ARIA The NEOFRONTIER   作:ブラッディ

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その 伝えたいことを…

 桃色の髪の両サイド(ある人に言わせれば「もみあげ」)だけを伸ばした妙な髪型の少女、水無灯里(ミズナシ・アカリ)(ゴンドラ)が桟に寄せた。

 灯里が『ARIAカンパニー』の片手袋水先案内人(シングル・ウンディーネ)であることを示す青い手袋のついた手を差し出すが、それなりに鍛えられた体躯の青年アスカ・シンはその手をとらず、ひょいっとかっこつけて桟に飛び乗った。……そして、着地に失敗しバランスを崩して水面に墜落しかけ、アクアマリンの瞳の白い火星(アクア)猫のアリア・ポコテン社長と灯里に危うく支えられた。

 ややばつが悪いのを誤魔化すようにアスカはポケットに手を突っ込んで、財布を取り出した。

 

「ほえ? まだお店じゃないですよ?」

 

「いやいや、言い訳言っても結局俺もお客だしさ、払わないと」

 

 素で忘れていた灯里は思わず身構えた。『客じゃないから』と勝手に乗り込んでくる人(火炎之番人の出雲暁とか)はほんとに客じゃないということで代金を払わないので、当然、アスカもそうなるものだと灯里は思っていた。

 

「えー! いいですよ、お代もらっちゃったら本当にお客さんになっちゃいますから! 私もアリシアさんに怒られちゃいます!」

 

 代金を貰ってしまうとアスカは商売上のお客様ということになってしまい、シングルなのにお客様を勝手にのせたということで、完全にゴンドラ協会のルール上アウトになってしまう。

 そもそも灯里としては、プリマとして一人立ちしたあと指導員のフォローなしでお客様へ対応するときのため、未熟な舟に乗ってもらって勉強をさせていただいているという認識でもあるので、ここで代金を貰ってはいけないと思う。

 貰ったお代をちょろまかして小遣いにしてしまえば、とか考えない真っ直ぐな子なのである。

 

 と言うと、財布を覗き込むアスカは動きを止めた。

 わかってくれたのだろうか、と灯里が身構えたままでいると、アスカはぎぎぎぎっと顔をあげた。

 

「……ここ、日本円って使える?」

 

「……どうでしたっけ?」

 

「ぷいにゅ?」

 

 段々青ざめてきたアスカに、灯里は言った。

 

「あの、本当にお代は結構ですけど、お料理を食べたいならお代がないとまずいですから、両替して来たらいかがですか?」

 

 灯里が言った途端、アスカの顔色がもとに戻った。現金な男である。

 

「あ、両替できるの?」

 

「はい。あちらに――」

 

 と、そのとき、

 

「おーい! そこの水先案内人さんとお兄さーん!」

 

 子供の声だ。灯里より小さな子供の声。そちらを見ると、ちょっと遠くの石橋に乗り出して声を張り上げる少年二人。

 

「ゴンドラにひっかかってるボール、俺らのなんだー! とってー!」

 

 二人が見ると、確かに紫色のボールがひっかかってぷかぷかやっている。子供用の柔らかく大きなものだ。

 アスカがしゃがみこんでボールを取ろうとするが、舟の陰に入り込んでしまって腕がとどかない。

 

「ぷいにゅー」

 

 それを見ていたアリア社長が鳴き声をあげる。

 灯里が見ると、白猫はオールをぽんぽんと叩いていた。

 

「あ、そうですね」

 

 灯里は舟に戻ると、オールを使って水面を波打たせた。ボールが波に乗って舟の陰から出たところでスナップさせるようにオール面を跳ね上げ、打ち上げるようにボールを水面から弾き飛ばす。

 たまに水路にものが落ちているネオ・ヴェネツィアにおいて、それは水先案内人の覚える当たり前の動作だ。本来は打ち上げて元の持ち主に返すのだが、今回は持ち主が遠いのでちょっと上に打ち上げて持っていってあげようと考えた。

 

「っと、ナイスバッティング! 上手いもんじゃないか」

 

