――一週間に渡るラ・ヴァリエール公爵家での歓待が終了したその日。
公爵家から借り受けた風竜の背に乗り――フォン・ツェルプストー家との関係や国境警備上の都合により竜籠を出せないことを詫びる公爵に過分の気遣いに対する感謝の言葉を述べたタバサたち一行は、一路帝政ゲルマニアの地へと向け飛び立とうとしていた。
「ゲルマニアかあ。トリステインとは違う国なんだろ?」
彼らに同行するコルベールをうらやましげに見遣る才人。
「いいなあ、おれもついていきたいなあ……」
これまで外国旅行の経験などなかった彼は、見知らぬ異国に興味津々といった様子だ。
「おぬしはルイズの護衛としてここに残るよう、伝えておったはずだがのう?」
「なら、ルイズも俺と一緒に連れてってくれればいいじゃんか!」
言い合うふたりの側に、すすすっとキュルケが近付いてきた。彼女は才人の耳元に顔を近付けると、彼にしか聞こえない程小さな声で囁く。
「あなた、ルイズとふたりっきりになれるチャンスをふいにするわけ?」
「ハッ! 護衛の職務を全うするであります!」
顔を真っ赤にしながらビシリと敬礼のポーズで直立する才人。キュルケによくやったと言わんばかりにグッと親指を立てて見せる太公望。
「ゲルマニアへの道中、くれぐれも気をつけるのじゃぞ」
そう言ってタバサたちを見送るオールド・オスマンは、この後ラ・ヴァリエール公爵と国の教育機関に関する重要な話があるとのことで、あと1週間ほど逗留することが決まっていた。
「もしも夏休み中に次の冒険が決まったら、必ず連絡をくれたまえよ」
「あ! その時は是非ぼくも参加させて欲しいな」
「わたしも! 実家にいるから声をかけてね。絶対よ!」
ギーシュ・レイナール・モンモランシーの三名は、夏休み中はそれぞれ実家へ戻ることになっている。公爵家から沢山の土産を持たされた彼らは、この歓待期間中の話題も含め、しばらくの間家族との会話に困ることはないだろう。
「ゲルマニアでの御用がお済みになられたら、是非また当家へお越し下さい」
『体調を万全にした上で、かつ最高の状態であの戦いの続きを……!』
「あら、母さま。そう何度も我が家へ長逗留をしていただくわけにはいきませんわ。皆さまには他にも大切な御用がおありになるんですから」
カリーヌ夫人は太公望へ再会という名の次回挑戦状を叩き付けようとしていたものの、その行動を完全に見抜いて――もとい『掴み取って』いたカトレアによって阻止されていた。若き頃と変わらず、彼女は本当に懲りていないのであった。
……そのせいで、ラ・ヴァリエール公爵が常に懐に忍び込ませている薬瓶の数が増えたのは、公爵本人だけが知る秘密だ。
いっぽう、今回の歓待総指揮を務めたエレオノールは妹に心の中で喝采を浴びせつつ、さりげなく太公望と再び談話を行う機会の取り付けに成功していた。タバサたち主従がトリステイン王立図書館への外国人立ち入り許可証を得るための手助けをするという
「それでは、ミス・タバサ。来月末にトリスタニアでお会いしましょう」
「ご配慮、痛み入ります」
感謝の意を述べるタバサ。大の読書好きである彼女にとって、トリステインの王立図書館に立ち入り可能になるというのは本当に喜ばしいことなのである。
太公望にとっても、この許可証取得に関する助力の申し出は、情報取得の範囲がさらに広がるという意味で本当に有り難かった。よって、彼はエレオノール女史へ心からの礼を返した。
なお、そのエレオノールが、内心で「計画通り!」などと叫び声を上げながら両拳を握り締めていることは、彼女の妹であるカトレアしか知らない極秘事項である。
そう、エレオノールは――この歓待期間中に、完全に恋をしてしまっていたのだ。科学という名の、異国よりもたらされた学問に。よって、それを知る太公望と会話する機会をできるだけ多く持ちたい。彼女がそう考えるのは、自明の理であった。
そんなエレオノールの行動を、本人とカトレア、そして太公望を除く周囲が、全く別の意味に捉えてしまい――渦中の者たちにとって、いろいろと面倒な騒動が持ち上がってくるのだが、この時はまだ、そのようなことは誰も……想像だにしていなかった。
○●○●○●○●
――その翌日、アンスールの月第三週・ユルの曜日。
帝政ゲルマニア――トリステインとの国境沿いにあるフォン・ツェルプストー家領内の屋敷に、ベッドの上で静かな寝息を立てているひとりの女性がいた。
