ライゼルの牙   作:吉原 昇世

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第4話

 日が沈む頃には王国の米所オライザへ辿り着けそうだと目算が付いた事は、ビアンにとってありがたい事だった。

 連日のお役所仕事による疲労と先の戦闘における怪我で、ビアンは疲労困憊だった。複数人の少女を連れた【翼】持ちの女の襲撃から辛くも逃れ、ソトネ林道を脱し、川に架けられた橋を渡り、ようやくオライザへ。オライザはビアンの勤務地であるのだが、半年に一度の職務を終えここに帰還するまでに、様々な事件があった。

 まずは、フィオーレでの異国人襲撃事件。ここが今回の一連の事件の発端になった。フィオーレ村の女性カトレアが【翼】なる能力を行使する異国人テペキオンに襲われた。次がボーネ村での暴力事件。フィオーレの姉弟に同行を願った訳だが、その道中ベニューが独りになった所へテペキオンの同胞ルクが現れた。そして、つい先程のソトネ林道での一件。異国人の女は、ベスティア王国の少女達を私兵とし、一行に襲撃を掛けてきた。

 こう簡単に振り返っただけでも、目まぐるしい事態に巻き込まれたと思う。だが、それを乗り越え、徐々に落ち着きを取り戻した今、ライゼルに振り回されたり、ベニューに痛い所突かれたりなビアンでなく、普段通りの職務に忠実なビアンに戻っていた。

「先に言っておくが、この村ではゾアと言う代表者が村を仕切っている」

 辺り一面を水田に囲まれた畦道を駆動車で飛ばしながら、後部座席の姉弟に言って聞かせる。通い慣れた道だからなのか、雑木林の時と比べビアンの運転は随分慣れた印象を受ける。これが本来のビアンなのであろう。

 とは言え、僅かながら緊張感も見え隠れする。若干言いづらそうにしているのは、姉弟の気のせいではないはずだ。接敵した時のような緊迫感でなく、何か大事に臨む際の緊張感を孕んでいる。表情こそ見えないが、声音からそう察する事ができる。勤務地への帰路とはそういうものなのだろうかと姉弟は推測したが、そうではなかった。

「複雑な事情があるんだが、どう話したらいいものか」

「なんだよ、何かあるんだったらちゃんと教えてよ」

 歯切れの悪いビアンの態度に、ライゼルも焦れてくる。ライゼルのように急かさないが、釈然としないのはベニューも同様だ。オライザ村へ来たのは初めての事ではあるが、オライザの代表が厄介者だという話はこれまで聞いた事がない。何を憂慮しているのか、二人はまだ知れない。

「代表者の方に関する事、なんですよね?」

「大雑把に言えば、そういう事になる。お前達も過去の大戦を知らない訳じゃないだろう」

「大戦ってアネクス戦争のこと?」

 宗教戦争とも言われるアネクス戦争がまずライゼルの脳裏を過ったが、それは適当でない。アネクスとは、元々独立した小国であり、近代に入ってベスティア王国に併合された地域の事であるのだが、アネクス戦争の場合、大戦と呼べる程の規模ではなかった。規模だけで言えば、暴動と呼ぶのが適当だろう。現に世間はそう認識している。

「じゃなくて、その後に起きた内乱の事ですよね。ほら、母さんに教えてもらったでしょ?」

 そう言われてようやく思い出す、およそ40年前に国内最大の内乱が起こった事を。

「あー、あれだ。軍師ハボック、闘将オノス、大巨人ゾア!」

 過去の大戦で活躍した偉人の名前を、嬉々として列挙するライゼル。ライゼルは昔話で聞かされていた牙使いの話が大好きだった。大戦自体は、母フロルが生まれる以前の出来事であるが、フロルは度々この話を幼少期の姉弟に聞かせていた。ライゼルが強さに憧れるのは、もしかしたらここに起因するかもしれない。

「詳しいな。その大巨人がオライザの元締めだ。ゾア殿がこの田園地帯一帯を治めている」

 そう言われて、見渡す限りの田園風景を眺める。少し先に見える集落以外は、地平の彼方までと思えるほどに広大な水田のみ。青々と茂る稲は、風を受けて波を打つ。これだけの土地を、更にはその土地で従事する大勢の人間を収める人物となると、それはそれは大した人物に違いない。大巨人ゾア、昔話でしかその存在を知らぬライゼルではあったが、俄かに興奮を覚える。

「と言う事は、いるんだ、オライザの村に大巨人が! すげー!」

 ライゼルの体温が上昇するのも無理からぬ事。大巨人ゾアと言えば、このベスティア王国にその名を知らぬ者はいないと言われる有名人だ。数に押され反乱軍が撤退を余儀なくされたアクロ攻防戦で、王国軍『牙の旗』の追撃を単身で食い止めたという伝説があり、『街道上の大巨人』という名で国軍から恐れられた。その他にも、【牙】の一撃で堅牢なクティノス城塞を崩壊させたとか、国軍の中継基地を瓦解させた地震はゾアの闊歩によるものだとか、ゾアは大きな耳を以って広く情報収集が可能であるとか、真偽不明を含めこのように武勲の逸話に事欠かない人物であり、彼を支持している集団からは英雄視されている程である。その武勇伝の持ち主に会えるかもしれないと考えると、ライゼルは逸る気持ちを抑えられないのだった。

「ビアン、もっと速度を上げてよ。早く大巨人に会いたい!」

 後部座席から外へ身を出し、先を急ぐ事をビアンにやや強引に請う。ビアンとしては、この状況が予想できたからこそ、悩ましいのである。ビアンの歯切れが悪くなる理由はここにある。ベニューは、代表者があのゾアと分かり、ビアンが言い淀む理由を察した。

「よしなさい、ライゼル。ビアンさんが困ってるよ」

「なんで?」

「……」

 ライゼルもわざと困らせようとしているのではないという事が分かるだけに、ビアン本人の口からは言い出しにくい。ならば、とベニューが弟に事態の解説を始める。

「大巨人ゾアはすごく強くて、その活躍は仲間を鼓舞した。それで、その戦った相手は誰だった?」

「戦った相手? 先々代の王様だろ」

 そう口にしながらもライゼルは察しない。ただ、その認識は間違っていない。当時の国王が直接戦場に出向いたかどうかは別にして、対立関係にあった事は理解している。故に、ベニューはもう少し解説を続ける。

「そう。それで、ビアンさんのお仕事は何?」

「物資の配給」

「じゃなくて、職業の話」

「役人だろ? 王国に仕官してる…あっ、まだ仲直りしてないの?」

 我が弟ながら、と溜息を漏らさずにいられないベニュー。同じ話を母から聞かされていたというのに、これ程までに理解に違いが出るものなのだろうかとベニューは嘆く。それを見て、ビアンが苦笑しながら先を引き継いだ。

「そうじゃない、和平は結ばれたし、王国と元反乱軍の関係は悪い訳じゃない」

「じゃあ、問題ないじゃん」

 関係の機微に疎いライゼルは、そう言えてしまう。だが、全ての人間がそう割り切れる訳ではない。その点についてビアンは補足する。

「だがな、和平を結んだと言っても、それはこれから先の関係を改善させる為のものであって、それ以前の犠牲を取り返せる訳じゃない。例えば、テペキオン達がお前と仲直りしようと言って…」

 途中まで言いかけて、突然口を噤むビアン。ここまで説明しながら、もしかしたらライゼルにとっては、そういうしがらみがそもそも念頭にないのかもしれない、とビアンは考えが及ぶ。それを察して、ベニューも目を伏せ、首肯で応じる。

「多分、ライゼルなら仲直りできると思います」

「…そうか」

「何の話?」

 分からない者に言い聞かせても仕方あるまい。その話は一旦そこで打ち切る。そうこうしている内に、ビアンの運転する駆動車は、オライザ村の入り口に到着する。

 王国の米所オライザ。三大穀物の一つである稲の国内供給率の九割を超える、まさにベスティアの米蔵。実質、国民が食する米のほとんどを賄える程の生産数量を誇っている大田園都市。村の軒並みもそうだが、これまで通ってきた水田の区画整理を見れば、ここの統治者がどれだけ有能なのかは一目瞭然だ。枡目状の水田を水路が縁取るかのように整地されているし、大雨対策としての調整池を作られている等、水の引き方にも工夫がなされている。ただ広い土地を有しているだけでなく、生産性の向上を図っている事が見て取れる。

 そのような優れた統治能力を持つ指導者が納める村の入り口には、出入りを取り締まる丸太小屋がある。ビアンがその脇に駆動車を停めると、ライゼルは駐在所の窓に明かりが点いているのに気が付く。

「誰かいるよ?」

 そう言ってライゼルが指さす丸太小屋から、数人の男性が飛び出して来る。急ぎ駆け寄る姿は、まるでビアンの帰りを待ち侘びていたようだった。

「ビアン、無事だったか!?」

 その中の一人がビアンの安否を確認する。見れば、ビアンと同じ身分証(ナンバリングリング)で、つい先程までビアンが着用していた制服を着ている。彼らはビアンの同僚で、ビアンと職場を同じくする役人だった。彼らが出てきた丸太小屋は、オライザに置かれた駐在所である。

「あぁ、すまない。世話を掛けた」

 姉弟に見せる態度とは少し雰囲気の違う、どこか一歩退いた冷静な印象を与えるビアンの口調。これが友人以外に見せる顔なのかもしれない。

「心配したぞ。ボーネの方角から烽火は上がるし、フィオーレへ発ったビアンが帰って来ないしで。何かあったのか?」

「あぁ、厄介な事が起きた。現地に駆けつけたアードゥルにも伝えたが、詳しい事は頭領殿の前で説明する。それで頼みがあるんだが、この子達を預かっていてくれないか?」

 同僚達は姉弟を一瞥し、皆一様に訝しむ。六花染めに身を包んだ少年と少女。フィオーレ出身者の出で立ちをした子供達で、身分証(ナンバリングリング)もフィオーレの平民を表している。そんな二人がビアンに連れられて来たものだから、同僚は目を丸くさせている。

「この子達は?」

 お世辞にも面倒見のいいとは思えないビアンが、子供を二人も同伴させている事がそれ程までに物珍しいようだ。口にこそしないものの態度がそう物語っているのを、ビアンは肌で感じ、釈明する。

「事件の被害者達で、私が保護した。証言の為に同行してもらっている。それより、頭領殿の所へ急ごう」

 ライゼル達の素性を知ったところで、同僚達の姉弟への関心はなくなった。仕事であれば、同伴させている理由としては納得がいく。むしろ、職務に忠実なビアンらしいとさえ言える。

「そうだな。ではリュカ、この子達の面倒を見ててくれ」

「はい」

 そう指示された、役人達の中でも年少の青年リュカ。他の役人と比べ、とりわけ若く見えるのは、顔つきの所為ばかりでないのかもしれない。ライゼルと変わらぬくらいの身の丈は、他の同僚と比べて頭一つ低い。それに、優し気な面持ちと言えば聞こえは良いが、どことなく気弱そうな、頼りなさげな印象を受ける。ただ一ヵ所、常人より少し大きい耳が目を引く以外は、ライゼルの関心を湧き起こさせない。

「ビアン」

 俺も、と言い掛けるが、それを察しているビアンにきっぱり制される。

「ライゼル、ベニューと待ってろ。すぐに戻る。」

 ビアンは役人二名を連れて、集落の最奥に構える屋敷の方へ足早に向かっていく。遠くからでも分かる立派な石垣に囲われた屋敷。そこが大巨人ゾアの住まう住居であった。日も暮れており辺りは薄暗いが、屋敷の中は灯りで随分明るいようだ。焚かれている灯りが屋敷の場所を明確に示している。

「ライゼル、駐在所で待ってよう? お願いします」

「…うん、お願いします」

 大巨人ゾアに会えると期待していた分、少し残念がるライゼル。ここで我を通せば、迷惑をかけてしまうのはライゼルも弁えている。子守を任された青年に、大人しく案内を願う。

「わかりました、どうぞこちらへ」

 招かれるままに、ライゼルとベニューは、リュカと呼ばれた青年の後についていく。

 案内されたのは、先の同僚達が入っていた丸太小屋。彼らの駐在所であり、仕事場である。職務は多岐に渡るが、ここ最近の主だった仕事として配給物資の管理がある。まずここへ各地から集められた配給物資が届けられ、そこから各集落に振り分けられる。数日前の配給の日を過ぎてしまえば、ここの倉庫はほとんど空になる。残っているのは、受け渡しができなかった配給物資だ。多くはないが、全くない訳でもない。

 小屋の裏手には数台の駆動車が駐車してあり、またいくつかの空き地もある。おそらく、空いている部分に、ボーネへ調査に出た役人の駆動車が普段は止められているのだろう。一行とすれ違わなかったという事は、ソトネ林道を迂回してボーネに向かったからだろうか。

 駐在所で待機を命じられたライゼルは、直接の接触は諦めたが、だからと言って、ゾアへの関心は未だにある。世話役として残った青年リュカに声を掛ける。

「ねぇ、リュカ」

「ライゼル、失礼でしょ」

 年長者を呼び捨てる弟の無礼をベニューが窘めるが、リュカはそれ程気にしていない様子だった。見た目通りの優男といった感じ。年少者が礼を欠いても、特別それを咎めたりはしない。

「構わないよ。それで、どうかした?」

「リュカは大巨人ゾアに会った事ある?」

 その質問を受けて、少しはにかんだような困った顔を見せて、答えるリュカ。大巨人という言葉に、大きな耳がピクッと動いた気がした。

「…あぁ、あるよ」

「どんな人? やっぱり強いの?」

 ライゼルの強さへの執着のせいか、関心はそちらへ向く。ライゼルは、これまでにフィオーレの地で『強い』と言われる人物達を見てきた。だが、その人物達はもれなく既に故人だ。今なお衰えぬ、誤解を恐れずに言えば、今尚失われない強さに興味がある。

ただ、ライゼルの質問は、直接的過ぎる分、抽象的だ。問われたリュカも、質問の内容を吟味しながら、言葉を探す。

「強い、か。そうだね、力自慢ではあるね。もう齢六十も越えたというのに、現役を退く様子が見られません」

 リュカは、過去の大戦での逸話などには触れず、ゾアの現役続投について言及する。ただ、過去の英雄に憧れるライゼルにとっては、それもゾアに対する充分な賛辞と受け止められ、より強い興味が掻き立てられる。

「そっかぁ、大巨人はやっぱりすごいんだ!」

 高揚しているライゼルは、リュカが出してくれたお茶も一気に飲み干し、ビアンが戻ってくる前に疲れて寝てしまわないかと言う勢いである。

 反面、姉のベニューは落ち着いている。ベニューは、ライゼルと違い、外の人間と接する機会が多くある。目上の者に対する接し方や、立ち振る舞いはしっかりと弁えている。

「それにしてもこの駐在所、珍しい作りですよね?」

 村一番の屋敷の主に関心が向いて落ち着かないライゼルを余所に、案内された駐在所の建物そのものに関心があるベニュー。

 駐在所の言葉から想像していた簡素な作りではなく、しっかりした作りで居住性も高そうだ。内部からぐるっと見渡しただけだが、この丸太小屋は、材木として加工せずに、木を組んだだけで作られているのが分かる。それに加え、幾つもの部屋や屋根裏、採光の為の出窓と、余所の家屋とは、その建築方法が一線を画している。

「えっ? …そうか、君達は初めてオライザへ来たんだね。じゃあ、不思議に思うのは無理もないか」

「どういう事ですか?」

 どうやらオライザの人間にとっては、この建築技法は珍しくもないようだ。ただ、どこか得意げな様子すら見受けられるのは、ベニューの思い違いだろうか。

有史以来、人間は様々な方法で家屋の居住性を高めてきたが、誰もがその技術を有している訳ではなく、多くの家屋が簡素な作りの家となっているのが実情だ。金属の鋳造技術を持たないベスティア国民において、特に木材の加工は【牙】を用いないと困難である。その為、材料の加工を生業としている【牙】使いが各地に存在している。

「ここオライザは、何も米所というだけで有名になったんじゃないんだ」

「大巨人ゾアがいる!」

 建築関係に興味はないが、ゾアには興味のあるライゼルは横から口を挿む。ただ、当てずっぽうで口走ったゾアの名だが、存外見当違いという事でもなかった。

「そうだね。とう…頭領がいるというのも、ある意味は一因だね」

「ゾア頭領、ですか?」

 思わず山彦のようにリュカの言葉を反復するベニュー。本人の話題のみならず、建築関係の話題においてもその名が出てくるゾアに、既に首ったけのライゼルでなくとも、自然と興味が湧いてくる。

「頭領はオライザの元締めでもあるけど、本業は大工なんだ」

「それってゾア頭領は、ゾア棟梁でもあるってことですか?」

 まるで言葉遊びでもしているような気分になる。しかし、注目すべきはそれでなく、あのゾアが大工の棟梁になっているという点だ。大戦の英雄が手に職を付けているというのは、なんだか意外だった。集落の統治者というなら似合いの役職と思うが、汗水垂らして労働に励むというのは、英雄という言葉からは想像しづらいところがある。ベニューがそう感じたのも無理はない。戦災により多くの民が家を失った事に心を痛めたゾアが、誰もが安心して生活できるようにと大工になった事は、意外と知られていないのだ。

「うん、そういうこと。このオライザ中の家屋を建てたし、十年前の道路工事もウチの職人が主となって施工しているよ」

「建築事業だけでなく、土木事業も?」

「あぁ、君達がオライザに入る前に渡ってきた橋も、オライザ組が架けたものだよ」

 オライザ組の実績を語るリュカはどこか誇らしげだった。管轄している地元民の活躍とは、喜ばしいものなのかもしれない。ただ、リュカの同僚であるビアンは、特別そのような事は言い含めていなかった気がする。オライザに入る直前に言い含めたのは、ここの代表が大巨人ゾアという事だけ。とはいえ、ビアンが仕事人間である事を考えれば、彼は必要事項だけを伝えたのであり、その為に先の件には触れていなかったとしても納得できる。

「すげー! やっぱり大巨人すげー…つかれたかも」

 高まり続ける熱とは裏腹に、突然微睡の中へ片足を突っ込みかけているライゼル。疲労しているのは何もビアンだけではない。ライゼルやベニューも林の中を走り回ったり、【翼】持ちの女と一戦交えたりと、随分と体力を消耗した一日だった。ベニューも失礼の無いよう気を付けてはいるが、疲労の色が見えている。

