辱を果たさんが為に!!」

 

 ひとりの将兵が大声で王に告げた。

 

「陛下! 我らは陛下の命令とあらば、死すら厭いませぬ。共に戦えとのご下命に、否のあろうはずがございませぬ!」

 

「腰抜けですと? 言いたい者には言わせておけばいいのです。戦略的撤退は立派な作戦のひとつですからな!」

 

「左様。それに『始祖』がお怒りになることなど、あろうはずがない! 『王権』を護るは王家の――そして我ら貴族に科せられた、高潔なる使命なのですから!」

 

 居並ぶ将兵たちはみな一様に頷き――杖を高く掲げた。

 

「我らは、ただひとつの命令をお待ちしております。『全軍、新たな道を征け!』」

 

「我ら一同、それ以外の命など、耳に届きませぬ!」

 

 そして彼らは、声高らかに唱和した。

 

「国王陛下、万歳!」

 

「皇太子殿下、万歳!」

 

「テューダー王家に、栄光あれ!」

 

 将兵全員の唱和に老王は思わず溢れ出た涙を拭うと、杖を天高く掲げ、命を下した。

 

「されば全軍、朕に続け! あの恥知らずな叛徒どものことだ。約束の刻限を破り、夜が明けてすぐに総攻撃を仕掛けてこぬとも限らぬ。皆早急に、忌まわしき〝力〟に覆われたこの大陸を離れようぞ!」

 

 ――こうして、彼らの『戦略的撤退』は始まった。

 

 

○●○●○●○●

 

「慌てるな、まだ時間には余裕がある。落ち着いて行動するのだ!」

 

「避難民たちに、食料と金貨を配れ! 彼らを食うに困らせてはならぬ!」

 

「金目の物は何一つ残すな! 全て外へ運び出せ! どうしてもフネに載せきれなければ、地下の穴から空へ捨てても構わん!」

 

 宵闇に包まれた城内で、粛々と撤退作業が行われていた。

 

 当初は王や将兵たちの変心に眉を顰めた者たちも、詳しく事情を聞かされるに至って、静かに王命に従った。彼らもまた現状に疑いを持っていたのだった。

 

 死体となって操られ、全てを汚されるか。生き延びて再起を図るか。答えはすぐに出た。

 

 明日の朝一番に城を脱出する手はずになっていた兵士の家族や従者たちは、涙を流して喜んだ。外面では貴族の誇りがどうのと謳ってはいても、やはり大切な身内や長年仕えてきた主人の命が助かると知れば、手放しで歓迎するのが人情というものだ。

 

 ニューカッスル城周辺が攻囲されるにあたり、住んでいた土地を追われ、城内へ逃げ込んでいた近隣の平民たちもまた安堵していた。彼らは彼らなりに、本気で国王や王子、城に残る貴族たちの行く末に心を痛めていたのだ。

 

「王さまや、このお城にいる貴族さま方は、俺たちを邪魔者扱いしなかったよな」

 

「ああ。のぶ……なんとかっつうやつでな」

 

「ノブレス・オブリージュだよ。高貴なる者の義務だとか何とか王子さまは仰ってただ」

 

「私たちも魔法で家を焼かれて途方に暮れていた時に、この城へ入れてもらえたの。自分たちだってろくに食べてないだろうに、嫌な顔ひとつしないで食料をわけてくれたわ」

 

「儂の孫娘は、レコン何とか言う奴らに酷い目に遭いそうだったところを助けてもらった。生粋のアルビオン貴族なら、間違ってもそんな真似はしねえ」

 

「ああ、空で生きる者としての誇りがあるからな。だからこの城にいるのが正真正銘、本物のアルビオン王と貴族さまだ」

 

「そうとも、そうとも!」

 

「それに比べて、この城を囲んでいる連中ときたら……!」

 

「ああ。何が『聖地奪還』だ! 『共和制』だ! そっただもんと、おらたちの家や畑を焼くことに何の関係があるってんだ!」

 

「その通りさね。結局のところ、あんなにお優しい王さまたちを押しのけて、自分たちが後釜に座りたいだけじゃないのよ!」

 

「まったくだ」

 

「俺はあんな欲の皮の突っ張った奴らよりも、王さまたちに協力する」

 

「おらもだ!」

 

「あたしも」

 

「儂もやるぞ」

 

 こうして彼らは自ら進んで荷運びの列に加わり――いつしか、城内には貴賤を問わず、強い連帯感が生まれていた。

 

 水精霊団の一同もまた、揃って撤退作業の手伝いをしていた。

 

 撤収作業中に起こるであろう騒音を、どのようにして隠蔽するかについて話し合っていた時に出たタバサの、

 

