雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

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第105話 王女たちの懊悩

 ――王都トリスタニア全域が熱狂した戦勝パレードと戴冠式から、二日後。

 

 その朝、日課である朝のお勤めを行うべく王城の一画にある礼拝堂を訪れたマザリーニ枢機卿は祭壇の前に先客……ひとりの若い娘がいることに気がついた。

 

 かの人物はふんわりと波打つ桃色がかった髪を後ろに纏め、淡い色のドレスに身を包んでいる。可憐という概念が服を着て歩いているようなその女性の名は、カトレア。ヴァリエール家の次女、トリステインの第二王女である。

 

 カトレアは始祖の像の前に跪き、熱心に祈りを捧げている。天窓から差し込んだ陽の光に照らされた横顔は、宗教画から切り抜いた一場面のように神々しい。

 

 礼拝の邪魔をせぬよう、マザリーニは後方で控えていたのだが……どうやら、その気配りは不要だったらしい。王女は静かに立ち上がると、彼のほうに振り返った。

 

「おはようございます、猊下」

 

 透き通った美声が、礼拝堂の内部に響き渡る。

 

(まるで天上から舞い降りた聖女のようだ)

 

 そんな感慨をおくびにも出さず、マザリーニは普段と変わらぬ表情で挨拶を返す。

 

「おはようございます、姫殿下。ところで、わたしのことはマザリーニとお呼びくださいと、つねづね申し上げているはずですが」

 

 カトレアは笑みを浮かべたまま、しかし困ったように首を傾げた。

 

「やっぱり慣れないわね」

 

 大仰に頷く枢機卿。

 

「呼称とは新しい服のようなもの。いずれ自然に身に付けられるようになるでしょう」

 

「そういうものなのかしら」

 

「そういうものです」

 

 カトレアは天窓の近くに設置された日時計に目を向けた。間もなく朝八時になる。

 

「猊下……いえ、マザリーニ卿は毎日この時間にいらっしゃるのね」

 

「ええ。若い頃からの習慣というのは、なかなか変えられないものでして」

 

「いつからお続けに?」

 

「神学校に入学したときからですので、そう……十四歳からですな」

 

 じっと己の姿を見つめる王女に対し、マザリーニは念押しした。

 

「姫殿下。わたしはまだ四十を過ぎたばかりですからな」

 

「まあ! まだ何も言っていないのに……」

 

 心外だとばかりに訴えるカトレア。

 

「まだ、と、仰いましたな?」

 

「あら。嫌だわ、語るに落ちてしまいましたね」

 

「それは普通、暴いた側が言う台詞なのですが」

 

「そうなんですか? わたし、よく間違うのよ」

 

 そう言って、カトレアはころころと笑う。釣られてマザリーニも笑い出した。

 

(まったく。わかっていてこんなことを仰るのだから、本当にいたずら好きなお方だ……とはいうものの、誰彼かまわずこのような真似をする訳ではない。冗談を冗談と汲み取れる者、内容を吟味しておられる。つまり、わたしはそういう相手として見て頂けているということだ)

 

 姫君から気の置けない会話ができる人物だと認識されているこの状況が、嬉しくないと言えば嘘になる。

 

 ――先帝ヘンリーが健在の頃から、マザリーニの周囲は敵意に満ちていた。

 

 異国から来た枢機卿。しかも平民の血を引いていると噂される男が、王の側近くに仕える宰相という重要な地位を占めているなどというのは、奇跡の御技・魔法を用いる者としての血筋と誇りを価値観の最上に置くトリステイン貴族にとって、耐え難き屈辱だったのである。

 

 流行病で先代が世を去ってから、彼らの目はさらに厳しくなった。

 

 宮廷貴族たちはヘンリー一世の逝去による女王マリアンヌの即位、それに伴う人事の刷新を期待していたのだが、肝心の太后は夫の死を嘆き悲しむばかりで何もしようとはしなかった。心を病んでしまったがゆえにできなかった、としたほうが正しいのかもしれないが……それをいいことに、忌々しい外国人が国の中枢に居座り続けている、というのが彼らの共通認識だったのだ。

 