彼女の名はオルレアン公夫人。タバサの母親である。出所不明の魔法薬を飲まされ、強制的に心を狂わされてしまった彼女は現在〝
ベッドのすぐ側に置かれたふたつの椅子にはタバサの〝遍在〟とオルレアン公家の忠実な従僕ペルスランが腰掛け、患者と――治療のために夫人の〝夢〟の中へと旅立っていった者たちが眠りから覚めるのをただ静かに……祈るような面持ちで見守っている。
そして、オルレアン公夫人の〝夢の世界〟の内部に構築された『伏羲の部屋』では、大公夫人の治療方針とその理由について、詳細な
一人掛けのソファーに腰掛けた伏羲――現在は太公望からこの姿になっている為、本章においては以後こちらの名前で記述する――が、正面に展開した大きな『窓』を参加者たちに見せながら、患者の状態について詳しく解説している。
現在『窓』に映し出されているのは、
「なるほど。たしかにこれは火系統の者にしかできない仕事ですな」
最初にこの患者の〝解呪〟に関する簡単な説明を受けたコルベールは、その時点でどうして火系統である自分が〝治療〟という本来水メイジの独壇場に呼ばれたのかを即座に理解した。だが、同じ火の使い手たるキュルケはいまいちその理由に納得がいっていなかった。
「〝
そんな彼女の疑問に答えたのは、太公望ではなくコルベールだ。
「治療施設が整っていない場所で早急に止血が必要となったときに、応急処置として〝火刃〟を使うことがあるんだ。これは切断面を火で焼くことによって血管の断面を塞ぎ、それ以上の出血を防ぐ効果が見込めるからなのです」
そういうことですよね? そう確認を取ってきたコルベールに伏羲は頷いた。
「この
そう言って伏羲が『打神鞭』を一振りすると――患者の身体の一部が大写しになった。
「……ッ!」
「なに、これ……!」
それを見た参加者全員が息を飲んだ。何故なら、その蔦はタバサの母親を縛り付けているのみならず、体内に深く食い込んでいたからだ。
「この薬の性質の悪さはここにある。魂魄――患者の本質を構成するモノの奥深くに食い込んで、その記憶を利用することにより、精神を狂わせながらも生命活動には一切の影響を及ぼさぬように工夫されておる。つまり、彼女をあえて生かさず殺さずの状態に保ち続けておるのだ」
「普通の〝解除薬〟で治すことができなかったのは、このせいなの?」
タバサの問いに、伏羲は首を縦に振った。
「この蔦を枯らす効果を持つ〝除草薬〟ならばともかく、これだけ複雑に絡みついているものを、通常の手段で解きほぐすのは無理であろう。一応、こういったモノを一気に〝解除〟する術もあるのだが……今回の症状に対しては、正直危なすぎて使えないのだ」
「差し支えなければ、その理由を教えていただいてもよろしいですかな?」
眼鏡の位置を直しつつ質問を飛ばしてきたコルベールに、伏羲は頷いた。
「コルベール殿の疑問はもっともだ。実はその〝術〟で強制的に蔦を解除してしまうとだな……奥方の身体を魔法薬を飲む前の状態にまで
それを聞いたタバサの顔から、ざあっと血の気が引いた。あの日――自分の身代わりとなって、ワイングラスの『毒』をあおり、宮殿の床へ倒れ込んだ母親の姿は、今でも彼女の脳裏に強く焼き付いていたからだ。
そんなタバサの様子を見たキュルケは、どうして彼の技術で〝解呪〟してはいけないのか、即座に悟った。
「なるほどね。その時の恐怖とか思い出が一気に蘇ることによって、タバサのお母さまの心を根本から破壊してしまうかもしれない。だから危なくて使えないってことでいいのかしら?」
「そういうことだ。心というものは非常に繊細なものだからのう」
キュルケの解答に頷きつつ、伏羲は先を続けた。
「さらに言うとだな、あの蔦は、まるで血管のように奥方の記憶を『扉』の奥深くまで流し、巡らせている。よって、焼き塞ぐ効果を持つ火系統以外の〝刃〟で無理矢理切断してしまうと、その切り口から奥方の持つ記憶が大量に外に漏れ出してしまい……これまた心を破壊してしまう危険性があるのだ」
そういう意味ではルイズに〝刃〟の魔法を使わせることによって、彼女の系統を完全に絞れたかもしれないのだが……失敗による爆発の危険があることと、〝虚無の刃〟が一体どんなものであるのか全く不明であった為、オスマン氏との話し合いの結果、ルイズに〝刃〟の魔法を使わせるのは禁止したという裏事情がある。
