――アンスールの月・ティワズの週、虚無の曜日。
つい先程まで心地よい微睡みの中にいたタバサはそこから突然追い出されたことに驚き、きょろきょろと周囲を覗った。ここは親友のキュルケが用意してくれた屋敷の一画。今、彼女がいるのはその部屋に置かれたベッドの中だ。
(ああ、そうか。さっきまでわたしがいた場所は、やっぱり夢の中だったんだ)
それに気付いたタバサは涙を零しそうになった。ところが、そんな彼女の身体をふいに暖かなものが包み込む。
「どうしたの? シャルロット。また怖い夢を見てしまったのかしら?」
それはオルレアン公夫人の柔らかい両腕だった。
「母さま……」
「大丈夫。今こうしてあなたの目の前にいるわたくしは、夢が創り出した幻などではありません。あなたと、あなたのお友達が助けてくれた、正真正銘……本物の母です」
「母さま……ッ!」
(夢じゃない。わたしを包んでいるこの温もりは――夢なんかじゃないのね)
タバサは目の前にいる母の身体を、か細い両腕でぎゅっと抱き締め返した。
オルレアン公夫人を魔法薬の呪縛から救い出してから、既に六日が経過していた。
幸いなことに、夫人には薬による精神面での後遺症は一切なく、身体面についても――体力こそ衰えてたものの、健康体といって差し支えない状態だった。オルレアン公家に仕える忠実な従僕、ペルスランの献身的な看護が、夫人がさらなる病魔に晒される危機から護っていたのだ。
タバサたち母娘はあれからずっと寝所を共にしている。これはオルレアン公夫人とタバサ、双方の心身を安定させる上でも必要な措置であった。
「ほらシャルロット、もうすぐ朝食の時間ですよ。身支度を整えましょう。皆さまをお待たせしてはいけませんからね」
「はい、母さま」
母娘はもう一度だけ抱擁を交わすと、ベッドからゆっくりと起き上がった。
――フォン・ツェルプストー家の離れにあるダイニングルームで、仲間たち全員と従僕のペルスラン、そして焼きたてのパンが漂わせる芳ばしい香りがタバサたち母娘を出迎えた。
「奥さま、お嬢さま。どうぞこちらの席へお着きください。本日の朝食は白パンと、茸のシチューでございます。ワインのほかに絞りたてのミルクと発泡酒もご用意いただいておりますので、いつでもお申し付け下さいませ」
静かにと椅子を引き、ふたりに着席を促したペルスランがそう告げると、オルレアン公夫人は忠実な従僕の顔を見て柔らかく微笑んだ。それから、対面にいるキュルケとふたりの同席者――太公望とコルベールに向かって改めて礼を述べた。
「ツェルプストー家の方々には本当に良くしていただいて、感謝致します。こうして親子揃って食卓を囲むことができるのも、こちらにいる皆さま方のおかげです」
オルレアン公夫人はゆっくりと……しかし確実に昔を取り戻しつつあった。柔らかいパンを口に運び、暖かなシチューで胃を満たすと、参加者全員の顔がほころび、自然と言葉が交わされる。
話題を周囲に振りまくのは、主にキュルケであった。タバサの過去などについては一切触れず、魔法学院での思い出や、みんなでピクニックに出かけたことなど、楽しくも他愛ない話がほとんどだった。そんな話を、オルレアン公夫人は笑みを浮かべながら、嬉しそうに聞いている。
食卓には、ゆったりと、静かで、幸せな時間が流れていた――。
(けれど、いつまでもこの屋敷にはいられない)
母たちを横目で見つめながら、タバサはそう考えていた。
キュルケや彼女の父親はガリアの情勢が定まるまでの間、主従揃って屋敷に逗留してくださっていても構わないとまで言ってくれたのだが……だからといって、その好意に甘え続けるわけにはいかない。
(キュルケの家にこれ以上迷惑をかけないためにも、早くここから立ち去らなければ)