「フィオーレからだと、だいぶ疲れたでしょう。湯浴みしてきてはどうでしょう」

「オライザには大衆浴場があるんですか?」

 フィオーレにも沐浴の習慣はあるが、大掛かりな浴場施設はない。村の近くを流れる川の水か、釜で沸かして桶に溜めた湯で身体を清める程度。湯船に浸かるという経験を、姉弟はほとんどした事がない。

「ご厚意に甘えて、お風呂をいただきます。ライゼルはどうする?」

「いい。朝になったら貯水池に行くよ」

 穢れを恐れるこのご時世で、風呂嫌いなライゼルは少数派と言える。無類の風呂好きであるフロルから、躾の一環でよく背中を流されたものだったが、未だに苦手意識は払拭できておらず、特別な事がなければライゼルは水の中には浸かろうとしない。本人曰く、濡れるのが好きでないのだとか。

「疲れを取るには入浴はお勧めだよ?」

 リュカがそう説得するものの、ライゼルはなかなか首を縦には振らない。

「何度か風呂に行ったけど、母ちゃんに肩まで浸からなきゃってよく頭まで沈められて、いい思い出がない」

「ライゼルったらまた。余所様の前で変なこと言わないの」

 ベニューの叱責も素知らぬ顔で、風呂への抵抗感を示し続けるライゼル。

「ふん、俺はいいから、さっさとベニューだけで行って来いよ」

「はいはい、じゃあ行ってきます」

 そう言って、ベニューは小屋を後にし、湯屋へ向かった。そして、二人きりになったライゼルとリュカ。リュカは、姉弟の寝床を用意する為に宿直室へ向かい、ライゼルもその後をついていく。

「ところで、リュカは帰らなくていいの?」

 床を敷く様子を脇で眺めているライゼルからのその問いに、リュカは苦笑いを浮かべる。

「あぁ。多分、今日はビアンさんが戻れないだろうからね。代わりに君達を見ていないと」

「ふーん、いいなぁビアンだけ」

 ライゼルが思い違いしているが、声を出して笑うのはライゼルにも、ひいては朝帰りになるであろうビアンに悪いと思い、リュカは笑いを堪える。

「そんなに会いたいかい?」

「うん。すごい気になる。大巨人だし」

「会ってどうするの?」

「いろんな事を聞きたい。どんな【牙】を持ってるかとか、お城の壁壊したのが本当かどうかとか、いっぱいある」

 生まれてこの方オライザで生活し、ゾアに近しいリュカにとって、ゾアに対してそういう興味の持ち方をするライゼルは珍しく、却って新鮮だ。ゾアに纏わる話を知らぬ者は、このオライザにはほとんどいない。例えば、武勲や職業、家族構成という事柄は、皆が周知の事である。

「そっか。もし会う機会があれば聞いてみるといいよ」

 一般人が直接ゾアに会いに行ける可能性はほとんどない。大概が門前払いである為に、リュカの先の発言は社交辞令だ。ライゼルがゾアにお目通りが適うとは思っていない。

 それを知ってか知らずか、布団を敷く為の空間を確保する為に片づけをしているリュカに、ライゼルは更に続ける。

「うん、そうする。ねぇ、リュカ」

「ん?」

「リュカの事も教えて」

「え? 僕?」

 突然そんな事を言われ、一瞬リュカの作業の手が止まる。リュカが手を止めたのを了承の合図と勘違いしたのか、質問を浴びせるライゼル。

「うん。例えば、リュカは【牙】持ってる? 俺は持ってる―――」

「—――出さなくてもいいからね。突然だなぁ。えぇと、持ってるけど、全然使った事がないんだ」

 話の流れで【牙】を現界させてしまいそうな勢いが、今のライゼルの語りにはある。返事の前に制止を入れねば、今ライゼルの右手にはムスヒアニマが収束させられていたかもしれない。

 とはいえ、ライゼルは【牙】を出す事なく、リュカの答えに反応する。リュカは【牙】を有するが、行使した経験がないと話すのだ。その事にライゼルは疑問を持った。

「なんで?」

「僕の【牙】は時代に合わない、壊すだけの【牙】だからね。誰からも必要とされないんだよ」

 リュカの持って回った言い方を借用すれば、現代において必要とされているのは、物作りに生かされる【牙】という事になる。確かに、あらゆる現場で【牙】運用のおかげで生産効率が向上している事が確認されている。ただ、リュカの【牙】はそれに適していないのだと本人は語る。

「壊す【牙】! 何それ、強いの? 俺、見てみたい!」 

「勘弁してよ。むやみに【牙】を使えば、『穢れ』ちゃうだろう? 【牙】で仕事をしている人だって十分な保障があるから使っているんだ。意味もなく【牙】に頼る事はウォメイナの教えに反してしまうから。ましてや、争い事に用いるなんて以ての外だよ」

 リュカが語る事は、世間に広く流布している一般常識だ。争う事は禁忌として認知されている。だが、ライゼルはその事があまりしっくり来ていない。

「戦う事ってそんなにいけないこと?」

「もちろんいけない事だよ。歴史に学べば、争いは何も生まないし、文化的な生活を脅かしてしまうんだ」

「そうなのかな? リュカの言ってる事は難しいよ」

 ライゼルには、リュカの説明がいまいち釈然としない。経験の伴わない知識は、納得を生まないものだ。

「ビアンさんの慌て様から察するに、ライゼル君達も不心得者に襲われたようだけど、何があっても暴力で解決しようと思っちゃダメだ。その為のアードゥルであり、国家なんだから」

 国家の安寧秩序を守る為に組織されたのが、治安維持部隊アードゥルである。役人であるリュカは、これまでライゼルがしてきたような行為を、例え突発的な事態であったとしても思わしくないと考えている。治安維持を目的に設立された組織が存在するのだから、頼ればいいと。

「そっか。でも、いざという時の為にやっぱり訓練は積まなきゃだよ。そうしなきゃ、いつまで経っても母ちゃんに勝てないし」

「お母様? ライゼル君のお母様も【牙】使いなんだ?」

 ここに来て、意外な方向へ話が及んだとリュカは思う。強さの話題に母親が挙がるのもなかなか珍しい。ライゼルの母親に興味を持ってしまっている辺り、リュカも随分と話に乗せられてしまっている。

「おう、めっちゃ強い【牙】を持ってる。皆はダンデリオン染めのフロルなんて呼ぶけど、俺はやっぱり血祭りフロルの方がしっくり来るんだよなぁ」

 丁々発止で展開される話の中で、思いがけない名前を耳にして虚を突かれるリュカ。

「えっ、君達のお母様は、あの『フロル』なのかい?」

「そうだよ。リュカも母ちゃんのこと知ってるの?」

「ダンデリオン染めのフロルとしてはもちろんだけど、昔僕の父上から君のお母様の話を聞かされた事があるよ。そっか、なるほど君を見ていると、確かに父上の話と印象が重なるね」

 本来、フロルの昔話を懐かしく思うのは実子であるライゼルだろうが、何故だかリュカを懐かしくさせる。それは、フロルの話というより、在りし日のリュカ親子の事を思い出しての事かもしれない。

「母ちゃんの話、聞きたい。ねぇ、聞かせて」

 そうせがまれて、リュカは昔聞かされたフロルの話をライゼルに聞かす。その日持ち込んだダンデリオン染め全てを売り捌き、不足分は持ち合わせていた反物を【牙】を用いて断ちその場で縫い上げ、フロルはオライザに居合わせた全ての者を魅了したこと。曲芸の如くその場で新たなダンデリオン染めを生み出す彼女に、近隣住民から行商人までが心奪われた。その中には、リュカの父もいたという。

「父上がフロルさんの実演を大変気に入って、それから親交を深めていったらしいんだ」

「へぇ、リュカの父ちゃんとウチの母ちゃんは知り合いだったのかぁ」

「そうみたいだね」

 もうここまで来たらライゼルの好奇心は止まらない。ライゼルの興味はお互いの親にも及ぶ。

「リュカの父ちゃんも【牙】を持ってる? 持ってたとしたら、どっちが強かったのかな?」

 随分乱暴な発想ではあるが、ここまで話をしていると、自然とライゼルらしい考え方と思えてしまうのだから不思議なものだ。初対面であるはずなのに、永い付き合いのように錯覚してしまえるのは、思わぬ繋がりがあったからかもしれない。親同士は知り合いだと、その子供達も仲良くなるのが速い。その所為か、ついついライゼルの嗜好に対し、リュカは少し突っ込んだ質問をしてしまう。

「二人が【牙】を競わせる事はしなかったと思うけど。ライゼル君は本当にそればっかりだね。どうして強さに拘るんだい?」

 ライゼルは話題の何もかもを強さに結びつける。まさに強さが人を測る尺度だとも言わんばかりに。強さを伴わないリュカにとっては耳が痛いという事もあるが、何故それ程のこだわりを見せるのか分からない。

「だって、強くなきゃ誰も守れないじゃん。だから、俺は強くなりたい。その為にも、一先ずの目標は母ちゃんを越える事」

「お母様を?」

「うん、母ちゃんは【牙】もすごいけど、腕っぷしも強いから。俺もベニューも喧嘩の仕方は母ちゃんに習ったし」

 この場にベニューが居たら叱責が飛びそうなものだが、代わりにリュカはライゼルが言った先の言葉を反芻し、俄かに気落ちする。

「・・・親を越えるか。僕には叶えられそうにない目標だよ」

 ライゼルが言う親を越えるという目標が、リュカにとっては彼以上に困難なものに思えてしまう。それはリュカの家庭の事情が関係しているのだが、ライゼルはもちろんそれを知らない。だから、無責任な事が言えてしまう。

「諦めちゃダメだよ。俺も頑張るし、リュカも頑張ろうよ。あと十年以内には、俺も自分の【牙】を使いこなせるようにならなきゃだし」

「十年?」

 ライゼルが強さに対して執着するのは理解したが、その設けられた期限は何なのだろう。事情を知らぬリュカは小首を傾げる。

「母ちゃんが死んだのは26歳の頃だったから、俺が26になる時までには母ちゃんみたいに【牙】を自在に扱えるようになりたい。母ちゃんより強くならなきゃ母ちゃんは守れない訳だし」

 最後の言葉の意味は図りかねたが、ここに来てようやくリュカはフロルの死を知る。ライゼルが越えたいと言った母は、すでに故人だったのだ。きゅっと胸を締め付けられる思いがした。

「ご健在とばかり。そうか、辛かったね」

「う~ん、悲しかったけど、ベニューも居たし大丈夫。もし母ちゃんが生きてたらもっと強くなってただろうから、一生追いつけなかったかも。それでも、いつかは母ちゃんに勝てるよう鍛えるけどね」

 ライゼルの母の死を気落ちせず姿に、逞しさすら感じてしまう。

「ライゼル君は強いなぁ」

 思わず賞賛の言葉が口を吐いてしまった。いや、どちらかと言えば、自身への諦めの言葉だったかもしれないが。

「ねぇ、リュカ。俺の話、ちゃんと聞いてた? 俺、まだまだ鍛えなきゃって話をしてたんだよ? 俺が強い訳ないじゃんか」

「ううん。そうかもしれないけど、ライゼル君はきっと強くなれるよ」

「そりゃ、もちろんそのつもりだけど…リュカってば変なの」

 リュカも何故溢したのか自分でも分からない独り言だとは思ったが、むしろリュカがその事が気にならないくらいに変だと思ったのは、ライゼル自身だ。

「変って言い方をするライゼルの方が変だよ」

「なにが?」

 聞き逃してしまうそうなくらいの、独白めいた小声のリュカの呟き。ライゼルは自分の何をそう言われたのか分からない。もうとっくに寝床の準備も済んでいるというのに、ライゼルはリュカとの雑談を終わらせない。

「いや、その、なんていうか。さっきまで何の話をしていたか覚えているかい?」

「【牙】だったっけ? なんだっけ?」

 思い出そうとするも、話がいろいろな所へ転々とした為、出発点がどこだったやら。小首を傾げるライゼルに笑って答えるリュカ。

「君が僕の話を聞きたいって言ったんだよ」

「あ~、そうだった気もする。それがどう変なの?」

 真顔でそう返してくるライゼルを見て、リュカは何故ビアンがこの姉弟を保護したのか、合点がいったような気がする。おそらくビアンも、仕事を抜きにしても姉弟達に対する思い入れがあるのだろう。

(きっとほっとけないんだろうなぁ)

 ライゼルは一般人に比べ、様々な事を知らない。その中にはもちろん知り得ぬ事情も含まれているが、区別なくそれらに興味を示し、教授を乞うてくる。好奇心旺盛なのか、知的探求心が旺盛なのか。ライゼルは何でも知りたがる。

(素性も知らずに僕へ興味を示したのは、もしかしたら君が初めてかもしれないね)

 そう思って、それを言葉にするのをリュカは止めた。言えば、またこの話題に興味を持ってしまうだろう。ライゼルの疲れを考えると、これ以上のおしゃべりは体に障る。

「ううん、大した事じゃないんだ。明朝にはビアンさんも帰って来るだろうから、もう今日は早く休んだ方がいいよ」

「うん、そうする。おやすみ、リュカ」

 そうリュカに勧められると、道中に保存食の大豆で空腹を満たしていた為か、途端に急な眠気に襲われるライゼル。寝床に入ったライゼルの興奮は冷めやらぬままであったが、目を瞑ると然程時間を置かずに寝息を立てていた。

 リュカはライゼルが眠ったのを見届けると、宿直室を後にする。先程の広間に戻ると、ベニューが戻ってきていた。

「おかえりなさい、ベニューさん」

「いいお湯でした。フィオーレにもあんな大きな湯屋があればいいのにって思っちゃいます」

 滅多に入れないお風呂にご満悦の様子のベニュー。久しく味わう事のなかった湯加減を思い出して恍惚に浸る。気に入ってもらえたようで、勧めたリュカとしても鼻が高い。

「オライザ組に依頼すれば、建築してもらえるかもね」

「機会があれば是非。そういえば、ライゼルはもう寝ちゃってますか?」

 広間にライゼルの姿がない事に気付き、声を潜めるベニュー。それを受けリュカは、ライゼルの居場所を手で示し、ベニューにも就寝を促す。

「あぁ、その部屋に二組用意してあるから。君ももう休むといいよ」

「何から何までお世話になりました。それでは、おやすみなさい」

「おやすみ」

 ベニューが宿直室に入っていったのを確認し、リュカは灯りを落とし、駐在所を後にする。

 

 翌朝、故郷以外で迎えた朝だったが、存外疲れは残っていない。リュカ以外の役人がいない駐在所は、昨夜からの静寂を保っている。ベニューが目を覚ますと、布団は畳まれておりライゼルはいなかったが、隣の部屋に誰か人の気配を感じた。

 身形(みなり)を整えたベニューは、昨夜の広間に向かう。そこには、既に朝食の支度を終えて、配膳し終えていたリュカがいる。今朝の朝食は、大根の糠漬けと胡瓜の酢の物、茄子のお浸しに法蓮草の胡麻味噌和えと、随分と大盤振る舞いのご馳走だ。起き抜けではあるが、これなら胃もたれする事もなく食べやすそうだ。決して安価ではない胡麻味噌を使った料理を客人に供してくれる辺り、ここの土地は経済的にも豊かなのかもしれない。

 ただ一つ心残りがあるとするなら、主食が米でなく麺包だった事か。確かにこの時間に飯を炊き上げるとなると、洗米したり火を熾したりと支度始めは未明となる。米所で炊き立てのご飯というのも憧れない訳ではなかったが、厄介になっている身で贅沢は言わないくらいの分別は持ち合わせている。

「おはようございます」

「やぁ、おはよう。ライゼル君は?」

 当直用の仮眠室から出てきたのはベニューだけで、ライゼルの姿は見えなかった。問われたベニューは、やや答えにくそうにして口ごもった後、窓の外へちらりと視線を向ける。

「えっ、外にいるの?」

 この日、リュカがオライザにある自宅から駐在所へ来て、二人の朝食を作りに来たのが午前六時のこと。その時には、リュカはライゼルの姿を見ていない。では、それ以前に外へ出かけた事になる。

「習慣なんです。朝一番に体を動かす事が、一番の鍛練だって本人は言ってます」

「鍛練?」

「ライゼルには、夢があるんです。みんなを守れるくらい強くなりたいって」

 昨日会ったばかりではあるが、個人的な話を憚られないのは、リュカの人柄良さからか。人様に話すほどの事ではないとベニュー個人も思っているが、この奇行の理由を説明しておかないと、ライゼルに対する世間の目が痛い。家の者でもないのに、こんな朝早くに外へ出かける者はそうそういない。

「守れるくらい強く?」

「ライゼルは昔からずっと言ってますけど、私にもそれがどういう事なのか分からないんです。多分、家族を失って傷付いたからだと思います」

「家族を」

 リュカは先程から山彦のように耳にした言葉を繰り返すばかり。これ以上込み入った事情を説明するのも野暮と思ったベニューは、出口へ向かう。振り向き様に礼を述べる。

「朝食ありがとうございます。ライゼル呼んできます」

 そう言って、駆け足でライゼルを探しに出かけていくベニューを、リュカは呆然としながら見送った。ライゼルの姿を探して窓の外を向いていたベニューは気付いていなかったが、リュカは僅かに動揺している。

 その理由と言うのも、ライゼルの話が、自分にはまるで当てはまらなかったから。自分の考えとあまりにもかけ離れた所に、ライゼルの存在を感じたから。

昨夜の話を、全く真に受けていなかった訳ではないが、それでも軽い気持ちでリュカは聞いていた。少年期特有の憧れを口にしているのだろうと、そういう可愛らしい者を見るような気持ちで聞き役に徹していた。だが、実際はそうではなかった。あれは妄言でもなく虚言でもなく、心から語る真意だったのだ。

「あんな年下の男の子が、みんなを守る為に鍛練を」

 リュカが独り言ちた時、また駐在所の扉が開く。遠慮なく開けられた所を見ると、姉弟ではなく役人だろう。それを踏まえた上で、出勤時間より幾分早い所を鑑みると、姉弟の心配をした者に違いない。

「あっ、おはようございます、ビアンさん」

「すまんな、朝食まで用意してもらったみたいで。どうだ、ライゼルは面倒を起こさなかったか?」

 卓の上に配膳された小皿を見て、目の下に隈を作ったビアンが礼を述べる。姉弟の前でこそ分かりやすい態度を取らないが、ビアンは一時でも手元を離れた姉弟を心配していたのだ。