 もちろん、全ての貴族がそうだったわけではないが……いくらマザリーニが鋼鉄の精神の持ち主だからといって、心に〝固定化〟の魔法をかけられるはずもなく。悪感情を向け続けられた彼は日々の激務と相まって、内側はおろか外見さえも激しく摩耗してしまった。

 

 四十になったばかりであるのに、六十代の新王と同年代に見えてしまう程……。

 

 ちなみに、新国王サンドリオン一世即位の際にも、当然のことながら彼を排斥しようとする者たちが大勢いたのだが……そういった連中のほとんどが、先の粛正人事によって宮廷を去る羽目になったのは皮肉にも程がある。

 

 そんなわけで、枢機卿の心身にようやく安寧が訪れつつあった。今はまだ宰相の地位に就いているが、新王への引き継ぎが終わり次第その座を辞し、相談役に落ち着こうと考えている。

 

(国を背負うという重圧と敵意の視線から解放されることで、ここまで心が軽くなるのだな)

 

 過去の日々と報われた現在に思いを馳せつつ、マザリーニはカトレアに尋ねた。

 

「ところで、お身体の具合はいかがですかな?」

 

 一昨日は戦勝パレードと戴冠式、各国から訪れた来賓との顔合わせや、集まった貴族たちとの懇親会が開かれるなど、実に多忙な一日であった。行事慣れしているマザリーニや国王夫妻はともかく、三人の王女たちは花のかんばせに疲労の色を浮かべていた。

 

 中でもカトレアは特に辛かったようで、マザリーニは侍従長のラ・ポルトから「自室へ戻られるなり、倒れるように眠り込んでしまわれた」と報告を受けている。

 

 彼女は幼い頃から不治の病に苦しみ、魔法学院へ入学することはおろか、誰かの元へ嫁ぐことも、社交界に顔を出すことすらできなかった。その事実は宮中に知れ渡っている。

 

 半年ほど前に東方から伝えられたという秘薬の効果で奇跡的に快癒へと向かったらしいが、トリスタニアの王宮へ移り住んだ直後、高熱を出して宮廷内を慌てさせたことは記憶に新しい。

 

(幸いなことに一週間ほどで回復し、どうにかベッドから起き上がれるようになったが……本当にカトレアさまは大丈夫なのだろうか? 典医殿は問題ないと話していたが、正直不安だ。また発作を起こされたりなさらなければよいのだが……)

 

 可憐な姫君は微笑みながら言った。

 

「ありがとうございます、おかげさまで元気そのものですわ。それも含めて『始祖』にご報告と日々の感謝を、と」

 

 宮廷付きの医師団から快癒を告げられて以降、カトレアは毎朝欠かさず礼拝堂を訪れ『始祖』に祈りを捧げている。その顔には、健康を得た喜びが溢れていた。

 

「左様ですか。しかし、あまりご無理はなさいませぬように。これから、寒さがより厳しくなって参りますから……ところで、姫殿下には何かお悩みがあるようですな」

 

 カトレアは「それも含めて」と言った。マザリーニはそこに引っかかりを覚えたのだ。

 

 すると、これまでとは一転。いつも笑みを絶やさぬカトレアの顔に、影が差した。

 

「そうね、枢機卿ならご存じかもしれないわ。これも『始祖』のお導きでしょう」

 

「ふむ? 場所を変えたほうがよろしゅうございますか?」

 

「いいえ、誰かに聞かれて困るようなことではありませんから」

 

 何事だろうと訝しむマザリーニに、カトレアは小さく溜め息をつきながら言った。

 

「父さまのことなんですけど、何か深く悩んでいるみたいで……このところ元気がないの」

 

 マザリーニの眉がぴくりと動く。

 

「もちろん、公の場では平然と振る舞っておられるし、家族にも内緒にしているわ。でも、わたしにはわかるんです。それで、もしかしたら猊下なら父さまの悩みがどんなものなのか、ご存じなんじゃないかと思って……」

 

 じっと己を見つめるカトレアの瞳は、快晴の空のように澄み切っていた。マザリーニはその曇りなき目で心の奥底まで覗かれたような錯覚に陥りつつも、どうにか声を絞り出す。

 

「確かに、いくつか心当たりはございますが……」

 

 言葉を濁したが、マザリーニは王の苦悩の原因を正確に把握している。

 

