夢の中で何度か玉兎を捕食することに成功していたルー。だからこそ油断してしまったというのもあるかもしれない。だが、それを考慮に入れたとしてもここにいる玉兎とルーには明確に力の差があった。
それを分からせるかの様に玉兎は捕まえたルーをギロりと見下した。
「ひっ!?」
「喋るな汚物。本来ならこうして触れることも嫌な私の気持ちにもなれ。死ぬその瞬間まで物のように静かにしておくがいい」
引きつった顔で黙りこくるルーに満足した玉兎は表情の読めぬドレミーに向き直り、語りかける。
「今回の件は私から上へ報告させて貰うからな。精々、ツレの轡を握っておかなかったことを後悔しな。コイツはここで殺し、お前は更迭され、晴れてお役御免となるだろう。まぁ、安心しろよ。お前の代わりに私があの通路の――」
つらつらと語る玉兎の口上を半ばで止めたのはドレミーであった。
「退きなさい」
明確に空気が淀んだ。清を極める月の都にあってここまで息のできぬ空間は恐らく他にないだろう。肺をそのまま鷲掴みにする様なドロリとした淀み。それは玉兎も、ルーも体験した事の無い、深き海底に沈んでいくが如き感情の影である。
「聞こえませんでしたか? 退けと言ったんです」
形は整えられながら、纏う色は鈍色で。向けられた言葉の刃先は鋭く尖って玉兎の胸に突き刺さり、抉った。
「…い、いいのか? ここで私を殺せばお前は間違いなく粛清される。こいつもお前も死ぬぞ?」
「私に何を言おうが、どんな無礼を働こうが一向に構いません。ですが、そこの子を殺すというのであれば話が違う。見殺しになど絶対にしませんよ。
第一、貴方がたは二言目には殺す殺さないなどと物騒な事ばかり言って、これだから軍人はワンパターンでつまらない。月人は死を恐れ過ぎですよ。死よりも恐ろしいことがあるという事を知らなさ過ぎる」
ドレミーは脇に抱えた黒表紙の本を開けてページを捲る。
「感情は死を凌駕するのです」
やがてドレミーのページを捲る手は止まり、そこから暗褐色の重い霧が漏れる。数センチ先すらも見えぬ霧のカーテンは徐々に裾野を広げていった。
「お、お前はただの獏だ! 夢は操れるかもしれないが現実まで操れるわけじゃないだろう!」
玉兎は自分を励ますためか、はたまた狭くなっていく視界を耳でまかなうためか大声を張り上げる。
「不安ですね。不快ですね。私が恐ろしいですね。そう思ったのなら貴女を夢に引き込むことは至極容易い」
「うっ…」
微笑んだドレミーの笑顔はいつものそれではなく、紛れもなく捕食者の顔である。ドレミー・スイートという獏が敵意から捕食行為に走るのは非常に珍しく、それが月の都での話なら尚更のことであった。
「安心なさい。私は貴方がたと違って寛容です。絶対に、何があっても殺しはしませんから」
霧の立ち込めた部屋に突然、笑顔を張り付けたドレミーの背後から白い羽根が舞った。
「ドレミー」
「…サグメさんじゃないですか。ご機嫌よう」
「何をしているの」
散る白羽に黒霧が塗りつぶされていく。品定めするような目をサグメに向けてドレミーはしばし止まり、体はサグメに傾けたまま目だけで玉兎を見遣ってから一つ頷いて本を閉じた。
「いえ、何でも」
「…そう。ならいい」
サグメも同じように玉兎とその下のルーを一瞥。少し考えるように目を閉じて言葉を返した。
〇
「このお茶美味しいですね。どこのです?」
「綿月の姫君からの御歳暮」
「おや、それは上質な物に違いない。ルーさんも突っ立ってないでこちらへ」
先程のゴタゴタから数分。似合わぬことをしてしまったドレちゃん猛省。すっかりいつもの調子に戻れた。
「え、えと…」
戸惑ったような顔で何故か顔を赤らめるルーさん。きっと私の怒気にあてられた興奮が冷めやらぬのでしょう。まして、普段の私にすら恐れを抱いているルーさんなら尚更だ。これはまた溝が深くなってしまったかもしれない。誠に遺憾である。
「じ、じゃあ…」
私がソファーを叩くと、ルーさんはおずおずといった様子で座った。
「あの、さっきのは…」
「ルーさん、ルーさん。まずはサグメさんに」
ルーさんが気にしているのは先程の件であるが、何を話すにもまだ紹介が済んでいないではないか。
「はっはい! えと、紹介が遅れました。ルー・ビジオンです。この度は私の勝手の為に月の民の皆様に御迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます」
流れるように頭を下げたルーさん。未だ付き合いの長いとは言えないが、この子は何か謝るということに対してはプロ級なイメージである。
「……」
チラとこちらを覗き見るサグメさん。そんな熱い視線を送られると恥ずかしくなってくる、とか考えていると怒られそうなのでいざ煩悩退散。
「今回はルーさんが私を誘き出す為に起こした事のようです。月の皆々様に対する悪意は無かったようなので御容赦頂けると嬉しいですね。たかが夢での出来事ですしね」