「いいえ、いい子にしてましたよ、とても」

「そうか、それならいいんだが」

 と言い、ようやく安堵できたのか、深い溜め息を漏らす。今朝のビアンは、随分お疲れの様子である。

「それにしても、昨日は随分遅くまで屋敷にいたのですね。ずっと明かりがついていたようですけど」

 それを聞いたビアンは、咄嗟に後ろからリュカの首に腕を回し、首を絞めるような仕草で引き寄せる。

「リュカ~! 何を他人事みたいに言ってんだ。お・ま・え・の、親父のせいだろうが~」

「すみません、ご迷惑をおかけします」

 その点を責められると、リュカには弁解の余地もない。そうなれば、ビアンの愚痴を一方的に聞かされる事にも文句は言えない。愛想笑いを浮かべながら、それを大人しく聞かざるを得ないのだ。

「報告に上がれば、その場で人員配置の相談をおっぱじめるわ、終わったかと思えば宴席を開いてどんちゃん騒ぎを始めるわ…ったく、堅物なのか豪快なのかはっきりさせろってんだ」

 と、そこまで一頻り愚痴をこぼしたものの、リュカとゾアの親子関係を知るビアンは、これ以上それをリュカに聞かすのは過ぎた事だとも思ってしまう。リュカがビアンから人伝てに昨夜の事を聞かねばならない現状を思えば、これ以上詰る事は人道に悖るというものだ。

「その、まぁあれだ、相手が大戦の英雄でなくて、更に報告の義務が閣下の命令でなければ、ゾア殿に蹴りの一発も見舞ってやるんだが」

 このベスティア王国全土を統治しているのは、現国家元首ティグルー王に違いないが、地方の統治を任されている役人は、その土地の領民と連携するよう命令が下されている。その事は今更教えられるまでもない周知の事でもあるし、続けられたその言葉が年下の同僚に対する気遣いである事もリュカ自身心得ている。故に、その心遣いを甘んじて受けようと思う次第だ。

「それは無理だと思いますよ。若い衆の誰一人として親父殿には敵わないんですから」

 本人を目の前にしてないからと言っても、ビアンの態度は不遜そのもの。リュカは、他に誰もいなくてよかったと心の底から思う。ゾアの一門は血の気が多い者ばかりと有名で、もし家の者が先程の発言を耳にしていれば、荒事に発展する事は想像に難くない。

「それは…そうだな」

 勝手知ったる二人は必要以上の言葉を紡がない。ビアンの意図した通りにこの話題を終わらせたリュカに、力の抜けた笑みを向ける先輩役人。と、ちょうどそこに、鍛練を終えたライゼルと彼を連れ戻しに行ったベニューが連れ立って帰ってくる。

「ただいま。おっ、ビアンもいる。昨日は何時に帰ったの?」

「やめろライゼル。昨夜の事を思い出させるんじゃない」

「どうして?」

「どうしてもだ。それより」

 無理やり話を中断し、ここへ来た目的を果たさんとライゼルに水を向ける。寝不足のビアンが無理を押して朝早くに駐在所へやって来たのには、姉弟を心配してという理由もあるが、それの他にも要件があった。

「なに?」

 改まったビアンを見て、ライゼルも珍しく畏まる。そして、予想だにしなかった提案に、歓喜する事となるのをライゼルはまだ知らない。

「ライゼル、大巨人に会ってみたくないか?」

 

 昨夜、ビアンがゾアの元で会議をした結果、オライザ組の若い衆の大半が役人と協力し、フィオーレやボーネ等の警護に当たる事となった。幸い、このオライザでは事件は起きていない。元々、力自慢が集まっている集落の為、用心には事欠かないという理由もある。よって、この地から精鋭を派遣しようとゾアが提言してくれた。

 だが、人手を貸す代わりにある条件が提示された。四人はリュカが朝食をいただきながら、今日の段取りを打ち合わせる。

「ダンデリオン染めですか?」

「厳密に言えば、フロルの忘れ形見であるお前達姉弟に一目会いたいそうだ」

 オライザの頭領ゾアは、昨夜保護されたのが名にし負う二代目フロルと聞いて、ベニュー達を屋敷に招きたいと申し出たのだ。

「でも、私、ダンデリオン染めはできませんよ。あれは母だけの技術ですから」

 ダンデオリン染め以来、数多の染物が世に出回るようになったが、独特の色合いを出せるのは故フロルの他には誰一人いないのだ。それは、娘であるベニューも同じ事である。

「そうなのか? まぁいい。何にせよ、頭領殿がお呼びだ。屋敷に向かうぞ」

 手早く朝食を済ませ、ビアンは席を立つ。

「やったー。大巨人ゾアに会える! ごちそうさま!」

 ライゼルも大急ぎで掻っ込み、食後に礼を述べる。

 こうして、ビアンの要請により、ライゼルとベニューは、村の代表者ゾアの屋敷に招かれる事となった。やや緊張した面持ちのベニューと鼻息を荒くするライゼル。彼らに続いてビアンが駐在所を後にしようとした時、ふと彼は中に留まろり食器を片付けていたリュカに声を掛ける。

「そうだ、リュカも同伴させるようにとのお達しだ」

「ゾア頭領が、ですか?」

「そうだ。待たす訳にはいかない。早くしろ」

 ビアンもそれ以上は何も言わず、同伴を促す。何故、ゾアがリュカまでも呼び付けたのか。釈然としないままではあるが、リュカもビアン達に随行する事となった。

 

 本来、家とは居住の為に存在し、その役割を全うする事が求められる。雨風を凌ぎ、日射を防ぎ、生活を安定させる。しかし、ことゾアの屋敷に関しては、それ以外のものも要求される。例えば、豪奢な意匠の瓦、威圧的な門構え、不埒者が迂闊に近付かない為の外堀。即ち、屋敷そのものがゾア本人の威風を纏っていなければならない。家は、その所有者の象徴なのだ。

 そして、一行を迎えるその屋敷の主人も、それに相応しい雄々しい勇壮な人物である。成人男性であるビアンの一回りも二回りも大きい身の丈を有している、大巨人の異名に違わぬ巨躯。そこに座しているだけで、自然とその人物がゾアなのだと察する事ができる威風。

「よくぞ参られた。道中苦労が絶えんかったと聞く。ゆっくりしていくといい」

 二人の若者を傍に従え、座敷の奥に座する大男がゾアその人だ。リュカの評した通り、とても齢六十に届くようには見えない精悍な体つき。その全身に纏った筋肉を見れば、巷に流布される冗談めいた逸話がどれも真実のように思えてくる。体の部位の中でも、耳が比較的大きいように見受けられるが、あまりにも巨大な体躯のせいでほとんど目立たない。ゾアは胡坐をかいているというのに、その視点は直立している姉弟達と同じ高さにあるせいで、ベニューは自分達が大英雄を前にして立ち尽くしてしまっている事にしばらく気が付かなかった程だ。

格別すぎる存在感に気圧されてしまうが、改めて正座し挨拶を述べ、ライゼルもそれに倣う。

「はじめまして、お招きに預かり光栄です。フィオーレから参りました二代目フロルです」

「俺はライゼル! ・・・です!」

 名乗った姉弟を眺め、やや満足げに笑ったかと思うと、思い違いだったのかベニューをまじまじと見つめるゾア。ベニューも、フロルの名を背負う者として、身じろぎ一つせず真正面から受け止める。

「…似とらんな。倅はなるほどフロルの面影があるが、二代目は父親似か」

 ゾアの訝しむ様子も、ベニューにとっては慣れっこだった。この程度の事は気に病む事もない。

「そうかもしれません。父は私達が生まれる前に蒸発したので確かめようもありませんが。私が着ているこの六花染めが、私が二代目である何よりの証とお考え下さい」

 事実、ベニューは母フロルに似ていない。ライゼルは、フロルと同じで、やや釣り目がちな切れ長の目、明るい髪色、そして牙使い。ベニューはと言えば、柔和なたれ目、色を飲み込む漆黒の髪、そして、【牙】を持っていない。

 ベニューの返答に合点がいったのか、改めて姿勢を正すゾア。第一印象では受け取れなかったが、大戦の英雄相手にも物怖じしない態度は間違いなく、『フロル』そのもの。ゾアが知るフロルと、今、目の前の少女ベニューの印象が見事に重なる。

「なるほど、その弁の立つ様を見るに、後継者の教育は儂より上手(うわて)だったと見える」

 その後継者という言葉を発した途端、室内が一瞬にして静かになるのをベニューは感じた。微動だにする事も、息を呑む事さえ憚られる程の緊張感。周囲の人間の表情から察するに、その話題は普段言及されないものなのだろう。それに対する反応は、まるで腫物を扱うような態度。では、周囲が望む通り、あまり触れずにおこうと慎ましいベニューは思い至る。

 そして、ライゼルも同様にその言葉に反応を示し、しかしベニューと違い、関心を示してしまう。

「大巨人にも後継者がいるの?」

 ライゼルの言葉に、側近の男達が立つ。

「子供、頭領に失礼やないか!」

 横から口を挿むライゼルの無礼な振る舞いに、ゾアの傍らに控えていた男二人が物凄い剣幕でライゼルに詰め寄る。大柄な方と小柄な方がいて、小柄な方が既に勇み足を踏み、今にも殴り掛からんとする勢いだ。噂に違わぬ血の気の多さに、空気が一瞬ざわつく。

「愚弟が失礼を…」

ベニューが割って入って庇おうとするが、後ろに控えていたビアンに止められた。ビアンは努めて落ち着いて、小声で耳打ちする。ビアンはいくらか頭領との面識があり、如何な人物かは心得ている。

「大丈夫だ、頭領殿が屋敷の中で荒事を起こす事はない。それは部下も同じだ」

 そう告げられても心中穏やかではいられないが、静かに事の次第を見守るベニュー。ここで動揺を見せては先の名乗りが台無しになる。フロルの肩書に泥を塗る事になってしまう恐れがあるという意識が、ベニューに自制心を働かせさせるのだ。

「エクウス、ベナード、下がれ。儂も久方振りに大巨人などと呼ばれて懐かしいわい」

 ゾアはライゼルの無礼を快活に笑い飛ばす。そもそも、他人の態度などゾアの斟酌にはない。

 頭領に諌められ、二人の側近は改めて傍に控える。どうやら一先ずは事なきを得たようだ。こういう時、ゾアが些事に拘らない豪快な男である事は、ビアンにとってありがたい。ただ、ゾアの性分を承知しているビアンであったが、ゾアがこの村を治めている大人物である事には変わりなく、ライゼルがいつ面倒を起こすか気が気でない。しかも、ライゼルが振った話題は、ゾアの後継者についてだ。この場でそれを語らせる意味を、ビアンは嫌という程に理解している。早くこの場を立ち去り、出立したいビアンはゾアに水を向ける。

「それでは、頭領殿。お目通りも適いましたので、これにて失礼したいと存じ上げます」

 ビアンが恭しく頭を垂れ、それに倣って姉弟は頭を下げる。一行が面を上げると、その正面には険しい顔のゾアの姿があった。ゾアはビアン達の退散を許すつもりはないのだ。

「ならぬ」

 厳しい視線を向けられ、元々小心者のビアンの体は縮み上がる。ゾア一家が決して荒事を起こさないのは知っているが、例えばゾアがすっ転びその巨躯がビアンに圧し掛かれば、意図せず絶命させる事だって十分有り得る。ゾアの威容は、ビアンに恐怖心を抱かせるには十分すぎる。危険性はなるべくなら、排除、回避したい。

 とは言え、許しを得られない理由がさして思い当たらないビアン。努めてゾアの機嫌を損ねぬよう、問い掛ける。

「どういう事でしょう?」

「昨夜、この小童らが悪漢に襲われたという話を聞かせたのは、貴様であろう? それをまた危険に晒すとはどういう了見か?」

「お、お言葉ですが、頭領殿。私は、ティグルー閣下への報告の義務がございます。それには、この姉弟にも同伴してもらわねばなりません」

 昨夜も伝えた役人の事情を再度申し上げる。しかし、ゾアはそれでは首を縦に振らない。得心させるには、それでは不十分なのだ。

「それは貴様の都合であろう。それにこの小童らを付き合わすでない。加えて、これらはフロルの忘れ形見。儂から見れば、孫も同然、言わば家族だ。それを儂から奪うと言うならビアン、貴様それ相応の覚悟が必要となるが如何(いかん)?」

 ゾアの鋭い眼光に睨まれては、ビアンは言い返す事も出来ない。代わりに、ライゼルが口を挿む。何故なら、姉弟にとって聞き捨てならない言葉があったから。

「ゾア頭領も、母ちゃんのこと知ってるの?」

 先のビアンに向けたそれとは違い、ライゼルには柔らかな温かい眼差しで応じる。そのような温和な表情を、ビアンと側近二人は初めて見た事から、家族と呼んだのもあながち嘘ではないのかもしれない。ゾアは本当に姉弟の身を案じているのだ。

「応とも。王都へ上る前はこの村を拠点に商売をして居ったからな」

 思えば、ライゼルもベニューも、母の少女期の話を知らない。自分達が生まれる以前の事を知らないのは当然ではあるが、フロルがダンデリオン染めを完成させるまでの経緯を知らないのだ。姉弟がその事に関心を持つ前に亡くなったのだから無理もないが、フロルも自分の昔話を聞かせるような事はしなかった。ベニューも母の事となれば興味を惹かれる。

「それでは、母はここで修業を?」

「その通り。フロルの染物はこの村で大成したようなもの。二代目が望むなら、母と同じ場所に工房も設えてやろう」

 諸々の事情を鑑みなければ、ベニューにとって、これ程破格の厚遇はない。流通の要衝であるオライザで商いが出来るとなれば、今以上に六花染めを世間に広める事ができる。それは、一世を風靡したダンデリオン染めの母を目標にしてきたベニューには、魅惑的な提言に思える。亡き母や将来を思えば、どれほどありがたい申し出か。まさしく染物屋冥利に尽きるというもの。

 しかし、先に断った通り、それは諸々の事情を鑑みなければの話だ。今は、王国に出向き、事件の概要を報告する事が第一義である。それを怠れば、カトレアやデイジーおばさんのように被害に遭う者が増え続けるだろう。それに、ライゼルとも、これからどうするかは一緒に考えようと約束したばかりだ。ライゼルの意志を無視する事は、ベニューには出来ない。ライゼルもオライザでの商いを反対こそしないだろうが、それは彼の第一義でなくベニューの我侭に過ぎない。辿り着きたい目標ではあるが、ライゼルを裏切ってまで叶えたい事ではない。自分達姉弟を家族と呼んでくれたゾアには悪いが、ベニューの本当の家族はライゼルただ一人である。

「せっかくのお心遣いですが、二代目フロルはまだ名の知れぬ一介の染物屋でございます。ゾア頭領の名に恥じぬ職人に成長して、改めてお話をさせて頂きたく存じます」

 ベニューは二代目フロルとして、毅然な態度で丁寧に断りを申し出る。ゾアもその申し出に不服な様子ではあったが、一応の了承を示す。その態度からは、代表者としての懐の深さが窺い知れる。

「なるほど、二代目の気概、このゾアがしっかと認めよう。だがな、まだ小童らの身の安全が約束された訳ではなかろう。ビアンよ、その件に関して何か申す事はあるか?」

 それを指摘されるとビアンは弱り切ってしまう。これまでの難局を乗り切れたのも、ほとんどライゼルの【牙】を頼っての事。先のように異国民からの襲撃が続けば、危険がないとは断言できないのだ。何かあれば、ライゼルの力を頼りにしなければならない。

 その事はライゼルも認識している。ライゼル自身が言ったのだ、自分を頼るように、と。だから、ここでもライゼルは胸を張って、こう言い切ってしまうのである。

「ゾア頭領、ベニューもビアンも俺が守るよ」

 自信満々に宣言するライゼルを、少し悪戯っぽく嘗め回すゾア。

「ほう、腕に自信あり、と言うところか」

 ゾアの見た所、ライゼルは門下生と比較して、言うほど大した体つきではないが、ただ、言いたくなるのが分かる程度には鍛えられた肉体だ。どうやら、単に虚勢を張っている訳ではなさそうだ。それに、ゾアは全盛期のフロルの【牙】を知っている。それを加味すると、強さの裏付けはあるのかもしれない。

「おう! 俺は【翼】持ち(ギフテッド)を三人も倒したんだぜ」

 この証言にはやや語弊があるが、ライゼルが難敵を退けてきたのは事実。ライゼルには、そう言い切るだけの自信と実力が備わっている。一応の戦闘経験は積んでいるのだ。

「ビアンよりその話は伺っておるが、手前で見聞きしたものでなければどうも信用ならん。フロルの倅、儂の前でその大言、もう一度吐けるか?」

「どういう事?」

 思考の鈍いライゼルでは、ゾアが何を言わんとするのか考えが及ばない。言い換えれば、現状に対する緊張感が足りないとも言える。自分が今どこに身を置いているのかという自覚が薄い。ライゼルには、ゾアの意図するところが分からない。

「貴様にとって『強さ』とは何ぞや、フロルの倅」

 ゾアは、別の言い回しを以ってライゼルの覚悟を確かめる。この問答でライゼルの心根を図らんとしているのだ。

「強くなきゃみんなを守れない。俺は誰よりも強くなって、みんなを守りたいんだ」

 ライゼルにとっては、片時も忘れた事のない第一義。共に暮らしてきたベニューはもちろん、ビアンもその言を耳にした事がある。そして昨夜、リュカもそれを聞かされている。

 ライゼルの答えに、嬉しそうに顎を摩るゾア。その様子を、リュカは神妙な面持ちで見つめている。

「そうか。フィオーレは花摘むだけの女々しい村と思っていたが、なかなかどうして気骨のある小童がいるもんだ」

「それじゃあ、旅を許してくれるの?」

 ライゼルが歓喜したのも束の間、ゾアの表情は大巨人の名に相応しい威厳ある相貌へと変化していた。ゾアは重厚な低い声で、子分に指示を投げる。

「エクウス、ベナード、試合の支度を始めろ」

「へい」「へい」

 命令を受けたエクウスとベナードは、間髪入れず足早に広間を出て、渡り廊下の先の別館へ向かう。屋敷とは別の、厳めしい雰囲気を持つ建物へ、部下二人は入っていった。

 ゾアがこれからライゼルに何をさせんとするか、ライゼル以外には察しがついた。ベニューもビアンも前言撤回するようライゼルに持ち掛けようとした瞬間、二人よりも先に、その決定に異を唱えた者がいた。

「頭領殿、ご無体な仕打ちはお止め下さい。彼はまだ子供。エクウス殿やベナード殿はこのオライザ組切っての実力者でございます。彼が試合うて勝てる道理がございません。どうかご慈悲を」

 リュカはゾアの前で跪き、頭を垂れ、手を着き、床に伏した。一瞬、ライゼルとベニューは、何故彼が誰より先んじて許しを請うているのか分からなかった。が、並んだ二人を見て、徐々に理解が及んでいった。

