キーキーと蝙蝠の鳴き声が聞こえる深夜。伸びる影を辺りの暗闇に潜ませたまま汗をこぼし走る影が一つ。
「はあっはあっ」
駆ける背は小さく、漏れる声は幼かった。それはこの時間にそぐわない歳の、この場所にそぐわない人間の少年だった。
好奇心、冒険心、家出、肝試し…理由を考えようと思えば限りなく挙げられるだろう。しかし、今重要なのは理由ではなく結果である。彼がここにおいて、人里の外において、それも深夜にただならぬ空気を纏って走りこけているという結果が全てなのだ。つまるところ、彼は何の対策もしないままに外に出、そして幻想郷らしくも妖怪に追われているのだ。そして、一般的に言えば、一部特殊な例を除く人間が妖怪から逃げおおせるケースは非常に稀だ。余程間抜けな妖怪出ない限りはありえないことだろう。
「う…お、お母さんっ…お母さん!」
いまだ成熟していない彼の口から漏れたのは人里の内にいるであろう母を呼ぶ声。縋りつくことも出来ない。彼の足だけが彼を生かす物なのだ。
汗と共に彼の後方に飛んだ涙の粒は迫る宵闇にのまれて消えた。その暗い暗い闇の底で赤く目を光らせた妖怪が舌なめずりをした。
「あっはぁ…お母さんかぁ。可愛い盛りね。きっと身もプニプニで美味しいんだろうなぁ」
わざとらしく、彼に聞こえる様に声を響かせた妖怪は恍惚とした表情を強くして追う速度を上げる。
「ほらほら、追いついちゃうわよ。怖い怖い妖怪に食べられちゃうわよ」
「おっお母さん! お母さん! 助けてよっ!!」
耳元で囁かれた妖怪の声に、懸命に腕を振るった少年は足元の木の根に蹴躓き勢いよく転んでしまった。
「痛っ。……うううっお母さあぁぁぁん!」
「あーあー、泣いちゃった。お母さんには会えなかったね」
擦りむいた肌に、少年はついに泣き出してしまう。そんな少年に近づいていく妖怪はうっとりと顔を赤らめていた。
「ちゃんと美味しく頂いてあげるね」
そう言うと、少年の泣き声はふと止み、辺りには木々が擦れる夜の音だけが響き渡った。
〇
大満足!
大満足。いや本当に。
あんまり言いたい事ではないけれど、私の普段の食事ったら質素の極みなもので。
一昨昨日、余りモノの骨っこ。
一昨日、その辺の猪。
昨日、蛙二匹。
と、こんな感じなのだ。これがもう何ヶ月も続いていて、そろそろお腹も限界だった。猪だの蛙だのでは口慰みにはなっても、腹は膨らまない。やはり人間でないとお腹に来ないのだ。その人間さんにはもう長らくありつけていないし。それもこれも人里の守護者の教育が行き届いているせいか、霊夢の注意喚起が行き届いているせいか。なんにせよ、私のような野良妖怪には嬉しくないものだ。
たまに訪れる筈の外来人たちは運悪く私の前には現れてくれないし。もう腹の虫が鳴りっぱなしで気分も最悪だった。
「むふーっ」
だがそれも昨日までの話だ。今日ついに私は人間さんにありつけたのだ。しかも、驚くなかれ。なんと五人もである。こんなのほっぺが緩んでも仕方ない。どうして突然こんなに沢山の人間が出てきたのかはよく分からないけど、そんなのはどうでもいい。私の好みの子供が沢山手に入って私はもうお腹一杯なのだ。こんなに幸せを感じたのも久しぶりである。
「クンクン…はぁぁ。来たァ」
そしてまた鼻に香る特徴的な甘い香り。
「子供だっ」
今日はお腹が一杯だけれど、毎日毎日こんなに豪華な食事にありつけるわけがない。だから私は一杯に膨らんだお腹を擦りながら立ち上がる。備蓄はしっかりしないとまた飢えちゃうから。
「この辺だ」
匂いを辿ること…少し変な言い方になったので注を入れると私は別に普段から匂いを嗅ぎ回っているわけではない。猟犬じゃあるまいしそんなの無理。ってのが普段の話。
今日は余りに空腹状態が続いたからか鼻が妙に冴えるのだ。それか単にまだ見ぬ子供の匂いがキツイだけかもしれない。それならちょっと嫌だなぁ。
「んー…あっ!」
なんてことを考えていれば、ようやく見つけた小さな背中。私の背丈も大概だが、人を食べるんだったらやはり子供に限る。なんせ肉が柔らかいのだ。大人、それも最近に限れば外からやって来る男は肉が硬くて噛み切るのが面倒だし、女は化粧品だの何だので単純に不味い。おまけに痩せ細ってて食いでがない。それに比べて子供は化粧の類も少ないし、肉付きも丁度いいし、柔らかいしで最高品質である。初めて子供を食べた時はそうなのか! と手を打ったのを今でも覚えている。
「さてさて、今は食べないけれど、美味しいといいなぁ」
子供に聞こえぬ様に呟いて忍び寄る。
