AQUA ~その水と出遭いの惑星で~   作:ノナノナ

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Serenata1 アクア・アルタ

 ポン。

 アテンションのポップ音が鳴り、シートベルト着用のランプが灯るとともにキャビン・アテンダントのアナウンスが流れる。

 「当機は惑星AQUAの周回軌道上に入りました。間もなくマルコ・ポーロ国際宇宙港に到着します。砂の惑星オレンジ・プラネットと呼ばれた火星がテラ・フォーミングされて一五〇年。今では地表の九割が海洋で覆われ、水の惑星AQUAと呼ばれています。」

 機内の光景が消えて、漆黒の宇宙に浮かぶ蒼い惑星が足元に広がる。

 アクアマリンの青と散りばめられた白い雲。そして無数の島々が海洋に浮かんでいる。ゆっくりと回転しながら、やがて大きな大陸が湾曲した地平線から現れて来る。クラタリス大陸と呼ばれるAQUA最大の大陸。その大陸に侵入コースを取り、宇宙船は下降を始める。

 惑星がどんどん大きくなり、長細い列島とクラタリス大陸との間に広がる海洋が眼下に迫って来る。大気圏に入って、薄い雲の層を幾つか通り過ぎると、日の光にキラキラと煌めくネオ・アドリア海が拡がっている。

 小島の海域を過ぎて、ラグーナが近づき、逆S字状の運河に橙色の屋根がひしめいた島が見えて来る。

「ネオ・ヴェネツィアの天候は晴れ。しかしネオ・ヴェネツィアは、現在アクア・アルタでゴンドラの営業は致しておりません。ホテルでのゆったりとした時間や、サンマルコ広場での美術観光をお楽しみください。ネオ・ヴェネツィアは皆様に忘れられない、素晴らしい出会いをご提供するでしょう。本日は、太陽系航宙社、東京=ネオ・ヴェネツィア便をご利用頂き誠にありがとうございました。皆様のご旅行が素晴らしいものとなりますようお祈り申し上げます。」

 「アクア・アルタ?」

 男の子は座席に置かれた小冊子に目をやった。

 「ネオ・ヴェネツィア特有の高潮現象。街じゅうが水に浸かり市民生活に支障が出る。いまどき気候で支障が出るって何。天候操作はされてるんだろ?」

 全天型スクリーンの映像が消え、座席の窓にカモメの群れが見える。宇宙船はカモメたちと並走しながらゆっくりと降りていく。

「――なお、水鎮新地、青秋津嶋にお越しのお客様は、マルコ・ポーロ国際宇宙港での連絡案内をご参照ください。アクア・アルタで便に多少の変更が出ております。水鎮新地にお越しのお客様は第2ロビーへ、ネオ・エカテリンブルグにお越しのお客様は第3ロビーへ、青秋津嶋にお越しのお客様は第5ロビーへ、真珠の首飾り方面へのお客様は――――」

 

 マルコ・ポーロ国際宇宙港に到着し、ひとりエントランスで連絡便を案内する掲示板を見る男の子。10才前後だろうか、Tシャツと半ズボンにリュックを背負い、大人が近くにいる様子は見られない。

 「げ、航空便はここから乗れるけど、連絡艇はいちど宇宙港を出なきゃならないのかよ。」

 なんて面倒なという顔で、国際宇宙港を出る。

 かつて総督宮殿だった国際宇宙港を出ると、本当に街が浸っていた。

 建物前の広場も水。歩道と運河の境いも判らない。広場からずーっと海が広がっている。岸と思しき所に杭が何本か突き出ていて、そこからが海なんだろうと判る。

 でも――

 「どーやっていくんだよー」

 水深はそれほどある様子はないが、長靴も無く突然の洪水に途方に暮れる男の子。

 水は都合よく引く様子も無く、意を決して履いていたシューズを脱ぐ。シューズはリュックに結び付けて。

 丸いドームが特徴的なサンマルコ寺院と大鐘楼を正面に、アーチが連続する石造りのパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮殿)や新行政館に囲まれた、広い空間。開けた海側には二本の石柱が立っている。

 水面に広場を囲むバシリカ(列柱廊)が、そして青空と白い雲が、風にさざなみながら映り込んでいる。まるで鏡だ。

 じゃぶじゃぶじゃぶ。

 水の中を素足で歩く。

 ひんやりした石畳みの感触。水はそれ程冷たくない。小さかったときに入ったプールで水遊びした時を思い出す。でもその時よりもずっと巨大。

 じゃぶじゃぶじゃぶ。

 歩道の真ん中より建物寄りを歩く。道と運河の境目がなく、何となく不安というか落ち着かない。

 長靴をはいた人が、とくに何事も無く歩いている。自分と同じ年恰好の子供たちが、水しぶきを蹴立てながら走って行く。運河には荷物を載せた黒塗りのゴンドラが行き交っている。こんな大水だというのに普段と変わらない感じらしい。

