Deathberry and Deathgame Re:turns 作:目の熊
現実世界に戻った俺は、ベッドの上で上体を起こした体勢から動くことが出来なかった。
無力感とか哀惜とか、そういう重たいものが一気に来たような虚脱の感覚。時間にしたらほんの数秒かもしれない、けどずっと濃密なその時間を、ただじっと項垂れたままでいた。
冬が明けきらないせいか、未だに早い日の暮れを示す淡い臙脂色の陽光が、動かずにいる俺の五体を容赦なく照らしている。かつてアインクラッドが崩壊した時に似た雲の一つも無い空からの光なのに、あの時と違って、温かみなんてものは一欠片も感じられない。
仲間が一人、現世から旅立った。
確率がゼロになることなんか絶対にない、必至の別れ。
ウチで何度か見たはずなのに慣れる兆候の片鱗さえ見えない、いや慣れちゃいけないもののはずだ。この先の未来で医師として割り切ることがあったとしても、絶対に失えない冷たい思念。陽の温かさを掻き消してるのは、きっとそれだった。
気力を腹の底から引きずり出し、アミュスフィアを外して他所に放り、ベッドから降りる。何気なしに自分の部屋を視線で横ぎった……その先で、五角形の板に焦点が合う。髑髏を模したマークが描かれたそれを手に取り、半ば無意識で胸に当てた。魂の抜けた肉体が後ろのベッドに倒れ込み、死神化した俺は窓を開け放つ。
今、家に居るのは遊子と夏梨だけ。親父が仕事で居ないことは知ってたが、ついさっきまでALOにいたはずのルキアさえ、家の中にも近所にも霊圧を感じ取ることが出来なかった。
理由を自問する前に脚が窓枠を蹴り、身体を宙に躍らせる。霊子で足場を作って着地した俺は、そのまま瞬歩で自宅を後にした。
……別に、魂葬してやろうだなんて思ってるわけじゃねえ。
あんなに満たされた表情で逝った奴に、そんなお節介が必要だんて思わない。アスナの膝の上で、眠るように旅立ったあいつがこの世の留まってるだなんて思えやしなかった。
確かに現実世界じゃまだまだやりたいことが山ほどあっただろうが、同時に仮想世界で手に入れた大事なものも、同じくらいにあったはず。最後の至福の微笑は、確かにそれを自覚できている顔だった。今頃、ユウキの魂は現世を抜け、尸魂界へと旅立ってるはずだ。俺たち死神の出る幕なんざ、きっとない。
百歩譲ってあったとしても、それは神奈川駐在の死神の領分であって、友人の名目を振りかざした俺の出しゃばるところじゃない。ただ、あいつがちゃんと無事に旅立てたのか。それを知るためだけに、今こうして向かってるんだ。
自分で自分に言い聞かせるようにしてそう考えながら瞬歩を繰り返し、神奈川の海辺に立つあの大きな病院を目指す。死神になった頃と比較にならない速力で駆けているはずなのに、目指す先に辿り着くまでの道のりが、やけに長く遠いものに感じられた。
病院の上空に辿り着いたとき、すでに空は全天真っ赤な濃い夕焼けに覆われていた。
最先端の技術で作られた近未来的な外観の巨大な建造物が、今だけはただの無機質な石棺に感じられた。行き交う人の数も、前に来たときよりずっと少ないように見える。
それは、単に病院の受診可能時間の終わりが近いせいなのか、一人の人間が死んだ余波みたいなものなのか、
――それとも、最上階中央から感じられるユウキの微小な霊圧に、俺が全神経を持っていかれてるせいなのか。
なんでだよ、とは言わねえ。
やっぱりか、とも言えねえ。
ただこうやってここに居ても感じられる微かな魂の気配は、間違いなくユウキのそれで。その事実はそのまま、ユウキが
死して尚この世に留まる魂には、何かしらの思い残し、未練が存在する。
他人に未練が在ったら憑き霊に。
土地に未練が在ったら地縛霊に。