(おそらく、例の大鳳に関する報告書が陛下を悩ませているのだろう……)

 

 遙か東の地から舞い降りたという、魔法を一切用いずに飛行を可能とする機械。それを乗りこなしたのは、第三王女ルイズが〝使い魔召喚の儀〟で喚び出したという黒髪の少年。

 

(例の飛行機械は、ほぼ間違いなく『聖地』から来たものだ。調査報告から察するに、おそらくは『武器』なのだろう。それを自在に使いこなすということは……かの少年が伝承に残る『神の盾』ガンダールヴであることは想像に難くない)

 

 サンドリオンが危惧したように、マザリーニはタルブの『竜の羽衣』にまつわる伝承と、それを受け継いだ才人を足がかりにルイズの正体に辿り着いていた。その上で……。

 

(陛下はご息女の系統が何であるのか、それが白日の下に晒された場合――どういった立場に置かれるのかを正しく理解しておられる。なればこそ、ロマリアから派遣された枢機卿であるわたしに知られたことを畏れているのだ……)

 

 もしもマザリーニが立身出世の野望に燃えているような人物であれば、サンドリオン王の懸念は現実となってヴァリエール家に激震をもたらしていただろう。だが――。

 

(聖地奪還など馬鹿馬鹿しい。新たな王を戴いた今こそトリステインは地固めの必要がある。異国への進軍、それもエルフと争うなどもってのほかだ。災いの種を自ら呼び込んでどうする!)

 

 彼はブリミル教司教枢機卿としての使命ではなく、ただひたすらに現実だけを見ていた。約二十年にも及ぶ宮廷生活が、彼を宗教的な恍惚から遠ざけてしまっていたのだ。

 

(陛下にそれとなく匂わせたのは悪手だったか? しかし、黙っていれば無用な疑いを持たれかねない。まったく、わたしの出自はどこまでも足を引っ張るな……)

 

 ――トリステインに生を受けていれば、ここまで苦労しなかっただろうに。

 

 と、人前であることを忘れて嘆息しかけたマザリーニだったが、申し訳なさそうなカトレアの声によって彼の意識は礼拝堂に引き戻された。

 

「もしかして、国政に関することなのかしら。それなら、ここじゃ話せないわよね」

 

「こ、これは失礼をば致しました」

 

 真冬の礼拝堂で、思わず額を拭うマザリーニ。姫君の御下問に答えられないだけならまだしも、そのまま放置しておくなど無礼にも程がある。

 

 頭を下げようとした枢機卿を、カトレアは遮った。

 

「謝らなければいけないのは、わたしのほうだわ。ごめんなさい、立場上話せないようなことを聞いてしまって」

 

「いえ、それは……」

 

 謝罪合戦になりそうな空気を打ち消したのは、こつこつという控えめに叩かれたノックの音だった。

 

「失礼します。姫殿下、まもなく朝食のお時間となっておりますが」

 

 扉の外から届いた声は、カトレア付きの侍女のものだった。

 

「わかりました、すぐに向かいます」

 

 迎えの侍女に答えると、カトレアはマザリーニに向き直って礼をした。ドレスの端をつまみ、優雅にお辞儀をする。

 

「それでは、お先に失礼しますね」

 

 礼拝堂から立ち去る姫君の後ろ姿を見送ったマザリーニは始祖像の前に跪くと、普段祈祷に用いている聖句の他に、個人的な願いを付け足した。

 

(あの心優しい姫君のお顔が曇るようなことが起きぬよう、どうかご加護賜らんことを――)

 

 

○●

 

 ――同日。

 

「それで、姫殿下。わたくしに相談事とは、一体どのような?」

 

「お、おやめになってくださいまし! 姫さまが、わたしにそのような……」

 

「あら? わたくしはもう王族ではありませんわ。今は、あなたがそのお立場にいらっしゃるのよ。そうですわね、ルイズ姫殿下」

 

「うう~ッ……」

 

 王宮内のとある一室で、奇しくも礼拝堂でのカトレアとマザリーニと似たやりとりが繰り広げられていた。

 

 トリステインの王族から降格したマリアンヌ太后とアンリエッタ姫は、今も宮廷に居を構えていた。その元姫君の部屋に、現姫君が訪ねてきたのだ。

 

