雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

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指輪易姓革命START
第59話 理解不理解、盤上の世界


 ――雪風の姫君がゲルマニアで新たな『道』を歩み出したのと、ほぼ同じ頃。

 

 トリステインの王都トリスタニア、市街地中央を走るブルドンネ通りの突き当たりにある王宮。その最上階にある一室で、ひとりの可憐な少女が若く美しい顔に似合わぬ愁いを帯びた表情で、眼下に映る都市を眺めていた。

 

 気品のある顔立ちに艶やかな栗色の髪。白く輝く肌と南の海のような淡い碧眼に高い鼻が目を引く見目麗しいその美少女は、やや青みがかった白いドレスを身に纏い、ほっそりとした手に大きな水晶の飾りがついた杖を持っていた。杖と都市を行き交う人々の姿を交互に眺めながら、何度も何度も、繰り返しため息をついている。

 

 と、そんなところへ王宮仕えの侍女が現れた。

 

「姫殿下、ラ・ヴァリエール公爵閣下が面会をお求めになっておられます。只今控えの間においでですが、いかがなさいますか?」

 

 疲れた様子の少女を気遣っていたのだろう侍女は、ぱあああっと顔を輝かせた姫君を見て驚く。しかし王宮に勤めて長い彼女はそれを表に出さず、姫の指示を待った。

 

「すぐにお通しして」

 

「かしこまりました」

 

 命令を受け取った侍女が退出すると、少女はふうと息を吐き出した。

 

(大丈夫。あの方ならば、きっとうまくやってくださったはず……!)

 

 麗しき姫君は胸中に大きな不安と深い悩みを抱えていた。それは日を追うごとに大きくなるばかりだったのだが――ごく最近、そんな彼女の心に安らぎを与えてくれる人物が現れた。

 

 それがラ・ヴァリエール公爵だ。

 

 これまで国境の守備と自領運営のため、国政参加を固辞してきた公爵が議会に顔を出すようになった。それを「あの穴熊にも野心があったと見える」などと嘯いている者もいるようだが、実際には違うと理解している。ここ最近になって、国防上無視できない案件が持ち上がったからだ。

 

 公爵が居室内へ通されてきたとき。彼女は思わず声を上げ、心から信頼している遠縁の叔父の元へたたっと駆け寄っていった。

 

「ラ・ヴァリエール公爵!」

 

「これはこれは、アンリエッタ姫殿下御自らお出迎えくださるとは、感激の至りでございます。老骨に鞭打って参内した甲斐がございました」

 

「まあ、公爵ったら! わたくしをからかっていらっしゃるのね」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵は大げさに両腕を広げ、首を左右に振った。

 

「そんな、畏れ多い! このわたくしめが姫殿下をからかうですと!?」

 

 そう言って、公爵はにっこりと姫君へ笑いかけた。少女――アンリエッタはその笑顔に思わず釣られて微笑んだ。それから、すっと左手を公爵の前へ差し出す。ラ・ヴァリエール公爵は姫君の前へ静かに歩み寄ると、片膝をついて恭しくその手をとり、軽く口づけた。

 

 公爵を出迎えた少女の名はアンリエッタ・ド・トリステイン。この国の王女だった。姫君は挨拶も早々に本題を切り出す。

 

「それで、首尾のほうはいかがでしたか?」

 

 姫の言葉に、公爵の顔が少し陰った。

 

「正直なところ、芳しくありませぬ。相変わらず王政府議会の意見は三つに割れており、今日も過半数を取れませんでした。アルビオンへ援軍供出の問い合わせをするというだけで、この始末。国内の一部有力貴族から支援に関する協力を取り付けることはできましたが、まずはこれを通さぬことには内政干渉と受け取られてしまいます」

 

 アンリエッタ姫は眉をひそめた。

 

「何故です! どうして同盟国であるアルビオン王国へ我が国からの協力が必要か否かの問い合わせをしようとするだけで、こんなにも意見が割れるのですか? 馬鹿なひとたち! このままアルビオンが陥ちたなら、次に狙われるのは、ほぼ間違いなく我がトリステインなのですよ!?」

 

 姫君の言葉に、公爵は重々しく頷いた。

 

「まさに姫殿下の仰る通りです、彼らには何故それがわからぬのでしょう。はっきり申し上げて、このわたくしにも理解できませぬ」

 

 深くため息をついた公爵に、アンリエッタは問いただした。

 

