「一々心配しないでよ。私は慧音よりも長生きなんだから」
「乱れた生活は気すら乱すものだ。私より長生きなら尚更しっかりしてくれ」
「はいはい」
そう生返事を返すとどんよりとした流し目で見てくれる彼女、上白沢慧音。歳を重ねるごとに固くなっていくのは生き物の性なのだろうか。昔は厳しいながらに優しかった慧音も今や頑固なお婆さんになってしまった。
「しかし、慧音が寺子屋を辞めてもう何年? 百年くらい?」
「…そうだな、百と二年だ」
そう、慧音は約百年前に寺子屋の教職を辞めた。理由は年齢の増加に伴う体力の低下である。慧音が教師をやめると聞いて、慧音の事を昔から知る人里の大人たちは驚き、労いの言葉を口にしていた。悪さをすれば男女関係なく頭突きをお見舞いしていた先生が体力の低下を理由にその職を離れるのだ。人々にとってショックは大きかった事だろう。
「百年か。もうお婆さんだね」
「……五十も百も変わらないさ。ただ、流れていくだけなんだから」
そして何より私のショックが大きかった。
蓬莱の薬を盗み出し、人をやめて幾百年。人間らしく生きることを諦めかけていた私と出会った慧音はまだ幼かった。
『誰?』
『……さぁ? もしかしたらお前を食べてしまう妖怪かもしれない』
『あなたは妖怪じゃないでしょ?』
『妖怪みたいなものよ。しぶとさだけならまんま妖怪』
『ううん。貴方は人間。私には分かるわ』
生意気だと思った。人生の酸いも甘いも分かっておらず、半獣であることを隠すことも出来ない子供に私の不死性から逃げていた姿勢を咎められているような気がしたのだ。
『うるさいな。生意気なこと言ってるとほんとに殺すぞ』
『怖くなんてない。貴方は私を殺さないもの』
まるで全てを見透かす様な真っ直ぐとした瞳だったのを今でも覚えている。もしかしたら本当に全て分かっていたのかもしれない。万物に通ずると言われている白沢様なのであればそうであっても不思議はない。
『…っち! 可愛くない奴。精々、長生きしろよ』
そこで終わり。すれ違っただけ、ほんの少し言葉を交わした関係で終わると思っていた。
『なんでついてくるのよ。どっか行ってってば』
『貴方についていけば長生きできると思ったの』
『…勝手にしたらいい。世話なんてやかないよ』
『うん』
私にとっては些細な生き物だった。私の終わらない人生のほんの一部なだけくっついたほんの些細な。
『ほら妹紅も食べて』
『いらないって。食べなくたって生きちゃうんだから』
『そんな事では真っ当に生きることなんて出来ない。人間らしく生活しなきゃ』
随分と馴染んだものだ。ほっときゃ死ぬだろうと思って無視し続け、気付いたら慧音だけは大きくなっていた。私に対しても親しげに話すようになった。それでも当時は一つだけ不思議な事があった。
『お前はさ…全然笑わないし、怒りもしない。泣きもしないし怖がりもしない。私にはお前が何考えてるか分かんないよ』
慧音は全く自分のことを話もしなかった。だから私には慧音が分からなかったのだ。
『私は……』
それきり黙りこくってしまった慧音を見て私も拗ねて、もういいよとか言って不貞寝したのだ。
そんなよく分からない関係のまま年月は過ぎて、ある時事件が起きた。事件とは言っても、あの時代なら何処でも聞けたような話だ。妖怪に襲われた、ただそれだけの話。慧音のことだって知らない仲じゃなかったから毎回妖怪は撃退していたのだけれど、その日は私の手には負えない奴だった。
『あなたが最近この辺で妖怪を殺して回ってるって人間?』
ソイツは鬼だった。羅生門の茨木鬼、京都大江山で頼光たちが退治し損なった酒呑童子が一派の首魁であった。もちろん私たちも京都を渡る上でそういった連中の注意はしていた。だからこそ茨木童子と出くわしたその瞬間に慧音だけでも逃がそうと動いたのだ。
『いきなり目突きとかいい趣味してるじゃない。もしかして片腕がないからって馬鹿にされてる?』
見様見真似の陰陽術なんて勿論効かなかった。それでも構わなかった。ただ、目くらましになれば、足止めになればと思っていた。
