南一局、菫はまだ南入かと少しの間瞼を閉じ、手牌に目を落とすと、最後の親だと言うのに酷い配牌だなと嘲笑気味に顔を引き攣らせる。現在、各持ち点はまるで25000点に縛り付けられているかの様に拮抗しており、トップが菫の26600点、最下位が淡の24200点であった。
それにしても、と。
菫は浮いた端牌を切り出しながら、何時もと変わらぬ表情で卓上を見下ろしている照へ目線を移す。
(……照が南入でまだ和了無しとはな)
珍しい事もあるものだ、とでは片付けられない。恐らく公式戦で残っている照の牌譜を全て洗ってみても、照が南入の時点でノー和了の試合など出て来ないだろう。
では何故か、決まっている。この下家に座る男子のせいであろう。菫は集中を切らさない様にしながらも、同時に赤木の正体について漠然と考え始めていた。これだけの実力があるのであれば、確実に男子公式戦に顔写真付きで名前が載っている筈だ。こんな特徴のある人間を忘れる筈が無い。しかし、菫には赤木の顔や名前に覚えが無い。つまり公式戦には出場していないのであろう。ならば何故、この男子はこれ程の雀力を持っているのか。仮にもインハイ常連校の団体戦レギュラーメンバーである三人を、まるで掌の上で操るが如く軽くいなしているのだ。
考えても答えは出て来ないと完全に卓上へと意識を戻した菫は、ある予感を感じていた。
(……照がツモる)
例えば、インハイに出場する選手全員に聞いてみたとしよう。麻雀に流れがあるか否か、と。
その瞬間、その場では大激論が勃発するに違いない。その時、自分はどっちつかずな答えを出してしまうかもしれない。だがこの場に居る三人にこの質問をするなら、考える間も無く流れはあると返って来るだろう。この半荘の淡の挙動を見ていれば、流れは無いなんて口が裂けても言えなくなる。流れが悪くなると感じれば、思考もネガティブな方向へと寄って行き、弱気な打牌をしてしまう事もあるのだろう。しかし、流れで配牌が変わるのは説明が付かない。そうなれば流れを掴むのが上手な人間が良い配牌を貰えると言う話になってしまう。そうなれば流れがあると信じたくは無い。
流れが悪い人間は和了れないのか?
なら照から直撃を取るつもりで逆に狙い撃たれた自分に流れがある筈が無い。ならば自分がこの局は和了れないと言う話になってしまう。
そもそも流れとは何なのだろうか。
思わず対局中に哲学染みた方向にまで思考が及んでしまった菫だったが、その時菫が感じたのは只の予感。本当に何となくそう思うだけと言うものであった。
だが。
「ツモ、500・1000」
五巡目、照がツモ一盃口の手を和了った瞬間、やはり自分の予感は正しかったと確信すると同時に、この半荘、照以外の人間に勝ち目は無くなったなと手牌を卓の中へ押し込んでいく。
南二局、赤木の親。
菫は赤木を横目で見ながら、君は良く頑張ったよと、その何を考えているか分からない横顔を見つめる。
赤木は奮闘した、あの照に東場の間に何もさせなかったのだ、それだけで勲章が貰える。何なら白糸台麻雀部部長として照相手によく頑張ったで賞の手作り勲章をプレゼントしてあげてもいい。それ程までに、理不尽な程に、宮永照は強かった。
先程照が和了った南一局、流れは誰に行ったかと言われれば、確実に赤木だろう。しかし、流れを掴んだ人間が必ず和了れるとも限らない事を今の局で照が証明した。照が和了ったのは恐らく偶然、倒した手を見れば特に変わった事をしていなかった。赤木も何か仕掛ける前に和了られたと言う認識だろう。麻雀ではよくある話だ。全ての局が全て互いを全て読み切ったギリギリの戦いをしている訳では無い。手牌次第では、事無く和了りまで辿り着く事も多々ある。
(…………遅いんだ、それでは)
「ツモ、4000・8000」
この時、初めて。