「ラ・ヴァリエール公爵、そしてグラモン伯爵とその一派が賛成側に回っているのは既に承知しています。現時点で、未だに反対を唱えているのはどの派閥なのです?」

 

「おもに高等法院に属する者たちです。彼らはみな一様に『まずは国内の乱れを正すことが先決』そう触れ回っております。マザリーニ枢機卿とその周囲は中立を保っています。せめて、どちらか片方をこちら側へ取り込むことができれば、話は早いのですが……」

 

「かの『鳥の骨』を動かすことは、公爵の手腕をもってしても難しいと?」

 

 それを聞いたラ・ヴァリエール公爵の片眉がピクリと動いた。

 

「姫殿下! そんな街女が口にするような二つ名で枢機卿猊下を呼ぶなど!」

 

 姫の口先がつんと尖った。

 

「これぐらい、別にいいじゃない。なにせこのトリステインの王さまは彼なのですから。ラ・ヴァリエール公爵は街で流行っている小唄をご存じ? トリステインには美貌はあっても杖がない。杖を握るは枢機卿。灰色帽子の鳥の骨……」

 

「姫殿下。わたくしをこれ以上困らせないでください」

 

 苦笑いをする公爵を見たアンリエッタ姫は、それで少し気が晴れたのだろう。クスリと笑って先を促した。ラ・ヴァリエール公爵はこほんと軽く咳払いをすると、現状報告を再開する。

 

「マザリーニ枢機卿は現在隣国ゲルマニアとの軍事防衛同盟の成立を目指して動いております。ですから、彼は中立を保っているのです。わたくしの見立てですと、アルビオンが陥落した場合に備え、先の先を読んで手を打つつもりなのでしょう。トリステインを生き残らせるための、まさに苦肉の策ですな」

 

「アルビオンが陥ちぬよう、先に援軍を出せばよいではありませんか!」

 

 姫が思わず発した抗議の叫び声を、公爵は宥めるような口調で取りなした。

 

「常に複数の『道』を用意しておくのは、政治における基本です。わたくしと鳥の――ゴホン。マザリーニ枢機卿とは意見こそ異なっておりますが、方策として間違ってはいないので責めるわけにも参りませぬ。送り込んだ援軍が王党派と共に敗れた場合、トリステインは文字通りの窮地に立たされますから」

 

「諸侯軍の供出を求めても、ですか?」

 

「少なくとも、現状で我がヴァリエール家から兵を出すわけには参りませぬ。これは、姫殿下なら言わずともおわかりかと存じますが」

 

「……そうですわね。ゲルマニアとの国境を守護する公爵家の兵たちは絶対に動かせません。なるほど、マザリーニ枢機卿の外交政策はそれを見越したものでもある、ということですね」

 

「左様でございます」

 

 それなら確かに責められない。諸侯軍――貴族たちの抱える兵は、ある意味国の切り札。中でもラ・ヴァリエール公爵が率いる国境防衛軍は国防の要、最後の砦なのだ。彼らをアルビオンに送り込んで疲弊したところをゲルマニアに狙われたりしたら、目も当てられない。そうならないよう行動するマザリーニについては理解できた。

 

「ですから、攻め落とすのならば高等法院側なのですが……これがなかなかうまくいかずに困っております。まったくもって、力不足で申し訳ございません」

 

 そう言ってうなだれたラ・ヴァリエール公爵に、アンリエッタは労いの言葉をかけた。

 

「いいえ、公爵は本当に良くやってくださっているわ。わたくしなど、ひとりでは何もできず……こうして公爵にばかり頼りきっている状態なのですから。いまわたくしの手元にあるのは、これこの通り。王国の姫という名の、単なるお飾りの身分だけ」

 

 両の手を合わせ、アンリエッタは小さく首を振り、自分の不甲斐なさを嘆いた。

 

「アルビオン――テューダー家のひとびとは、わたくしの親戚だというのに……彼らに手を差し伸べるどころか、声を聞くことすらできない。今のわたくしは鳥籠……灰色の骨によって作られた檻に閉じこめられた、自由に鳴くことすら叶わぬ無力な小鳥なのです」

 

 深いため息をついた姫に、ラ・ヴァリエール公爵は悔しげな呟きを漏らした。

 

「ああ、このわたくしめにもっと〝力〟があれば姫殿下にそのような御顔をさせずとも済みますものを。我が身の何たる不甲斐なさよ! 姫殿下におかれましては誠に、誠に申し訳なく……!」