そして、自分自身に未練があるやつは浮遊霊になって、切れた因果の鎖を揺らしながら成仏か魂葬の時まで彷徨い続ける。
俺の霊圧感知じゃ、弱弱しい整の霊圧だけじゃそのどれなのかは判断つかねえ。けど、あいつがこの苦しみ続けた世界に留まるくらい、悔いたり思い残したことがあったのは紛れもない事実。
それがそのまま形容できない激情になって、代行証の霊圧制御を引き剝がしかねない勢いで襲いかかってきた。ぎりぎりのところで抑え込みながら、喜怒哀楽のどれとも言えない、ただ自分で自分を殴り倒したくなるような感覚を押さえつける。
……なにも、考えてなかったわけじゃなかった。
ユウキが《絶剣》の全てを賭け、自身の身体を消耗させてまで戦いを挑んできたあの日から、何度も自己否定しながらもずっと思ってきたことがある。
あいつの楽しそうな笑顔を見るたびに、「あの時の戦いが無けりゃ、その時間がもう少し延びたはずなのに」と、自分自身が一番嫌いなはずの仮定を思い起こし、その度に日常の多忙さで捻じり潰してきた。あいつの命を奪ったなんていう、驕りと言われても仕方ない過剰な自意識を何回も何十回も繰り返して力任せに押し殺してきたんだ。
あの戦いに正誤なんかない、ユウキがこの世から旅立つその最後の瞬間まで魅せられ続けたくらいに最高の戦い。自分でも心底そう思ってるくせに、整合性を無視するような後悔の破片が、どうしてか俺の内に宿り続けている。どう足掻いても飲み干せないペットボトルの水の最後の雫のように、些末で小さい、けれど確かなもの。
それでも、戦うことしか出来ない、その力しか磨いてこなかった俺には、どうしてやることもできない。
もしここに居るのが井上だったら、魂に刻まれた生前損傷を癒してやれたかもしれない。
浦原さんだったら義骸に入れて、ほんの少しだけ現世を謳歌させてやれたかもしれない。
そうやって、残っちまった未練を自分の手で果たす機会をくれてやれたかもしれない。俺自身にできなくても、二人を呼べば実現できる未来。けどそれに手を貸すような奴らじゃないし、何より俺自身が手を借りたくなかった。
俺との戦いで命削った奴への義理返しに他人の手を借りるなんて絶対に有りえない。手前一人の義理なら、手前だけで全部返しきるのが筋だ。
自分がどうしたいのか、考えがまとまる前に足が前に出る。一歩、二歩、三歩と空中を進んで行くが、ほんの数メートル動いたところで立ち止まった。脳裏に木霊する、昔に聞いた声のせいで。
『――死神は全ての霊魂に平等でなければならぬ!
手の届く範囲、目に見える範囲だけ救いたいなどと都合よくはいかぬのだ!!』
顔も名前も性格も、イヤになるぐらいよく知ってる死神。
俺が死神になって間もないころに突きつけられた説教。今考えたら当然のこと。自分の好き勝手で死神という存在を使うな。ガキの俺が思い知った、力の振るい方。
その叱咤に押し戻されるようにして、踏み出しかけていた次の足が後ろへと下がり……そうになったその瞬間、再びリフレインする声があった。
『あの子、もうすぐこの世を去らなきゃならないんだよ? そして、長い長い旅が待ってる。その最後の願いが……叶わないなんて、淋しいよ。
――あげたいんだ。せめて最後に、いい思い出』
顔も名前も性格も、何一つとして思いだせない誰か。
思いだしたはずの声さえ、次の瞬間には記憶から消えていった。けれど確かに、俺に向かってそう言った奴がいた。理屈なんてどこにもねえ、ただ感情だけで紡がれたはずのその台詞に、その優しさに、下げかけた足を踏み留める。同時に思い出す、昔くらった、説教の続き。
『半端な心持ちでその子供を助けるな! 今、そいつを助けるというのなら……他の全ての霊も助ける覚悟を決めろ!
