ライゼルの牙   作:吉原 昇世

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第6話

 数十年前に、ベスティア王国では現在国内最後となる内乱が起きたという事は、多くの民が周知の事実である。

 当時、王都クティノスを中心としたベスティア王国は、既に千年王国として栄華を誇っていた。政権は何代にも渡り一族が継承し、その仕組みが変えられる事は一度もなかった。

 とは言え、統治が今程は徹底されておらず、王国軍『牙の旗』に反抗する部族もいない訳ではなかった。隣接する小国や、王国内でも独自の考えを持つ集団など、全てが王の下に服従している訳ではなかった。

 その最大勢力が、当時まだ他国と見做されていたアネクスである。政治的目的で併合しようとするベスティア王国を敵視したアネクスの民は、王国に対して戦争を仕掛けた。戦争自体は数か月程度の王国軍遠征によって鎮圧され、アネクスはベスティア王国に併合された。

 だが、これを契機に、国内で王に対する不満が爆発。武力による支配を良しとする王国の態勢を疑問視する国民は少なくなかったのだ。そして、遂に各地の力を持った部族が、王家転覆を図り反抗作戦に出た。王家による治世に不満を持っていた最大派のゾアを中心に、各地の【牙】が王家に向けられた。

 王国側も、王族に仕える【牙】使いによる武装集団『牙の旗』を動員し、これに当たった。王国随一の軍略家の策謀が見事に嵌まり、戦局は王国軍優勢とされていた。

 ただ、鎮圧が目的の国軍は、徹底抗戦に移られてしまうと頭を抱えるしかない。このままでは、併合に成功したアネクスの民までもが再び暴動を起こしかねないと判断した首脳陣。大臣が早期決着を狙って焦土作戦を提言したが、不必要な血を流す事を許さないとした当時の国王によって、反乱軍の若き頭領ゾアとの間で和平交渉が為された。ゾアは和平の条件として、国軍『牙の旗』の解体を、当時の王に飲ませた。

 こうした歴史を持つ王国民は、戦いを忌避とし、新たに即位した前王レオンの治世を享受していった。

 が、全てが良い方向に進んでいった訳ではない。焦土作戦は行われなかったものの、負傷した者は少なくない。中でも、反乱軍の一人として戦争に参加していたオノスは、二度と【牙】を発現出来ない体となってしまっていた。

 彼は反乱軍の中でも指折りの実力者で、強力な【牙】を持っていた。その【牙】は二対の片手剣として具現化し、その二振りの双剣に襲われた相手は、どちらを避ける事も選べずに切り刻まれる。絶え間なく繰り出される連撃を前に、『牙の旗』の兵士はバッタバッタと斬り伏せられるばかりだった。

 だが、闘将オノスの勇名が戦場に轟くに連れ、彼の星脈を加速度的に傷ついていった。当時は、まだウォメィナの教えもそれ程広まっておらず、星脈のムスヒアニマが枯渇する事による気枯れの概念は、あまり知られていなかった。怪我による穢れにこそ注意を払っていたものの、星脈の酷使にまでは気が回らず、結果的にムスヒアニマを満足に循環させる事も適わず、【牙】を二度と振るう事が出来なくなった。

 オノスがそれに気付いたのが終戦を迎えてからであった。これまで必要とされていた舞台を失い、仲間の意識は新たな国づくりに向き、オノスへの関心は薄れていった。これまで身を粉にして仲間の為に奮戦してきたというのに、この手の平返しの仕打ちを受け、オノスは打ちひしがれた。

 あれから四十年近い年月が経ち、オノスは還暦間近の年齢となっていた。異常を来たした星脈では、十全に身体を動かす事もままならず、力仕事などは適わなかった。十年前に戸籍を編成され、新たに斡旋されるまでは、まともな職にも就けず、その日を何とか暮らしていった。同世代のゾアと比べると、ゾアは集落の長、オノスは浮浪者。随分差が開いたものである。王国から仕事の斡旋が始まった以降は定職には就けたものの、星脈の消失を知られると首輪(ナンバリングリング)を没収され配給制度にも制限を設けられるようになり、結局以前の苦しい生活と大差なく、不自由な生活を強いられていた。一日一日を生き延びる事さえ困難だったのだ。

 そんなある日、オノスの元へ来訪者が現れる。

「えっ、私を雇いたい?」

 訪問者は名をドミトルと言った。ドミトルは、風車の村ムーランでは名の知れた富豪で、ムーラン一帯の風車全ての所有者であった。風車を用いて穀物を粉末状にして、食文化の発展に貢献したとして、ムーラン一帯を任され取り仕切っている。元は一介の商人だったドミトルだが、今は各地に顔の利くムーラン代表にまで成り上がったという。

 そのような人物が、何故今更オノスを必要とするのか、本人にも全く察しがつかない。

「お恥ずかしながらこの老骨、もう何の役にも立ちませぬ。せっかくですが」

 そうやって断ろうとしたが、ドミトルは話半分に強引にオノスを説得に掛かる。

「またまたご謙遜を。先の大戦の闘将オノスと言えば、知らぬ者の居らぬ有名人ではありませんか。そのような英雄殿に、私のお抱えの用心棒になっていただきたいのです。如何でしょう、報奨はたんまりと弾ませていただきますが?」

 人の話をまともに聞かない、加えて、身形からこちらの足元を見てくる不躾な人物だとは思ったが、ドミトルの提案はオノスにとって魅力的に映った。富豪ドミトルに雇用されるという事は、不自由ない生活が約束されたも同然だ。これまでのようにその日の食い扶持に困る事もなくなるはず。今の生活を続けるよりもずっといい。

 オノスには打算があった。用心棒とは、外敵から主人を守る役割の事。だが、このご時世、暴力沙汰はご法度であり、おいそれと荒事に発展するとは思えない。雇い主が過去の戦歴を買ってくれているのであれば、別段虚偽の契約とはならないと踏んだ。両者両得であるなら、オノスにとっても断る理由はなかった。

「では、その役目拝命いたします」

 この時は、まだオノス自身も浅はかな決断をしたとは思っていなかった。

 最初の数日は、屋敷の警護を卒なくこなし、約束通りに村の宿屋にて食事と寝床が提供された。オノスの予想通り、仕事は屋敷の近辺で時間を潰すだけの楽な作業であり、この先もこのまま無難に生活できればそれでよいと考えていた。

 しかし、実際にはそうはならなかった。その数週間後、オノスは屋敷から失踪する事となる。それは、ライゼル達がミールを発ち、このムーランへ訪れる前日の事であった。

 

 オノスが屋敷から姿を消した翌日、ライゼル達は風車の村ムーランに到着していた。先日の夕立を引き摺ってか、今日はどんよりとした空模様だ。天気に恵まれず、自然と周囲も静かになり、不気味な景色に見える。

 ミールから見て南東に位置し、風車と製粉業で有名な村。河川敷沿いの土手の上に家々が並び、街の並びが川の流れのようにうねりを帯びている。集落の形成に当たって水場の確保は重要な要素であるが、ここはまさしく人々の生活に水が密接に結びついている。何基もの水車が川に隣接する小屋に取り付けられている。少ない人員で多くの労働力を得る工夫がなされているのだ。

 先日のミールと比べ露店などは全くないが、何もない分だけ広けた景色をより遠くまで見渡す事が出来る。

 そんな遮蔽物の少ない景色の向こう側に、土手の上の道を走る駆動車から、ライゼルは見慣れぬ物を見咎める。

「あれが風車?」

 ライゼルが初めて目にするもの。幾つもの石を積み重ねて築かれた塔の上に、塔と変わらぬ大きさの木組みに布を張り付けた装置。十字に並んだ骨組みに貼られた四枚の帆布が、風を受けて十字の中心を軸に回転するらしい。帆掛け船に利用される仕組みと、絡繰り仕掛けを組み合わせて作られた設備。ライゼルは、初めて見るそれを、不細工な花のようだと思った。

「そうだ。お前は本当に知らない物だらけだな」

「うん、知らない。なんであれを回してるの?」

 無知を指摘されても、ライゼルは別段機嫌を損ねない。事実、ライゼルには知らない事が多い。それなのに見栄を張ったとしてもその虚栄はすぐにバレてしまう。それよりも、目の前の未知に興味がある。素直に聞けば、ビアンは親切に教えてくれる。知識としてはライゼルと大差ないベニューも、運転席と後部座席間で行われる勉強会の聞き役に回る。

「あれは動力を得る為に回っているんだ」

「動力?」

 理屈や理論と縁遠い生活をしているライゼルは、この手の話があまり得意ではない。興味はあるが、理解するのに人より多く時間を要する。ただ、移動時間は往々にして暇を持て余している。ビアンもライゼルのお勉強に付き合ってあげる。

「例えばこの車は、俺が踏板を脚で押す事によって走るだろ?」

「うん、見た」

「風車の場合、風が脚の代わりに力を加えて回転させる。風は俺とは違って疲れないから、半永久的に動力を得られるんだよ」

 と、ビアンは得意げに語って見せたものの、今現在、目の前に見えている一基の風車は、沈黙し回転していない。風が吹いていないのか、それとも他に不具合があるのか。ほぼ毎日無休で回り続けている風車であるが、せっかく立ち寄った今日に限って回っていないというのも運が悪い。別にビアンに非がある為に回っていない訳ではないが、なんというか跋が悪いし、いまいち決まらない。

「…今日は凪なのかもな」

「・・・そうなんだ」

 言ってみるが、ライゼルの反応もこれまた薄い。挽回を図るべく、風車の役割について言及する。ビアンはまだ風車の全てを語り尽くした訳ではない。

「風車にも休む日だってあるさ。なにせ、いつもは住民の生活に欠かせないくらいに大活躍なんだからな。例えば、このムーランでは製粉機や灌漑に利用されている。近隣に米所オライザと食の街ミールがあるから、風力で製粉が出来るというのは経済的にも強みなんだよ」

 農耕に不向きな土地であるが故に、人もそう多くは住み着いていないこのムーラン。その少ない人手を補うのがこの風車。この大きな動力とミールへの通り道という利が重なり、人手が然程多くない割にはそれなりの経済力を有している。

 ビアンの説明は、ライゼルに十分に伝わっている。実際に見聞きしたものであれば、ライゼルの理解も早い。オライザもミールもその目で豊かさを実感している。あの豊かさがこの風車の恩恵を受けていると聞かされれば、印象もまた変わってくる。

「へぇ、すごいじゃん。風の使い道って洗濯物を乾かすだけじゃないんだ。思いついた人、頭いいね」

 ライゼルも興味を取り戻し、ビアンも自分の事のように少し鼻が高い。俄かに機嫌のよくなったビアンは、更に知識自慢を続ける。

「風車を開発したのが誰かは知らんが、この風車の所有者ドミトルはちょっとした有名人だぞ」

 有名人と聞くと、どうしても心が逸ってしまうライゼルはつい口を挿む。

「会ってみたい!」

「無茶言わないの」

 興味のある単語を耳にしたライゼルはすぐさま欲求を口にするが、ベニューに咎められてしまう。ただでさえ、王都までの道中で迂回を強いられ、遅れが生じているのだ。寄り道をしている場合ではない。

 そういった事情はあるものの、柄にもなく、ビアンもいつものように一蹴したりはしない。

「そうだな、屋敷の前を通るくらいなら」

「風車の中も見てみたい!」

 ビアンが少しでも譲歩しようものなら、ライゼルの欲求はさらに膨れ上がり、間髪を入れず伝えられる。

それは、先日のミールで十分に満喫できなかったから、という事情もあったかもしれない。それに、ライゼルの活躍がなかったら、と思うとゾッとしないのも確かである。多少は気持ちを汲んでやりたいと思える程の働きをした事には違いない。それを思うと、ビアンもライゼルの要望を無碍には出来ない。

「会うだけで済まないのかよ。噂じゃ所有者のムーラン伯ドミトルが風車小屋の鍵を持っているらしいが」

「お願いしたら、開けてくれないかな?」

 ベニューに窘められた事もあり、一旦は謙虚な振りを装う好奇心の化身。だが、飽くまで振りでしかなく、目は爛々と輝き、その高ぶる感情を隠せていない。折を見て、自分から抉じ開けそうだから、油断も隙もあったものではない。

「どうだろうな。ムーランの人間でも立ち入った事はないって話だ。それに、ドミトルですら機械仕掛けが故障して風車が止まった時にしか立ち入らないらしい」

「ご自身で修理されるんですか?」

 爵位を有する程の人物が自ら作業をする者なのだろうか、とふとベニューは疑問に思った。姉弟の抱く裕福な人物の印象からは、想像しづらい絵面だ。労働力が必要になったとして、潤沢な資金で雇用すればいいのだ。わざわざ自ら骨を折らなければならない理由はない。

「仕組み自体は簡単な作りなんだそうだ。摩耗した部品を取り換えれば済むんだよ」

 風を受けて作動し続けていれば、機械仕掛けを構成する歯車が摩耗し消耗してくる。役割を終えた部品は代替品と交換され、破棄される。その繰り返しで、日々風車は十全と回り続ける事が出来る。