と言っても出会ったのは数十分前であったが、菫と淡は赤木が驚いた表情を浮かべた事に気付いた。勿論、誰にでも分かる位リアクションを取った訳ではない、ほんの少し目を開いて眉を吊り上げただけだ。しかし、あの鉄面皮の表情を動かしたのだ、自分には分からない何かが其処で動いたのだろう。
それにしても照のペースが早い。照は千点や二千点ずつ刻みながら和了りを重ねて行くプレイスタイルではあるが、二回目の和了りが既に倍満、六巡目で一通、筒子の清一色、ツモを決められては同卓者は嘆くしかあるまい。
そしてそれに対して赤木はどう動いていたのか、それが非常に気になった菫は恥を忍んで席を降りる。
「……すまない」
赤木の背後に回り込み、その萬子に染まった手牌を見た瞬間、赤木が照とは別色の清一色を完成させていた事に驚きながらも、その手牌の構成に気付き更に戦慄する。
高め一通の清一色、四萬で和了れば照の手牌とピタリ一致、これが偶然の出来事なのだろうか。菫は次巡、赤木がツモる予定だった牌を捲ると、信じたくは無いが予想通りの牌である事に言葉を失っていた。
「クク……もういいか」
「あ……ああ………なあ、聞いてもいいか?」
「ん?」
「こう言う時、どう考えてる?」
「どうって?」
「だから……その……」
言い淀んでいる菫を見かねた赤木は、どうしたもんかと一息吐くと、背もたれに体重を預け呟く。
「麻雀は突き詰めれば自分の和了り牌が相手のそれより先か、後かってだけだ」
「…………」
「例え自分の和了り牌がヤマに眠ってようが、それより先に相手の和了り牌があったら終わりってだけだよ」
「そんな……」
そんな割り切った考え、いやある意味開き直ったとも言える言葉。しかし、赤木はそれを当然と思っている。自分にはそんな割り切った考えはまだ出来ないと下唇を噛むと、赤木がその手牌を卓の中へと流し込み始めたのを見届け、菫は自席に戻り手牌と一緒に握っていた四萬を手牌と一緒に卓の中へと押し込む。
南三局、この時点での赤木と照の点差は25900点、手牌を自分の前へと並べていきながら、赤木は懐かしい感覚に浸っていた。
オレは…勝てない……流れは変わったのだ……。
何時ぞや、そんな事を考えたのを今でも忘れない。
傍観者とは何時だって気楽なものだ。菫と淡に今照が感じているプレッシャーは見えていない。それどころかやっと調子が出てきたか、と楽観視する程である。
未だ赤木の正体は見えて来ない、先程の局だってそうだ。あの清一色を完成させるまで、何度鳴きの発声を入れようと考えたか。しかし、照は耐えた。口を開けば水が入る。プレッシャーと言う洪水に溺れてしまうのだ。
そして迎えた南三局、照は今にも卒倒しそうな表情で手牌を開く。再び染め手の気配、索子が十二枚鎮座しているのに加えおまけにドラの対子。これを完成させられれば、決定的な打点を作る事が出来る。
淡が北を切った事を確認した照は、山からツモって来た牌を手牌に落とす。しかし、それは不要牌の一萬。グズグズしていると赤木が何か仕掛けて来てしまう。逸る気持ちを抑えながら、照は慎重に一萬を河へと切り出した。
菫は自分の手牌と相談すると、この局も厳しいと浮き牌に手を伸ばし、この局の動向を伺う。赤木は山からツモって来た牌を掴んだ瞬間、何か嫌な汗が背を流れていくのを感じていた。
手は悪くない、育てれば二三四の三色が見えて来そうな順子の並び、牌恰好は筒子に寄っていると言えなくもない。しかし、今確実に流れは照にある。麻雀とは難しい、折角知略巡らせ手に入れた流れも、偶発的な物に掻っ攫われてしまう。赤木はこの手を成就させる事は不可能だと確信し、あるもう一つの和了り系を見据え、三色のキモである二萬を切り出して行った。
次巡、照は再び手に落ちてきた不要牌に、焦りを抱きながら河へとツモ切って行く。
照は菫がツモ切っている様子を横目で見ながら、赤木が切った二萬切りについて様々な考えを巡らせていた。次に赤木が切る牌で、赤木の狙いを察しなければならない、思考の遅延は命取りになる。
