ライゼルの牙   作:吉原 昇世

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第7話

 一行が夕刻にムーランを出立し、数時間を掛けて次の経由地の鉱物の町グロッタを目指す道中.。車内はとても静かだった。

 それは、ムーランから見て南東に位置するグロッタまでの道程では、さして目新しい物を発見できなかったからという理由もあったかもしれない。

 実を言えば二つの集落を結ぶ街道は、それ程景観に優れているという事もない。整備された平坦路がしばらく伸びているばかりで、特に変わり映えしない景色が続くのだ。ミールの喧騒やムーランの風車群を目にした一行なら、特に退屈に思えるかもしれない。

 というのも、先日滞在していたミールや、これから向かうグロッタは、各地の都市に比べても大勢の人が暮らす大都市で発達している為、その中間のムーラン周辺の道路は飽くまで経由地でしかなく、賑やかな両集落から取り残されている感は否めない。食の街ミールと鉱物の町グロッタを結ぶ直線上の間に位置するムーランであり、中継地点として一定の役割を果たしているが、特にミール・グロッタ間は駆動車を用いれば半日で往復できる身近な距離であり、皆が必ず立ち寄る要衝という事でもなかったのだ。

(ムーランでは余計に時間を食われたな。リカートとの遭遇を吉と見るか凶と見るか)

 テペキオン達の同胞であろうリカートの存在を知れた事は、ベスティア王国側からすれば利となるだろう。国内に侵入している異国民の素性が知れない今、少しでも異国民に関する情報は多い方がいい。身分証を付けていないという事以外の共通項を発見できれば、未然に事件を防ぐ事に繋がるはずだ。

 その為に掛けた多少の時間だと思えば、それ程痛手を負ってはいないと、ビアンは割り切れる。

(いや、ちっとは気に掛けてやらんでもないか)

 ビアンが気に留めていたのは、ライゼルの変調だ。きっかけも原因も分かっているし、気にするなとも一応は声を掛けたが、ライゼルからすれば事は余程重大だったらしい。

 ビアンからすれば、自身の行動を悔いるライゼルの精神を素晴らしいと褒めてあげたいくらいだ。自分がその時分だった頃、他人を慮ってしょげたりする事などなかったからだ。

 ただ、だからこそ、優しすぎるライゼルにやはり「気にするな」と何度でも言ってあげたいと思う。ライゼルが実践する人助けには、場当たり的な部分が少なからずある。つまり、治安維持部隊アードゥルが普段やっている事を、行く先々の集落で独力でやろうとしている事に他ならない。

 ビアンはライゼルのそれを驕りと評したが、実際はライゼルの優しさに起因しているのだと、ムーランからの数時間で気付くに至る。

 そう思えば、ライゼルが自分から首を突っ込みたがる性格とはいえ、無理をさせているのは自分の采配かもしれないと少し反省するビアン。そもそもビアンは、ライゼルが【牙】を用いる事に否定的であった。だったが、そうも言ってられない事態が、つまり異国民による連続した襲撃があった為に、緊急措置としてライゼルの助力を要請していた。

 しかし、今後のライゼルの状態次第では、現状の体制を改めなければならないかもしれない。本来であれば、単なる参考人として同行してもらっている少年に、これ以上の肉体的かつ精神的な負担を強いるのは、あまりにも酷な話だと思うのだ。

 ただ、飽くまでそれは一役人として思う事であり、ライゼルの友人としてのビアンは密かに少年の復調を願っている。

(これまでの窮地で見せたお前の面は、そんな湿気た面じゃなかっただろうが、このクソガキライゼル)

 ビアンが人知れず、いつもの六花染めの似合うライゼルに戻る事を願っているのを余所に、ライゼルは後部座席にて、俯くように顔を伏せていた。

 隣に座る姉にも今の自分を見られたくないという想いからか、ライゼルは伏して沈黙を貫き通す。ベニューもそれを察して、必要以上に声を掛ける事はしていない。

 そんな風にしばらくの間誰も言葉を発さぬ時間を過ごしている内に、いつの間にかライゼルは眠ってしまっていた。

 その間、ライゼルは夢を見ていたような気がする。いや、正確には昔の事を思い出していたのだろうか。今と同じように膝を抱き、気落ちしていた在りし日の自分を。

 その時の事は今でもしっかと覚えている。そんな遠い昔の事でもない、まだ十年と経っていない程度の昔の話。

 母を亡くして以来、姉のベニューは、家族を養う為に染物を始めた。元々は母の職業であった染物屋であり、幸いな事に道具や材料は揃っていた事もあり、葬儀から然程日を空けずにダンデリオン染めを再開する事が出来た。

 始めたばかりの頃は四苦八苦している様子も見受けられたが、季節が一巡する頃にはベニューは子供ながらに目を見張る才能を開花させていた。母のダンデリオン染めを完全に再現するには至らないものの、それでもベニュー独自の染物として見れば、商店に並ぶそれとして見ても決して遜色ない仕上がりとなっていたのだ。村の職人達も、その出来栄えを手放しに称賛したものだった。

 とはいえ、まだ当時の子供時分のベニューでは、丁寧に良質な製品を作る事が出来ても、数を用意する事が出来なかった。他の職人達が分業して作業するのとは違い、染料を作るのも、染めるのも、干すのも全てベニュー独りでやっているのだ。とてもではないが、供給量は他と比較して格段に落ちる。子供が独りでやるには、流石に限界があった。

 そんなある日、その様子を見ていたライゼルは、自分にも何かできないかとお手伝いを申し出た。母を失って辛いのはベニューも変わらないのに、自分達の食い扶持を稼ぐ為、懸命に仕事に励んでいる。そんな姿を見せら

れては、自分も力になりたいと思うのがライゼルの性分だ。

「ねえちゃん、おれもやる!」

 だが、姉の手助けをしたいという想いはあっても、必ずしも結果が伴うとは限らなかった。ベニューは天性の素質を開花させたが、残念ながらライゼルはフロルの才能を受け継がなかった。どころか、人並み外れて手先が不器用であり、雑用をこなす事もままならなかった。牙使いの宿命か火を恐れる為に釜を沸かす事は適わず、染液に浸した布を絞ろうにも力加減が上手く出来ずに製品を傷めたり、染料となる花を集めようにも幼いライゼルにはどの花のどの部分が必要なのか分からなかったり。結局、ライゼルは姉の役に立つ事ができなかった。

 その事を別に姉は咎めなかったが、奮闘する姉の力になれなかったライゼルは、ひどく落ち込んだ。役に立たないどころか、後片付けの手間まで増やしてしまい、申し訳なさで胸が潰れそうだった。

(おれは、かあちゃんやねえちゃんみたいにできなかった)

 それからというもの、毎日のように母の墓柱(ヴァニタス)へ行き、特に何をする訳でもなく、たった一人で時間を潰すのが日課となった。

 広すぎる空の下で、膝を抱え佇む幼少期のライゼル。同年代の友人など、この村にはおらず、唯一の遊び相手だったベニューもライゼル一人にかまけている場合ではなくなった。

 とある一件を機にライゼルが立ち直るまで、この鬱屈した日々は続くのだったが、それ語るのは別の機会に譲ろう。

「ライゼル、起きてる?」

 後部座席の隣にいるベニューから声を掛けられ、うつらうつらとしながらも意識を取り戻すライゼル。

 ふと車の外に視線を向けると、辺りはすっかり日も暮れ暗くなっていた。宵闇の進路の先に、いくつもの明かりが見える。そこが今夜の宿なのだろう。

 ムーランから見て鉱物の町グロッタの手前にある宿場町。グロッタも鉱物の町と謳ってはいるが、住民皆が住めるだけの居住区がある訳ではない。グロッタの大部分が採掘場であり、そこで仕事に従事する者達の共同宿泊施設群が町の外れに設けてある。グロッタで生活する者のほとんどが、その宿場町で寝泊まりしているのだ。

 採掘場は人の住める環境ではなく、元々この土地に住んでいた者はほぼいない。多くが職を求めて各地から移り住んできた者ばかりだ。

 輝星石の産出する事が知られるようになってからは、より多くの人が移り住むようになっており、宿場町は夜も更けつつあると言うのに、建物から漏れるたくさんの明かりのおかげで町の外からでもはっきりとその場所が認識できる。

 眩しい町の明かりから目を逸らしつつ、座席からずり落ちかけていた体を持ち上げ、座り直す。

「…もう夜だったのか」

 そう独り言ちて、先程まで思い出していた過去に思いを馳せる。

 何故その頃の事を夢で見たのか、心当たりがないではない。おそらく、先のリカートの一件で、当時抱いていた感情が蘇ったのだろう。何をどうしていいか分からなかった、標を見出せなかった頃の、もがくような感情が。

 先の一件で、ライゼルは大きな壁にぶち当たっていた。良かれと思った行動が、望んだ結果を及ぼさない、それどころか、他人の迷惑になってしまうかもしれないという恐れに。

 ビアンはオノスの件をあれで良かったと言ってくれたが、それでもライゼルは素直に呑み込めない。リカートの否定を受けては、自分がやろうとした事は間違っていたのかもしれないと恐れてしまう。自信を失ってしまうのだ。

「うん、もうすぐ宿場町に着くって」

 そんなライゼルの心中を察しているベニューも、彼にどう言葉を掛けていいか悩んでいた。

 ライゼルと一緒に暮らしてきたベニューは、ライゼルの払拭したい過去の事ももちろん知っている。当時の自分にライゼルの事を慮る余裕などなかったが、今は違う。母との約束を果たそうと、これまでずっと一番近くでライゼルを見守ってきた。そして、これからも誰より近くでライゼルを支えてあげたいと思う。

 だが、いや、だからこそ、ベニューは安易な言葉でライゼルを励ます事が出来ない。ライゼルの落ち込んでいる理由が分かるからこそ、もう自分には何もしてあげられない事を察してしまえるのだ。生きる為に仕方なかったとはいえ、ライゼルに劣等感を与え続けていたという事実を持つベニューでは、弟の劣等感を解消する事は適わない。

 ライゼルがこれまで挨拶のように毎日毎日繰り返して口にしてきた事。それは、みんなの笑顔を守りたいという事。

 その事をビアンはどのように評したろうか、ベニューは思い起こす。確か、お題目は立派だが思い上がるのも大概にしろとかなんとか言っていたような気がする。そう言ったという事は、ビアンからはそう見えたのだろうが、ライゼルには思い上がりなど心当たりがない。軽口や大口は叩くが、慢心したり自惚れたりした事はない。自信を持つのは、経験則に支えられている物事のみでしかない。

 何も、ビアンもライゼルの行いを否定しているのではない。先も言ったように認め、褒めてすらいる。ただ、高望みして変に気落ちする事を止めるよう注意しているだけだ。なのだが、ライゼルは拘らずにいられないのだから、これ以上気休めを言っても詮無き事なのかもしれない。

 結局、誰も解決の糸口を見つけられないまま、一行を乗せた車は、今夜の目的地グロッタの宿場町を目指し走る。

 もうすぐ到着するグロッタの町の全景は、至って単純な並びだ。巨大な採掘場の北側に位置する宿場町なのだが、採掘場の搬出口から真っ直ぐ北へ伸びる街道沿いに並ぶ建造物群がそれにあたる。

 ミールの大通りにも匹敵する幅の道に沿って、青果店や衣料店、食事処に宿屋が軒を連ねている。採掘作業従事者の多いこの町は、夜の食事を楽しむ者達が大勢おり、日が暮れた今頃から労働者達は自らを労う為に町に繰り出してくる。出稼ぎの町であるが故に子供の姿はほとんどなく、仕事盛りの男や給仕の女達の姿があちこちで散見する。

 そんな光景を横目で見やりながら、しばらく車を走らせ比較的小さな宿の前まで来ると、ビアンは適当な場所に車を停め、宿の手配に向かった。

「戻ったらすぐ飯に行く。それまでにはその陰気な顔を何とかしておくんだぞ。その顔を見ながらの飯なんて俺はまっぴら御免だからな」

 そうライゼルに言い含めて、ビアンは通りを歩いていき、車を脇に止めた宿の中へ入っていった。

 その姿を後部座席から見送るベニューと、その隣で黙したままのライゼル。

「今日の晩ごはんは何だろうね。楽しみだね、ライゼル」

「……」

 弟を気遣いベニューがそう声を掛けるが、ライゼルはこれといった返事をしない。先のムーランの件が頭から離れないのだ。

 ライゼルの無反応を見たベニューはこれ以上言葉が紡げず、二人の間に気まずい沈黙が流れる。町は賑やかなのに、まるで二人だけが世界から切り取られたような不思議な静寂。周囲の人々の明るさにライゼルが何の関心も持たないというのも、それまたベニューに違和感を与え、不安を煽るのだ。

 と、その時だった。ベニューは微かな空気の流れを感じたかと思った瞬間、突然二人の男女が駆動車の中へ乗り込んでくる。気付いて振り向いた時には、既に後部座席に上がり込んでいた。

「えっ? どなたですか?」

「自己紹介は後で。匿ってほしいんだ」

 端的に自らの要求を伝えると、ライゼルが座る奥の方へと無理やり体を押し込めていく年若い男女。男は古びた身なりで、女は洒脱な装い。どちらも、ベニューより年上で、ビアンよりも年下ぐらいの年齢に見える。

 何か事情があるのだろうという事は察する事が出来たが、いまいち状況が呑み込めていないベニュー。

 すると、通りの向こうから掛けてくる一人の年若い男性が、車の脇に止まり、ベニューに声を掛けてくる。

「そこの少女。私はザングと申す者で、ある女性を探している。名をグレトナ様と言い、背丈はこればかり、衣服はこの辺りでは見かけぬような上等な召し物を纏っておられる。薄汚い身なりの男にかどわかされてしまった。見覚えはないだろうか?」

 身振り手振りを交えて説明する20歳前後の男の話を聞きながら、なんとなくベニューは状況を理解した。目の前のザングと名乗るきちっとした身なりの男性は、今自分の背で身を潜めている美貌の女性を探しているのだと。ザングの口振りから女性が高貴な身分なのだという事は、容易に察する事ができる。

 では、女性は誘拐されて今駆動車の中に身を潜めているのか? それは否。おそらく、望んで行方を眩ませている。その証拠に、女性は何一つ声を挙げない、具体的に言えばザングに対し助けを求めない。もし、共にいた男性に望まない同行を強要されているのであれば、ここで大声の一つも上げるだろう。

 それにベニューには、他にもグレトナと呼ばれた女性の気持ちを量る材料がある。それは、男女二人が決して広くはない後部座席で身を寄せ合わせている時に見た。グレトナは、共にいる男性の手をぎゅっと握りしめていたのだ。

 それを思い出し、ベニューは素知らぬ顔で、ザングに対し、こう答える。

「はっきりとは見ていませんが、おそらく北の方へ駆けていった二人がそうかもしれません。お力になれず、すみません」

 この詫びは演技でもあるのだが、半分は騙してしまう事への謝辞でもある。二人の男女だけに肩入れするのは、僅かに心苦しいとも思うのだ。

 そうとは知らないザングは、年下であろうベニューに礼儀正しく頭を垂れ、礼を告げる。

「そうか、協力感謝する。では、失礼」

 ザングはそう言って、ベニューの教えた噓を信じて、北の方へ向かって駆けて行った。

 ベニューはその姿を見届けて、ゆっくりと背後へ振り向き声を掛ける。

「行ったみたいです」

 それを聞いて、車から身を乗り出し、ザングが去った事を確認すると、男女二人はベニューに礼を述べる。

「突然、面倒な事に巻き飲んでしまってすまなかったね」

「いえ、困った時はお互い様です。何やら事情があったようですし」

 一旦、事態が収まった事で、一息ついたベニューと二人。

「それでね、自己紹介をしようと思うのだけれど、その前にもう一つ謝らなければならないみたいなの」

「謝る事、ですか?」

 先程から慌ただしく事態が動いていった訳だが、今度こそ何の事やら察しがつかないベニューに、グレトナは申し訳なさそうにこう続けた。

「無理やり押し入ったせいで、男の子が気を失っているみたいなの…」

 と、グレトナが視線を促した先に、二人に押し潰され気絶しているライゼルの姿があった。

「ライゼル~!?」

 