 

 床に崩れ落ちるようにして膝をつき、両手で顔を覆って無念を噛みしめるラ・ヴァリエール公爵の姿を見たアンリエッタ姫は感極まったといった表情を顔全体に浮かべ、彼の手を取った。

 

「ああ、公爵! ラ・ヴァリエール公爵! そんなことを言わないでちょうだい! 母があのような状態である今……わたくしにはもう、あなたしか頼れるひとがいないのです。同じトリステイン王家の血を引く、公爵だけが頼りなのです」

 

「姫殿下……ッ!」

 

 ラ・ヴァリエール公爵のほうも姫君と同じく感極まったといった体であった。そんな彼の両目からは大量の水が滂沱と流れ落ちている。

 

「もったいのうございます。そのお言葉だけで充分でございます。トリステイン王家にお仕えして幾星霜、これほど感激したことはございませぬ。姫殿下より頂戴したお言葉と信頼を無駄にせぬためにも、我が公爵家の総力を挙げて、かの議題を通してご覧に入れます」

 

「おお、ラ・ヴァリエール公爵……!」

 

 アンリエッタ姫はこの頼もしき味方――幼い頃から実の父のように慕ってきた公爵の言葉に心を打たれた。

 

(ラ・ヴァリエール公爵家はわたくしと同じ『始祖』の血を引き、祖父の時代からわたくしたち王室に仕えてくれている忠義のひと。この方をもっと大切にしなければいけないわ。そうだ、父さまがよく仰っておられました。『忠誠には報いるものがなくてはならぬ』と)

 

 アンリエッタ姫はラ・ヴァリエール公爵の忠義に対し、自分ができることを考えた。そして彼女は決断した――それが、いったいどんな意味を持つのかを知らずに。

 

 姫君は右手の薬指に填っていたものをすっと引き抜くと、未だ床に蹲っていたラ・ヴァリエール公爵の手に乗せた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵。これを受け取ってください」

 

 己の手に乗せられたものを見たラ・ヴァリエール公爵は目を剥いた。

 

「こ、これは……!?」

 

 もちろん、彼は知っていた。今、自分の手にあるものが何であるのか。

 

「先日、母后から戴いた『水のルビー』という指輪です」

 

 静かに微笑むアンリエッタ姫と、手の中にある『水のルビー』を、ラ・ヴァリエール公爵は信じられないものを見るような目つきで交互に眺めた。

 

「ひ、姫殿下! わたくしめがこれを受け取るわけには参りませぬ!」

 

 慌てて『指輪』を返そうとした公爵を、だがアンリエッタ姫は遮った。

 

「忠誠には報いるところがなければなりません。嫌な話ですが、宮廷政治にはお金がかかるものと聞き及んでいます。いざというときはそれを売り払って資金に変えてくださっても一向に構いませんわ」

 

 それを聞いた公爵は、思わず息を飲んだ。それから彼はすぐさま気が付き――戦慄した。

 

(アンリエッタ姫殿下はこの『指輪』にどういう謂われがあるのか、全く知らない。いや、マリアンヌ王妃殿下から教えられてすらいないのか!)

 

「し、しかし……この『指輪』を頂くということは……」

 

 本当にこれを受け取ってよいものかどうか、公爵は迷った。彼の手の上では『水のルビー』が小さく踊っていた。何故なら、彼の両腕、両掌が……ふるふると震えていたから。

 

「これは命令です。返還はまかり成りませぬ」

 

 その言葉を最後にぷいと横を向いてしまった姫君へ、公爵は心底参ったといった声で呟いた。

 

「ならば……しばし、この『水のルビー』は当家でお預かり致します」

 

 公爵が提示したその代案にもアンリエッタ姫は頷かなかった。

 

「わたくしは、あなたに下賜すると申しているのです」

 

(姫殿下に考え直していただくのは難しそうだ。とはいえ真実を告げるのも不敬にあたる。いや、忠義と盲信は別なのだ、この場でしかと忠言を……それはそれで笑顔で渡されそうな気がするな。今、そうなるのは拙い。仕方あるまい、ここは素直に受け取っておこう。ただし――後々のことを考えると下手に流すわけにはいかん)

 

 そう考えたラ・ヴァリエール公爵はすぐさまこの突発事態に対応すべく、全く別の方向からアンリエッタ姫に反撃を加えることにした。

 