母の治療にとりかかるずっと以前からそれを念頭に置いていたタバサは、太公望に相談した結果――ゲルマニアの首府・ヴィンドボナに母とペルスランの住処を構えるべく動いていた。
太公望曰く『木を隠すなら森の中』。こそこそしていては、かえって目についてしまう。もちろん夫人とペルスランの身元がわからぬよう、ある程度の細工は必要であったが――ツェルプストー家の助力もあり、それら各種問題についても既に解決の目処が立ちつつあった。
(これで、母さまたちの安全は確保できた。あとは、残るもうひとつの目標――ガリア国王ジョゼフを討ち取りさえすれば、父さまの無念を晴らすことができる。それで全てが終わる)
決意を新たにしたタバサであったが、しかし。それは、その夜語られたオルレアン公夫人の言葉によって大きく揺らぐこととなる。
○●○●○●○●
――その日の夕刻。
タバサは従僕のペルスランだけを伴うと、体調への配慮から早めに夕食を済ませ、先に寝室へと戻っていたオルレアン公夫人の元を訪れた。
正統な王座だけではなく、その命までをも奪われた父の無念を晴らしたい。でも、病から回復したばかりの母にそのようなことを告げて、心配をかけたくはない――。
当初はそのように考えていたタバサであったが、しかし。
「わたしがあなたのお母さまだったら、話してもらえないことのほうが悲しいわ」
今後に関する相談を快く受けてくれた親友キュルケと、彼女に――より現実的な意味で同意した太公望とコルベールの勧めによって、母に胸中の全てを打ち明けることに決めた。
ところが。そのオルレアン公夫人の口から告げられた衝撃の事実が、タバサとペルスランを徹底的に打ちのめした。
「簒奪じゃ……ない……?」
タバサは思わず耳を疑った。何かの間違いだ、そう叫び出しそうになった。
「奥さま!? お嬢さまの御身を気遣って、そのようなことを仰っておられるのですね? どうかそうだと言ってください!」
側に控えていた従僕ペルスランも、夫人の言葉を聞いて顔色を変えた。それはそうだろう、彼はオルレアン大公家を襲った悲劇について、現在ガリア国内で流布している噂に加え、国王ジョゼフが魔法を使えないがゆえの逆恨みから、実の弟を手に掛けたと信じて疑わなかったのだから。
「シャルロット。あなたはこれまで何と聞かされていたのです? 父上の死や、わたくしたち家族の処遇について」
憂い顔でそう問うたオルレアン公夫人に、タバサは震える声で答えた。
「イザベラ……姉さまからは、父さまが王になれなかったことに不満を抱き、反乱を企てた。だから秘密裏に処刑されたのだと言われました」
血の気の失せたペルスランが反論のために口を開こうとした。しかし、オルレアン公夫人は視線でそれを制すと、娘を促す。
「他には?」
「父さまは国中の貴族たちに愛されていた。誰もが次の王はシャルルさまだと言って……」
「それはどこで、誰から聞いたの?」
「屋敷で……魔法の先生や、訪ねてきたお客さまから。
「耳にしていたのは、それだけ?」
理不尽に叱られた幼子のような表情で、タバサは続ける。
「王に選ばれたのは、本当は父さまだった。ジョゼフ……伯父上はそれを嫉んで、わたしや母さまを殺すと脅迫した。それで、仕方なく父さまは王位を譲った。けれど、その秘密がバレるのを畏れた伯父上は、父さまを自ら手にかけたと……」
夫人は眉間を押さえ、しばし何かを考えるように黙り込んでいたが……顔を上げ、愛娘と従僕の目を交互に見つめた。
「あなたたちは、それを全部信じていたの?」
小さく頷くタバサと真顔で同意するペルスラン。それを見たオルレアン公夫人は悲しそうな顔をして、首を横に振った。
