雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

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第100話 鏡と氷のゼルプスト

 ――ルイズと才人が、決意を新たに行動を起こしたのと同じ頃。

 

 タバサと太公望は王都リュティスのロンバール街にある、王立図書館を目指していた。

 

 シレ川中州の中央近くに広がるこの街は、別名「学舎街」と呼ばれている。貴族の子弟が魔法を習うために通う専門学校や、淑女たるべく学ぶ女子に作法と振る舞いを教える女学院、将来の王軍幹部の育成を担う士官学校などが街の周辺に集まっているからだ。

 

 歩を進めてゆくうちに、巨大な建造物群が目に入る。その中でも、天高くそびえ立つ円柱の塔が太公望の興味を引いた。

 

「ほほう、あれが……」

 

 明らかに説明待ちの太公望。彼のパートナーはその期待に応えることにした。

 

「リュティス魔法学院。トリステイン魔法学院に並ぶ伝統と格式を誇る学び舎。王家の紋章に描かれた二本の杖のように交差した校舎が特徴。この建物を中心として、遠方の貴族や教員、外国からの留学生が住む寮や魔法研究塔(ラ・トウール)が多数隣接している」

 

 タバサの解説通り、石造りの巨大な建造物が並び立つさまは壮観の一言に尽きた。もしも才人が同行していたら、都内のビル群を連想したであろう。

 

「全寮制のトリステイン魔法学院とは異なり、屋敷から通学する者がほとんど。遠方出身の生徒は寮に入るか、従者と共にアパルトメントを借りて生活する」

 

「なるほど、相当金がかかりそうだのう」

 

 蒼い頭が上下し、さらに補足を入れた。

 

「裕福で、かつ爵位の高い貴族しか入学を許されない」

 

「おぬし、ここへ来たことがあるのだな」

 

「一度だけ」

 

 言われて昨年の出来事を思い出すタバサ。

 

『学院に行こうとしない貴族の息子を、なんとしても毎日通うようにしろ』

 

 という任務を受け、この街を訪れた。

 

 当時は、そんな馬鹿馬鹿しい陳情が王政府に届くこと自体がジョゼフ王の無能と宮廷の腐敗を示す証拠だと考えていたのだが――。

 

(何事も、思い込みで決めつけるのは危険)

 

 今はそんなふうに判断しているわたしは、あの頃よりも成長できたのだろうか。

 

 街並みを碧瞳に映しながら、タバサは現在に至るまでの道のりを思い浮かべる。

 

 そうこうしているうちに、ふたりは目的地に辿り着いた。

 

 

 ――リュティス王立図書館。

 

 ロンバール街の中央に鎮座するその建物は、数千年前に双子の王子が国を分かつ内乱を起こして以後の歴史が詰め込まれた場所だ。それ以前の記録は戦火に焼かれ、灰燼に帰している。

 

「それでは、こちらにお名前を記入してください」

 

 受付カウンターで記名を終え、利用料を支払ったふたりは館内に立ち入った。

 

 平日の昼間だからか、図書館の中は閑散としている。調べ物をしているらしき中年の貴族の他、恰幅の良い――マントを身につけておらず、杖も持っていないので、おそらくは近隣に住まう平民男性が静かに書に親しんでいた。

 

 壁に掲げられていた案内図を見ながら、太公望は傍らの少女に訊ねた。

 

「おぬしが読みたいのは幻獣種に関する本であったな?」

 

「そう」

 

 先日の任務で遭遇した、白いイタチのような生き物。名も知らぬ幻獣に関する知識を得たいと考えていたタバサは素直に頷いた。

 

 本館正面のライブラリには主にガリア国内で市販されている書物が収められており、その中にはタバサが閲覧を希望している、幻獣に関する本も含まれているようだ。

 

 案内図の下に填め込まれた金属製のプレートには、注意書きとおぼしき文字が刻まれている。本館奥や別館と呼ばれる建物には魔法書の他、魔法薬のレシピや国内から集められた技術書、発生した事件、裁判の記録などが保管されているため、ガリア貴族以外の立ち入りが禁止されていた。

 