恥ずかしながら普段の私の狩りの成功率は10%未満。特に昼間は最悪だ。獲物を見つけ、襲いかかる前に暗闇で視界を奪おうとするのだが、その度に私の周りが真っ暗になってしまい獲物を取り逃してしまう。多分、霊夢とかその辺に呪いをかけられてるに違いない。夜はそのまま暗いから私が暗闇を使うまでも無くそのまま襲う。この時は不思議と霊夢の呪いは発動しないのだ。きっと昼間にだけ発動する呪いなのだろう。
「グスッ…グスッ…」
近付けば、子供が泣いているのが分かった。まあ、子供は泣くのが仕事みたいなものだから構いやしない。食べるまでの数分だけでも面倒を見る私のママスキルが上がって仕方ないけども。
「こんばんわ」
優しい声で挨拶して上げると子供はピタリと泣き止むのをやめた。驚いているのだろう。こんな深夜、山奥に話しかける奴なんていないと思っていただろうから。
「迷子かしら?」
やはり返事はない。知らない人には付いていかないを徹底されているんだろう。まあ、私が姿を見せたらきっとその気も失せるだろうけど。なんせ私もガキンチョみたいな見てくれだ。
「実はね、私も迷子なの」
ここで私のこれからの予定をハッキリさせておく。まず、こうやって私も迷い込んだ子供で、安全だというイメージを植え付ける。そうしてお腹が空くまでは一緒に生活をしてやる。その中で私好みの肉になるように食べ物を選定し、太らせる。人間の絵本にあったような作戦だけど、とても的を得ているから即採用。
こうすれば私はお腹が空くまで肉を保存する手間がかからないし、肉はより美味しく仕上がっていく。いいことばかりなのだから、ここは子供に取り入るのに全力である。
「向こうでね、休められそうな場所があったから一緒に行こ?」
子供の肩をつつく。いい年こいて子供の真似をするのも恥ずかしいものだ。
「? …どうしたの?」
子供は動かず、私を振り向きもしない。落ち着き過ぎでしょ。
「ねえねえ。聞こえでっ!?」
肩を掴んで振り向かせると同時に私の下顎に衝撃が走り、勢いよく吹っ飛んでしまう。
「ったいなぁ。何すんのよ糞ガキ…っあ?」
子供らしからぬ力強さに涙目になりながら、多分赤くなっているのであろう顎をさすりながら、顔を上げた所目の前にはここにいるはずのない人の姿。
「れ、霊夢!? どうして!?」
「……」
さっきまで子供がいた場所には表情のない霊夢。右手に幣、左手に針を携えて本気モードもいい所である。それに子供が消えていた。
「霊夢、そこにいた子知らない?」
にじり寄る霊夢に私は冷や汗をかきながら尋ねる。私はルールを違反してないし、霊夢に怒られる筋合いもないのだから怖がる必要も無いけれど、霊夢の真顔は誰だってビビると思う。閻魔がマジ切れしながら金棒を振り回しているのに近いイメージ。閻魔なんて見たことないけど。
「霊夢?」
「……」
やはり返事をしないままゆっくり歩いてくる霊夢に嫌な予感がする。
「れ、霊うわ!?」
近付いてきた霊夢はそのまま幣を振り下ろしてきた。ギリギリで飛び退いたはいいが、当たったら頭から真っ二つであったろう。
「何で!? 私、何も悪いことしてないよ!」
「……」
聞いても霊夢は言葉を返さず、針を構える。こんなの逃げるしかない。きっと霊夢の機嫌が悪い日なのだ逃げよう。災害みたいなものだ。
そう思い、私は全速力で飛ぶ。背後からついてくる気配は感じられない。やはり単に機嫌が悪い時に見つかっただけだろう。
――と、思ったのだけれど。
「げえ…」
急ブレーキ。いつの間にか私の前には霊夢が、やはり同じように針と幣を持って待っていた。
「あの、霊夢? 私別に人里に入って襲った訳じゃないよ?」
「…」
相変わらず会話はしてくれないらしい。もしかしたら私が気付いていないだけで、異変でも起こっているのだろうか。確かに、よく聞く話として霊夢は異変時には見かけた妖怪を片っ端から退治していくらしい。かく言う私も紅魔館がやって来た時には手酷くやられた。通り魔もいいところだ。
「何か異変? 私は何もしてないよ。だから退治しないでね」
「……」
「本当だよ」
「……」
会話にならない。徐々に近付いてく霊夢にいよいよ恐怖。いつもは異変時であってももう少し話になるのだが、今日はそういう訳では無いらしい。なんだか昔の博麗の巫女みたいだ。
となれば、やはり私の取る方法は一択。逃げである。
「もう! 今日はいい夜だと思ったのに!」
今日はお腹いっぱいで、備えも出来て素晴らしい日になると思ってたのに。
〇
「はあっはあっ…。何なのよ」
そう言ってルーミアは傷口から滴る自分の血を拭う。息を整えるルーミアの背後から草をかき分ける音。それを聞きつけてルーミアはオーバーに首を振った。
「もう来たし。ああ、早く朝にならないかな」
