「んぅ…」
薄く開いた瞼からチラチラと覗き込む淡いピンクの光。大人の休憩所でよく見るエロティックな光に目を覚ました侵略獏。人をダメにするソファーを模して作られたドレミー特性のベッドから上半身を持ち上げて大きく伸びをする。まるで実家にいるように弛緩しきって、くああ、と幸せそうな欠伸をもらし、手の甲で目を擦った。
「…ん?」
そこで動きを止めた彼女。彼女の決して大きくない胸の上にかけられた掛け布団がパサリと落ち、その肢体が顕になった。
「…っ裸!?」
肌に触れる布の感触と風の心地に眠気を吹き飛ばされた彼女は仰天して、胸を隠そうと布団を引っ張った。
「どうもおはようございます。昨夜は激しかったですね」
急に布団が引かれ、その下からぬるりと出てきた顔はドレミー・スイート。眠たげな半瞼を持ち上げつつ、律儀に朝の挨拶をかわす。因みにドレミーはキチンと何時もの服を着用しているのでご心配無く。
「ぎゃあああああああっ!?」
裸獏は目覚めに氷水を顔面にキめられたような勢いで布団を持ったままベッドから飛翔。毛布が羽のようにはためいた。
「痛い!?」
物凄い勢いで後ずさりする獏を尻目に、ベッドの上のドレミーは跳ね飛んだ時に蹴飛ばされたらしく、ピンクの部屋の壁に頭から突き刺さり、時折ビクビクと痙攣してやがて止まった。
逝去。
「フーっ、フーっ…」
この殺人もとい、殺獏の犯人はすっかり乱れてしまった呼吸を少しずつ戻し、肩が治まる程になってようやくこの珍妙な現場と向き合い始める。
「……」
彼女はドレミーを引き抜くか否かを決めあぐねていた。動きを止めた下半身を見るに最低でも気を失っていて、最悪でも死んでる。いや、彼女からすれば最高でも死んでいて、最悪で気を失っている、だろうか。いかに彼女がドレミーに劣る獏だとしても、『思わず』で繰り出された力は凄まじい。理性というガードの無い妖怪の蹴りである。並の人間ならば蹴られた場所は粉々四散不可避の一撃である。対し、ドレミーも妖怪ではあるが、こちらは弛緩しきっていた。受け入れ態勢のない状態で受け身や受け流しなど出来る筈もなく、今の蹴りもきっと一溜りもないものであったろう。
思わずとは言え、この場面を作ったのは自分自身である。そんな事を思ったのか彼女は布団を持ちながら恐る恐る動かぬ獏に近寄っていく。傍らまで近付けども動かぬ死せる獏。彼女は前を布団で隠しながら右腕でゴミを拾うようにして死体のスカートの裾を摘んだ。
「ほひょっ!?」
それと同時にドレミーの足が跳ね上がる。ビクビクと跳ねる足は止まらず、腕もモゾモゾと蠢き出す。すっかりビビった彼女は先程と同じ位置まで走り逃げ、布団を頭から被ってガクガクと震えてドレミーを視界から追いやった。これは悪い夢だ、と考えているかもしれない。
「ああ…神様、夢なら覚めて…っ」
なんとこの獏、涙を流し、胸の前で両手をキツく合わせて神に祈っているではないか。いやまあ、人間なら至極真っ当な反応なのだろうけども彼女は妖怪、それも獏である。他ならぬ獏が悪夢を拒むところは滑稽と言わざるをえない。
ドレミーの壁を叩く音が次第に激しくなり、やがて一際大きな音と何かが落ちる音で静まりかえった。ガックガクの彼女にヒタヒタと迫る足音。音が静かになる度に彼女の震えも増していく。ドレミーが傍まで来た時には携帯のバイブレーションみたく振動していた。数センチという所で足音が止まり、寝室…もとい、休憩所…もとい、部屋に響くはバイブ音。そんな時間が数分経ち、彼女は恐る恐る顔をあげた。
「おはようございます。昨夜は――」
「あひょんっ…」
目をあげ、目前にまで顔を近付けていたドレミーに彼女は一瞬で白目を剥いて気絶した。
「んー…」
ドレミーは彼女の頬を2、3回つつき、意識が無いことを確認すると頭を掻きながら立ち上がる。
「そんな怖い顔してますかねぇ」
自分の頬に人差し指を当てて、口角を上げるドレミー。ニコニコとしてはみるもそれを見届ける彼女は夢の中である。
「話が進みませんし、次はもう少し刺激を少なくしてみましょう」
この獏は刺激を求めてやまないらしい。
〇