 今日のふたりは休日ということもあり、マント以外は簡素な服を身に纏っている。一応、太公望は東薔薇花壇騎士団の略章を身に付けているので、身分証明は可能だが――。

 

「ま、別に急いでおるわけでもなし。今日はのんびり書を楽しむとするかのう」

 

「賛成」

 

 奥にある書物に興味はあるが、本館前面のライブラリに収められている本もふたりの好奇心を充二分に満たしうるものだ。立入制限区域の本が読みたければ、また訪れればいいだけのこと。

 

 すぐさま合意に達したふたりは、早速目当ての書架に向かって歩き出した。

 

 

○●

 

 

 ――その夜。

 

「やっぱり、そう簡単に食いついてきてはくれないわよねぇ……」

 

「ここであっさり尻尾を出すような間抜けなら、とっくにオメーの親父に見つかってるだろ」

 

「まあね。認めるのは癪だけど、連中は伊達にブリミル教の総本山として何千年もハルケギニアに君臨してきたわけじゃないってことね。諜報も調略も憎たらしいくらい洗練されてるわ」

 

 王天君の『部屋』で、策謀家たちが今日一日の成果を総括していた。

 

「それで、そっちの首尾は?」

 

 蒼い髪の王女は正面を向いたまま声を発する。と、それに応えるべく側に立っていた侍女が口を開いた。しかしその瞳に光はない。うら若き娘の手には一本のナイフが握られている。

 

 その短剣こそ、ガリアの深淵に潜む暗殺者『地下水』の本体だ。

 

『再来週トリステインで行われる戴冠式に、聖エイジス三十二世の名代としてロマリアから枢機卿が派遣されてきました。週末までリュティス大聖堂に留まり、その後国境方面へ向かう予定です。例の〝月目〟は彼に同行するとのことでした』

 

「そいつの名前は?」

 

『バリベリニ卿と呼ばれておりました』

 

「バリベリニ枢機卿! イオニア会の重鎮じゃないか! わかったわ、そっちには『北』から〝騎士〟を出す。お前は引き続き〝月目〟の周囲を洗って頂戴」

 

『承知しました』

 

 礼儀作法の見本として相応しい優雅な一礼の後、侍女は『窓』から闇に消えた。

 

 

●○

 

 ――あの衝撃の告白から、既に数日が過ぎた。

 

 しかし、イザベラは未だジュリオの発言を裏付ける証拠、あるいはそれに類する情報を得ることができないでいた。王天君にも協力を依頼し、彼の『窓』で従姉妹たちを追跡する者や、使い魔などがいないかどうか調べてもらっている。

 

 今日も図書館へ向かうふたりを追いかけてもらったのだが……何の成果も得られていない。

 

 敵情報部の本拠とおぼしきボン・ファン寺院には『地下水』を、ガリアの管区教会を取り仕切るリュティス大聖堂の近隣には北の中でも特に潜入・情報収集を得手とする騎士たちを放ち、些細な変化も見逃さぬよう、厳重な監視網を敷いた。

 

 それぞれの拠点を訪れる信者、神官の足取り。届けられた品物や手紙の内容、果てには毎食のメニューまで調べる徹底ぶりである。それでも敵の尻尾を掴めない。

 

 もちろん、そんな簡単に捕まえられるようなものなら『交差する杖』が割れるような事態に陥ったりはしなかっただろう。ジュリオと『地下水』の遭遇こそが、奇跡のような偶然だったのだ。

 

 父王ジョゼフには、ロマリアが従姉妹と接触しようとしたこと、その件についてシャルロットが自身と母親、そして王室の危機と判断した上で情報提供を行ってきたこと。

 

 イザベラ自ら『北』を動員して調査を行った結果、かの国が過去シャルル派を利用して調略を仕掛けて来ており、現在もその企みが進行中であるらしいこと、敵の根城だと思われるボン・ファン寺院とリュティス大聖堂に調査の手を伸ばしていることを報告した。

 

 また、これがガリアの王権を揺るがす可能性のある重要な案件として、追跡調査のための追加予算を申請している。

 

 だが……。

 

「お祖母さまの懺悔とか、虚無の件とか……確証を得るまで報告できないことが多過ぎだよ!」

 