「床。〝消音(サイレント)〟」

 

 という呟きを耳にしたウェールズは、即座にそれの意味することを理解し――風メイジたちへ避難路に〝消音空間〟を創り出すことを命じた。これは北花壇騎士として裏側の仕事に従事するタバサならではの発想で、普通の貴族にはなかなか思いつかないことなのだ。

 

 土メイジたちは作業用のゴーレムを錬成し、宝物庫から次々と金貨や宝石が詰まった樽や、王家伝来の宝物を運び出していた。ギーシュは七体の『ワルキューレ』でもって、その列に加わり……城兵たちから称賛の声を受けた。

 

「応用訓練の『畑作り』で培った技術が、こんなところで役に立つとはね……」

 

 などと、ギーシュは奇妙な感慨に浸っていた。

 

「そこは段差になっています。足元に気をつけて」

 

「港はそちらの角を曲がった先ですぞ」

 

「そこのあなた! そっちじゃないわよ。魔法の光を目印にして進んでね」

 

 荷運びの列や避難民たちを誘導する役目を負ったのは火メイジたちだ。彼らは〝光源〟の魔法を用いて曲がり角や段差のある場所を指示し、混乱を未然に防いだ。コルベール、キュルケ、レイナールはここに配置され、光によって人々を地下へ導いた。

 

「これが、今のわたしにできる戦い方よ。女にだって、やれることがあるんだから!」

 

 水メイジたちは怪我をして動けない者たちの〝治癒〟や運搬を主に動いていた。昼間の事件で精神力を消耗していたモンモランシーは看護士補佐として、秘薬を用いた治療の手伝いに、忙しく立ち働いていた。

 

 そして、才人はというと。

 

「ほんとにいいのかなあ。みんな働いてんのに、俺だけが寝てるなんてさ」

 

 才人のすぐ隣のハンモック上で横になっていた水兵が、笑いながら言った。

 

「休むのも仕事のうちだぜ、ボウズ。俺たちが忙しくなるのは、この後なんだからな」

 

「はぁ。そういうもんすか」

 

 なんとアルビオン離脱後に『イーグル』号の操舵士交代員となるべく、控え室で休養を取らされていた。

 

 初めて乗った軍艦の仕組みを即座に理解したばかりか、完全に無風状態だったとはいえ、たったひとりで安定させた才人の手腕を、ウェールズや彼に同行していた水兵たちがしっかりと覚えていたからだ。複数のフネで逃亡するにあたり、腕の良い操舵士がひとりでも多く欲しかった彼らにとって、それは当然の帰結であった。

 

「うぬぬぬぬ、空の上へ来てまで書類仕事とは。菓子だけでは割に合わんわ!」

 

「何か言ったかね?」

 

「いえ、別に。陛下、こちらの内容で問題ございませぬか?」

 

「うむ。いやしかし、その若さでたいしたものだな。トリステインが羨ましいわ」

 

「過分な御言葉、恐悦至極に存じます」

 

 太公望は、船長室の中で大量の書類作製に追われていた。これまでの経緯をまとめ、避難先に寸分漏らさず連絡する必要があるからだ。なお、これらは全てジェームズ一世の目前で行われた。国王の承認を得るための手続きを、できる限り簡略化するために。

 

 以前、タバサの部屋で行われた『高速筆記』を見せつけられた老王とパリーは最初のうちこそ目を白黒させていたが――すぐさま本分に立ち返り、自分たちのなすべき仕事に取りかかった。船長室はさながら王の執務室のようであった。

 

 そんな中。ルイズは、ひとりあてがわれた船室の中で『瞑想』を行っていた。

 

 覚えたばかりの〝光源〟で、火メイジたちの手伝いをしようと張り切っていた彼女を太公望が引き留めた。当然ルイズは反発したのだが――。

 

「おぬしには、より大きな仕事を手伝ってもらいたいのだ。それも、大幅に〝精神力〟を消耗するような役目をな」

 

 耳元で、そう太公望に囁かれたルイズは、それだけでぴんと来た。多くの〝精神力〟を使う――つまり、自分の〝虚無〟が求められているのだと。

 

「ここへ着いてすぐにわかったことなのだがな、このアルビオン大陸は大地そのものが巨大な〝霊穴〟(パワースポット)なのだ。つまり『瞑想』の効果を最大限に発揮できる。可能な限り〝力〟を溜めておいてくれ」

 

「わかったわ!」

 

「頼んだぞ。これはおぬしにしか任せられない、本当に重要な仕事なのだ」

 

 ルイズは真剣な面持ちで頷くと、部屋に籠もった。

 