「おはようございます」
「……………ひっ!?」
取り敢えず彼女を落ち着かせるために私が丹精込めて作ったソファーに座らせて毛布をかけておく。起きた時に心安らぐ様に安眠ミュージックをかけて、目覚まし用に温かいスープを作っている最中に彼女がモゴモゴと動き出したからその手を止めて彼女の前で待機した。薄らと瞼が上がった所におはようの挨拶をしてあげたところ、彼女はやはり驚いた様で凄まじく顔が引き攣ってしまっていた。
「そんなに怖がること有りませんよ。私は何もしませんから」
裸は見ましたが。
「………」
精一杯、微笑みかけたのに彼女の緊張は解れない。中々、他人と打ち解けるのは難しいのだ。
「まずは自己紹介からしましょう。あの時は貴方が気絶&失禁したせいでまともにできませんでしたから」
ドレちゃん、ポカンとされた事はあれども自己紹介で失禁されたのは初めてであった。おまけに汚れた所に倒れ込むものだから彼女の衣服が台無しに。そして、私がその掃除をする羽目になったのだ。
彼女の服を脱がしたのはそのせいである。他意はない。
「し、失禁?」
「ええ、失禁」
やはり彼女もショックでしょう。獏とは言え、彼女も女性。ここはアフターケアマスターと呼ばれた私の腕の見せ所ですよね。
「えーとそうですね。ほら、仕方ないですよ。緩い時だって有ります。よく分かります」
自分でも悲しいくらい私はポンコツだった。
「~~~~~~っ!!」
案の定、彼女は顔を真っ赤にして毛布に顔を沈めてしまった。難しいものである。
「ほらっ、あれですよ。あれ。えーと私は無いですけど、多分誰しも一度は通る道ですから」
「するわけないでしょっ!!」
そりゃ失禁なんてしない。と言うか私の場合、怪我も殆どしたことない。病気もない。馬鹿はなんとやらって喧しいわ。
「うわぁぁぁん! もうお嫁に行けないよお父さぁぁぁぁぁん!」
「ああ、布団が…」
彼女の涙と鼻水で汚れていく私の愛用布団。また洗濯かと溜息が漏れた。
「で、落ち着きましたでしょうか?」
泣き始めて十数分。やがて彼女も疲れてきたのか涙もおさまりはじめた。
「………」
コクリと無言で頷く彼女。艶のある黒髪ロングのストレート。いつまでも裸は可哀想なので、至急作りこんだ赤いマフラーと私のお古の服を着用させている。とっても似合っていて可愛らしい。着せ替え人形みたく、色々着せたかったけど、それを口に出すとまた引かれてしまいそうな気がするのでやめておく。
「では、改めて。私はドレミー・スイート。親しみを込めてドレちゃんとお呼び下さい」
「………」
沈黙が痛い。
「えっと、そちらは?」
「…ル、ルー・ビジオン」
とても小さい声で返ってきた可愛らしい名前。親しみを込めてルーさんとお呼びしましょう。
「ではルーさん。色々と尋ねたいことがあるのでこちらへどうぞ」
適当に机を列べて椅子をひく。女子会っぽく手料理でも振る舞って、お茶しながらお喋りならルーさんも喋り易いだろう。
「温かいスープをお持ちするので、少々お待ちを」
〇
コトリと出されたカップ。そこから湧き上がる湯気に思わず頬が緩んだ。
「どうぞ」
「ど、どうも」
無愛想にしか返せない自分が憎い。けども考えてみてほしい。相手はあの、ドレミー・スイートである。一秒でゴリラを捻り潰し、一夜にして三千の獏たちを吊し上げ、一月で国を潰したという、あのドレミー・スイートである。今は穏やかな姿を見せていてもいつ狂ったように暴れるか分かったものではない。現に私は
あの笑顔は人を殺す笑顔だった。
あの舌なめずりはそのままの意味だったはずだ。
あの威圧は紛れも無く神獣の類だった。
そんな存在を前に緊張するなという方が無茶だ。
「? 飲まないんですか?」
「へぁっ!? いや、えと…うん…はい」
飲めるか! なんて思わず言いそうになった。
あの時の笑顔を見せたドレミー…様の出したスープ。何が入ってるか分かったものじゃない。獏肉とか入ってそう。
「そうですか……」
残念そうにカップを下げようとするドレミー様の姿を見て、私の脳髄に電流が走る!
ここで、ドレミー様の機嫌を損ねるのは死に直結する!!