「もしも本当に脅迫されたのならば、あのひと……オルレアン公なら、まずわたくしたちを保護するために動いたはずです。でも、そのようなことは一切ありませんでした」
「でも、お祖父さまは病床にありながら父さまを次期国王に指名したと!」
必死に言葉を繋ぐタバサを、しかし夫人は言下に否定した。
「いいえ。陛下は間違いなく皇太子ジョゼフ殿下を後継者として指名なされたのです。わたくしは実際にそれを聞いています。他ならぬオルレアン公そのひとの口から。次のガリア国王は兄上に決まった、父上からそう告げられた……と」
タバサは自分の足元が突然がらがらと崩れ去っていくような衝撃に見舞われた。
何故なら、彼女はずっと信じていたからだ。現ガリア国王ジョゼフ一世は、本来王座に在るはずだったタバサの父親を暗殺して王位を簒奪したのみならず、怖ろしい薬によって母を狂わせ……さらには自分たちに叛逆者の汚名を着せ、その地位を徹底的に貶めた正真正銘の『狂王』なのだと。
「そんな馬鹿な! ならば、どうして罪なきご主人さまがジョゼフ王の手によって害されねばならなかったのです!?」
泣き声の入り交じった叫びを上げたペルスランに対し、夫人は静かに……まるで幼子を諭すかのように告げた。
「全く罪がなかったわけではありませぬ。あのひとは自分が国王の座につくために、影で色々と動いていましたから。我が大公家でそれを知っていたのはこのわたくしだけです。実際、オルレアン公が行った裏工作のせいで、ガリアは――国を二分した戦争が起こる寸前だったのですよ」
当時を思い出したのであろう、オルレアン公夫人の顔が暗く陰った。
「その証拠に、あのひとが亡くなった直後……大勢のシャルル派に属する貴族たちが、わたくしに決起を促してきました。おそらく彼らは先王陛下の遺言状が読み上げられた直後から、挙兵の準備を進めていたのでしょうね。王位は魔法の才能溢れるシャルル王子こそが継承すべきである。そう宣言した上で、オルレアン公を旗頭に――ジョゼフ王を追い落とすために」
オルレアン公シャルルが暗殺された翌日。公邸周辺はシャルル派貴族たちが擁する大勢の兵達で溢れかえっていた。
「前もって用意していなければ、あんなに早く兵を動かせるはずがありません」
そう淡々と告げる母に、タバサは震えながら問うた。
「お祖父さまの……遺言状?」
「ええ。先王陛下の葬儀の席で、リュティス大聖堂を預かる大司教が『始祖』の御名において読み上げた遺言状です。次王に皇太子ジョゼフを定めると。臣下の者たちはこれをよく補佐するようにと書かれていました」
「奥さま! その遺言状が偽造されたものであるという可能性も」
ペルスランの必死の訴えを夫人は遮った。
「リュティスの大司教が預かっていた、亡き国王陛下直筆の遺言状ですよ。そのようなものを偽造したとなれば、たとえ王族といえど大逆罪に問われます。遺言状が本物だったからこそ、これまで問題とされなかったのではないのですか?」
先代国王直筆の遺言状。そんなものがあったこと自体、タバサは知らなかった。いや、正確に言うなれば、彼女は覚えていなかっただけなのだ。葬儀の当日……当時まだ幼かったシャルロットの心は、優しい祖父を亡くした悲しみでいっぱいになっていたから。
もしも遺言状の存在を知っていたら、タバサは真っ先に真偽を確認しただろう。それが偽物だった場合、復讐の正当性が増す。現国王打倒のための切り札にすらなりえたからだ。
そこまで考えたところで、聡いタバサは気付いてしまった。
(母さま以外にも、遺言状の存在を知る者は大勢いたはず。なのに、今までその話がわたしの耳に入ってこなかったということは――つまり、それが本物だったから――ジョゼフ王に反旗を翻すための材料にならなかった。そういうこと?)