どこまででも駆けつけ――その身を捨てても助けるという覚悟をな!!』
頭の中が一気にクリアになった。
さっきまでの逡巡が消え去り、踏み出す足に力が入る。気持ちが確固として俺の中に居ついた証拠だった。
そうだ、何も特別なコトなんかじゃねえ。死神になってからもずっとやってきたことだ。ガキの霊を魂葬もしないであやして帰ったことも、ピンチになった仲間のところに駆けつけたことも、攫われた仲間を助け出しにいったことも、全部同じ『護る』ことだ。自分の何かを犠牲にしてでもやってきた、何も変わらない選択だ。
俺はユウキと闘い、力と引き換えに、アイツの心を護ってやれた。
けどその代わりに、幾ばくかの命を奪うことになったのも事実。
なら、その失っちまった分をきっちり返してやって初めて、ユウキを護り抜いたことになる。それをやった結果、俺が後からどんな誹りを受けようが構わねえ。
今からやることは、誰だろうと絶対に手出しさせやしない。そのかわり、全部終わったらその責任は逃げずに全部受け止める。死神の規則に反するってンなら、罪だろーが罰だろーが何だって背負ってみせる。
だから俺は――もう一度、ユウキと会う。
その未練を、晴らす手助けをするために。
◆
臨終患者が出たせいか、だだっ広い病院内の空気は慌ただしかった。
白衣を着た医者や看護師が足早に行き交うおかげで、特に通行に困ることはなかった。人の乗り降りに合わせてエレベーターで上の階に上がり、無菌室に続く直通ゲートを目指して進む。
途中、見知った奴の姿を見た。
ラウンジのソファーに突っ伏し、肩を震わせる制服姿の女子生徒。傍には女の看護師が付き添っているが、会話する様子はない。
ユウキの最後を仮想世界でも、現実世界でも看取ったアスナの後ろ姿を、俺は少しだけ立ち止まって見る。俺以上に長くユウキと共に行動してたアイツを差し置いて俺だけ会いに行くってのは、今更ながらちょっと卑怯な気もした。
けど、ここで引き返すわけにもいかない。一度決めたんなら最後まで押し通す。視線を切ってラウンジを突っ切り、丁度開いた直通エレベータに乗って最上階へ。セキュリティゲートもスルーして、ユウキの霊圧の根源へ向かう。
普通なら遺体は死後すぐに自宅搬送なり霊安室に送られるなりするはず。てっきり遺体と同じ場所に居るとばっかり思ってたんだが、感じられる霊圧の出処は半月前に来たときと同じ、あの部屋だった。自分が三年間を過ごしたメディキュボイドに思い入れでもあったせいなのかと推測しつつ、ついに目的の部屋に辿り着く。
開け放たれたドア。この入り口からほんの三、四メートル向こうにユウキが居る。
柄にもなく少しだけ緊張したが、ふんっ、と息を一つ吐きだし、足を踏み入れる。大小様々な機械が脇に押しやられ、中央にベッドが一つ、それからその上に覆いかぶさる巨大な白い機械の箱。予想してた通り、そこにユウキの骸はもう無くて、
――その代わりに、灰色の眼でこっちを見据える、薄緑色の病衣を纏ったユウキの
一瞬だけ驚いた。俺が来るのが分かってるように見てるもんだから、視力を失くしててもてっきり俺の姿が霊圧知覚で見えてるのかと思った。だが至近で霊圧を探っても、ユウキから霊力は感じられない。
生死の境に身体を晒して「火事場の馬鹿力」を引き出した以上、将来的に目覚める可能性はあるかもしんねえが、少なくとも今は、こいつに力は宿ってない。焦点の合わない目をただ開いて、何をするでもなく佇んでいるだけだ。
全身の肉が削げ、透けるように色素の薄いユウキの全身を見ながら、ゆっくりと歩を進める。俺の足音に気づいたのか、ピクリ、とユウキの細い肩が震える。一回だけ深呼吸してから、俺はできるだけ静かな声を出した。
「……よォ。そんなトコで何ボーッと突っ立ってンなよ。ノリとかジュンにシバかれるぞ、ユウキ」
「………………え?」