「じゃあ、俺が取り換えるって言えば、入れるかな?」

 何かに付けて内部への侵入を試みようとするライゼル。その所為か、ビアンはライゼルをドミトル邸に連れて行く事にあまり気乗りしない。ライゼルを同伴させていて問題に巻き込まれなかった試しがないのだから仕方ない。ミールの件は巻き込まれたと言っても差し支えないが、それ以前の巨漢、三つ編み女、ゾア頭領の件はライゼルを同伴させていたから起きた事件と言っても過言ではない。ライゼルを王都まで連れて行くのが最低条件である為に多少は諦めも付くが、それでも回避できる面倒事は最低限にしていきたいビアン。

「強情な奴め。だが、残念ながら無理だぞ」

「どうして?」

「中はほとんど機械仕掛けで、人が入る空間がほとんどない。装置が止まってなきゃ、中には入れないんだよ」

「今は止まって―――」

「凪かもしれないと言ったはずだ。何かの拍子に回り始めたら、お前はぺしゃんこになるんだぞ」

 ここまで言えば、ライゼルも素直に諦めるだろうか。そう思い、止めを刺したつもりが、ビアンは思わぬ返しで質問される。

「ビアンはどうしてそんなに風車について詳しいの?」

 これまで熱弁を振るってきたビアンな訳だが、何故ビアンはそこまで風車に関して、更に言えばドミトルについて。

「俺の故郷にも風車があるんだよ。ドミトル公については同僚から聞いた」

 目の前に風車がなければ、ライゼルの興味もビアンの故郷に向いたかもしれないが、今は風車への関心が高い。

「そうなんだ。じゃあ、駄目元で行ってみようよ」

 こうも自然にさらりと躱されると、何を言い含めてもライゼルは諦めないだろうと、ビアンは観念する。ならば、気の済むまで連れて行って、ムーラン伯に咎められれば、強情なライゼルも渋々ながら諦めざるを得ないだろう。

 村の商店脇で車を降りた一行は、主たる目的である買い物を済ませ、車に荷物を置く。この先の経由地グロッタにもここより充実した商店があるが、物価の関係という事情でこのムーランで済ませる事にしたのだ。

 その後、風車富豪と呼ばれるドミトルの屋敷の方へ足を運ぶライゼル達。

 村の商店より更に集落の奥へ進むこと数分。突如として景色の中に現れる、川沿いの本道から逸れた一本道。林に囲われたその道をしばらく歩いた先にある、ムーラン伯ドミトルの屋敷。他の家屋と異なり、唯一奥まった場所にひっそりと佇む寂し気な屋敷。いくつもある窓も全部閉められており、遠目から見てどの部屋も暗そうだ。

 林の中を通された一本道を進んでいくと、何やら人の声がする。その方向に何者かがいるのを認めるベニュー。

「人だかりが見えますね」

 ビアンが案内する先に、遠くからでも目立つ二階建ての大きな屋敷とその門前に群がるに人だかりを発見する。寂し気な風景に不似合いな喧噪がそこにあり、つい先日も同じような事があった気がする、とビアンは眉根を寄せる。騒動に首を突っ込むのはあまり気乗りしないが、事件であれば無視できない。事態を把握する為、人だかりに近付き声を掛ける。

「何かあったのか?」

 ビアンに声を掛けられた者達はムーランの住民らしく、ビアンの首輪(ナンバリングリング)が役人のそれだと気付くと、渋る事なく事情を説明し始める。

「お役人さん、誘拐事件だそうですよ」

「誘拐だと?」

 数人いた住民の中で一番おしゃべり好きそうなおばさんが、説明を始める。おばさんが言うには、こうだ。

 先日、屋敷の主人ドミトルの姿を見えない事に、そこで仕える唯一の使用人が気付いた。屋敷内や村中を探し回ったが、どこにもいなかった。その時、門前を警護していた者がいたはずなのだが、その者もドミトル同様に行方知れずであった。

 屋敷の使用人の推測では、身代金目的の誘拐であり、門番は犯人侵入時に無力化されたのであろうと。死体も見つかっていない為に生死は不明だが、生かしておけば足が付くのは常識であるし、殺した方が合理的だ。お誂え向きに、屋敷の周囲は鬱蒼とした林だ。死体を隠すにはうってつけである。

「いなくなったのは、その二人だけか?」

「えぇ、そうらしいわ」

 聴取を続けながら、ビアンは奇妙な違和感を覚えていた。経験則がそう感じさせるのか、おばさんの話はどうも胡散臭い。信憑性が低く感じるのは、おそらく噂話に使用人かおばさんの主観が混じっているから。ビアンはそれを伏せたまま、聴衆を退散するよう指示する。

「これから捜査を開始する。無関係の者は現場から離れていてくれ」

 元々興味本位で集まった住人は、役人であるビアンに逆らって罰則を科されては堪らないと、一行が歩いてきた道を戻り、素直にその場を立ち去っていく。特に不満もない様子で、盾突く者は一人もいない。つまり、この件には無関係の人間と言う事。

 そんな人々の小さくなっていく姿を見つめながら、ライゼルはポツリと溢す。

「そっけない態度だね」

「ん? 何の事だ?」

 ライゼルの呟きが何を意図するか分からないビアン。もしこれがフィオーレで起きた事であれば、こうはなっていない。村の人間総出で捜索に当たる。十年前の事件の時もそうであった事を、ふと思い出し黙するライゼル。

 無言のまま立ち尽くすライゼルに代わり、ベニューが答える。

「この屋敷の人ってムーランの代表者だったんですよね? 同郷の方が行方知れずになって、無関係でいられるものなんですか?」

 今回の一件は、姉弟からすれば、カトレアや村長がかどわかされたようなものだ。放っておける話ではない。ムーランの人々の連れない態度が、姉弟には信じられないのだ。

「そうだな、日頃から関わりが薄かったのか。隣人との付き合いなんて得てしてそんなものだろ。フィオーレが、特別付き合いが深いだけだ。まぁ、役人に従順である事は望ましい事だ。さぁ、中へ行こう」

 庭先を通り過ぎ、屋敷の門戸を叩くと中から一人の女性が屋敷から出てくる。すらっとした細身で、やややつれたような目の下に隈のある女。綺麗にまとめてはいるが、ややボサボサしている黒髪。村人とは違った設えの給仕用の召物を身に纏っている辺り、どうやらこの屋敷の使用人のようだ。今の今も捜索を続けていたのか、くたびれている様子が見受けられる。

「誘拐事件があると聞いた。治安維持部隊アードゥルへの通報は済んでいるか?」

 女性は役人の[[rb:首輪 > ナンバリングリング]]を確認すると、背後の扉を静かに閉め、首を横に振る。

「いえ、それがまだなんです」

「何故?」

 ビアンの疑問は至極真っ当と言える。家人が行方を眩ませたとなれば、急を要する場合がほとんどだ。なのに、女性は余程暢気なのか、まだ治安維持部隊に連絡を入れていないという。

 女はその理由をおずおずとビアンに告げる。

「わたくし、命じられております。旦那様の許可なく、外部の人間を屋敷にお迎えしてはならない、と」

 瞬間、ビアンの表情は険しくなる。この女性のように、上の命令に従うばかりで、自発的に行動できない者は確かに少なくない。が、それとは対極に位置するビアンはそれが歯痒くて仕方がない。これまでビアンは現場の判断で、様々な事態に対処してきた。ビアンにとって、女の考え方は思考停止も同然に思えて仕方がない。

  故に、やや詰問するような口調になってしまうビアン。

「そのムーラン伯ドミトル公が行方不明となっているのだろう? そのような些事に拘っている場合か」

 役人の配されていないムーランに於いて調査権限を持つビアンは、自分の正統性を主張する。ビアンの管轄外ではあるが、役人であるビアンには許されている権利だ。しかし、女はそれでも食い下がる。

「些事などではございません。わたくしにとって旦那様の命令は絶対にございます。もし言い付けに背けば、どんなお叱りを受けるか」

 ただならぬ様子の使用人に、違和感を覚える三人。法的な拘束力以上に、別の何かに対し怯えている様子を女は見せる。何かを恐れているのか。この屋敷に住まう者は女性以外の皆が姿を消しているのだから、不安に思う事もあるとは推測できる。もしかしたら、役人であるビアンにさえも怯えているのかもしれない。洒脱な服装の六花染めに身を包んだ少年少女をさも当然のように同伴させている辺り、怪しまれる要因とも言えるかもしれないが。

 故にこの女性は、先の住民達と違い関係者なのだと確信できた。自らの身を案じるという事は、無関係でいられないからだ。事件現場で雇われているので、当然と言えば当然か。

「では、屋敷の中には立ち入らない。だが、聴取は受けてもらうぞ。ドミトル公の安否が心配だ」

 女性側の事情を考慮し、譲歩し屋敷内の調査は一旦保留する。それでも得られる情報は全て吐いてもらうつもりだ。ビアンも手ぶらでここを離れる訳にはいかない。

「ビアン、門番の人もいなくなったって言ってたよ?」

 ライゼルにはもう一人の行方不明者、門番の事も気掛かりだった。ライゼルの心根を鑑みれば、心配するのも想像に難くない。もしその番人も被害者であれば、安否が心配される。

 が、ビアンはそうは考えていない様子だ。

「いや、もしかしたら、その門番が誘拐事件の犯人かもしれない」

「どういう事?」

 ライゼルにそう問われるがビアンは答えず、逆に女性に水を向ける。

「まずは、この人の話を聞いてからだ。それで貴女、名前は?」

 こうして、始まったビアンによる事情聴取。だが、手に入った情報はそう多くない。

 突然留守を任される事となったこの女性は、つい最近雇われたアスターといい、数か月前から働き出したばかりだが、アスター一人でこの屋敷の管理から主人の世話までを仰せつかっているという。人間一人の労働量を超えている事を指摘すると、ドミトルは人見知りが激しく、複数人を雇う事はしないのだと。アスターも労働の対価に見合うだけの報酬を得ていたので、その事には不満はなかったそうだ。この説明には無理こそあるが矛盾は見受けられない。一応、説明として聞き受ける。

「では、その門番について話を聞かせてもらいたい」

 門番の男は、数週間前にドミトルに連れられてきたオノスという名だと、アスターは話す。その名前を耳にしたライゼルは、俄かに興奮する。

「オノスって、もしかして大戦のオノス?」

「さぁ? 旦那様からは優秀な牙使いとしか聞かされておりません。その方はずっと屋外におられたようで、わたくしはお見かけした事がありません」

「ただの一度もか?」

「初めて訪れた日に、遠くから後ろ姿を一度だけ。お顔を見た事はありません。」

 同じ屋敷で働くのに面識もないというのは不自然だが、ドミトルの人員配置に難癖を付けても仕方がない。訊かなければならない事は他にもある。

「何か特徴はなかったか?」

 そう問われると、ビアンから目を逸らし、ゆっくりと言葉を紡ぐ。不自然な視線移動は、その一度だけ見たという面影を記憶から思い起こそうとしているからなのか。

「そういえば、私もどんな人物なのか気になりましたので、[[rb:首輪 > ナンバリングリング]]を確かめようとしたんです。そうしたら…」

「—――なかったんだな?」

「はい、さようでございます」

 半ば食い気味にビアンが口を挿むと、アスターは頷いてみせた。その返答に、ビアンは何やら合点のいった様子で、それ以上は門番について追求しなかった。

「では、屋敷の中で変わった事は? 何かが無くなったとか、壊されていたとか」

「いえ、旦那様をお探しする際に、屋敷中を見回りましたが、特に何か盗まれたという事はありません」

 と言う事は、犯人が物盗りでない。あるいは、室内に侵入する事なく、外にいた主人を誘拐したという事だろうか? 実際にビアン自身が目にした訳ではないので、判断するには情報が少ない。

「なるほど、それで貴方は身代金目的の誘拐だと判断した訳だ」

「はい、大変言い難いのですが、私はそのオノスという方と面識がなく、何と言いますか」

 言い難そうにはしているが、口以上にその態度がはっきりと物語っている。目を逸らしつつも、何度もちらちらとビアンの反応を窺い見る。

「信用できないのだろう? それで、オノスが誘拐した犯人だと」

 一旦、ビアンの目を見て、逸らした後、アスターは静かに告げる。

「…はい」

 アスターも渋らず素直に白状する。元々、庇い立てする仲ではないのだから、当然と言える。体裁を取り繕ってはいるが、明らかな疑惑の念を素性の知れぬオノスという人物に向けている。

「状況を鑑みれば、最も怪しいのがその人物だな。他に何か手掛かりになるようなものはなかったか? 主人がいなくなる前にどこで何をしていたかとか」

 問われてアスターは逡巡し、はっきりしない口調で切り出す。

「その、手掛かりになるかどうかは分かりませんが」

 アスターはそこまで言い掛けて言い淀む。ちらりと視線を送り、また逸らす。先から似たような仕草をする事はあったが、今度のそれは『自然』に見えた。つまり、これまでと違い、違和感がなかったという事。意図的でなく、無意識の内にそちらに視線を送ったのだ。

「どうかしたか?」

「いえ、代わりに見覚えのない石像が。石像が旦那様の部屋にありました」

「石像だと?」

「はい」

 アスター本人は気付かぬ様子であったが、ビアンにははっきりと分かった。アスターは二階中央の部屋をしきりに気にしている事が。それが何かの手掛かりになるかも、と判断したビアンは、それ以上の追及をしなかった。