「いいえ……嘘よ……そんなことって……」
信じられない。いや、信じたくなかった。タバサは首を左右に小さく振りながら、全身から一挙に熱と血の気が失せてしまったかのようにぶるぶると身体を震わせ続ける。
(母さまは薬の後遺症でこんなことを言っているんじゃ……)
そこまで考えてしまったタバサであったが――静かな声で語りかけてきたオルレアン公夫人の声でようやく我に返った。
「シャルロット。あの日……ジョゼフ王が座す宮殿へと向かう馬車の中で、母はあなたにこう言ったはずです。もしも無事に明日を迎えることができたなら、その時は――間違ってもわたくしたち両親の仇を討とうなどと考えてはなりませぬ……と」
その言葉にタバサはビクリと身体を震わせた。
(確かに、母さまから固く念を押されていた。けれど……)
彼女はその言葉に従わず、復讐の道を歩むことを選択したのだ。それこそが自分が生きている意味だと、頑ななまでに信じていたから。
タバサは復讐者としての原点――魔獣の森での出来事を思い起こす。
初めての任務。それは魔獣の合成という禁忌の魔法に手を出したメイジの後始末だった。森を闊歩する
戦うことなんてできないと怖がるシャルロットはイザベラに城から叩き出され、魔の森へ送り込まれた。そこで出会った狩人の少女・ジルの信念がタバサの心を震わせたのだ。
「あんな怖ろしいものとは戦えない。わたしなんかが母さまを助けられるはずがないもの!」
そう言って泣き叫び、過酷な現実から逃げ続けていたシャルロットに喝を入れ、狩りの仕方を教えてくれた平民の少女は、家族の仇――魔竜を仕留めるための努力を惜しまなかった。
そして、魔道具屋で買い入れた〝
そんな彼女が最期に遺した言葉。
『人間ってすごいよね。死ぬ気でやったら、大概のことはできるんだわ……魔法の使えない、平民のあたしにも、あんなバケモノが倒せるくらいに。だから大丈夫、貴族のあんたになら、きっとできるはずだよ。父さんの仇を討つことも、母さんの心を取り戻すことだって……勇気を出すんだ。あんたはもう、立派な狩人なんだから……』
(ジル……わたしは……)
震え続けるタバサの耳を、再び母の言葉が打つ。
「あなたが起てば――間違いなく多くの血が流れることになるでしょう。なればこそ、わたくしは公の仇を討てと猛る貴族たちを鎮め、ジョゼフ王が催した酒宴に出席したのですよ。そうすれば、最悪でも失われるのはわたくしたち家族の命だけで済む。国を分かつことなく、全てが終わると考えたからです」
タバサは脳天を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
彼女の母は王族の一員として、国の安寧を維持するために――己の身を捧げたのだ。娘であるシャルロットの命すらも。
(そうだ、あのとき……母さまは上座についていたジョゼフ王にこう言っていた)
『わたくしだけでご満足ください。なにとぞ、娘だけはお救いくださいますよう』
オルレアン公夫人は愛娘の側へゆっくりと歩み寄ると――彼女の顔を両の手で包み込み、その中にある碧眼をじっと覗き込みながら、毅然とした声で告げた。
「誰かを恨むのならば……そのような選択をしたこのわたくしを。夫の行為を知っていながら止めることができなかった、この母を恨みなさい」
夫人はタバサの身体をひしと抱き締めると、涙声で訴えた。
「シャルロット。今のわたくしには……もう、あなたしかいないのです。どうか、オルレアン公の仇を討とうなどという愚かな真似はやめてちょうだい。わたくしはこれ以上、大切なひとを失う悲しみを味わいたくなどありませぬ」
タバサは母に抱かれながら、その声をただ聞いていることしかできなかった。
「わたくしは、国を乱すことなど望んではおりませぬ。叛逆者の一族として処刑されていたはずのわたくしたち母娘を生かしてくれた義兄上を憎むなど、筋違いにも程があります。この母を臆病者だと罵ってくれても一向にかまいません。だからお願い。復讐など、もう考えないで……」
(母さまの言葉が全て真実なら、わたしがしようとしていたことは――歩もうとしていた復讐の『道』は、根本から間違っていたということ?)