数秒の間を開けて、か細い声がユウキの口から洩れた。空耳を疑うような、そんな呆けた表情を浮かべる。それでも光を失った両目を左右に巡らせながら、恐る恐るって感じで俺の方へ、声が聞こえた方向へと歩き出した。
俺らがSAOから帰ったばっかの頃に似た、脚を踏み出すだけでもやっとの状態。俺とのたった数歩分の距離を時間かけて詰めつつ、探るように右手の掌をそっと前に差し出してきた。
ALOでやったように、差し出されたその手をとって握ってやると、今度はビクン、って感じで全身がはねた。わっ、と言う素で驚いた声が漏れて、思わずちょっとだけ笑う。
「ったく、なにおっかなびっくりしてんだよ。好奇心旺盛なおめーらしくもねえ」
「…………え、うん……えぇ? えっと、その……一護、だよね? どうして、ボクのところに……それにこれって、一体……まだボクは生きてて、夢でも見ていたり、するの、かな……?」
「……わり、色々説明してやってる余裕はねーんだ。けど悪いようには絶対しない。見えてねえから、信用してくれっつっても難しいかもしんねえけどな」
「う、ううん。そんなこと、ないよ。だって……」
首をふるふると横に振り、そっと指を交えてくる。俺がほんの少しでも加減をミスったら砕けそうな、氷細工みたいに細く冷たい、透明感のある手。
「……このあったかくて大きな手、それにこの声、この匂い。夢かもって言ったけど、やっぱり違うや。だってこれ全部、ボクが知ってる一護のものだから。わからないこと、いっぱいだけど……とりあえず、来てくれてありがとう。一護」
「あァ、気にすんな、俺が好き好んで来たってだけの話だ」
努めて明るい声を出しながら、俺はユウキにここに来た目的を告げる。
今の俺の立場とかこの世界の裏っ側の理とか、話してやらなきゃいけないいけないことが沢山あるのは重々承知、でもそんなことを今ここで教えて、この世界で最後に作れる思い出を翻弄したくない気持ちが先行し、あえて告げずに切り出した。
「ユウキ、状況がワケわかんねえのは悪ぃと思ってる。けど今なら、お前がまだこっちの世界で思い残してることがあるんなら、向こうの世界に行っちまう前に一つだけ願いを叶えるのを手伝ってやれる。ALOでお前が言ってた『もう一回俺と戦いたい』ってのは流石にムリだけど、それ以外でどっか行きたいとか、なんかやりたいとか、あったら言ってくれよ」
「え……ボクの、願い…………?」
「なんかあんだろ。現実世界でやってみたかったこととか、行ってみたいトコとか。アメリカ行きたいとか言い出さねえ限り、俺が手助けしてやる」
「……ふ、ふふっ。いいね、海外かぁ。一回検査で行ったことあるけど、観光なんて出来なかったからなあ……んーとね、それじゃあ……」
少しの間考え込んだユウキだったが、すぐに俺の方を見上げた。見えてなくても声の出処で俺の顔の位置が判るのか、光を宿さない朧な灰の眼で俺をじっと見つめて、
「……ボクね、自分の家族のお墓って、行ったことないんだ。お父さんとお母さんと姉ちゃん、三人が揃って眠ってるお墓が、ここからちょっと北に行った、保土ヶ谷の教会墓地にあるはずなんだけど、写真でしか見たことなくて……。
だからね……ボクのお願い。
ボクを、家族のお墓に、紺野家のお墓参りに連れて行ってほしいな」
◆
海沿いの道。
潮風の匂いや車両の行き交う雑音。あの防音処理が施された無菌室で三年を過ごしたユウキにとって、きっと懐かしく感じられるだろうそれらの中を、「なるべくゆっくり、行ってほしい」という要望に応えて小さな歩幅で進んでいく。
本当なら空中を歩いたほうが良いんだろうが、なるべく人が生きている空間に近いところを通ってやりたくて、死神の速力も空中歩行も使わずに、アスファルトを草履で踏みしめ歩く。
戦争後に新調した代行証の霊圧抑制で、放出される俺の霊圧はかなり軽減されているはずだ。重霊地・空座町と違って配備の薄いはずの神奈川沿岸部の死神に、この状態ですぐ察知される可能性はそんなに高くないだろうから、隠密性とかそういうのは気にやしてねえ。