「左様ですか。それでは姫殿下のご意志(・・・・・・・)として、ありがたく頂戴致します」

 

 そう告げた後、懐から取り出した絹布にうやうやしい手つきでもって『指輪』を包もうとしたラ・ヴァリエール公爵は、その前に改めて『水のルビー』とアンリエッタ姫の顔を交互に見遣りながら、こう言った。

 

「それにしても姫殿下は思い切ったことをなさいますな! わたくしはこの指輪は姫殿下が想い人と交わす婚約指輪として相応しい品なのではと、つねづね思っていたのですが。たとえば……そう、アルビオンのウェールズ皇太子殿下と」

 

 それを聞いたアンリエッタ姫は目を丸くした。次いで、白く透き通った頬をすっと朱に染める。

 

「ど、どうして公爵がそれを……?」

 

 絹布で包み込んだ『指輪』をそっと懐中へと仕舞いつつ、とびっきりの悪戯を成功させた子供のように瞳を煌めかせた公爵はその表情とはまるで正反対の――実に重々しい口調で告げた。

 

「三年前……わたくしと共にラグドリアン湖畔で行われた園遊会に出席していた我が末娘ルイズの髪の色が、いつのまにか艶やかな栗色に染められておりましてな。いくら本人に問いただしても、あの子は頑ななまでにその理由を話そうとしなかったのですよ」

 

 ――ラグドリアン湖畔の園遊会。それは今からちょうど三年前。マリアンヌ王妃の誕生日を祝う……というのは名目上のこと。実際には最愛の夫である国王ヘンリー三世を失い、塞ぎ込みがちであった彼女を慰めるために世界各国から多くの賓客を招いて執り行われた、社交と贅を尽くした席のことである。

 

 そこで、アンリエッタ姫はひとりの青年に恋をした。

 

 彼の名はウェールズ・テューダー。『白の国』アルビオンの皇太子にして、亡き父の実兄である現アルビオン王国国王ジェームズ一世の一人息子。つまり、彼らは従兄妹同士ということになる。

 

 きらきらと水面輝く湖畔で、彼らは偶然と呼ぶには出来すぎた出逢いを果たした。いつしかふたりは惹かれあい、二週間もの長きに渡って――しかし恋するふたりにとっては短すぎる園遊会の間、逢瀬を重ねた。

 

 だが、よりにもよって一国の王女が夜半過ぎに天幕を抜け出して外へ出ることなど、普通に考えれば不可能だ。それを可能にしたのが、アンリエッタ姫の幼なじみであり、遊び相手を務めていた少女の存在だった。

 

 アンリエッタ姫は少女――ルイズに自分の『身代わり』になってくれるよう頼み込んだ。「他でもない姫様のご命令であれば……」と、ルイズは素直にそれを引き受け、姫君が用意した魔法の染料によって自分の髪をアンリエッタ姫と同じ綺麗な栗色に染めると――そのまま王女の天幕に詰め切っていた。

 

 もちろん、アンリエッタはルイズにウェールズ王子と会うためだなどと打ち明けてはいない。

 

「息の詰まる催しの数々で、もううんざり! ひとりだけで、少しだけ気分転換がしたいの」

 

 そう話していたのだ。なのに、どうしてラ・ヴァリエール公爵がそのことを知っているのか。姫君はやきもきしながら公爵の言葉を待った。

 

「ルイズはああ見えて頑固ですからな。それで、仕方なく姫殿下の天幕近くに我が手の者を複数名伏せておきましたところ……なんと! フードを目深に被った姫殿下が湖畔の方角へ走ってゆかれるのを目撃してしまったと。まあ、こういうわけでございまして」

 

 アンリエッタの顔はまるで熟れた苺のように真っ赤になった。

 

(見られていた! わたくしたちが密会していた場面を!)

