今日はなんだかとても眠い。もういつまでだってここで眠ってしまいたい。
〇
「私はお前のおもちゃじゃねーんだ!」
一体いつの夢を見ているのやら。
それはいつまでも干渉する私の父親に対してつい口が出てしまった時の懐かしい記憶。私はこの日、この言葉をきっかけにして家を出た。まあ、家を出たと言ってもしばらくは香霖の厄介になってたんだけど、それはそれ。ともかく私は家を出、はれて自由の身となったわけだ。私が魔導書を読むたびに怒鳴り散らしてきた父はもういない。これからは私が好きな時に食事をして、好きな時に本を読んで、好きな時に寝るんだと思うとなんだかワクワクした。母に会えないことだけは唯一名残惜しいものがあったが、私の中の未知への好奇心に勝る程じゃあなかった。
「まったく、いい加減戻った方がいいんじゃないか?」
「はあ? なんで戻る必要があるんだよ。せっかく一人になれたってのに」
しばらくして香霖のツテで魔法の森の中にある小屋に住むことになった。小屋と言っても一人で暮らすのなら充分過ぎる大きさだった。香霖堂の裏で親の捜索の影に隠れる生活ともおさらばというわけだ。なのに香霖ときたら私に家に戻れなんて言いやがる。たしかにたくさん世話にはなったから感謝してるけど、なんだって私があの家に戻らなきゃいけないんだ。
「君が思っているよりも一人暮らしってのは辛いものだよ、魔理沙」
「はん。私は香霖みたいにナヨナヨしてねーからな。なんの問題もないね」
心配してくれた香霖を私は一蹴したんだった。そう言えばそうだった。私が選んだ道だった。別に今後悔しているわけじゃない。そうじゃないけど私には別の道だってあったんだ。
「あー…しんど…」
熱が出たって。
「あてて…いったいな」
怪我したって。
「お腹…空いたな」
食料が無くなったって、誰も世話を焼いてくれないんだ。そりゃ当然さ。一人暮らしはそういうもんだ。その代わりに私は好きな時に好きなことが出来るんだ。私は普段はこんな事考えたりしないけど、不意に、本当に突然にやってくるんだそいつは。それは例えば水浴びしてる時だったり、病気で寝込んでる時だったり、異変解決の宴会の後だったり、夜ベッドで眠る時だったり、ともかく私が一人きりの時にそいつはやってくる。
怖くなるんだ。どうしようもなく。何が怖いのかも分からないけれど、なんだか見えないものに追われているみたいな、とても大きな空間に私だけが残されてるみたいな、なんとも言えない怖さが体に染みるんだ。そいつに捕まるとどうも駄目なんだ。眠って忘れようたって中々寝付けない。寝覚めだって最悪な上に怖さは抜けない。それがどこかへ消えるのは誰かと一緒にいる時。だから私が朝っぱらから博麗神社に行く時はそういうこと。
でも今日はなんだかおかしい。あの訳の分からない怖さに取り憑かれ、逃げるようにベッドの上で足を抱いた。その内疲れて眠ったんだ。そしたら昔の夢を見てた。私が家を出た時の夢だった。それで、私が今の生活を始めるまでのことを夢に見ていたはずなのに気付いたらまた眠りについて、夢を見る。私は一体いつ起きて、いつ眠っているんだろうか。
でもこの気持ちの悪い感覚は間違いなく夢のはずだ。私は夢を見ているんだ。とても気持ちの悪い夢。でも、こうして夢を見ているあいだは怖いけど、きっと朝になればまた怖さから逃げるために霊夢に会いに行くんだ。実を言うと、あんまりそれはやりたくない。あいつに会うのが嫌なんじゃないさ。あいつにその自覚はなくても、何回も助けられるのが性にあわないんだ。怖くてたまらないならその怖さを打ち破ってやるさ、私一人で。それが一人暮らしってもんだろ。
このセリフももう何度目か分からないけどな。
それよりも今日はなんだかとても眠い。色々考えるのば馬鹿馬鹿しくなるくらいに…とても…眠い。
〇