 特に後者が問題だ。ジュリオの話が真実で、父が本当に『虚無の担い手』として覚醒しているのだとしたら、どうしてそれを国内外に発表しないのか。

 

 表沙汰にできない理由があるのか、それとも未だ目覚めていないのか。あるいは――本当に魔法的に『無能』なだけなのか。家族にすら隠しておいたほうが有利だと判断しているのか。

 

 聖エイジス三十二世が持つ(と言われた)虚無魔法――物品に宿る記憶を読む呪文のようなものを父も習得しているのだとしたら、己の名を貶めてまでも手札を晒さないでいる意味が理解できてしまうだけに、歯がゆいことこの上ない。

 

「内容が内容なだけに、父上を問い質すわけにもいかないし。そもそも、わたしにはそんな権限なんてないしねえ……」

 

 がしがしと頭を掻きむしる。絹糸のような自慢の蒼髪がだいなしである。

 

「ああもう、何でもいいから足がかりがあれば……」

 

 と、まるでその願いに応えるかのように『部屋』の中に奇妙な音楽が鳴り響いた。

 

 王天君曰く〝着信音〟なるその調べは、ガリアの王女にひとつの選択を迫ることになる――。

 

 

○●○●○●

 

 今は何も映っていない『窓』をぼんやりと見つめながら、イザベラは独白した。

 

「この申し入れについては、ある程度予測してたけどさ……」

 

 彼女自身、それを受け入れたほうがよいと理解している――頭の片隅では。

 

 とはいえ……。

 

「そう簡単には割り切れねぇ、だろ?」

 

 王天君の呟きに、瑠璃色の瞳が揺れた。

 

「感情に振り回されて、好機を逃そうとしているわたしを馬鹿だと笑う? オーテンクン」

 

 異界の『始祖』の口端が僅かに上がる。

 

「いいや。オレもオメーと同じだったからな」

 

 彼が己の過去を語るのは珍しい。イザベラは目を丸くして続きを待った。しかし、王天君は皮肉げな笑みを浮かべたまま何も言おうとはしなかった。

 

 従姉妹への恨み、嫉み、憎しみ、葛藤……王女の胸中を、さまざまな感情が駆け巡る。

 

(だけど、こうなるようにロマリアが仕組んでいたのだとしたら、わたしは――)

 

 イザベラはしばし瞑目し――そして決断した。

 

「オーテンクン、あなたの弟を呼んでもらえるかしら」

 

 

●○

 

 ――そして現在。

 

 ガリアの王女と彼女の従姉妹は『部屋』の一室でソファーに腰掛け、向き合っていた。

 

 この場に王天君と太公望の姿はない。彼女たち――特にイザベラがふたりだけで会話することを望んだからだ。

 

 最初に口を開いたのはイザベラだった。

 

「今更取り繕っても仕方がないからハッキリ言うよ。シャルロット、わたしはお前が嫌いだ」

 

 タバサは普段と変わらず無表情。しかしよくよく気をつけて観察すれば、彼女の瞳の奥に感情の揺らめきが見て取れたはずだ。

 

「お前は魔法ができるし、頭もいい。顔の造りも悪くない。今でこそ人形みたいに何しても無反応だけどさ……昔は笑顔だけで周りを明るくできる子で……皆から愛されていた。お祖父さまも、お祖母さまも、父上さえも……お前のことばかり見てた」

 

 俯きながら、王女は続ける。

 

「王宮の片隅で、わたしはいつもひとりぼっち。お前のように笑ってみても、返ってくるのは嘲笑と侮蔑さ。出来損ないの娘、ガリアの王女として相応しいのはやはりシャルロットさまだってね。もちろん、わたしだって努力したさ! いつかあいつらを見返してやろうと思って……毎日毎日ぼろぼろになるまで魔法を練習したし、ダンスの稽古も、勉強だって頑張った! でも、誰もわたしを見てくれない! 平民どもまでシャルロットさま、シャルロットさま……そればっかり!」

 

 感情の赴くまま、イザベラは(おり)のように心に溜まった思いを吐き出した。

 