私は半ばふんだくるようにカップを掴み、思い切り傾けた。獏肉がなんだ。死ぬよりマシだ。
「ん…んっ……っぷはぁッ!!」
一気飲みをした私に面食らった様子のドレミー様。その表情も一瞬で、すぐにパァァっと明るく笑った。
「ど、どうですか? 美味しかったですか? いやー、実は私、手料理を誰かに振る舞うのは初めてでしてね? こうして飲んでもらうというチャンスも今までなかったんですよ。自分では上手くできたと思ってもそれを分かつ相手がいないもので…。ですから飲まないと仰った時はどうしようかと…、ですがこうして勢いよく飲んでもらえて凄く嬉しいです。ああ、どうしましょう。つい、にやけてしまいますね」
机に身を乗り出して、私の目の前で凄まじい勢いで喋るドレミー様。早口過ぎてあんまり聞き取れなかったけど、「飲まないと仰った時はどうしようかと」と言ったのは確かに聞こえた。やはり、飲んで正解だったようだ。多分飲まなきゃ私がスープになってた。
「味の方はどうだったでしょうか? お口に合いましたでしょうか?」
味わう余裕なんてねえよ! とは言えない。
すっごい笑顔である。それはもう恐ろしいほど笑顔である。これでは答えは誘導されているも同然である。
「た、大変美味しゅうございました」
「本当ですか! やっほーい!」
万歳して喜ぶドレミー様。
私はこれから何度質問という死線を潜らねばならぬのだろう。
私の素性はもちろんの事、ここに至るまでの経緯を根掘り葉掘り聞かれた。ドレミー様は自身のことが獏達にどう伝わっているかを知らなかったらしく、私の聞いた逸話を伝えると、目を真ん丸にして驚いていた。
「ゴリラを殺す? 吊し上げ? 国を潰す? 何ですかそれ、完全に化け物扱いじゃないですか」
うんっ! とは言えない。
「ば、化け物と言うよりも神に近いです」
「尚更意味がわからないですね」
不満げに頬を膨らませるドレミー様。不味い、機嫌を損ねてしまった。
「も、申し訳御座いません」
「ルーさんが謝ることではありません。別に怒ってもいませんしね。驚いたんですよ」
だったらその指ポキポキをやめて欲しい。生きた心地がしないから。
「弁解しておきますと、ルーさんが聞いたのは真っ赤な嘘です。綺麗さっぱり嘘っぱちです。ゴリラなんて殺しませんし、喧嘩ならありますが、同胞を吊し上げなんてした事ありません。少々ヤンチャした時期はありましたが、国なんて潰してませんよ」
「そ、それは申し訳ございませんでしたぁぁっ」
絶対嘘だ。なんか含みある言い方してるところからも分かる通りドレミー様はきっと何百、何千というゴリラを殺してる。ゴリラになんの恨みがあるんだ。彼らだって必死に生きてるんだぞ。
「生きてるか死んでるかも分からない伝説って、私は別に何もした覚えはないんですがね」
「も、申し訳ございませんでしたぁぁぁっ」
絶対嘘だ。罪を犯した奴ほど「私何もしてないんです」って声高に言うもんだ。父にそう教わって生きてきた。
「ルーさんが謝ることではありませんよ。そんなに緊張しないで下さい。敬語もいりませんから。もっと気楽にお話しましょう」
無茶言うな。
「い、いえ…この喋り方が慣れているので…えへへ…」
「そうですか…」
少し悲しそうに顔を俯かせるドレミー様。ほんの一瞬、良心が痛んだが、こればかりはどうしようもない。倒そうなどと思っていた私は棚に上げて言わせてもらうが、超目上の相手にタメ口で良いなどと言われても困るだけだ。
「えと、それで話を聞くに私を探しに旅に出ると言って家を出たんですよね」
「? はい」
暗い表情も直ぐに消えて、また顔を明るく尋ねるドレミー様。
「帰ったら嫌なお見合をするという約束で」
「……はい」
何だか嫌な予感がしてきた。私はお見合は嫌だが、ここにずっと居るよりは――
「でしたら暫くここにいませんか? 私の誤解も解きたいですし、何よりルーさんもお見合しないで済みます。勿論、個室は用意してプライバシーは侵害致しません。食事も提供します。服だって何でもご用意致しましょう」
「ええと…」
負けちゃダメだ。ルー・ビジオン。
ここで断らなければきっと帰るタイミングを失ってしまう事は目に見えている。お見合がなんだ。別に構いやしないじゃないか。命あっての物種なのだ。
よし断るぞっ断るぞっことわ――
「住みますよね?」
「はいっ!!」
お父さん、やっぱり駄目だったよ。力には服従あるのみだよ。ルーは二度と帰れないかもしれないです。先立つ不幸をお許し下さい。
「やったー!」
ドレミー様の喜ぶ声が何時までも響いていた。