「ゾア頭領は、リュカさんのお父さん…?」

 並んでみれば、受ける印象こそ全く違うものの、確かに似通った面影がある。暗めの灰色の髪と、頭に対して少し大きめな耳。体つきの違いから思いもよらなかったが、二人は同じ血を通わせる親子なのだ。

「それは、『一役人』である貴様が口出しできる事か、リュカよ?」

 彼らの関係性に気付いた姉弟だったが、ゾアはリュカを我が子として扱わない。険しい表情を保ったまま、リュカが口を挿む事を詰る。低く響く頭領の言葉に、弱々しくあるがリュカも気丈に振る舞って応えて見せる。

「この国には法律がございます。暴力は罪なのでございます。国は新たな道を歩もうとしています。昔とは違うのです」

 頭を伏せたまま、のべつ幕無しに説得に掛かる。が、ゾアは意に介さない。

「新たな道とな…知ったような口を利く。その通り、試合は定められた規則に則って執り行う。王都の武闘大会と全く同じ仕様でな」

 必死のリュカの言葉もゾアには届かず、にべもなく一蹴されてしまう。

「『頭領殿』!」

 普段のリュカに似合わぬ大声を荒げて見せたが、それでもゾアの決定は覆らない。家長の吐く言葉は、移ろわぬ重さを持ったものなのだ。

「一家を背負えぬ貴様が儂と五分の口を利けると思うな。そこまで申すなら、貴様が小童の代わりに試合うてはどうだ? 貴様も牙使いの端くれであろう?」

「……」

 こう切り返されては、リュカは言葉を継げない。ベニューもビアンも、この剣幕に割って入る勇気はない。結局、誰もゾアに異を唱える事は出来なかった。一行は、恭しく礼を取り、一旦屋敷を後にしたのだった。

 

 ゾアの屋敷を後にし一度駐在所に戻ったライゼル達であったが、空気はずんと重かった。

「なんか、俺の所為でごめん」

 自分の軽率な行いが、大事に発展させたとようやく理解したライゼルは、リュカに素直に詫びる。

「気にする事ないよ。それより、今は自分の心配をした方がいい。あの二人は、頭領殿が手元に残した自慢の部下なんだから」

 手元に残されなかった立場のリュカが告げると、言葉に説得力があると感じるのは失礼にあたるが、純然たる事実であった。オライザに集う力自慢達を近隣の集落に派遣できたのは、この広い土地を有するオライザの警備に、その二人で十分という判断があっての事なのである。ゾアの信頼を勝ち得ている二人というのは、相当に腕の立つ人物なのだろう。もちろん、それを弁えたベニューとビアンは、リュカの境遇に触れるような事は口にしない。

「強いの?」

 ライゼルの一番の関心はそこにある。これから、二人と試合し倒さねば、王都への遣いどころか自分の野望もここで潰えるのだ。関心を示さずにはいられない。

「そうだな、戦も起こらず暴力行為も禁じられたご時世だから、ゾア殿ほどの戦上手ではないだろうが。村一番の力自慢である事には変わりない」

 ビアンが彼らの力を知っているのは幾度となく、彼らの活躍を目撃してきたからだ。このオライザでは、ゾア一派による自警団も展開している。国家からの要請があれば、ゾアは私兵を出して助力する事もある。十年前に交通が整備されたとはいえ、地震や台風などの自然災害があれば、十全に機能しているとは言えなくなる。そんな時、彼ら自警団が活躍する。

 その中でも目覚ましい活躍を見せるのが、先のエクウスとベナードである。自然災害が発生後、薙ぎ倒された木が道を防いでしまっていても、彼らが【牙】を振るえば瞬く間に片付いてしまう。経験に裏打ちされた能力でその都度一門の中でも頭一つ跳び抜けた働きを見せ、村民からは技のエクウス、力のベナードと羨望を集めている。

「そういえば俺、母さん以外の牙使い見るの初めてかも」

 ここに来て思わぬ所で経験のなさが重く圧し掛かってくる。【牙】は基本的に武器として発現されるのが大前提である。だが、その形状や用途は発現者の資質により様々である。叩く物、打つ物、突く物、斬る物、投げる物と幾らでも想像できる分、相手の【牙】が如何なる物か絞れない。自分以外の【牙】を知らぬライゼルは、経験則から予想する事すら適わない。

「ビアンは知らないの? エクウスとベナードの【牙】の事」

「俺の場合、事後処理に付き合う程度だから、【牙】そのものは見た事ないんだよ」

「ビアンの役立たず」

「俺は基本的に事務仕事を主にしているんだよ。現場は面倒事も多いし」

「・・・ビアンのもやしっ子」

「なんだと!」

 力仕事では役に立てないビアンは、積極的に現場へ赴く事はしない。それをライゼルに詰られ、ついむきになってしまうが、事実なので然程強く反駁する事は出来ない。

「ライゼル、失礼なこと言わないの。リュカさんはご存知じゃないんですか、お二人の【牙】の事」

 ここで足止めをされては仕事に差し障る一行は、なんとかして攻略の糸口を探す。身内のリュカから助言を得るのは卑怯かもしれないが、背に腹は代えられない。

「お二人がオライザ組に入ったのは僕が家を出た後なので残念ながら。ただ、より強力なのはエクウス殿と聞き及んでいます。なので、警戒すべきは」

「エクウスっていう人か。大きい方の」

 事前に対策を立てる事も儘ならないのに理由なき戦いを強いられるライゼルを想うリュカは、試合を目前にするライゼルに水を差してしまう。

「どうしても戦わなければならない訳じゃないでしょう。あの人達は自分達の理屈を押し付けているだけです。ゾア一家はオライザで強力な発言力を有しますが、法を曲げる事は出来ません。僕達役人の要請があれば、アードゥルも駆けつけてくれます。ねぇ、ライゼル君、そうしないか?」

 もちろん、このリュカの提案も十分危険性を孕んでいる。武力に対して武力を以って応じれば、それは軍事衝突だ、両者の関係悪化は免れない。それを理解しているが故に、ビアンもその手段に踏み切れない。

 が、そもそもライゼルの選択肢にそれはない。いや、選択肢は初めから一つしかなかった。

「しない。あの人達と戦えば、俺は強くなれるかもしれない。だったら、俺は戦いたい」

 リュカの提案をきっぱりと断るライゼル。頭の固い父親や少年に、ついにリュカの堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にしないか。危険を避けられる道があるのに、どうしてそれを選ばない? 愚かだとは思わないか、傷つかずに済む方法があるんだぞ。なのに、どうして?」

 リュカの言う事はもっともである。戦闘行為が禁忌であり、怪我が穢れの元とされるご時世で、ライゼルの考え方は思考放棄した短絡的な解決方法である。回避できる手段があるのであれば、それに越した事はない。

 実を言えば、ベニューもビアンもリュカと同じ意見である。ライゼルの考えには否定的だ。だが、その考えに理解がない訳ではない。ライゼルがそれに従わないであろうことも重々承知していた。故に、リュカの側に回ってライゼルを説得する事はしない。

「逃げたら、絶対に後悔するから」

 リュカの真剣な思いを受け、ライゼルも自身の信念を告げる。

「後悔? 逆じゃないか、試合えば君は打ちのめされ、必ず後悔する事になる」

 またしても山彦のように言葉を反復するリュカ。リュカには、ライゼルの言葉の意味が分からない。どうしても、この姉弟の言葉が中身を伴わないように感じてならないのだ。リュカには挫折し後悔した経験則がある。人生は甘いものではない、夢を見ているばかりでは居られないという事を承知している。

 そんなリュカの認識する世界に、ライゼルのような生き方は存在しない。諦めずに立ち向かっていけば苦境を打開できるなんて考えは一蹴さえしてしまえる。人間にとって、知らないものは存在しないと同義だ。存在するはずのないライゼルの考え方は、リュカによって否定される。

「違うよ、リュカ。負ける事は嫌な気持ちだけで済むけど、逃げる事は怖いんだよ」

 やはりライゼルの言わんとする事は、リュカには分からない。逃げずに立ち向かっていく事の方がよっぽど恐ろしい事であると、リュカはそう思っている。実を言えばリュカには、大きな壁にぶち当たり挫折した経験がある。それが立ち向かう事への抵抗感を覚えさせている。

 しかし、そうは頭がそう否定しつつも、真に迫り想いを語るライゼルが偽りだとも思えない。リュカの価値観がここに来て揺らいでしまう。昨夜ライゼルが語った母を越えたいという目標、そして、それを実現する為の欠かされない早朝からの鍛錬。偽りないそれらを、リュカはもう知ってしまった。折れてしまった自分とは異なる、磨き続けられる【牙】の存在を。

「ライゼル君、おかしいのは僕の方なのかな? ライゼルや父上が正しくて、僕が間違っているのかな?」

「リュカ?」

 完全にライゼルを否定しきれず釈然としないリュカの拳はぎゅっと握り締められる。長い間、背を向けてきた戦いの道だったが、新しい価値観に触れて、リュカの意志は揺らぎ始めてしまう。

「ごめん、ライゼル君。どうしても君の言い分を聞き入れる訳にはいかないんだ!」

 そう言ったきり、これ以上は何も言わず駐在所を飛び出すリュカ。突然駆けていくリュカの背中に問い掛けるライゼル。

「リュカ、どこに行くんだよ?」

 そう問うたものの、リュカからの返事はなく、やや乱暴に駐在所の扉が閉められる。事情を知らぬ姉弟には引き留める事は出来なかった。だからといって、放っておく訳にもいかず、事情に通じているビアンに尋ねる。

「ねぇ、ビアンどういう事?」

「とっくに察しただろうが、リュカはゾア殿の子息だ。加えて言うなら、一人息子だ」

 その言葉に、先のゾアが言った後継者の事を思い出す。ゾアは言った、自分よりフロルの方が後継者の育成に優れていた、と。それはつまり、リュカの後継者としての教育が、振るわなかった事を意味している。

「リュカさんは後継者になれなかったんですか?」

 その質問には、ビアンも答えあぐねる。ここにも、どうやら込み入った事情が介在するようだ。

「正確に言えば、リュカが跡目を継ぐ事を拒否し続けているんだ。それで、勘当されないまでも、オライザの役人見習いとして家を追い出されている次第だ」

 周囲の人間に次期頭領である事を認めさせる資質が、自身に備わっていないとリュカは考えている。それを身に付ける為に、このオライザの地で役人として修業しているのだ。ただ、その資質がどのようなものだと考えているかは公言していない。

「どうしてリュカは後継者にならないの?」

「親父が大戦の英傑とあっては、その後継者に掛かる重圧は想像に難くない。リュカでなくても逃げ出したくなるさ」

 口にこそしないが、自分でもそうするとビアンは思う。この世に生を受けてから生涯逃れる事の出来ない運命を背負わされている。そんな彼の心情を察しているからこそ、ビアン達オライザの役人達はリュカの事を受け入れている。

「そんな事情があったんですね」

 似た立場にあるベニューは、なんとなく察する事も出来る。親の栄光を継ぐ事の重責が、どれ程その双肩に掛かってくるか。二代目フロルの看板を背負っている限り、付いて回る重圧だ。

「まぁ、それは飽くまでゾア一家の問題であって、俺達にはどうする事も出来ん。今はベナードとエクウスとの試合に向けて集中しろ。試合は、ゾア宅別棟の道場で、正午に開始される」

 飛び出していったリュカの事も気になるが、確かに今は試合に集中しなければならない。ベナードとエクウスの二人は、心ここに在らずの状態で倒せるような相手ではない。とはいえ、だ。

「リュカの事は俺に任せろ。お前達は時間まで大人しくしてろ、特にライゼルは」

 そう言い含めた瞬間、ライゼルにぐんと詰め寄られるビアン。その勢いに思わず仰け反ってしまう。

「ビアン、リュカを絶対に連れて来て。俺、この試合をリュカに見てて欲しい」

 少年がどのような想いでそう乞うのか、ビアンは知らない、ライゼルがリュカの同伴に拘る理由を。が、双眸から受け取れるその意志を汲んでやりたいとも思う。旅の存続の賭かった大一番を控えているというのに、それ以上にライゼルの心はリュカに向いている。きっと、何かライゼルにとって譲れない理由があるのだろう、ビアンはそう察する。

「もちろんだ。俺に任せておけ」

 

 駐在所を飛び出したリュカは、村の外れの用水路まで来ていた。昼間のオライザは賑やかで、こんな人気のない場所でなければ、泣き出してしまいそうな情けない顔を見られてしまう。一応はゾアの嫡男である為、人目を避け、誰も用のないここまで逃げて隠れてきたのだ。

(僕に似合いの、人の寄り付かない場所)

 この用水路には年に二回、水を溜める為に閉める時と、水を抜く為に開ける時にしか誰も訪れない。リュカはこの場所に自分を重ねる。この村の人にとって、自分は必要とされていないと、そう感じている。幼い頃はゾアの嫡子として人々に関心を向かられる事も少なくなかったが、一人息子の器量がゾアに遠く及ばないと知れると否や、リュカから人々の関心は離れていった。その事をリュカ自身寂しく思った事もあるが、当然だとも思う。

「こんな僕に、興味なんて誰も」

 水路に足を投げ出し、俯くリュカの顔が水面に映る。他のオライザ組の門下生よりも弱々しく小さい姿。これを見て、誰が大巨人の息子だと想像できるだろう? おそらく、その紐付けは誰も出来ない。息子であるリュカ本人がそうなのだから。

「僕は本当に父上の子供なのだろうか・・・?」

 そう独り言ちた直後、水面の自身の背後にビアンの姿が映る。

「よぉ、お前は本当にここが好きだな」

 そう声を掛け、リュカの傍らに腰を下ろすビアン。こうしてビアンがリュカを探してここへ赴くのは、今回が初めてではない。

「好きという訳では・・・」

「前来た時は、お前がまだ役人見習いになる前だったな」

 そう言いながら、ビアンは水路の向こうの、視界一杯まで広がる田園風景を眺めている。これから数か月の後、青々とした稲は黄金色に実り、収穫の時期を迎える。ただ、それはもうしばらく先の話。

 そして、リュカとビアンが初めて出会ったのは、ちょうど二年前の春頃の事。

 18の誕生日を迎えた少年リュカはその日、父子二人きりの道場で、ゾアから家督を譲る旨を伝えられていた。それ以前から話は聞いていたし、それが仕来たりなのだという事も知っていた。そして、周囲の信を勝ち取る為に、父の前で【牙】を発現させようと試みたリュカであったが、偉大なゾアの【牙】を意識し過ぎる余り、リュカ固有の【牙】の設計図を上手く思い描けなくなってしまっていた。元々、星脈を酷使できる程に身体が強靭ではない為に、18歳までは発現を制限されていた。それもあってか、いざ納得させる為に現界させようとすると、精神的負担が掛かってしまい、星脈の行使に不慣れなリュカは【牙】を出せなかったのだ。そんな、満足に【牙】も振るえない自分が、いざオライザ組の長にならねばならないのだと考えた時、その重圧に押し潰され、ゾアの跡を継ぐ事が恐くなり、逃げ出してしまった。その時、人目を避け訪れたのが、この用水路だった。

「まさかゾア殿自ら御出でなすって捜索願を出すなんて思わなかったぞ」

 ビアンの言う通り、リュカが家を飛び出した直後、ゾアは内密で役人達にリュカ捜索を願い出た。部下を使う事も出来たろうが、もしリュカが逃げた事が門下生に知られれば、ただでさえ高くないリュカへの評価が地に落ちてしまう。そうなってしまえば、本当にリュカはオライザ組の次代を担えなくなってしまう。そう判断したゾアは、秘密裏に役人に接触を図り、リュカの身柄を確保させた。その時、リュカを発見したのがビアンだったのだ。

「その節は、本当にご迷惑をお掛けしました」

「まぁ、お前の気持ちは分からんでもないからな。だからこそ、ゾア殿に猶予を乞うたんだから」

 リュカを連れ帰ったビアンは、当時の上司に嘆願して、ゾアと話をする機会をもらった。そして、ビアンはこう告げた。

「『リュカに大人になる時間をください』、ビアンさんは他人である僕の為に頭を下げてくれましたよね。本当に頭の下がる思いでいっぱいです」

「そんなに感謝されるようなことはやってないさ。ただ、見てられなかったんだよ」

 その当時ビアンもようやく一人で仕事をこなせるようになってきた頃であり、自分より幾分か年下の男の子がある日突然その重責を背負わされるようになったという事が、ある種の暴力のように感じられたのだ。年数を重ねた自分でも辛いと思うのに、何も経験のない少年が自分以上の事を求められる理不尽が、ビアンには見るに忍びなかったのだ。

「おかげで、こうして役人見習いの仕事をやらせてもらう事になりました。初めは大変でしたけど、最近は自分にもできる事があるんだって、充実した日々を過ごせています。本当にビアンさんのおかげです」

 役人見習いとしておよそ二年の月日が経ち、業務も板についてきたリュカ。リュカは法を学び、国家の在り方を知った。その中で、【牙】以外にも自身の能力を証明できるものがあるかもしれないと思うようになった。力を示す事で人々を従えてきたゾアのような既存のやり方ではなく、国家の力を借りる事で、能力に左右されない平等で安定した集落を作りたいと考え始めていた。その考えが下地にあり、国家から支援が受けやすくなるように、国家が定めた法を順守するのが、このオライザの未来の為だと考えている。

 が、ゾアやライゼルはそんな事は露ほども知らず、戦闘行為を執り行おうとしている。そんな事をすれば、危険分子と見做され、放逐されるかもしれない。そうなれば、今は栄えているオライザであっても先細りしていく事は目に見えている。

「ただ、やはり僕には父上がやろうとしている事が認められません。暴力は何も生み出しません。腕力の強さを物事の基準にしてはいけないと思うんです」

ビアンもリュカの言いたい事は充分に理解を示す事ができる。そして、そんな真摯な想いを抱くリュカだからこそ、頼みたい仕事がビアンにはあった。それは、ライゼルからお願いされた事。ビアンはリュカに対し、こう願い出る。

「もし、本当にそう思うんだったら、任されてほしい仕事がある。聞いてくれるか?」

「はい、なんでしょうか?」

 先輩が改まって言うものだから、ついリュカも身構えてしまう。が、ビアンの口から告げられるそれは、リュカにとって意外な事案だった。

「今日の試合、俺に随伴して、ライゼルの事を見てやってくれないか?」

 