 けれど、観光用の色鮮やかなゴンドラやトラゲットと呼ばれる渡し船は、杭に結び付けられていて動いていない。乗り場には「休業」の看板が掛かっている。ちょっと運河の向こう側にと思っても橋伝いに行くしかなく、いつもよりずっと遠回りしなくてはならない。でも街の人々は少しも不便そうにしていない。

 水に浸かっている所は素足で、乾いている所はシューズを履いて、その繰り返し。

 青秋津嶋への定期航路がある港へは、サンマルコ広場から少し下ってサン・ザッカリアからヴァポレット(水上バス)が出ているのだが、そんなことは知らない男の子は、迷路のようなサンマルコ地区を、カッレと呼ばれる小路をさまよい網の目のような運河に掛かる(半ば水没している)小橋を幾つも登る。

 地図を頼りに行くが、径の両側は軒の揃った建物がひしめき合って日差しも通らず、全く見通しがきかない。しかも曲がりくねっていて枝分かれも多く、自分がどこにいるのか判らなくなる。

 大運河をまたぐリアルト橋を渡って、これまた迷路なサン・ポーロ地区を突っ切ってサンタ・クローチェ地区に向かう。

 期せずしてネオ・ヴェネツィアの迷宮巡りをしたわけだ。

 谷底かクレバスのような小路から、突然視界が開けて広場に出たりする。

 そんなところには大概小さな井戸があり、井戸を中心にカンポと呼ばれる石畳の小空間が広がる。え、こんなところに出るんだという意外感。

 運河に面したカンポ(広場)には水が入り込んでいて、立ち木や周りの建物が逆さに映っている。広場はほかの小路にもつながっているらしく、建物の影から急に人が現れたりする。まるで舞台の袖から登場して来て、違う建物の間に消える。

 閑静で行き交う人は少ない。繁華街であるリアルト橋でも、ツーリストの姿は少なかった。シーズン前もあるが洪水の影響が大きいのだろう。歩いているのは大抵地元の人のようだ。慣れた足取りで迷路のなかを歩いている。

 時々、一人リュックを背負った男の子に、「チャオ」と声を掛けて来る。男の子はどきまきしながら「チャオ・・」と返す。ただ、それだけ。

 

 たっぷり遠回りして、やっとの思いでサンタ・クローチェの乗船場に到着する。こんなにも歩いたのはいつ以来だろう。マンホームでの移動は自動運転のモービルだ。学校の授業も自宅で済ませられる。買い物もネット宅配。リアルト地区にあったような店のショ-ウィンドーというものは映像でしか見たことが無い。歩いたのは、学校での郊外遠足以来か。

 青秋津嶋行きの桟橋に向かう。

 連絡船はもう桟橋に停泊していた。

 船は半重力推進のコクーン(繭型)をしておらず、波を切る吃水タイプのもの。旧式というより博物館でしかお目に掛かれないような年代物だった。

 パーサーが乗船手続きをしている。

 「自動改札じゃないんだ」

 パーサーに切符を手渡し、パチンとハサミを入れてもらう。これも初めての経験。

 船のデッキは板張り。人が乗り込むたびに少し揺れる。

 手で開けるキャビンへの出入り口。キャビンも板張りで、硬そうな長椅子が並んでいる。床下からはエンジンの振動音。街の水上バスもこの手のものばかりらしい。

 街のコンセプトが、かつてマンホームにあったヴェネツィアの再現といっても、不便じゃないのだろうか。時間も当然かかるし乗り心地だって・・・それに航空便もあるのになんでわざわざ船なんだ、と思う。

 祖父が送ってくれたチケットは、東京=ネオ・ヴェネツィアの宇宙便と青秋津嶋への船便だった。

 エンジンが唸りを上げて桟橋を離れる。人が乗り移るだけで揺れるような船なのでタグボートの牽引は無い。自走でバックし距離を取ってから前進を始める。そのたびに船体はたゆたゆと大きく揺れる。

 窓辺からネオ・ヴェネツィアの街並みが見える。

 ジュデッカ運河を通り、さっき降り立ったサンマルコ広場と大鐘楼が左手に見える。サン・ジョルジョ島を過ぎてラグーナに入ると、徐々に街並みは離れて行く。

 波静かなラグーナを囲む半島を過ぎれは外海だ。ネオ・アドリア海に出ると潮の流れがあり船も揺れ出す。しかしアルタ・アックアといっても天気が悪いわけではなく、海は穏やかだ。酔うほどの揺れは無い。