 かくして、ビアンが手配した宿屋まで男女二人も付いてくる事となった。

 ライゼルが気絶した事をビアンに話すと、始めは面食らったが、加害者が異国民などではなく、訳ありの若い男女という事を説明したら、いつもの職務の時の顔を覗かせていた。

 二人から聞き出した話を簡潔に説明するとこうだ。

 男は名をフウガと言い、彼はどこぞの農家の息子で、親の勝手で他の女性と婚約させられていた。しかし、彼には想い人グレトナがおり、二人は駆け落ちしてきたのだと。二人とも年の頃は、19歳という。

 そして、先の男がグレトナの家に仕えているザングであり、連れ戻しに追い掛けて来たという訳だ。

「それで、ベニューがフウガとグレトナを匿って、その結果ライゼルが気絶した、という訳か」

 呆れ顔のビアンは、事の次第を聴取すると、溜息をついて見せる。確かに、ライゼルに対し辛気臭い顔は止めろとは言ったが、無防備な寝顔を晒せとは言っていないのだ。よくよく面倒事を連れてくる子供だと、ビアンは頭が痛くなってくる。

 が、幸いな事に外傷が見受けられる訳でもなく、ただ眠っているだけのようで、それ程心配する必要もなかった。寝ている方が余計な事は考えずに済むだろうし、ライゼルの為にもちょうど良かったかもしれない。

 そして、寝台に横たわるライゼルを余所に、話を切り出すベニュー。

「それで、この後どうするんですか?」

 ベニューがビアンに質問を投げた意図。それは、この事態を役人であるビアンがどう裁きを下すかという事。

 既にビアンが役人である事は、フウガとグレトナも承知である。詳しい事情を訊いた上で、法によってどのように処理されるのか。彼らはその事が気が気でなく、耐えかねてベニューが代わりに問うたのだ。

 問われたビアンは、一瞬拍子抜けした顔をした後、怪訝そうな顔をベニュー含めた三人に向ける。

「おいおい、勘違いしてくれるなよ、ベニュー。俺は違法行為に対しては捜査権限を持っているが、個人の事情に関しては何も口出しするつもりはないぞ?」

「…そうなんですか?」

「原則的に民事不介入なんだよ。そこのグレトナっていうお嬢さんが無理やり連れられているというなら誘拐行為だが、自身の意志で同伴しているのなら犯罪でも何でもないだろう。二人とも身分証(ナンバリングリング)を身に着けているから都市間の移動は制限されていない。であるなら、家の問題は別として、法的にはお咎めなしなんだよ」

 役人ビアンからのお目こぼしをもらい、俄かに安堵するフウガとグレトナ。せっかくここまで逃げてきたというのに、匿ってもらった相手が役人の関係者であると知った時は、二人も観念しかけていた。それだけに、ザングの追跡を逃れ、逃避行の妨害をする者がいなくなったのは、二人にとって僥倖であった。

「という訳だ。二人はもう行っても構わんぞ?」

 ビアンがそう二人に水を向けるが、二人は一度お互いを見やった後、各々小さくかぶりを振った。

「いえ、ライゼル君にまだお詫びができていないので、また明朝伺わせてもらいます」

「そうか。こちらは昼には採掘場へ向かう予定だ。来るなら、その前に来てくれ」

 ビアンがそう伝えると、二人は揃って頭を下げ、部屋を退室した。

 眠るライゼルと、ベニューとビアンだけになり、二人は出来るだけ物音を立てぬよう、備え付けの腰掛けにゆっくりと座る。

「それにしても、よく寝ている。俺達の声で目を覚ますかと思ったが、起きないのであればこのまま寝かせてやろう」

「はい、そうですね」

 きっとライゼルは、悩むなんていう不慣れな事をした為に余計に疲れたのだろう。気を失った事は驚いたが、すやすやと寝息を立てているライゼルの顔に、先程のような眉間の皴はない。今は余計な事を考えずに、しっかりと休んでもらいたい。傍らの二人は、そう考えた。

 しばらくの静寂の後、ビアンはライゼルの寝顔を眺めながら、呟くように話す。

「ライゼルが黙っているだけでこんなに静かになるのなら、しばらくはこのままでも構わんがな」

 ビアンのぼやきに、ベニューは苦笑しながら答える。

「ビアンさんはそうかもしれませんね。ライゼルは何かあればすぐにビアンさんに質問するから、休んでる暇がないですよね」

 思えば、ライゼルを介さず、この二人が会話をするのも珍しい事なのかも、とベニューは思ったが、それは口には出さない。それを言ってしまえば、やはり騒動の中心にいるのはライゼル、という印象を強固にしかねないからだ。事実には違いないが、ベニューがそれを認めてしまうのもライゼルに気の毒だ。

 ベニューが思い付きを自重した代わりに、ベニューの先の言葉で気になった点について、ビアンが言及する。

「その言い方だと、ベニューはそうじゃないのか?」

 そう問われ、少しはにかんで見せた後にベニューは答える。

「ライゼルがいつもの調子じゃなきゃ落ち着かないんです」

「確かにな。あいつは騒がしくしていようが大人しくしていようが、状態問わず面倒事を連れてくる。同じ面倒なら、陽気なライゼルの方が好ましい、か」

「…はい」

 ベニューはそれだけ告げると、それから先は紡がず黙したままになる。

 やや溜息交じりの語調を見るに、弟の事が気掛かりで心休まらないのだろう。その様子は、ビアンの目からも見て取れた。

 少しでも気を紛らわせてやろうと、ビアンは話題を変え、話を振る。

「それにしてもだ。本調子でないライゼルに代わって、ベニューがお節介を焼くとはな。それとも、ベニューもライゼルに劣らずの世話焼きなのか?」

 ベニューも、ビアンがフウガとグレトナの件を指しているのだと気付いた。二人の男女を庇った事を、ビアンはお節介だと言っているのだ。

「ライゼル程ではないと自覚していますが、どうなんでしょう?」

 ライゼルにかまけてつい口煩くしてしまうベニューであるが、他の人間に対してそのような態度を取った事はない。故に、フィオーレにいた頃も、世話焼きと評された事はなかったはずだ。

「ライゼルと比べてしまっては、誰だって当て嵌まらなくなるだろう。今回、ほんの一時匿っただけではあるが、別に真実を従者に告げて引き渡してしまっても構わなかったんじゃないか?」

「そうかもしれませんが、ライゼルの夢を応援したい私が、あの場でグレトナさん達を悲しませる事はできませんよ」

「夢ってのは強くなる、ってやつの事か?」

「いえ、それは飽くまで夢を叶える為の方法です。ライゼルの夢はそれとは別にあるんです」

「そうなのか? だが、意地悪い言い方をすれば、あの二人を庇った為に、更に多くの人間を悲しませる事になる恐れだってあるんだぞ?」

 例えば、家族が、従者が、二人が行方を眩ませた事で心を痛める恐れだって十分考えられる。

 だが、それでもベニューはビアンの問いに対して首肯を以って返す事はしない。

「本当にいじわるですね。でも、やっぱり目の前で困っている人は見捨てられないです」

 これまでの経験則から、その答えを導き出すのはそう困難な事ではない。ライゼルの人としての在り方を見ていれば、容易に想像できる。これまでの生涯を共に過ごしたベニューはもちろん、出会って数日のビアンですら想像に難くない。

「ライゼルならそう言う、という事か」

「はい、ライゼルならきっと」

 

 夜が明けて翌朝。いつものように朝早く起き、外へ鍛錬に出かけたライゼルだったが、いまいち身が入らなかった。習慣ではあるが、本調子でないのだから無理もない事か。

 そしてしばらくの後、宿屋の食堂にてベニューは、鍛錬を終えたばかりのライゼルに昨夜の事のあらましを説明した。内容は昨夜ビアンに聞かせた事と然程変わらない。一つ念を押したのが、フウガ達が駆け落ちをしている点。ベニューはその点だけは、印象に残るように話して聞かせた。

 ただ、何かの意図があっての念押しだろうが、ライゼルはほとんど興味を示さなかった。彼の頭の中は、別の考え事で占められている。他の事を留めておく余裕は残されていない。鍛錬の間もずっとそうだった。

 そう、昨夜の二人の件は、ライゼルの中では済んだ事なのだ。ライゼルとしては、今回の件で迷惑を被ったというより、昨夜の心持で皆と夕食を共にせずに済んで、どちらかといえば都合がよかったとさえ感じている。現にムーランを発って以降、いつムーランの件を蒸し返されるか、未だに身構え過ぎて気が滅入っている程だ。ライゼルの関心事は、未だに上書きされていない。

 ただ、不幸中の幸いか、昨夜のフウガとグレトナなる二人組の一件に巻き込まれたおかげで、今の所はムーランの話題には触れられていない。ビアンも同様で、昨日の件に特に言及する様子もなく、姉弟を連れて食堂へ向かっている。

 このまま、ライゼルが変に拘らなければ、自然と忘れられていく話題なのかもしれない、ライゼルにはそう思えた。

 そのおかげで、ベニューがフウガ達の事しか話さないのだと察したライゼルは、態度を軟化させ、変に警戒する事なく自然にベニューの話に耳を傾けられるようになっていた。

 食堂内では大勢の人間が食事を摂っていたが、それでも隅の一角に席が空いているのを見つけた一行。窓際の朝日が差し込む四人掛けの卓。三人しかおらぬ一行は、そこに座る事にした。

 その席へ腰掛けながら、ライゼルはベニューに問い掛ける。

「それで、そのフウガとグレトナって人達が来るんだ?」

「そう。グレトナさんはとても綺麗な召し物を着てて、グレトナさん本人もすごい美人な人だったよ。立派な身分証を付けてたから、もしかしたら王都の人かもしれないね。面白い話がたくさん聞けるかもよ?」

「なるほど、思えばあの身分証はクティノスを示していたな。立ち振舞いから見るに、グレトナはクティノスの、しかも身分の高い家の箱入り娘なんだろう」

 姉弟の会話にビアンが口を挟むと、ベニューは更に話題を膨らませる。

「王都では駆け落ちってよくあるものなんですか?」

 そう問われて一瞬逡巡するが、かぶりを振ってビアンはそれを否定する。

「珍しい例だと思うがな。昨日も話した通り、行き来こそ自由だが国から生活の保障が受けられるのは飽くまで労働の成果を国に献上している者だけだ」

 駆け落ちという行為自体があまり思わしくないのだろう。説明するビアンの調子はやや重たい。彼の役職を考えれば、それもそうか。

「国家へ貢献していないと、配給物資に頼れない、という事でしょうか?」

 端的な理解を示したベニューに、ビアンは大きな頷きを以って応える。

「その通りだ。あの二人がどこで何をするつもりか訊いていないが、親も頼れない人間が見知らぬ土地ですぐに職に就けるかと言うとそうじゃない。どこへ行くのも勝手だが、その土地の人間からすれば、何もできない人間に用は無いんだよ」

 ビアンらしいもっともな意見だったが、それを聞いたライゼルは自分の事を責められたような気がして、わずかに胸が痛んだ。何の役にも立たない人間とは、まさしく先日の自分がそうだったのではないか、と。

 酷い仕打ちを受けていたアスターやオノスは、決してライゼルには助けを求めていない。結果的に二人はドミトルの悪行から逃れる事が出来たが、それはライゼルのおかげではない、異国民リカートの手柄だ。

 そして、そのリカートは、オノスを救う善を為したと同時に、ドミトルを葬る悪を為した。一つの行いで、相反する結果を生み出したのだ。救われたオノスはその行いを是とし、法に忠実なビアンは非として断じた。

 こんな奇妙な事が起こってしまっては、ライゼルにはもう訳が分からない。その矛盾は、少年から行動の指針を奪ってしまっていた。

 これまでその想いを口にしてこなかったライゼルだったが、思わずぽつりと漏らしてしまう。

「それはいけない事なの?」

 唐突に疑問をビアンにぶつけるライゼル。昨日から様子のおかしいライゼルであったが、今のそれは実に彼らしい反応だった。脳裏に浮かんだ疑問を問わずにいられない、好奇心の化身、いや、今は真実の追求者と呼んだ方が適切だろう。

 ビアンは昨日振りに投げかけられる問いに、いつも通りの調子で答える。それが、ライゼルに対してのビアン自身の役割だと思っているからだ。

「合理的だとは思わない。だが、良いも悪いもなく、行動するのも結果を受け入れるのも結局は自分なんだ。どんなに苦しい目に遭おうとも、自分の責任なんだという事を失念してはいけないと、俺はそう言いたいな」

 ビアンの持論を嚙み砕くように、受け止めるライゼル。先の内容を反芻させ、自分の中に落とし込んでいく。その言葉の本質を見誤らず、理解するように。

「自分の責任、か…」

 そう呟いたきり、自問自答しているのか静かになったライゼルの様子を、復調の兆しと捉えたベニュー。 

(ライゼルは今、答えを見つけようと精一杯考えている。がんばれ、ライゼル…!)

 ベニューがそう胸の中でライゼルを激励した時、ちょうど給仕の女性が両手に皿を抱え、一行の傍らに現れる。

「お待たせしました、朝定食四人前で~す」

 彼らの注文していた料理が、次々に四人掛けの卓に配膳されていく。

 四人が囲んで座れる程度の卓であったが、やや手狭となっているのは、姉弟の空腹加減が影響しているからだろう。気を失ったまま一晩を寝て過ごしたライゼルと、ずっと付き添っていたベニューの前には、一人分が追加された朝食が並んでいる。姉弟は昨日の昼食から何も食べずにいたので、普段より多めに食事を用意してもらったのだ。

 その所為か、姉弟の口数は自然と少なくなるが、もう先のような気まずさはない。

 ライゼルは必死に思考を巡らせ、答えを導き出そうとしている。ベニューも、母との約束を守る為に弟の傍らでずっと見守っている。ビアンも、大人しいライゼルに多少の違和感を覚えているが、昨日の言いつけ通り、辛気臭い顔はもう見せていない。むしろ、前を向こうと、立ち上がろうとしているのが、ライゼルが瞳に宿した強い意志から察する事が出来た。

(今の方がお前らしいぞ。六花染めの似合う、良い面構えだ)

 それから三人は黙々と朝食を摂り続け、しばらくして、姉弟は朝食にしては多めの量をぺろりと平らげた。

「ごちそうさま」

「ご馳走様でした」

 姉弟が手を合わせ、感謝の念を唱和すると、機会を見計らっていたかのように、約束通りに昨夜の二人がライゼル達の元へやってきた。古びた衣服に身を包んだ男性フウガと、それに不釣り合いなくらいに綺麗な姿の女性グレトナ。

 食堂内のライゼル達の姿を認めると、卓の傍まで来て、フウガは昨夜の事を詫びる。

「昨日はすまなかったね」

「えぇと、フウガとグレトナ…だっけ? いいよ、別に気にしてないし」

 若干らしくない態度で、ライゼルは彼らの謝罪をやり過ごす。普段なら何気なく受け取る謝辞だが、今はまだそういうものを耳にしたくない。復調の兆しを見せているとはいえ、良い事も悪い事も、今のライゼルにはまだ判断がつかない。