けど、俺の背におぶさっているユウキの負担になりやしねえか、その一点だけは不安だった。元々背にあった斬月の一振りは短刀と逆側の腰に移動させたからともかくとして、俺の高すぎる霊圧が、今や単なる浮遊霊にすぎないユウキの身体にどんな影響を与えるのか。
少なくともいいことなんか一つもねえはずだと思ってたんだが、当の本人が「……一護の背中、なんだかあったかいね」と言って微笑していたのを信じ、ユウキを背負った俺は黙々と歩き続けている。
病で消耗したせいなのか、背負ったユウキの霊体はまるで綿のように軽かった。今までこの背に乗ったどんな奴よりも、軽く、細く、脆さを感じる肉の削げた肢体。気を抜けばそのまま消えて行ってしまいそうなくらい、存在そのものが薄い。
そのユウキは俺に願いと教会墓地の場所を告げてから、一言も発することなく俺の背に居続けている。首に回された細腕に弱く力を籠め、俺の歩む振動に身体を揺らし、ただ、じっと。微かに聞こえる吐息の音が、こいつが今俺の背に居る一番大きな証のようにさえ感じられる程に。
長く続いた海沿いの道から大きく逸れ、都市部の駅前通りを抜け、小高い丘陵地帯に辿り着いたのは、もう夕日も落ちかけた日暮れの時分だった。彼方の空に星が瞬き始めているのが見える中、丘を登り、緑地を抜けると、黒塗りの屋根に立つ小さな十字架が見えてきた。
進んだ先にあったのは、飾り気のないモノクロ調の、小さな教会。ユウキから聞いていたように、裏手へまわり、庭を通り抜けた先にある門を潜る。教会の墓地らしく、石製の十字が薄闇の中に静かに立ち並んでいるのを少しの間立ち止まって眺めてから、背中のユウキを軽く揺すって、
「……着いたぜ。どの辺にあるか、分かるか?」
俺の問いかけに、ユウキが僅かに身じろぎするのが背中越しに伝わってきた。
「えっとね……門を入って一番左の列、奥から五番目。黒い石の十字架と、同じ色の小さな墓標があるはずなんだ。そこが、ボクの家族のお墓」
「分かった」
掠れた声に短く答え、墓地を横ぎって一番左の墓の列へ。そこまで広くない敷地の中で足を進め、奥から五番目の墓と向き合う。確かにそこには、夜の闇に溶けていきそうな濃い色の十字と、膝丈の墓標が備わっていた。墓標には紺野で始まる三人の名前が刻まれ、安らかな眠りを願う
「あった。ここが……お前んちの墓だ」
「……うん、ありがと。ね、墓標の前で、少ししゃがんでくれないかな」
言われた通り、家族の名のある墓標とユウキの目線が合うように、低くしゃがむ。俺の背から少しだけ身を乗り出し、視えないはずの眼を凝らすようにしてユウキは闇に消えかけている自身の両親と姉の名前を見つめた。
俺の首に回していた腕が解かれ、伸ばされた左手がそっと石版の表面を撫でた。霊体の今、ユウキは物体に干渉することはできないし、例え物体と接触したとしてもそれを知覚はできない。指先を潜り込ませながら、それでも尚、ユウキは慈しむようにして墓標を撫でた。耳元から、囁くような声が聞こえる。
「……ごめんね、遅くなっちゃって。最後の最後で、やっと来られたよ」
申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに、口元に笑みを浮かべたユウキの
「お父さん、お母さん。ボクね、沢山の人たちと友達になれたんだよ。上辺だけなんかじゃない、本心をぶつけられるくらい遠慮がなくて、最後まで一緒に居られるくらいに心が近い、ボクの大切な仲間たち。大好きな人もできたよ。ボクより年上の女の子なんだけど、きれいで、優しくて……ほんとは一人一人紹介してあげたいんだけど……それじゃ時間が足りないし、そっちで会った時に、いっぱい話すね。
姉ちゃん。姉ちゃんとおんなじくらい、ううん、もしかしたら姉ちゃんでも勝てないくらい強い人、見つかったよ。ボクをここまで連れて来てくれた、この人。ちょっとコワい見た目だけど、とっても優しい人だから、怖がりな姉ちゃんも、きっと仲良く、なれるはず……。