トツトツと響く乾いた足音。代わり映えのない槐安通路を歩く彼女はいつになく真剣な表情である。普段、彼女が努めて見せる明るい顔も、くだけた雰囲気も今はすっかり見えなかった。彼女の頭の中で渦巻く懸念がそれを隠すのだ。
幻想郷では未だに新聞の一片にしか載らない程度の些細な話題、現を生きない彼女がそんな些細な話を知るわけもない。宇佐見菫子という外来人が予期せぬ形でもたらしたその事実は夢の支配者を動揺させるには充分だったらしい。
この神隠し異変は決して小さなものでは無い。それは幻想郷から外の世界に対しての危害という形のアプローチだからである。幻想郷を創った賢者の一人である八雲紫がわざわざ出張っている点を見てもそれはわかる。
そもそも、幻想郷は八雲紫を初めとする賢者たちが作りあげた魑魅魍魎のための世界であり、それは科学から彼らを守ることを意味する。外の世界でお伽噺の様に語り継がれるのに問題は無い。外の世界で人間からの信仰を得ることも問題は無い。何故ならそれは人間たちの実質的不利益に繋がるものでは無いからである。しかし、この神隠し異変はそういったものとは全く異なる。幻想郷の妖怪が、人間に敵意を向けているということは科学を敵に回すことに他ならない。それは幻想郷の魑魅魍魎には望ましい話ではないのだ。
幻想郷としてはこの異変を早急に解決する必要があるわけであり、そしてその為に動くのは博麗の巫女なのだ。弾幕ごっこというある意味での盾があるとはいえ、博麗の巫女が未だに昔ながらの妖怪退治をしているのも事実である。此度の首謀者がどうなるのかは夢の支配者たるドレミーにも分からない事だ。
「…」
考えているうちに辿り着いた扉の前でドレミーはしばし動きを止める。どうするべきか、なにがベストなのか。一度ドアノブに手をかけ離す。やがて目を瞑り意を決したように彼女は扉を開いた。
「ただいま戻りました」
「ああ! おかえりなさいませ! ドレミー様に味見していただきたいものがあるのですがよろしいでしょうか?」
ドレミーが帰るやいなや中から元気に飛び出してくる同居人。目を輝かせてドレミーに縋り付くその姿には一抹の不安定さを感じてしまう。
「ええ、構いませんよ」
「わぁー!! ありがとうございます! すぐにお持ちしますのでお掛けになってお待ちください!」
そのまま風のようにまた戻って行ったルーの姿に普段なら笑顔をこぼす彼女の顔は今日は陰っていた。何かを頭の中で抱えたまま彼女は座り、やがて戻って来るであろうルーを待つ。どこから出したやら、いつ出したやら、手元にあるティーカップの中の水面が静かに揺れた。
「お待たせしました! こちらがドレミー様に味を見ていただきたいモノです!」
そう言って彼女が差し出したのは獏の食料たる悪夢の塊であり、それは獏であるドレミーからすればお目にかかったことがないような豪華な食べ物であった。一見ではとても大きく見えるそれも獏なら一口に、キレイさっぱり食べてしまうことが可能である。普段から他人の夢に入り込んで食事をする時、ドレミーは一口に終わらす。これはあくまでも獏の食事は二の次であり食事を長々と続けることもない、夢の所持者へ一刻も早く安眠を与えたいという彼女のポリシーがなすわざである。そしてそれは安眠を与えたいという彼女の願望と夢とその所有者への敬意に他ならないのだ。そんな彼女がルーの出した夢を前に動きを止めた。
「これは…?」
「ええ! 頑張って作りました! 自分ではとても上手くいったと思うので是非!!」
ドレミーはしかめた眉を緩め、表情を落としてスンスンと匂いを嗅いだ。やがて彼女はゆっくりと腕を持ち上げ、目の前の悪夢の端を指で掬い、それを口に運んだ。ドレミーの言葉を期待の眼差しで向けつつ、行儀よく待つルーと味わうように目を閉じるドレミー。静かな時間が少しの後にようやくドレミーが口を開いた。
「……美味しいですね、とても」
「っほんとですか!? 本当にですか!? やったあああああい!!」