 実を言えば、ムーランの件で頭を悩ませるようになっていたライゼルには、ベニューがフウガ達を庇った事さえも懐疑的なのだ。あの行いをベニューがどういう想いでしたのかは分からない。それでも、確実に恩恵に預かった者と迷惑を被った者がいる。前者は言うまでもなくフウガとグレトナ、後者はグレトナを連れ戻す任を帯びていたザングだ。

 ベニューから聞かされた話だと、ビアンはその件を不問にしたという。不問という事は、褒めるでもなく咎めるでもなく、ただ見逃し、許したのだ。それは先程ビアンが話した、自分の責任という事なのだろう。

「何かお詫びをさせてくれないかしら? 例えば、朝食のお代を私達が持つとか」

 そうグレトナが提案するが、ビアンは毅然とその申し出を断る。

「それには及ばない。この子達は私が職務で預かっている。二人の事で余計な気を遣わなくていい」

「そうですか、では他に」

 それでもと食い下がるグレトナに、何か物言いたげな、厳密に言えば問いたげなライゼルの代わりに、ベニューが勢いよく立ち上がり、連動して右手を挙げ、皆の注目を集める。

「あの、グレトナさん、フウガさん」

 ライゼルの隣の席に座っていたベニューが、急に二人に呼び掛けるものだから、ライゼルもビアンも何事かとそっちを見やる。

 突然立ち上がり手を挙げたベニューが、四人に注目されながら紡いだ言葉。それは、

「服を、お二人の服を新調しませんか?」

 

 初めは、急に何を言い出すのかと呆気に取られたが、ベニューが語るその理由は実に理に適っていた。

 フウガの服は市井の民として見てもみすぼらしく、反対にグレトナは上等な衣服を纏っており、この組み合わせが連れ添って逃避行を続けているとなると、目立って仕方がない。例えば、何も事情を知らない者が、昨夜のようにザングに声を掛けられたら、きっとこの二人組を思い出すだろう。実際に、食堂内で二人を見かけた宿泊客は、二人を気にしている様子でちらちらと視線を送っていた。

 しかし、揃いの身なりであれば、似合いの連れ合いとして町中に溶け込む事ができる。そうすれば、目撃情報も減り、二人の逃避行の難度は幾分か軽くなるだろう、とベニューは話す。

「確かに、その恰好では土地の風俗にも合わないだろうなぁ」

 ビアンが同意を示した事により、始めは困惑していたフウガとグレトナも次第にその気になっていた。

 そして、ビアンがこの先のグロッタ採掘場への立ち入り許可を役所に申請している間だけという条件で、ベニューは二人の服選びに付き合う事が許された。それに伴い、その間手持ち無沙汰になってしまうライゼルも、気乗りこそしないものの同伴する運びとなった。

 かくして、ビアンはグロッタの役所へ行き、姉弟とフウガ、グレトナは宿場町の商店街へ向かった。

 ここグロッタの商店街は、先のミール程は賑わっていないが、それでもグロッタ洞窟へ出稼ぎに来る大勢の労働者を商売相手にする店舗が多数構えられている。衣食住を取り扱う店舗は、他の都市にも引けを取らず、フウガ達が気に入る服もきっと見つかるだろう、とは、先の給仕の女性の談。

 以前ライゼル達が立ち寄ったミールは、街の特色故に食に特化しており、それ程衣料品を扱う店は多くなかった。フウガ達のこれまでの道中でも、充実した店はあるにはあったが、追手から逃れようと必死で買い物を楽しむ余裕などなかった。

 故に女性二人は期待感もあって、高い声を挙げながら店舗の方へ入っていく。

 一方で、嬉々としてこの時間を楽しもうとしている女性二人とは対照的に、男性陣はライゼルが鬱々とした様子なので盛り上がる事はない。

「悪いね、君まで付き合わせてしまって」

「いいよ、どうせビアンを待たなきゃだったし」

 本来のライゼルであれば、この程度の事を面倒事だなんて思わない。むしろ、自ら率先して世話を焼く性分だ。姉ほどではないにしても、ライゼルもフィオーレ村の人間であり、服飾の知識は人並み程度にはある。適当な物を見繕ってあげるくらいの事は出来る。故に、いつもであれば、女性陣と変わらぬ明るさで盛り上がれたはずなのだ。

 だが、今回はその代わりに、ライゼルに似つかわしくない調子で、フウガに対し問いを投げる。

「ねぇ、フウガ」

「ん、何かな?」

「フウガはなんでグレトナを連れて逃げてるの?」

 その質問を受けて、フウガは少し困ったように笑って見せた。ライゼルとは初対面であり、ライゼルが物怖じする事なく真っ直ぐに相手に向かう事など知らないフウガは、やや責められていると錯覚いてしまうような、虚を突かれた形となったのだ。

 だが、唐突に投げられた問いだったが、フウガはそれに対する明確な答えを持っている。少し照れくさそうに、遠い故郷に思いを馳せるように目を細める。

「それじゃあ、まずは僕の事から話さなきゃいけないかな」

 女性陣が入店していった衣料店の軒先にある長椅子に、二人は示し合わせたように同時に腰掛ける。本来であれば、グレトナ達のように服を見繕わねばならないが、得てして男の服選びとはそう時間が掛からないものだ。だったら、少しの時間をおしゃべりに使っても構わないとフウガは考えたのだった。

 ライゼルは、自分の中の名も形もない感情をどうにかしたい。そう思っている最中、フウガ達と知り合った。そして、彼らが駆け落ちなる行為に及んだ事を知った。

 彼らの行動は、法的に罰せられるものでこそないが、それでも誰かしらに、例えばザングに迷惑を掛けている。その点は、先日のミールでの一件と類似する点がある。

 ただ、今回の件でライゼルがまだ知り得ていない事がある。それは、フウガ達がどのように考え、その行動に至ったのか、という事だ。自分が、良かれと思ってオノスを助けようとした時のような、行動を起こす為の動機がフウガ達にもあるはずなのだ。それを、ライゼルは訊き出したい。何か行動を起こす時、自分以外の人間は何を思うのだろうという事を、参考意見として知っておきたいのだ。

 故に、フウガの言葉にじっくりと耳を傾ける。フウガもそれを知ってか知らずか、ゆっくりと語り始める。

「僕の家は、カラボキにある農場を経営しているんだ」

「カラボキの農場? ミールで売ってた焼き玉蜀黍の?」

 以前立ち寄ったミールでビアンが食していたそれが、カラボキ産と言っていた事をライゼルは記憶していた。

「そうそう。食べた事はあるかい?」

「ううん。でも、また今度食べさせてくれるってミールのおじさん達が約束してくれた」

 ミール大火の件は、治安維持部隊アードゥルが近隣集落に注意喚起して回ったおかげで、フウガも知り得ていた。実家の家業の大きな取引先に損害が出た事に心を痛めていたが、それを当事者ぶってライゼルに聞かすつもりは更々ない。そんな資格はないと承知しているのだ。

 代わりに別の話題を、と思い、フウガは不自然でないように会話を続けようとする。

「そっかぁ、ぜひ食べて欲しいよ。なんたって、ウチのは…」

 そこまで誇らしげな表情で語ってみせたが、不意に言い淀んでしまうフウガ。心掛けていたはずの事であったが、長年の習慣はすぐには止められない。

 フウガが言い淀んだ理由。それは、飛び出して不義理を働いた家の事を『ウチ』と呼ぶ事に躊躇いを覚えてしまったからだ。家とのしがらみを断とうとする気持ちと、家業そのものは誇らしく思っている気持ちが、フウガの心の中で混在している。言い聞かせていても、咄嗟の事となると不意に言い慣れた呼称が出てきてしまうものだ。

 その様子に気付き、ライゼルは隣に座るフウガの顔を覗き込む。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。それより、何で駆け落ちしたのかっていう理由が聞きたいんだったね」

「うん、知りたい」

「そうだね、どこから話したものか。僕の家はさっきも言ったように、農園をしていて、僕はそこの跡取り息子なんだ」

「跡取り息子?」

「跡取り息子ってのは、お父さんやお母さんがやっている家業を継ぐ予定になっている子供の事を言うんだ」

「それなら分かる」

 そう言って、聴き手ライゼルは少し胸が苦しくなる。ライゼルが知る跡取りとは、もちろん姉ベニューの事。フロルの名を継ぐ者は、役立たずな自分でなく、才に溢れるベニューという事実が脳裏を過り、またライゼルの表情が曇る。

 ただ、これはライゼルの勘違いも因る所も多分にあったのだが、本人はそれを知らない。厳密に言えば、初代フロルの技術はフロルの代で既に途絶えており、ベニューですら正式に継承していないという事を。

 フロルの件に一切関わりのないフウガに、ライゼルの複雑な心情を察する事ができる訳もなく。共通認識を確認できたと思ったフウガは、更に話を進める。

「それで、僕は生まれついてその農園の領主になる事が定められていた。その家に産まれたという、ただそれだけの理由で、僕の人生は勝手に決められてしまっていたんだ」

 定められた宿命というものは、いまいちライゼルには理解できない。そのような事に、これまで想いを巡らす事がなかったから。もし宿命があったとして、フロルを継げない自分に気が滅入るだけに違いないのだろうが。

 フウガの覇気のない様子に、ライゼルは更に問い掛ける。

「それは、フウガにとって嫌なこと?」

「あぁ。僕には農園を大きくする事なんかどうでもいいと思えるくらいの、叶えたい夢があるんだ」

「叶えたい夢…?」

 

 一方、店内で服を選んでいる女子二人はと言うと、ちゃんと民衆に溶け込める衣服を選びつつも、おしゃべりに興じている。話題は、二人の馴れ初めの事であった。

「グレトナさんは、どうしてフウガさんを選んだんですか?」

 こういう時のベニューの物言いは、若干ライゼルに近いかもしれない。ベニューも年頃の女の子であり、恋愛事には強い関心がある。そして、興味のある事柄に関しては、持って回った言い方をせず、直接的に質問をぶつける事もあるのだ。

 好奇心に満ちた表情のベニューの問いに、グレトナは俄かに頬を紅潮させる。

「ふふふ、気になる?」

「はい、ものすごく!」

 グレトナもその件を根掘り葉掘り聞かれる事に特に抵抗はなく、むしろ嬉々として語り出す。

「えとね、彼は私と約束してくれたの」

「約束ですか?」

「そう。私に一面に広がる花畑を見せてくれるって。遠いフィオーレに連れて行ってくれるって」

 それを聞いて、ベニューは感嘆の声を上げる。

「お二人の行き先はフィーオーレなんですか? 私とライゼルはフィオーレの出身なんです」

「そうなの?! じゃあ、ベニューちゃん達と知り合えたのは何かの巡り合せなのかもしれないわ!」

 巡り合せ。グレトナが語るその言葉が、ベニューに予感めいたものを感じさせてくれる。グレトナ達と知り合えた事は、何か意味があったに違いない。昨夜、二人をとっさに庇ったのは、ただの気紛れではなかったのだ。きっと今のライゼルにとって、良い作用をもたらすとベニューは密かに信じている。

「そうかもしれませんね。でも、フィオーレには花畑と染物があるくらいで、他に目新しいものはありませんよ?」

 ベニューがそう言うと、グレトナは少し恥ずかしそうに俯いて見せた後、ぽつりと呟く。

「私ね、つい最近までクティノス以外の景色を知らなかったのよ」

「クティノス以外の景色、ですか?」

 ベニューの山彦のような反復に首肯で応じたグレトナ。そして、彼女は自身の出生を、照れがあるのか訥々と語り出す。

 グレトナは、王家の歴史書を編纂する極めて特殊な職業を代々生業としている家柄だった。

 千年王国と謳われるベスティア王国の歴史は、その謳い文句に違わず悠久の時を経て未だ途切れず語り継がれている。記録に残る原初の事象である未曽有の大洪水から、復興を旗印に興ったのがベスティア王国の始まり。そして、それから千余年が過ぎた、当代国家元首ティグルー王の治世までが、グレトナの一族がしたためた歴史書に全て記されている。

 その為、王族からの信頼も厚く、誉れ高い地位と名誉を与えられているのが、グレトナの一族なのだ。グレトナも幼い頃より、職務に必要な知識や教養を身に着けるべく教育を受け、今となってはどこに出しても恥ずかしくない淑女へと成長した。ゆくゆくは、夫を迎え新たな家庭に入り、父の跡を継ぎ、家を盛り立てていく事になるのだろう。

 グレトナもその事は十分理解しているし、父の期待に応えられるよう努力を積んできた。一人娘であり、自分がその家業を継ぐのは当然の事など疑う事をしなかった。

 が、しかしだ。グレトナは、家督を継ぐ為の勉学を続ける生活の中で、何処か満たされない心が存在する事に気付きつつあった。

「嫌だったんですか? 編纂の仕事を継ぐ事が」

「ううん。親に決められた事だけど、継ぐ事自体には不満はないのよ。ただ、ただ…」

 言葉を探すようにして言い淀むグレトナの声が徐々に小さくなる。

「その、ね…ずっと憧れてたの。絵画に描かれるいろんな景色に」

「絵画ですか?」

 グレトナの照れを含んだ告白に、ベニューはいまいち要領を得なかった。その理由というのは、ベニューには絵画というものを見た事がなかったからだ。

 この時代、ベスティア王国では絵画はあまり普及していない。

 というのも、王国各地に学習機関が敷設されており、王国内の識字率は九割を超えている。つまり、文字による情報共有が主流の手段として認識されているのだ。その背景もあり、壁画等の図や絵を以って情報を伝達する文化が然程発達しなかったのだ。絵画は情報量は多いものの、したためるのに多分に時間を要してしまう。交通網の発達により、各地の情報を得られるようになるに連れ、多くの情報を必要とするようになった国民達からは必要とされず、絵画の文化は廃れていっていた。

 その為、ベニューは絵画に馴染みがなく、グレトナの告白の真意を汲み取りかねている。

「…そうよね。今時、絵なんて流行らないわよね」

「いえ、私の不勉強で。田舎の生まれだから見た事がなかったもので」

 ベニューがそう謙遜するものの、グレトナは小さくかぶりを振る。

「それでも、あなたは本物を見た事があるわ。絵画の景色は誰かの目を通して映した景色。私が見たいのは、ベニューちゃん達が見てきた本物の景色なのよ」

 先程から繰り返し、外の世界に強いこだわりを見せるグレトナ。その様子からベニューは、先程のグレトナの答えに合点がいったような気がした。

「だから、フウガさんと駆け落ちをしたんですか?」

「えぇ、そうなの」

 ベニューの問いに優しい微笑みを以って応えるグレトナ。

 決して、誇りある職業の一家に生まれた事が不満なのではない。この国のあらゆる出来事を記録する仕事自体は、グレトナも生涯を通してやり続けたいと思っている。

 だが、今その職に就いてしまっては永遠に叶わない夢がある。多忙を極める職務故に、望む土地へ自由に行き来ができる訳ではない。仮に外へ出掛ける事があっても、新たな出来事の調査へ出向くのが精々だ。それでは、行けない。『フロルの悲劇』以降、重大事件の起きていないフィオーレには、これより先で足を延ばす機会はないだろう。家業を通じてでしかクティノスより外へ外出を許されていないグレトナは、憧れ焦がれ続けたフィオーレの花畑をその目で拝む事はおそらく適わない。

 そのように半ば諦めかけていた頃、グレトナは運命の出会いを果たす。

 それは、月に一度の礼拝の日の事。ウォメィナ教を信奉するグレトナの家では、他の信者と同様に月の初めに教会へ出向き、祈りを捧げるのが習わしであった。

 グレトナは毎月この日を楽しみにしていた。治安のいい昨今ではあるが、名家の一人娘という事もあり、両親が娘の身を案じ、その日以外の外出を禁じていたのだ。その為に、グレトナがクティノスの城下町を歩けるのは、従者ザングを同伴しての教会への往復路だけであったのだ。