「これが餓鬼の癇癪なんだってことくらい、わたしにだってわかってるんだ! お前がちっとも悪くないってこともね! けど、みんなわたしには目もくれない! だからお前を辱めた! 大勢の家臣たちの前で! なのに……お前もわたしを無視した! どんなに難しい任務を与えても、嫌味を言っても顔色ひとつ変えなかった! わたしは、ああすることしかできなかったのに!」

 

 叩き付けるような従姉妹姫の独白を、タバサはただ黙って聞いている。

 

「ねえシャルロット、お前はさぞや恨んでいるだろう? 今までずっと、こんな訳のわからない理由で当たり散らされてきたんだからさ! ガリア王女としての誇りに賭けて、ここでの発言でお前や叔母上を罰したりしないことを確約する。だから、本音を聞かせな」

 

 ぜいぜいと肩で息をするイザベラに向けて、タバサは正直に告げた。

 

「別に恨んではいない」

 

 その一言で、王女の眉が跳ね上がった。

 

「はぁ? 恨んでないだって!? そんな馬鹿な! な、なに余裕気取ってるのさ!」

 

「嘘じゃない。別にあなたを恨んではいない……ただ」

 

「ただ?」

 

「苛立ちはある」

 

 初めて真正面から向けられた、従姉妹シャルロットの悪感情。イザベラの顔が醜悪に歪む。そこへさらなる追撃が繰り出される――無表情で。

 

「そもそも、わたしがこうなったのはあなたが原因。最初の任務――忘れたの?」

 

「あ、あれは……」

 

「依頼を出したのが誰であろうと、最終的にわたしへ割り振ったのはあなた。戦いなんてしたことない十二歳の子供を亡き者にするために、合成獣(キメラ)だらけの森に放り込んだ。違う?」

 

 ぐっと詰まるイザベラ。あの当時は叛逆者の娘に相応しい末路だと本気で考え、各騎士団に割り振られた討伐任務の中でも、特に難易度の高い案件を従姉妹に与えた。

 

 しかし本来、あの仕事は別の騎士団が複数名での着手を想定した上で請け負う予定だったのだ。事実、タバサが合成魔竜(キメラドラゴン)を撃破して以降も魔獣たちの増殖は止まらず、つい最近まで東西南北の花壇騎士団が持ち回りで駆除に奔走していたのだ。

 

「訳もわからないまま暗い森の中を、傷だらけになって走り回った。双頭の狼にのしかかられて、頭から食べられそうになったときの恐怖……あなたにわかる?」

 

 タバサの周囲を不可視の冷気が包み込む。杖を持っていないので、魔法ではないのだが……イザベラは『部屋』の中がいきなり氷室になったような気がした。

 

「父さまは殺されて、母さまは狂ってしまった。勝てるはずのない怪物の巣に放り込まれて、泣いても叫んでも、誰も助けに来てくれない。これが現実だと思いたくなくて、もう何もかもが嫌になって……だけど、黙って喰い殺されるのは怖かったから、偶然森の近くで出会った薬師さんにお願いしたの。苦しまず、眠るように死ねる毒をください、って」

 

 イザベラの瞳が驚愕に見開かれた。いつも無表情で、何をしても堪える様子のない従姉妹が……服毒自殺を望む程に追い詰められていただなんて、彼女には信じられなかったのだ。

 

「でも、薬師さんは毒をくれなかった。人間、死ぬ気になれば大抵のことはできる。それに、もしもわたしが死んだら……わたしの身代わりになったお母さんはどうなるんだって叱られたわ」

 

 腕利きの狩人にして薬師だったジルを思い出しながら、タバサは胸の内を吐露し続けた。

 

「毒の代わりに森の中で生き残る術を教えてもらって、それでわたしは死なずに済んだ。でも……あの任務以来、わたしの心は毎日少しずつ凍り付いて……今みたいになってしまった。感情を動かすことのできない氷の人形は、そうして出来上がったの」

 

 イザベラは三年前、呪われしファンガスの森から従姉妹が生還したときのことを思い起こす。

 

 彼女は腰まで届いていた長く美しい髪をばっさりと切り落とされ、出立前は純白だった乗馬ズボンは血と泥に塗れており、上衣(チュニック)はあちこち破れ、裂け目から傷付けられた肌が露出していた。