「かといって普通の小刀を持ち込んで、熱して使うというわけにもいかぬ。この大事に慣れない道具を用いるのは危険であるし、なによりここは心象世界だ。手に持っている、それが可能だといったようなイメージを強く描き出す能力こそが最も重要だからのう」
ここまで語った伏羲は、ふうっと大きなため息を吐いた。
(本来であればデルフリンガーを持つ才人にも同行してもらいたかったのだが……)
〝夢〟の世界は強いイメージを具現化する〝場〟でもある。よって、心の弱い者が下手に関わろうとすると、最悪の場合――心や記憶だけではなく、魂魄ごと破壊されてしまう。
そのため、現在参加している者たちやデルフリンガーはまだしも、この壊れかけた夢の世界に精神的逆境に弱い才人を連れてくることに危険を感じてしまったのだ。
「よって、この切り離し作業に関しては優秀な火系統の使い手であるコルベール殿とキュルケのふたりに頼みたいのだ。事ここに至るまで詳しい事情を説明できず、大変申し訳なかった」
そう言って頭を下げた伏羲に対し、コルベールとキュルケは気にするなといわんばかりの笑顔を見せ……強く頷いた。
「わたしは何をすればいい?」
母を助けるために何かがしたい。そんな切なる思いが込められたタバサの声に、伏羲は真剣な顔で答えた。
「わしは彼ら蔦を切る順番や切り取り方を詳しく伝える指示役に回らねばならぬので、タバサはふたりが効率よく切断作業ができるよう、彼らの側について補佐してやってほしい。かなり根気の要る作業なので、手伝ってくれる者が絶対に必要なのだ」
「わかった」
それから、伏羲は再び手元の『窓』を見た。そこには、以前の診察時に記録したデータが保存されている。それを現在映し出されている画像と重ねると――あきらかに蔦の本数が増えているのが見て取れた。
「この蔦は奥方の記憶を象徴するものなのだ。よって、新しい記憶が増えれば増えるだけ、蔦の本数も増えてゆく。できれば今日中に全て魂魄から切り離したい」
伏羲の言葉に全員が頷いた。
「それと……これは今ここにいる者たちならば、既に充分承知しておることとは思うが、念のため言っておく。治療中、あるいは治療前になんらかの妨害が入る可能性が高い。ここは〝夢〟という他者が支配する〝場〟だ。何が起こっても不思議ではないので、決して警戒を怠らぬよう頼む」
そう告げた伏羲の言葉へ、コルベールがさらに補足すべく口を開いた。
「むしろ、絶対に妨害が入る。そのぐらいの心づもりで事に当たったほうがよいでしょう」
頼もしい先達の言葉に、女子生徒ふたりも了解したとばかりに首を縦に振る。
「あの扉の奥については、開けてみるまで何があるかわからぬ。だが、間違いなく魔法薬の根幹となっているモノが居座っておることは確かであろう。よいか、最後まで決して油断することのないよう常に周囲を警戒の上、行動するのだ。また、何らかの異常を発見した場合はすぐにわしへ知らせるのだぞ」
伏羲の号令に全員が了承の意を表明し――彼らは患者の処へ向かった。
○●○●○●○●
――それから数分後。
幸いなことに、タバサの母が捕らわれている場所まで何事もなく到達することができた。伏羲は手元にいくつかの『窓』を展開すると、コルベールとキュルケのふたりに早速指示を与える。
もしもこの場面を才人が見ていたら。
「医療ドラマに出てくる主治医の先生と執刀医みたいだ」
そう評したかもしれない。
実際彼らが行っている治療は心臓外科手術のようであった。魂魄を傷付けないよう、杖の先に極細の〝炎刃〟を出現させて、患部を慎重に切り進めるコルベールが執刀医である。
「ミス・ツェルプストー。右後方部位の蔦の細部切り離しが完了した。同箇所残りの範囲については君の〝炎〟で焼いてくれたまえ。くれぐれも慎重に」
「承知しました、ミスタ・コルベール」
そんな彼に付き従うように作業を進めているキュルケが、執刀助手たる存在だ。
「コルベール殿。次は、その隣の蔦を切り離してくれ」
「今、ミスタが指差している、この蔦ですな?」
「そうだ。食い込みが先程の箇所より酷い。難しい箇所だが、やれそうか?」
「任せてください。こういう細かい作業は得意中の得意ですからな」
手元の『モニター兼拡大鏡』を見ながら彼らに指示を飛ばす伏羲が、主治医兼指導医だ。
いっぽうタバサはというと。彼らが切り離した蔦を部屋の隅に片付けつつ、周囲の警戒を行っていたのだが……少々手持ち無沙汰になっていたことは否めない。〝遍在〟が出せるぶん、余計にそう感じてしまうのだろう。
(他にも、わたしにできることはない?)