 一度、この辺りで状況を整理した方がいいのかもしれない。

「…そうか。一先ず烽火を上げる。近辺に犯人が潜んでいるかもしれないからな、警護の要請をしておく。それと、用心の為、アスターさんは屋敷からは出ないように」

 そう言い含めて、アスターは素直にその指示に従った。

 ビアンは屋敷から拝借した着火装置一式を用いて、慣れた手つきで烽火を上げた。

「さて、アードゥルが到着するまで、知恵を絞るか…」

 

 先日のミールの件もあり、周辺警戒していた隊員が、ムーランへすぐさま駆けつけた。一通りの事情を説明し、屋敷の警護と周辺の捜査を引き継ぐと、ビアンは物思いに耽りながら河川敷を歩き、姉弟はその後をついていく。アスターが知り得る限りの情報を訊き出し、一行は一旦屋敷を離れたのだった。

 これまでのビアンであれば、治安維持部隊アードゥルに引き継いだ段階で、この件から手を引いていただろう。

 だが、今回はそうはいかない。嘘か真か、あの闘将オノスが事件に関与している可能性がある。それはつまり、最悪の場合、【牙】を用いての傷害事件かもしれないという危惧がある。オノスが加害者か被害者か、いずれにせよ、【牙】を使用した恐れがあるのだ。それが平和な国内において随一の重要案件という事もあり、無視する事は出来なかったのだ。

 それに、本日の予定の点からも、これ以上先を急ぐ事は出来なかった。というのも、今後の行程を考慮すると、とある装備を用意しなければならないのだが、それは次の経由地グロッタにしかない。しかも、その装備を受領する為には面倒な手続きを終えなければならず、申請が通るのは日を跨いで翌日となり、どうしても足止めを喰らってしまう。

 故に、本日の夕刻までを期限とし、可能な限り調査する事にしたのだ。

 そして現在、正午を回ったばかりで、日没までにはまだたっぷり時間がある。ムーランの河川敷を歩きながら、これまでに得た情報を整理する。

「最近雇われた門番、不審な挙動の使用人、謎の石像…」

 ビアンは独り言のように繰り返しながら、思考をまとめる。推理に夢中なのか、その間ひたすら歩き続け、気付けば風車の立ち並ぶ郊外にまで歩いてきていた。

 そして、その後ろを姉弟は大人しく追従している。ライゼルもこの件をこのまま捨ておいて、次の経由地へ行こうとは思っていない。もし、これが本当に誘拐事件であれば、誘拐されたドミトルを助けてあげたいと考えている。誘拐とは、意思を無視して無理やり連れ去る事。それは、人の笑顔を奪う事に他ならない。そんな非道を黙って見過ごせる程、ライゼルは自分を律する事が出来ない。

 姉のベニューも、そう考えているであろう事はお見通しで、ライゼルの意志を尊重したいと思っている。

 各々がそんな事を考えながら辿り着いた風車群。村の入り口付近で見かけた一基の風車と違い、ここの風車群は緩やかにではあるが風を受け回転している。時間が経ち、風が出てきたのだろうか。先日のミールの熱気が懐かしい程に、頬を撫でる風が涼しい。いや、日の当たらない天気だから僅かに肌寒い。

「どう、何か分かりそう?」

 この手の頭を使う作業はてんでお手上げのライゼルは、ビアンの顔色を窺いながら尋ねる。しかし、ビアンの思考も今回は冴えない。

「目星は付いている、と言いたいが、決定的な証拠がない。印象だけで言えば、犯人はアスターだ」

「えっ? さっきは門番が犯人だって」

 ライゼルが声高に追及するが、ビアンはやんわりとそれを否定する。

「あれは使用人から話を訊き出す為の口実だ。アスターは、門番が犯人だと主張している。ならば、それに合わせた方が話も訊き出しやすいって寸法だ。わかったか」

 役人であるビアンは聴取の経験は何度でもある。素直に証言しない人間相手の対応にも長けているのだ。そして、御多分に漏れず、アスターもその類の人間だと、ビアンは睨んでいる。

「ビアンさんは、初めからスターさんを疑っていたんですか?」

「周辺住民に対して情報操作をしている点で、心証を損ねていたな。加えて、アードゥルに通報していなかったというのが、どことなく怪しい」

「門番の方が怪しいんじゃない? オノスって名前も嘘かもしれないじゃん」

 ビアンに倣ってライゼルもそう主張してみるものの、どこかぎこちなくなってしまう感は否めない。そもそも人を疑う事のないライゼルでは、この程度の参加が関の山だろう。それはベニューもお見通しだ。

「本当はそんなこと思ってもいないくせに」

「うっ…」

「むしろ、その門番さんが大戦のオノスだったら会いたいって思ってるくせに」

「ううっ…」

 ベニューの指摘は、次々とライゼルの心を抉る。ライゼルの内心は、見事にベニューに見抜かれている。こうも見事に看破されては、推理に一枚噛みたかっただけのライゼルは、しばらく大人しくなる他ない。

「でも、ライゼルの意見には私も賛成です。どうして門番を犯人から除外したんですか?」

 ベニューの疑問に、やや意地になっているような物言いでビアンは返答する。その表情はあまり優れない様子。理屈よりも感情が優先されている感じにも見受けられる。

「考えたくない可能性だからだ。ドミトル曰く、優秀な牙使いなんだろう? もし、そんな奴と一戦交える事になれば、危険に晒されるのは目に見えているじゃないか。俺は言霊を信じる主義なんだ」

 大人且つ役人であるビアンが自信満々にそう断言するのであれば、ベニューにはこれ以上言葉はない。口にした事が現実になってしまうなど迷信にも程があるが。ただベニューとしても、門番が犯人と断定できる材料を持ち合わせていない。言霊の件はさておき、暴力沙汰にならなければいいな、とは思う。とにもかくにも、今の所、全てが不確定なのだ。

「それで、アスターさんを犯人と仮定するんですね?」

「そうだ」

「でも、断言は出来ないんですよね?」

 ベニューに痛い所を突かれ、ビアンもそれには素直に首肯で応じる。

「そうなんだよなぁ。印象で犯人が決まるなら、苦労はしない。アスターを問い詰めようにも、狙いが分からなきゃなぁ」

 その気苦労が周知の事と言わんばかりに、手詰まりの現状を儚んで見せるビアン。

「説明要求!」

 すかさず挙手し、話の中身が理解できていない事を主張するライゼル。悪事を憎む心はあっても、ライゼルにはもはや何が何だか分からない。ビアンがアスターの何に対して頭を悩ませているのか、さっぱり理解できていないのだ。憎む悪の対象が定かでないと、ライゼルも義憤しようにもやりきれない。

 事態を先入観なく整理すると、屋敷の主人と門番が行方不明になった。代わりに見慣れない石像が主人の部屋にあった、と言う事。しかし、これだけでは真相には辿り着かない。

「つまりだ、今回の事件で誰が得をしたのかを考えれば犯人が分かると踏んだが…別段誰も得なんかしていないんだよ」

「騒ぎを起こすだけの動機があるって事ですよね」

 こういう理屈っぽい事に関して、ベニューは理解が速い。誰が犯人で、何が起きているにせよ、それを実行する動機は必ずあるはずなのだ。そこから推理すれば、事件の真相に辿り着けるかもしれないとビアンは考えていた。

「得かぁ」

 ライゼルも一生懸命に首を捻っているが、無欲なライゼルではおそらく選択肢の候補がほとんどない。

ライゼルの行動指針は、誰かの笑顔を守る事。守るという行為は、得てして先んじて行えるものではない。何か害が発生して初めて対処できる後手の行為。これまで自発的に利を得ようと考えた事の少ないライゼル。そもそも自身の危険さえ顧みない少年に、損得勘定など出来ようはずもない。

「得かどうか分かりませんが、ドミトルさんが責任逃れをしたかった、という事は有り得ませんか?」

 とりあえず思いついた事を口にしてみるベニュー。だが、ビアンによってあっさり棄却される。

「ふーむ、ムーランの代表から降りたかったという訳だな。だが、それなら別の候補者を推薦すればいい」

「え?」

 単純に政治に疎いベニューは、代表の仕組みに詳しくない。専門であるビアンは、姉弟にそれを説明する。

「代表者ってのは、お前達も知っての通り、役人との連絡役だったり、集落のまとめ役だったりする訳だが、別に強制されてなるものでもないんだ。だから、それが理由ならわざわざ行方を眩ませる必要はないんだよ」

「そうなんですね」

 ビアンの説明は、ベニューも十分納得できた。試しに言ってはみたが、動機として弱いとは最初から分かっていた事でもあった。もし、今回の件がドミトル自身の企てた失踪であるなら、他に姿を眩ませる理由があるはずだ。

「ねぇ、もしかしたら買い物に出掛けただけなんじゃないの?」

 ライゼルの一つの可能性を提示するが、ビアンはやんわりと否定する。

「絶対にないとは否定できないが、おそらく違うだろうな。ドミトル氏は何故アスターを雇っている?」

「人見知り…そっか!」

 ライゼルもドミトルの人となりを思い出す。彼は極度の人見知りで、最低限の使用人以外を傍に置こうとしないという。許可なく何人たりとも屋敷に入れるなという命令の徹底ぶりから、村民ともアスターを介してでしかやり取りを行っていないのだろうと推測できる。

 そんな人物が、わざわざ自らの足で出向く用事があるとは考えにくい。もちろん、余程の大事であれば例外なのかもしれないが。

「そういう事だ。それに留守にするんだったら、アスターに一言あってもいいだろう」

「そうでしょうか? 例えば、アスターさんにも知らせる事が出来ないような秘密の用事があったとしたら?」

 ビアンが切り捨てた可能性、余程の大事だったかもしれない可能性に、敢えてベニューは言及する。

「食い下がるじゃないか、ベニュー」

「飽くまで可能性の話です。ですが、そう考えれば、何故アスターさんがわざわざ石像に言及したのか、説明できるかもしれません」

「…石像か。確かに、気にはなっていたが、今回の件に関係があるようには思えないぞ?」

「本当に誘拐事件であれば、関係は薄いかもしれません。ですが、自発的な理由があっての失踪であれば、その石像は意味を持ってくるかもしれません」

「おもしろい、話してみてくれ」

 先の仮説と違い、どうやら根拠があっての推察らしい事を察したビアンは、ベニューの推理に耳を傾ける。

「はい、例えばその石像が大変高価な物で、ドミトルさんはどうしてもそれが欲しかったんです。そして、いざ購入してみたけど、あまりにも高額でアスターさんやオノスさんの御給金が支払えない状況になってしまったとします」

「何が言いたいか、大体わかったぞ。ドミトル公は金を工面しに、アスターには内密で外へ出たと、そう言いたいんだな?」

「はい、どうでしょう?」

 この場でその推理の正誤を確かめる事は出来ないが、捜査の方向性を示す事くらいなら出来るかもしれない。もし、ビアンの言うように言霊が本当にあるなら、できれば誘拐という線は考えたくないのがベニューの本音だ。

 だが、そのか細い希望はビアンの遠回しな説法によって否定される。

「ベニュー、大人の俺から一つ忠告しといてやろう。推理というのは想像を頼りにやるものではない。物的証拠と状況証拠を基に論理立てて組み立てるものだ」

「どこか決定的な間違いがありましたか?」

「発想は悪くない。だが、動機が金銭でない事は断言できる」

「なんで?」

 あっさりと誤りと断じられる姉の意見に、その理由をビアンに問うたライゼル。

「そもそも、ドミトル公が何故ムーランの代表を任されていると思っている? 風車群の所有者で、一財産を築いているからだ。もし、金に困っているのなら、その所有権なり何なりを代わりに譲渡すればいい。だが、今の今まで風車群が競売に掛かっているなんて話は耳にしていない。ドミトル公が金策に走っているなんて事は、考えづらいんだよ」

 ドミトルは利益を生み出す装置を有している、そしてそれを手放さなければならない程の買い物となると、それこそ想像しづらい事案だ。

「確かにそうですね。誘拐でなければいいな、と思っていろいろ頭を使ってみましたが」

 素直に非を認めるベニューに、ビアンは付け加えて説教する。

「よし、もう一つ忠告だ。必要以上に他人を思いやるな。お前達姉弟は他人の事となると限度を超えて心配し過ぎるきらいが見受けられる。お前達の博愛の精神は美徳には違いないが、それでも手の届く範囲にしておけ。度を越えた優しさは身を滅ぼすからな」

 教訓めいたビアンの言葉を、ベニューは素直に聞き入れる。

「はい、肝に銘じておきます」

 こうして、ベニューの主張は、ここで一旦保留となる。金銭に限らずとも、他の理由も結局は想像の域を出ない。

 他に自発的に失踪する理由が見当たらないとなると、任意で屋敷を離れた訳ではない、と言う事になる。つまり、ベニューが考えたくなかった可能性、誘拐という訳だ。

「人を疑いたくない気持ちは分からんでもないがな。ただ、世の中には人の善意を平気で裏切る悪意が存在する事も覚えておかなくてはいけないんだよ」

 実感を伴わない真実は、なかなか腑に落ちて来ない。ライゼルにはビアンが伝えようとした事の半分も飲み込めていない。

 だが、だからと言って何も考えていなかった訳ではない。分からないなりにも、任意での失踪説が否定された事は、ビアンとベニューのやり取りから察する事が出来る。

「じゃあ、ビアンは誘拐だって考えてるの?」

「誘拐、というよりも幽閉だな」

「幽閉?」

 これまで一度も出てこなかった単語に耳聡く反応するライゼル。幽閉とは、屋内に閉じ込めその身柄を拘束する事。今回の場合、それに利用されたのは、あの屋敷という事になるのだろう。

「あの使用人が犯人であれば、色々と説明が付くのも事実なんだよ」

「犯人はあの人なの?」

 理解が追い付かないライゼルは、答えを焦る。よって、ビアンは順を追って説明する。

「アスターが犯人だと仮定すれば、例えば、頑なに屋敷に入れない理由が分かる」

「どうして? あの人は言い付けだって言ってたよ」

 これまで騙された経験のない善良なる民であるライゼルなら、そう思ったとしても不思議でない。だが、ビアンは違う。ビアンは、嘘も偽りもこの世に当たり前のようにありふれている事を知っている。

「それが嘘で、アスターがあの屋敷にドミトルとオノスを幽閉しているとしたら?」

「えっ?」

 思いもしなかった線に、虚を突かれるライゼル。アスター以外の誰の捜査も及んでいない秘匿された空間の存在。

「そう考えれば、行方不明の説明も、侵入を拒む理由も付く」

 そうは言うものの、ビアンは全てに納得のいく説明をしてはいない。ベニューはそこを突いた。

「じゃあ、村の人に知らせた理由は?」

 もしアスターが幽閉を企てたとして、何故主人不在を周知させたのか? 自分から事件の発生を知らしめなければならなかった理由とは何なのか?