嘘は吐いていないが、100%本当というわけでもない。であるが、サグメさんもそんな事は分かっているだろう。真に通ずる者同士は本音と建前を使い分けられるのだ。
「…ドレミーがそう言うなら構わない」
わかっていただけたようで何より。やはり私たちは真に通じているようだ。
「それでルーさん。さっきのは頂けませんでしたね。事前に言っておいたじゃないですか」
止められなかった私が言うのもなんだけども、今は棚に上げさせてもらう。
「も、申し訳ありませんでした。ドレミー様を馬鹿にされて、いてもたってもいれなくて」
「ならよし、とはいきませんよ。嬉しいは嬉しいですが、サグメさんが来ていなければ、今頃どうなっていたか分かったものではありません。最悪の場合だってあります」
私がいたからよかったものの、ルーさんはあまり力量を測るのが上手いとは言えない。恐らく自分以上の存在に慣れていないだけであろうが、ここではそれが命に関わるのだ。
「は、はい。すみませんでした」
すみませんと、言う割に口元は笑っている様にも感じる。ルーさんの事だから私がマジギレしてると勘違いして顔が引きつっているのだろう。
「…ドレミーも」
と、思っていたらサグメさんに思い切り横槍を食らってしまった。
不満げに口を尖らせているサグメさん。話から置いていかれて拗ねたと見えるのはドレちゃん補正だろうか。何にせよ可愛らしいからなんの問題ない。
「いや、それは確かに。申し訳ありませんでした。しかし、彼女にも困ったものです。来る度に煽られるのも飽きてきたんですよね」
ルーさんを組み伏せた玉兎はいつもあんな感じである。今日は一段と当たりがキツかったが、多分ルーさんがいたからであろう。きっと面白くないのだ。彼女から第4槐安通路の管理の役職を奪った私が月の都で好き勝手している事が気に食わないのだろう。
「…すまない」
「サグメさんが謝る事ではありません。煽り耐性の無い私が悪かったです」
「そ、そんなっ! ドレミー様は私の為にっ! 悪いのは私です!」
どいつもこいつもそれぞれ言いたいことを言って、頭を下げた。それが馬鹿馬鹿しくて、可笑しくって思わず笑ってしまった。
「フフっ」
「ぷっ、アッハッハっ」
「……ふふ」
全員同じだった様で。珍しいサグメさんの笑顔も見れたし、今日はもうお腹いっぱい。
〇
ドキドキが止まらない。
玉兎に捕まった時、殺すと言われた時、ドレミー様と対峙したあの日に感じたものとは異なった敵意を感じた。きっとあれが嫌悪からくる敵意であり、殺意なのだ。
悔しいが、私にはあの玉兎ほどの力は無かった。私はどうやら、人一倍死に対する恐怖に弱いらしい。私を上回る力で押さえつけられ、殺すと言われただけで私は縮み上がり、心の内では命乞いが完璧なスタートダッシュをきめていた。そして、恐怖から周りが見えなくなっていく私を救ってくださったのがドレミー様だった。
『退きなさい』
今でも鮮明に思い出す。ドレミー様の純然たる怒気。私に出会った時とは比べ物にならない、海原の様な感情。
『そこの子を殺すと言うなら話が違う。見殺しになど絶対にしませんよ』
あの、ドレミー様が私のために怒りを表したのだ。あの、いつでも紳士的で、嫌われることを避けるドレミー様が明確な敵意を見せたのだ。なんて光栄なことであろう。地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸どころの話ではない。私にはドレミー様がさながら白馬に乗る無敵の騎士様のように見えた。
そうして、やっと分かった。私がなぜ、頭で考えている以上にドレミー様に畏まるのか。私はドレミー様に好意を抱いているのだ。私は心からドレミー様に嫌われたくないのだ。私はドレミー様に全てを捧げたいのだ。
「でも駄目だ」
私はまだドレミー様に相応しくない。ドレミー様に肩を並べられる日が来るとは思わないけど、それでも私は並んでも恥ずかしくない私になりたい。
お父さんごめんなさい。やっぱりルーは帰りません。お見合いだって知りません。しません。私はここでドレミー様と共にありたいのです。
ルー・ビジオンは病める時も健やかなる時もドレミー様に心から寄り添うことを誓います。
「ああっなんて気持ちがいい!」
常々漫画を読みながら思っていた。私もこのキャラ達の様に真っ直ぐ恋をしてみたいと。キラキラと輝く青春を送りたいと。
周りに気になるオスがいなかった訳ではないが、私も女獏である。自分よりも弱いオスなど願い下げであった。もしかしたら私は被支配欲があるのかもしれない。ドレミー様にならば何をされても構わないと本気で思っている自分がいる。お側に座るだけで満たされる私がいる。窘められて興奮を覚えている私がいる。
これではただの変態である。
いや、変態で結構!