 

 だが、それ以上にイザベラの目を引いたのは――感情を全て削ぎ落としたかのような、冷え冷えとした瞳だった。

 

 約二週間にも及ぶ壮絶な体験を経た結果、それまで太陽のように笑い、周囲に愛を振りまいていた従姉妹が別のナニカに変貌したのは間違いない。

 

 タバサが従姉妹姫を無視――正確には何を言われても滅多に反応しなくなったのは、本人が語った通り、イザベラ自身が招いたことだったのだ。

 

「ふ、ふん。なんだい、結局わたしを恨んでるんじゃないか」

 

「恨んでない。それどころか、感謝している」

 

「お、お前、何言って……」

 

 淡々と述べるタバサの表情は、普段のそれと変わらない。だが、纏う空気が完全に違う。イザベラは我知らず身震いした。

 

「確かにわたしは人形になってしまった。けれど、これ以上ロマリアに踊らされるのは嫌。あの森での経験がなければ、きっと何も出来ない子供のまま……いいように操られていたはず」

 

 そう告げた少女の瞳には、紛う事なき憎悪の炎が宿っていた。

 

(この子が氷の人形だなんて、絶対嘘だ……)

 

 研ぎ澄まされたナイフのような身体の内に、溶鉱炉の中で溶かされた鉄の如き熱さと、どろどろに溶け合って渦巻く激情が内包されている。

 

 その熱に気圧されないよう苦心しながら、イザベラは改めて訊ねた。

 

「お前、あの男の言葉を本気にしているのかい?」

 

 蒼い頭が上下する。

 

「そのために、憎らしくて仕方のないわたしと協力するっていうの?」

 

 イザベラの詰問に対し、疲れたような声を返すタバサ。

 

「だから憎んでないし、恨んでもいない」

 

「なら、苛立つって何なのさ」

 

「さっき話した。それと『地下水』」

 

「ぐッ……あ、あいつ、内緒にするって言ってたくせに!」

 

 その発言を耳にして、タバサは悟った。

 

(やっぱり彼は気付いていた……それも、王女暗殺未遂事件が起きた当時から)

 

 あとでお仕置き。もちろん杖で。そう心に誓ったタバサは、さらに言葉を続ける。

 

「彼からは何も聞いていない。単なる推測」

 

 イザベラは踏み潰されたカエルのような呻き声を上げた。完全にしてやられたという顔をしている王女に向けて、大公姫は常々考えていたことを口にする。

 

「あなたは馬鹿」

 

「はぁ!?」

 

 タバサは大きく息を吸い込むと、言葉と共にまとめて吐き出した。

 

「あなたは頭が良いくせに馬鹿。ほんと馬鹿」

 

「お、おま……」

 

 突如降りかかってきた暴言に対して、イザベラが返せたのはそれだけだった。しかし王女の身体はあまりのことにかたかたと震えており、顔は赤と青を行ったり来たりしている。

 

 だが、それはタバサの次の発言で停止した。

 

「北の騎士団長だからって、わざわざ憎まれ役まで引き受ける必要はない」

 

「はん、わたしがそんな真似するわけ……」

 

「してる」

 

「してないよ! どこをどう見たらそうなるんだい!」

 

「あなたの態度」

 

 忌々しげに眉を吊り上げたイザベラに、タバサが追い打ちをかける。

 

「最初はただの八つ当たりかと思っていた。けれど、それにしては不自然」

 

「へ、へぇ。たとえば?」

 

「あなたはわたしだけでなく、侍従たちにも意地悪するけど、決して彼らを魔法で痛めつけたり、暴力に訴えたりはしない。する真似だけして、怖がらせて……結局口だけ」

 

「…………」

 

 侍女が向けられたら卒倒しそうな程に厳しい視線を平然と受け止めながら、タバサは続けた。

 

「トリステインで平民が影で貴族を嘲笑っているなんてバレたら、ほぼ間違いなく手打ち。なのにプチ・トロワにいる侍女の顔ぶれはほとんど変わっていない。あなたはさっき、平民にまで馬鹿にされていると言っていた。どうして、叱るだけで彼らを罰しないの?」