 自由に王都を歩き回れる訳ではないが、それでも屋敷の外へ出る事を許された数少ない機会。グレトナは教会までの道中、いろんなものに目を向ける。商店の賑わい、広場へ憩う子供達、劇場へ赴く大人達、普段見慣れない景色を見て、心を弾ませる。市井の者からすればありふれた当然の光景であるが、箱入り娘であるグレトナにとっては、童心に帰らせてくれる、正確に言えば経験できなかった一般的な子供時代を体験させてくれる景色なのだ。

 それらの全てが目新しく、中でも、大通りから外れた路地裏にいくつかの画布を広げた露天商は、特段珍しく思えた。他のものは、使用人などから聞く事もあったが、油絵を施した画布はお目に掛った事もなければ話にも聞いた事はない。

『あれは何かしら?』

『どうやら絵画のようですね。見慣れぬ代物ではありますが、有難がる物でもありません。寄り道をしていると、礼拝の時間に遅れてしまいますので』

 そう同伴しているザングに窘められ、往路では横目でそれを見やりながら、通り過ぎて行ったグレトナ。何故そのような人通りの少ない場所に店を構えなければならなかったのか、その理由に考えが至らぬグレトナであったが、ザングが快く思っていない事は察する事が出来たので、渋らず聞き分けの良い振りをしたのだ。

 かと言って、完全に興味を失った訳ではない。飽くまでも、ザングから要らぬお小言を受けぬよう、延いてはザングから父に告げ口されては堪らぬと考えての芝居。徐々に想いは膨らみ続け、あまりにも先の画布を並べる露店の事が気になってしまい、ウォメイナの教えもほとんど耳に入って来なかった程だ。帰り道にもう一度見掛けるだろうかと期待していたが、礼拝を終えて帰る頃には、その露店は店じまいしたのか先の裏路地にはいなかった。

 ただ、翌月もその露店は開かれており、先日は見かけなかった青年がそこで店番をしていた。

 絵画に強い関心のあるグレトナは、ここで策を弄した。その青年の前を通り過ぎる瞬間に、首に着けた身分証をわざと落として見せた。すると、グレトナの狙い通りに、青年は彼女が落とした、錦の身分証を拾い上げる。精巧に編まれた絹織物で、持ち主がクティノス出身の子女である事を証明している。

『落としましたよ』

『あら、親切にありがとうございますわ』

 素知らぬ振りをしてそれを受け取り、それから今初めて目に留まったと言わんばかりの調子で、グレトナは気さくに青年に声を掛ける。

『これは、絵画ですか?』

 じっくり眺めるよりも先にそう尋ねるグレトナ。どこか妙な言い方になっていなかっただろうか、上擦ってしまってなかっただろうか。初めて触れる絵画という文化の前に、若干の緊張を帯びている。

 そのように、先日初めて知ったばかりのくせに知った風な態で箱入り娘が話しかけると、そんな心中などお構いなしに、青年は嬉しそうに絵画の説明を始める。

 青年の故郷カラボキ村の玉蜀黍畑や、たまに出掛けるアクロの丘の風景を、どのような天気のどのような日に描いたのを熱心に説く青年。中でも一際熱のこもった調子で語ったのが、一枚の花畑の景色だった。

 画布の下半分を花畑が埋め尽くし、上部には何物にも遮られない澄み渡る空が描いてある。椿、芍薬、花菖蒲、朝顔、菊、山茶花が一堂に会するという、他の土地では拝む事の出来ない、花の村フィオーレならではの景色が、その画布に鮮明に切り取られている。まるでその画角の向こうが本当にその場所に通じているかのように錯覚してしまう程に、初めて見るその景色にグレトナは本物を見出した。

 どの画布に描かれた景色も、グレトナは目にした事がなくもちろん興味を惹かれたが、その一枚だけには完全に心を奪われてしまったのだ。それを一目見た時、グレトナは言葉を失ってしまった。

 それからグレトナは、毎月の礼拝の日に、青年の元へ通うのが習慣になっていた。ザングも渋い顔はしていたが、絵の出来そのものは目を見張るものがあり、子女の教養になればと考え、咎めるような事はしなかった。

 こうして、絵描きの青年フウガは、令嬢グレトナと親交を深めていくのであった。月に一度の逢瀬を幾度か重ね、二人は互いの夢を語るようになっていた。

「その夢が、フィオーレの花畑を見る事なんですね」

「そうよ。彼と出会っていなければ、考えもしなかった事。本当に、本当に彼と出会えて、私は幸運だと思っているわ」

「素敵ですよね、夢をくれる相手がいる事って」

 そう言って、ベニューは唯一の肉親に想いを馳せる。ボーネ村にて勘違いによりすれ違う事もあったが、ライゼルも母や故郷を大事に想っていると知って以来、ベニューはその弟から夢を与えてもらった。母のように、ライゼルから誇ってもらえるような姉になりたい。それがベニューの夢。その為にも自身の代名詞である六花染めをもっと広めたい。

 そう思わせてくれたのは、今現在は故有って鳴りを潜めている、ライゼル自身の夢への飽くなき向上心だ。今回のグレトナ達との出会いが、ライゼルにそれを取り戻させる機会になればと、ベニューは切に願っている。

 

 姉が弟の再起を願う一方で、ライゼルはその予兆を見せ始めていた。

「フウガの夢って何?」

 叶えたい夢があるのだと、目の前の青年フウガは言った。それを聞いたライゼルは、思わず身を乗り出し、それが何なのかを訊き出そうとする。

 長椅子の隣に腰掛けるライゼルに詰め寄られるフウガ。少しの間言おうか言うまいか逡巡した後、一度照れ笑いを見せた後、面をやや上げて勇ましく宣言する。

「僕は画家になる。そして、グレトナを連れて王国全土を旅して回るんだ」

 それに対し、ライゼルは真顔のまま小首を傾げる。

「画家って何する人?」

 ベニュー同様に、絵画の文化に触れた事のないライゼルは、画家が如何な職業か知らない。

「画家ってのは絵を描く仕事をする人さ。僕は、王国中のいろんな景色をグレトナと一緒に見て、そしてそれを画布にしたためたい。グレトナが僕の絵を喜んでくれて、絵描きもやっぱり捨てたもんじゃないって思えたんだ。そして、改めて気付かされた、僕は絵が描きたいんだってね」

「それがフウガの夢…」

「おかしいかな?」

 フウガがライゼルの顔を窺いながら問い返すが、ライゼルはしばらく呆けたまま返事をしない。

 ライゼルの胸の中に、何かが見つかった気がした。これまでずっとそれを為す為に日々の鍛錬を積んでいた訳だが、ライゼルにとってあまりにも当たり前のこと過ぎて、疑う事すらしなかった行動指針であるそれ。

 そして、脳裏に在りし日の母の言葉が蘇る。ベニューが五つ、ライゼルが四つくらいの頃だったろうか。

『夢ってのは、ないと困るもんだ。これがなきゃ誰も生きていけない。だから、ベニューもライゼルも夢を見つけるんだよ。なんたって、夢は人を元気にしたり、笑顔にしたりしてくれるんだからね』

 それに対しベニューは言う、自分は母の夢を叶える手伝いをする、と。曰く、母をもっと笑顔にしたいのだと。

『嬉しいこと言ってくれるねぇ。でも、それは必要ないよ、ベニュー。母ちゃんの夢はね、もう叶っちまったんだ』

 そう笑って見せる母にライゼルは問うた、では母の夢は何なのか、と。すると、母は得意げに答えた。

『教えてあげてもいいけど、夢の一つもないような子には聞かせてあげないさ』

 そう切り返され、姉弟は必死に考える、自分の夢は何なのか。

 先にベニューが、母のようになりたいと言い、母は嬉しそうに顔を綻ばせベニューを抱き寄せた。その後にライゼルは、確かこう言ったはずだ。

「俺は…俺は、みんなの笑顔を守る。俺は母ちゃんにそう言ったんだ」

 呆けて俯いたままのライゼルが突然そう呟くものだから、隣にいたフウガは一瞬戸惑ったが、すぐ表情を和らげライゼルに声を掛ける。

「それがライゼル君の夢なんだ?」

「…うん」

「いい夢だね」

 そう返すフウガを余所に、ライゼルは堰が決壊したような勢いで語り出す。

「ねぇ、フウガ。俺、分かったよ。フウガは夢を叶える為にグレトナといるんでしょ。じゃあ、もう一つだけ聞かせて」

「うん、何かな?」

「自分のやりたい事が誰かの迷惑になるって分かった時、フウガならどうする?」

「僕は、もしそうだったとしても夢を叶えたい。僕にとって絵を描く事もグレトナと一緒にいる事も、どっちもやらずにはいられない事なんだ」

「やらずにいられない、か」

 ライゼルがフウガの言葉を反芻した直後、ベニューとグレトナが店から出てくる。

 先程までの衣服は店舗に引き取ってもらい、新たな庶民的な装いになったグレトナ。店を出てすぐに愛しのフウガの姿を認める。

「あら、フウガ。随分早かったのね」

「あ、いや」

 言い淀むフウガ越しに見えるライゼルを見たベニューは、ライゼルに問い詰める。

「ライゼルがフウガさんを引き留めてたんでしょ? お話を聞きたいのは分かるけど、あんまり時間がないんだから」

 グレトナと違い、フウガの服は先程と変わっていない。それはおそらく同伴のライゼルが原因なのであろう事は、ベニューをして容易に推察できる。

 我儘に付き合わせていた事を咎められたライゼルだったが、渋らず素直にベニューの言葉に従うつもりだ。

「分かってるよ。ビアンが戻ってくるまでに終わらせたらいいんだろ」

 姉弟がフウガ達と共に過ごせるのは限られた時間のみだ。だが、確かに僅かな時間であったが、ベニューがもしかしたらと淡い期待を抱いた通りに、ライゼルはフウガ達の生き方から何かしらの答えを得ようとしている。ライゼルはこの出会いを機に何かを掴みかけている、ムーランの件で見失った自信のようなものを。ここでそれが手に入ったら、またこれまで通りのライゼルに戻れるかもしれない。

「終わらせたらだなんて、また面倒事みたいな言い方して」

「そんな風に思ってないよ。さぁ、俺達も行こうフウガ」

 フウガを促し、ライゼルは新たな服を探しに店内へ入っていく。その足取りに昨日の沈鬱な様子は見受けられない。

(ライゼルの周りにいつもの『風』が吹いてる)

 ライゼルの纏う雰囲気が普段通りになりつつあるのを感じ、一安心のベニュー。

すると、そこへ手続きを終えたビアンが戻ってくる。

「待たせたな。手続きは済んだが、そっちはどうだ?」

「今、ライゼルがフウガさんの服選びを手伝っています。そんなに時間は掛からないと思いますが」

 それを聞き、ライゼルがこの場にいないと知ったビアンは、声を潜めベニューに更に問い掛ける。

「それで、ライゼルの様子はどうだ? まだ落ち込んでいるのか?」

 ビアンの問いに、ベニューは小さくかぶりを振って答えてみせる。

「いいえ、もう大丈夫だと思いますよ。自分なりの答えを見つけかけているみたいですから」

「そうか。厄介事に巻き込まれたかと思っていたが、存外悪い事ばかりでもなかったみたいだな」

「はい」

 二人が会話を終えたところで、ベニューの傍らにいたグレトナが、ビアンに向かって尋ねる。

「あの、お役人様。ベニューちゃんに見繕ってもらった衣服なのですが、違和感はないでしょうか?」

 そう問われて、改めてグレトナをじっくりと眺めるビアン。ベニューが上手く合わせたのだろう、元々持ち合わせていた上品さは素朴な清楚さへと変わっていた。

「違和感を感じるどころか、よく似合っている。その束ねた髪が村娘っぽいな」

 ビアンが差したグレトナの一つ結び。それを結んでる装身具は先程までは認められなかった物であり、衣服と一緒に購入したのだろうとビアンは推測していた。だが、実際には違っていた。

 褒められたのだと感じたグレトナは、嬉々としてその装身具について説明を始める。

「これは幼い頃より父から持たされていたものだったのですが、根付紐の長さがわたくしの髪を束ねます事に丁度いい具合でしたので、ベニューちゃんに教わって結んでみたのです」

 そう言いながら、髪留め代わりにした装飾品を見せびらかすグレトナ。その根付紐の先端には、輝星石が認められた。

「へぇ、輝星石の装身具とは珍しいな。確か、輝星石の加工は難しく、値の張る代物だと聞いた事がある」

「輝星石って原石のままでしか見た事がなかったので、なんだか新鮮です」

 一般的には、照明として世間に認知されているそれであるが、加工されて意匠を凝らされている製品も、数こそ少ないが全くない訳ではない。

「そういえば、まだ話していなかったか。今回グロッタに立ち寄るのは、その輝星石を手に入れる為なんだが。そうだな、王都まで行けば、輝星石の細工物を扱ってる商品もあるだろう。遣いを終えたら城下を見て回るといい」

 早口にそう言い切るビアンを見て、先を急ぎたいのだと察したベニューは、これ以上口を挟まない。

「そうなんですね、楽しみにしておきます」

 グレトナの結わえた明るい髪色の中に映える、微かな輝きを放つ輝星石をあしらった髪留め。年頃の女の子であるベニューは、それに俄然興味が湧いてきた。ビアンが高価な物だと言っていたが、実際はどれくらいのものなのだろう。ベニューは、言葉通りに輝星石の細工物を拝むのが楽しみになっていた。

 と、その時であった。突然強烈な勢いの突風が吹いて、ベニューとビアンはその身を地に伏せた。

「おわっ」

「きゃっ」

 更に、二人が短い悲鳴を漏らした直後、グレトナの悲鳴が朝の宿場町にこだまする。

「きゃああああああ、放してください」

 地面に倒れたベニューとビアンは、悲鳴を挙げたグレトナの行方を探すが、すぐには見当たらない。周囲を見回しても、同様に悲鳴の主を探す町人達が映るのみ。通りにいた人達は何が起きているのかさっぱり分かっていない様子だ。

 と、思った瞬間、経験則からベニューとビアンは、ほぼ同時に上空に視線を向ける。すると、そこにグレトナを抱きかかえる見覚えのある男が一人、『浮』いている。

「お前は、テペキオン!?」

 以前フィオーレを襲撃し、ライゼルに復讐を宣言した、異能【翼】を有する異国民の姿をベニュー達は認める。周囲の通行人や店主達も、ベニュー達の視線の先に空中浮遊している男の姿を発見し、当惑している。

 突如としてベニュー達の前に姿を現したテペキオン。宣言に違わず、ライゼルへの復讐を果たしに来たのだろうか?