静かに述べられたドレミーの感想はルーの期待していたものであり、飛び上がって喜ぶに充分だった。何故ならかつて一度失敗してからドレミーはルーの出したものを食べることにすら抵抗を抱いていたのだ。食べて、しかも褒められたとなればそれは嬉しいことだろう。しかし、文字通り手放しで喜ぶルーをドレミーが手で制止する。
「しかし、どうも匂いがありますね」
「…匂いですか?」
「ええ、匂い。確かに悪夢には違いませんが、これは――養殖の臭みです」
いつか感じたそれはもはやドレミーの中で確信に変わっていた。
「…どういうことでしょう?」
「それは私よりルーさん、あなたの方がよくご存知ですよね?」
ドレミーの言葉には影が、何よりも重みがあった。覚悟を決めたように机に手を付きつつゆっくりと立ち上がったドレミーに対し、もう一匹の獏は少し引きつった笑のまま、ほんの少しだけ後ずさりした。
「匂いがですか?」
「ええ、では少し聞き直しますね。これは誰が作ったものですか?」
ドレミーが指さす先の悪夢塊。彼女の中で確信に至ったきっかけ。微睡むような不明瞭さを孕んだそれ。良くいえば多彩、悪くいえば継ぎ接ぎだらけの代物。
「? それは私が――」
「調理の話ではなく、材料の話です」
「それはもちろん…人間や妖怪たちの悪夢です」
何を言っているんだと言わんばかり、事もなげに答えるルー。この悪夢塊は様々な悪夢の集合体であり、その一つ一つが普段、ドレミーらが食しているそれらとなんら遜色ない代物なのだ。たしかにドレミーであってもこのように悪夢を複数個重ねて食べることは可能である。
「して、その数は?」
しかし、それは悪夢が少数の場合に限った話。夢というのは不安定なもので、現に存在できる時間は短い。仮に槐安通路という夢と現の狭間のごとき曖昧な空間であっても夢がそれ単体で存在できる時間は多くない。複数の夢を食べるというのは単純にドレミーが頑張って全速で悪夢をひったくり、他の夢にわたり、また頑張って全速でひったくりを繰り返して悪夢の消えるその時に集めた悪夢をまとめて食べるだけである。彼女がドレミーに味を見てほしいと言ってひっこんでからドレミーの前に運んでくるまでの時間を考えれば、たとえドレミーであっても出来て五個。それでもほかの獏たちが聞けば腰を抜かす早さである。
「………」
しかし、ドレミーがこの塊に感じた悪夢は五個どころではなかった。それは何百、何千年と悪夢を食べ尽くしてきたドレミーですら一つ一つの判別は不可能だと感じざるをえないほどの種類、その数――
「――百を超えてから数えるのはやめました」
百を超える悪夢。ドレミーですら一度に保持することはないであろうその莫大な夢の彩。
「十では足らなかったんです」
語り継ぐ獏たちには到底考えも及ばない。
「百でも足りませんでした」
黒く塗りつぶしたような瞳はより深く、より歪に。しかしその顔はとても愉快に。
「いまだ完成には至らずとも私の目指す、ドレミー様に食べていただく完璧な夢の続きの一端がこれなのです」
その莫大な夢を一度に手にすることはドレミーにも不可能である。だがそれは真っ当な方法ならの話である。ドレミーが知る限りで一つだけそれを可能にする方法があるのだ。
「ルーさん」
「はい何でしょう」
「実はこんな話を今日聞いたんです」
しかしその方法はドレミーならできない…と言うよりもしない。何よりも夢の持ち主を重んじる彼女、獏というバグを認める彼女だからこそしないのだ。もっと横暴なら、もっと傲慢なら、もっと尊大なら、もっと横柄であったならそうはならなかっただろう。
「外の世界の人間がどんどん消えているそうな。神隠しなんて言われているみたいなんです。おかしいですよね神隠しなんて」
だから彼女には考えられなかったのだ。しかし、ルーの作った悪夢を口にしてそれは確信となった。
「これは神隠しでもなんでもありません。単に貴方が誘拐したんですよね? ルーさん」