 

「い、いちから使用人を仕込むのは時間がかかるんだよ! そんなこともわからないなんて、ほんとにお前は……」

 

「それで馬鹿にされるのを我慢し続けているの? さっきはあんなに怒っていたのに?」

 

「うッ……」

 

「昔のことは知らないけれど、少なくともここ半年のあなたは、わざと自分に王宮内の憎しみを集めているように見える。不穏分子を監視するため? それとも伯父上……陛下にかかる負担を減らそうとしている? 今のあなたなら、もっといい方法を考えつきそうなものなのに。不可解」

 

 不快感を隠そうともせず、しかし消え入りそうな声でイザベラは告げた。

 

「…………シャルロット。わたしはお前が大ッ嫌いだ」

 

「知ってる」

 

 

○●○●○●○●

 

 主人たちの微笑ましい(?)対談を肴に、太公望と王天君は別室でぐうたらしていた。『窓』を介して王宮の調理場から酒と果物をかっぱらい、つまみまで用意する念の入れようだ。

 

「放っといていいのか? 太公望ちゃんよ。イザベラとあの女を仲直りさせたいんだろ?」

 

「ふん。わしが何か言っただけでどうにかなるようなら、あそこまでこじれやせんわ」

 

「まぁな」

 

 太公望たちからイザベラに持ちかけられた申し入れ。それは「一度でいいから、お互いの立場を忘れて本気で殴り合え」という物騒なシロモノだった。

 

 もちろん、ここで言う「殴り合い」とはあくまで比喩的な表現であり、実質ふたりだけで本音で語り合え、という意味だ。当然、後に怨恨を持ち越さないという制限つきでだ。

 

 情報収集に行き詰まり、焦りを覚え始めていたイザベラと、彼女との仲を多少なりとも改善したいタバサの両者は言葉の意味を誤解せずにこの提案を受け入れ、王天君の『部屋』で対談に臨んだわけだが……現状はご覧の有様である。

 

「それでも、一歩前進といったところかのう」

 

 どちらにせよ互いに向き合い、会話しなければ……過去の遺恨に囚われたままとなり、先へ進むことなどできない。そういう意味で、ロマリアという共通の敵が現れたという契機があったにせよ――これは大きな第一歩だった。

 

 『窓』の向こうでは相変わらずふたりの少女が怒鳴り合っている。いや、正確に状況を説明するなら、大声を上げているのはイザベラだけなのだが。

 

「ふはははは、いいぞ! その調子でどんどん吐き出せ! そしてスッキリするがよい!」

 

 高笑いする太公望に、王天君が呆れたような声で訊いた。

 

「オメーはアイツらを仲直りさせたいのか、殺し合わせたいのか、どっちなんだよ」

 

「おぬしなら、言わずともわかっておろうが」

 

 返事はない。彼の『影』は、ただ静かな笑みを浮かべるのみ。

 

 そうこうしているうちに、眼下の戦いは口論から取っ組み合いに移行した。ふたりとも杖を持たせず『部屋』の中に入れたせいか、非常に原始的な争いをしている。絨毯の上をごろごろと転げ回りながら相手の髪を掴み、衣服を引っ張り、爪で顔を引っ掻くといったような。

 

 北花壇騎士団の団長と騎士の戦いは意外や意外、ほぼ互角であった。体格差をうまく利用して立ち回るイザベラと、素早さを武器に相手の隙を突くタバサ。

 

 端で見ているぶんには麗しき王族姉妹の華麗なる喧嘩で済むが、もしも王宮の貴族たちがこれを目撃したら、その場で卒倒すること請け合いである。

 

「ぬう、一国の姫にあるまじき豪快な足使いだのう」

 

「あいつ、ああ見えて結構鍛えてるからな」

 

「意外だのう。食器より重いものを持ったことのないタイプだと思っておったのだが」

 

「そうでもねぇぜ? 馬に乗って森へ狩りに出たり、護身術を習ってたりな……まぁ、それも貴族のお遊び程度だけどよ」

 

 干菓子を囓りながら、暢気に感想を述べ合う太公望と王天君。姫君たちの衣服があちこち破けて酷いことになりつつあるのだが、彼らが止めようとする気配は全くない。

 