ああ……これで、これでやっと……家族みんな、また一緒になれるね」
本当に嬉しそうな、満たされた声。
居て当たり前。笑いあえて当然の人たち。
なのに、共に暮らす時間を一瞬で奪われた。
その家族とようやく同じ世界に行けることに心底喜ぶその姿は本当に無邪気で、だからこそ、俺は思わず目を逸らした。直視していたら、この沈黙さえ保てなくなるような気がしたから。流魂街で巡り合える確率だなんだなんて、そんな無粋な理屈は他所に蹴飛ばし、ただこの四人がもう一度再会できることを願った。
……だが、ユウキの霊体は薄れない。
願いを叶えたはずなのに、ユウキの存在は消えることなく俺の背に在り続ける。消えゆく気配さえ感じられない。
まだ何か、果たせてねえ何かがあるのか。そう思い、ユウキに問いかけようとしたその時。涙を拭ったユウキが、俺の耳元でささやいた。
「ねえ、一護。教会の上にある時計、今、何時になってるか、見える?」
「……時計?」
「うん。一番高い三角屋根の上の方、十字架のすぐ下のあたりにあるはずなんだ」
言われて立ち上がり目を凝らすと、確かに時計があった。今まで見えていなかったそれは、もう間もなく午後七時を指そうとしていた。
それを伝えると、ユウキは一度深く息を吐きだし、ゆっくり吸い込んでから、もう一度囁く。
「じゃあ……そのまま、海の方、教会と正反対の方を向いてくれるかな?」
「教会と逆側って……こっちか? けど、こっちには林以外なんもねーぞ――」
言いかけた、その瞬間だった。
闇の中。
打ちあがった花火が、轟音と共に夜空に花開いた。
真っ赤な火花を散らして、大輪の火の花が消えていく。その残像を上塗りするように次々と色とりどりの花火が連続して打ちあがり、真っ黒い空を彩っていく。七色の光が俺の網膜を射抜き、その輝きに、ほんの少しの間意識を完全に奪われた。
「……えへへ、よかったぁ。ちゃんとまだやってて」
俺の意識を現実に引き戻したのは、嬉しそうなユウキの声だった。灰色の眼を空に向け、まるで本当に花火を見て楽しんでいるかのような、にこやかな表情。しばらくそのまま見上げた後、俺に顔を向けて言った。
「一護、見えてる? どう、花火。きれい?」
「ああ、すっげぇキレイだ……ユウキ、ひょっとしてお前、これが目的だったのか? けど、お前、もう目は……」
「うん、見えないよ。だからこれは……
ほら、ボクと初めて会ったとき、間違えて斬りかかっちゃったでしょ? あの時は貸し一つってことで許してもらったよね。クッキー作りのお礼はボクなりのアレンジ版を作って渡せたからお返しできたかなって思ってたんだけど、こっちの方は返せてなかったなあって、そう思ってさ。
だから行きたかったお墓参りも兼ねて、ここに来てもらったんだ。ここが唯一、神奈川で休日の夜に春花火が見られる場所だって、リーナに聞いてたから。ほら、一護って現実世界でも仮想世界でも、リーナと花火見てたんでしょ? だから花火、好きなのかなって思って」
よかった、きれいって、思ってもらえて。
そう満足そうに呟くユウキに、思わず俺は声を張り上げたくなった。
お前の願いを叶えてやるって言ったんだから、自分のことだけ考えて願えばよかったのに。なのに、現世で叶う最後の望みなのに、俺なんかのために使ってんじゃねえよ。あんな貸し、とっくに忘れてたのに。気にもしてなかったのに。そんなことのために、こんな――。
心の中で声を枯らす俺と相反するように、ユウキの身体が少しずつ、少しずつ、質量を軽くしていく。
それはユウキの未練が消えたことの証で、たった今告白された「ほんと」が嘘じゃねえことの証明で。
薄れていくユウキの気配と、打ちあがり続ける花火の群れ。そのコントラストが俺の心を心から揺さぶり、まるで爆ぜる火花のようにスパークした。
「…………あれ? 一護、ひょっとして、泣いてる?」