『特別な力があるわけでもない、至って平々凡々のガキ。こんなチンチクリンに退治されるなんて京の妖怪も底が知れるわね』
早々に私の右腕を食い千切り、腹を貫いた鬼。わずか数十秒の時間しか稼げなかったが、それでも半獣の慧音なら遠くまで逃げることは出来る、そう思ってた。
『あら? 貴方は逃げなくていいの?』
『…お前なんて怖くないわ』
そこには子供が立っていた。スカート端を強く握って、いつもと変わらぬ表情で鬼の前に立っていたのだ。
『何で…逃げなさいよ!』
『彼女はああ言ってくれてるわよ?』
『二度も言わせないで貴方なんて怖くないわ。天から与えられた力にあぐらをかき、のうのうと欠伸をこぼしてきた貴方に、地べたに這いつくばって泥を啜ってでも生きのびてきた私たちは殺せない』
私には慧音が本気なのが分かった。強ばった頬も、泣き出しそうな目も全部必死に生きている証なのだ。
『ふふ。貴方みたいな身の程知らずの糞ガキは大嫌い』
『危ないっ!』
重たい体を無理くり跳ねさせ、慧音の前に立つ。慧音に向けた鬼の拳はまたもや鋭く私に突き刺さった。
『まだ動けるんだ。しぶといのね』
『慧音! 気持ちは分かったけどっ、それでも今は逃げて! それだからこそ今は逃げて!』
『そうよ。コイツの言う通りにしておいた方が身のためよ。その代わりコイツは殺すけどね』
『そいつは無理な話ね。だって私は死ねないもの』
ふーん、そう言って鬼はそのへんの木の枝でも手折るかのように私の首をもいだ。意識が途切れ、再び目覚めた時には鬼の大きく見開かれた目と目が合った。
『不死者なんて本当にいたんだ』
『ああ、だから――』
『じゃあ殺し放題じゃない』
そこからは悲惨だった。文字通り千切っては投げ、千切っては投げ。私の痛みもそうだが、何より体力が底をつくのも間もなくの事であった。
『なんか飽きてきたわ』
私を殺し飽いた鬼は返り血まみれの顔を持ち上げ、そして笑った。
『ぷっここまで来ると傑作ね。ちょっと、貴方』
上体すら起こせない程絞り尽くされた私の髪を乱暴に持ち上げた鬼。言いようもない睡魔に襲われていた私は直ぐに目覚めた。
『なんでっ何でいるんだ!』
『あっはっはっは! 馬鹿ね、大馬鹿だわ。貴方も何のために何十回も殺されたのやら』
そこにはやはり、先ほどまでと寸分も違わぬ表情で慧音が鬼を見据えていた。
『ねえ、貴方。貴方は何で逃げないの?』
『私もっ妹紅も! お前なんかに負けるもんか! お前なんかに私たちを終わらせてたまるもんか!』
唇を震わせる慧音にすっかり萎えた心が沸いた。けれど私のこれまでの生活が尾を引いたのか、単純に私の根性無しか、立つことは出来なかった。私の肉体はとっくに限界だったのだ。
『いいわ、じゃあ貴方だけはきちんと殺して証明しましょう。鬼の恐ろしさを教授してあげようじゃない』
私の頭を地面に投げ捨てた鬼がゆっくりと慧音に近寄っていく姿が見えた。
『駄目…やめて…』
空しくなるだけの言葉すら鬼には届かなかった。
パチパチパチ。そんな乾いた音で目を覚ました。秋の日暮れに寒々しい空気に晒されていたであろう私の死体も何故か暖かいままだった。
『起きた』
『どうして…慧音がいるの?』
『言ったでしょ。私は殺されないって』
それは初めて見せた笑顔だった。服は破れ、そこら中に切り傷を作った彼女の痛々しいほどに気持ちのいい笑顔だった。
『鬼は?』
『逃げていった』
『嘘ばっかり』
『本当よ』
そう言って慧音は半獣の姿になった。尻尾がはえ、立派な角が突き出した。
『白沢は歴史を創り食らう聖獣。私を殺そうとするならこれまで私が食らってきた膨大な歴史と戦うことになるの。白沢は何でも殺せるし、何にも殺されることは無いわ』
『不死ってこと?』
『ううん、白沢は死ぬ。ご飯を食べなければ死ぬし、病気でも死ぬ。寿命だって人より長いだけで、キチンと死ぬ』
不完全な不死者、けれど私にとってそれよりも大事な事があった。
『何でも殺せるの?』
『…歴史ある者なら』
