私は泳ぐのが好きだ。それはもちろん私が泳ぐことしか出来ないからというのもあるのだろうけれど、それでも私はこの地に足付けない体に満足している。たとえ地面を踏みしめて歩けなくたって水の中でもお洒落は出来るし、お友達も作れるし、歌だって歌える。そんな瑞々しく、輝かしい私の暮らしの中で一番好きなのが泳ぐことなのだ。澄み渡る水の中、世界が回るように景色がころころと変わるところが大好きだ。私がヒレを動かす度に生まれる水泡はキラキラと光を反射して美しい宝石のようなのだ。
人魚といえば、大体の人が想像するのが人と人魚との間に生まれる悲哀の物語だったりするが、私に言わせればそれはない。なぜならそもそも私の場合、悲哀云々以前に出会いがない。欲しいとも思わないが、私のように湖だけでその生活エリアが完結しているなら新しい出会いなど同性、妖怪でもあまりない。異性、人間なんてもってのほかである。まして私が暮らす湖は人里から遠く離れた位置にあるものだからそりゃもうよっぽどのことがない限り悲哀の恋なんて生まれやしない。私もそれなりに長く生きてはいるが、恋らしい恋はしたことない。私の中の恋愛云々の知識は時たま湖畔に浸りかけた外界の雑誌だの小説だのに限られる。正直、そういった話にあまり興味はないが、そういった雑誌や小説に登場するあるものには興味を引かれる。
「ふむふむ…どこまでも続いている…。青い畳のよう…手の染まるような紺碧……」
それは聞いた話によれば大きく、とても大きく、どこまでも広がっているようにも見えるらしい。水の中には塩が沢山入っていて、そこで暮らせない魚達もいるそうだが、その世界には数え切れない程の生命が自由に暮らし、緩やかで豊かな楽園を築いているらしい。
「あーあ、死ぬまでに一度くらいは行ってみたいな」
私の頭の中で広がるそれは何にもとらわれず、地上に溜まる空のように麗らか。
「きっとそこで思い切り歌えば気持ちいいんだろうな。私も海に行ってみたい」
まあその夢が叶うことはないのだろうけれど。
「と、お思いになっているあなたに朗報です! 夢は叶いますよ! 但し夢の中ですがね」
急に響き、水面を揺らしたのは聞いたことのない声だった。結構大声だったものだから思わず水面を鰭で打ってしまった。
「どなた?」
振り返った先、湖面の上に佇んでいる一人の妖怪。予想通り見た事のない妖怪だった。
「失礼、挨拶が遅れてしまいました。私、ドレミー・スイートと申します。気軽にドレちゃんとお呼びくださいませ」
イエイとブイサインを頬の横にくっつける彼女に思わず私は石になってしまった。
〇
さてさて、今宵のお客様は見目麗しいお姫様。子供の頃に一度くらいは見聞きしたことがあるであろう人魚姫のわかさぎ姫さんである。姫かどうかは知らないが、名前に姫が付くくらいなのだからきっと姫なのだろう。なんの姫か? そりゃわかさぎ達の姫なのだろう。
「えっと、ドレミーさん? スイートさん?」
「ノン。ドレちゃんでいいですとも」
「…ドレミーさん、あなたは一体?」
むう、ドレミーさんなどとよそよそしい。まあ、初対面&素性の知らぬ相手に馴れ馴れしくは出来ないという彼女の性格だろう。こう言ってはなんだが、幻想郷にしては珍しくいい性格である。決して皮肉の意味でなく。文字通り良い、グッドな性格である。
「あなたの夢を叶える妖怪です。夢の中で夢を作るだけの話ということを
「ん? ゆめゆめゆめ?」
頭の上に「ゆ」と「め」をいくつも作って傾くお姫様。ついでに「?」もと言おうと思ったが彼女の体的に、上半身を傾ければ「?」に見えなくもないので良しとする。
話を戻す。
「結論だけ申し上げますと、私が獏という妖怪であり、あなたは今夢の中ということですね」
「夢…夢なのに夢であることを明かしてもいいものなの?」