「やっぱり慣れませんわ……」

 

 アンリエッタは目の前でうなだれている、年下の『おともだち』を優しく諭した。

 

「真面目な話、わたくしを『姫』と呼んではいけません。宮廷では、どこに目と耳があるかわからないのですから」

 

「で、でも……」

 

 王女の遊び相手を務め、両親に幼い頃から貴族の心得と王家に対する忠誠を教え込まれてきたルイズにとって、かつての主君を敬称で呼んではいけないというのは、頭ではわかっていても、なかなか同意しにくいことであった。

 

「一応、妥協案がありますわ。ただし、あくまで非公式の場に限りますが」

 

「それは、どのような?」

 

「先日、わたくしたち母娘が陛下より爵位と土地屋敷を賜ったのはご存じ?」

 

 ルイズは頷いた。

 

 以前と変わらず宮廷で暮らす彼女たちは、いずれはここを出て行かねばならない。先帝の妻と娘が新王と居を共にするなど、新たな政争の火種になりかねないからだ。

 

「アンリエッタ・ド・ダングルテール公爵夫人、それが今のわたくしの身分。本来ならば、ダングルテール公爵夫人と呼ばれなければならないのです」

 

 王都トリスタニアから遠く離れたアングル地方を下賜されたのは、いくつかの理由がある。

 

 かの地は萎びた寒村が点在する貧しい土地だが、それは耕作地という点で見た場合のこと。ハルケギニア大陸北部の海に面するかの地方は、海産物の漁場として優れている。

 

 優秀な代官を派遣して領地の運営をさせれば、元王族の母娘二人が貴族社会で生活する上で、一生困らぬだけの収益が上げられるのだ。

 

 本人たちがトリスタニアへの居住を希望しているため、彼女たちのためにヴァリエール家の下屋敷が与えられた。

 

 旧アルビオン王家の暫定政府とも近く、太后マリアンヌは「あの屋敷なら、愛した亡夫の実兄であるジェームズ一世と思い出話が咲かせられる」とばかりに快諾しており、未だ非公式ながらウェールズ皇太子と婚約しているアンリエッタも、彼の側にいられると喜んでいる。

 

 ――ダングルテールとは、古ガリア語で〝アルビオン人の住まう土地〟という意味だ。もしもテューダー家の復興の夢破れたそのときは、ウェールズは公爵夫人の入り婿扱いとなり、かの地を治めることになるかもしれない。

 

 それら様々な事情を頭の中で反芻しつつ、アンリエッタは微笑んだ。

 

「ですから、公の場ではダングルテール公爵夫人だけれど……普段はアンと呼んでくれる? 子供の頃、一緒にお庭を走り回っていたときのように」

 

 ルイズの顔が、ぱっと輝いた。

 

「じゃあ、わたしのこともルイズと」

 

「決まりね、ルイズ」

 

「ええ、アン」

 

 ふたりの少女は顔を見合わせて笑った。

 

「ところで、アン。最初の話に戻るんだけど」

 

「わたくしに相談事があると言っていましたね」

 

 ルイズは頷いた。

 

「最初はちい姉さまに話したの。そうしたら、きっとアンのほうが良い知恵を出してくれるんじゃないかって」

 

「まあ、カトレアさんがそんなことを? なら、その信頼を裏切らないように頑張るわ」

 

 アンリエッタにとって、ラ・ヴァリエール公爵が父なら、カトレアは姉のような存在だ。

 

 幼い頃、何度かヴァリエール家へ泊まりがけで遊びに行った際に、ルイズと一緒にカトレアの部屋を訪れては、さまざまな絵物語を読み聞かせてもらったり、女の子同士の話を楽しんだり、三人並んで同じベッドで眠ったものだ。それらは色褪せない思い出として、今もアンリエッタの心に深く刻まれている。

 

 そんな相手から信頼されているとあらば、張り切らざるを得ない。

 

「それで、どんなお話なのかしら」

 

「ええ、実は……」

 

 姫君たちの歓談は日が暮れてもなお終わらず、侍従長が夕餉の支度が調ったとの報せを持って現れるまで続いたのだった――。

 