 

 恥ずかしさのあまり、アンリエッタは何とかこの空気を変えようと必死に頭を回転させた。そこで、彼女ははたと思いついた。今の話からそれほど外れてはおらず、かつお互いにとって共通の話題があるではないか。

 

「こ、ここ公爵。ところで……その。ル、ルイズは、最近どうしていますの? 昔はよく伝書フクロウを飛ばしてくれていたのですが、魔法学院へ入学してからというもの、すっかり交流が途絶えてしまって」

 

 かなり無理矢理な話題転換であったが、ラ・ヴァリエール公爵は顔色ひとつ変えず、真面目くさった表情で答えた。

 

「今は夏期休暇で屋敷へ戻っております。連日、我が妻カリーヌの指導を受け〝飛翔(フライ)〟の練習を繰り返しておりますが、これがなかなかの上達ぶりでしてな! あまりの速さに、もうこのわたくしではふたりに追いつくこと叶いませぬ」

 

 表情は全く動いていないが、しかしどこか嬉しげな声で紡ぎ出されたその言葉にアンリエッタの気持ちが一挙に華やいだ。

 

(わたくしのおともだちが! あの、どんな魔法も失敗させてしまっていた幼なじみが、ついに系統に目覚めることができたのね! ああ、本当に良かった……)

 

 心優しい姫君は、まるで我が事のように喜んだ。

 

「まあ! ラ・ヴァリエール公爵が〝飛翔〟で追いつけないですって? と、いうことは……つまり、わたくしの大切な『おともだち』は〝風系統〟に目覚めたのね」

 

「大切な『おともだち』などと……もったいないお言葉です。姫殿下がそのように仰ってくださったとルイズが知れば、さぞ喜ぶことでしょう」

 

 先程までとは一転。笑み崩れた公爵の顔を見たアンリエッタ姫は小さく微笑んだ。ラ・ヴァリエール公爵が三人の娘たちを目に入れても痛くないほどに可愛がっているというのは、宮廷内部でも有名な話だ。こうなれば、もう会話は彼女のペースである。

 

「わたくしはルイズが系統に目覚めたという報せのほうが嬉しいですわ! あの子はずっとひとりで苦しんでいましたからね。ああ、ルイズ! ルイズ・フランソワーズ! 久しぶりに顔を見たいものだわ!」

 

 姫君の言葉を聞いたラ・ヴァリエール公爵は「それでしたら……」と申し出た。

 

「夏期休暇は長いですからな。姫殿下のご都合がよろしい時に、王宮へ連れて参りましょう」

 

 アンリエッタは公爵の申し出に飛びついた。鬱々としていた日々を過ごしていた彼女にとって、今、何よりも必要だったのは……気を許せる友人とゆっくりと語らう時間だった。

 

「わたくしの都合などと! たとえ予定が入っていたとしても、そのようなものは全て後回しにしてしまえばよいのです!」

 

「姫殿下! 王族たるもの、間違ってもそのようなことを申してはなりませぬ」

 

「まあ、公爵。あなたまで枢機卿のようなことをおっしゃるのね!」

 

 心外だとばかりに口を尖らせた姫に、公爵は至極真面目な顔で切り返した。

 

「こうして苦言を呈しますのも、臣下として当然の務めでございますれば」

 

 だがしかし。その言葉を発し終えた直後、ラ・ヴァリエール公爵は大きな笑みを浮かべていた。

 

「で、ご都合はいかがですか? アンリエッタ姫殿下」

 

 それを見たアンリエッタ姫は実に満足げに……見た者全てが傅くような優雅な微笑みでもって、こう答えた。

 

「ラ・ヴァリエール公爵は明日も王宮へいらっしゃいますの?」

 

「もちろんでございます。アルビオンの件は、まさしく急務ですからな」

 

「それでしたら、明日一緒に連れてきてくださいな。久しぶりにルイズとお茶を楽しみたいわ」

 

「姫殿下の仰せとあらば、わたくしめに否などございませぬ」

 

 その後、ふたりは揃って笑い声を上げた。

 

 

 ――それからしばらくして。

 

 ラ・ヴァリエール公爵が退室した後。アンリエッタは再び深いため息をついた。

 

「トリステインでいちばんの権勢を誇る、あのラ・ヴァリエール公爵ですら議会を完全に掌握できないだなんて。いったい、この国はどうなってしまうのかしら……」

 

 ついつい憎まれ口のようなものを叩いてしまったが、マザリーニ枢機卿がよくやってくれていることはアンリエッタにもわかっている。今すぐ即位して彼と同じ事をしろと言われても、まず無理だと思っていた。それこそ国の崩壊を招きかねない。

 

 それに。アンリエッタ姫の王位継承権は現在第二位。第一位の継承権を持つ彼女の母親は、数年前に亡くなった父王の喪に服し続け、数多くの貴族たちから意見されているにも関わらず、未だに即位しようとしない。そのため、ずっとトリステインの王座は空位のままだ。

 

「母さまがご病気だという話は、やはり本当のことなのかしら……」

 