そう思った瞬間。タバサの胸の内でパキンという乾いた音が鳴り響き、水の精霊に立てたはずの不屈の誓いに――大きなヒビが入った。
○●○●○●○●
――母親から衝撃の告白を受けた翌日。
タバサはその場にいた恩人たちに全てを語った。彼女が話し終えるまで、ただ黙って耳を傾けていた太公望は静かな声で尋ねた。
「それで……おぬしはどうしたいのだ?」
父の仇を討つために、今までと同様ひたすら復讐へと突き進むか。それとも、家族と共に平穏無事な生活を営むことを選ぶか。タバサはそのどちらに対しても頷かなかった。
「わたしは知りたくなった。この事件に隠された真実を」
タバサはとつとつと語り始めた。ずっと昔……まだ幼かったころの思い出と、現在胸に抱いている想いを。
「ジョゼフ……伯父さまはとても優しいひとだった。父さまとも仲が良くて、よくお屋敷の中庭にあったポーチで
タバサは綺麗な包み紙にくるまれたお菓子の山を置き、笑顔で幼い自分を抱き上げてくれた伯父の力強い腕の感触を思い出す。心の奥に封印していた、温かい記憶――。
「そんな伯父さまが、何故あんな風に豹変してしまったのか。どうして父さまは死ななければならなかったのか。母さまの言葉が本当なら、今までわたしが聞いてきたたくさんの噂話は? いったい何が正しくて、どれが間違っているのか……わからなくなってしまった」
子供の頃は知らなかった、優しい父の隠された姿。母の言葉が真実なら――タバサは俯いた。
「だからわたしは知らなければならない。今まで、あまりにも無知なままだった。父さまを失った悲しみと憎しみに囚われて――目と耳を塞いでいたのだと思う。そのせいで、母さまが命を賭けてまで行った……無駄な血を流さないための決断を、危うく台無しにするところだった」
俯きながら語るタバサの瞳は、いつしかじんわりと光るもので滲んでいた。
ジルが遺してくれた意志と勇気を否定するつもりなどない。だが、何も知らず、無責任な噂話だけを信じていたあの頃と今とでは、状況がまるきり変わってしまったのだ。
「できるだけ他人に迷惑をかけずに、父さまの仇を討つ。腕を磨いてジョゼフ王の側に近付けば、きっとそれができる。わたしはそう考えていた。そこで思考を停止させてしまっていた。実際には関係のない大勢のひとを巻き込む寸前だったのに」
母の言葉が絶対の真実であるならば。確かに父は――国王への逆心ありと判断され、内紛を起こす前に処断されてもおかしくない。それだけのことをしているのだ。むしろ、今まで母と自分が生かされていたこと自体が奇跡にも等しい。
「それなのに……伯父さまは、反乱勢力の御輿となりうるわたしを、どうしてあの場で殺さなかったのか。あるいはどこかへ軟禁しようとしなかったのか。何故、母さまにあのような薬を飲ませたのか――わたしには、どうしてもわからない」
――もしも、それが肉親への情ゆえにということならば。今の自分たちへの扱いは、いったいどういうことなのか。彼から向けられてくる悪意は、魔法の才能への嫉妬以外にも何かあるのではないか? 正直なところタバサにとって、ジョゼフの行動には謎が多すぎた。
「父さまが暗殺されたという事実は変わらない。でも、どうしてそうなってしまったのか……わたしは本当のことが知りたい。確かめたい。でも、直接ジョゼフ王を問いただすわけにはいかない。母さまが嘘を言った可能性も否定できないから」
残念ながら、真偽を判断するための材料があまりにも少なすぎる。そう呟いたタバサへ、キュルケは言った。
「それなら、必要な情報を集めなきゃいけないわね」
コルベールも「ふーむ……」と首をかしげながら同意した。
「しかし、相当な難問であることは確かですぞ」