 

 ――そして、夜が明ける一時間ほど前。

 

 地下港が貴族派連盟に発見されぬよう、洞窟の入り口に厳重な封印を施す作業をするために残っていた土メイジたちを載せ終えたフネは、無事大空へ飛び立っていた。

 

 大陸下の空間を抜けた船団は、それぞれが目的地への航路上を運行していた。

 

 『マリー・ガラント』号を先頭とする船団は、派遣されてきた王立空軍の航海士の案内により、中立航路へ向けて海岸線の側を縫うように進んでいた。

 

 この一団には避難民と彼らに紛れた情報斥候――兵士たちの中で、特に選ばれた者たちが乗り込んでいる。彼らはラ・ロシェール到着後に再びロサイス経由でアルビオン大陸へ上陸すべく、準備を進めていた。アルビオンへ舞い戻り、貴族派連盟の情報を集めることこそが彼らに課せられた使命だ。

 

「いやあ、まさかここまで貰えるたぁな。これでしばらく楽ができるってもんだ!」

 

「船長、いいんですかい? 俺たちまで、こんなに……」

 

「当たり前だ。どうしてなのかは、もちろんわかってるよな?」

 

「へい、承知してます」

 

「それならいいんだ。お得意さまの秘密をぺらぺら喋るなんざ、商人……いやさ、空の男としてあるまじきことだからな!」

 

 約束されていた三倍額の金貨だけでなく多額の運搬費用を得て、さらにフネまで手元に残してもらえた『マリー・ガラント』号の船長と乗組員たちは、笑み崩れる顔を支えるだけで精一杯といった体であった。

 

 彼らは、もはや完全に王党派のシンパと化していた。少なくとも、船長やその部下たちの口から地下港の情報が漏れることはないだろう。

 

 『イーグル』号を先頭とする二艘のフネは、アルビオン大陸の遙か上空五千メイルの空を目的地へ向かって航行していた。この高みにまで至れるのはアルビオン製の頑健なフネならではだ。

 

 こちら側には水精霊団一行とふたりの王族、そして兵士とその家族たちが集っていた。彼らは雲と空の中――風に嬲られながら、遠ざかるアルビオン大陸を見つめていた。全員が、それぞれの想いを心に抱いて。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――出航後、数時間が経過した頃。

 

 朝焼けの中、ひとり操舵輪を握っていた才人は、ふいに後ろから声をかけられた。

 

「その若さで見事な操船だ。我がアルビオン空軍に来て欲しいくらいだよ」

 

 声をかけてきたのは、ウェールズだった。口から覗く白い歯が輝いている。

 

「でも俺、魔法使えませんよ?」

 

「フネの操舵に魔法の腕は関係ないよ。我が王立空軍では実力さえあれば、たとえ平民でも士官になれる。君ほどの操舵技術持ちなら、佐官も夢ではないだろう」

 

 この王子さまは、いいひとだと才人は思った。召喚当初のような差別は受けなくなっていたものの、この世界の『メイジ至上主義』に正直なところ辟易していた彼は、ウェールズの賛辞が素直に嬉しかった。こんなにいいひとが、あんな嫌な奴らの手にかかって死ななくて本当によかったと、心の底から感じた。

 

「あの、休まなくていいんですか? 王子さま、ずっと起きてるじゃないですか」

 

「僕の身体を気遣ってくれるのか! 君は優しい少年だな。大丈夫だよ、さきほど少し仮眠を取ったからね」

 

 そのまま、しばし無言で操舵を続けていた才人であったが……ふいに口を開いた。彼は、どうしても王子に聞いてみたいことがあったのだ。ニューカッスル城に到着したときに見た信じがたい光景が、強く脳裏に焼き付いていたがゆえに。

 

「その、失礼ですけど……王子さまは、怖くなかったんですか?」

 

「怖い? 何がだね?」

 

 ウェールズはきょとんとした表情で、才人を見つめた。

 

「洞くつの中で、お城のひとたちと一緒に笑ってたじゃないですか。どうして、あんなふうに笑えたんですか? 死ななきゃならない戦いの前に笑うなんて、俺なら無理です。怖くてできません」

 

 才人の言葉に、ウェールズは笑った。

 

「死が怖くない人間なんているわけがない。王族も、貴族も、平民も、それはみな同じだろう」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「守るべきものがあるからだ。その大きさが、死の恐怖を忘れさせてくれるのだ」

 

「何を守るんですか? 名誉? 誇り? そんなもののために死ぬなんて馬鹿げてる。そのせいでみんな罠に嵌められてたじゃないですか!」

 

 語気を強めた才人に、ウェールズは思わず苦笑した。

 