近付いてくる霊夢の気配にルーミアは飛び上がり、傷が塞がるのを待たずに逃げ出した。その足を捕まえた霊夢の細腕。霊夢はそのままルーミアを地面に叩き落とした。
「いったい! もうっ、早すぎ!」
作った弾幕を牽制にばら撒きながら立ち上がろうとしたルーミアだったが、体が地面に縫い付けられた様に動かずつんのめった。
「げげっ、札ぁ!?」
ルーミアを投げた着地点にビッシリと敷かれた霊夢の御札がバリバリと音をたてながらルーミアを縛っていたのだ。ルーミアが動け無いことを見た霊夢は周りに七色のどでかい光弾を浮かび上がらせる。
「ちょ、たんまたんま! それは死んじゃう死んじゃう!!」
危機を察したルーミアが動かない手足で、涙を流しながら命乞いするも、霊夢は表情を見せることなくその光弾を放った。
「いやぁ、やっぱり悪夢は手作りに限るわ」
彼女の足元、光弾の炸裂する光に笑みを深めた獏。ルーミアの悲鳴をBGMに星空を眺めるルーはクルクルと指を宙で舞わせて心底楽しそうである。
「いい夢を見てる奴を悪夢にたたき落とすと味も良くなるのね。いい事知ったわ」
ふんふんと鼻歌交じりの彼女は静かになったルーミアをチラと見る。跡形もなく消されたルーミアに獏は更に笑みを深くした。
「本来なら、夢の中でこうやって死んだら大体は醒める。けれど貴方は中々出来がいいから夢は終わらせない」
ルーが指をパチンと鳴らすと、先程までルーミアが縛られていた場所に傷一つないルーミアが現れる。
「あれ? 私…」
困惑気味に立って惚けるルーミアだったが、目の前に霊夢がいることに気付き、大急ぎで逃げ出そうと回れ右。
「振り出しに戻るってとこかしら。まあ、戻ろうが何しようがアレが悪夢から醒めることはないんだけど」
そうしてルーは座り直す。そうして目を閉じ、遠くでルーミアの悲鳴が聞こえる度に笑みを深くし、指を鳴らすのだった。
「中々いい悪夢作るじゃない」
〇
「毎度おなじみ文々。新聞で御座います。霊夢さんどうぞ一部」
「いらないって言ってんでしょ」
「まあまあ、今日は面白いニュースもありますし」
とある日の朝。境内の石畳を箒で掃く霊夢の元に烏天狗である射命丸文が舞い降りた。文は脇に抱えた新聞束から一部取り、霊夢の胸元に押し付けた。
「面白いニュース? 面白がってアンタが作ったニュースの間違いでしょ?」
「失敬な。私がニュースを作るなんてなんの根拠があっての発言ですか。読者の好奇心を煽るべく、刺激的な表現を選ぶことはありますが、全くすべて作り物の事件なんて作っても面白みがありません」
「だから面白くないって言ってんのよ」
そう言いながら霊夢は新聞を広げた。目を走らせた霊夢は顔を上げて首をかしげる。
「いつも通りのゴシップばかりじゃない。一番面白そうなのは『寺子屋女教師、熱愛か!? 』 ってやつだけね」
「や、確かに慧音さんの熱愛記事は気になるでしょうがそれではなくてですね。ほら、その裏の記事の」
文が指さしたのは一面の下部。どちらかと言えば小さな枠に収められた記事だった。
「ちっさい枠ね」
「まだまだ情報が少ないもので」
「なになに、『消える妖怪。神隠しか?』ってまた紫が何かしたの?」
ため息をつきながら顔を上げた霊夢に文はニヤつきながら返す。
「どうでしょうね? 私の考えでは八雲紫の犯行ではありませんが」
「なんで?」
「意味が無いからです。八雲紫が外の人間を攫ってくるのは幻想郷にとって必要な事ですが、幻想郷の…しかも妖怪なんぞを攫ったところで彼女にも幻想郷にもメリットはありません」
「紫の行動が意味わからないのはいつも――」
言いかけた霊夢の口に文が指を立てる。
「寧ろ! みだりに妖怪の数を減らすことは悪影響です」
妖怪の数が減れば減るほど幻想郷は外界に近付いていく。かと言って増えすぎても食糧となる人間が足りない。幻想郷のバランスを取っているのは妖怪の数と人間の数なのだ。それを誰よりも理解している筈の紫が妖怪の数だけ一方的に減らすという事は考えづらいと、文は考えているのだ。
「まあ、確かに。なら誰よ?」
「さあ? 皆目見当がつきませんね。暫く様子見でしょう」
肩を竦めた文に霊夢はガッカリしたようにため息をついた。
「なんだ。駄目じゃない」
「私は探偵でも警察でもありませんからね。ですが何か心当たりか、気になった事があればまたお聞かせください。それでは」
一息にそういった文は返事を待たずに羽を開き、風のように空を駆けていった。
「まったく…。せっかく集めたゴミが散らばったじゃない」
呟きながらまた箒を動かす霊夢は何かを思い出した様に不意に止まる。
「神隠しって最近どっかで聞いたような…まあいいか」
喉元まで出かかった何かを呑み込み、呑気な巫女さんは掃き掃除に夢中になった。