 

●○

 

 新たな地位に未だ戸惑いを隠せない妹たちとは異なり、エレオノールはすんなりと現状を受け入れていた。

 

 これは彼女が王都での暮らしや、トリステインの筆頭貴族・ヴァリエール公爵家の長女として扱われ続けてきていたことが大きい。であればこそ、国法によって定められた王位継承権第一位の王族として相応しい振る舞いをせねばなるまい。

 

 本人は、そう考えていたのだが……。

 

「王女殿下、執務中に申し訳ございません」

 

 エレオノールのために設えられた書斎の扉を叩く音と、王女附秘書官の声が室内に届く。

 

「…………」

 

「王女殿下?」

 

「……入りなさい。鍵は開いているわ」

 

「失礼致します」

 

 カチャリという音と共に扉が開き、髪をシニヨンに纏めた三十過ぎの女性が入室してきた。

 

「王女殿下、来週のご予定を確認させていただきたく……」

 

 しかし、エレオノールは無言のまま何も言わない。

 

「王女殿下?」

 

「……どうして?」

 

 質問に疑問を返されたことで内心慌てた秘書官だったが、この程度で取り乱しては、女性の身で王宮勤めなど務まらない。

 

 すぐさま最適解を導き出し、目の前の気難しい王女の問いに答えようとした。

 

「王女殿下のスケジュールを管理するのが、私に与えられた職務でございます。念には念を入れておりますが、もしもご都合などが……」

 

「そうじゃないわ。ええ、そうじゃないのよ」

 

 先程よりも一オクターブ低い声で、エレオノールは問うた。

 

「ねえ、どうしてなの?」

 

「も、申し訳ございません。何か粗相を致しましたでしょうか」

 

 その問いに対し、エレオノールは硬い表情で訊いた。

 

「なんで貴女は、わたくしだけを王女殿下と呼ぶのかしら」

 

 途端に硬直する女性秘書官。

 

「あ、あの、それは……」

 

「おちび……ルイズやカトレアのことは姫殿下って呼ぶのに、ど、どど、どうしてわたしの、わたしだけ、おお、王女殿下なの?」

 

 全身をぷるぷると振るわせながら続けるエレオノール。

 

「皇太女殿下なら、まま、まだ理解できるわ。だって、わ、わわわたくしは、王位継承権第一位。しょ、しょ将来、ここ、この国の女王となる者ですものね」

 

「そ、その……」

 

「ええ、ああ貴女の、い、言いたいことは理解してるの。あくまで継承権が一位なだけであって、わたくしはまだ、ここ皇太女の地位にない。父さま、いえ、陛下の戴冠式が終わったばかりだし、議会でもそういう話題が、だ、出せないくらい、たた、多忙ですからね」

 

 自分なりに、どうにか落ち着こうとしているのだろう。エレオノールは机に置かれていたカップを持ち上げ、口に運ぼうとした。しかし、手元がカタカタと揺れている。もう、見ているだけで不安になる挙動であった。

 

「それなら、わ、わたくしだけでなく、いい、妹たちも王女殿下と、よ、呼ぶべきよね。なのに、貴女だけでなく、きゅ、宮廷中の召使いたちは皆、わわわ、わたくしを……!」

 

 秘書官は答えに窮した。

 

 ――エレオノール第一王女殿下、御年二十七歳。

 

 トリステインのごく一般的な常識で考えれば、既にどこかへ嫁ぐ、あるいは婿を迎えているのが当然の年齢に達している。

 

 姫、という敬称には別に年齢制限はない。しかし「未婚であれば」という但し書きが付く。

 

 つまり、エレオノールの言う通り「姫殿下」とするのが正しい。けれど、そう呼称するには――彼女は薹が立ち過ぎていた。

 

 そんなことはエレオノール本人もよく理解している。なればこそ、王城へ移り住んだ直後に、

 

『姫殿下ではなく、王女殿下と呼びなさい』

 

 と、いう命令を出したのだ。

 

 本人としては、

 

(全員が王女と呼ばれるなら、も、問題ないわよね!)