そう考えたタバサは周囲警戒の手を緩めることなく、作業を行っているコルベールたちを詳細に観察した。彼らは非常に細かい手業を要求される上に、長時間ずっと火を使っているせいか、全身がぐっしょりと汗に濡れている。
「タイコーボー」
「どうした?」
「ふたりの身体を魔法で冷やしてあげてもいい?」
そのタバサの申し出に、伏羲はもちろんのことコルベールとキュルケも破顔した。
「もちろんだ。ただし、彼らの手元を狂わせないよう、そっとだぞ」
「わかった」
その声と共に、執刀医たちの元へ冷たい風がぶわっと吹き込んだ。小さな雪粒が混じった空気が、彼らの火照った身体を適度に冷やしてゆく。
「おおっ、これは素晴らしい!」
「すっごく涼しいわ! ありがと、タバサ」
ふたりから飛んできた感謝の声に、タバサはぽつりと……喜びの感情を込めて呟いた。
「これが、いちばん効率がいいから」
涼しい風に煽られ作業ははかどった。特にコルベールの〝炎刃〟が冴え渡ってきた。火を実戦で扱うための勘が戻ってきたこともあるのだろう。だが、それ以上に。
「私の〝火〟に、こんな使い道があるとは! やはり、オールド・オスマンが指し示してくれた『道』は正しかった。そして、ミスタの『切り開く』という言葉も」
このような変則的な使い方をする機会など、変わり映えのしない日常生活の中ではまずありえないことだろう。だが、それでも。再び〝火〟の担い手として立ち上がったばかりの『炎蛇』コルベールの背中を押す〝力〟となるには、充分であった。
「壊すことしかできなかった私の〝火〟が、まさかこんな風に……ひとを癒やすための役に立てるとは、思わなかった!」
『蔦』を焼き切るたびに、患者の顔色が目に見えて良くなっていくのだ。もっと早く、このひとを助け出してやりたい。コルベールの手技は、さらに鋭く輝きを放ち始めた。
「あたしも、ずっと火は破壊と情熱の象徴だと信じていましたわ。でも、使い方次第でこんなふうにひとを助けることもできるんだって、知ることができました」
キュルケの言葉にコルベールは実に嬉しそうな声で同意した。そんな彼の貌からは、以前垣間見えた暗い影は跡形もなく消え失せている。
「そうだな、ミス・ツェルプストー。きみの言う通りだ。だから、私はもっと学び続けようと思う。火には破壊以外にも多くの可能性が詰まっていることが改めて証明されたのだから」
「ええ。あたしも、これからはもっと真面目に授業を受けようと思います。先生に教えていただきたいこともたくさんありますし」
「そうか、そうかッ! きみの学問に対する情熱に〝火〟がついたのだね。実に素晴らしいことだ! 私が知っていることでよければ、いつでも教えてあげよう。熱心な生徒は大歓迎だよ!」
コルベールの答えに、キュルケは妖艶かつ意味ありげな笑みを向けた。それを見たタバサは親友の心に別の〝火〟が灯ったことを察したのだが……小さく微笑んだだけで、何も言うことはなかった。
……いっぽう『炎の女王』に目を付けられたコルベールのほうはというと。
そんな彼女たちの心の移り変わりには一切気付かず、『夢』へ持ち込んでいたスペア――2本目の杖を併用し、なんと二刀流で〝炎刃〟を扱い始めた。
その杖捌き……もとい〝炎刃〟捌きは、まるで舞踏の名人が行う、煌びやかな剣舞のようであった。もともと、繊細な手業を要求される各種科学実験を、それこそ毎日のように繰り返していた『発明家』コルベールにとって、こういった細かい作業は、まさしく独壇場だといっても差し支えないだろう。
水を得た魚……もとい酸素を得た炎の如く、彼の手とその指先は文字通り踊り狂った。指示をする伏羲など、それを見て、
「ぬおおおッ! 回転が早すぎて、次の径路指定が追いつかぬわッ! これでは『炎蛇』ではなく『
などと慌てふためきながらモニタと格闘している程だ。
それから。