「人間、何故オレの名前を知ってやがる?」

 ビアンの呼び掛けに対し、怪訝そうな表情を浮かべるテペキオン。フィオーレにて一度面識があるはずなのだが、どうやらテペキオンには覚えがないようだ。おそらく、ベニューに関しても同様に記憶していないのだろう。

 そうだ、確かにテペキオンはフィオーレでも言っていた、他の者は眼中にない、と。あるのは、ただ一人。

「あなたはライゼルを追ってここまで来たんですか?!」

 ベニューが真っ先に心配したのは、その点だった。テペキオンはライゼルをつけ狙ってここまで追い掛けて来たのではないだろうか。その為に、グレトナという人質を確保した。グレトナが知り合いだと分かっての事なのか、それともライゼルの性格を見越してなのか判別は付かないが、ライゼルをおびき出す為の手段と考えれば、今の状況と符合する。

 だが、テペキオンはベニューの問いには答えず、代わりに怪訝な表情を怒りに満ちた形相に変貌させる。

「なんだと、人間。この『臭い』はアルゲバルのものなのか?」

「えっ?」

 予想外の反応に、思わず驚きの声を上げてしまうベニュー。今の反応からすれば、テペキオンはライゼルがここにいるとは知らずに来た事になる。とすれば、テペキオンはフィオーレの時同様『狩り』なる行為を為しにここへやってきたという事になる。

 思いがけず不測の事態に陥ってしまったベニュー達。ライゼルの居場所を教えれば、ライゼルと戦闘になるのは必至だが、拒否しようにもグレトナが捕らわれている。今は彼女を何とかして取り返さねば。

 どうしたものかとベニューとビアンが思案している内に、いつのまにかベニュー達を囲むようにして事態を見物していた群衆を掻き分け、グレトナの悲鳴を聞きつけたライゼルとフウガが、商店から飛び出してくる。

「グレトナ!?」

「あっ、お前はあの時の異国民。また悪さをするつもりなのかよ!」

 体ごと持ち抱えられたグレトナと彼女を空中で捕縛するテペキオンの姿を、その目に捉えるライゼルとフウガ。ライゼルはもちろんテペキオンを覚えているし、フウガもその男がザングのような追手でない事はすぐに察する事が出来た。いつも以上の危機がグレトナに迫っているのだと、二人は瞬時に理解した。

 テペキオンも、聞き覚えのある声に振り向けば、過去に因縁を持ったライゼルがいるではないか。

「そこにいたのか、アルゲバル!」

「また妙ちくりんな呼び方しやがって。俺はライゼルだ!」

 再びの邂逅。次に相まみえた時は、命を奪うと宣言していたテペキオン。思わぬ所で標的であるライゼルを発見し、テペキオンのグレトナを掴む腕に力が入る。

「微かな臭いを辿ってみれば、『獣擬き』を二匹も狩れるとはな」

「『ケモノモドキ』ってなんだよ?」

 ライゼルがテペキオンの発言の意図を捉えかねている傍らで、フウガが体を小さく震わせ、力強く拳を握っている。愛する女性が、見知らぬ男にかどわかされ、苦痛の表情を浮かべている。ここで黙っていられるフウガではない。

「どこの誰かは知らないけど、グレトナを放せ」

 そうテペキオンに告げるが、例の如くライゼル以外を取り合わないテペキオン。他の者の囀りなど耳にすら届いていない。

「返す気がないのなら…!」

 フウガは、グレトナの解放に応じない様子を確認すると、テペキオン目掛けて路傍から拾い上げた石を投げつける。フウガの右手から投擲された石は、見事にテペキオンの左肩に命中する。

 何やら自らに仇を為そうとしている者がいると、テペキオンはようやくフウガの事を気にし始めた。煩わしさを感じたのだろう、フウガに対し、一睨みする。

「オレの邪魔をするんじゃねぇよ、屑」

 そう言うが早いか、テペキオンはグレトナを掴んだまま、【翼】を発現させる。そして、それを誰にも知覚できない内に高速で飛翔し、ライゼルの傍にいたフウガに接近、直後にフウガの腹部に膝蹴りを見舞う。

「ぅぐっ」

「フウガ!?」

 一度の戦闘経験があるライゼルであったが、またもテペキオンの高速移動を視認する事は出来なかった。隣にいるフウガが呻き声をあげ、崩れ落ちる様を見て、ようやくテペキオンが攻撃を繰り出してきた事を認識できた。それは、ベニューやビアンも見物人達も同様で、誰もテペキオンが移動する姿をその目で捉える事は出来なかったのだ。特に、突然の早業に理解が及ばず、自分達にも危害が及ぶ事を恐れた見物人達は、悲鳴を上げあげながら散り散りにその場を去っていく。

 しかし、そんな事などお構いなしに、ライゼル一行やフウガ以外がいなくなった大通りで、テペキオンは自らに仇を為したフウガに続けざまに攻撃する。

「欲しいんなら受け止めろよ?」

 あろうことかグレトナその人を片腕一本で軽々と振り回し、頽れるフウガにぶつけようとするテペキオン。体を動かす習慣のほとんどないグレトナが抵抗できる筈もなく、されるがまま。

「させるかよ」

 それをすんでの所で両者の間に割って入ったライゼルが、大きく両手を広げてその身で庇う。捕らえられ身動きの出来ないグレトナは背中からライゼルの胸部ににぶつけられたが、彼女自身は大した痛手を負わなかった。

 が、身を挺して庇ったライゼルは、その衝撃により後方に仰け反り、背後にいたフウガの背中の上を乗り越え一回転する。

「ライゼル!?」

 その様子を少し離れた所から見ていたベニューは、すぐさまライゼルの傍に駆け寄ろうとする。

 が、すぐ傍にいるテペキオンが間髪入れずに、再度グレトナを振り回し、ライゼルとフウガどちらにというでもなく襲い掛かる。

 故に、離れた場所にいたベニューでは、その攻撃を庇えない。ライゼルも吹き飛ばされた直後で、庇うどころか体勢を立て直す事さえ間に合っていない。このまま直撃すれば、フウガもグレトナも大きな痛手を負う事は間違いない。

「まずは手始めにテメェからだ!」

 そして、いよいよテペキオンのグレトナごと腕を振るい、大打撃を見舞おうとした瞬間、

「これ以上グレトナを乱暴に扱う事は、僕が許さない!」

 フウガは自らに迫るグレトナの体を全身で受け止め、大きく身を捩る事で抱きかかえたグレトナをテペキオンの腕から見事取り返した。両者がぶつかった時の衝撃に堪えられず、フウガはグレトナを抱きかかえたまま数歩後退りをし、その後尻餅をつく。

「フウガ。私、あなたを信じて本当に良かった」

「おかえり、グレトナ」

 二人はそのまま熱い抱擁を交わす。守りたい人を取り戻したフウガと、愛する人の元へ帰って来られたグレトナ。改めて二人は思うのだ、目の前にいるこの人がいる事が自分にとっての最大の幸福なのだと。

「おい、屑。その獣擬きを渡せ」

 攻撃をフウガに防がれ、更に『狩り』の得物を奪われ、機嫌を損ねたテペキオンは、鋭い眼光でフウガを差す。

「もう二度とグレトナを放したりしない。それがどんな困難にぶち当たったとしても、だ!」

 愛する者を守る為なら、フウガは異能力者相手にも怖気付いたりしない。勇ましくテペキオンに抵抗を示す。

 その様子が気に入らないテペキオンは、改めてフウガに狙いを定め直す。

「じゃあ、テメェの両腕を切り離してやるぜ」

 そう溢した次の瞬間には、勿体付ける事なく実行しようとするテペキオン。愛する者の腕の中で怯えるグレトナごと切り裂いてしまわん勢いで、五指の爪が二人を薙いだ。

 かに思えたが、側面から何者かに腕を掴まれた事により、フウガの始末は未遂に終わる。

「またテメェか、アルゲバル…!」

「そうだよ、テペキオン。お前の『狩り』は、俺が何度だって邪魔するからな!」

 またしてもライゼルに攻撃を阻まれ、元々厳めしいテペキオンの形相は更に険しくなる。

 未だに『狩り』なる行為がどのようなものなのか定かではないが、前回のカトレアの際同様に、誰かを傷付け悲しませる行為なのだと、そうライゼルは確信した。

 であるならば、ライゼルが何も行動しない訳がない。夢の護り手足らんとするライゼルは、目の前で起ころうとしている悲劇を防ぐ為、勇気を持って立ち上がるのだ。

 またも『狩り』を妨害せんと突っ掛かってくるライゼルを、怒りの形相で睨み付けるテペキオン。

「やはりテメェを先に始末するべきだったな」

「やれるもんなら、やってみな!」

 啖呵を切ると同時に、ライゼルはテペキオンの腹部辺りに横蹴りを仕掛ける。が、テペキオンは背の【翼】を瞬時にはためかせ、飛び退くように後方へ回避し、距離を取る。

「ライゼル、大丈夫?」

 テペキオンが離れたその隙に、ベニューはライゼルの元へ駆け寄る。寄り添うようにして肩にそっと手を乗せる。

 ベニューの危惧していた事が現実となってしまった。テペキオンは改めてライゼルを標的とし、攻撃を仕掛けてくる。このまま王都まで逃げ遂せられるとも思っていなかったが、実際に事が起こってしまうと不安で仕方がない。

 しかも、先の件で迷いを抱えたライゼルでは荷が勝ち過ぎるのではないかとも、姉の身としては思うのだ。ただでさえ敵は未知の能力を駆使する手練れ。そんな『有資格者(ギフテッド)』を相手に、迷いを持ったままのライゼルが太刀打ちできるだろうか。迷いで剣が鈍ってしまえば、たちどころに嬲られ殺されてしまうだろう。あのテペキオンという男に容赦する様子はない。ライゼルが万全であろうとなかろうと、お構いなしに復讐を遂げに掛かって来るはずだ。そう思うと、ベニューは急に恐ろしくなってきた、たった一人の弟までも失ってしまうのではないかと。

 だったが、ライゼルはその想いを知ってか知らずか、肩に乗せたベニューの手をそっと外し、片手でベニューの身体をゆっくりと押し退ける。

「ベニュー、二人を連れて離れてて」

 ベニューの心配を余所に、ライゼルは単身でテペキオンを迎え撃つつもりでいる。

「ライゼル、本当に大丈夫?」

 先のように、体の具合を心配して言っているのではないという事は、ライゼルにもちゃんと伝わっている。姉は、弟の脆さを帯びてしまった心を心配してくれている。ベニューの瞳に、この戦いを望まぬ意思が見え隠れしている。これまでのような、衆目を気にする意味でではない。戦う理由を見失った弟が、何も得られないまま壊れてしまわないか。いや、それ以上に、命を落としてしまわないか、ただただ弟の身の安全を気に掛けているのだ。

 だが、ライゼルには、これ以上ベニューに心配を掛けるつもりは更々ない。

「違うんだ、ベニュー」

「ライゼル?」

「俺、みんなの笑顔を守りたい。それが、俺の夢で、やらずにいられない事なんだ」

「ライゼル」

「だから俺、戦うよ」

 自分は何を失念していたのだろうと、ベニューは弟を前にして恥じ入った。

 母を亡くし、一度は母を笑顔にするという夢を失ったベニューだったが、つい先日ボーネにて夢をもらった。大きな夢を掲げる弟に自慢してもらえるような姉になると、そう心に誓ったではないか。それなのに、自分は弟を信じてあげられず、あまつさえ逃げる方へ促そうとしてしまった。

(違うでしょ、ベニュー! そうじゃないでしょ、二代目フロル!)

 この無鉄砲で一生懸命な弟を支えると、ずっと傍にいるのだと誓ったばかりではないか。それなのに、臆病風に吹かれ、ライゼルの力になってあげる事をしようとしなかったのか。恥ずかしい、こんな心の弱い自分が恥ずかしい。

(ライゼルが逃げずに戦おうとしているのに、私が逃げてどうする!? 私のしなきゃいけない事は、そんな事じゃないでしょう?)

 分かっている。自分以上に、ライゼルだって本当は怖いのだという事を。傷付く事への恐れもそうだが、それ以上に誰かを傷付けてしまうかもしれない恐怖が、ライゼルの心に生まれてしまった事を。そして、そんな恐怖心さえも飲み込んで、目の前の困っている人を助けたいと願う弟の優しさを。

(じゃあ、そんなライゼルに何と言ってあげるの? どうやって背中を押してあげる?)

 自分の不甲斐なさへの悔しさや怒りを飲み込み、ベニューはいつも通りの姉の姿でライゼルに言葉を掛ける。

「…うん、そうだね。そうだよ、ライゼル。ライゼルはその為にずっとずっと頑張ってきたんだもん」

「おう」

「ライゼル、夢を叶えるよ!」

 何の為に自分がいるのだ。弟が迷った時、くじけそうな時でも傍にいて、応援してあげる為だろう。

(ライゼルが本調子じゃないと、本当に調子狂っちゃうなぁ)

 ベニューの激励を受け、ライゼルも更に気合を入れる。

「おう。俺は夢を叶えて、母ちゃんに自慢できるような、ううん違う、母ちゃんに自慢の息子なんだって言ってもらえるような、そんな男に俺はなるんだ!」

 ライゼルはベニューの前で、笑顔の護り手足らん事を宣言し、己が右手に霊気(ムスヒアニマ)を集中させ始める。霊気が地面からライゼルの体へ纏わり付くように集まっていく。今朝まで及び腰になっていたライゼルに対し、その星脈が渇きを覚えていたかのようで、ぐんぐんと物凄い勢いで霊気を取り込んでいく。

 ライゼルの強い意志の具現化、それがライゼルが母から譲り受けた力【牙】だ。意志なき者には【牙】を発現する事は適わない。何かを為そうとする強力な意志を以って初めて星脈はその求めに応じるのだ。

 つまり、今のライゼルは先程までのような意志薄弱な彼ではない。目の前の困っている誰かを放っておけない心優しさを持ち、守る物の為に【牙】を以って戦う姿勢を示す、本来のライゼルの姿がそこにはあるのだ。

 一方、ベニューがフウガとグレトナを連れて離れようとすると、ビアンはベニューに耳打ちする。

「結局戦う事になってしまうんだな…まぁ、避けられない事態だったから仕方あるまい。それより、俺はこれからアードゥルに連絡しに向かう。お前達も避難を…」

 ビアンがそう言いかけたが、ベニューはかぶりを振って応じない。

「いいえ、私はここでライゼルを見守っています」

 それに便乗して、フウガとグレトナも賛同する。

「この子達には二度も助けてもらった。僕達ももしもの時は助けになりたい」

「えぇ。ライゼルさんだけを独りになんて出来ませんわ」

 正直、ベニュー達が留まる事に否定的なビアンだったが、説得するのも骨が折れそうで、ベニュー達の残留を許し通報を急ぐ事にした。

「アードゥルの到着まで持ち堪えてくれ。それと、もしもの時はライゼルを連れて絶対に逃げるんだぞ、いいな?」

「はい」

 走り去るビアンの背中に両省の返事を掛けるが、ベニューの視線は既にライゼルの方へと向けられている。

 【牙】を手にしたライゼルの表情は、闘志に満ちている。先程の弱気は完全に払拭した。リカートの同胞であろうテペキオンと対峙しても、自らの夢を前に悩む様子はない。

「いいか、テペキオン。お前なんかにフウガ達の夢を邪魔させない!」

 勇ましく言い切ったライゼルの手に握られる広刃剣。収束させられた霊気によって形を得た、ライゼルが頼みとする彼の分身である【牙】。

 ライゼルが手にした得物を目にしたテペキオンは、やや血気に逸っている様子である。初めての『狩り』の最中に、自らの自尊心を傷付けた憎き剣が再び目の前に現れたのだ。復讐を誓ったテペキオンとしては感情的にならざるを得ない。

「そうだ、ソイツを折りてぇんだ。とうとう出しやがったなアルゲバル」

 言うが早いか、一目散にライゼル目掛けてテペキオンが急襲を仕掛ける。【翼】の能力で風に乗り、滑空する。

 それを風読みの能力により察知した姉弟。ベニューは足手纏いにならぬよう戦闘区域を離脱しており、フウガ達と共に距離を置いて見守っている。そして真っ向から相対するライゼルは、迫るテペキオンとの間合いを図る。

「次は手加減しないからな」

 前回の戦闘の際は、ライゼルは斬撃でなく打撃として横一閃をテペキオンに見舞った。今回は一撃で無力化できるよう、全力の大振りで切り伏せるつもりだ。風の流れからテペキオンの軌道を把握し、反撃の機会を窺い待ち構える。