 

 という、自己防衛やら彼女なりの周囲への思いやりから発したものに過ぎない。

 

 王立アカデミーの主席研究員として、公爵家の娘とは思えない程、宮仕えというものの世知辛い事情を体験しているからこその命令であった。

 

 具体的には評議会の圧力を躱すとか、研究資金の確保とか、世間の荒波を超えようとする船から放り出されないようにするための知恵、工夫のようなものの貸し出し等……。

 

 ……ところが。

 

「さあ。どうしてなのか、わかりやすく、お、おお、教えなさい」

 

「え、あ、その、つまりですね……」

 

 言葉が足りなかった、といえばそれで終了なのだが。以後、宮廷人たちはエレオノールを「王女殿下」と呼び、ふたりの妹には「姫殿下」と声を掛けるようになった。

 

 二十四歳のカトレアも姫とするには結構ギリギリだったりするものの、そこはそれ。三年という年齢差は絶望的な断崖絶壁となって、彼女たち姉妹を隔ててしまったのである。

 

「どうして、だだ、黙っているの、か、かしら?」

 

「あ……」

 

 命令されたから、と答えるのは容易い。しかし、それは王女の真意を正確に汲み取れなかったと認めるに等しい行為。つまり「私たちは無能です」と答えるようなもの。

 

 ……不正行為に手を染めた大勢の貴族が、新王により粛正されたばかりの今だからこそ、正直に言えないこの辛さ。

 

 言葉の吟味と周囲の状況、時期の悪さが招いた悲(喜?)劇とも言える。

 

 とは言うものの。

 

「さあ。ここ、答えなさい!!」

 

 ただでさえ爆発しやすいトリステイン女の足下に火の秘薬を埋め込んだ挙げ句、上から油を振り撒くような真似をすれば、エレオノールでなくともこうなる。

 

 点火五秒前。四、三、二、一……。

 

 絶望へのカウントダウンが始まる。正面にいる金絹の王女とは対照的に、秘書官の顔は海底よりも青ざめていた。

 

 と、そんなところへ思わぬ助けが現れた。

 

「何を騒いでいるのですか、エレオノール」

 

 響き渡る声に、びくりと身体を強張らせる第一王女。

 

「か、母さま……!」

 

 エレオノールがこの世で最も畏れる人物。彼女の母親、カリーヌ王妃の登場である。

 

「そこの貴女」

 

「は、はい!」

 

 声をかけられただけで直立不動となる秘書官。

 

 彼女にとって『烈風』カリンは畏怖の対象ではあるものの、憧れの存在でもあった。

 

「この子のことはいいから、貴女の職務を果たしなさい」

 

「しょ、承知致しました!」

 

 乱暴な横槍だが、エレオノールは口を挟めない。鳶色の母の瞳が、彼女を射竦めるような光を放っていたからだ。

 

「そ、それでは来週の予定を確認させていただきます……」

 

 秘書官は聞き取りやすく、正確な発音でエレオノールの予定を読み上げていく。分刻み、とまではいかないものの、研究員として働いていた頃とは比較にならない忙しさだ。

 

「オセルの曜日は、午後二時より王立図書館館長との打ち合わせ。午後三時からは年明けに行われる降臨祭用の装いについて、侍従長からのご確認がございます。午後四時からは……」

 

(はあ……そのうち、自由に外へ行ける時間もなくなりそうだわ)

 

 この頃には、噴火寸前だったエレオノールの頭もだいぶ冷えてきている。老齢の父の負担を少しでも軽くするため、さらには次代としての経験を積むために王族としての仕事をできうる限り引き受けている彼女だったが、年末ということもあり、両親と同様に毎日が多忙であった。

 

「翌ダエグの曜日は、午後一時から五時まで宮廷行事に関する伝達、午後六時からはオールド・オスマン氏とのご歓談。こちらは食事会となっており……」

 

 オールド・オスマン。その名前にエレオノールは敏感に反応した。

 

「オスマン氏の随員は?」

 

「ございません」

 

「そう」

 

「続けさせていただいても?」

 

「構わないわ」

 

 ――全ての確認を終えた秘書官が退出した後、カリーヌ王妃は娘に向き直った。

 

「それで?」

 

「はい」

 

「あなたは宮廷の廊下に響き渡るような大声で、何を言おうとしていたのですか?」

 