ごく稀に、極限の集中による疲れからキュルケの手元が狂いそうになることもあったが、その度に他の全員がフォローに周り、結果――八時間ほどで魂魄の切り離し手術は無事成功した。
○●○●○●○●
……そして。
「皆の者、ご苦労であった。これにて魂魄の摘出作業は完了だ。夫人の魂魄が癒着――つまり、再び扉に繋がれることのないよう、いったん『わしの部屋』へ移送の上、保護する」
長時間に渡る作業のため疲れ切った――だが、達成感に溢れた治療チーム全員の顔を見渡しながらそう宣言した伏羲が、切り離したオルレアン公夫人の魂魄を『自分の部屋』へ運ぼうとした途端。突如オルレアン公夫人の側に現れた闖入者によって、行動を遮られてしまった。
その闖入者は――ふたつの〝光〟であった。
片方は、夫人の魂魄、その手元から飛び出した……冷たく青い〝光〟。
もう片方は、切り離して隅に片付けておいた蔦の中から現れた暖かい〝光〟。
それらはいつしか人間の姿に変わり――ふたりの小さな少女となった。
ひとりは赤い上衣と純白の乗馬ズボンを身につけた、十一~十二歳程度の幼い娘。短く切り揃えた蒼い髪と凍り付いた湖の如き色の瞳から、真冬の冷気のように刺し込んでくる視線を侵入者たちに向けてきた。
もうひとりは傍らの少女とは真逆。真っ白な上衣を纏い、深紅の乗馬ズボンを履き、腰まで届く蒼い髪を揺らしている。だが、その目に宿る光は純真無垢といって差し支えない輝きだ。こちらは思いも寄らぬ来客に好奇心を抑えきれないといった風情で、オルレアン公夫人の側にちょこんと座り込んでいる。
ふたりの少女のうちのひとりが夫人の上に覆い被さるようにして、伏羲たち全員が近寄ろうとするのを遮った。
「このひとをつれていかないで! いじめないで!」
全身に冷気を纏う少女が大声で叫ぶと、先程まで陽光のような笑顔を振りまいていた娘が顔を曇らせた。だが、その口が開かれることはなかった。その代わりに小さく首を傾げ、隣にいる少女を見つめる。
「このひとたちは、きっとおかあさまをいじめにきたのよ」
真冬の少女がそう言うと、陽光のような笑みを浮かべていた白衣の少女も一緒になって伏羲たち一行を睨み付けてきた。改めてよく見てみると、ふたりの顔はそっくりだった。もしかすると双子の姉妹なのかもしれない。
思いも寄らぬ闖入者に、さすがの伏羲も困惑した。彼女たちから悪意の類は一切感じられない。かといって、この〝場〟を支配する『空間使い』というわけでもなさそうだ。それに……この少女たちの顔には見覚えがあった。それもそのはず。
「この子たち、ひょっとして……小さい頃のタバサ?」
キュルケの声に、全員が改めて少女たちの顔を見た。確かにタバサの姉妹――いや、本人そのものと言えるくらい彼女たちはよく似ていた。眼鏡をかけさせて横一列に並べたら、間違いなくタバサの血縁者と判断されるであろう。
「なるほど、この娘たちは奥方の『過ぎ去りし記憶の欠片』であるのか? いや、ちょっと違うな。これはひょっとすると……?」
闖入者を分析していた伏羲の横から一歩前へと進み出た者がいた。それはタバサであった。
「だめッ! つれていっちゃだめ!」
ふたつの瞳に涙をいっぱいに溜めた『冬風』の少女は大声で叫んだ。『陽光』の少女も、声こそ上げないものの、全身を震わせながら、ついには夫人を庇うように身体を投げ出した。いや、実際庇っているのであろう。
タバサはもちろんその少女たちの姿を見知っていた。いや――ある程度、感覚と過去の記憶によって理解をしていたといったほうが正しいだろう。だから、タバサは伏羲たちを静かに制すると一歩前へ進み、ふたりに声をかけた。
「そこをどいて、シャルロット。わたしたちは母さまを助けに来たの」
その名前を聞いた少女たちは目を大きく見開くと、口を開いた。
「あなたのおなまえは?」
「タバサ」
「うそ。だって、それはわたしの……ほんとうのなまえなのよ?」
今度はそれを耳にしたタバサの両目が見開かれた。