「手加減だぁ? テメェは何も出来ずに死ぬんだよ。加減も抵抗も出来ずになァーッ!」

 通り名に違わず疾風の勢いで、加えてライゼルの読み通りに、ライゼルの左側面を通り過ぎていくテペキオン。何故か風圧の先端はライゼルからやや外れたところを向いていた。

 それを察知できていたライゼルは、初撃は敢えて外し、自分が迂闊に反撃し空振りした隙をテペキオンは突こうとしたのだろう、と推測した。

 しかし、そうではなかった。直撃しないと判断し警戒を緩めていたライゼルだったが、このテペキオンによる先制攻撃は、実は通過した時点で既に完了していたのだ。現に、ライゼルの左半身には無数の切り傷が確認される。

「ぐぅううっ!」

 ライゼルには、何故自分が痛みを覚えているのか、理解が及ばなかった。テペキオンの飛翔する軌道は、確実に逸れていたはずなのだ。至近距離を掠めていった訳でもない。ライゼルの読んだ軌道でも、実際にテペキオンが通過した軌跡でも、そこからではテペキオンがいくら手を伸ばしてもライゼルに届くはずはないのだ。

「どうして?!」

 傍から見ていたベニューにも、何故その攻撃が結果として表れているのか理解できない。ベニューはテペキオンが発生させた風を読んだ訳ではなかったが、目で追えた限りではテペキオンがライゼルに触れた様子はない。

 ただ唯一、その理由を知るテペキオンは、不敵に笑う。

「オイオイ、まだ死ぬんじゃねぇぞ。オレの鬱憤は一切晴れちゃいねぇんだからな!」

 自らの攻撃が見事に決まった上、それを食らったライゼルは傷を付けた事象の正体をまだ見破っていない。その事実が、テペキオンを悦に浸らせ、いつもよりも饒舌にさせる。

「まさかあの時みてぇな生ッチョロイやり方で済ます訳ねぇだろうが! 今日はとことんまで切り刻んで、オレに歯向かった事を後悔し尽くさせてからぶっ殺してやるぜ!」

「たった一回、たまたま上手くいっただけで偉そうにすんな!」

 ライゼルも言われっぱなしの性分ではない。未だ打開策は見出せていないが、精一杯の虚勢を張って言い返す。

 が、それがしたり顔のテペキオンのこめかみに青筋を作らせる。

「上等だァ。お望み通り何遍でも味わわせてやろうじゃねぇか!」

 テペキオンの意に沿わないライゼルの強がった態度に、疾風と渾名される異能を有する男の堪忍袋の緒が切れる。それは、相対するライゼルはもちろん、離れた所から見守っているベニューやフウガ達にも見て取れる。

「ライゼル君はああ言っているけど、勝算があるのかい?」

「いえ、何も手は浮かんでないと思います。ですが」

 ベニューは最後まで告げる事はなかったが、彼女の弟に向ける眼差しを横目で見たフウガ達は、弱気な考えを払拭させる。

「うん、ライゼル君なら、きっと何とかしてくれそうな気がするよ」

 三人は、その場から離れる事なく、テペキオン相手に一歩も退かないライゼルをじっと見守る。

 その視線の先のライゼルも、真っ向からテペキオンの強襲を待ち受ける。

「来いよ、テペキオン!」

 緒戦を優勢で進めるのはテペキオンのはずなのに、あまりにもライゼルが状況にそぐわない態度を取るものだから、テペキオンの方が気が急いてくる。

「テメェ口塞げよ、この屑野郎」

 大きく【翼】を一度だけはためかせたかと思うと、その背中の【翼】で周囲の空気をグッと掴み、そこから生まれた抵抗を利用して、次の瞬間には自らで気流を生み出せる程の突進力でライゼルに迫る。

 テペキオンが生み出す気流は、瞬時にライゼルまで届く。ライゼルもそれを察知するが、またしてもテペキオンがなぞらんとしている軌道は、ライゼルの位置から僅かに逸れている。

 ただ、そうであっても今回は油断せず、未知の攻撃に対して備えるライゼル。読んだ気流に向けて広刃剣を以って防御の構えを取る。これなら、目測の誤差でテペキオンの腕が届いていたとしても、自らの身を庇えるとライゼルは考えた。

「何だ、そりゃあ? それで防いだつもりかよ?」

 テペキオンの追撃に対し警戒を怠らなかったライゼルだが、そんな彼を見て尚テペキオンは自らの優位性を疑わない。僅かに眉を顰めたのは、ライゼルが見当外れな対策を講じているからだ。

 そして、そうとは知らないライゼルを、無慈悲なまでに謎の攻撃が襲う。高速移動するテペキオンがライゼルの周囲を通過し、その風圧が届く瞬間、触れてはいないはずなのにライゼルの着る六花染めは切り裂かれ、彼自身も傷付けられている。広刃剣を彼我の間に挟んだというのに、何ら障害などなかったかのように擦り抜けて痛手を負わせている。

「どうなってんのか、さっぱりだ」

 そうライゼルが独り言ちてみても、解決策は一向に浮かばない。完全に間合いを取り、突進を避けているにも関わらず、ライゼルの体にはテペキオンが通過する度に傷が増えていく。この拭い切れない違和感に、ライゼルはやや焦りを覚え始める。

 その様子を察してベニューは、ライゼルの思考の手伝いをする。

「ライゼル、風の流れはちゃんと読めてる?」

「おう。これほど分かりやすい風はないだろ。でも、避けてんだけど、駄目みたい」

 風の勢いが増せば増す程、姉弟にとっては読みやすいものとなる。あれだけの高速移動をしているのだから、ライゼルにも十分に知覚できているはずだ。本人が避けたと言うのなら、その通りなのだろう。

「風は全部避けてる?」

「いや、全部じゃない。一番大きいやつ、だからテペキオンの来るのだけか。それは避けてる」

 ライゼルの妙な言い方に違和感を覚えたベニューは、次の攻撃までそれ程猶予もないが更に問い掛ける。

「もしかして、通り過ぎた後の風圧に攻撃力があるんじゃない?」

「…あっ、それっぽい!」

 ベニューの気付きに、ライゼルも不可視の攻撃の正体に見当が付いた様子。

 一方、何やら思いついた様子のライゼルを見ても、テペキオンは特に調子を変えない。それは自分の能力への信頼から生まれるものなのか。

「そろそろ終いにするぜ、アルゲバル」

 姉弟の会話の最中も、姿勢制御と次の攻撃の予備動作を行っていたテペキオンは、三度ライゼルを亡き者にせんと攻撃を開始する。

「お前の攻撃は見切ったぞ、テペキオン!」

「吠えてろ、屑野郎!」

 背の【翼】で周囲の空気を大きく後方へ扇ぎ、瞬発力を得たテペキオンは、最短距離を翔け抜けライゼルを捉える。

「オレの全速力から生み出される烈風に切り刻まれて息絶えろ、アルゲバル!」

 テペキオンが直線攻撃を仕掛けてくるのに対し、ライゼルも真っ向から立ち向かうべく剣を構える。テペキオンの高速移動を見極め、至近距離まで接近したと同時に、上段に構えていた己が剣を勢いよく振り下ろす。

「てぇええやあぁッ!」

 掛け声とともに振り下ろした剣は、テペキオンを捉える事なく空を切る。

「外した?!」

「いいえ、元々ライゼルはあの異国民を斬るつもりはありませんでした」

 フウガやグレトナが見ている限りでは、返り討ちにしようとしていたライゼルの反撃が失敗しただけのように見えた。テペキオンもライゼルの一振りを悠々と回避し、次の攻撃に備えてか再び一定の距離を保っている。

 だが、ベニューはそう思っていない。今の一瞬間のやり取りを制したのは、実を言えばライゼルの方だった。

「ベニュー、見えない攻撃の正体が分かったぞ。テペキオンの【翼】は風を操れるんだ」

 先程のテペキオンの接近に合わせて見舞った袈裟懸け斬りは、ただ空振りをしたのではなく、文字通り空を、テペキオンの【翼】が生じさせていた真空波を斬り裂いたのだ。

「やっぱり。高速移動中に向こうの手が届いている訳じゃない。移動によって生まれた風の波が攻撃に変化していたんだ」

 不可視の攻撃の絡繰りは、ベニューの指摘通り。高速移動は予備動作あるいは見せ掛けでしかなく、本命は【翼】が起こす気圧差によって生じた真空波であり、それがライゼルの身体に裂傷をもたらしていたのだった。

 理屈こそ分からなかったが、その現象に勘付いたライゼルは、テペキオンの追撃を待ち、その正体を確かめた。

「へへん、ついに破ったぞお前の技。次は俺の番だ」

 そう勇んでテペキオンに向かって駆け出すライゼル。

 これまでの戦闘で、ライゼルはテペキオンの高速移動と真空波を見破っている。風読みの技能と【牙】での斬り払いを以って、ライゼルはテペキオンの攻撃手段は封殺できると踏んだ。

 【翼】を用いて逃げに徹されたならば太刀打ちできないが、それはテペキオンの性格を考えれば選択肢にないだろう。であれば、きっとテペキオンはライゼルを惨殺しようと向かってくるはず。

 この状況から導き出されるのは、ライゼルに逆転の目があるという事。むしろ、ライゼルが油断なく徹底してテペキオンの攻撃に対処していけば、打倒する事だって不可能ではない。【翼】を使いこなす異国民の圧倒的な攻撃を耐えに耐え抜いたライゼルが呼び寄せた最大の好機。

 これらの事はベニューも重々承知だ。お調子者の弟がこの土壇場で大しくじりを仕出かさないよう戒める。

「ライゼル、調子に乗らないの」

 姉の苦言を話半分に聞き流し、反攻に転じる。

 テペキオン側としても能力の正体を隠匿する意図はなかったらしく、ライゼルが見破ったからと言って、さして気にしている様子でもない。それは、テペキオンの技の行使する頻度から窺える。【牙】を携えたライゼルを近付けまいと、両腕を交互に振るい真空波をライゼルに向かって何発も放ち続ける。

 テペキオンが下段から空気の塊を掬い上げるような形で大きく腕を振り上げると、腕で斬り裂いた所から衝撃波が発生しライゼル目掛けて迫っていく。

 ライゼルもその衝撃波を【牙】で薙ぎ払いながら、徐々に近付いていく。ベニューの言い付けを守るように、風の流れを正確に読み、的確に衝撃波を粉砕する。

 そして、ライゼルも何度か真空波を無効化する毎にある実感を得ていく。それは、【翼】の能力に対抗出来得るのは、【牙】だからなのだろうという事。それは、自らの広刃剣とテペキオンの衝撃波が接触する時の感触から、そう感じる事が出来た。例えば、ライゼルの剣技『蒲公英』を【翼】持ちの大男ルクに放った際の感覚に似ている。霊気を流し込む事でルクに痛撃を与えられた訳だが、その直前に見舞った蹴りはほとんど効果がなかった。【翼】を有する異国民に有効的な対抗手段は、本能的に【牙】こそが最たる物だと理解できる。

 この【牙】による一撃を見舞わなければ、あの悪漢を下す事は出来ないと、ライゼルはそう感じている。だが、逆説的に言えば、剣技『ロゼット』を食らわせさえすれば、このテペキオンを退ける事ができるという確信がライゼルにはある。

「いつまでも食い下がってんじゃねぇ、アルゲバル」

「しつこいのはお前だろ。降参したらどうだ?」

 テペキオンがライゼルを狩らんと真空波を放ち、その都度ライゼルは風を読み不可視のそれを【牙】で無力化させる。テペキオンも矜持からか退く事をしないので、徐々にその距離は詰まりつつある。

 幾度かのその攻防を繰り返し、いよいよあと数歩の所までテペキオンを追い詰めるライゼル。この距離を必殺の間合いと見たライゼルは、右手に握った【牙】に更に霊気を込める。常人の二倍の霊気を扱える星脈を持ったライゼルならではの芸当。この生まれ持った力で、幾度か敵を退けてきた。今回も大量のムスヒアニマを帯びた必殺剣で、テペキオンを打倒する。フウガ達の笑顔を守る為、そして自分の夢を叶える為に。

 地面から大量の霊気がライゼルの身体に流れ込み青白く発光する。特に両手で固く握り締める広刃剣が一際激しく輝き出した。

 その眩い輝きはテペキオンにも覚えがある。フィオーレの村で初めてライゼルと対峙した時に、この青白い光が及ぼす激しい脱力感と徒労感によって、思うように体が動かせずに初めて傷付けられたのだ。このままライゼルの接近を許しては、またあの屈辱に苛まれる日々を送る事になる。見下していた相手に噛み付かれたとあっては、テペキオンと同じく【翼】を与えられている『有資格者』達からの嘲りを受ける事になる。

 そのような侮辱を甘んじて受けるテペキオンではない。咄嗟に追撃の予備動作に入る。

「獣臭ぇ体で寄って来てんじゃねえぞ、アルゲバル!」

 迫るライゼルを振り払おうと真空波を発生させようとしたが、不意にテペキオンの手が後方に引いた状態で止まった。それと同時に、テペキオンは舌打ちを鳴らしていた。

「チッ、賢しい屑が」

「この近さならもう撃てないだろ、テペキオン」

 そうなのだ、ライゼルはテペキオンが攻撃動作をしている間にも、既に懐の中へ飛び込んでいる。剣を振るう距離で真空波を放てば、テペキオン自身もその空気の刃に切り刻まれる恐れがあった。ライゼルはそこまで想定した上で、この好機を掴んでいたのだ。これ以上の反撃を許さず、回避する以外には逃れようのない攻撃を見舞うべく。

 誰の目から見ても、この勝負はライゼルに軍配が上がるものと、そう映った。ベニューもフウガもグレトナも、ライゼルがこの勝負を制したと期待に満ちた瞳をしている。

 が、しかし。通常に二倍の霊気を帯びた広刃剣がテペキオンを捉えんとした瞬間、テペキオンは咆哮を挙げながら、自らの【翼】が秘め持つ真なる能力を披露する。

「やってくれたな、屑野郎がぁああああああーーーッ!!!」

 ライゼルの【牙】がとうとうテペキオンを斬るという寸前に、テペキオンの身体から膨大な量の圧縮された空気が放出され、空気の層で壁を作り、ライゼル最大の好機を無に帰したのだ。

 突然の出来事に身構える事すら適わず、空気の壁に押し退けられてしまうライゼル。テペキオンの体内で炸裂させるはずだった衝撃もその壁を突破できず霧散していく中、ライゼルは一つの事実を知る。何故、これまでテペキオンが一歩も退かずに真空波を繰り出し続けていたか。テペキオンは、高速移動、真空波に続き更なる隠し玉を持っていたのだ。ライゼルが如何な対策を講じようとも、自身の優勢が揺るがない事を確信していたのだ。

 真空波はとどのつまり、風流操作の副産物に過ぎず、テペキオンが頼みとする【翼】の真価は、ライゼルが手の内を出し尽くしたたった今、それまでの徒労を嘲笑うかのようにようやく発揮されたのだった。

 言ってしまえばこれまでの戦闘はテペキオンにとっては児戯に等しく、ライゼルはテペキオンの掌の上で転がされていたのだ。揺るがない戦力差の前に弄ばれていたに過ぎない。

「虚仮にしやがって」

 今更ながら、圧倒的な実力差を思い知らされ、歯噛みする想いのライゼル。それに、絶好の機会を不意にされ、傍から見守るベニュー達の表情も一瞬にして曇ってしまう。

 彼らは、テペキオンがたった一度だけ発動させたその風流操作の恐ろしさを、身を以って思い知った。ライゼルの渾身の一撃を無力化するどころか、押し返してしまう程の風圧を発生させる事ができる。しかも、ほぼ予備動作なしで、特に疲労の色が濃くなった様子も見受けられない。テペキオンにとっては文字通りに造作もない事であるが、もたらされる結果はライゼルを圧倒するのに十分すぎる程なのだから、彼我の戦力差に心が折れそうになる。