 時は正午、場所はゾアの屋敷の別館にある武道場。普段ここは、ゾア一門の門下生が鍛練に励み、活気づく場所である。今は、今回の一件の当事者しかおらず、五十は人の入る空間が、しんと静まり返っている。それもそのはず、これからここで真剣勝負が執り行われるのだ。故に部外者を立ち入らせる事はない。この場に居合わせる当事者達が、自分の要求を、互いに相手に認めさせる事を目的とした試合。ライゼル達は、王都への出立。ゾアは、姉弟がオライザへ留まる事を望む。

 立会人として、ベニューがゾアから指名された。この場において、責任を負えるのは『肩書』を持つ者だけ。公人であるビアンやリュカであってもお呼びでない。今回は、ベニューが二代目フロルの名において、この試合を取り仕切る。法の下で立会人のいない私闘は禁じられている。正当な理由と立会人を以って、初めて試合の開催は認められる。正当な理由なき場合は、立会人が責任を負い、法によって裁かれる。そういう仕組みとなっている。

 こうして、ライゼル対エクウス、ベナードの試合の舞台が整った。

 板張りの床の上に大きく白線で縁取られた真四角。土足厳禁で裸足でのみ入場が許される神聖な場所。その中こそ、彼らが暴力を振るう事を許された聖域なのだ。この定められた空間のみが治外法権と化し、この場からはみ出た者は戦う資格を失い、敗北扱いとなる。自らの意志に関係なく、その包囲から出る事は、戦意喪失と見做されるのだ。

 今回の試合、ゾア一門の人間と比べ、戦い慣れしていないライゼルは様々な不利を強いられる。

 まずは、規則に縛られるという事。これは試合であって、規則無用の殺し合いではない。取り決められた規則の中で、戦わなければならず、ライゼルが難敵を退けた時のような変則的な戦闘ができない。加えて、地形やらの条件が対等である以上、そこに有利不利を期待する事は出来ない。いや、板張りの上を裸足で立つ事に慣れていないライゼルがやや不利だろうか。

更にライゼルに不利に働くのが、ベニューが立会人になってしまった事である。これまでの生涯に於いて、ベニューの助言がどれ程ライゼルを救ってきたか知れない。ライゼルを良く知るベニューが繰り出す適格な指摘は、必ずライゼルに都合よく作用してきた。だが、今回はそれに頼れない。ライゼル自身が試合展開を計算し、窮地に立たされた場合も、自身で打開策を講じなければならない。普段から思考を巡らす事の得意でないライゼルは、想像以上に負担になるかもしれない。

 そして、最大の不安要素が、ライゼルが対する事となった人数である。

「デカい方がベナードで、小さい方がエクウス。合ってる?」

「違うぞ、ライゼル。デカい方がエクウス、小さい方がベナードだ」

「えっ、そうなの? ちびっこいのが力自慢なの? 俺と変わらないくらいの身長なのに?」

 相対する、ゾアが擁する二人の【牙】使い。比較的大柄なエクウスと比較的小柄なベナード。オライザ組切っての実力者と目される二人は、例え子供一人を大人二人で相手取る事になったとしても、慢心を抱かない。エクウスとベナードそれぞれの手には、それぞれの【牙】が握られている。

「不躾なわっぱやの。まっ、悪う思うなや、これはワレが望んだ事でもあるんや」

 落ち着いた低い声でそう語る大柄な男エクウスの手には、しなやかな鞭が握られている。

「せやで、ワイらもオライザ組の看板背負っとる。恨みっこなしや」

 やや勝気な血気逸る小柄なベナードの手には、七つの枝の付いた矛、七支刀が握られている。

 ビアンに人違いを指摘されるも、先のリュカの情報とライゼルの認識とが噛み合わない。より強力だと教えられたエクウスの手に握られた鞭は、柄の先に柔らかそうな紐状の物が取り付けられているだけで、決して高い攻撃力が備わっているとは思えない。左右に幾重にも突起物を付けたベナードの矛の方が、よっぽど脅威に感じる。ライゼルは、直感的にベナードがより攻撃的な牙使いと踏んだ。

 今回の試合は、勝ち抜き戦が採用される。つまり、ライゼルは一人ずつを破り、二連戦を勝ち抜かねばならない。ただでさえ、経験の差があるというのに、人数による不利も背負わなければならない。

ライゼルにとって、ここがまさしく正念場である。ライゼルに圧倒的不利な条件で試合は執り行われる。

「さて、もうじき試合を始めてもらう訳だが、リュカ。貴様が同席しておるのはどういう了見だ? この試合に異を唱えた貴様がおる筋を聞かせい」

 存分に試合観戦を堪能しようと真横に陣取ったゾアの一睨みが、ビアンの隣に控えるリュカを刺す。

「肩書を持たぬ私では立会人にはなれませんが、もし法から外れるような行為が認められるようであれば、すぐさま中断できるよう、私もここで同席させていただきます」

 リュカは、自身がここにいる正統性を主張する。その眼には拒否されても譲らない強い意志が見受けられる。ビアンに同席を依頼され、ビアンの頼みであればリュカには断る理由がない。自分を気に掛けてくれる先輩の願いに報いたいという気持ちがある。

 ただ、その思いが強すぎる余り、リュカのゾアに負けじとする視線は苛烈そのもの。親子の視線の激しいぶつかり合いが火花を散らしている。

(おいおい、俺を挟んで親子喧嘩するんじゃない、頑固親子)

 ゾアとリュカに板挟みされているビアンは、試合結果が心配なのに加えて、左右の険悪な雰囲気に飲まれ、とても所在ない想いだ。その所為か、自然と無口になり押し黙ってしまう。

「・・・ふん、勝手にせえ」

 リュカの同席を了承したゾアは、目配せしてベニューに開始を促す。ベニューもそれを受け、対戦者達の方へ向き直る。

「それでは、ライゼル。人数の不利を考慮して、どちらと先に戦うかの選択権を与えます」

 厳かな調子でベニューがライゼルに問う。普段見慣れぬベニューの立ち振る舞いに緊張感を煽られるが、今は自分自身しか頼る者がない。ライゼルは改めて気を引き締め直す。

「ベナードと先にやる。こっちの【牙】の方が強そう」

「せやな、確かに一理あるわな」

 後回しにされたエクウスは、ライゼルの選択に賛同の意を示しながら、一旦陣の前から退く。

 ライゼルの作戦はこうだ。先に攻撃力の高そうなベナードの矛を全力で破り、残った余力で攻撃力の低そうなエクウスの【牙】を破る。余力の配分が出来ないライゼルにとって、最適の戦い方だ。これが今回、ライゼルが見つけた勝利への道筋なのだ。

「先にやるちゃうわ、ボケ。ワレが選べるんは、どっちにやられたいか、や」

 ベナードもライゼルに劣らず戦意を漲らせている。経験に優れるベナードは、もちろんこの生意気な対戦相手を打ち負かすつもりでいる。ベナードにとってライゼルは、礼儀を知らない年下の小僧でしかない。

「今回の勝負、武闘大会の規則に則り執り行います。よって、どちらかの【牙】が消失した時点で決着とします」

 この試合、勝利条件は相手の命を絶つ事ではもちろんない。【牙】とはつまり戦う意志であり、その【牙】(戦意)を喪失、あるいは【牙】を維持するだけの万全な星脈でなければ、戦う資格を失った事となり、敗北となる。

 故に、相手の身体に痛手を負わす事よりも、相手の【牙】そのものの破壊が優先される。

 【牙】は万物の干渉によって劣化する事はない。だが、唯一【牙】同士の衝突、つまり、性質の異なるムスヒアニマの干渉によってのみ、その形状維持を困難とする。星脈は各人固有の物であり、その星脈を循環した霊気は全てが唯一無二の性質を秘め持つ。

 【牙】と【牙】がぶつかり続ければ、いつかはいずれかの【牙】が『折』れる。負けない為には、【牙】を失わない事が前提条件なのだ。

「それでは、両人、前へ進んでください」

 ベニューが促すと、ベナードは仕切られた陣の中へ進入する。倣ってライゼルも歩み、聖域へと足を踏み入れる。この中は、戦士にのみ許された空間。その認識が、俄かにライゼルを高揚させる。

 両者が定位置まで辿り着き、相対する。

「いつまでも出し惜しみしとらんと、早よ【牙】を出さんかい」

 気の短い性格なのか、ベナードはライゼルを急かし、【牙】の発現を促す。この手の試合では、本来入場前に具現化し、携えて入るのが仕来たりなのだが、ベニューもライゼルもそれを知らなかった為に、まだライゼルの手に【牙】はない。無論、自身の【牙】を誇りに思うライゼルが、出し惜しみなどするはずがない。

「見てろよ、母ちゃん譲りの俺の【牙】!」

 一気に全身の星脈を解放し、霊気を星脈内に循環させる。青白い発光現象が、まさしくこれから【牙】を生み出そうとしているのだという事を物語っている。地面から吸い上げられた余剰霊気が溢れ出し、その光景に対戦相手のベナードは身震いを起こす。例えば、ゾアも強力な牙使いであるが、それとは違う末恐ろしさをライゼルが秘めているように感じられるのだ。

「こんガキ、えげつない星脈持っとるやんけ。デカい口叩くだけの事はあるっちゅーワケやな」

 星脈とは本来、この大地に生きる全ての者が持つ者であるが、霊気の奔流を正確に知覚できるのは牙使いだけである。更に言えば、普段の生活の中で、自身の星脈に霊気が流れている事を自覚している者は、皆無である。誰もが当たり前に生まれ持った素養であるが故に、星脈の流れが意識される事はほとんどない。

 しかし、牙使いは違う。【牙】の設計図を各々が持ち、地面より吸収した霊気を望む形に変質させ、【牙】を形成する。【牙】具現化の際のみ、星脈の存在を意識する。

 霊気の吸収は、呼吸に近いものかもしれない。人間が大声を発する時、その直前に肺は多量の空気を貯える。それと同じで、【牙】を形成するのに大量の霊気が必要となる。

 牙使いが【牙】を所望した段階で、全身の星脈が霊気を要求する。よって、発動者が任意で霊気を体内に吸い込むのでなく、本人の意思に関わらず、星脈が自発的に、地面から霊気を吸収し始めるのである。

 そして、他の牙使いと同じように【牙】を生成するのに、ライゼルだけがこれだけの膨大な量のムスヒアニマを必要とするという事は、生まれ持った星脈という素養が破格という事を示している。

「はっはっは、フロルめ。かようなとんでもない傑物を産み落とすとは、どんな腹をしておるのやら」

 ベニューを形成する諸々の要素が教育で培われたのなら、ライゼルのそれは遺伝という仕損じる事のない伝達方法で、その素養が継承された。フロルから受け継ぐ血統が、この【牙】なのだ。

(あれが、ライゼル君がお母様から受け継いだ【牙】・・・!)

 途轍もない才能の披露に目を奪われているリュカを余所に、青白い光が徐々に収束し、気付けばライゼルの右手には幅広剣が握られている。違えようのないフロルの血統である証。ライゼルの大言がこれに基づくものと言われれば、並大抵の人間であれば頷き押し黙ってしまうだろう。

「どうだ、参ったか」

「ドアホ、【牙】捻り出したくらいで粋がんなや。いくらごっつい星脈持ってたかて、ワレが使いこなせなんだら意味あらへんやろ」

 確かに一度は驚かされたベナードだが、その素養を前にしても、さして身構えている様子でもない。これからライゼルが相手にするのは、百戦錬磨の手練れ達。例え、ライゼルの星脈が規格外でも、それに勝る戦闘経験を持つベナードは物怖じしない。

そして、ついに両者が共に【牙】を現界させた。それはつまり、互いに戦う準備が整ったという事である。

「それでは、試合開始」

 ベニューが勢いよく宣言すると、先手必勝とばかりにベナードが飛び出す。身軽な彼らしい戦い方。繰り出す矛は、真っ直ぐにライゼルの幅広剣を目掛けている。

「もろたで、鈍間(のろま)」

「くっ」

 ライゼルもその一撃を幅広剣の面で受け止めようとするが、それこそがベナードの狙いだった。

「アホか。おどれの身を庇ってどないすんねん。【牙】折れたら負けやねんぞ」

 ベナードの指摘通り。【牙】が損耗し破壊されれば、どんな状況であろうと敗北を突き付けられる。多少の怪我を負ってでも、【牙】の損耗は抑えなければならないのが定石だ。もし、ベニューが今の任を負っていなければ「おバカ」と一喝していただろう。

 そうは言っても、受けてしまったものは仕方がない。先のはまだ取り返せる程度の失態。受けた一撃を弾き返し、ベナードが体勢を崩した隙を付く算段をする。片手握りで攻撃を繰り出してきたベナードに対し、ライゼルは両手で剣を構え受け止めている。制御の不安定な点での攻撃を、ライゼルは面で防御したのだから、安定して押し返す事ができる。

「てやぁ」

「ワイの刺突を受けて【牙】を取りこぼさへんかったんは褒めたんで」

 ライゼルの思惑通り、勢いよく弾かれた矛はベナードの腕ごと後方へ逸れ、ベナード自身も体勢を崩している。ベナードの体は開き、無防備な状態だ。今こそ好機と攻勢に転ずるライゼル。

 と、ライゼルが意気込んだのも束の間、隙だらけに見えたベナードだったが、決して弱みを晒してはいなかった。この不安定な姿勢も、戦い慣れしている彼にとっては、攻撃の為の準備姿勢となってしまう。

「オラオラ、どついたんぞ」

 体勢を崩したように見えたベナードであったが、軸足で踏ん張り踏み止まると、後方に逸らされたその勢いのままに体を軸に一回転し、横一線に矛を振り切る。思わず相手の反撃の間合いに踏み込んでしまったライゼルは、強力な一閃を繰り出されては、またしても剣で防御を取らざるを得ない。ガツンと大きな衝撃がライゼルの【牙】を襲う。見た目にこそ目立った変化はないが、確実にライゼルの幅広剣には、負荷が蓄積されていっている。

「またやっちゃった」

「何度でもやったんで、小僧」

 衝撃を往なし、姿勢制御をすると、場外寸前の後方まで飛び退いてしまったライゼル。範囲限界に近いという事は、それだけ移動に制限が掛かる。その位置計算込みでベナードは攻撃を仕掛けており、明らかに彼の方が戦い慣れしているのが見て取れる。おそらく、ライゼルの反撃も予想の範疇だったのだろう。無策のままでは、ライゼルは迂闊に手を出す事が出来ない。

「こんにゃろー、俺と身長変わらないくせに、すげー強いんじゃん」

「さっきから、ちびちび言いくさりよってからに。ワイに負けたら舎弟にしたんねんボケ」

 ベナードはこの試合の定石は心得ている。範囲の縁にライゼルが追い込まれたという事は、これ以上後方に避けれないという事。そうなると、前後を挟まれており、横方向にしか攻撃を回避できない。

「次の一発はどないもできへんぞ」

 そう言って繰り出してきたのは、試合開始直後と同じ突き。突きというのは構えた姿勢から最短距離で目標を攻撃する事ができる最速の攻撃方法である。要するに、この突きを以って先んじれば、後手に回ったライゼルは、その速度を追い越して反撃する事は適わないのだ。よって、ライゼルは再び受けに回るしかない。

 しかし、ライゼルもやられてばかりではない。この突きは先に一度見た技だ。空気の流れで敵の挙動を察知できるライゼルは、反撃できないまでも回避を行う事は十分に可能なのだ。実際、その突きに対して垂直に回避運動をし、七支刀の枝が六花染めの脇腹部分を僅かに掠めた程度で、攻撃を避ける事ができた。

 次は、全速力で突進して制止もままならないベナードの矛を、自慢の剣で叩き折るだけである。回避動作の際に、既に剣は振りかぶってあった。足運びと同時に幅広剣を振り上げ済みで、その点に抜かりはない。ならばあとは、それを矛目掛けて思いっきり打ち下ろすのみ…のはずだった。

「こん矛の枝が何の為にあるんか、ちっとは考えーや」

 確かにライゼルはベナードの刺突を回避できた。しかし、それさえもベナードにとっては作戦の内だった。

 ここで改めてお互いの位置関係を確認する。ライゼルは、背後に活動限界線がある。ベナードは突進の際に大きくライゼルに詰め寄り、懐への侵入を果たしている。という事は、ライゼルは前後を規則と敵とに挟まれた事になる。後方に退く事も前進する事も出来ず、片方の側面を回避した枝の付いた矛に阻まれ、残るはもう片方の側面しかない。これを理解するのが一瞬間早ければ、ベナードの術中にはまる事はなかったかもしれない。

「判断が遅いんじゃ、ボケ」

 そう呟いたかと思うと、ライゼルに回避の為の予備動作をする隙も与えずに、ベナードは柄を軸に矛を回転させ始める。矛に付いた枝が接触している六花染めに絡みつき、巻き上げる度に衣服がライゼルを締め上げる。枝が衣服に刺さり、しかも絡まっている為、ライゼルは身動きが取れない。衣服と肌の間の隙間が全くなく、腹部を六花染めによって締め上げられている状態になっている。

「なんだこれ、取れない?!」

「がっちり噛んどるから、その上等な服破らん限り逃げられへんで」

「やばいじゃん!」

「まぁ、逃がすつもりはないんやけどな」

 その言葉通り、服を脱ぎ取る隙も、反撃に転じる隙も与えず、ライゼルをうつ伏せにさせ組み伏せる。余りにも鮮やかな手際だった為に、周りの者はもちろん、ライゼル自身もその手並みに惚れ惚れとした。

「すげー、何されたか分かんないや」

「そのまま、分からずじまいで負けてまえ、このスカタン」

 暢気な事を呟くライゼルに構う事なく、ライゼルの左手を背に捻り上げ、それを左手一本で押さえつけ固定し、更に自身の両足で相手の両足を極め上げ、ライゼルの体全体を覆い被さるように抑え込む。圧倒的有利な体制を組み敷いたベナードは、六花染めを引き千切り、自身の矛を回収する。

 そのびりびりに引き裂かれた六花染めを前に、僅かにベニューの心は痛んだが、その分ライゼルが怪我を負っていない事を思えば、幾分気が楽になる。ベナードも悪戯にライゼルに怪我を負わす真似はしない。

 とはいえ、未だライゼルの窮地は続いている。足もベナードの両足によって極められ、動かせるのは右手のみ。しかも、その右手は守るべき【牙】を掴む手なので、弱点を晒しているようなものだ。

「おい、どけよ」

「急かすなや。おどれの【牙】をぶっ壊したら、さっさと離れてやるわい」

 ライゼルに抵抗されないようにしっかりと体を押さえつけながら、無防備な幅広剣に狙いを定める。ベナードにはライゼルの右腕を潰すという選択肢もあったが、その必要はない。組み伏せられた状態では、右腕の可動域などたかが知れている。加えて、この超至近距離であれば、討ち漏らす恐れもない。矛を振り上げ、幅広剣目掛けて打ち下ろそうとした次の瞬間、