 その時、エレオノールは火竜に捕獲される己を幻視したという。

 

「え、衛士隊に、き、教導をされていたのでは?」

 

「もう終わりました。さあ、最初から説明なさい」

 

「そ、それは……」

 

「なにを口籠もっているのですか。ほら、早く!」

 

「あわわわわ……!」

 

 彼女たちは、もう、どうしようもなく母娘であった。

 

 

○●

 

「まあ、そんなことだろうとは思っていました。外まで声が届いていましたし」

 

「だったら、わざわざ聞かなくてもいいじゃないですか! うわああああん!!」

 

 書物机に突っ伏して泣くエレオノール。

 

 つまるところ、彼女は妹たちと違う敬称を用いられることで「早く良人を迎えてください」と催促されているような心持ちだったのである。

 

 ……なお、現在はカリーヌ王妃の〝消音(サイレント)〟で、エレオノールの嘆きというか魂の慟哭は外へ漏れ出さないようになっている。これは王族の醜聞を隠すというよりも、母親としての気遣い、娘への優しさからくるものであった。

 

 それが、エレオノールの慰めになるのかどうかはともかくとして。

 

(まったくこの子は……とはいえ、エレオノールがこうなってしまった原因の大半は、わたくしにあるのでしょうが)

 

 泣きじゃくる娘を見守りながら、カリーヌは過去に思いを馳せる。

 

 共に戦ううちにサンドリオンに心を許し、憧れを抱き、いつしかそれが恋に変わったカリンの『道』が騎士道から逸れてしまったのは、彼の父親が亡くなったことに端を発する。

 

 その日。王都の訓練場で、サンドリオンはカリンにこう申し入れた。

 

 恋をしたせいか、ここ数年でより女らしさが増してきていたカリンは鉄仮面をつけ、男言葉でそれに対応する。

 

『俺は父さんの跡を継がなきゃならない。だから、宮廷を辞すことにした。それでだな……』

 

『なんだよ、ハッキリ言え!』

 

『俺だけだと、その、うまくやれる自信がない』

 

『前にも同じこと言って、僕にマンティコア隊の隊長押しつけたよね?』

 

『い、今じゃおまえのほうが実力があるんだから当然だろ!』

 

『それで、今度は何をさせるつもりだ?』

 

『ああ、ええと……俺と来てくれないか』

 

『は?』

 

『これから、ずっと……俺を、支えて欲しい。おまえと一緒なら、どんな困難も乗り越えられると思うから』

 

 言葉の意味を悟った鋼鉄の騎士の顔に、朱の花が咲く。

 

 こうして彼と彼女は結ばれ、幸せな結婚を――

 

(したところまでは、よかったのですが……)

 

 ――彼女の実家であるマイヤール家は、どが付くほどの底辺、困窮した最下級貴族であった。

 

 社交界に出ることすらおぼつかない貧困家庭で育った彼女が、魔法学院へ通えるわけもなく。上流貴族たちが学生時代に学ぶ作法や交流の際のお約束といったことは、騎士となってから独学にて身につけたもの。

 

 そんなカリーヌが嫁入りしたのは、国いちばんの大貴族・ヴァリエール公爵家だ。

 

 サンドリオン――ピエール・ド・ラ・ヴァリエールの両親は既に他界していたため、いわゆる嫁姑問題は起きなかったが、逆を言えば先代から知識の継承という恩恵を受けられなかった彼女は、それはそれは苦労した。

 

 カリーヌが下手を打てば、それはピエールの恥となり、ラ・ヴァリエール公爵家が侮られる。

 

 愛する夫のため、負けず嫌いな己のために、彼女は歯を食いしばって頑張った。ヴァリエール公爵夫人として相応しい知識と教養、所作、振る舞いを身体に覚え込ませるために。

 

 ピエールも、妻を心から大切にした。夫婦としては間違いなく理想的な関係だと断言できる。

 

(でも、わたくしは……娘たちにあんな苦労をさせたくなかった……)

 

 だからこそ、カリーヌは娘たちに口を酸っぱくして言い聞かせた。

 

『ヴァリエール公爵家の娘として、相応しい振る舞いをなさい。常にそう心がければ、所作は自然と身に付くものです』

 