 嫌でも耳に入ってくる、宮廷雀たちの噂話。そこでまことしやかに語られるのはアンリエッタの母・マリアンヌ王妃が心の病を患っているという内容である。

 

 曰く、仲睦まじかった夫君――先王陛下崩御の折に、王妃さまはあまりの悲しみに耐えきれず、心が壊れてしまった。それがゆえに、一切国政に携わることなく自室にただひとり閉じ籠もり続けておられるのだと。

 

 確かにここ数年間の母の様子はおかしいと、アンリエッタ姫はつねづね思っていた。

 

 快活で笑顔に満ち溢れていたかつての姿が幻であったかのように、今のマリアンヌ王妃は暗い影を帯びていた。娘であるアンリエッタが部屋を訪れても、ほとんど笑うことがない。母はただ、寂しげに頷き……小声で挨拶の言葉を呟くだけだ。

 

 ここ最近で、何か変わったことがあったかといえば――。

 

「これはあなたのものです」

 

 ただそれだけを告げ、あの『水のルビー』を自分の右手薬指に填めてくれたことだけだ。

 

「このわたくしに、もっとできることがあればいいのに……」

 

 そう呟き、再びため息をついたアンリエッタは窓を開け――天に祈った。

 

「おお、始祖ブリミルよ。どうかこのトリステイン王国を、そして今は遠きアルビオンを、あまねく平和へとお導きください……」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――王宮からの帰り道。

 

 ラ・ヴァリエール公爵は竜籠の中で小さく震えていた。彼の手の中では『水のルビー』が、その名に相応しい深き水の如き色を湛え、静かに輝いている。

 

「まさか……このわしが『指輪』を継承することになろうとは……」

 

 愛娘ルイズの〝系統〟を確定させるため、少しのあいだだけマリアンヌ王妃から借り受けることができればよい。ラ・ヴァリエール公爵はそう考えていただけなのだ。

 

 ――水のルビー。

 

 それはトリステイン王家設立の際に『始祖』ブリミルより賜ったとされる、伝説の秘宝である。以後六千年もの間、王家の者たちの手によって護られ……連綿と受け継がれてきた。そして、その伝統ある役目を負うべき者は『王権の継承者』。

 

 そう。本来であれば、この『系統の指輪』を持てる者は、国王。あるいは次期王位継承者として既に定められている者に限られる。これはなにもトリステイン王家だけが守り続けてきた伝統ではない。『始祖』ブリミルの血を引くハルケギニアの三王家全てに共通する習わしなのだ。

 

 ただし、それが時を経るごとに形骸化しつつあることも事実。

 

「ガリアやアルビオンでは今でも戴冠式に用いられているが、トリステインでより重視されているのは指輪ではなく祈祷書のほうだからな……それも、結婚式に詠み上げるだけだ」

 

 ラ・ヴァリエール公爵がこれらの儀式に詳しいのは、若い頃先々代国王フィリップ三世の側に仕えていたことが大きい。自ら「政治が苦手」と公言していたかつての王に、式典の手配に関する報告書の確認やら他国の祝い事に参加するための準備などの諸々を丸投げされてきたからである。

 

 とはいえ、この指輪が代々王権の象徴となってきたのは間違いのない事実なのだ。

 

 本来であれば数年前、新たなロマリア教皇が誕生した際にも『炎のルビー』と呼ばれる始祖の指輪がその地位と共に受け継がれるはずだった。ところがかの秘宝は二十年ほど前に盗難の憂き目に遭い、その行方は現在に至るまで杳として知れない。

 

 その『象徴』が。つい先日までマリアンヌ王妃がその指に填めていた、王家の秘宝が。いつのまにかアンリエッタ姫の右手で静かに輝いていたばかりか、なんと自分の手元へ転がり込んできてしまった。

 

 ――ラ・ヴァリエール公爵は、突如のし掛かってきた重圧に打ち震えていた。

 

 確かに、公爵はトリステインを護るために立たんとしていた。しかし彼は、現王家を打倒して王座を奪おうなどとは、露ほども考えていなかった。

 

 アンリエッタ姫殿下の覚えを良くし、危機を乗り越えるまでは摂政としてマザリーニ枢機卿と共に政治の杖を振るう。あるいは王政府議会を通じて――宮廷内で国に対する危機感を大いに煽り、元王家から自然に王位を禅譲される方向で動く心づもりでいた。そのためにグラモン伯爵をはじめとした信用のおける極々一部の有力貴族と内通し、いずれに転んでも問題がないよう、既に協力を取り付けることに成功している。