そうして赤木が切り出す牌に注目していた照は、赤木が切ったその牌が三萬であった事を確認すると、一気に脳内へと思考を流し込んで行った。
しかし、その思考を断ち切る様に、予想もしなかった方向から声が上がった。
「あ……ロ……ロンっ!」
手を倒したのは淡。その手は萬子七八九の一盃口、それに引っ付いて来た一通。そして一二の辺張待ち。頭はドラの一索である事から、染め手へ向かうかこのドラを生かすか、その葛藤の道中だったのだろう。淡は赤木がツモった時点で染め手へ向かう事を決めており、次巡以降萬子を引けば容赦無くドラを切り出していた。つまりその三萬は、たまたまその巡にのみロン牌となっていたとも言える。
赤木にあの時点での読みは無い。感じていた筒子の流れに、萬子の二萬、三萬を切り出した。結果論ではあるが、逆に三萬から切り出せば淡には振っていなかった事になる。しかし、麻雀はこの積み重ねで結果が変わって来てしまう。
淡へと12000点を払いながら、赤木は自分の流れはもう無いと確信していた。赤木が何処かでミスをしたか、と言われればミスをした訳では無い。只々ツキが無かったのだ。
照 42300点。
淡 31700点。
菫 21600点。
赤木 4400点。
それが南三局一本場の時点での点数であり、菫は親がもう残っていない赤木に勝ち目は無いなと、この局の行方の想像をつけていた。
しかし、赤木がそれで腐る事は無い。そんな場面を何度経験したか、数える事も億劫になる。流れの無い赤木は、懸命に打つ事が最善策と理解している。だが、麻雀は四人で行う勝負である。例え自分がどんなに頑張って振らず、和了りを目指そうが。
「ロン。断ヤオ、三色、一盃口、ドラドラ」
「うえぇっ!?」
他人同士で決着が着く事もある。照が淡の五萬に対して牌を倒したのを見届けた赤木は、自身の五萬の嵌張待ち聴牌の手牌を手前へと倒す。
オーラス、これで赤木と照の点差は50200点へと膨れ上がり、それは三倍満直撃でも覆らない所まで開いていた。
此処まで来れば条件戦になる。それは至極単純、かつ非常に有利な条件であった。赤木から役満を直撃されなければ、照の勝ちになる。
普通の相手となら、誰もが終わったと思う瞬間である。ましてや相手はあの照なのだ。
しかし、此処に来て初めて照は和了りとは別の思惑へと流されようとしていた。
「しげる君。流石にきついねー」
「クク……そうだな」
「あれ、意外に諦めちゃってる?」
「さあな」
「えー、どっちなのー?」
「そうだな……麻雀ってのはな、理外の強さってのもあるんだ」
「利害のつよさ?」
「クク、おめぇにゃまだ早えよ」
役満さえ直撃されなければ、照の勝ちである。手牌を開いた照に、その条件が重く、ズシリと肩の上に圧し掛かって来る。逆に考えると役満の可能性が消えれば、照の勝ちが確定する。逆にこの手を仕上げるだけで、勝ちが確定する。
手は軽い、萬子、索子、筒子、それぞれ四五六辺りで纏まっており、平和、タンヤオどちらへ移行しても構わない。早ければ三巡で聴牌するであろうその手牌。
浮いた中を切り出した照は同巡、淡が切り出した三索に手を止めていた。
今の自分の手で、唯一の嵌張になっている二四索の並び。此処に牌が入れば、この手は一気に聴牌へと近付く。
鳴くか、いや、普段の自分ならこんな三索を一巡目に鳴いたりはしない。
なら鳴くな、これまで我慢して来ただろう。
何度苦しくても。
しかし、役満を和了られなければ勝つ。そして、千点でも和了れば勝ち。
この、素性も知らない男子に、そして人を強く惹きつける天衣無縫の麻雀を打つこの男に。自分が生まれて初めて絶対に倒して見せると強く思ったこの男に。
勝つ―――。
照はその時、漸くと言っても良い。赤木と出会ってから初めて、普段の自分では打たない麻雀へと流された。
「チー」