 ネオ・ヴェネツィアと代わって窓辺にはカモメの姿。幾つもの小島が浮かぶあいだを船は進んでいく。

 ネオ・アドリア海は、北のルーカス湾と中央の多島海、南のアオニア湾からなる、クラタリス大陸とシレナ列島の間にある広い海峡だ。狭義でネオ・アドリアという時は多島海を指す。シレナ列島の別名が青秋津嶋、この連絡船の目的地だ。

 乗客は、日本系の人々が多い。ネオ・ヴェネツィア出身の人も見かける。

 キャビンにヴェネト方言と日本語が入り混じっている。ネオ・ヴェネツィアと青秋津嶋は隣どおしで、AGUA開拓当初から繋がりが深い。日本語とイタリア語では単語も文法もまるで違うが言語中枢翻訳で言葉に不自由はしないし、いまではお互いの言葉や文化が微妙に影響し合い、母国の言葉で会話し合っても意思疎通ができる間柄だ。

 くうと、お腹が鳴る。

 そういえば、朝食を機内で食べたきり何も口にしていない。

 「しまった、トランジット(乗り換え)で何か買って来るんだった」

 始めはそのつもりだった。しかしネオ・ヴェネツィアの街をさまよっている間に忘れてしまっていた。お腹が減って来てその事を思い出したが、あとの祭り。軽食の船内販売も無く、まだ目的地までは相当ある。到着するのは夕方だ。

 仕方なく空腹を我慢して座っていると、隣りの中年男性が笑顔で話しかけて来た。

 ワイシャツにハンチング帽をかぶっている、小太りな恰幅の良い日本人。

 「坊主、ひとりで旅行かい」

 コクリと頷く男の子。

 「そりゃ偉いな。でもなんだって青秋津嶋なんかに? 君のような子供が行ってもネオ・ヴェネツィアと違って見るところは何もないぞ」

 「観光じゃなく、おじいちゃんに呼ばれて。マンホーム(地球)から」

 「マンホームから、一人で? 随分と思い切ったおじいちゃんだな!」

 中年男性は心底驚く。何しろ七八〇〇万キロの旅だ。AQUA(火星)は楕円軌道を描くので平均値だが、マンホームとの最接近でも五四〇〇万、最も離れているときは一億キロ近くに及ぶ。

 「でもおじいちゃんはマンホームとAQUAは一本道だから、十歳のお前でも大丈夫だって。実際なにも無かったし」

 「そりゃまあ、そうだが。よくご両親が許可したな」

 こんにちの亜高速でも、三日はかかる船旅だ。

 「お父さんはビーナス計画で金星に出張中。お母さんはツィオルコフスキー宇宙局に転勤。それでおじいちゃんが僕を呼び寄せたんだって」

 ビーナス計画とはAQUAに続き金星をテラフォーミングする事業。ツィオルコフスキー宇宙局は、マンホームの月の裏側ツィオルコフスキー・クレーターにある宇宙開発府のことである。ここで太陽系開発が進められている。

 「坊主んとこはCOSMO(宇宙)一家なんだね」

 ここでまたお腹が鳴り、男の子は赤い顔になる。

 破顔する男。

 「がははははは、お腹がすいてるのか。え、食べ物を持ってこなかった? まだ二時間はかかるぞ。」

 そう言って、まあ食べなさいとおにぎりを取り出す。

 遠慮する男の子に子供は気を遣うもんじゃないと言って、おにぎりを手に取らせる。

 「青秋津嶋の米と焼海苔だ。宇宙一の味だぞ! おじさんからのお願いだから、是非食べてみてくれ」

 しっとりと黒い海苔に、つやつやした米粒。

 勧められるまま頬張る。

 「――美味しい。」

 何の変哲もないおにぎりだが、今まで食べたことのない味だった。男の子は素直に感動する。

 マンホームにもおにぎりはある。でも違う。冷えているのに瑞々しい。そして甘い。

 驚いている男の子を見て、満足そうな顔の中年男。そうだろうそうだろうと頷いている。そして水筒のお茶も勧める。これも宇宙一だと言い添えて。

 単調なエンジン音と船の揺れに、満腹感も手伝って、男の子はいつの間にかうたた寝していた。

 いつしか外も暗くなってきている。まだ日暮れには早い時間だ。

 やがてぽつりぽつりと、雨が降り出した。

 男の子が目を覚ました時は、窓の外は、篠突く雨。

 遠くの島影も雨で煙っている。

 ネオ・ヴェネツィアを出た時はあんなに晴れていたのに。

「おう坊主、目が覚めたかい。もうすぐ青秋津嶋だ。え? 雨がどうした? ああ今は梅雨だからな。アクア・アルタの時期は、青秋津嶋には雨が降るんだ。かつてのマンホームの日本のようにな」

 遠くに、黒く陸地が見えてくる。

 水平線に浮かぶ青秋津嶋は、青でも緑でもなく、利休鼠の雨に沈んでいた。

 

 

 


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