 しかし、ビアンも考えなしに推理を披露していたのではない。様々な可能性を吟味した結果、最も可能性の高い説を選択したのだ。

「それは、注意を屋敷から逸らす為だ。失踪したと嘘を吹き込む事で、外へ意識を向けさせた。そうしなければ、仮に幽閉に成功したとして、いずれはドミトルも代表としての仕事をしなければならないだろ。その時になって主人不在の理由を取り繕うよりも、既に居ない事にして新しい代表を立てれば、もう何の憂いもなく屋敷を自由にできるって算段だ。捜索範囲が屋敷以外という広大な範囲で、村民のムーラン伯に対する関心の薄さから、捜索が早期に打ち切られる事は容易に想像できるしな」

 ビアンが推理を披露すると、ライゼルは一瞬表情が明るくなるが、すぐに難しい顔に戻る。

「じゃあ、石像ってのは何だったの?」

 確かに、先程もベニューがその事に言及していた。一つだけ合致しない奇妙な要素。しかし、ビアンはかぶりを振り、取り合わない。

「いいか、ライゼル。この世の全てに意味があるだなんて思ったら大間違いだ。石像はきっとドミトルが取り寄せたんだよ。この先には鉱物の町グロッタがあるからな。そこの職人に設えさせたんだろう。それがたまたま今回の時期に届いたってだけだ。納得したか?」

 ライゼルもその説明では不十分と感じたが、理屈でビアンには勝てない。代わりに、ベニューが更なる疑問を投げかける。

「じゃあ、何故アスターさんは石像について、あんな言い方をしたんでしょうか?」

「勿体ぶるじゃないか。何が言いたい?」

「もしその石像が届けられた物だとしたら、アスターさんが受け取るはずじゃないですか? あの屋敷の雑務をこなしていたのはアスターさんです。ですが、アスターさんは、ドミトルさん失踪後に発見したと言っています」

 思わぬ所から正論をぶつけられ、ビアンも咄嗟に反論しようと試みるが、上等な案が思い浮かばない。

「むむむ、石像はドミトル公が作ったもので、完成させその後失踪した、とか?」

「そうだとしても、材料なんかはやっぱりアスターさんが手配したはずです。その為に雇われているんですから。となると、わざわざ石像について言及するでしょうか? あの言い方は、そもそも石像があるとは思いもよらなかった人の反応でした」

 ベニューの指摘は的を射ている。アスターは、最後の最後に石像の存在を明らかにした。もし、無関係であればその意図は何なのか?

「捜査を撹乱させる為の虚言だったにしては、効果が薄い、か」

 もし撹乱が目的だったとして、やはりそれを調べる為に立ち入りを求められるだろう。そうなれば、アスターの目論見は外れる事になる。

 その石像が実際に事件に関わるのか定かではないが、この場にいても埒が明かないのは間違いない。

「…となると、この事件の鍵は、その突然現れた石像か」

 そうなると、一度その石像について捜査せねば話は進まない。価値のある物であれば、ベニュー案の再検討も必要だろう。

一行は、再度ドミトル邸に赴く為、風車群を後にする。

 

 改めてドミトルの屋敷を訪れた一行。玄関まで出てきたアスターは、先同様に後ろの扉を閉めて応対する。アードゥル隊員にも同様の対応をしたらしく、彼らは先に周囲の林の中の捜索、並行して近隣の警護を開始したようだ。厳密には捜査権限を持たぬアードゥル隊員では、立ち入りが適わなかったのだろう。事件と断定されなければ、無闇に敷地へ進入する事は法によって禁じられている。

 ただ、ここまで頑なに侵入を阻むとなると、余計に疑わしくなってくる。故にビアンの語調は若干強くなる。

「単刀直入に言う。屋敷の中の石像を見せてもらいたい」

 アスターは怯えた様子で、それを拒否する。

「ですから、旦那様の言い付けで何人たりとも通す訳には参りません」

 飽くまでも承諾しないその姿勢に、気の長い方ではないビアンは声を荒げる。

「そのドミトル公が行方不明なんだろう! いい加減にしろ!」

「お役人様こそご勘弁ください。言い付けを破れば、旦那様からどんな仕打ちを受けるやら」

 尋常でない様子に一瞬怯みそうになるが、こうなっては強行突破を試みるしかない。

「ベニュー、その人を頼む」

「きゃっ」

 ビアンとライゼルは、アスターを押し退け、強引に屋敷の中に侵入する。アスターは短い悲鳴を上げ、ベニューの身体に凭れ掛かる。

「お待ちください、お役人様方!」

 アスターの制止を振り切り、扉を潜り抜ける二人。

 扉の向こうには、風車富豪の名に恥じない見事な誂えの広間があった。同じような豪邸のゾア宅とは一線を画す、豪奢な装飾品や調度品が、品よく並べられている。陶器の壷や鉱石を用いて作られた家財の数々。中でも天上に吊られたガス灯はこの辺りではほとんどお目に掛かれない代物だ。

興味を惹かれる物はたくさんあるが、今は物珍しい物に目移りしている場合ではない。探すべきは幽閉されているかもしれないドミトル、あるいはオノスという門番。

 その二人の行方を捜し、二人は一階の各部屋は無視して、屋敷中央の階段へ一目散に走っていく。

 屋敷の中は広く、初めて入る場所である為に間取りには明るくない。だが、ドミトルの話をする時、アスターがしきりに気にしていたのは二回の中央の部屋だと、ビアンは気付いていた。ライゼルもそれに倣い、脇目も振らず、階段を駆け上がり、大きな両扉に辿り着くとそれを二人掛かりで引き開く。

 ギィとやや甲高い音を立てながら開かれる大扉。その先に、ビアンは何かを認めた。

「これが、そうなのか?」

 扉を開けたすぐ目の前に、件のそれらしい人の形を模した石像があった。それを一瞬人影かと思って警戒したが、そんな事はなかった。ビアンの予想に反して、ドミトルもオノスもこの部屋にはいない。特に身を隠せる場所もなく、他にどこか人が身を潜ませている様子でもない。この部屋には、石像が置かれているばかりで、人の気配は一切ない。

 壁一面に配された書棚や、人見知りの主人が誰と囲むつもりだったのか十人掛けの大きな卓と椅子。それ以外にこれと言って目を引く物はない。そう、入り口付近に配された、その不自然な石像以外は。

 やはり一番に目に入るのは、扉に対して背中を向けて置かれていたそれ。調度品にしては随分いい加減な配置の方法だ。一階の広間は整然と並べられていたというのに、それに比べて随分と杜撰な配置だ。こんなところに人物大の置物があっては、邪魔で仕方がないだろう。やはり、アスターでなく、ドミトル本人が設置したのだろうか?

「なんか期待してたのと違うよ。かっこわるい」

 ライゼルの感想を聞いて、ビアンも子細に観察する。美術品に通じている訳ではないが、一般的な感性を以ってして、それを評価されるものではないと断じる事ができる。

「これは、あまり趣味がいいとは言えないなぁ」

 その石像は、恐怖によるものか苦痛だろうか、怯え切った様子で歪んだ表情は、この世の終わりを目撃したかのような醜い形相をしている。姿勢も腰が引け、前方より迫る何かから自身を庇うようにして、両手で前面を隠しているように見受けられる。その男の醜態を全て晒し尽したかのような作品。これが意図的に作られたものだとしたら、随分前衛的な作品だ。一般的に石像に付与されるはずの威容が全く感じられない。

 加えて、この石像には衣服が着せられている。衣服を模って掘ってあるのではなく、石像その物に実際に人間が着用するような服を着せているのだ。ビアンは何度か目にした事がある、上等な誂えの衣装。王族や貴族がよく着用している、刺繍が幾重にも施された綺麗な模様の服。

 彫刻に対する造詣は深くない二人だが、これが珍妙な作品だという事は見て取れた。人形に染物を着せる文化はあるが、それが彫刻となると聞いた事がない。しかも、染物ではなく、立派な衣服を、だ。まだ世間に理解されない独特の感性の持ち主が、時代を先んじて完成させた傑作なのだろうか。二人には判断しかねる事案だ。

「芸術家ってのは、何を考えているか分からんな」

 ビアンがそう愚痴を溢すと、アスターを任されたベニューと、彼女に支えられているアスターがそこまで来ていた。アスターは部屋の入り口で立ち止まり、呆然とした様子で佇んでいる。部屋の入り口手前までやってきたものの、それ以上は近付こうとしない。大変な事をしでかしてしまったと青褪めている。

「わたくしに責はございません事、何卒ご理解くださいませ」

 追いついて第一声がこれだ。ここまで自分の無責任を主張されると、正論であってもビアンは辟易してしまう。

「分かっている。これは我々が勝手にした事。ドミトル公にもちゃんと説明する」

 そう宥めるが、アスターは先以上に恐れおののき、ビアンの方を見ようとしない。というよりも、アスターは部屋に向かって頭を垂れたままで、目を向けようとしない。

「なんだ、無礼者とは目も合わさないか」

 無理を通してこの部屋まで侵入したビアンは、自身に非がある事を自覚している為、多少気遣って悪びれてみせる。しかし、アスターの身震いが治まる様子はない。先の挙動不審とは訳が違う。癖から生じるものでなく、心からの怯えが身体に表れているのだ。

「いえ、畏れ多いのです」

「何がだ?」

 不自然な言動の多いアスターであるが、今のはとりわけ奇妙だ。不在の主に、正確にはその主の部屋に対して畏敬の念を持つ事も、ドミトルの教育なのだろうか?

 しかし、そうではなかった。主人の所有物などにではなく、ドミトル本人に対して正しく畏敬の念を抱いているからこそ、このような不自然な反応を示し続けているのだ。この場にいるドミトル本人に。

「そこに、『旦那様の御姿』があります故、畏れ多くて頭を垂れているのです」

 アスターが恭しく礼を取る対象に視線を送ると、そこにはまごう事なく、やはり石像がいるのだ。

「これがドミトル公を模した石像だと?」

 アスターの言動に直感めいたものを覚えたビアン。遅れてライゼルとベニューも悪寒を感じた。

(もし、これが『ドミトル公本人』だとしたら・・・)

 ビアンは咄嗟に石像の服をまさぐりながら、『ある物』の所在を探る。丹念に触れて回るが、どこにもそれが見当たらない。ドミトル本人が肌身離さず持っているという噂のそれが、だ。

 青褪めたビアンは、自分の推理を確かめるように、アスターに問いを投げる。

「貴女はずっと屋敷にいたが、ドミトル公が外出するのを見ていない。そうだな?」

「はい」

「もう一つ質問だ。村の入り口の風車、昨日から回っていなかったんじゃないか?」

「はい、さようでございます。一基だけ止まっている事に気が付かれた住民の通報がありまして、ご報告に上がろうとしたら、旦那様の姿が見当たらず」

 アスターの返答は、ビアンの予測を裏切らない。おそらく、当主不在はその時に村人に告げたのだろう。アスターに、何かを隠し立てしようとするつもりなど、最初からなかったのだ。アスターは巻き込まれた側の人物。

 それにしても、これは、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。風車の不具合と当主の不在が、意図せず同時に重なる訳がない。つまり、ドミトル達が行方不明なった時に、何者かによってあの風車一基は停止させられたのだ。それが意味する事象を理解できた時、ビアンは例のごとく絶叫する。

「なんてこったああああああぁぁ!」

 手遅れになるまいかと危惧しながら、部屋を飛び出し階段を駆け下りるビアン。それを見て、ライゼルとベニューも追従する。ビアンが大声を張り上げたという事は、何か不測の事態が起きたという事。それを察した姉弟にも、緊張感が走る。

「二人は中にいるんじゃなかったの? 説明要求!」

 屋敷を出た辺りですぐさま追いついたライゼルは、何がどうなっているのかビアンに説明を求める。ビアンも完全に把握した訳ではないが、慎重に言葉を探しながら、推論を立てる。