 このようにしてライゼルは、攻略の糸口を掴んでの逆転劇から一転して窮地に追いやられてしまった。

「どうしたらいいんだ、これ?」

 グレトナの為に必死に戦うフウガの姿に背中を押され、再び夢に向かって進む意志を取り戻したライゼルであったが、実力が拮抗していると思っていたばっかりに、この状況はそう易々と打破できる気がしない。ライゼルに訪れる最大の窮地。

 であったが、ライゼル達同様に気落ちしている者が、いやその場の誰よりも鬱屈した表情をしている者がもう一人いた。他の誰でもない、反撃の芽を摘んだテペキオンだった。

「屑の分際でぇえええッ!」

 眉間に寄せた皴が筋肉であるかのように存在を主張し、こめかみには大きな血管が浮かび上がり、持ち主の怒りをこの上ない視覚的な判りやすさで伝えている。

 ただ分からないのは、何故、圧倒的戦闘力を見せつけたはずのテペキオンが怒りに戦慄いているのか。相対したライゼルも、傍から見ているベニュー達も皆目見当が付かない。

「あの奇妙な男は、何をあんなに怒っているんだい?」

「さぁ? 実はライゼルさんの剣が届いていたのではないかしら?」

 フウガとグレトナが各々の想いを漏らすが、ベニューはそのいずれにも得心が行っていない。もし、自分の持ち得る限りの情報の中から答えを導き出すとするなら。

「また矜持を傷付けられた、から?」

 そう答え合わせをするように独り言ちてみたものの、先程の攻防のどれがそれに当てはまるのか合点がいかない。衝撃波を【牙】で粉砕された時も、特に感情を露にしている様子はなかった。突然激昂したのは、空気の壁でライゼルの必殺剣を退けた直後。であれば、そこがテペキオンの沸点であったのだろうが、そこまで推察できた上でも敵の心情が理解できない。

 まるで先のベニューの独り言に応えるかのように、テペキオンは収まらない怒りをライゼルに向けて爆発させる。

「名を汚すだけに飽き足らず、オレに全力を引き出させやがったな、地上の人間風情がッ!」

 その一言に、危機的状況を忘れ、思わず怪訝な表情を向けてしまうライゼル。

「お前、俺と戦うのに全力を出さないつもりだったのかよ?」

 別にライゼルもテペキオンとの真剣勝負を望んでいた訳ではない。ライゼルがこの勝負に臨む理由は、グレトナを無理やり連れて行こうとしたテペキオンを阻止する為。

 ただ、テペキオンの『狩り』に賭ける彼自身の信念のようなものが、対決の最中にずっと感じられていた。ライゼルを本気で殺そうとしていたし、実際に手加減などしていないし、手心を加えていない。

 それなのに、テペキオンは先程の風流操作をライゼル相手に使う気がなかったと語る。つまり、本来は出し惜しんだままにしておきたかったのだ。それを使わずして、ライゼルを下したかったというのが、テペキオンなりの矜持だったのだ。本気を出さずして勝利する、それがテペキオン自身に課した制約。

「テメェみてぇな地上の屑相手に、オレはこの誇り高い力を使ったのか…? 許されねぇ、許す訳がねぇだろ、アルゲバル!」

 手の内を隠す事に執心していたのではない。飽くまでも手加減をした上でなお実力差がある事を示したかったのだ。

 だが、その制約を守れなかった自分に、そして、禁を破らせたライゼルに激しい怒りを顕わにするテペキオン。

「何故だ? 何故こうも上手くいかねぇんだぁッ?!」

 またも天高く上昇し、【翼】を大きく広げ、何やら精神を集中させているらしい様子のテペキオン。テペキオンの感情に呼応して、周囲の空気が振動している。まるでライゼルに対するテペキオンの殺意が、大気に物的な干渉を及ぼしているかのように。

 その様子から、テペキオンが大技を繰り出そうとしている事を、ライゼルとベニューは察知する。ライゼルの得意とする剣技『ロゼット』を放つ前のムスヒアニマを吸収させる時の雰囲気と、今のテペキオンの気迫がどことなく似ているように感じられたのだ。

「デカいのが来るってのは、なんとなく分かるぞ。ベニュー達はもっと離れてろ」

「無理はしないでね、ライゼル」

 どれ程の規模の大技を放つのか定かではないが、逃げ得る限りの場所までの避難を促すライゼル。ベニューも、この土壇場では気休めしか言えず、身を案じながらもフウガとグレトナを連れて、逃げるしか出来ない。如何な攻撃を繰り出してくるにせよ、テペキオンに対抗できるのは【牙】を持ったライゼルだけだ。弟が周囲に気兼ねなく力を振るって戦えるようにしてあげる事が、今のベニューに出来る最大の支援なのだ。

 ベニュー達の小さくなっていく後ろ姿を確認すると、ライゼルは再び相対するテペキオンの方へ視線を送る。

 すると、禍々しい気配を帯び、凄まじい形相をしたテペキオンと目が合う。じっとライゼルを睨み付け、気を高めている。その纏う覇気は、赤黒い色味を帯びている。青白いムスヒアニマとは異なる性質の、異国人が操る異質な霊気。

「オレの本気を前にして逃げ出さなかった事は褒めてやるぞ、アルゲバル」

「それなら、お前の技を撥ね退けてやるから、もう一回俺を褒める心の準備をしておけよ」

 両者は真っ向から相対し、それぞれ得意技の発動姿勢に入る。

 先に動いたのは、既に堪忍袋の緒が切れて気が急いているテペキオンだった。これまで同様に目にも止まらぬ高速移動を開始するが、一直線にライゼルを目指さず、最高速度で標的の周囲を旋回する。その縦横無尽な軌道は幾重にも重なり、まるで球を描いているかのようで、ライゼルから一定距離を保ったまま風の檻を形成していく。

 加えて、テペキオンは先程同様に、移動に伴い真空波を発生させている。しかも、今度の物は赤黒い光を内包している。おそらく、これまで加減していた為に放出されなかったが、この赤黒い霊気の出現こそテペキオンが本気である証なのだろう。

 ライゼルの周囲を覆うようにしてテペキオンがなぞる球状の軌道には、漏れなく真空波の攻撃性を帯びさせてあるのだ。真空波の壁は【牙】によって十分突破可能であったろうが、その真空波を粉砕しようとした瞬間に隙を見せてしまう事になり、テペキオンの直接攻撃を回避できない。この手段は有効的ではない。

 しかも、散々ライゼルを傷付けた真空波は、テペキオンが触れても彼には何の痛手も及ぼさない。となると、彼は檻の内外へ自由に行き来できる。自身の【翼】が発生源だからなのだろうが、何とも都合のいい技だ。

 ともかく、これにてライゼルは完全にその檻の内部に閉じ込められた事になる。テペキオンは隠匿し続けた大技を確実に命中させる為、ライゼルを不可避の状態に追い込む事に成功した。

「もうテメェは死ぬ。これ以上テメェに掛ける言葉はねぇ!」

「こんな回りくどい事しなくても、俺は逃げたりしないぞ。掛かって来いよ、テペキオン」

 もちろん、テペキオンが真空波の檻を形成している間、ライゼルもただ手をこまねいていた訳ではない。ライゼルの得意技『蒲公英(ロゼット)』を発動せんと、始動していたのだ。

 自身の身体を軸にし、側面を薙ぐようにして剣を回転させ続ける。地面すれすれの低位置から徐々に剣先が上がっていくのが通常の『蒲公英』だが、今回はいつテペキオンが仕掛けてくるか機会が窺いづらい為、いつ来ても対応できるように低位置での回転を持続させる。テペキオンが間合いに飛び込んできた瞬間に、それに合わせて振り上げ、剣戟と共に大量の霊気を炸裂させる腹積もりだ。

 互いの予備動作が臨界を超え、外周を覆うように展開されたテペキオンの赤黒い霊気と、内部から渦状に膨れ上がっていくライゼルの青白い霊気が衝突する。

「逃がしゃしねぇ、押し潰れろ!」

「逃げないって言ってんだろ。お前こそぶっ飛ばしてやるからな!」

 両者の全身から放出される霊気が、蝕み合うように干渉し合う。どういう現象かはライゼルにもテペキオンにも知れぬ事だが、青と赤の境界線に透明な狭間の空間が生まれている。霊気同士が相殺し合い、そこに無が誕生しているのだ。これまでの人類史で初めて起きた稀有な現象。真に【牙】と【翼】が力を衝突させた歴史の転換点。

 だが、そこに居合わせる者には、歴史的事件など眼中にない。他者が与える表象など、外の人間が勝手に決めればいい。この戦いに望む事は、相手を下し自らの目的を為すというただ一つの事。テペキオンはライゼルを殺し、存分に『狩り』を継続させる事を望み、ライゼルは他者を苦しめるテペキオンの悪行を阻止しみんなの笑顔を守る事を望む。ただその為に、自分が持ち得る限りの力の全てをぶつけるのだ。

「アルゲバルーーー!!!」

 完全にライゼルを包囲しきり、自身の霊気も最高潮に高まったテペキオンは、満を持して全力の風流操作を仕掛ける。

 球状の軌道のみを移動していたテペキオンがそこから逸れて、ライゼルに狙いを定めて手を振りかざす。疾風を冠するテペキオンの本領、瞬時に掌の中で視覚的歪みが生じる程の風圧を発生させる。歪められた空気は次々に周囲の空気を飲み込み、強烈な渦を生み出す。

 そう、テペキオンがライゼルを屠らんと放つ大技は、奇しくもライゼルの『ロゼット』と同じ螺旋の技。ライゼルは、戦闘力不足を補う為に回転の助力を得た。それに対し、テペキオンは一々相手するのが煩わしいと言わんばかりに、近付くもの全てを飲み込むべく、自らを象徴する風で螺旋を描いた。

 テペキオンの渦の発生を視認したと同時に、ライゼルは低空で留めていた回転の高度を上昇させる。一回転、二回転と円を描く度に、膝から腰、腰から肩へと剣の切っ先が徐々に上がっていく。ライゼル自身も回転しテペキオンの姿を視認できていないが、風読みの技術により迫る渦との距離の概算は出来ている。ライゼルを貫かんと迫る渦の接近に合わせ、最も力の込めた大振りを決める。

「ハァアアーーーー!」

「うぉぉ、ッおおりゃああああぁぁぁ!!!」

 テペキオンが閉ざした逃げ場のない檻の中、赤と青の双つの螺旋が激突する。どうやら相反する性質を持っているらしい二つの霊気だが、先とは違い相殺しない。命が溶け出したかのような高濃度の霊気が後方から送り込まれ続ける為に、所有者の狙う役割を果たすべく、存在を主張し続けぶつかり続ける。

 先の相殺は、単なる性質が起こした現象。今尚繰り広げられている激突は、互いに飲まれないようにせんとする強力な意志同士の衝突。もしかすると、【牙】同様に【翼】も強力な意志による発現物なのかもしれない。ライゼルの勝利への渇望が、テペキオンの復讐への執念が、【牙】や【翼】へと昇華している。

 もしこの場にベニューが残っていたら、目の前の状況を拮抗と判断しただろう。だが、その危うい均衡は案外あっさりと崩れた。

「ウソだろ?!」

 ライゼルの切り上げた広刃剣が丁度半分の辺りから真っ二つに折れる。何の前触れもなく、その雄姿を損ねる【牙】。これまで幾度か戦いの場でライゼルの為さん事を助けてきたそれが、初めて役割を全うできなかった。

 【牙】とは強い意志の具現化と表現したが、決してライゼルの闘志が失われた訳ではない。圧倒的な攻撃力の前に、形を保てなかったのだ。【牙】以外の万物に干渉を受けない【牙】だが、強力な【翼】の前には、太刀打ちできなかった。

「オレの勝ちだ、死ねェッ!」

 ライゼルの広刃剣を砕いた事で勝利を確信したテペキオンは、更に力を込め、所有者であるライゼルまでも【牙】同様に両断せんとする。

 だが、【牙】は折れても、ライゼル自身は抗い続ける意志が残っている。残り半分の僅かに残った刃と柄の部分で、風流を防ぐライゼル。残りのムスヒアニマ全てを集中させ、折れた【牙】を強化する。

「くそぉ。負けんなよ、俺の【牙】ァーッ!」

 体内のムスヒアニマを追加投入しても、何とか持ち堪えるのが精いっぱいで、弾き返す事は適わない。上方から風流を押し込まれる為、耐えるライゼルの足元は徐々にめり込んでいく。テペキオンの攻撃の勢いが増す毎に、ライゼルの足は地面の中へ沈んでしまう。

 ついにライゼルの周囲の足場が崩落し、ライゼルは踏ん張り切れず安定を失い体勢を崩す。

 どこに力を掛ける事も適わず、直感的に自身の身体が落ちると察したライゼルであったが、状況はすぐに急転する。

「なんだこれ、揺れてる?」

 足場が崩れたと思った瞬間に、町の景色が大きく揺れ始めたのだ。人間も建物さえも振動し、大きく揺さぶられる。そう、突如として二人の対決に水を差すかのように、グロッタの町を地震が襲ったのだ。ライゼルも仰向けに倒れたまま横揺れに耐える。

 そして、地震がもたらした変化にいち早く気付いたのは、勝利を目前にしてたにも拘らず妨害されてしまったテペキオンだった。

「割れ目から漏れ出てんのは『獣擬き』の素か!?」

 以前、フィオーレでムスヒアニマの臭いに中てられ、身動きの取れなくなった経験を持つテペキオンは、すぐさま上空に回避し、地上に溢れ出てきたムスヒアニマから距離を取る。今ここで行動を制限されては、ライゼルに逆転の機会を与えるも同然。それだけは避けねばならない。

 と、咄嗟に回避したテペキオンだったが、現在地上のムスヒアニマは臭いもしなければ青白い発光もしていない事に気が付いた。獣臭くないという事は、そのムスヒアニマが牙使い(タランテム)の星脈をまだ通っていないという訳だが、テペキオンはその原理を知らない。なのに、今目の前で溢れ出た物を地上にありふれている霊気と本能的に理解できた。

 だが、そのような些事はテペキオンの意識の中にない。あるのは、絶好の機会を不意にされた悔しさと、現状に対する冷静な分析だ。

(あの屑野郎が集めた霊気とでも言うのかよ? オレはほとんどプラナヴリルが残っちゃいねぇってのに…)

 眼下の、足場を失い倒れ伏すライゼルを見下ろしながら、テペキオンは舌打ちをした。

 実際は先の地震はライゼルに何の所縁もない事象であったが、テペキオンはライゼルが引き起こしたものだと勘違いしている。土壇場でテペキオンの猛攻を防ぐ為に講じた策だと。そして、それだけの秘策を隠し持っていたのだと。

 自身にこれ以上の戦闘を継続する余力がないと悟ったテペキオンは、憎々しげにライゼルを睨み付け、天高く上昇する。【牙】を折られたライゼルとは対照的に、テペキオンの【翼】は、まだ十全と機能しており、その所有者の意に従い、その人をぐんぐんと空の彼方へ連れていく。

「次こそは必ずテメェの息の根を止めてやるぜ!」

 それだけを言い残し、再びライゼルの前から去ろうとするテペキオン。捨て台詞の途中から、いくつかの眩い輝きが彼を包み込み、光が収まった時には元居た位置にはテペキオンの姿はなかった。

 以前も同様の光がテペキオンやルクの去り際に発生していたが、誰もその事に関心を向ける者はいなかった。

 その場にいる者の関心事は、幸運にも難敵を退ける事が出来たライゼルの安否だ。

 テペキオンが去った事により、離れた場所に避難していたベニューやフウガ、グレトナがライゼルの傍へ駆け寄る。

「ライゼル、ちゃんと生きてる?」

「おう、さすがに死ぬかと思ったけど、なんとか無事だった」

 これ程の手傷を追って尚無事と言ってのけてしまえるライゼルを、ベニューは誇らしくあると同時に心配にも思う。テペキオンは、またライゼルの前に必ず現れる。今回は本当に一巻の終わりと思える程危うかったというのに、もし次に命を狙われたらと思うと、ベニューは気が気でない。テペキオンが既に去ったというのに、まだ僅かに手が震える。