「なんのつもりや、ワレ」

 ライゼルは咄嗟に逆手で握った剣を突き立て、矛の一撃を受け止める。ちょうど、矛の枝と枝の間に剣の刀身が挟まり、がっちり噛み合う状態になる。要は【牙】同士の腕相撲の形だ。ベナードが振り解こうとするも、ライゼルが矛の上から剣を押し付けようとする為、噛み合ったまま拮抗している。

「なんや、力比べしたいんか。おもろいやんけ」

「これしか方法がなかったんだよ」

 ベナードの方が体勢的に右腕の可動域が広く、肘を曲げ腕を後方に引く力で剣を折りに掛かる。一方ライゼルは、床とベナードに挟まれ圧倒的に肩の可動域は狭い。剣を立てた時とは握り方を変えて、順手で掴んだ剣を肘を伸ばし、押す力で矛を折りに掛かる。こうなってしまえば、純粋に力比べであり、競い合うのは単純にどちらの【牙】が頑丈かという勝負になる。

「フロルの倅、とんだ傾奇者よな。かような試合は見た事がない」

 ゾアが評したようにライゼルの戦い方は常軌を逸している。定石通りの戦い方を見せるベナードと相対しているからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。下手をすれば茶番と一蹴されかねない泥仕合だが、力のベナードと評される彼相手に力比べを挑むというのは、存外見応えがあるとゾアは心躍らせている。

 【牙】の強度は、意志の強さ。どちらかより勝利への執念が強いかが、勝負を分ける。

「ええ根性しとるわ。ワレみたいなおもろいヤツ、絶対ワイの舎弟にしたんねん!」

「じゃあ、俺が勝ったら、その『しゃてい』が何なのか、教えてもらうから!」

 互いに軽口を叩き合った後は、両者とも歯を食い縛り、ただ右腕だけに全力を込める。均衡した力は、互いの【牙】に集中し、直接負荷が加えられる。蓄積した損耗を考慮すれば、ベナードが優勢に思える。しかし、ライゼルには他を圧倒する七光りがある。

「うぉぉおおおおおッ!」

 床に組み伏せられたライゼルは、【牙】を現界させて尚、星脈に霊気を循環させる。より床に密接している為、霊気の吸収がいつもより速い。集めたムスヒアニマを自身の星脈を通し変換させ、更にそれを【牙】に集束させる。

「おどれ程のびっくり人間、見た事ないわ」

 ベナードもライゼルが何をしようとしているのか察しがつく。ライゼルは更にムスヒアニマを注入する事で、【牙】を更に強化しようとしているのだ。これは一般的な牙使いには不可能な荒業である。既に【牙】を発現している状態で自ら意識的に星脈へ霊気を循環させる事は、決して容易な事でない。例えるなら、自律神経の通っていない箇所を意識的に自在に動かすようなもの。それは、そもそも人に備わっていない機能を使おうとしていると言っても過言ではない。

 それに、そもそもこの行いの能う道理がない。大声を出す為に空気を必要とするのであり、それ故に直前に空気を吸う事が条理である。が、今ライゼルがやろうとしている事は、大声を出しながら同時に息継ぎをし、更なる大声を出そうとしているものである。常識的に考えても、それは人の行いではない。けれども、ライゼルは勝利の為にそれを敢行しようとする。

道理を無視して無理やりその手段を取れば、牙使いは体力を激しく消耗し、吐き気や眩暈に襲われる。それに、星脈を酷使すれば星脈そのものを傷つける事となる。命のやり取りが久しく行われなくなった現代では、無謀な行いでしかない。

 だが、それは言い換えれば、ライゼルがこの試合に命懸けで挑んでいる事の表れだった。決して生半可な覚悟で、この勝負に臨んでいるのではない。譲れない信念があって、勝利を捥ぎ取らんとしているのだ。

 損耗と強化を勘定に入れて両者は五分と五分。どちらが勝ってもおかしくない様相を呈す。剣と矛がせめぎ合い、【牙】の軋む音さえ聞こえてくる。体勢の変わらぬままの試合が数分間続き、この両者の根競べには終わりがないように思えた。

 だが、勝負とは勝敗を決するからこそ、そう名付けられているのであり、そしてこの試合も例に違わず遂に雌雄を決する。結果を告げたのは、終始優勢を維持していたベナードの咆哮であった。

「くっそぉー、イカレてもうたーーー!!」

 ライゼルが状況を把握する前に、ベナードの絶叫が武道場に響く。それに続いて、ベニューが試合終了を告げる。

「ベナード側の【牙】の破壊を確認、よって勝者ライゼル!」

 矛から生えた枝が二本程欠けていたのだ。折れた枝はいつの間にか霧散し消失していた。ベナード本人は余力十分でまだ戦闘を継続できただろうが、これはそういう規則に基づいた試合である。戦闘続行可能であっても、頼みとする【牙】が損壊したという事は、その所有者の敗北なのだ。

「へっ、勝った?」

 もちろん勝つつもりで挑んだ勝負であったが、実際に決着してみても勝った実感がライゼルにはない。苦戦に次ぐ苦戦、窮地に次ぐ窮地と、この勝負で気が抜ける瞬間なぞ一時もなかった。終始、試合を優勢に進めていたのは、誰の目から見てもベナードだと言えた。それを覆しライゼルが勝利を収められたのは、時の運によるものだった。

だから、ベナードもその心情を吐露せずにはいられない。

「おどれが勝ったんちゃうわ。ワイが勝たれへんかっただけや。次はこない幸運はあらへんからな」

 そう言い捨てて、仕切られた陣から出ていく。この場は、【牙】を持つ者しか立ち入れない聖域。【牙】を欠いた者は立ち去るのが道理だ。ライゼルは勝ち残り、その場に留まる。

(俺が、勝ったんだ・・・俺の【牙】が)

 ベナードが言った次とは、もちろんエクウスの事を指している。逸る鼓動を深呼吸で抑えながら、ベナード越しに見えるエクウスを見やる。如何な経緯であれ同格と目されるベナードが負けたというのに、奥に控えるエクウスから焦りのようなものは一切窺えない。ライゼルは、エクウスよりもベナードが強敵と踏んで先に勝負を挑んだのだが、その読みが甘かったという事なのだろうか? 現時点で、相手の能力は未知数だ。

 ベナードが陣の外へ控えると、代わりに鞭を携えたエクウスが聖域の中へ進入してくる。

「ええ試合やった。ワイも一戦目やったら、負かされとったかもな」

 淡々とライゼルの実力を評するエクウスの言を言葉通りに取ると、一戦目だったら危うかった、だが二戦目の今はそうではない、という事になる。二戦目として挑む自分は、ライゼルに負けないと、エクウスはそう言っているようである。

「何戦目でも関係ないよ。俺はアンタに勝って、王都へ行くんだ」

 ライゼルは【牙】を取り直し、改めて陣の中央へ向かい、エクウスと相対する。ベナードによって端へ追い詰められていたライゼルは、陣の中心へ戻る合間に呼吸を整え終えている。ふうと息を吐き、これから試合う相手を正面に見据える。見つめる先のエクウスの身の丈は、ライゼルよりもずっと高く、その分手足も長く、間近で見るとその全身が視界の中には収まらない。その全身を見ようとするなら、上下に視線を移動させなければならない。それに、もし両手を広げれば、どこかが必ず死角になってしまいそうだと感じる。加えて、エクウスの【牙】と腕の長さ込みで見て、有効射程はライゼルの剣よりも長そうであり、苦戦を強いられそうだとライゼルは肌で感じている。少年が自身の背中に一筋の汗が走った事を自覚した時から、突如として発生した緊張感がこの場を支配し始めた。

 その二人の姿を、陣の外より座して見物するビアンとゾア。辛くもライゼルが勝利を収めた事に安堵したのも束の間、これまでのエクウスの活躍を知るビアンは気が気でない。相手は、【牙】の扱いに長ける名うての実力者だ。先のような僥倖が二度も続くとは、ビアンも楽観視していない。この二戦目が、真にライゼルの力が試される試金石となる。

「ビアン、ちったあ小僧を信じて落ち着かぬか」

 試合が始まってから、酷く忙しない様子のビアンに、ゾアが一言声を掛ける。

「そう仰いますがね、もしライゼルが負けて、王都へ連れていけないとなると、職務を全うできなかった自分は、閣下よりどんな処罰を下されるか」

 もし、そのような事になれば、昨日までのオライザへ連絡できなかった状況とは比較にならない程の重大事件となる。取り様によっては、王に対する反逆罪だ。

「ふん、この大一番を前にしてそんな下らん事を考えておったのか。なぁに、路頭に迷った時はウチで預かってやろう、安心せい」

「…感謝します」

 ビアンの懸案を笑い飛ばすゾアの視線は、真っ直ぐにライゼルに注がれている。実を言えば、その出で立ちから、最初から見所があるとは思っていた。幸運に助けられたとはいえ、終始ライゼルを圧倒していたベナード相手に逆転劇を演じて見せたのだ。オライザ組二強と目されるベナードを倒したとなれば、期待は余計に膨らむ。フロルを知るゾアだからこそ、ライゼルの【牙】に魅せられてしまうのだ。

「ベナードに競り勝ったのは見事の一言。だが、手の内を知られたエクウスを相手にどう出る?」

「お言葉ですが、ライゼルに策なんかありませんよ。例えあったとしても、小手先だけではエクウスは倒せない」

 ビアンが水を差す事さえ、ゾアにとっては心地よい。ビアンは、ライゼルとエクウスの両者を知りながら、そう言ったのだ。それは、客観的に見てもエクウスに分があるという事を意味している。だが、そうでなければ、この条件を飲ませた、言い換えれば試練を課した意味がない。

「経験も知恵もないなら、また生まれ持った才能に頼るか、それもよし。フロルの倅に課したのは、何よりも勝つ事だ。勝ちを手繰り寄せられるかどうか、見物(みもの)だわい」

 この勝負の前、諸々の取り決めが為される時、ライゼルとゾアの間であるやり取りがあった。

『小僧、儂を頷かせたくば、何よりも勝利し証を立てろ。儂が課すこの試練、見事に乗り越えて見せい』

『もちろん、勝って俺は強くなる、そんで、王都に行く』

 そもそも、二対一の勝負というのは、明らかにライゼルが不利な試合である。本来であれば、人数を合わせゾア一門の戦士を一人減らすのが筋だ。だが、敢えてそうはしなかった。

「前進する為に必要なものが何なのか。気付けぬままなら、『貴様ら』の負けだ」

 不敵な笑みを浮かべるゾアの視線の先では、第二試合目が始まろうとしている。

「それでは、両人、前へ」

 立会人に促され、ライゼル、エクウスは所定の位置に着く。こうして並ぶと、改めて身長差を思い知らされるライゼル。先日戦った大男ルク程ではないにしても、少年期のライゼルと比べるとその差は歴然。加えて、手にしている【牙】の特性を考えれば、陣によって仕切られた事も相まって、射程範囲の広さはエクウスに大きな優位性をもたらす。

「手心は加えへんで」

「いらないよ、俺も本気で行くから」

 両者が啖呵を切り合った所で、試合開始が告げられる。

「これより、始め!」

 合図と共に先んじたのはライゼルだった。ライゼルは試合開始より以前に、先手を打つ利点を見出していた。平素の考え足らずのライゼルにしては珍しく、エクウスの【牙】の特性を見抜いていたのだ。

 持ち手の柄に紐状の物を付けた鞭という武器。これは先端の紐を相手に打ち付けて攻撃するものだが、紐を振るうには遠心力を利用する為に一度反対方向に引かねばならない。そして現在、エクウスは鞭を構えていない。つまり予備動作にまだ入っていない。ライゼルはそこが付け入る隙と見た。

「先手必勝!」

 ライゼルの狙いは、なかなか合理的だった。鞭の攻撃範囲が広いとはいえ、その範囲内であっても至近距離の相手には有効打が繰り出せない。伸びきる際に先端に力が伝達するのが鞭の特性。このままエクウスの懐に入ってしまえば、エクウスと鞭の相性の良さを無視して、畳み掛ける事ができる。ライゼルの本能が、真向に立ち向かっては勝ち味が薄いと悟らせたのだ。

「もらった!」

 走り出しながら振りかぶっていた剣を、エクウス目掛けて振り下ろす。瞬く間に詰め寄り、縦一閃。

「見た目ほどドアホってワケでもないんやな。せやけど、それが通じるんは二流までや」

 ライゼルの意図に気付いたエクウスは、寸前の所で太刀筋を見極め、素早い身のこなしで一刀を避けて見せる。

「なんだよその口ぶり、アンタ一流なのかよ」

「その身でとくと味おうたらええがな」

避けたばかりでなく、ライゼルの右側面からその懐へ急接近、更にその鞭を用いてライゼルの首を締め上げる。利き手側に回られたライゼルは、その至近距離からの搦手に、剣での反撃が出来なかった。

「んぐぐっ」

 首に巻き付けられた鞭を、咄嗟に間へ挟んだ左手で外そうと試みるも、エクウスの締め上げる力が加えられていて、そう簡単に脱出できない。更に、エクウスが締め上げた紐の両端を身の丈一杯に天高く持ち上げるものだから、足の届かないライゼルは首を絞められたまま宙ぶらりんの状態になる。足をばたつかせても、決して地を蹴る事は出来ない。

「どうや、早よその【牙】を捨ててまえ。そしたら、もう終いにしたる。そんで、頭領の世話になって何年か修行せえ。間違いなく強うなるで」

(そしたら、ワイやベナードではどうしようも出来へん程の【牙】使いになれるやろな・・・)

 そう心中で想いを抱きながら、ライゼルに対し慈悲の言葉を掛けてはいるが、エクウスの両腕から力が抜ける事はない。宣言通り、手心を加えるつもりはエクウスには一切ないのだ。自らの勝利が確定するまで、手を抜く事はあり得ない。例え、この少年の行く末が楽しみであっても、ここでそれが大成される訳ではない。一旦、エクウスが引導を渡し、挫折を味わった先にこそ、真の成長があるとエクウスは見込んでいる。ライゼルが対戦前からエクウスを脅威と感じたように、ベナードとの試合を見てエクウスも、ライゼルの底力を認めていたのだ。

 が、そんな事はライゼルには関係ない。その理由では、ライゼルの原動力に制動を掛ける事は適わない。

「勝手なこと、ばっかり…言うな」

「勝手やないわ、ワレの為や。ワレ、けったいな連中から命狙われとるんやろ? ワイらに勝てへんのに、そいつらには勝てます、せやから行かしてくださいっちゅうんは、筋が通ってへんやろ?」

 ライゼルの不利には違いないが、エクウスもこれ以上どうしようもないのは事実である。誰もが知るように鞭は殺傷能力の高い武器ではない。人に痛みを与える事には向いているが、破壊力はほぼ皆無だ。これでは、ライゼルの幅広剣を破壊する事は適わない。であれば、エクウスの勝利条件は、ライゼルの降参、あるいはライゼルの気絶による【牙】の消失である。このまま締め上げ続ければ、ライゼルはその用意されたどちらかの敗北方法を選択せざるを得ない。時間の経過が、エクウスに勝利をもたらす事になる。

「勝てばいいんだろ、勝てば…」

「そうや。ワレがワイに勝てるんやったら何も文句はあらへん。頭領もきっと許してくれるやろ。せやけど、ワイらに勝てへん奴がぎゃあぎゃあ喚く資格はないんや。それがこの試合の決め事や」

 窮地に立たされる弟に対し、何の力にもなってあげられない事を、ベニューは物凄く悔やんだ。もしベニューが立会人の任を受けていなければ、何か助言ができたとも思う。例え、打開策を授けられなくても、声援を送り鼓舞する事は出来たかもしれない。少なくとも、ライゼルの味方でいてあげる事ができた。しかし、飽くまでそれは、もしもの話。今はライゼルを信じて、見守るしかない。

そうベニューが腹を括ったが、これまでにない窮地にビアンは居ても立っても居られない。

「頭領殿、どうかご慈悲をください」

「ならぬ。この条件を飲んだのは他でもない子倅だ。約束を違える事は罷りならん」

「そんな…」

 絶体絶命。この状況を指すに相応しい言葉は、まさしくそれだった。このまま試合に負ければ、ビアンは単身で報告の為に登城し、何故証人を連れて来なかったのか問われる事になるだろう。それを思うと、ビアンの胃はキリキリと痛む。

 だが、未だかつてない窮地に違いないが、八方ふさがりという訳でもなかった。ライゼル一行がゾアに認めさせるには、手はまだ残されていた。それを遠回しにゾアが助言する。

「ここは、戦士のみが立てる聖域。即ち、戦士(きばつかい)がおればいいのであろう?」

「いえ、私は【牙】を持っておりませんし」

 ビアンにはゾアが何を言わんとするのか察する事ができない。切羽詰まった状況になると、どうも思考が鈍くなってしまうのがビアンの悪い癖である。隣の青年は、何を言わんとするか察したが、敢えて助言せず黙したままだ。

「貴様は、あやつらより他に牙使いを知らぬのか?」

「まさか、頭領殿が二人目として参加していただけるのですか?」

 ビアンの頓珍漢な答えに、ゾアが指弾を見舞う。ビアンの頭より大きな掌だ、その指弾となれば常人の拳での殴打に匹敵する。強烈な痛みに耐えるビアンに、ゾアが一喝を喰らわす。

「たわけ。この試合に際し、儂に意見した愚か者がおったであろう?」

「そうか!」

 気付いたと同時に、隣に控えている青年の方へ振り返るビアン。視線を向けられたリュカは、静かにその期待をやんわりと否定する。

「それは有り得ません。僕はこの試合自体を止めさせたいのです。その後の裁定は、頭領殿の判断に従いますので、もう決着でよろしいのではないでしょうか?」

 そう苦々しく表情を歪めるリュカの視線の先には、首を絞められ、もがき苦しむライゼルの姿がある。

「何が良いというのだ?」

「とぼけないでください。どう見てもライゼル君に勝ち目はないでしょう? これ以上続ける理由がどこにありますか?」

 ゾアはリュカの発言を咎めるが、反対にリュカはゾアの態度を窘める。ライゼルはエクウスの鞭に捕らえられ、もう逆転の目はない。試合の続行は、苦しみを長引かせるだけでしかない。