(この子たちは……なるほど、そういうこと)
母の魂を守ろうとしている者たちの正体に気が付いたタバサは、振り返って視線で仲間たちを制すると――改めて少女たちへと向き直り、ふたりに聞かせるに相応しい回答を提示した。
「知ってる。わたしたちは名前を取り替えっこしたから」
「じゃあ、あなたはほんとうのシャルロットなの?」
「そう」
(人形には、本当に魂が宿るのだ)
――タバサは心の内で呟いた。
かつて、太公望と共に任務で訪れたガリアの山村アンブラン。そこは人形たちの住まう巨大な箱庭だった。村を出るとき、パートナーが呟いた言葉。
「あそこに宿る魂魄は、全て本物であったよ――」
その台詞が鮮やかにタバサの脳裏へと蘇る。
魔法薬によって狂わされた母が、自分の娘だと思い込んで守り続けた者。今、タバサの目の前にいるのは……彼女が、かつて自分の本当の名前を託した相手。フェルト生地で造られた、手のひらほどの小さな人形――その魂なのだ。
「ありがとう。あなたは、ずっとこうして母さまを守ってくれていたのね」
今から三年ほど前――当時まだ『ドット』メイジだったシャルロットに下った討伐任務。それは実質処刑宣告に等しいほど厳しく、険しいものだった。だが、その逆境を跳ね返したことが、
「これはみんな夢。父さまが死んでしまったのも、優しかった伯父さまがあんなに怖い顔をしていたのも、母さまがおかしくなってしまったのも……全部夢なんだ。目が覚めたら、きっとみんな元通りになるはず……」
そんなふうに現実逃避することしかできなかった少女に『雪風』を纏わせた。
イザベラから〝騎士〟の地位を与えられた当時を思い出す。
「おまえは今日からわたしの召使いになるんだ。何か肩書きがなくちゃ、王家の仕事を任せられないからね」
放って寄越された羊皮紙は『
「ああ、そうそう。大切なことを言い忘れていたよ。おまえは今日からシャルロットって名を捨てるんだ。なんたって、もう王族じゃないんだからね。けど、慈悲深いわたしは好きな名前を選ぶことを許してあげる。さあ、今すぐ決めるんだよ!」
彼女は狂わされた母が掻き抱いていた人形の名を名乗ろうと決めた。何故なら、母はその人形を自分だと信じて疑わず、ひたすらに守ろうとしてくれていたから。自分の心はあの人形と共に在るのだ。そう思い込むことによって、全ての感情を――己の内側に封印することを決意した。
「王族を待たせるなんて、いい度胸じゃないか。さあ、はやく言いな!」
少女は静かに目を閉じると、がなり立てている従姉妹に新たな名を告げた。
「タバサ」
――こうして。大公姫の地位だけでなく、真の名をも剥奪された十二歳の少女は……感情のない『人形姫』タバサになった。過去の幸福な思い出を、自分の本当の名前と共に全て――その小さな人形『シャルロット』に託して。
(『シャルロット』はあのときわたしが願った通り、母さまの側にいてくれたのね)
封印した過去を思い出したタバサの瞳から、一筋の涙が零れて落ちた。
そんなタバサの姿に驚いたのであろう
「なかないで。ねえ、ほんとうに? あなたはほんとうのシャルロットなの?」
「どうすれば信じてもらえる?」
その問いに冬風の少女――小さな人形の魂は質問を返すことによって答えた。
「わたしは、なあに?」
「母さまが買ってくれた、可愛いフェルトのお人形」
「つぎのしつもん。わたしのからだは、いまどこにいるの?」
「オルレアン公領のお屋敷。『新しい母さま』を守ってくれている」
「さいごのしつもん。ほんとうに、おかあさまをたすけてくれる?」
「絶対に救い出す」
その答えに『シャルロット』は心から満足げな微笑みを浮かべ、立ち上がった。
「なら、わたしはタバサのなかにもどる。あなたも、シャルロットにもどるのよ」
そう呟いた『人形』はタバサの元へ駆け寄ると、その胸目掛けて飛び込んできた。少女の柔らかな身体をしっかりと受け止めたタバサは、そのままぎゅっと抱き締めた。