「でも、ライゼルが生き残ってて本当に良かった」

「当然だろ。夢を叶える前に死んでたまるかよ」

 満身創痍の状態で強がってみせるライゼルに、フウガは深々と頭を下げる。

「君には何とお礼を言っていいやら。ライゼル君のおかげで、僕はグレトナを失わずに済んだ。グレトナを守ってくれて本当にありがとう」

 再びフウガに頭を下げられたライゼルだったが、先とは違い悪い気はしなかった。今のライゼルに、他人からの謝辞を無碍にするつもりはない。

「いいよ、別に。ほっとけなかったし、テペキオンとはどうせ戦う事になってただろうし。そうだ、俺もフウガにお礼言わなきゃ」

 むしろ、ライゼルの方こそ、フウガに対し感謝を伝えたかった。だが、突然そう言われても、フウガには心当たりがなく、小首を傾げるしかない。

「僕に、お礼?」

「うん。俺、フウガのおかげで吹っ切れた」

 その辺の事情がよく分かっていないフウガは、どうとも声を掛ける事が出来ない。代わりに、ライゼルが更に続ける。

「俺もさ、やれずにいられない事をやる。いろいろ難しい事とか考えなきゃなんだろうけど、俺は困ってる人がいたらその人の助けになりたい。だって、みんなの笑顔を守るのが俺の夢だから」

 もし、本当にライゼルが言うように、フウガの言葉がライゼルの力になれたというなら。フウガにとっても、自身の行いを、夢を肯定してもらえたようなものだ。見知らぬ者同士ではあったが、互いに励まし励まされる、両者にとって有難い出会いとなった。

「難しい夢だろうけど、ライゼル君ならきっと叶えられるよ。うん、僕もグレトナと二人で夢を叶えるよ」

「おう、お互い頑張ろう」

 そう誓い合う二人を見ながら、ベニューは、あの時二人を庇う決断をした自分を、褒めてあげたいと心の底から思うのだ。ただの偶然だったのかもしれないが、いつものライゼルを倣って施した善意が、結果的にライゼルに還ってきた。情けは人の為ならず。誰かを真剣に想うライゼルを、また他の誰かが思ってくれるのだと思うと、胸が熱くなるのをベニューは抑えずにはいられない。

(ライゼルはひとりじゃないよ。私や、みんなが見守っているからね)

 そうこう話している内に、辺りに人の声がするようになっていた。地震も収まり悪漢も立ち去った事で、現場を見に戻って来たのだろう。

 であるなら、フウガとグレトナは、すぐにでもここを発たねばならない。このまま留まり聴取を受ければ、二人の身分は明かされ、各々の家に連絡が行くだろう。そうなってしまっては、迎えを遣され、二人の旅はここで潰えてしまう。

 それを承知しているフウガは、名残惜しくはあったが、姉弟に別れを切り出す。

「ライゼル君、ベニューさん、君達の事は決して忘れないよ」

「俺も。フウガやグレトナの笑顔はこれからも俺が守るから」

 脈絡のないライゼルの返答に、時間に余裕のないフウガであったが思わず聞き返してしまう。

「えっ、またいつ会えるか分からないんだよ?」

 そんなフウガの動揺を知ってか知らずか、ライゼルは自信たっぷりにこう答える。

「うん。どこにいても安心して過ごせるように、俺が妙な異国民をみんな捕まえる」

 迫る脅威は、現在確認できるだけでも最低四人。巨漢の男ルク、少女達を連れた三つ編みの女、仮面の男リカート、そして疾風のテペキオン。いずれも劣らぬ実力者であり、そのどれもがライゼルよりも高い戦闘能力を有している。ライゼルはその全てを取り押さえると豪語してみせたのだ。

 今回のテペキオンの件しか知らぬフウガとグレトナであったが、その宣誓を決して疑ったりしない。

「うん。きっと君なら、夢を叶えてみんなの笑顔を守れるよ」

「ベニューちゃんも夢を叶えてね」

 そう言い残して、グロッタの町を後にする二人。

「またね~」「お元気で」

 手を取り合った二人の姿がどんどん小さくなっていくのを、姉弟は大きく手を振りながら見送る。

「また会えるといいね」

「おう。その時は、今より強い俺になってる!」

 フウガとグレトナのフィオーレ村までの旅は、これからもしばらく続くのだった。

 

 程なくして、ビアンの救援要請を受けたアードゥルの隊員達が到着した。

 協議の結果、ミールの放火犯に加え、要警戒人物としてテペキオンを指名手配犯に指定した。が、彼の名を不用意に呼ぶ事は更なる騒動を呼び起こすとして、名前を伏せ『疾風の異国民』として、広く周知させる運びとなった。

 幸いな事に、地震の規模は、ここ数年で頻発していた地震と比べ然程大きくなく、経験則や教訓を得ていた町人やアードゥル隊員の迅速な対応もあり、被害は最小限に留められた。せいぜいが、屋内の戸棚が倒れたり水瓶が転げて割れたりした程度で、家屋の梁や柱が倒壊したという報告は一件も上がっていない。

 あらかたの現場検証を終えたビアンは、戦闘を繰り広げた場所から少し離れた陥没していない通りまで姉弟を連れ出す。

「そうか、あの二人はグロッタを発ったか。本来であれば当事者からの話を聞きたかったが」

 二人がそれを選んだのならば、と付け足し、ビアンはそれ以上追求しなかった。発生時をビアンも目撃していたし、事の顛末は姉弟が見届けている。確認したい事と言えば、テペキオンに狙われる理由に心当たりがあるかどうかだが、ライゼルにすぐに興味が移った所を見るに、テペキオン側も計画的な犯行ではなかったのだろう。これといった接点はなく、カトレア同様に、たまたま巻き込まれたと考えていいだろう。

 それよりも、だ。諸々の事は追々確認するとして、改めてライゼルから事態が決着した時の事を尋ねる。

「地震が発生した直後にテペキオンは撤退した、という事か? 何か他に変わった様子はなかったか?」

 問われたライゼルも無我夢中でその時の事をはっきりとは覚えていない。正直に言えば、地震が起きた事さえまともに記憶していない。

 ただ一つライゼルが覚えているのは、自分の【牙】が折られた事。それだけは確かにライゼルの心に刻まれている。

「テペキオンは強かった。戦ってる最中も、どうやれば勝てるか考えたけど、全然思いつかなかった。地震が起きてなかったら、俺は本当に殺されてたかも」

 ビアンはテペキオンの様子に関して質問したのだが、ライゼルは若干的外れな答えを返す。それだけライゼルの関心が敗北を喫した事に向いている事の表れなのだが、ビアンもわざわざ本人を前にして口にする程に野暮ではない。

「まぁ、お前が無事で何よりだ。向こうが退散してくれる分には、今のところ問題はないからな」

「地震が何か関係するんでしょうか?」

「今回の件だけでは何とも言えないな。関連性も含め、調査が必要だろう」

 そのビアンの言にライゼルは耳聡く反応する。

「調査? てっきりビアンはもう懲り懲りだって言うと思ったのに」

 そう、これまでのビアンであれば、ライゼルの述べたような事を口にしていただろう。飽くまで巻き込まれてしまっただけで、回避できるものなら避けて通る、と。

 だが、ビアンも無意識の内に先のように発言してしまったようで、若干バツの悪そうな表情を浮かべる。

「そ、そうだ。今回の件で改めて思い知らされた、お前がいるとどうやっても面倒事に巻き込まれてしまうのだと。ならば、こちらも気構えを持っていなくては突発的事態に対処できんからな」

 それは遠回しに、ライゼルの人助けという行為を肯定する旨の発言に他ならない。自ら首を突っ込んでいく事を許すかはさておき、非常事態に遭遇した場合、今回のように【牙】を振るい、問題解決に尽力してもいいと、言外にビアンは言ってしまったようなものだ。

 そう、ややつっけんどんに言い放つビアンだが、その意図を汲み取り、ライゼルは表情をぱぁっと明るくする。

「任せろ。その時は俺の出番だ。俺がテペキオン達『有資格者(ギフテッド)』を取り押さえてやるよ」

「おい、今朝まで落ち込んでたヤツが何言ってんだ。それに、お前はテペキオンに押されてたんだろう?」

 戦闘の結果には触れまいと思っていたビアンだったが、ライゼルがどうも図に乗っているようなので釘を刺しておかねばと思い、指摘する。

 が、ライゼルはそれすら意に介さない。

「ビアンこそ何言ってんだよ。俺、わかったんだよ」

「分かったって、何がだ?」

 唐突にそう言われても、ビアンは何の事だか察す事ができない。

 そんなビアンを余所に、ライゼルは雄弁に語る、自らの行動指針を。

「俺の夢は、誰が相手だろうと、どんな場合だろうと、止められないんだよ。困ってる人がいたら助けるし、テペキオン達が悪さをしてたらやめさせる。俺は、俺のやらずにいられない事を全力でやるよ。もちろん、自分がした事の責任は自分で取るよ。それならビアンも文句はないだろ?」

 のべつ幕なしに言い立てるライゼルの言葉を聞いたビアンは、昨夜ベニューが話していた事を思い出す。

(強くなるのは飽くまで手段で、本当の夢は別にある、か)

 みんなの笑顔を守ると豪語する少年を前にして、触発されたビアンも思わずこう答えてしまう。

「当然だ。次、情けないこと言ってみろ。その時は、叩いてでも俺がお前を立ち直らせてやるからな」

「安心しなよ、ビアン。そんな心配はもう必要ないから。っていうか俺、情けないこと言ったっけ?」

 本当に覚えていないかの素振りで白を切るライゼルに、ベニューもビアンもようやく一安心した。揺らがぬ指針を取り戻したライゼルは、敗北寸前に追い詰められた経験さえも己の糧にしてしまえる。

「言ってろ。だが、実際問題お前がどんなに強がってみせた所で、『有資格者(ギフテッド)』は桁外れの戦力を有している。今後、どう立ち向かう?」

 さすがにこの問いには、大口を叩きたがるライゼルでも、二つ返事には答えない。これまで四人の『有資格者(ギフテッド)』と戦ったが、どれも負けなかっただけだ。ライゼルが相手を圧倒した事は一度たりともない。ルクや三つ編みの女に関しては、【翼】の能力も使用していないというのに、だ。

 ベスティア王国に迫りつつある脅威に対し、彼我の戦力差を埋める為の術を考えるライゼル。

「う~ん、そうだなぁ。星詠様だったら強くなる方法を知っているかも?」

 ぽつりと漏らしたその案にベニューも賛同の意を示す。

「そうだね、星詠様なら何かいい知恵を授けてくれるかもしれないね」

 姉弟間で当たり前のように語られる『星詠様』なる人物だが、国内の著名人にも詳しいビアンもその名に心当たりがなかった。どうやら公に知られる人物ではないようだが。

「ホシヨミサマ、とは誰だ?」

 その問いを投げられ、姉弟もやや逡巡する素振りを見せる。

「星詠様は、俺達の母ちゃんの…なんだっけ?」

「正確な関係性は分かりませんが、母は自分の師に当たると話していました」

 その言葉に、俄かに興味を覚えずにはいられないビアン。今、ベニューは、誰の何だと言ったか?

「ダンデリオン染めのフロルの『師匠』だと? まさかとは思うが」

 ビアンがおずおずとそこで言い淀んで、ベニューもビアンが何を言わんとするか察する。フロルはダンデリオン染めの開祖として有名であり、誰かの手解きを受けた事はないというのは誰もが知る話だ。であるならば。

「はい、【牙】の使い方は星詠様から指導してもらったと話していました。」

 ビアンは、これまでに知り得たフロル一家の情報を簡潔に纏める。息子ライゼルは【牙】と常人の二倍の霊気を蓄えられる星脈を持ち、娘ベニューは【牙】こそないが先のライゼルを御するだけの体術を有する。加えて、姉弟は風読みの能力なんていう稀有な技能を持っている。そして、そんな二人に格闘術のいろはを手解きしたと言われる母フロル。あのライゼルをして、敵わないと言わしめ、大巨人ゾアさえも認める傑物。

「お前達を育てたフロルの更に上がいるってのか?!」

 言外に、「お前達のようなとんでもない技能を持った姉弟」という意味合いも込められていたかもしれないが、姉弟にそんな自覚はなく、気にせず聞き流す。

「はい。私達も幼い頃に一度しかあった事はありませんが。確か、鎮護の森に住んでいるとか」

「鎮護の森、ならばリエースの事だろうな。あそこは普段人の立ち入らない場所のはずだが、人なんて住んでいるのか?」

 鎮護の森リエースは、堅牢なクティノス城塞並みに要塞化されていて、侵入する事は容易ではないと噂される不可侵の領域のはずだ。先の情報も真実かどうか定かではないが、そんな所に人が住み着いているとはとても考えづらい。

「母の言っていた鎮護の森がリエースという土地を指しているかは分かりませんが、母は星詠様を厚く信頼しているようでした」

 そう言われてしまっては、ビアンも無碍にする訳にもいくまい。選択肢の一つとして考慮しておいてもいいかもしれない。

「あまり寄り道はしたくないが、もし本当に何か知恵を授けてもらえるならあやかりたい…」

 姉弟の話も幼い頃に母から伝え聞いた事ばかりで、信憑性が高いとは言えない。『星詠様』なる人物については、充分な調査が必要なようだ。

「ここグロッタで輝星石を受領した後、リエース付近のアバンドに立ち寄るつもりだ。その人物については、またその時に聞き込みして情報を集めよう」

 何はともあれ、今は確定している事柄を進めていこう。ビアンが朝から手続きを済ませておいた、輝星石の受け取り。目下の予定はこれだ。

「わかった。じゃあ、まずは採掘場に向かうんだね」

「そうだ。通りを南に進んでいった先に採掘場はある。俺達も先を急ごう」

 こうして、宿場町での出会いを経た一行は、南側にある採掘場へと向かう。

 

 鉱山窟の入口へと至る数分の間、ライゼルは在りし日の事を思い出している。

『みんなの笑顔を守る、か。あんたにしちゃ随分上出来な夢じゃないか、ライゼル』

 母は息子の答えに破顔して見せ、ライゼルの頭を乱暴なくらいに撫で回した。

『母ちゃんの口癖がうつっちまったかねぇ。まぁ、私のそれは大層なもんじゃなかったけど』

 母は、珍しく穏やかな笑みを浮かべると、ライゼルの手を取り、祈るように両手を合わせた。母が包んだ手の中には、ライゼルの手が。

『でも、あんたは遂げるんだよ。あんたが守る笑顔が、そうやって叶え続ける夢が、きっとあんたの力になるから』

 あの日の母の願いは、今もライゼルの胸の中で輝き続けている。

(母ちゃん、俺やるよ。ずっとずっと、みんなの笑顔を守り続けてみせる)

 そう心に誓うのは、叶えても叶えても終わる事のない、途方もない願いだったかもしれない。

 だが、それはつまり、ライゼルはその夢をずっと失わない。常にその夢を抱いて前に進める事を意味している。

「ベニュー。俺、もっともっと強くなるぞ!」

「どうしたの、突然…ううん、突然じゃないね、いつもの事だね。そうだよ、ライゼル。夢に向かって私達はこれからも進まなきゃ」

「おう!」

 グロッタの空は晴れ渡り、太陽も天高く昇る。一行が再び歩み始めたその頃、ちょうど日盛りを迎えようとしていた。


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