「自分でも信じられないが。犯人の正体に見当が付いた」

「本当ですか?」

 遅れてベニューも並走する。石像を観察していないベニューでは、ビアンが閃いた真相に辿り着かない。

「おそらく、犯人はオノス。そして、そいつは【翼】使いだ」

「えっ、どうしてわかったの?」

「いや、正直言えば、何がどうなればこうなるのか分からんが、あの石像はドミトル公本人で、犯人は空を移動して窓から逃走した。多分、間違っていない」

 そう言い切ると、何故かビアン自身も納得できた。【翼】使いという要素を推理に組み込む事で、驚くくらいそれが違和感なく成立してしまう。

「石像がドミトル?」

「そういう【翼】の能力があっても驚きはしない。詳細を知らなかったドミトルは、それを【牙】の能力だと勘違いしたんだろう」

 ドミトルは、オノスを名乗る人物の能力を【牙】だと勘違いしており、異国民とも知らず【翼】の能力によって石化されたのだろう、と推測する。これまで高速移動を可能にしたり、麻痺を生じさせる【翼】を目にしてきた。石化させる能力があっても不思議ではない。

「[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]を身に付けていないのも、これまでの【翼】使いの特徴と符合する」

 そこまで説明されても、ベニューは未だに釈然としない。まだ解消できていない疑問が残っている。

「名前は? どうして犯人は大戦の英雄の名を騙ったのでしょう?」

「おそらく偽名だ。首輪を持たない異国人がドミトルに近付く為には、信用が必要になる。それで有名人の名を騙ったのだろう。オノス程の有名人であれば、異国人でも知り得ていただろうし、それに他人の名前を利用すれば、異国人が大事にする名前を告げなくていいからな」

 そこまで理由を付けられると、そうなのかもとベニューも納得する。これ程まで状況に即した推理であれば、大間違いという事もないだろう。一般的な考えからすれば、筋が通っている。

 でも、違和感はある。例えば、フィオーレを襲ったテペキオンや、ルクと呼ばれていた巨漢、そして三つ編みおさげの女を、一般的な尺度で測っていいものか、と。

 ベニューがこれ以上の追及を止めると、ライゼルは自分達の目的地を気にする。ビアンに追従するものの、その行き先をまだ聞かされてはいない。

「それで、どこに向かってるの?」

「風車小屋だ」

「風車小屋?」

 言われて村の入り口あった一基だけ止まっていた風車をライゼルも思い出す。先のアスターとの問答で、ビアンが稼働状況を確認していた風車がそれだと判明し、ライゼルにもビアンの考えが分かる。

「そっか、そういう事か」

「そうだ。あそこにオノスが、翼使いが身を潜めているはずだ」

 犯行が昨夜から今朝にかけて行われたとして、目覚め始めた人々の目を避ける為に、一旦姿を隠す為に風車小屋に身を潜ませていたと考えれば、辻褄が合う。村入り口の風車一基は、その時に停止させられたのだろう。ドミトルが風車小屋の鍵を身に着けていなかった事からも、状況証拠は固まっている。

 商店通りを突き抜けると、目指す風車小屋が見えてくる。現在も稼働はしていないが、未だに止まっているからといって、その中にまだ犯人オノスが潜んでいるとも限らない。もう抜けてしまった後という可能性は、大いにあり得る。

 取り逃すまいと、土手を下り、灌漑地特有のぬかるんだ路面を走破し、風車小屋の出入り口へやってくる。泥に足を取られながらも辿り着くと、鍵は鍵穴に挿したままで、扉は開け放たれていた。その中には、歯車数個を取り外し空間を確保し、身を潜めている老人の姿があった。年の頃は、ゾアと同年代といったところか。

「おい、お前がオノスの名を騙った異国人だな?」

 男の姿に注視すると、まず、みすぼらしい衣服が目に入る。これまでの異国人が着ていた洒脱な純白の衣装ではない。それに、闘将オノスの風体を知らぬビアンではあるが、年の頃も数十年前の戦役を経験したであろう年齢と言っても説得力がある。

 そして、首元には確かに首輪が付けられていなかった。これまで出会った首輪を付けていない者達の共通項、それは【牙】に匹敵する異能の能力【翼】を持っているという事。つまり、今回の事件の首謀者である可能性が高い。

「こんなところで何をしている、【翼】使い!」

 犯人らしき男を取り押さえようと、ビアンが小屋の中へ侵入する。が、男は逃げるでもなく、かと言って観念した様子でもなく、ビアンに怪訝そうな目を向ける。

「リカートじゃないのか?」

「リカート?」

 知らぬ名前と間違えられて、ビアンは歩みを止めた。そして、後方に控えていたベニューの発する大声を聞く。ベニューは付近の何者かの存在に気付いていた。

「ビアンさん、後ろです。後ろの空に【翼】を持った人がいます」

 ベニューが指さす方向へライゼルとビアンが視線を送ると、確かに風車小屋を背にした眼前の中空に、テペキオン等と同じ物を背にした男がいる。

 長い赤毛の、金属の仮面で容貌を隠した細身の男。ベスティア王国民の証である首輪は見当たらず、テペキオン達同様に見慣れぬ純白の衣装を身に纏っている。最も確信させるものが、男を重力から解き放ち、空中浮遊を可能足らしめているそれである。

「その出で立ち、その異能、お前はテペキオン達の仲間か?」

 そう問われる男は、仮面の奥の瞳を静かに光らせた。中性的とも思える澄んだ声でビアンを刺す。

「下らん問いを投げるな、下郎。貴様らこそ、あの外道の使いであろう。オノスを取り返しに来たか」

「なに?」

 男の言動から何かを察したベニューは、ビアンに耳打ちする。

「今回の事件、誘拐事件で間違いなかったんですよ。ただ、犯人があの人で、誘拐されたのが何故かオノスさんだったという違いはありますけど」

 ベニューの助言を聞いたビアンはなるほど合点がいった。物盗りでなく、誘拐が目当て。ならば、この状況に一応の説明が付く。何故、その対象がオノスという老人なのかはさておき。

「オノスはこれ以上、この土地にいてはならぬ。さぁ、オノスを返してもらおう」

 そう言って、仮面の男はふわりと降下し、地上へ降り立つ。無防備に歩み寄る様は、ライゼル達の反抗を警戒していないように見える。

「いい機会だ。お前を捕えて、お前達異国民が何を企んでいるか、余すところなく吐いてもらうぞ」

 これで都合四人目となる異国人との遭遇に、ビアンの鼻息も荒くなる。

 そして、その傍らで静かに闘志を燃やす牙使いの少年、ライゼル。

「あいつがドミトルを石にしてオノスってじいちゃんをさらった犯人…!」

 現状ドミトルの生死は定かではないが、害を為した事には変わりはない。それはドミトルの笑顔を奪ったも同義。フィオーレでの一件も、もしライゼルが対抗しなければ、同じようにカトレアがその魔手に脅かされていたかもしれない。大柄な男ルクの時も、三つ編みおさげの女の時も、戦わなければベニューやビアンが傷付けられる事になったはずだ。

 そう思うと、ここでもこれ以上の犠牲を出さない為にも、この仮面の異国人を討たねばならない。幸いな事に、偶然にもオノスの身柄を確保する事は出来た。あとは、目の前の敵を退けるのみ。

「ビアン。俺、戦うよ!」

「あぁ。ライゼル、任されてくれるか?」

「おうよ」

 笑顔を守りたいライゼルと法を守りたいビアンは、揃って戦う意志を示す。その様子をベニューも確認し、首肯で応じる。ここで下手人を捉えられれば、今後起きるかもしれない事件を未然に防ぐ事に繋がる。この戦いの意義は決して小さくない。

「よし、行くぞ」

 ビアンの合図で、ライゼルは仮面の男へ詰め寄り、ベニューはオノスを庇うようにして風車小屋へ籠り、扉を閉めた。ビアンは扉を背に陣取り、ライゼルへの指示を出す。それぞれが即座に自らの役割を察し、行動に移ったのだ。

 飛び出したライゼルは、即座に霊気を集め、【牙】を形成させ、仮面の男目掛けて斬りかかる。

「油断してると怪我するよ!」

 仮面の男がライゼルの幅広剣の出現を知覚した時には、ライゼルは既に間合いに入っていた。持ち前の瞬発力で一気に距離を詰めていたのだ。

 この一撃で、仮面の男を無力化できる、ライゼルがそう確信した瞬間だった。

「これは、ペルロやガトと同じ力か」

 悠長な調子で【牙】への感想を溢した挙句、避けようともせず、ライゼルの振り掛かる幅広剣に手を掛ける。

「知っているぞ。【牙】とやらも、私の【翼】で石榑に帰す事ができるとな」

 仮面の男が何を言っているのか分からなかったが、仮面の男の言う事が、次の瞬間には眼前で起こった現象として思い知らされる。

「【牙】が、石になった!?」

 言うが早いか、ライゼルがムスヒアニマを集中させ具現化させた【牙】が、その形を維持する事が適わず、ぼろぼろと砕け散っていく。乾燥した土塊のように、いとも容易くその形を崩壊させる。

これまで幾度となく【牙】を生成してきたライゼルであったが、このような現象は見た事がなかった。霊気の供給を断ち【牙】を霧散させる事はあるが、物質化したまま崩壊するのはこれが史上初めての経験となる。

「うわっ、俺の【牙】が壊れちゃった」

 突然の出来事に面食らうライゼルを見て、仮面の奥の瞳が怪しい光を帯びて、男は不敵な笑みを浮かべる。

「慢心は貴様だったな、ライゼルとやら」

 

 その頃、風車小屋の中では、歯車の取り外された狭い隙間に、ベニューとオノスが身を寄せ合っていた。風車小屋内の比較的に大きな歯車を取り外していたようで、女の子であるベニューが押し入る事は然程難しい事ではなかった。

 絡繰り仕掛けの中へ進入したベニューは、何故この風車一基だけが止まっていたのか得心が行った。駆動部に連結する部品を取り除かれ、その部品を風車の回転軸に噛ませてあるのをベニューは発見した。その為に、ここの風車だけ風を受けても回転していなかったのだ。

 ただ、それだけの作業を目の前の老人一人がこなしたとは、とても考えづらくはあるが。比較的大きな部品も大人が両手を広げたくらいの巨大さがある。おそらく、オノス以外の誰かが取り外したのだと推察できる。

 それはともかくとして、だ。こうして、行方知れずとなっていたオノスの身柄を確保できた事は僥倖である。オノスから犯人に関する証言を得られれば、事件はほとんど解決したようなものだ。あとは、外の実行犯らしき人物を取り押さえる事ができるかどうか。

 ただ、老人はまだ心許無いのか、少し浮かない表情をしている。

「安心してください。ウチの弟、ああ見えても強いんですから」

 ベニューがオノスを気遣って声を掛けるが、老人は静かに首を振るばかり。

「あなた方は誤解しておられる。リカートは私を助けてくれたのです」

「どういう事ですか?」

 状況から、先の仮面の翼使いの名をリカートと言うのだろう。そのリカートは敵ではないと、被害者であるはずのオノスは話すのだ。これまで何度か【翼】を有する異国人と衝突してきたベニューにはにわかに信じられないが、どうやら、自分達はまだ全容を理解できていないらしい。ベニュー達とオノスとの間には、認識の隔たりがあった。

「私は数週間前、あの屋敷に招かれたのですが」

 歯切れの悪い語り口で、オノスは屋敷に招かれてからの数週間の出来事を語り始める。

 二日目の勤務に就こうとした日の朝の事、オノスはドミトルから書斎まで来るよう指示された。まだアスターは出勤していなかった様子で、ドミトル本人がオノスを玄関で待ち受けた。

『【牙】をね、見せてもらいたいんです』

 突然のドミトルの要望に、オノスは弱り切った。もうオノスは【牙】を発現する事は出来ない。星脈も消失し、霊気を体に取り込む事も出来ない。有り体に言えば、【牙】を持たぬ普通の人間にも劣る状態である。

 オノスは正直にその事を話した。が、ドミトルは別段驚く様子もなく、事実を事実のままに受け止めた。

『なるほど。であれば、門番を任せる訳にはいきませんね』

『そう仰らず、私を使ってください。家事でも何でも致します』

 オノスが咄嗟に懇願し宣誓を述べると、それを耳にしたドミトルは厭らしい笑みを浮かべた。気味の悪い関心を向けられた、とオノスは感じた。

「どうやらドミトルは、何やら賭け事の為に強力な牙使いを探していたらしいのですが、私は【牙】を失って幾久しく…」

 オノスが【牙】を持たぬ事が知れると、それからというもの、オノスは番兵の役から解き放たれた代わりに、ひたすらに拷問を受ける日々となった。

 書斎に幽閉されたオノスは脱出も適わず、ある時は溶けた蝋をその身に垂らされ、ある時は水瓶一杯の氷水の中に浸からせられ、ある時は目隠しされた状態の耳元で何度も破裂音を聞かされ、かと思えば摩擦音を一日中聞かされ、ある時は香辛料の多量に含まれた料理を無理やり食わされ、ある時は喉が枯れるまで歌い踊らされ、毎日のように責め苦を味わわされ続けた。

 自力で逃げ出す事も適わず、ただただその苦痛に耐えるしかなかったオノス。助けを呼ぼうにも、ドミトルの操り人形となっているアスターは頼れないし、屋敷への人の出入りはほとんどない為、部外者も頼れなかった。