『なら私を殺してくれ』
唯一だ。
私を殺す唯一の存在が慧音なのだ。薬を飲み、死なぬことに優越感を覚え、直ぐに絶望し、己の短絡さを呪った。その苦しみの果てが向こうの方から私にやってきたのだ。こんな運命があるのか、神はいたのだ、そう思った。
『いや。私は人殺しにはならない。なりたくない』
『私は不死よ。とっくに人間なんてやめてるよ』
『初めて会った時に言ったわ。妹紅は人間。妹紅は殺せないわ』
『…そうかよ』
腹が立った。けれど怒鳴り散らす気には不思議とならなかった。もしかしたらあの時から私の心臓は再び動き始めたのかもしれない。
「妹紅、どうかしたか?」
「ああ、ごめんごめん。少しだけ昔の事を思い出していたんだ」
箸が止まった私を覗き込むお婆さん。と、こんなことを考えていたら怒られてしまうかもしれない。けれどその目尻の、手の甲の、首筋の皺が嫌でも私に慧音の老いを感じさせるのだ。
「何を年寄りのような事を」
「私は慧音より年寄りさ」
「そうだったな」
「ああ、そうさ」
もう慧音は長くない。医者が言ったわけでも、死神に告げられたわけでもない。けれど人より長く生きて、人より多くの死を見てきた私には分かるのだ。慧音はもう一年はもたない。
「なぁ、慧音」
「なんだ、妹紅」
だからこそ、昔を思い出したのかもしれない。彼女がまだ生きている今だからこそ。
「頼みがあるんだ」
「…こんな年寄りになんの頼みがあるって言うんだ」
「簡単な事さ。老いた慧音でも簡単にできる」
私は温かみを知ってしまった。一人でいることに苦しみを感じるようになってしまった。慧音がいない世界で私はこれから何千、何万、何億年も生きていく事なんて出来ない。
「私を殺してくれ」
〇
「私を殺してくれ」
ああ、ついにこの時がやって来てしまった。私がこぼした嘘が実を結んで花開いてしまった。もう何年前か分からないあの会話。忘れてしまえばよかったのに、とうとう後戻り出来ない所までやって来てしまった。
私はあの時嘘をついた。
白沢は歴史あるモノなら何でも殺すことが出来る、そう言った。殺されないというのは本当だが、白沢にそんな力は無い。あの鬼が去ったのも私に殺し飽きたからだ。撃退したんじゃない。
では何故彼処で私が嘘をついたのか。それは私が妹紅に依存していたからだ。初めこそ自暴自棄で付いて行っただけだったが、次第に彼女がいなければ耐えられなくなっていたのだ。幼心の親に抱く感情とも少し違う。恋愛感情とも少し違う。依存という他ない、そんな感情を妹紅に抱いていたのだ。
当時、妹紅が私を邪魔に思っていたのは明白だった。だからこそ、妹紅を私に依存させる理由を作る必要があったのだ。だから私は嘘をついた。私こそが妹紅の死地となれると、取り返しのつかない嘘をついたのだ。
私のエゴで妹紅を期待させたまま、私はここまで生き長らえてしまった。私が人間の妹紅を殺してしまったのだ。私が妹紅をただの化け物にしてしまったのだ。
「……」
「慧音?」
死にかけの老体だが、こんな状態になっても私はまだ我が儘を捨てきれないでいる。妹紅に真実を告げて、失望されることを怖がっている。そして、妹紅を失望させることに恐れを抱いているのだ。
私の嘘で成り立っていた奇妙な関係は居心地が良すぎた。汚い私には勿体ないくらいの心地よさだった。
だが、それももう終わりだ。妹紅に真実を告げる。
自分勝手な事は分かっている。私の醜さは私が一番よく分かっている。
「慧音?」
分かっているが耐えられない。これまでどれだけの時間を彼女と過ごしてきた。どれだけ彼女に救われてきた。私はそれを裏切るのだ。なんて醜い。なんて汚い。なんて狡いのだろう。そして私だけは死をもって逃げおおせるのだ。
ほとほと自分が嫌になる。涙を流せば許されるなんて思っていなくとも涙が止まらない。地に這いつくばり、泥を啜って生きていくだけの覚悟が私には無かったのだ。
「妹紅っ…本当に、本当に済まない……」
言え。
言うんだ。
死ぬまで隠すことなんて出来やしない。死に際には一人が私にはお似合いだ。