少し思案顔を見せてから向き直ったわかさぎ姫さん。なるほど、水も滴るなんとやら、かの姿を見た人間が恋をしてしまう気持ちも分かるというものである。
「夢であることを明かしてはいけないというルールは何処にも書いておりません。書いていたとしても存じ上げておりません」
「ふーん、そんなものなの」
「そんなものです。夢なんて自由であって然るべきですよ」
夢に縛られるなど下らない。私が言うのもなんだが、夢など現実の二の次に違いない。ルールに縛られるのは現実だけで結構。
「それで、夢の中で夢を叶えてくれるの?」
「ええ、夢の中で夢を見せて差し上げます。既にあなたは夢の中ですがね」
わかさぎ姫さんの夢は海を見ること。ここで一つちょっとした豆知識と問題を。わかさぎには成長期に降海する遡河回遊型とその生涯を淡水で暮らす河川残留型が存在する。わかさぎ姫さんがどちらか分からない以上、下手に彼女の泳ぐ場所をほいほいと変えてしまうのは怖い。一歩間違えれば悪夢直行である。
しかし、そもそも人魚というカテゴリーに属する彼女が淡水だの海水だのという括りに囚われるかというのもよく分からない。わかさぎ姫というくらいだからわかさぎのあらゆる特性とか持ってたりしないだろうか。
「急に黙ってどうしたの?」
「いえ、少し気がかりが」
クルクル巻いた可愛らしい髪で水面を撫でるわかさぎ姫さん。面倒なのでここは本人に聞くのがいいだろう。
「あなたは遡河回遊型ですか? それとも河川残留型ですか? 或いはその両方?」
こんな質問を生涯でするとは思わなかった。間違いなくこんなイカれた日本語を発するのはあとにも先にも私だけだろう。
「そ…何? かせん?」
あややや…というのは別人か。なんとその名すら聞き覚えがなかったらしい。これはいよいよ確認が面倒である。だが、そんなことすら些細な問題。わかさぎ姫さんがどちらであろうが問題ない環境を私が作れば問題ないのだ。
「なるほど、今のは忘れて頂いて結構です。全て私にお任せあれ」
3、2、1と数えて指を弾けば一変する世界…とはいかず、ただ単に今わかさぎ姫さんが浸かっている湖を50倍ほど広げて塩分をマシマシにしただけである。ぱっと見は水平線の向こうまで水面が広がっているし構いやしないだろう。
「?」
私の指パッチンに首を傾くわかさぎ姫さん。単に私が突然指パッチンしただけとでも思っているのだろうか。まあ、水に浸かっている分には気付かぬだろう。
「回れ右してみて下さいよ。中々に面白い景色が見れるでしょうから」
「後ろ? …っ」
水面を優しく揺らして振り返る人魚姫。息を飲んで肩が少し跳ねたのが分かった。
「いかがでしょう? ご満足頂けましたかね」
「……」
こんな風に感想を聞く瞬間が一番ドキドキである。私なりに全力を振り絞って夢を叶えたつもりではいるけれど、いい迷惑だなんて言われた日には私は首吊りものだ。いや、首吊りはしんどいから火炙り? 火炙りも辛いからギロチン? ギロチンも怖いからやっぱり無しで。命あっての物種。私はしぶとく生き残ってくれる。
元に戻ろう。
「これが海?」
「まあ、一般的に海と認識されているものはこんな感じです。なんならロマンチックに日の出も付けてみましょう」
もう一度指パッチンで輝かしい朝日を登らせる。指パッチンは全く必要ないが演出というものは大事なものだ。海を割る様にキラキラと光が縦横無尽に跳ね回り、我ながら綺麗な光景である。
「どうです? 私の知る海を再現してみたしだいです」
今は幻想郷に海は無いけどもその内に海が幻想入りとかありそうである。アラル海とかそのあたり。
「すっごく綺麗」
「それは良かった」
「泳いでも?」
「ええ、どうぞ。心ゆくまで」
私の答えを聞くより前にぴちゃんと潜って消えたその姿は正しく人魚だった。