キュルケとコルベールの言葉に、タバサはこくりと小さく首を縦に振った。
「そのためには北花壇騎士のままでいることが望ましい。だから……」
タバサの言葉に、さもありなんと太公望は頷く。
「そういうことであれば、わしも花壇騎士団へ所属できたことを好機と捉えることができる。とはいえ、現状のままでは少々手詰まり感があるのも事実だ。まったくもって面倒なことではあるが、この機会にいろいろと探っておくとするかのう」
(母さまから告げられたことを、全て鵜呑みにはできない。いいえ、したくないと思う自分が心の中に住んでいる。だからこそ、わたしは真実を知りたいと願うのだ。そんな子供じみたわがままにまた大切なひとたちを巻き込んでいる……)
それを自覚したタバサは、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。わたしは、本当に迷惑ばかりかけている」
そんなタバサの心からの謝罪を、太公望とキュルケは笑い飛ばした。
「それはお互い様だ。そもそもこれは、わしの判断の甘さから生じた事柄でもあるからのう」
「あたしはね、好きでやっているのよ? いまさらそんなこと気にしないでちょうだい」
残るコルベールも苦笑しながら同意する。
「新たな『道』を歩もうと決意した生徒を支えるのも、私たち教師の役目ですからな」
そう言って、三人はタバサに向けてすっと片手を差し出した。それを見たタバサは今にも泣き出しそうなまでに顔を歪めると――その小さな両手で頼もしき仲間たちの手を取り、ぎゅっと強く握り返した。
――それから。
与えられた部屋に籠もり、タバサたちは改めて情報精査を行った。
オルレアン大公家とガリア王家の間に起こった衝突に関すること。そして――先日判明したばかりの重大な懸念事項について検討を重ねる。
「あれって本物のエルフ……よね?」
そう。あの魔法薬に刷り込まれた〝意志〟は何故エルフの姿をしていたのか。
「侵入者を排除するため?」
タバサの発言に太公望は首を横に振った。
「いや、あれはあくまで薬効を象徴するような存在であって、決して〝夢世界〟への侵入者を怯えさせるような意図で作られたものではなかろう」
そもそも、このハルケギニアには太公望が実行している〝夢渡り〟と同等の効果を持つ魔法は存在していない。それはこれまで太公望が行った調査によって、ほぼ確定している。
(例の失われた系統に属しておるからこそ、表に出て来ないだけなのかもしれぬが……それならそれでえらいことになるがのう)
パートナーの発言を受けたタバサは考えた。すぐさま、とある結論に辿り着く。
「まさか、ジョゼフ王はエルフと通じている……?」
タバサはその考えを口にした後――初めてジョゼフ王に対して心からの畏れを抱いた。
(それなら納得がいく。母さまを狂わせた薬の入手先が一切わからなかったこと。どれほど探し求めても解除薬の入手はおろか、作るための手がかりすら得られなかったことについても……)
ジョゼフとエルフが秘密裏に繋がっているとなれば、これらの謎について容易に説明がつく。しかし、コルベールがその考えを遮った。
「ミス・タバサ。あくまでそれは推論ですぞ? 結論を焦ってはいけません。確か、ガリアの東端はエルフの住まう土地と国境を接していたはず。私が実際にそこへ行ったわけではありませんが、かの地には、ごく僅かながら東方諸国やエルフと交易をする商人たちがいると書物で読んだ記憶があります」
タバサは小さく頷いた。
「アーハンブラ城。
それを聞いた太公望が、首を捻って呟いた。