すると――『人形』の魂は再び笑顔を見せた。晴れ渡った青空のような笑みを浮かべた少女はきらきらと輝き始め――やがて、光の粒になってしまった。
そのうちの半分がタバサの身体へ染み込むように消えてゆき――残りの半分は遙か天上へと飛び去っていった。その去りゆく姿は、夜空で尾を引く流れ星のようであった。
「ありがとう……タバサ」
自分の中に『感情』を戻し、オルレアン公家の屋敷に在る『本体』に戻ってゆく人形に、タバサ――遂に『シャルロット姫』としての心を取り戻した少女は、静かに礼の言葉を述べた。
そして。残るもうひとりの少女はそんなふたりを寂しげに見つめると、こう呟いた。
「おねえさま、わたしからもおねがい。おかあさまをたすけてあげて」
その言葉にタバサは驚いた。この少女は自分自身――かつて捨て去った、シャルロット姫としての記憶の残滓だと思い込んでいたからだ。しかし、彼女は確かに自分をこう呼んだ。
「おねえさま」
……と。
「あなたは、誰?」
震える声で問うたタバサへ、陽光の少女は悲しげな眼差しを向けると……再び暖かな光となり、オルレアン公夫人の中へと消えていった。
○●○●○●○●
――それから約一時間後。
蔦を切り離した扉から薬効が漏れ出さぬよう厳重な封印を施した後に、改めてタバサの母親の魂魄を『自分の部屋』に用意したベッドへと寝かせた伏羲は外で待っているペルスランに〝遍在〟を通して治療状況の報告をするようタバサへ告げると、残りの二名に睡眠を取らせた。
「夢の中で眠るだなんて、なんだか変な気分だわ」
などと言っていたキュルケだったが、参加者全員の中で最も早く眠りに落ちた。部屋に戻った当初は新たに提供されたベッドその他に興味津々といった風情であったコルベールも、さすがに疲れには勝てなかったのであろう。自分用に用意された寝床に入って早々に寝息を立て始めた。
そしてタバサの治療経過報告が済んだ後、念のため、先程の少女ふたりに関する最終確認を行うことにした。扉を開けた後、同じような乱入者に作業を妨害されては非常に面倒だからである。たとえ敵対の意志がないにしても……だ。
「片方の娘は間違いなく例の『人形のタバサ』に宿った魂魄の片割れであった。おそらくだが、タバサが自分の心と感情を封印しようと決意したとき、その強い〝意志〟によって、魂魄の一部が新たな魂となって人形に乗り移ったのであろう」
(もしやすると、この世界の人間はわしや『道標』のように、魂魄を〝分割〟できる資質を持つのかもしれぬ)
それから、伏羲は先程見た『陽光』の少女を『窓』に映し出した。
「さて、問題はこの娘だのう」
伏羲の言葉にタバサも頷いた。『人形』の魂でも、自分の記憶の残滓でもないのであれば、あの寂しげな陽光の少女は果たして何者なのであろう。だが、タバサには全く覚えがなかった。
「少なくとも、わたしは知らない」
「そうか。奥方の『記憶の欠片』から現れたこと、魂魄の色などから察するに、奥方とタバサに非常に近しい存在であることは間違いない。念のため聞くが、おぬしには姉妹あるいはあの意地悪姫以外にも従姉妹がいたりするのかのう?」
伏羲の問いに、タバサは静かに首を横に振った。
「ふぅむ。すると、あの娘は何者なのであろうか」
「もしかすると、母さまの親戚なのかもしれない」
「うむ、その可能性は充分あるのう。敵対者でないことは確かなようであるし、彼女の詳細については奥方が回復されてから、改めて尋ねてみればよかろう」
伏羲の言葉にタバサは頷いた。
(彼の言う通り。今、最も優先すべきは母さまを完全に治すこと。それに集中しよう)
――そして、彼らは夢の中で休息に入った。さらなる戦いに備える為に。
当初の構想では、才人とルイズがついてくる予定でした。
しかしいろいろとイベントの順番を考えた結果、
二手に分かれることに。
まずは本作メインのタバ太コンビに頑張っていただきます。