「おい、リュカ。棄権などしたら、姉弟の王都への随伴が適わなくなるだろ?」

 ビアンもリュカの中断させたいという判断には反対意見を示す。が、それでもリュカの反駁は続く。

「いいじゃないですか、彼が傷付くよりよっぽどいい。エクウス殿、もう勝敗は決しました。ライゼル君を降ろしてあげてください」

「すんまへんが、ボン、それは聞けまへんのや。ワイもこの小童にまだ勝ったとは思っとらんのですわ」

 エクウスもリュカをないがしろにしている訳ではないが、それでも彼の話を聞き入れない。保護者であるビアンも、対戦者であるエクウスも、当主であるゾアも、誰もリュカの申し入れを聞き届けようとしない。

「皆さん、何をやっているんですか? ベニューさんも止めてください」

 そう訴えかけてもベニューもそれに応じようとせず、ただ相対する二人を直視し続ける。立会人として、決して目を逸らさず、その決着を見届けるという気位が見て取れる。

「無礼者。互いに信念を掛けた勝負の最中に、横槍を入れる者があるか」

「今すぐ止めさせてください。これ以上続ける事に何の意味もないはずです」

 リュカには、エクウスがライゼルをいたぶっているようにしか見えない。抵抗できない弱者を嬲っているようにしか映らない。エクウスがライゼルに見出した将来性の事など、リュカにとっては念頭にない。

「ライゼル君、降参するんだ。こんな無意味な試合に君が倒れる必要はない」

 外野が応じないのであれば、当人に訴えるしかない。リュカはライゼルに降参を勧める。しかし、ライゼルもそれに応じようとしない。

「…い、やだ」

「どうして? 何故そこまで意固地になるんだ?」

 リュカの必死の説得に対し、ライゼルのか細い声が反論する。

「…にげたら、みちがなくなる」

「えっ?」

「にげたら、だれも、まもれない」

 もう耐える事すら困難な状況なのに、声を出し自分の意志を示そうとするライゼル。呼吸もままならず、脳に酸素がほとんど届いていない。意識も朦朧としている。それでも、強がって見せ、己の信念を貫こうとする。その姿に、リュカは自分の行いを恥じた。

 思えば、リュカのこれまでの人生は、逃げる事の連続だった。大巨人と畏敬される父の嫡子として生まれ、いずれはその父の跡を継ぎ、オライザ一円の頭領を担う事を期待されていた。父と同じ【牙】にも恵まれ、将来を有望視されていた。

 しかし、その重すぎる期待は徐々にリュカを押し潰していった。幼少期から何もかもを父ゾアと比較され、その悉くがゾアに遠く及ばない。体格も比較的小柄で、性格も大人しく、組の精鋭を束ねるにはいささか頼りない。【牙】こそ有しているが、その力を自在に扱う事は適わないどころか、発現させた瞬間に気を失ってしまう貧弱さ。それ故に、周囲のリュカへの関心は次第に薄れ、リュカ自身も父から身を遠ざけるようになった。

 だが、今ライゼルの勇姿を目の当たりにして、思い出した事がある。周囲はゾアと比較し、及ばぬリュカに落胆したが、父自身はそのような態度を見せた事はなかった。逃げる事を詰りはしても、リュカ自身の素養に失望した事は一度もなかった。リュカが勝手に劣等感を覚え、逃げ出していただけなのだ。受け継いだはずの【牙】を頼みとする事が出来なかったからと言って、次の新たな道と見出したものを無理やり周囲に押し付け、あまつさえ高みを目指し邁進する者達の足を引っ張っている。

(そうか、ただ僕が立ち向かっていかなかっただけなんだ)

 リュカの制止も空しく、勝負は決着を迎えようとしていた。時間が経つに連れ、いよいよライゼルの抵抗が弱々しくなってくる。もがきながら蹴りを食らわせていた両足も、今ではほとんど静止している。

「いつまでぶら下がっとんねん。早う落ちてまえ」

 ライゼルの全体重を二本の腕で支え続ける事に疲労を感じてきたエクウスは、とどめと言わんばかりにもう一段階鞭を手繰り寄せ、一気に締めに掛かる。持ち手からの距離が短くなった分、エクウスの力は直接的に伝達される。

 ライゼルも飽くまで負けを認めず、【牙】を放せない右手の代わりに、左手一本で抵抗する。

「ぐっ、ぅう・・・」

 が、しかし、ライゼルの必死の抵抗もここまでだった。強張っていた体から力が抜け、握り締めていた剣も取りこぼす。幅広剣は床に着地した瞬間、ライゼルの意識同様に霧散する。

「…ライゼル君?」

 リュカが窺うように声を掛けるが返事はない。ライゼルは既に気を失っているのだ。気を失うまで戦い続けた勇猛な戦士。だが、結果は少年の執念に報いず、勝利を少年に授けない。その場に残り、立ち続けたのは、

「ライゼルの戦意喪失を確認。よって勝者、エクウス!」

 ベニューは気丈に振る舞いながら、弟の敗北を宣告した。ライゼルの気絶により勝負は決着した。ライゼルは、試合に勝てなかったのだ。

 激闘が終わり、道場の雰囲気はがらりと変わる。取り決めた通りに試合を行い、結果が出たというのに、誰の顔にも納得のいった様子が見受けられない。旅の一行はもちろん、オライザ組にも。

 それでも、勝敗が決した事に変わりはない。ゾアは試合を総括し、この場を閉じようとする。

「稀に見る見事な戦いぶりであった。エクウス、子倅を床の間へ抱えて行ってやれ。二代目も付き添うといい」

「待ってください!」

 ゾアがそう指示して、各人がそれに従おうとした時だった。リュカが、エクウスとベニューを引き留めた。

「エクウス殿もベニューさんもその場にいてください。彼はビアンさんにお願いします」

 試合中のみならず、試合が決しても尚頭領であるゾアに盾突くリュカ。ゾアの憎悪さえ含んでいそうな睨みがリュカを射殺す。

「最後までこの試合を汚そうとするのか。二人を残して何をするつもりだ、リュカよ?」

「試合です。ライゼル君側の二番手は、僕が務めます」

 倒れたライゼルに代わり、試合を買って出るリュカ。これまで戦う事から逃げてきたリュカであったが、ここで背を向ける事は出来なかった。そんな事をすれば、自分を自分で許せない。己を高め続けるライゼルに散々制動を掛けさせるような物言いをしてしまった。もしも適うなら、その償いがしたいとリュカは願う。その為の手段が、ライゼルの望む結果を彼に与える事。自らが背を向けてきたやり方で、それを遂げようと思うのだ。

「それを儂が許すとでも?」

 肉親であるリュカでさえたじろいでしまう程の凄みが、ゾアにはある。あと数年で還暦を迎えるようには思えない精力である。しかし、意を決した今、こんな所で怯んでいられないリュカなのである。

「五分の口が利けないのは、戦う意志のない臆病者だけです。僕にはこの【牙】があります」

「…ふん、言うだけなら易いがな。どうだエクウス、この申し出受けるか?」

 ゾアが水を受けると、エクウスは改めて所定の位置に着く。こうなる事を予見していたのか、まだ【牙】は仕舞わずにいる。維持するだけでも相応の体力を消費する訳だが、その手には戦う意志がまだ残っている。つまり、多少の不利を負ってでも、試合継続をエクウスも望んでいたのだ。

「へい。小僧を倒したのはほとんどベナードの手柄みたいなもんですわ。ワイも頭領の前でカッコつけとうございます」

 もしライゼルが一戦目でのムスヒアニマの継ぎ足しをしていなければ、まだ体力は残っていただろうし、ライゼルに疲労のない状態であれば、そもそも初撃の縦一閃も回避できたかどうか。エクウスは口にこそしないが、そう捉えている。この勝利に満足するには、エクウスは矜持を捨て去らなければならない。エクウスにそんな事はできなかった。

「…相分かった。二代目、そういう事だ」

 ベニューもその決定に首肯で応じる。まだ僅かにでも可能性が与えられるというのなら、ベニューとしても願ってもない展開だ。ここでライゼルの夢が潰えるのは忍びない。

「はい、それでは両者、次の試合の用意をお願いします」

 ベニューに促され、両者は次の試合に備える。エクウスは絞め落としたライゼルをビアンに引き渡す。

「気ぃ失っとるだけや。横に寝かせとったらその内起きるやろ」

「一切手加減しない辺り、エクウスらしいな」

 ライゼルを預かりながら、ビアンはエクウスの強さを称える。今回に限ってはお目溢しをもらいたかった所だが、エクウスの容赦ない強さは、オライザに身を置く者としてはこれ程頼りになるものはない。

 ただ、ビアンは軽口のつもりだったが、エクウスはそうは受け取らなかった。

「アホ言いないなや。このわっぱの一発目、あれを避けられるんはオライザにもそうおらへん。一戦目を見てへんかったら・・・」

 そこまで言い掛けて、急に言葉を噤むエクウスは、ビアンの後方へ視線を向けている。その自身を通り過ぎる視線をビアンが辿ると、そこには陣の外へ控えたベナードがいる。

「それ以上勝手は言わさへんぞ、エクウス」

 どうやら、遠目から凄むベナードの双眸が、ベナードの言葉を遮らせたようだ。確かに、エクウスがそれから先を紡がずとも、言わんとしている事は察する事ができる。先程ライゼル本人に伝えた通りの事なのだろう、自分も一戦目であれば、結果は分からなかった、と。だが、それをベナードは許さない。エクウスのその言葉は、先に戦う事になったベナードに対し、気遣っているようにも受け取れる。それは、見方によっては見下されているようにも受け取れるのだ。少なくともベナードはそう感じた。ベナードは役目を終え退かなければならないのに対して、ベナードは【牙】をその手にした状態で、連戦を務める。勝敗が、同格の戦士の処遇を分けたのだ。

 ベナードは、自分と共にオライザ二強に並び称されるエクウスを、飽くまで競うべき好敵手として見ている。エクウスから先のような下に見られる扱いを受けては、ベナードの矜持がひどく傷付けられてしまう。

「・・・せやな。まぁ、ワイがボンをのしたら続きを聞かせたるわ。覚悟しとけやベナード」

 ベナードからこうもあからさまに噛み付かれては、エクウスもつい言い返してしまう。これから戦うリュカを余所に、身内同士で火花を散らし合うエクウスとベナード。この競争意識がオライザの戦士を育てる要因なのかもしれないが、お互いに敵意を剥き出し合う二人がこのまま加熱してしまう事を懸念したゾアは、ベナードに退場を命じる。

「ベナード、貴様が小僧を連れていってやれ。ビアンにはこの試合を見届けてもらうでな」

「・・・へい」

 エクウスから目を逸らさないままそう返事をし、ビアンから意識を失っているライゼルをぞんざいな扱いで受け取る。自分と然程大差ない体格のライゼルを肩に担ぎ、道場を去っていくベナードの背中からは、この上ない不機嫌な様子が窺えた。これから控える試合を妨げない為のゾアの処置だった訳だが、敗北を喫してしまったベナードにとっては、挽回する機会もなく歯噛みする思いに違いない。この覆らない結果を受け止め、自身を下したライゼルの傍らに居続けなければならないというのは皮肉なものと言えるかもしれない。

「待たせてもうてすんまへん」

 物腰こそは頭領の子息相手という事で幾分柔らかくなるが、それでも先程まで好敵手であるベナードに向けられていた敵意は衰える事なく、そのままの状態でリュカに向けられる。ライゼル相手に本気で挑んだのと同様に、リュカ相手にも手心を加えるつもりは更々ない。

その迸る戦意を正面に受け止めつつ、リュカは戦う『資格(きば)』の準備をする。

「ありがとうございます、エクウス殿。僕の我侭に付き合っていただいて」

 リュカは手に霊気を集中させながら、エクウスに礼を述べる。言われたエクウスは、戦意を維持しつつ努めて冷静に応じる。

「頭領はあないな風にしか言えまへん。せやけど、誰が何と言おうと、跡目はリュカ坊しかおらんのですわ。ボンの本領、今ここで確かめさせてもらいます」

 元々表情が豊かでないエクウスの面長の顔に、更に険しさが宿る。相手がライゼルだろうとリュカであろうと全力で相手する事に変わりはない。彼もオライザ組の看板を背負ってここに立っている。譲れないものがあるのはエクウスも同じ。

 それを察したリュカは、覚悟を決め、星脈を全開に循環させる。リュカの全身を駆け巡ったムスヒアニマは、固有の性質へと変化し、エクウス相手に立ち向かう為に欲する、リュカの望む【牙】へと姿を変える。大地から吸い上げられる霊気は、ゾアにより破格と評されるライゼルにこそ及ばないが、周囲からの頼りないという評価を大きく裏切る膨大な量だ。その意外な素養に、その場に居合わせた者は皆息を吞む。驚かされたのは父であるゾアも、だ。

「ふん、出し惜しみしおってからに・・・」

「これが、あのリュカの【牙】・・・?」

 ここ数年を共にしてきたビアンさえも知らぬ、リュカが現界させたその【牙】を見た途端、相対するエクウスは感嘆の声を漏らす。

「・・・なんや、頭領の【牙】見とるようや」

 先程までほとんど感情を見せなかったエクウスが、初めて動揺の色を見せる。驚きの余り、笑みさえ溢してしまった。頬の筋肉が弛緩し、思わず口角が上がる。何故なら、リュカの発現した【牙】が、ゾアの【牙】と非常に酷似したものだったからである。

 リュカの身の丈程の大きな槌。長い棒を米俵に刺したかのような人間並みの重量を誇る武器。標的を叩き潰す事に特化した打撃系最高威力の大槌がリュカの【牙】だ。ゾアのそれとの唯一の違いは、打ち付ける平面が片側しかなく、もう一方は二股の爪となっている点のみ。ゾアの【牙】を知る者から見れば、それはかの大巨人を彷彿とさせるのだ。

 以前のリュカは、ゾアの【牙】を意識する余りに自分本来の【牙】の設計図を思い描けなかったが、惑う心を振り払い、ついに自らだけの【牙】を現界させる事に成功した。ゾアの血筋を感じさせながら、飽くまでリュカ個人の精神が反映させられた固有の【牙】。これと今からやり合えるのだと思うと、元より全力で臨むつもりだが、俄かに心が滾るのをベナードは感じざるを得ない。

(これや・・・これが見たかったんや。先鋒を張ってくれたベナードには感謝せなアカンな・・・!)

 そして、両者の準備が整ったところで、ベニューは最後の試合の幕開けを告げる。

「それでは、始め!」

 先の二試合と違い、開始の合図が告げられても両者は動かない。エクウスも、誰も味わった事のないリュカの【牙】に気が流行るのを覚えているが、そこは冷静に相手の挙動を見極める。

お互い勝手知ったる仲であり、それぞれの武器の特性は形状から察している。エクウスの鞭は撓りを利用した中距離の攻撃を得意とし、リュカの大槌は慣性を利用した近距離の攻撃を得意とする。有効射程に差異こそあれど、お互い攻撃の始動が予備動作で察知される為に、読み合いの勝負となる。

 初速の素早さは、エクウスに分がある。それを承知しているエクウスは、牽制の為に頭部を狙って一発鞭を振るう。リュカは、上体を仰け反らせるだけでそれを回避し、同時に振りかぶる動作を始める。鞭が伸びきった状態という事は、一旦それを手元まで引き寄せ構え直さなければ、次の攻撃に転じる事は出来ない。いくらエクウスが鞭の扱いに長けているとは言え、その道理は覆せない。この間に、リュカが攻撃に転ずる好機がある。

「はぁッ!」

 リュカの攻撃目標は、エクウスの利き手である右腕。鞭を握れなくなれば、所有者からのムスヒアニマの供給が途絶え、【牙】はその形状を維持できなくなる。勝つ為には非情に徹しなければならないのだと覚悟する。

 振りかぶるリュカは、しっかとエクウスを有効射程に捉えた。例え、ここでどちらかの方向に回避されたとしても、リュカは大槌の頭を押し込む追撃が十分に可能であるし、反対にエクウスは予備動作を必要とし即座に反攻に出られない。あと二発の間、リュカは優勢を維持できるはず。

 衝突の瞬間、エクウスは身を翻し、寸でのところで側面に逃げる。初撃はエクウスを捉えられず、床を強烈に打ち付ける。振り下ろす時の風圧も、間近で感じるとなると恐ろしく、その振動から、その身に受ければどれ程の衝撃を味わう事になるのか見て取れる。リュカの【牙】の威力は、エクウスのそれと比べて桁違いに凄まじい。この一撃を以って、既に次期頭領の資質を証明したといっても過言ではない。

「てい!」

 床を叩いた反動で大槌の頭は床から瞬間的に浮き上がる。その浮き上がった力を利用して、槌を両手で突き出し、エクウスに突進を見舞う。これを回避する事はエクウスもままならず、初めて攻撃が当たった。

「お見事でんな。これは避けられへん」

 腹部にその一撃を喰らったエクウスだったが、槌の頭を脇に抱え込み、リュカの槌捌きを制限する事に成功した。しかも、鞭は次の構えに移っていた。

「ボン、詰めが甘うございます」

 すかさず放った鞭は、リュカの左足首に巻き付く。先端を巻き付かせたままエクウスが鞭を後方に引っ張ると、リュカは体勢を崩され、背中を床に打ち付ける。

「しまった」

 倒れた時の衝撃で、リュカの手から【牙】が離れてしまった。その瞬間をエクウスは見逃さなかった。

「ワイがボンに勝とう思たら、これくらいしか方法がないんですわ!」

 落ち着き払った雰囲気でありながらも、その声には物凄い力を込めている事が分かる。リュカが得物を取りこぼしたのを確認しすぐさましゃがみ込んだエクウスは、リュカの身の丈程の大槌を場外へ投げ飛ばそうとしているのだ。【牙】が聖域から離れたとなれば、戦う資格を失った事になる。即ち、雌雄を決する事なく、リュカは敗北を突き付けられる事となる。これは、ゾア譲りの重撃を喰らわすリュカ相手に正攻法では危ういと判断したエクウスが考え付いた必勝法だ。

 エクウスが槌の頭を抱え投げ飛ばそうとするのを、咄嗟に伸ばした足で柄を踏みつけ妨害する。

「エクウス殿らしくない戦い方ではありませんか」

「ようやっとボンと本気で試合える、こない嬉しい事はないんです。せやけど、ワイは今オライザ組の看板背負って聖域におる。ワイは何があっても負けるワケにはいかんのです!」

「それは、僕だって!」

 エクウスの足元に仰向けで倒れているリュカは、足の親指と人差し指の又で柄を挟み、投げ飛ばさせまいとエクウスの狙いを阻止する。決して力の込め易い姿勢でもなければ、両腕相手には足の指の握力も無力に等しく、とんだ悪あがきだ。しかし、リュカには簡単に諦められない理由がある。