「まあ、その通りだな。実際、怖ろしい罠だったよ。負けは確実。だが、せめて勇気と名誉とはいかなるものかを『レコン・キスタ』の者どもに見せつけ、ハルケギニアの三王家は決して弱敵などではないのだと思い知らせる。それが、内憂を払えず滅び行く我らに残された最後の義務なのだと――そう、考えていた。あの時まではね」

 

「義務だけで、死のうとしてたっていうんですか……?」

 

 しかしウェールズはそれに答えず、逆に才人へ聞いた。

 

「君には、命を賭して守りたいと思うものはないのかね?」

 

「俺ですか? 俺は……」

 

 半年前の才人なら、そんなものはないと答えていたかもしれない。だが、今の彼の脳裏にはくっきりとそれが浮かび上がっていた。わがままで、プライドが高くて。自信と勇気に満ちあふれているようで、本当は臆病な面もあった――小さな女の子の姿が。

 

「どうやら、あるようだね」

 

「それは……ッ」

 

 ウェールズは周囲を見遣り、すぐ近くに誰もいないことを確認すると――才人だけにしか聞こえないよう小さな声で言った。

 

「結局はそういうことだったのだ。だからこそ、僕たちは彼の策にあっさりと乗せられてしまったわけだ」

 

「策って、まさか」

 

「そのまさか、さ。玉砕するよりもずっと良い方法があると知ったとき……僕はその提案に縋ってしまったのだよ。そうすれば、守り続けることができるからね。たとえ、僕の手の届かないところへ行ってしまうのだとしても」

 

 そこまで言ったウェールズは、口の前で指を一本立てた。

 

「おっと、これは内密に頼むよ。空軍総司令ともあろう者がこんなことを言っていたと知れれば、全軍の士気に関わる」

 

 才人ははっとした。

 

(王子さまは密書を読んでお姫さまが結婚するって知ったとき、顔色を変えてなかったか? 宝箱に描かれていたのは、お姫さまの顔じゃなかったか? あの手紙は何回も読み返されて、ぼろぼろだった。つまり……)

 

 いくら普段はヌケているだの、ニブいと言われる才人でも気が付いた。ウェールズが、最後まで本当に守り抜きたかったものとは――アンリエッタ姫のことだったのだと。

 

 彼と運命を共にしようとしていた兵士たちが守りたかったのも――きっと家族や恋人、そして親しい友人たちだったのだろう。

 

 これまで才人はさんざん聞かされてきた。アルビオンが陥ちたら、その次に狙われるのは、ほぼ間違いなくトリステインだと。トリステインは弱国で、一国では到底『レコン・キスタ』には対抗できない。そのために、隣国との同盟が絶対に必要なのだと。

 

 本来であれば――兵士たちの家族は全員『イーグル』号に乗り、トリステインへ逃れることになっていたのだと教えられていた才人は、ようやく腑に落ちた。彼らは、自分の大切な者たちを守るため、最後にトリステインの盾になろうとしていたのだ。

 

「あの席では、ああ言ったが……実際に『レコン・キスタ』が瓦解する可能性は低いだろう。もちろん、金銭的に大きな損害を与えられることは確かだし、最低でもトリステインがゲルマニアと軍事防衛同盟を組むまでの時間稼ぎくらいはできそうだが」

 

 才人にはわからなかった。ウェールズ王子には心から愛しているひとがいる。けれど、そのひとはもうすぐ結婚して、遠くへ行ってしまう。そんな相手を命を賭してまで守ろうという、その想いが彼には理解できなかった。

 

「なんで!? もう、手が届かなくなるんでしょう? だったら、どうして……」

 

 死ぬ覚悟ができたのか。才人がそう言うと、ウェールズは寂しそうに微笑んだ。

 

「したことに対する見返りを期待するのは、真実の愛と呼べるのかね?」

 

 王子の言葉を受けた才人は、鈍器で脳天を殴られたような衝撃を受けた。自分は、果たしてどうだったろう。期待してはいなかったか? 守り続けることで、振り向いて欲しい。これだけ頑張っているんだから、俺のことを好きになって当たり前。頭の片隅で、そんな風に思ってはいなかっただろうか?

 

(そうだ、俺は間違いなく待っているんだ。あいつの方から手を伸ばしてくれるのを。自分から告白する勇気がない、意気地無しだから……)

 

 そんな邪なルイズへの想いと、自分の身の安全とを天秤にかけてしまったからこそ――あのとき矢弾に晒されたあいつの前に、飛び出せなかったんじゃないか?