 と、ふいに太公望が疑問を口にした。それも、今日の天気を訊ねるような気軽さで。

 

「ところで王天君。おぬし、ジョゼフ王を見ておるだろう?」

 

 聞かれた側も特に誤魔化さず、あっさりと答えた。

 

「たまに、な」

 

「どんな男なのだ?」

 

 その問いに対し、王天君は意味深に口端を歪めた。

 

「毎日のように、狂気と正気の狭間を歩いてやがる」

 

 怪訝そうな顔をした半身に向け、説明を続ける王天君。

 

「比喩的な意味じゃねぇぞ、あの王サマは壊れる寸前だ。自分でもそれを理解してやがる。今はどうにか正気の淵に手を掛けちゃいるが、いつ振り切れるかわからねえ」

 

「……意地悪姫には?」

 

「言ったところでどうしようもねーよ。心の病の厄介さはオメーだって理解してんだろ? 下手に手出ししたら、マジでぶっ壊れんぞ」

 

 真剣な顔でそう告げられた太公望は言葉もない。

 

 まだ『始祖』としての記憶が戻っておらず、太公望という個人であった頃。彼が仕え、心から尊敬していた西伯侯姫昌は長子の惨死を切欠に心を病み、食事が取れなくなってしまった。

 

 太公望はもちろんのこと、周囲の者たちも何とかして姫昌の傷心を癒やそうとしたが、どうにもならず……賢王とも称された偉人は日々衰えてゆき――多くの者たちに看取られ世を去った。

 

 そして伏羲の半身・王天君もまた、意図的に心を壊された経験を持つ人物である。そんな彼が、ジョゼフ王をして「狂気と正気の狭間にいる」と称した。これは到底無視できない情報だ。

 

「原因は、やはり宮廷での権力争いか……?」

 

「そこまで知るかよ。オレはこっちに来てまだ半年も経ってねえんだぜ。ただ……」

 

「ただ、何だ?」

 

「ロマリアの陰謀とやらが、王サマの足下を揺るがすのは間違いねぇ。それで本格的に狂気の中へ飛び込むか、逆に吹っ切ってオレみたいになるか……まぁ、どっちにせよ見物ではあるよな」

 

「冗談を言うでない! 万が一おぬし側に振り切れたりしたら、シャレにならんわ!」

 

 彼らの知謀に実質的な差はない。ただし暗躍、策謀といった面で王天君が抜きん出ている理由はただひとつ。

 

 王天君は太公望なら考えついてもやらない非人道的な真似を、平然と行うからだ。逆に言えば、どんなに優れた策でも、より犠牲が少ない――平和的な解決を求め、却下するのが太公望。

 

 一度心が壊れた王天君だからこそ、善悪や感情よりも効率を重視できる。ともいえるのだが……もしも、ジョゼフ王が彼のように悪い意味で吹っ切ってしまったらどうなるか――。

 

 太公望の顔から、ざあっと音を立てて血の気が引いた。

 

 そんな『半身』の姿を見て、ニヤニヤと実に嫌らしい笑みを浮かべる王天君。

 

「オメーは清らか過ぎんだよ。もうちっとオレのステキさを見習ったらどうだ?」

 

「断る!」

 

 『部屋』の中に、王天君の嗤い声が響き渡った。

 

 ――密やかに行われた彼女たち主従の第一戦は、こんな調子で幕を閉じた。その結末は一勝一敗と記されているが、それを知るものは参戦者以外に誰も存在しない――。

 

 

 




時間ぎりぎりにも程がある!
大変お待たせ致しました。最新話、第100話をお届け致します。
(プロローグを含むと101話だったりしますが!)

意外とあっさり仲直りした原作と異なり、キャットファイトにまで発展。ただし、ある程度は歩み寄れた模様。

こうなったのは、あくまでふたりの立場が大きく変わっているからであって、決して作者の趣味というわけでは……嘘ですごめんなさい。

次回更新は来週水曜日を予定しています。
つ、次こそは〆切りブッチしないよう努力致しますm(_ _)m

2017/01/01 一部加筆修正

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