「もしかすると、そこからの伝手で例の薬を入手したのかもしれぬな。だが、エルフと裏で何らかの取引をしている可能性も否定できない状況だ。どちらにせよ、ジョゼフ王が容易ならざる『手』の持ち主であることに変わりはない。気を引き締めてかからねばのう」
「ミスタの言う通りだわ。どんな状況でも動けるようにしておかなきゃいけないわね」
キュルケの意見に頷いた太公望は「そういえば……」と手をぽんと叩いた。
「その件で思い出したのだが。例の娘御について、タバサの母君に念のため確認をしておいたほうがよかろう。そうでないと、あの者が人質になっていたからこそ、おぬしたちへの監視が緩かったという可能性を捨てきれぬのだ」
――例の娘。夢の中で出逢った、タバサにそっくりの少女。タバサを「おねえさま」と呼び、オルレアン公夫人の記憶の中へ消えていった謎の存在。
「わかった。このあと聞きに行く」
そして、タバサはさらなる衝撃を受けることとなる。
○●○●○●○●
オルレアン公夫人は最初にその話を聞いたとき――心の内に秘めた動揺を娘に悟られまいとするだけで精一杯だった。しかし、その『陽光の少女』が最後に言い残したというメッセージを耳にした途端。両手で顔を覆い、首を左右に何度も激しく振った。
「おおおお……そんな……まさか、あの子が、このわたくしを……?」
オルレアン公夫人は指の隙間から絞り出すような嘆き声を紡ぎ出した。
「許してちょうだい。いいえ、憎んでちょうだい。シャルロット……あなただけではなく、あなたの実の妹すら救ってやれなかった、この無力な母を……」
ごめんなさい……ごめんなさい……。ひたすらにそれだけを呟きながら、両目からとめどなく涙を溢れさせる母を、タバサはただ静かに抱き締めることしかできなかった。
――それからしばしの時が流れ。
ようやく落ち着きを取り戻したオルレアン公夫人は、娘に語り始めた。タバサ――シャルロットが誕生した十五年前。ティールの月・ヘイムダルの週・エオーの曜日、八時十分過ぎにオルレアン公邸の一室で起きた出来事について。
「シャルロット。あなたは知っていますね? ガリア王家の紋章に隠された意味を」
「はい。交差した二本の杖は、遙か昔に王冠を巡り共に倒れた双子の兄弟を慰めるための……」
そこまで言ってタバサは気が付いた。母がこれから自分に対して何を話そうとしているのか。
「あの日、この世に生まれ落ちたのは……シャルロット、あなただけではなかったのです。あの運命の日。わたくしたち夫婦は天よりふたりの子を授かりました」
――ガリア王家における最大の禁忌、それが『双子』。
かつて国内で起きた血で血を洗うような内紛と悲劇を繰り返さぬため、王家に連なる者に双子が生まれると、後に生を受けた者の命を奪う、あるいは二度と世間に戻ることが叶わぬ程遠い場所へ流す――捨てるという習慣がある。
「ガリア王族の禁忌がゆえに……あの子の命を奪うか、あるいは決して他人の目に触れぬ場所へと流すか。そのどちらかを選ぶしかなかったのです。何故なら、あのときのわたくしたちは王族であることを捨てることすら許されなかったから!」
オルレアン公夫人はタバサの身体にしがみつき、大声で泣いた。
「だから、わたくしたち夫婦は選んだのです。あなたの妹を遙か遠い地へ捨てることを。あの娘がその後どうなったのか……どこへ流されたのかすら、わたくしは知りません。我が子の行方を尋ねることすら許されなかったのです――禁忌がゆえに」
滂沱の涙を流しながら、許しを請う巡礼者のように夫人は言葉を紡いだ。
「それなのに……あの子は……名前すら、つけてやることができなかったあの子が! この非情な母を、ずっと、護って……くれ……て……おお、おおお……!」
泣きじゃくる母親を胸に抱きながら、タバサは震えていた。