 

 操舵輪を握る手が、かすかに震える。そんな才人に、ウェールズは告げた。

 

「いま僕が言ったことは、アンリエッタに告げないでくれたまえ。彼女は、輿入れ前の大切な身体だ。いらぬ心労は美貌を損なう原因となるからね」

 

 それを聞いた才人は、さらなる衝撃を受けた。

 

「まさか……会わないつもりなんですか!?」

 

「当然だ。僕が生きていることすら、アンリエッタには報せないほうがいい」

 

 そう告げたウェールズの顔には、苦悩がありありと浮かんでいた。

 

「やっぱりそうなんですね? お姫さまも、王子さまのことが好きなんだ。あの手紙はラブレターなんでしょう? だからあんなに大切にしてたんだ。なら、どうして? 会うくらい、別にいいじゃないですか。せっかく生き延びたのに」

 

 才人の言葉に、ウェールズの表情がわずかに緩んだ。まっすぐに自分を見据えてくる少年の心に打たれた王子は――それまで、ずっと隠し続けてきた本音を晒した。

 

「そんなことをしたら、彼女は……僕の可愛い従姉妹姫は間違いなく揺らぐ。もしかすると、一緒に逃げてくれなどと言い出すかもしれない。そして、もしもそう言われてしまったら、僕は、一度逃げ出してしまった僕は……自分を抑える自信がない」

 

「別にいいじゃないですか、逃げても……!」

 

「駄目だ。そんな真似をしたら、トリステインは文字通り破滅だ。軍事同盟締結どころか、ゲルマニアから攻め入られるやもしれぬ。そうなれば数千……いや、数万もの民の命が失われることになるだろう。君たちだって、無事では済まない」

 

 現代日本に生まれ、ごくごく平凡な人生を送ってきた才人にとって、ウェールズが語ることは理解の範囲外にあった。たったふたりの男女が逃げ出したくらいで戦争になるなんて、全く意味がわからない。そう言い募る才人に、ウェールズは諭すように告げた。

 

「それが王族というものが背負う〝力〟と責任なのだ。我らの一挙一動で大勢の民が生き、あるいは死ぬ。僕は、亡国の王子だ。もう、アンリエッタの盾になることはできない。その資格もない。彼女を本当に守れるのは、今やゲルマニアの皇帝だけなのだ」

 

「そんなこと……!」

 

「愛するがゆえに、身を引かねばならぬこともあるのだよ」

 

 才人は口ごもった。どうやら、王子の決意は並々ならぬものがあるようだ。自分では、どうあっても説得できそうにない。完全に黙り込んでしまった才人の目をまっすぐに見つめながら、ウェールズは言った。

 

「もう一度言う。これは絶対にアンリエッタには告げないでくれたまえ」

 

 才人は、ただ黙って頷いた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――その日の正午。

 

 ニューカッスル城に貴族派連盟の軍勢が押し寄せた。だが、岬の突端にある城からは一切の反撃が行われなかった。

 

 密集陣形を取っていた先陣の指揮官は当然それを疑問に思った。砲台の裏には、確かに人影らしきものが見える。だが、いっこうに撃ってくる様子がない。もちろん、攻撃など受けないことに越したことはないので、彼らはそのまま、まっすぐに城門前へと突撃し――攻城梯子をかけ、城壁をよじ登った。

 

 そこにあったものは。なんと、貴族の服を着せられた案山子(かかし)であった。

 

 城内へ侵入した彼らは、さらに驚くべき光景を目にすることになった。内部は完全にもぬけの殻――人っ子一人いない、空城と化していたのだ。

 

 報告を受けた貴族派連盟総軍司令官――サー・ジョンストンは、最初、それを何かの冗談だと思った。貴族議会議員でもある彼は生粋の政治家であり、これまで指揮を執ったことなどない。

 

 今日はクロムウェルに気に入られている彼が、最終決戦の指揮をしたという箔付けのために、お飾りの総軍指令として出陣させてもらえたに過ぎない。

 

 部下たちからの再三の説得により『レキシントン』号から降り、恐る恐る城内へ足を踏み入れたサー・ジョンストンは、それを見て絶句した後――激怒した。

 

 彼が目にしたものとは。宝物庫の中央に堆く積み上げられた、硫黄入りの樽と。

 

『風は遍在する』

 

 と書かれた一枚の羊皮紙だった。

 

 

 




筆者の目線で双方の人員に最も損害を与えず、最大限のダメージを与えるとしたらどうするか。それを考えた結果がこうなりました。

戦略で派手に負けていたから、戦術でひっくり返してみた次第。ガチバトルを期待していた皆様、申し訳ありません!

でも、こういうほうが太公望らしいかな、なんて……。

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