 

「既にわかっていたことだが……やはり、マリアンヌ様はご病気であらせられるのだ……」

 

 王権の象徴とも呼べる水のルビーを娘に手渡す。つまり、彼女は王位継承権を完全に放棄し――娘に譲り渡したのだ。にも関わらず指輪に関する口伝を次世代の継承者に一切申し渡していないとは正気の沙汰とは思えない。それに、姫にその情報が伝わっていないということは……マザリーニ枢機卿にも『継承』が行われた事実が知られていないに違いない。公爵はそう判断した。

 

 だが、これは受け取り方によっては――アンリエッタ姫は自ら王位継承権を放棄し、第三位の継承権を持つラ・ヴァリエール公爵へトリステインの王権を平和裏に禅譲したとも言える。

 

 少なくとも、マザリーニ枢機卿がこの指輪の在処を知れば――今後、ラ・ヴァリエール公爵と敵対することはなくなるだろう。いや、むしろ協力して事に当たれるに違いない。何故ならロマリア出身で、かつ教皇候補と目された彼なら、この『系統の指輪』の価値と意味を良く理解しているはずだから。

 

「やはり、これは……わしに与えられた天命なのだろうな……」

 

 正統な王権は、王位継承権を持っていた姫殿下が自らの意志でもって公爵に下賜したのだ。彼がこれから行おうとしていることは、断じて王位簒奪などではない。しかも、ラ・ヴァリエール公爵はアンリエッタ姫に何度も意思確認を取っているのだ。当初は受け取れないと。次に、当家でしばしお預かりすると。そして最後に――ならば意志を継ぎますと。

 

「この事実を姫殿下……それと、マザリーニ枢機卿を交えて再度確認するのがよかろうな。信頼のおける証人たちの前で」

 

 だがしかし、その前にすべきことが山ほどある。公爵は水のルビーを再び絹布に包んで懐中に仕舞うと、手元に置いてあった資料に目を通す。

 

「ふふッ、ジャンは……ワルド子爵は早速期待に応えてくれた。なるほど、高等法院の参事官どもが揃って援軍供出反対を唱えるわけだ。あのリッシュモン高等法院長が『レコン・キスタ』と通じていたとなれば、それも道理だろう」

 

 ――リッシュモン高等法院長。数十年の長きに渡ってトリステイン王家に仕える政治家にして、王国の司法権を担う機関・高等法院の長である。

 

 国の法律を司る重職にありながら、その裏では金に汚い政治家として名を知られた男だ。ラ・ヴァリエール公爵のような誇り高く潔癖な貴族にとって唾棄すべき行為をこれまで散々行ってきているのだが、しかし。いつもその証拠が挙がる寸前で見事逃げ切ってしまうという、実に狡猾な面を持つ人物でもあった。

 

 その男が、今度は王家を他国へ売り渡すに等しい行為をしているのだ。これが明るみになれば、罷免程度では済まない。良くて投獄、普通に考えれば火あぶりの刑は免れない。国家の安全機密を漏らすということ、これ即ち大逆罪であるからだ。

 

「とはいえ、今の段階で奴を抑えるのは色々な意味で危険だ。むしろ、泳がせておいたほうがよかろう。各種情報、周囲の人間、そして金――あらゆる流れを見て、それからだな。あの男を処断するのは」

 

 立派な口髭をしごきながら、公爵は独りごちた。

 

「いや、事と次第によってはこちら側に取り込むことも考えておいたほうがよかろう。あれほど狡猾な男だ、使い方次第では間違いなく今後の役に立つ。毒も、少量ならば薬に変わる。政治というものは綺麗事だけでは済まないものだからな。その程度のことができずして、荒れ狂う国の舵取りなどできるものか」

 

 公爵は完全に腹をくくった。最早、好き嫌いを言っている場合ではないのだ。清濁併せ飲むことができなければこれから先が思いやられる。

 

 そして、ラ・ヴァリエール公爵は……袖口裏の隠しポケットから、既に空となった目薬の瓶を取り出すと――それを片手でいじりながら、善後策を検討し始めた。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――公爵が灰色に染まる覚悟を決めたのと、ほぼ同刻。

 