「この試合は、ライゼル君が望んだ試合。ならば、代わりにここに立つ僕はライゼルだ」

「敗北を目前にとち狂ったか、莫迦息子よ」

 リュカがこの試合に臨むのは、何も父親への反抗心からの行動ではない。リュカは昨日今日とライゼルの在り方を見た。目標の為に鍛練を怠らず、どんな相手に対しても怖気づかない。そして、どんな逆境にあっても、最後まで諦めない不屈の精神。

 ライゼルが挑んだエクウスとの試合はほぼ勝ち目がなかった。それなのに、気を失うまで勝負を投げ出さず抗い続けた。その姿に、リュカは自分が目指すべき人物像を見出した。

初めて抱いた印象通り、ライゼルはリュカと全然違った。似通った所はあまりにもなさすぎた。自分は逃げ続ける日々だったのだから、肩を並べようとする事すらおこがましい。いつかは頭領を継ぎたいと思いながらも、自信が持てないからと他の道へ逃げようとした自分は、ライゼルと同じ土俵にすら立てていない。

 だが、だからといって、また下を向くのは間違っている。もうライゼルのような生き方を知らぬリュカではない。新しい生き方を見つけ、遥か彼方の目指すべき自身へと歩み出したリュカなのだ。

「ライゼル君なら、こんな逆境でも諦めない!」

 槌の柄を挟む指に、ぐんと力が込められる。まるで、【牙】がリュカの体の一部だったかと錯覚するほどに、リュカの足と柄は一体化する。これでは、大槌を投げ飛ばそうと考えていたエクウスの思惑が破綻する。エクウスが大槌を聖域の外へ出すには、リュカごと投げ飛ばさねばならない。

「往生際が悪いでんな」

「ライゼル君ならきっとこうするはず!」

 立会人のベニューも、目の前にいるのが自分達の世話をしてくれた親切な青年だとは思えなかった。この不格好で無様で見苦しく、最高に熱い心で戦う様は、まるで弟のライゼルのように見えた。

 必死の抵抗にビクともしない事を悟ったエクウスは、鞭による大槌への直接攻撃へ移行する。

「移動せぇへんなら、ジッとしとき。こんまま、【牙】を絞り切ったりますわ!」

 華麗な鞭捌きで、大槌の頭から柄の部分までを見事に覆い尽すように縛り上げる。等間隔に巻き目があり、大槌の全ての箇所が、エクウスのムスヒアニマの干渉受ける事になる。エクウスは、リュカとの(精神)力比べに出たのだ。

「ボンの執念深さに根負けしましたわ。せやから、最後の策を出させてもらいます!」

 手にしている鞭へ、己が持つ霊気を全て注入する。ライゼル程の膨大な量ではなく絞り粕程度のそれだが、注がれるムスヒアニマは確実にエクウスの【牙】を強化している。青白い光が鞭を伝って大槌へ及び、そして徐々に大槌全体を包み込んでいく。エクウスが槌の頭を放したのを確認したリュカも、体勢を変え、柄を両手で握り直す。

 先に力比べを仕掛けたエクウスのムスヒアニマが、大槌への干渉を、侵略を開始する。【牙】を形作るのは精神の力。一般的に【牙】同士の衝突で勝負を分けるのは、どちらがより強力なムスヒアニマを【牙】に注入できるかに掛かってくる。地殻に内在するムスヒアニマの性質は全て同質だが、各牙使いの星脈に含まれた段階で、固有のムスヒアニマとなる。そして、牙使いの支配下に置かれたムスヒアニマは、所有者が望む【牙】へと姿を変える。この現界した時点で、おおよそ【牙】の優劣というものは決まっている。

 が、事はそれほど単純ではない。これが純粋な殺し合いであれば、勝負を決するのは実力である。生まれ持った星脈という素養と、鍛練という努力の相乗によって高められる実力。だが、今回の根競べの場合、鍛練の成果は僅かにしか作用しない。星脈の過剰行使に慣れていれば、十全に能力を発揮できるという程度だ。もし鍛練だけで勝負の趨勢が決まるというなら、エクウスはとっくに勝利している。

 だが、この力比べは【牙】の本質を問いている。【牙】とは己が精神によって生み出される歯向かう力。より勝利を欲さんとする者が、強力な【牙】を以って相手を下せるのである。素養ではリュカに軍配が上がり、修練による扱いの面ではエクウスが秀でているが、この激しい衝突の前では、それは些末な事。素養も修練も、貪欲な執念によって覆される。

 ただ、【牙】を競おうにも、リュカにはその能力を最大限に発揮できるだけの基礎体力がない。素養こそはゾアから譲り受けた優秀なものを持つが、高次の戦いに身を置くには【牙】に対する慣れがない。これまでほとんど【牙】を発現させたことのないリュカは、不慣れな戦闘の為に消耗が激しい。このままでは【牙】の耐久性云々以前に力尽きてしまう。そうなると、リュカに勝ち目はない。これまで【牙】と向き合ってこなかったリュカでは、逆立ちしたってその理屈は覆せないのだ。

ならば、どうすべきか? 答えは簡単、技の競い合いを放棄したエクウスとは逆に、早期決着に方向転換し、エクウスに有利な勝負に乗らなければいいのだ。リュカは、鞭を巻き付けられた大槌を担ぎ上げ、エクウスの体ごと振り払う。鞭を巻き付けた事で回避運動の取れないエクウスを、諸共に場外へ吹き飛ばそうというのだ。

「なんちゅう荒業でっか!?」

 残る左腕でリュカの一撃を防御したエクウスは、後方に吹き飛ばされる。が、霊気干渉を受け乖離を始めている大槌では十分な破壊力を発揮しなかった。これがゾア程の使い手であれば、一撃で陣の外へ打ち飛ばしていただろうが、エクウスの鞭を握る右腕は、それをしっかり掴んで離さない。

「まだまだァーーー!」

「離れるまで何度だって!」

 数歩下がったリュカは、今度は助走を付け、大きく横薙ぎに振り切る。例え、分解し掛けている【牙】とは言え、殴打されればそれ相応の衝撃を受ける。もちろん、鞭をほどき回避するという手段がエクウスにはあるが、そうなれば結局勝ち筋を失ってしまう。エクウスには、このまま大槌が霧散するまでムスヒアニマでの干渉を続けるしかない。殴打を受ける毎に意識が飛びかけるのを精神力でなんとか堪える。

「結局はお互いの我を通すんが、オライザ者ですわな」

「そうです、エクウス殿が倒れるまで何度でも打ち続けるのみです」

 大槌での全力振りを喰らう度に、エクウスは意識と握力を失いそうになるが、刻一刻とリュカの大槌も崩壊を進めている。もうどちらも決定打を打ち込めない泥仕合。

しかし、勝敗を決するのにもう然程時間を必要としない。その時は、もうすぐそこまで迫っていた。何度も打ち飛ばされ、一歩また一歩と徐々に後退させられたエクウスは、一歩も下がれない状況にある。それと同様に、大槌もリュカの微かな霊気によって、辛うじて現界し続ける危うい状態。二人に残された時間は、あと僅か。

「往生しぃや!」

「勝たせてもらいます!」

 エクウスの最後に振り絞ったムスヒアニマが大槌目掛けて放出され、同時にリュカの全力を込めた一撃がエクウスに打ち込まれる。が、激突の瞬間、リュカの大槌は青白い光へと昇華し、その形を損なった。

「—――しまった!?」

 エクウスも絞り切る対象を失い、ぶつけられた衝撃を抑えきれず、その身を場外へ吹き飛ばされてしまった。

「—――アカン!」

 二人が同時に勝ち目を逸した瞬間、試合の終わりがベニューによって告げられる。

「それまで!」

 聖域に残ったものの【牙】を失ったリュカと、【牙】を駆使し続けたものの聖域に留まれなかったエクウス。

「頭領殿。この場合はどうなるのでしょう?」

 予想外の結末に、事態を飲み込めず困惑するビアン。対照的に、やや満足したような、安堵したような面持ちのゾアは、深く息を吐き、しばらくビアンの問いには答えない。それに答えを出すのは、ゾアではない。

「・・・この試合の審判を下すのは、儂ではない。二代目フロルじゃろうて」

 それを聞いて、ビアンはゆっくりとベニューに視線を送る。その視線の先の少女は、高らかに宣言する。

「この勝負、両者資格喪失により、引き分けとします」

「引き分け…?」

 未だに闘志の衰えない二人の戦士を余所に、外野のビアンが情けない声を漏らす。ビアンの呟きは、結局どういう処遇になるのかを問うているのだが、誰も答えず、ただ戦士達の荒い呼吸だけが道場に響く。

 引き分けるという形で一旦の結末を見せたが、両者はそれぞれ飲ませたい条件があって試合ったのだ。その裁きが下されない限り、資格を失ったとしても闘志までは失えない。事と次第によっては、未だ一戦交える覚悟である。

 こうなってしまうと、これに答えが出せるとしたら、それはこの試合を申し付けたゾアのみであろう。

「そうさな、引き分けという結果は儂も予想だにせんかったわ。だからといって、このまま答えを出さぬ訳にはいかんのだが…」

 そこまで言って、視線をリュカに向ける。リュカも、父であり頭領であるゾアに注視され、どんな顔をして、正確に言えば息子と役人のどちらの自分で接すればいいのか判断に悩む。

「とう…」

「『オライザ組頭領』リュカ、貴様はこの試合にどう審判を下す?」

 ゾアがリュカをそう呼び、それを目の当たりにするここに居合わせる皆が、度肝を抜かれた。その呼称をリュカに対して用いたという事は、ほとんど自ら、裁定を示したようなものである。現時刻を以って、リュカを一家の当主と認め、その新当主の判断に委ねると言ったのと同義であるのだから。

 まだ整わぬ呼吸のまま、その宣言を突き付けられたリュカであったが、妙な興奮を覚えたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。【牙】を喪失させられるまでに星脈を酷使したのだ、疲労感は半端ではない。が、それでもこれをしっかりと述べる責任が、今のリュカにはある。現時点より新たな肩書を背負う事になったリュカには。

「この試合、確かに引き分けました。しかし、細かく見れば、一人だけ純粋な勝利を収めた者がいます。その唯一の勝者であるライゼルの主張を受け入れ、彼らの王都への出立を許可します」

 深い呼吸の中、新たな頭領リュカにより、宣言が為された。今は床の間で休んでいるライゼルが聞いたら、大喜びしたに違いない。

「相分かった。では、彼奴らの支度を…」

 言い掛けて俯き、漏れる声を殺し、黙した。ゾアの目尻には、微かに光る物がある。それが先に続く言葉を遮ったのだ。

「頭領殿?」

 ビアンがゾアの顔色を窺おうとするが、その野暮な役人にリュカが一喝を入れる。

「ビアン殿、頭領は僕です」

「リュカ…頭領」

 気圧され、思わずそう呼んでしまう。つい今朝方まで自分の後輩として共に国に従事していた青年が、この試合を境に集落の長となったのだ。最も両者を知るビアンは、突然の事に一番この事態を飲み込めていない。

「エクウス殿、試合を終えて休む間もなくではありますが、彼らの支度を手配してあげてください」

「へい、リュカ頭領」

 そう返事を返して、どこか満ち足りた様子で【牙】を収め、武道場を後にするエクウス。

「ありがたい。雑務が手付かずでな」

 エクウスの後を追い、ビアンもこの場から姿を消す。ようやく心配事から解放されたのだ、その足取りは幾分軽い。

「ベニューさん、立会人を引き受けて下さり、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ寛大な計らい、痛み入ります」

 リュカがベニューを労い、ベニューもリュカが取り計らった事への感謝を示す。

「事の次第をライゼル君にも伝えたい。先に様子を見て来てくれますか?」

「はい。それでは、お先に失礼します」

 ベニューは、ゾアとリュカに頭を下げると、足早に退出し、ライゼルが休む床の間へ向かった。

 武道場に残ったゾアとリュカ。二人の親子のみ。頭領を退いたゾアと、家督を継承したリュカと。

「リュカよ」

「はい、父上」

 ゾアをそう呼ぶのは久方振りのように思えた。ただそれだけで込み上げてくるものがある。

「勘違いするでないぞ。貴様は戦士としてようやく五分の口が利けるだけで、まだまだ儂と肩を並べられた訳ではない。これまで回り道をしてきた分、貴様を認めぬ者も少なくないだろう。貴様の覚悟が真に問われるのは、これからぞ?」

 そう念を押されるが、これまでの生涯でリュカはずっとゾアの嫡子という事実と向き合ってきた。その上で、他の誰でもない自分自身の【牙】を頼みとする事が出来たリュカは、きっとこれから先の苦難にもぶつかっていける。

「心得ております。そして、私にはこれまでの遠回りの期間に見聞きした事があり、それを今後の運営で試したく存じます。それには父上の協力と教授を願いますが、よろしいでしょうか?」

 その答えに満足し、ゾアは大きく頷く。

「うむ。貴様には手解きせねばならん事が山ほどあるでな・・・よし、下がってよい。フロルの倅の所へ行ってやれ」

「はい、失礼します」

 実を言えば、ゾアは最初からライゼル達の出立を許すつもりでいた。結果はどうであれ、その真向に立ち向かう姿を認めたならば、快く送り出してやろうと。故フロルもゾアの庇護を断り、結局は王都へ上っていったのだ、おそらく同じ道を辿る事になるだろうというのは予想がついていた。

 しかし、リュカが予想外にも父であるゾアに異を唱えてきた。ゾアの目から見て、頭領を継ぐ意思があるのかどうか分からなかった意志薄弱なリュカが。これを受けて、一つ試してみたくなった。これまで争い事を避けてきたリュカが、フロルの忘れ形見であるライゼルからどのような影響を受け、どのような一歩を踏み出すのかと。

 ゾアの目論見は、ほとんどゾアが望んだように事が運んだ。フロルの忘れ形見の成長を見届け、自身の後継者の素質を見定めた。ゾアにもう思い残す事はない。これからは若い彼らの時代であると、そう確信している。

「時代は常に移ろいゆくものよな、フロル」

 誰もいなくなった道場で、大巨人はそう呟く。ふと、道場の外へ目を向ければ、庭の木の花が笑ったような気がした。

 

 ベナードと廊下ですれ違い、目的の床の前赴くと、リュカは大きな声を以って迎えられた。

「リュカ!」

 床の間へリュカが赴いた時には、ライゼルは意識を取り戻しており、その表情には笑みが零れている。

「具合はどうですか? ・・・いや、訊くまでもなさそうだね」

「おう、すっごい元気。そんな事より、リュカが代わりに戦ってくれて、しかも、俺達王都に行けるようにしてくれたんでしょ? ありがとう、リュカ」

 ベニューより伝え聞いたのだろう。というよりは、ベニューの姿を見て、頭領の裁量が気になったライゼルが問い詰めたというところか。先程まで気絶していたとは思えない程、ライゼルは元気だった。

「ううん、僕じゃない。君が諦めなかったからだよ、ライゼル」

 そう返されて、きょとんとした表情でリュカの顔を見つめるライゼル。余りにもライゼルの視線が捉えて離さないもので、リュカにはその理由が見当たらない。何が彼の注目を向けさせているのか?

「どうかした? まだぼーっとするかい?」

 リュカが意識を確認すると、ライゼルは呆けた表情のまま、首を横に振る。

「そうじゃなくて。なんか、リュカ、大巨人みたい」

 そうぽつりと呟く。ライゼルは感じたままの事を、吟味せず口にしただけ。ただ、それは、リュカにとっては最高の褒め言葉である。自分が奮起するきっかけを与えてくれた人物からの賛辞。弛まぬ努力を続け、勝利を諦めない少年から見たリュカは、いつの間にか親の名前に負けない一人前の男に成長していたのだ。

「うん。父上に負けないよう、これから一層気を引き締めていくよ。もちろん君にもね、ライゼル」

 それがどういう意味を込められていたのかは、ライゼルは知らない。ライゼルの代わりに試合を引き受けたリュカの、そのライゼルへの憧憬の念を。だが、知らずともよい。知らずとも、リュカの宣言はライゼルを熱く滾らせる。

「俺も負けない。リュカにも、ゾア頭領にも。ベナードやエクウスにだって、今度は負けない」

 

 試合開始頃には天辺に昇っていた日も、昼下がりとなり西に向かい始めていた。すぐ出立すれば、今日の内にミールに辿り着ける。ビアンとエクウスが二人掛かり支度をしているので、もうじき準備も整うだろう。

 屋敷から少し離れた納屋の前では、ビアンとエクウスが駆動車に必要なものを積載している最中であり、そこへライゼルの介抱から解放されたベナードがやって来る。

「エクウス、あんだけフカシときながら、何が引き分けやねん」

「じゃかしいわい。ワレやったら一発もろただけでポッキリや。ええからワレも手伝わんかい」

 ベナードとエクウスによる罵り合いも、いつも程にキレがない。互いに口ではそう言っているが、今回の一件に関しては納得がいっているのだ。

「二人は良かったのか、リュカが新頭領を継いで?」

 荷を積みながら、ビアンがそう尋ねると、先に答えたのはベナードだった。

「はっ、アホ言うなや。元々、ワイら二人は余所者や、器やない。そもそも、リュカ坊が組の事を思うとるんは、立場は違うてもずっと見てたんや。何も文句はあらへん」

 それに同意するようにエクウスも頷く。

「せやな。それに、ボンの覚悟はしっかと見せてもろた。後はあの方についていくだけや」

 あの頼りなかったリュカが、二強に認められているのが、まるで自分の事のように嬉しいビアン。リュカが自分なりに頭領の器を身に付けようとしているのを、傍に居たビアンはもちろんだが、ベナードとエクウスも知っていたというのが、同僚の事ながら誇らしい。そして、それと同時に寂しくも思うのだ。

「そうか。ただ惜しむらくは、しばらくはリュカの新頭領振りを拝めないという事だな」

 ビアンの軽口に、オライザの実力者二人は、不敵な笑みを浮かべる。

「なんや、せやったらワイらから新頭領に言うたろか、ビアンをオライザに留めてくれって。な、エクウス」

「せやせや。なんやったら、現場仕事もビアンを呼ぶよう頼んでやるさかい」

「・・・冗談だ、勘弁してくれ」

 

 この日、一人の青年が社会的猶予期間を終え、立派な大人となった。奇しくも、そのきっかけをもたらしたのは、一人の夢見る少年だったという事は、あまり知られていない話だ。

 これからオライザは新しい頭領を迎え、これまで以上に大きくなっていく。新頭領リュカが、大巨人の再来と呼ばれるのは、また別の話である。

 

 

 

To be continued・・・

 

 


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