 一通り話し終えると、オノスは僅かに身震いした後、外にいる仮面の男を想った。

「昨夜、リカートは突然屋敷へ押し入り、私を解放してくれたんですよ」

「じゃあ、アスターさんの言動が不自然だったのも」

「おそらく、彼女も同様に虐待を受けていたのでしょう。私より以前にいたが為に、心まで壊されてしまったのでしょうな」

 オノスは自分が受けた仕打ちを身に染みて分かっている為に、アスターの心がどのように蝕まれていったのか、想像に難くない。きっと教育とは名ばかりの、酷い仕打ちを受けたのだろうと推測できる。

「あのリカートという人は、オノスさんを誘拐した悪い人ではないんですか?」

「まさか。私にとっては命の恩人ですよ。共に戦場を駆け抜けた戦友ですら私を見向きもしなくなったというのに、彼は私の身を案じ、今も治療薬を探しに出掛けてくれていた所です」

 確かに、オノスの全身の至る所に虐待の跡が見受けられる。その傷を治す為に異国人が労しているのだと、オノスはそう言ったのか? ベニューは自分の耳を疑った。

「でも、あのリカートという人は異国民なんですよね? 何故そのような事を?」

 オノスは少し間を空けて言葉を探し、かぶりを振る。

「彼が異国民だろうが、私はその事をどうとも思いません。彼は私を救い、新しい場所へ連れて行ってくれると約束してくれた。身寄りのない私には、その言葉が何より嬉しいのですよ、お嬢さん」

 それを聞いたベニューは、何とも言えない焦燥感に駆られた。このままでは取り返しのつかない事になってしまうのではないかと。自分達は、とんでもない思い違いをしてしまっているのだと、今更ながら気付く事となった。

 

 事件の真相に迫りつつあるベニューを余所に、得物を失ったライゼルは、一気に劣勢を強いられる事となっている。

 これまで死線を交わしてきた【翼】使いとは異なる不可視の能力。その手で触れた物を瞬時に石化させてしまう破格の力。それが人体にも有効だという事は、先のドミトルの件から明らかである。という事は、その能力からも、先の事件の下手人はこの仮面の男に違いない。

 俄然優位に立っているリカートは、落ち着いた足取りで一歩一歩ライゼルに迫る。なにしろ、触れるだけで相手を無力化できるのだ。リカートは攻め手を工夫する必要もない。手の届く距離まで接近するだけで良いのだ。

「一旦離れろ。安全圏を確保しつつ、打開策を検討する」

 ビアンの指示通りに真っ直ぐ見据え相対しながら、ライゼルは後退りしながらリカートと距離を取る。ビアンは相変わらず風車小屋の前に陣取り、ライゼルはそこから如何ばかりか離れた泥濘の中にいる。

 それを見てリカートは方向転換し、両者に対して注意を払う。余程用心深いのか、どちらに対しても隙を見せない。二方向の敵から反撃があっても、即座に漏らさず対応できる構え。リカートは決して慢心しない。自分の能力の特性を深く理解し、弱点も熟知している。ライゼルとビアンが二手に分かれ、どちらかが背後を取り、自身の両腕を封じれば、形勢が逆転する事をリカートは理解しているのだ。

「言葉を交わさずに互いの意志を図るか。外道の遣いにしては侮りがたい」

 一応は二人に賛辞を向けながらも、現に二人が試みようとしたその策を、即座にそれを看破し、牽制している。両者に睨みを利かせ、迂闊な接近を許さない。

 更に、その動作の最中に何かに気が付いたらしいリカート。風車小屋の扉を庇うようにして立つビアンに、リカートは一瞥を向ける。

「貴様は臭いがしない。【牙】を持っているのは子供の方だけか」

「なに?」

 リカートは【牙】を有しているかどうかを見極める事ができるらしく、無能力のビアンを優先的にその異能の被害に掛けようとする。

「まずは貴様から石に変えてくれよう」

 仮面の男は、対象をビアンに変えて再び歩き出す。焦りを一切感じさせない、ゆったりとした歩調。じわりじわりと精神的圧力を掛けていく。

 無意識の内にビアンの視線もリカートの両手に奪われている。あの必殺の能力を目の前で見せつけられては、警戒せざるを得ない。その動揺はリカートにも見透かされている。

 その一方、仮面の男は、その素顔を隠しているように、己が胸中も透けさせない。窺い知れない男の素性同様、迂闊な動作は一切見せない。

 そう対処されれば、ビアンは敵と距離を取るしかなく、ライゼルも迂闊に近寄れない。肝心なのは、二人同時に襲撃できるかどうか。ライゼルだけでは先程の二の舞だ。

「さぁ、これで分かったろう、貴様らでは私を阻む事は適わぬと。潔くオノスを渡せ。これ以上、戯れに付き合わすな」

 脅威的な異能を見せ付けられた今、ビアンもその申し出に応じたい気持ちは山々だった。リカートの能力に対する絶対の攻略法は未だ見出せず、このまま硬直状態が長引けばテペキオン達に居場所を察知される可能性もあった。おそらくリカートの同胞であろうテペキオン達は、ライゼルを付け狙っている。もし、リカートとテペキオン達を繋ぐ連絡手段があれば、一気に絶対的窮地に追い詰められる。

 そもそもの狙いは、下手人の容姿を確認する事。もちろん、身柄を確保できるに越した事はないが、払う犠牲が大きすぎる。失敗すれば、石化し絶命だ。冷静に天秤の針を見極めるなら、[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]も持たない社会的に死んでいるも同然のオノス一人の犠牲で現状を打破できるなら、悪くない取引だとビアンは思う。

 しかし、ライゼルはそう思わない。他人の笑顔の為にその力を振るわんとするライゼルは、誰かが目の前で犠牲になる事を決して許しはしないだろう。例え、自分が傷付いてでもオノスを守ろうとする。

(ライゼルが聞き分けがいいとも思えないし、一か八かの賭けに出てみるか)

 ビアンには、決して分は良くないが、一応の勝算があった。弱点とも言えない不確定な要素ではあるのだが、リカートの能力は触れた物しか石化できないという点。改めて言うまでもないが、触れられなければ石化を免れる。

 実は、この事はドミトルの姿に暗示されていた。ドミトル自身は全身石化していたが、気障な衣服は触れられなかったのだろう、そのままの状態だった。衣服を残しドミトルだけ石化していたのは、リカートにとって衣服まで石化させる必要がなかったから。当然のことと言える。しかし、それが攻略の糸口となる。

 ビアンは、その頼りない急所を突く作戦をライゼルに提示する。

「ライゼル、服を脱げ。脱いだ服でヤツの腕を封じ込める」

 ビアンは、ライゼルから借り受けている六花染めを脱ぎながら、ライゼルに今回の必勝法を伝える。が、どうもライゼルには、それがどうしたら勝利に結びつくのか想像できない。

「ねぇ、手を覆えばいいって事?」

「そうだ、いいからやってみろ」

 出来れば具体的に説明して欲しいが、目の前には敵もいる。攻略法を相手に知られてしまうと、それの対策を考案されてしまうかもしれない。今はビアンを信じて実践あるのみ、とライゼルはすぐさま六花染めを脱いだ。

 上半身をさらけ出したライゼルとビアン。程よく鍛えられたライゼルの裸身と、貧相を絵に描いたようなビアンの華奢な裸身。これで、もしリカートに生身を触れられれば、石化しドミトルと同じ運命を辿る事となる。それは決して避けねばならない。

「いっせぇのせ、だ」

 脱いだ服を両手に持って広げながらリカート目掛けて走り出すライゼルとビアン。

 狙いは、リカートの腕を封じ込める事。縛り上げる事も選択肢の一つだが、一番効率的なのは手を覆った布を石化させ、より強固に両腕を封じる事。これを成功させる為には、リカートが石化能力を発動させる瞬間を見極めなければならない。リカートもただ被されたからといって、その布を石化させる間抜けではあるまい。リカートの反撃の瞬間こそが、二人にとっての絶好の機会なのだ。

「言葉通りの搦手か」

 リカートも二人の意図に気付き、一層警戒を強める。

 ライゼルとビアンは、ほぼ同時に二方向からリカートに迫り、あとは脱いだ服を巻き付けるだけ。ライゼルもビアンも相手の反撃を警戒しながら、腕を取りに走る。

「愚か」

 リカートもこれに対し、黙って待ち構えていた訳ではない。彼は【翼】を有しており、空へ退避する事ができる。寸でのところで、二人の追撃を躱し、反撃に転じる算段である。相手にない移動手段を有しているリカートの方が、この戦況では優位に立てる。重力に縛られない仮面の男が見せる余裕の理由はそれだ。

 ライゼルとビアンの跳びかかる瞬間を見極め、一度両者に対して牽制動作を見せ、相手の注意を凶器である手の動きに集中させた所で飛翔する。そこまでは、リカートは隙のない完璧な動作だった。

 しかし、予想外の事象がリカートの策謀を阻む。【翼】を展開する直前、意識を掻き乱されるような感覚に襲われる。それが何という現象なのか解明には至らないが、迫る一方の敵ライゼルが[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]を地面から吸い上げていたのをリカートは察する。

「この『臭い』、まさか【牙】か・・・!」

 急激に倦怠感を与える謎の現象に抗ったものの、意識は散漫になり、リカートの動きは鈍重となる。十全でない仮面の男の左腕は、ビアンによって捕縛されてしまった。

「片腕はもらった。ライゼル」

「おう!」

 充満する地上の臭いに中てられ、満足に回避運動を取れないリカート。彼の残った右腕を抑え込む事は、別段難しい事ではなかった。ベニューが誂えた六花染めでリカートの腕をぐるぐる巻きにしたライゼル。二人が両方向から衣服を引っ張る事で、大幅にリカートの動きを制限する。ライゼルとビアンに挟まれた中央の位置で固定されるリカート。

「形勢逆転だな、仮面の誘拐犯」

 無防備の状態のリカートは、特に抵抗する様子も見せない。このまま身柄を拘束できれば、一連の事件の詳細が一気に掴めるかもしれない。そう思うと、これは気の抜けない作戦だ、とビアンはいつも以上に張り切ってしまう。

「これが地上の霊気というものか。確かに体に障る毒だ」

 意味ありげな独り言を溢し、捕えられるままのリカート。その視線の先には、二度目の【牙】発動を終えたライゼルがいる。本来、日に一度程度の行使しか許されない星脈の酷使だが、この連続使用は破格の星脈を持つライゼルだからこそ可能な芸当である。

「もう逃げられないぞ。大人しく逮捕されろよ」

 ライゼルが観念するよう勧告するが、この状況に至ってもリカートは冷静さを一切欠かない。現状を打破できる策を、まだリカートは秘め持っているのだ。

「これで捕らえたつもりなら片腹痛し」

 しかし、それは本人しか知り得ぬ事。リカート以外には、この状況は圧倒的にリカート不利に映る。それは、風車小屋から這い出てきたベニューとオノスも同様であった。

「リカート」

 オノスが表に出た瞬間、命の恩人が二人の人間に捕らわれている。しかも、一人はその右手に【牙】を出現させている。命を救ってもらった立場のオノスにとっては、より絶望的な状況に思えた。【牙】も失い、誰からも相手にされなかった自分に、手を差し伸べてくれた無二の人物。そのような人が、身動きの取れない状況で【牙】を有する少年に迫られているのだ。心配しない訳がない。

 居ても立ってもいられぬオノスは、リカートを解放せんと走り出す。元々、灌漑工事が必要なムーランの地面はぬかるんでおり、決して走りやすい地面ではない。自由の利かぬ体でリカートの傍へ走り寄るオノスの姿は、年寄りの冷や水とも言える。

 その様子は、ライゼル達からも見えていた。

「駄目だよ、じいちゃん」

「これ以上近づくと、罰するぞ」

 ライゼルとビアンの制止も耳に届かぬのか、荒い呼吸のまま三人の元へ迫る。

「オノス、要らぬ気遣いを…フンッ!」

 その瞬間、二人の敵の注意が自身から逸れるのをリカートは見逃さなかった。肩を軸にし両腕を大きく回し、ぐんと更に手繰り寄せ、二人の姿勢を崩す事に成功する。力の均衡が崩れ、半ば無防備な状態で、二人はリカートの間合いへ踏み入ってしまった。ライゼルも敵の狙いを察し瞬時に手を放したが、その時には地に足が付いていなかった。

「やばっ!」

「ぬかった!」

 リカートはすかさず両腕の着物を石化させ、自身の腕に融合装着させた鈍器へと変形させた。ライゼル、ビアン共に上半身に引力を加えられ、前のめりの体勢になっている。このまま岩石を纏った両腕を二人の頭部にでも見舞えば、その時点でリカートの勝利が決定される。

「こうなりゃ、自棄だ」

 やぶれかぶれにライゼルも手にした幅広剣をリカート目掛けて突き立てる。さすがにリカートもこれには両手で防御の構えを取らざるを得ず、リカートの両腕が防御に回された事で、両者の頭部への打撃攻撃は阻止された。

「あでっ」

 しかし、依然窮地に立たされている事には変わらない。ビアンは受け身を取る事も儘ならず、地面に突っ伏してしまったし、ライゼルの方もやぶれかぶれの攻撃を防がれ、次の手を繰り出さねばならない。引き寄せられ近付いたリカートとの間合い。この距離は剣を振るう間合いではない。拳を振るう距離だ。なんとか踏み止まり、地に伏せずに済んだライゼルも、この至近距離では攻撃に移れない。ビアンに至っては、寝転がった状態だ。