『妥協して爵位の低い男と一緒になると、不幸になりますよ。お互いに身分の差があり過ぎると、価値観を共有するのがとてつもなく難しいですから』

 

 エレオノールは母親の教えを忠実に守り、行動してきた。

 

「ううう、結婚なんて人生の墓場なのにぃ~」

 

 ……その結果がこの有様である。

 

(城の者たちが「エレオノールさまは理想が高過ぎる」などと無礼な噂をしていましたが……なるほど、彼らの話にも一理あるかもしれません)

 

 つい先程、エレオノールの癇癪が炸裂したとき。通りがかりに偶然それを耳にした衛士たちが『烈風』をして衝撃に打ち震えるような話をしていたのだ。

 

『男は恋人を選ぶとき、まずは母親を基準にするというが……』

 

『聞いたことあるな、それ。女は父親と相手を比較する、とかいうアレだろ?』

 

『ああ。つまり、我らがエレオノール王女殿下は……』

 

『サンドリオン一世陛下と比べたら、そりゃあ恋人なんか出来るわけないよな』

 

『お気の毒なことだ』

 

『おい、不敬だぞ』

 

 トリステインどころかハルケギニアでも五指に入る資産家で、一国の王。

 

 知性に溢れ、温厚で、妻の癇癪も笑って聞き流す懐の深さ。

 

 家族を心から愛し、領民を大切にする貴族の鑑。

 

(あの者たちの言う通りです。わたくしは、相手に恵まれすぎていた……!)

 

 ――若い頃のサンドリオンは、モテた。

 

 銀灰色に染められた髪のせいで地味に見られがちだが、美形と言われる程顔立ちは整っており、背はすらりと高く、訓練と実戦で鍛えられた肉体は引き締まっていた。

 

 当時は今ほど魔法衛士隊の地位は高くなかったが、それでも国王フィリップ三世直属の騎士。

 

 これでモテないほうがおかしい。

 

 酒場へ行けば、女給たちがこぞって彼に酌をしようとし。

 

 娼館の前を通れば、窓から嬌声が振ってくる。

 

 宮廷に参内すると、侍女や貴族の娘たちがちらちらと彼の横顔を伺っていた。

 

 いっぽう、サンドリオンは騒ぐ女たちを一顧だにせず、ただ自分の『道』を往く。

 

 そういうところがまた、女心をくすぐるのだ。

 

 それほどの男が、家庭では愛妻家で恐妻家。カリーヌの叱責に縮み上がり、情けないところを見せていたのもまずかった。

 

「だって、だって、いい男がどこにもいないのが悪いのよぉ~!」

 

 未だにぐずっている娘を見ながら、母は思う。

 

(爵位が高く、お金持ちで、見目麗しく、温厚で、仕事もでき、知性的。女の我が儘など可愛いものだと笑い飛ばす懐の深さ。エレオノールが夫と似た相手を求め続けているのだとしたら……)

 

 これまで婚約破棄されてきたのは、エレオノールの気位の高さに辟易したというよりも、比較され続けて音を上げたというのが本当のところなのだろう。

 

 この条件では、国王夫妻が見込んだワルド子爵ですら駄目なのが怖ろしい。と、いうか少なくともトリステイン貴族では、エレオノールと添い遂げられるような相手が見つからない。

 

(ウェールズ殿下にお相手がいなければ、立派な候補になり得たのですが……)

 

 彼はアンリエッタと絶賛熱烈恋愛中である。それも両国の国王公認で。そんな人物に白羽の矢を立てたりしたら、内乱待ったなしだ。

 

(本当に、どうすればこの子のためになるのでしょう……)

 

 向かうところ敵なしだった騎士の前に、史上最強・最悪の難題が立ち塞がっていた――。

 

 




大変大変遅くなりまして申し訳ございませぬm(_ _)m

実はエレオノールもパパに負けないくらいのファザコンだというオチ。

……実際、あんなスペシャルハイスペック物件なお父さんに大切に大切に育てられたら、そらこうなりますわ。本人も不幸ですが、比較され続けた彼氏たちにもお疲れ様でしたとしか言えねぇ……!

次回更新予定は2週間後、くらいのふわっとした予告のみしておきます。

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