「ああ、失敬」
人魚「姫」ですか。
〇
「ふむ、こんなものでしょうか」
あれから自宅に戻り、私はむずっと来た。焼くような日差しの中に走り出し、白く輝く砂粒を足裏に付けてそのままキリリと冷えた水の中に飛び込む、つまりは私も海水浴がしたくなったのだ。やはり何をするにしても本場…とは思ったが、海水浴のためだけに大結界を超えるのも各方面の方々から反感を買いかねない。まあ、単に面倒臭いだけってのもある。
それに私は海水浴はしたいが、人が多いのは嫌である。喧しいのは好きだがうるさいのは嫌。ここは私のこだわりであり譲れないところである。
というわけでモノホンの海に行きたくないけど海水浴はしたい私、どうするかと言えば答えは一つ。
「控えめに言って完璧ですね」
答えは自作。
私のイメージする海をそのままトレースしてみた。外の世界では人が賑わうこと必至のここもココではガラガラのすっからかん。すっからかんで生じる唯一のデメリットは、男女問わずの容姿の整った方々のほぼ半裸と言って差し支えないそのあられもない姿を目に納めることができないことだろう。
そうだ、今度サグメさんを私の海へ招待してみよう。勿論水着は持参で。いつもと変わらず涼しげな顔で立つ姿もそれはそれでいいだろうが、個人的には恥ずかしそうに顔を赤らめながら「そ、そうではない」とか言ってくれるとなおよし。その為には舐めるように、舐め回すようにサグメさんの全身を見つめることも厭わない。厭う理由もない。
「さて、それじゃあ」
うだうだと心の中で喧しく…心の中で留まっていればいいけども…それはさておき。心の中で喧しくしているだけでは折角の海が泣いてしまう。いざ往かんという心持ちで着ている服を投げ捨てて水着を着用してみる。
「…」
ドレちゃん、実は自らにおいて他人よりも数段劣って見えるのはこの体だったりする。まあ、単純に貧相なのだ。何がとは言わないが察してもらえると助かる。
思えば私の懇意にしている人達は「豊かァッ!!!」とは言わないが、私よりは確かに大きい。サグメさん然り、ルーさん然り。手のひらを自分の鎖骨あたりから下ろしていってあるかないかをビデオ判定しなければならないような自分の体が虚しい限りである。
体なんて自由自在なのだから好きなように変えればイイじゃん、なんて言われるかもだがそれをしてしまうと負けを認めた様で悔しいしそうまでしないといけない自分が切なくなるからやりたくない。もちろん、夢の主がどうせならグラマラスボディを見たいと言うのであればその限りではないが。
「まぁ、どうせ誰かに見せるわけじゃ――」
「ーーーーーーーっ!!」
「え?」
突然聞こえた声にならない声。悲鳴にも聞こえないこともなかった。振り返ればそこに奴がっ…まあ普通にルーさんなんだけども。
ルーさんは手に持っていたであろう何かの荷物を砂浜に落として瞳を震わせて口元を覆っている。なんだろう、もしかして私のあまりの貧相さに同情と悲しみを背負ってしまったのだろうか。もしそうならルーさんを殺して私も死ぬ。
「ど、どうしました? ルーさん」
「あ…ぁ…あ…」
漏れ出る声はか細く吹けば飛びそうなほど。というか浜風に飛ばされてあんまり聞こえなかった。
「ルーさ――」
「ィヤッフウウウゥゥゥゥ!!」
突如跳ねたルーさんは私を押し倒すようにして海に沈んでいった。
そこから先はぶっちゃけ酸素不足であまり記憶がないが、確か私の無い胸に顔をひたすら擦りまくるルーさんのバタ脚によって人魚もかくやというスピードで散々海中散歩をしていたような気がする。
わかさぎ姫さんは散っていく気泡が宝石のようだと私に語ってくれたが後ろから凄まじい速度で飛んでいくそれらを見て存外、魚の見ている風景はこんなものなのかと思った。
しばらく海はもういいかな。