「似合いの姿だ」

 それを十分理解しているリカートは、この好機を逃すまいと、横たわるビアンを踏みつけにし、右左の連撃でライゼルを追い詰める。右から左からと絶え間なく浴びせられる石の拳は、この場にいる誰もが知り得ぬ事だが、全盛期のオノスを彷彿とさせる冴えを見せる。時を越えて異国人によって再現される闘将の猛攻。リカートは、ライゼルを無力化できれば、残りのビアンとベニューを組み伏せる事は容易いと踏んだのだ。

「【牙】を棄てれば、見逃してやろうぞ?」

「へっ、冗談ポイッだね!」

 ライゼルの剣に決定打を阻まれながらも、リカートの岩石を纏った腕は、常にライゼルの頭部を捕捉している。防戦一方のライゼルは、泥の上では満足に足捌きも出来ず、距離を取る事も儘ならない。ライゼルを追い詰めるのは、あとは時間の問題だった。

 と、リカートはそう思っていた。しかし、そうはならなかった。リカートの計算に含まれていなかった要素が、彼の足を引っ張った。そう複数の誤算が、リカートの足を引っ張った。

 一つ目は、足場の泥濘(ぬかるみ)。これまでリカートが決して急ぎ足にならなかった理由がこれだった。リカートには【翼】での空中移動が可能で、足場の条件を本来なら無視できた。しかし、何故か飛行能力と石化能力とを同時に発動する事ができなかったのだ。故に、交互に能力を行使し、ライゼル達を相手取ってきた。だが、ライゼルの必死の抵抗に、リカートもその事を失念してしまい、ついに躓いてしまった。

 続いて、この二つ目がなければ、おそらくリカートはそれ程まで窮地には立たなかった。その二つ目とは、ライゼルから放出されるムスヒアニマの奔流。リカートは、牙使いが短時間に一度しかムスヒアニマを充填できない事を知っていた。ペルロとガトという牙使いから、事前にその情報を得ていたのだ。だから、この二回目の【牙】はそもそも予想外たったが、そこまではなんとか対処できた。

 しかし、この『臭い』には集中を掻き乱される。普段は微量でそれ程制限を受けないが、【牙】発動時には常時とは比べ物にならない量のムスヒアニマが周囲に充満する。脂肪や脂質が酸化したような、深いな大量の『臭い』が、冷静なリカートの意識を散漫にさせ、判断を誤らせた。誤った判断により、仮面の男は攻撃を焦ってしまった。

「リカートぉおお」

 そして、これが最大の誤算。リカートの身を案じて駆けつけようとするオノス。間髪なく打ち合いを繰り広げる両者に割って入ろうとする、老いぼれた過去の戦士。情けを掛けたばかりに、今度は情けを掛けられる事となった。

 出会いは偶然だった。地上に漂う不愉快な臭いを追って、二日前にリカートはこのムーランを訪れていた。そして、ドミトルの屋敷で拷問を受けていた所を目撃し、オノスを救い上げた。ドミトルを葬ったのも、オノスへの同情心というよりも、単純にドミトルの蛮行が気に食わなかった事の方が比重として大きい。リカートにとって、オノスはついででしかなかった。目的の物を求めてさすらった結果、ただそこに居合わせただけの存在。

 だが、リカートも知らぬ間にオノスに情が移っていた。それ以前に同じような境遇から救い出したペルロやガトと共に、オノスも連れて行こうと考えるようになっていた。

 先程も、周辺を彷徨っていた同胞ラホワの元へ、万能薬『アムリタ』を貰い受けに出向いていた所だった。それ程、オノスの身を案じるようになっていた。

「リカート、この子らは勘違いを…」

 そのオノスが恩返しとでも言わんばかりに、自らを犠牲にし盾代わりとなり、ライゼルの剣からリカートを庇ったのだから、リカートは如何ともしがたい激情に駆られる。

「—――オノス・・・!」

「じいちゃん!」

 リカートを狙ったライゼルの【牙】は、その軌道に割って入ったオノスの肩を斬り付ける。ライゼルが咄嗟に切っ先を逸らした為に深い傷にはならなかったが、それでもオノスの体に痛みが走る。

「っうぐぅ」

 【牙】の所有者ライゼルにも、人を斬るその嫌な手応えが感じられた。目の前の老人に苦痛を与えたのは、他でもないライゼルの剣だ。ライゼルの幅広剣にはオノスの血が付着している。

「じいちゃん、大丈夫!?」

「おい、ライゼル。防御を解くな」

 言われるまで気付かなかったが、確かにライゼルはオノスを傷つけた事に動揺し、がら空きの状態を作っていた。地面に伏せているビアンと、剣を構えていないライゼル。近距離攻撃を得意とするリカート相手に、二人とも無防備な状態を晒してしまっていた。

 ビアンは頭上を、ライゼルは正面を見やり、リカートからの殴打を覚悟した。が、待てど暮らせど、次の一撃は見舞われなかった。

「どういう事だ?」

 ぎゅっと瞑った両目をビアンがゆっくり開けると、どうやら失神したらしいオノスを担いだリカートは、その背に【翼】を展開し、宙空に浮かび上がっている。【翼】を発動させた時に石化能力を解除させたのか、腕に巻き付かれた布は一度得た頑丈さを失い、本来の六花染めに戻っていた。左手のビアンの六花染めは取り外されていたが、ライゼルが巻き付けた六花染めはまだリカートの右腕にあった。

「じいちゃんを返せ」

 改めて幅広剣を構え直す。しかし、リカートはまともに取り合わない。目的のオノスを確保したのだから、これ以上ここに留まる理由はない。

「妙な事をぬかすな。この者は私の『仲間』だ」

「仲間?」

 そう言ったきり、オノスを抱えたまま、そして右腕に鮮やかな着物を巻き付けたまま、天高くへ浮かび上がっていく。

「おい、お前待てよ―――そうだ、リカート! おい、降りてこいリカート! や~い、俺が怖いのか~?」

 ライゼルは咄嗟に思い出す、【翼】を持つ天上人は自身の名を尊んでいる、と。よって、オノスを連れて行こうとするリカートの名前を連呼するという方法に出る。リカートが無視できないくらいに侮辱の色を込めて。

 何故だか必死に呼び止めようとするライゼル。今、彼にこのまま去られる事は、ライゼルの心をひどく落ち着かなくさせる。どうして、そうなのかは分からない。だが、呼び止めずにはいられないのだ。リカートを見上げるライゼルは、その異国人の名を叫び続ける。

「リカート、どうした、聞こえていないのか? こら、返事したらどうなんだ、リカート!」

 その甲斐もあってか、ひたすら名を呼ばれたリカートは、空中で制止する。背の【翼】をはためかせながら、ライゼルの姿をじっと見下ろす。

「小僧、それは挑発のつもりか?」

「だったら、どうする?」

 握り締めている【牙】を中空のリカート目掛けて突き付ける。その姿は、リカートの問いに対して肯定を示したようなものだ。彼我の戦力差を見れば、リカートに分があるが、それでも敢えて仮面の男を同じ土俵に戻さんとするライゼル。

「図に乗るなよ、小僧。貴様を黙らせる事など造作もないのだぞ?」

 その言葉を聞かされると、否応がなしに先の石化能力が思い出される。有機物、無機物問わずに石榑へと帰す逃れられない脅威。

「戦い方次第じゃまだ分かんないだろ、リカート」

 威勢よく啖呵を切ってみせるが、もちろんライゼルに策などない。あくまで虚勢でしかない。

 そんなライゼルの意図を見透かしたのか、リカートは仮面の奥の瞳を光らせる。

「そうか、いやに私の名を呼び捨てると思えば、その意味を知っておるのだな。それを利用し足止めを目論んだという訳か」

「うっ…」

 ライゼルが何を企てようと、リカートはすぐさま看破する。戦術も然り、今回の意図も然り。

気心の知れたベニューならいざ知らず、初対面のリカートにそれを可能足らしめるのは、鋭い観察眼なのかもしれない。リカートは驕らず、侮らず、事実を在りのままに直視し、それに込められた意志を見透かす。

「かような小僧に知られるとは。そのような粗忽者は疾風か不死の彼奴らしか思い浮かばぬが」

 そこで一旦言葉を切りつつ、仮面から覗かせる双眸で、ライゼルを射竦める。ライゼルの意図を見抜くリカートが、その目に宿らせた眼光。

「私の名を仲間以外が口にするのは、酷く心を掻き乱されるが。今はオノスの手当てを急がねばならない」

 そう言ってオノスに移した視線は、伏せてしまったが為にライゼルからは窺えなかったが、地に伏しているビアンからは僅かに見えた。とても穏やかな瞳を、気を失い抱きかかえられているオノスに向けている事が。

「知ってるんだぞ、お前達は『狩り』ってのをやる為にベスティアに来たんだろ! じいちゃんに酷い事をするつもりなんだろ!」

 何故か。何故だか、ライゼルは縋るような目で、リカートに向けてそう提案する。そうすれば、何かを失わずに済むような気がした。いや、むしろその反対。何かに気付かずに済むと思った。

 だが、リカートはそれを受け入れない。ライゼルの脆さを見抜いたリカートにとって、優先すべきはライゼルのそれを考慮する事ではない。オノスに対する心配の方が、それを遥かに上回る。

「戯言は聞かぬ。オノスに対して働いた外道を悔い改めぬその態度、誠に許しがたい。いずれその身に裁きが下るものと知れ」

 ライゼルの言葉を切り捨て、一度大きく【翼】をはためかせると、そのまま東の空へ向かって飛翔する。

逃すまいとビアンが起き上がり追いかけるも、ぬかるんだ路面を走る彼では到底間に合わない。そもそも、天を駆ける翼使いには届かない。

 徐々に小さくなっていく二人の姿に、一連の件の終結を見た。危機が去り、一気に力が抜けるライゼルとビアン。その姿を風車小屋の前から見つめるベニュー。残された一行は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

「くそ、逃げられた」

 泥に塗れたビアンは、悔しさに吠える。一旦は安全策と秤にかけた確保だったが、それでも、殺人と誘拐の実行犯に逃げられたというのは、手痛い仕打ちだ。もし捕える事ができていれば、一連の異国人の情報を聞き出せる可能性もあっただけに、悔しさを一入(ひとしお)だ。

 一方、ビアンと違い、ライゼルに取り逃がした悔しさは微塵もない。悔しさではなく、ライゼルの心を支配しているのは虚無感だった。呆然自失となったライゼルの耳に、リカートが口にした言葉がこびり付いて離れない。

「・・・アイツ、仲間って言ってた」

 徒労感に襲われ沈黙するライゼルと、真相を知ってライゼルの心中を察するベニュー。だが、事件の概要が知れた今、早急に治安維持部隊に連絡を入れねばならない。一行に呆けている暇はなかった。

「ライゼル、ベニュー、屋敷に戻るぞ。犯人の面も割れた、アードゥルに通報だ」

 

 しばらくして、オノスは空を駆けるリカートの腕の中で目を覚ました。宙空を高速で移動する際の顔に受ける風は、これで二度目の経験となったオノス。違うのは、気付いた時には体から痛みがなくなっていた事。リカートがラホワから譲ってもらった『アムリタ』によって、先程のライゼルによって付けられた傷も完治していた。

 どういう理屈かはオノスには分からないが、リカートがしてくれた事なのだろうと察する。この年まで生きていれば不思議な事はいくらだってある。それに、そんな事が些細な事と思える程に、オノスの心はリカートへの感謝の念で満たされている。

「また迷惑をかけてしまったね」

 謝辞を受け、仮面の男はくすぐったそうに笑みを溢し、赤い髪を揺らすようにかぶりを振る。

「気にせずとも良い。オノスには私の仲間として協力してもらいたい事があるのだ。存分に働いてもらうぞ?」

「あぁ、この年寄りに出来る事なら何なりと、だ」

 先日知り合ったばかりではあるが、もう既に絆のようなものを結びつつあるベスティアから見捨てられた牙使いと、その者に手を差し伸べた【翼】を持つ[[rb:有資格者 > ギフテッド]]の異国民。

 こうして、絆を確かめ合った二人は、他の仲間であるガトとペルロの待つ場所へ急ぐのだった。

 

 こうして、今回のムーラン伯殺害事件の概要は、下手人リカート発覚を以って明らかになった。

 ただ、ドミトルは事件唯一の犠牲者ではあったが、素直に同情できる人柄ではなかった事も知られた。加えて、ドミトルがオノスに拷問を行っていた事がベニューによって証言され、新たな代表選抜の前に、この代表制度に対する疑問符を浮かび上がらせる事態にも発展したのだった。

 その他にも、石像と化したドミトルと主人を失くした屋敷は、国によって接収される事となり、自動的にアスターも解雇という処分が下った。ドミトル死亡の報を受けたアスターは、しばらく事態が受け入れられず呆けていたが、段々解放された事が実感できたのか、突然大声を上げて泣き始めた。これまで余程の我慢を強いられていたのだろう、ドミトルの死によって解き放たれ、ようやく本来の感情を取り戻せたようだった。

 大方の事は一段落し目処が立ったが、これからもしばらくはこの村も忙しなさが続きそうだ。

 それは下手人確保に尽力したライゼルも同じく。リカートが為した行いは、ライゼルにも大きな影響を及ぼしており、もう一波乱を呼んでいた。

 アードゥルと今後の事を相談するビアンを待つ間、ライゼルとベニューは屋敷の応接間で待たされていた訳だが、ライゼルは気持ちが抑えられないのか、忙しなく部屋の中を歩き回りながらベニューに質問を浴びせている。