(わたしに双子の妹がいた。しかも妹は……遠い地へ捨てられて、行方不明……)
〝
十二歳で劇的に変わった運命、同じ『雪風』を纏う者、復讐を胸に抱いて歩んだ壮絶な人生、そして――生き別れになった双子の兄弟との邂逅。もはや偶然などという言葉では語れない。これはきっと、必然だったのだ。
(もしも、わたしが彼と出会うことなく、今の『道』をそのまま突き進んでいたら……)
父を殺されたことに対する復讐だけではなく、王位の正当性を理由に軍勢を率いて、現王家を滅ぼすために動いていたのかもしれない。そしてその先に――血を分けた双子の妹と敵対する運命が待ち受けていたのだ。
その後ガリアは大きく衰退し……ついには、ひとが住める場所ではなくなるほどに朽ち荒れ果ててしまうのかもしれない。
(でも、わたしたちガリアの民は、彼ら〝コンロン山〟のひとびとのように移住可能な土地も、それを可能とする『星の海を征く船』も持っていない。だから、きっとその後に――ほぼ間違いなく、住む場所を失った民と、そうでない者たちの間で争いが起こる。ハルケギニア全土を巻き込むほどに大きな戦乱が……)
この地に住まう全ての者が、生きるための場所を確保するために、杖を、あるいは剣を持つ。それをきっかけに引き起こされる世界規模の戦争。そんなことになれば、間違いなく大勢の血が流れるだろう。もしかすると……それだけでは収まらず、エルフたちと争うのかもしれない。
そうして、最後には全てが滅んでしまう――。
(だからこそ『始祖』ブリミルは、それを防ぐために召喚事故を起こし、彼をわたしの元へ遣わしたのだ。わたしの個人的な復讐をきっかけに始まるガリアの衰退と、それに続く滅亡の運命を回避するために。彼の故郷と同じ、滅びへの『道』を歩ませないために……)
ブリミル教に対する信仰心が極端に薄いタバサがそう思い込んでしまうほどに、ふたりの境遇は似ていた。似過ぎていた。だからこそタバサは決意した。ならば、わたしは歩むべき『道』を――ここで大きく変えようと。
「母さま、もう泣かないで。わたしがあの子を探し出してくるから」
「……え?」
「不思議なことだけれど、わたしにはわかるの。妹は……どこかで無事に生きているって」
娘の言葉に、オルレアン公夫人は顔を上げた。
「そのためにも、わたしは今のまま
涙で潤んだ母の目をじっと見つめながら、タバサは言葉を続けた。
「でも、今更ジョゼフ王に忠誠を誓うこともできません。こうして母さまたちを逃がしてしまってから、それを正直に明かしても……叛意ありと受け取られて、今度こそ母娘揃ってヴェルサルテイル宮殿の城壁に首を並べることになりますから」
あの『人形』とのすり替え工作が絶対に見破られないなどという保障はどこにもない。だが、タバサはそれを隠し、愛する母に向かって微笑んだ。
「シャルロット、あなた……何を言って……」
「だから、今までと変わらぬ態度で王家に仕え続けます。北花壇警護騎士団はガリアの裏に通じています。あそこなら、妹のもとへ繋がる何かが見つかるでしょう。そこで、あの子を探し出すことができたなら……」
母を抱く腕に力を込め、タバサは新たな誓いを述べた。
「家族揃って、仲良く静かに暮らしましょう。貴族の地位も、あの湖畔の屋敷も、何もかも捨てて……ガリアから遠く離れた……ここ、ゲルマニアの地で」
「おお、シャルロット……! おお、おおおお……」
――こうして。『雪風』を纏う少女は本来歩むはずであった歴史から大きく逸れ……父の死に関する真実と、妹の行方を追うための『道』を歩み始めた。
実際には相打ちではなく、トドメを刺したのはタバサでした。
しかしそのための隙を作り、覚醒のきっかけを作ったのがジル。
そのため、こういう表記としました。