この純な思いは誰にも止められない。恋という正体不明のエネルギーは膨らみ出すと止めることは出来ないのだ。
「ルーさん? 何かおっしゃいました?」
少しはしゃぎ過ぎたらしい。扉の奥からドレミー様の素敵な、落ち着きのあるお声が聞こえる。この思いを伝えたいのは山々であるが、今の私とドレミー様は月と茶羽根ゴキブリみたいなものだ。
まだ相応しくないのだ。
「いえっ! 何でもありません!」
「そうですか? 何かありましたら仰って下さいね」
「ッッぁぁ…」
なんてお優しい。思わず色の付いた感嘆の息が漏れてしまった。優しさに触れ、お声を耳にするだけで身悶えする程の喜びが駆け巡る。私の細胞一つ一つが喜びの悲鳴を上げて立ちどころに神経回路がショートして火花を散らす。
でもいつまでもドレミー様の優しさに肖ってばかりではいられない。自己研鑽を重ねなければこの恋は成就しない。
「まずは…そうだなぁ、ご飯とかからかな。フフン♪」
私の恋物語は始まったばかりだ。
〇
本名:ルー・ビジオン
齢:681
趣味:少女漫画の通読
現在無職
顔立ちが悪いわけでもない彼女が番になれなかったのはその力の強さに見合う獏がいなかったから、と思っているのは彼女だけである。彼女よりも強い獏はいた。いたが、ルーは自分の馴染んだ環境に甘んじて外の世界を覗こうとしなかった。端的に言って彼女はお山の大将だったのだ。
彼女の父親が頻りにお見合いさせたがったのは681という決して若くない年齢と彼女の少女漫画に影響された、ちょっぴり夢見がちな性格を治したいという思いからである。
白馬の王子さまに本気で憧れている681歳のなんと痛々しいことか。しかし、それも実際に相手を見つけてしまえば、他人がどうこう言えるものではない。実際、ルーは自分の全てを捧げてもよいと思える相手に出会えたのだ。
「フンフンフフン♪」
こうして愛する人のために鼻歌交じりで料理を作る681歳を馬鹿にすることなど出来るものか。
愛の調味料と称して髪の毛を混入させていることに突っ込みなど出来るものか。恐ろしくて不可能だ。
「ドレミー様喜んでくれるかなぁ」
こんな屈託なく笑う彼女を誰が止められよう。味噌と称して味噌の代わりによく分からない固形物を大量投下していたとしても、酢と称してガムシロップをぶち込んでいたとしても、それは間違いなく愛の証であり、殺意とか悪意とかそういう類のものではないのだ。
「ん…美味しい!」
どうやら恋の病は味覚まで狂わせる狂気の病らしい。
「はいっ、ドレミー様お待たせしてしまい申し訳ありませんでしたっ」
「いやぁ、誰かの手料理を食べるのは初めてで緊張してしまいますね」
一見すればもう番の様に見えなくもない二人の共同生活は始まったばかり。家事分担なんかもいつか始まるかもしれない。
「腕によりをかけて作りました!」
「それは楽しみですね。それでは頂きます」
ただ、唯一分かること。それは
「ッッッ~~~~っっ!!??」
ルーに食事は任せられないということだろう。