「ベニュー、じいちゃんはどうしてリカートを庇ったの?」

「オノスさん、ここでドミトルさんにひどい目に合わされてたんだって」

 ドミトルやアスターが受けていた仕打ちをベニューから聞いて、確かにライゼルもアスターの不自然な挙動に納得がいった。だが、オノスの行動に関しては理解できなかった。

 これまで出会った【翼】を持つ者はどれも、他者を嬲り、害を為す存在だった。だから、ライゼルは【翼】を持つ異国民を、討つべき外敵と認識していた。しかし、オノスはそうは思っていなかった。そして、リカート側もオノスを仲間だと呼んだ。お互いに友好的な態度を示していたのだ。

「ドミトルが悪い奴だってのも、オノスやアスターが可哀想だったって事も分かる。じゃあ、リカートはいい奴だったの?」

 ドミトルを始末した事は、当然だが法に問われる事になる。誘拐も右に同じく。だが、結果的にアスターは虐待から解放され、一方オノスはリカートに感謝していたという。悪事も働いたが、同時に善行も積んだ。ライゼルには、この辺りの矛盾がどうしても消化しきれない。

 ライゼルの問いに、今自分が明確な答えを与えるより、本人の心のままの言葉を聞いてみたいとベニューは思った。おそらく、自分が諭せば一時的には弟の留飲を上げる事が出来るかもしれない。だが、それはその場しのぎに過ぎず、また同じような事に遭遇すれば、またライゼルは自身の良心を疑わなければならなくなってしまう。

「ライゼルはどう思う?」

 ベニューがそう問うと、ライゼルは脚を止めて逡巡する仕草を見せる。

「わかんない。でも、人を殺すのは悪い事だと思う」

 ベニューは、ライゼルがどうしたいのか、なんとなく察する事ができる。この問答で確かめたいのだ、自分の行いが正しかったのか、それとも間違っていたのか。

 ベニューは、ライゼルが決して間違っていたとは思わない。ただ、結果的にオノスがライゼルの助力を必要としなかっただけ。オノスにとっては、ライゼルの行いは歓迎されず、リカートを是とした。その事を本人の口から聞いていたベニューは、オノスの心情をライゼルに教えてあげる事ができる。

「命を奪う事は、いけないことだよ。でも、もし母さんが同じようにひどい目に遭ってたらライゼルはどう思う?」

「絶対に許せない」

 亡き母を想い、俯くライゼルの表情が険しくなる。が、次の瞬間には寄せた眉根を解き、椅子に掛けるベニューの元へ駆け寄り、上目遣いに改めて問い直す。

「ねぇ、それってリカートにとってオノスは大切な人だったってこと?」

 ベニューが引き合いに母を出した事が、ライゼルにとっては思いの外驚愕だった。ベニューにとって家族はかけがえのない特別な存在だ。それを例え話に出すという事は、そういう認識だったからなのか。

「リカートって人がどう思っていたのか分からないけど、あの人はずっとオノスさんの身を案じているように見えたよ」

 ベニューの言う通りかもしれない。思えば、リカートはドミトルにこそ裁きを下したが、それ以外は悪事を働いていない。結果的にオノスを連れ去った形となったが、もしかしたらオノスは自分の意志でリカートに同行していたのかもしれない。

「じゃあ、俺、どうすればよかったのかな?」

 痛い所を突く質問だ。ベニュー本人がライゼルに非がないと説いたところで、ただそれだけではライゼルはきっと納得しない。目にした物事や実感を伴う出来事であれば理解の早いライゼルだが、今回彼は初めての経験をした。良かれと思った事が、良い結果を生まなかったという体験。

 少し想像力が足りなかったと窘める、あるいは運がなかったと励ませば、傷付きもするだろうが、立ち直りも早いだろう。

 だが、かといって、困っている人の為に力になろうとしたライゼルを責めたくない。母を亡くした直後のライゼルを知っているベニューには、彼の行いを否定したくないのだ。今でこそ何事にも前向きに取り組むライゼルだが、一時期ひどく落ち込み、塞ぎ込んでいた時期があった。母を目の前で亡くし、迫る脅威に対し何も出来なかった事への後悔に苛まれた、思い出したくない後ろ暗い過去。

 ライゼルは自身の行いの是非が見出せず、ベニューは姉としての規範を見失っている。応接間にしばし沈黙が流れる。

「何をつまらん事で頭を抱えているんだ?」

 声がする方へ姉弟は視線を向ける。そこにいたのは、一仕事終えて一息つこうとしていたビアンだった。

「ビアンさん、ライゼルは真剣に考えて・・・」

 ベニューの言葉を遮り、彼女の正面の椅子に腰掛けながら、ビアンは言葉を紡ぐ。

「あのリカートとかいう異国民が罪を犯した事に変わりはない。そして、俺はヤツの身柄を確保する責務を負っていた」

 こういう平素のビアンは有事の際と違って、どうしようもないくらいに頭が固い。自分の正義に一切の疑いの目を向けない。彼の正義はどのような事態でも揺らがない。

「それはそうですが」

 だが、そういうビアンだからこそ、掛けてあげられる言葉がある。ビアンは、姉弟と違って人生経験が豊富で、自らの核とする信ずるものを、行動規範を持っている。

「職務を全うするには、ライゼルの助力が必要だった。そして、ライゼルは俺の仕事を手伝ってくれた。これからも協力頼むぞ」

 背中越しにそう言われるライゼルだったが、未だ釈然としない表情のままだ。

「いいの?」

 ビアンがそうは言っても、ライゼルはすぐには割り切れない。ライゼルにビアンのような明確な判断基準はないのだ。思わずビアンへ振り向き、聞き返してしまうライゼル。

 不意に疑問符を向けられ、ビアンも問い返す。言葉足らずなのはいつもの事だが、その問いの真意が伝わらない。

「どういう意味だ?」

「俺、間違ってたかもしれない。オノスは迷惑がってたかもしれない」

 そこまで聞いた上で、ビアンは怪訝な表情をライゼルに向ける。先の言葉通り、ビアンにはライゼルが何故そこまで拘っているのか、腑に落ちないのだ。

「それがどうした?」

 ややつっけんどんにビアンが返すものだから、ライゼルも感情的にならざるを得ない。立ち上がり、自分の悩みを訴える。

「もしそうだったら、俺はやっちゃいけない事をしたんじゃないかって…」

「—――ライゼル。勘違いするなよ」

 ぴしゃりとライゼルを断じるビアン。ライゼルは思わず、ビアンに目を奪われる。

「えっ?」

「俺達役人は、事情を考慮する事はあっても、当事者の感情は斟酌しない。そもそも、何の為に取り締まっていると思っている? この国に住む皆が安心して暮らせるように、だ。お前も掲げる、みんなを守る為というお題目が国家にはあるからだ。その為に法律が施行され、そのお陰で俺達は法の下で保障された生活を送っている。だが、あいつらは法を破った。だから、身柄を確保し、更生させる必要があった。オノスが好むと好まざるに関わらず、聴取の必要はあるんだよ」

 この言葉に偽りはない。こうやって規則が守られてきたからこそ、安寧の時代を生きる事ができるのだ。故に、ビアンは法を信じて職務を全うするのだ。臣民の安全を保障してくれる法の順守こそが、ビアンの行動規範。

「・・・ビアン」

「世の中にはいろんな考え方の人間がいて、これからの人生でお前達はそれらに触れていく事だってあるだろう。だがな、それ全部を理解できる訳でもなければ、理解する必要もないんだ。今回みたいに、結果的に何にも出来ない事の方が圧倒的に多い」

「・・・ビアンさん」

 ビアンの言葉は、ベニューの胸も打っていた。余りにも正論過ぎて、子供を慮らない大人の理屈過ぎて、ベニューは自身も咎められている気分になる。先の推理合戦で、無理にアスターを庇おうとしたことが思い出される。これまで努めて大人ぶってきたベニューは、遠回しに否定された錯覚に陥る。

 そんなベニューを余所に、ビアンの叱責は続く。

「大体な、お前は今回の件を勝手に落ち込んでいるみたいだが、思い上がるのもいい加減にしろ!」

「思い上がってなんか・・・」

 咄嗟に反駁するが、ビアンはそれを許さない。

「思い上がっているんだよ。他人の為に力を貸すというお題目は、立派だと思うし、宣言に違わずお前は実際よくやっている。だからってな、自分が何でもやれると思うなよ」

「なんだよ、その言い方!」

「思ってんだろ、二倍のムスヒアニマの牙使い」

 これは流石にビアンも言いすぎた節がある。ただ、ビアンも牙使いに対して劣等感がない訳ではない。つい口を滑らせて、ライゼル自身が鼻に掛けた訳でもない彼の素養を非難してしまう。

 そして、ビアンがそんな態度を取るものだから、ライゼルもそれ相応の侮辱をビアンに投げかける。

「いい加減にしろ、俺がいなきゃ石になってたかもしんない癖に」

 期せずして、自身の能力をひけらかす形となってしまったが、冷静さを失ったライゼルが自身を制御できる訳がない。とにもかくにも、ビアンに文句の一つでも言わなければ気が済まなかったのだ。

「ほら見ろ、これで自信家だって自覚がなきゃ大問題だな」

「虚仮にしやがって、ビアンの癖に」

 これ以上ない程に煽られたライゼルは、頭に血が上り、ついビアンの頬を殴りつけてしまう。

 拳の勢いに負け、椅子ごと背中から転倒するビアン。だが、床に倒れた体勢のままでも、ライゼルを詰るのを止めない。

「手を出すって事は、言い返せないからだ。言い返せないのは図星だからだろ。お前は他人をどうこうする以前に自分を律する事も出来ないクソガキなんだよ。自分の未熟さを思い知れ」

「ふん!」

 ビアンの指摘は言葉通りに図星だったらしく、反駁できないライゼルは屋敷の外に飛び出してしまう。開かれたままの扉の向こうには、部屋を飛び出し走り去るライゼルの姿に驚いたアードゥル隊員の話し声が聞こえる。

「待って、ライゼル」

「放っておけ」

「あの言い方では、ライゼルは」

 自身もひどく傷付いただろうが、そんな様子はおくびにも出さないベニュー。ベニューはまだ自分に言い訊かす事ができる。

 しかし、ライゼルはそうではない。ベニューが諭してあげねば、立ち直る事も出来ない。フィオーレの者しか知らぬ過去がライゼルにはある。

 『フロルの悲劇』により激変した姉弟の生活、そして、家計を担う為に奮闘したベニューと、自らの無力さに打ちひしがれ塞ぎ込んでいったライゼル。ベニューが必死に染物を覚えていく事に比例して、何の才能もなくベニューの力になれないライゼルは無力感の沼に堕ちていく。この頃から、ライゼルは母や姉に後ろめたい想いを抱き始め、劣等感を覚えるようになったのだ。

 それを知らぬビアンは、やや見当違いな慰めの言葉を掛ける。

「ひどく傷付いただろう。だが、それが必要な時もある。ライゼルは、ついこないだ村を出たばかりだ。これまでの人生がどうだったにせよ、自分に出来ないだってあるという事を思い知るべきなんだ。挫折を覚えるのは早い方がいい、その分、立ち直りも早い」

 ビアンは、何もライゼルを傷つけたくて、感情に任せ罵った訳ではない。リカートを取り逃がした時の様子から、何を考えているのかは大体予想がついている。妙な思いに囚われぬよう、発破を掛けたのだ。

 ただ、その言葉は、自分は何者にもなれないと絶望した経験を持つライゼルには、あまりにも堪え過ぎた。

「・・・そう、ですね」

 それを聞いたベニューは、腹を括り覚悟を決める。若干事情とは異なるとはいえ、ビアンの助言を受け止める。挫折した事ない訳ではないライゼルだが、それを乗り越えられるかは、ビアンの言う通り本人次第。こうなっては、ベニューは慮るより、支えてあげようと思う。

「荷物を積み次第、出発する。しばらくしたら連れて来てくれ」

「はい」

 首肯で応えたベニューは、屋敷の外にいるであろうライゼルを探しに赴く。

 ビアンは事態をそれ程深刻に受け止めていないが、ライゼルに初めて悩むという心理が生まれた事の意味を分かっていない。これまで一心不乱に前だけを見て邁進していた時とは違う。足を止めてしまったが為に、急に視野が広くなり、これまで思いもしなかった生き方を知り得てしまった。

 知らずにいれば良かった訳でもないが、経験の仕方が良くなかった。今まで、良かれと思って、人の為にと思って、いろんな事に首を突っ込んできたが、それが間違いではなかったのかと思うようになってしまった。

 他者の物の考え方を慮らず、自分勝手な考えを押し付けてしまっていた事に、ようやく気が回ってしまった。心根の優しいライゼルは、自分が知らず知らずの内に誰かを傷付けていたと知れば、深く反省し、落ち込むのは明らかだった。

 ライゼルの信念とも言える、誰かの為の行動が、ついに揺らいでしまった。そうなれば、今後ライゼルは何を指針にして行動すればいいのか?

 自分の行いの是非を見出せないまま、ライゼルは次の経由地グロッタへ向けて発つ事となった。

 

 

 

to be continued・・・


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