「……ばか言え。俺が泣くわけねーだろ」
「嘘ばっかり。肩。震えてるじゃない」
「夜風が寒ぃからに決まってンだろ」
震えそうな声を張る俺に、ユウキは「じゃあ、そういうことにしておいてあげる」と言って笑った。
最初から軽かったユウキの身体の重さは、もう半分近くが消えている。振り返れば透明になっていくユウキの姿が見えるんだろうが、そうするだけの余裕は、今の俺にはなかった。
代わりに自然と口が動き、勝手に言葉を紡ぎ出した。
「……ユウキ。お前はしっかり生きた。
ずっと寝たきりで、大人にもなれず、仲間に頼りきって、そして、俺たちよりずっと早く死んだ。
……けど、こうして笑って死ねた。
仮想の肉体も、現実の身体も、そして魂も、消えるその瞬間まで誰かが自分の傍にいる。こんなに幸せな終わりなんて、世界中探しても、きっとねぇ。周りの連中がそうやって送ってやれるくらい、お前は確かにここで生き続けたんだ。
だから……だから…………胸を張って、いってこいよ」
絞り出すように告げた俺の言葉に、ユウキは幸せの籠った、暖かな吐息を漏らした。
視界の端に見える輪郭が、もう目を凝らさないと判別できないくらいに薄まってるのに、俺の背にある温かさは、むしろずっと、強くなっているように感じられる。
少し間を開けて、ユウキは「……ありがと、一護」と、小さく礼を言った。
消えそうなその声が、俺の魂の底に滲みこんでいくのを感じながら、本当に最後の言葉を聞くことに全てを注ぐ。
「……ボク、生きることを諦めなくて、本当に良かった。今、心の奥底からそう思ってるよ。
つらいことばっかりだと思ってた、この十五年間。痛いこと、苦しいこと、叶わないこと。沢山あった。大切なものなんて何も持てない、そんな人生が嫌になったことだってあった。
……でも、最後になってやっと分かったよ。
無いと思ってた生きる意味が見つかったこと。
叶わないと諦めた願いが叶ったこと。
この世界から消える一瞬前になって、ようやく分かったんだ」
小さな陽だまりを背負っているかのような温もり。昇華していく霊子を花火に負けないくらいに綺麗な紫に輝かせながら、後ろから俺を抱きしめて、
「……手に入れたものが大切かどうかなんて、生きてるうちに分かるわけない。
どんなにつらい日々が続いても、ずっとずっと頑張って生きてれば、そうやって生きた日々の全てが、ボクが手に入れたものをちょっとずつ大切なものにしてくれる。
そしてその本当の大切さを知れるのは、その全てを手放す時だけなんだって、今ようやく、分かったよ。
だって……だって今、一護と出会えたことがこんなにも嬉しくて……さよならするのが、こんなにも寂しくて悲しいんだから……っ!」
最後は涙声になって、聞きとるのがやっとなくらいに歪んでいた。最後の最後で締まらねーなぁ、こいつは。そう独りごち、背に回していた手の一方を外して、ユウキの手を握りしめる。
「……だったら、ちゃんと笑って逝け。そうすりゃ必ず、また会える。そうだろ?」
「うん……そう、だね」
やっと見れた、ユウキの顔。
涙で濡れたその顔に、ユウキは灯火が灯ったような、精一杯の笑みを浮かべる。
同時に俺の手がユウキの腕をすり抜ける。身体を支えていたもう一方の手からも、微かに残っていた質量が消えてなくなる。夜空に咲いた花火のように。跡形もなく、けれど鮮烈な残像を、俺の脳裏に残して。
もう、ユウキの姿はない。
けれど、その残滓までもが消え失せる、その刹那。俺は確かに聞いた。
俺を取り巻く紫の霊子。
そこから響く、どこまでも純粋な、あいつの声を。
――ありがとう、一護。
キミと出会えて、ボクは幸せだった。
寂しいけれど、少しの間、お別れだね。
またいつか、どこかでキミと会える日を、ずっと、ずっと、待ってるよ。
本当に、ありがとう。
――またね。
次回は本編最終話となるエピローグと、番外編最終話。
二話同時投稿です。