「私はっ…私は嘘をついた。取り返しのつかない…本当に愚かな…馬鹿な嘘だ」
妹紅の顔を見ることが出来ない。私はやはり逃げることしか出来ないんだ。
「…私では妹紅を殺すことは出来ない! あの鬼を退治したって言ったのも全部嘘だ! 私はっ私はお前に捨てられないために! 捨てられたくないからっお前を騙して、利用して…台無しにしたんだ…」
嗚咽。
老いた体では涙も簡単に止まってくれない。童の様にエグエグとえづく私の音だけが聞こえていた。しばらくの沈黙のあと、今だ下を向いたままの私の肩に手が乗った。怖かったから私はずっと地面を見ていた。
「顔を上げてくださいませ。悪夢の時間は終わりです」
「!!」
聞き覚えのない声に顔を上げて気付く。私の肩に置かれた腕は妹紅のものでは無かった。
「誰だ!?」
「その前に、そのお姿では何かと不便で御座いますでしょう。どうぞお戻りください」
そう言って目の前の妖怪が指を振るとたちまち私の姿は若かった頃へと戻っていった。
「なっ!? なに!?」
「それでは気を取り直しまして、私ドレミー・スイートと申します。気軽にドレちゃんとお呼びください」
〇
今回の悪夢は過去の後悔。有り得るかも知れない未来予想。事の顛末を最後まで見届けようとも思ったのだけれど、涙に暮れる慧音さんを見ていてもたってもいられなくなったのだ。美人に涙は似合わないというのが私の自論なのだ。
「ドレミー・スイート…?」
「ノンノンっ、ドレちゃんで結構ですよ。」
「何者だ? 場合によっては」
ギロりと私を睨む慧音さん。見目麗しいその瞳で凄まれても照れるだけなのだが、敵視されているのも勿体ない。せっかくならお近付きになろうではないか。
「事の次第は慧音さんがよくご存知の通り。ただ一つ、慧音さんが認識しておられないのはここが夢であるということです」
「何を言っている?」
「貴方が先程までいたのもここも夢なのです。だから獏である私がここにいる」
「獏、獏だと?」
すっかり私のことを不審者だと思い込んでいる慧音さん。知らない人には着いて行ったらいけないというのを教える立場にある人だ。疑り深いのはある意味自然なことだろう。
「獏らしくあなたの悪夢を処理したのです。決して貴方に危害を加えようなどとは思っておりません」
「さっきまでの妹紅も…」
「すべて夢物語。割れて消えるだけの薄っぺらな幻像ですよ」
ただ、過去に慧音さんが嘘をついたというのは本当の事なのだろう。と、すればおそらく慧音さんが似たような夢を見るのも一度や二度ではないはずだ。
「…案外、自分がついたウソはバレるものですよ。親しい人なら尚更に。きっと貴方がついた嘘も妹紅さんにはバレてます。だから貴方が嘘をついた時に深く聞いてこずに寝た振りをしたんです。罪悪感に駆られた慧音さんは何だか深読みなさっているみたいですがね」
不思議と怒鳴る気にはなれなかったなんて都合のいい展開があるわけが無い。罪意識とは恋以上に人を盲目にするものだ。
「何を勝手なことを!」
「私は慧音さん程に誰かを愛したことはありませんが、恐怖するより信頼する方が精神衛生上いいのでは? と未熟ながらにアドバイスさせて頂きます」
「あ、愛!? ふざけるのもたたたた大概にっ!」
あわわわと直ぐに顔を赤くする慧音さん。恋愛感情でも無いなんて言っていたが私からすればモロそれ。随分と純な思いだこと。
「とにかく、一度妹紅さんに聞いてみてはいかがでしょう。未来を変えるのはいつだって些細なことですよ」
ぐるぐると目を回したままショート寸前の慧音さん。この姿を人里の男衆に見せてやりたいものだ。隠れファンクラブメンバーなら卒倒ものだろう。ギャップ萌えってやつだ。おっと、これは言ってはならないんだった。失敬失敬。
「それでは良い
〇
「も、ももも妹紅! 話があるんだ!」
「ん? 何さあらたまって」
「わ、私は―――」
「おっとっと。ここから先は二人のお話。部外者はさっさと退散です。馬に蹴られて死ぬなんてマヌケ晒したくないでしょう?」