 ガリアの王都に建つ巨大な宮殿群・ヴェルサルテイル。その一画に在る王の居室にて。ハルケギニア全土を模した壮大な模型を前にした蒼き髪の狂王・ガリア国王ジョゼフ一世は大声で嗤いながら――その両手でもって、何かを動かしていた。

 

「よしよし。これで準備はほぼ整ったな。あとは、こいつをどう取るかだ! 本格的に面白くなってくるのはここからなのだ。よくよく考えて作戦を立てねばならぬな!」

 

 現在彼が手にしているのは、黒曜石で作られた『フネ』の精巧な模型であった。

 

「アルビオン王国艦隊旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号。備砲は、両舷合わせてなんと百八門! おまけに竜騎兵まで積み込める巨大戦艦だ。いいぞ、実に素晴らしい! 『新たな皇帝』が乗るに相応しいフネではないか!」

 

 ジョゼフ王は、その『フネ』をそっと『浮遊大陸』の模型に載せると、かつかつと靴音を響き渡らせながら部屋を歩き回り、色々な角度からそれを眺め回した。

 

「ふ~む。いくつか候補はあるのだが……やはりここか!」

 

 どうやらお気に召す場所が見つかったらしい。模型の上に置いた『フネ』の位置を微妙に変えると――ジョゼフ一世はすぐ側のテーブルから一体の人形を掴み取った。黒髪の、細い形をした女性の人形である。それを愛おしそうに撫で回したあと、王はその耳元に口を近づけた。

 

「聞いているか? 余の可愛い女神(ミューズ)。おお! そうかそうか、ちゃんと聞いていてくれたな! 例の件だがな、置き場所が決まったのだ。そうだ、それだよ! さすがは余のミューズだ、実に話が分かる」

 

 ジョゼフ王は嬉しげな笑みを浮かべると、人形の耳に向かって囁いた。

 

「その場所だがな。レキシントンにしようと思うのだ。なに? お前も賛成してくれるのか! そうかそうか! 実に喜ばしいことだ。では、早速その通りに」

 

 と、そこでジョゼフ王は口を噤んだ。人形から声が聞こえてきたからだ。それを聞いたジョゼフはうんうんと頷くような仕草をしながら、口を開いた。

 

「ほう? 『水の王国』で妙な動き? ふぅむ……なるほど、なるほど。かの御仁は徹底的な保守派。それが何故か支援側に回っていると。さすがは余の女神だ、よくぞ知らせてくれた。素晴らしい働きだ! うむうむ、確かにおかしいぞ? あの国で何かが動こうとしているのか? ようやく白百合の蕾が花開くのか、あるいは……」

 

 そこまで呟いたジョゼフは、目を見開いた。

 

「そうだ! 確か、例の伝説(・・)が動き出していたな! 確か、次の移動先はかの御仁が住まう場所であった! まさかとは思うが、早くもこの遊技(ゲーム)に参戦してきたかッ!?」

 

 そこまで言うと、ジョゼフは再びテーブルの上に手を伸ばした。そこには小さな木箱――洒落た意匠を全面にあしらった宝石箱のようなそれを取り上げると、上蓋を開けて中身を取り出した。

 

 そこに入っていたのは、氷水晶(アイス・クリスタル)から造られた親指大の人形二体であった。

 

 一体は節くれ立った杖を持つ少女を模ったもの。もう一体は先がふたつに割れた異国風のマントを身に纏った少年の人形であった。数ある水晶の中でも特に透明度の高い氷水晶で造られたそれらは、まるで酒杯に浮かべられた氷のように、冷たく、つややかな煌めきを放っていた。

 

 ジョゼフ王はふたつの人形を取り出すと、もう用はないとばかりに宝石箱を放り投げた。床に落ちた木箱はカシャンという鈍い音と共にばらばらになった。

 

「さあ! 先頃出来たばかりの()をここに配置するぞ!」

 

 そう言ってジョゼフが嬉しげに人形を置いたのは、トリステイン東の国境沿いにあるラ・ヴァリエール公爵領が在る場所。

 

「おっと。余としたことが、ついうっかり忘れていた! 急いでかの御仁の駒も造らせねばならぬな! 仮に参戦してこなかったとしても、遊技の駒はたくさんあって困るものではないからな! ははははははッ!!」

 

 ――ハルケギニアの大いなる歴史は、静かに。だが、確実に胎動を始めていた――。

 

 

 




悩む姫様、ビビる公爵、はしゃぐ国王。
一番胃を痛めているのは誰だ!(聞くまでもなかった)


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