 ボールはアスカの両手にがっちりと受け止められた。

 ちょっとした感嘆符を発する周囲の人々の向こうで、少年二人が手を振っている。

 

「えへへ。じゃあ、あの子たちに返しに行かないとですね」

 

 というと、アスカは何故か体の角度を変え、少年たちの方を鋭く見た。

 

「ぷいにゅー?」

 

 アリア社長が首をかしげる。

 しばしそうしていたアスカは、

 

「じゃ、今度は俺がいくぜ」

 

 言うやアスカは、ピッチャーがマウンドを均すべく足を払う仕草を始めた。

 まさか、と灯里が思う一方、さほど野球が流行っていないアクアの住人たちはぽかんとしている。

 アスカは片足を下げると、右手に持ったボールを左手で押さえながら頭の上に掲げた。次いで足をグッと上げ、ボールを持った手とそれを抑える手、そして胸でもって、折った膝を抱えるような体勢に。

 

「はわわわわ」

 

 妙な懐かしさに感激する灯里の声をバックにその足で地面を踏みしめると、脚、腰、背、と全身を伝導させたパワーを込めて、腕を振り降ろす。

 堂に入った野球投法の動作から繰り出されたボールは、野球に適したサイズのボールでないことも手伝いさほどスピードは出なかったが、十分な高さと球威でもって返球を求めた少年たちの手の中に狙い違わず収まった。いい肩だ、と誰かの呟きが響く。

 

「ありがとぉーう!」

 

「もうボール落とすなよなぁ!」

 

 少年たちに叫び返すと、じっと見つめる周囲の人にアスカは言った。

 

「見たか、俺の超ファインプレー!」

 

 さほどファインプレーでもないのだがなんとなく巻き起こる万雷の拍手。ありがとう、ありがとう、とアスカはにこにこ応え、灯里に向き直った。

 

「投げたらなんか腹減ったな~。早く両替――」

 

 軽やかにそこまで言ったところでアスカは停止した。

 

「どうしたんですか?」

 

 言うとアスカははっとして、灯里の舟に飛び乗った。

 

「あれ、あれを追ってくれ! やっと見つけたぜ、ハネジロー!」

 

 大人が飛び乗ってきたために揺れる舟で気分悪くなりながらアスカが指した方向を見上げると、そこには。

 

青い瞳(アクアマリン)の妖精……って、全然、猫さんじゃないですよ?!」

 

 黄色い体に青い瞳。耳は長く、半ばで折れてアンテナのように左右に広がっている。前足と後ろ足には丸いけれど立派な爪があり、後ろ足の爪が前足の爪より倍は大きな様は、明らかに二足歩行が基本のようだ。口元も猫のそれというよりはネズミに近い。そして一番凄いのは、背中に生えた小さな羽で空を飛んでいることだ。

 それは怪獣でも、まして猫でもなく、いわば黄色い妖精だった。

 

「ぷいにゅー!」

 

 アリア社長も舟の先頭に立って発進を促す。

 と、ハネジローは確かにアスカを見たあと、

 

「パムパム」

 

 と、鳴き声を上げてあっさりと背を向け、どこかへぱたぱたと飛んでいく。

 

「行っけー、灯里ちゃん! ガッツゴンドラ、出動だ!」

 

「は、はひ!」

 

 拳をブンブン振ってからびしっとハネジローの背を指差すアスカ。その勢いに乗せられて、灯里は漕ぎ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「灯里ちゃん急げ! 置いてかれてるぞ!」

 

 ネオ・ヴェネツィアの水路の上を進む黒い舟の上で元気に喚き散らすアスカ・シンは、折からの空腹も手伝って怒り心頭だった。

 

「あひ~、お腹空きましたよ~! 待ってー! ハネジローくーん!」

 

 その後ろでオールを漕ぐ灯里。半ば強引に舟に乗られて料金もなしに商店街に案内し、次いで「あれを追ってくれ!」と刑事ドラマのようなことを言われて、お昼がまだでお腹が空いているにも関わらず付き合ってあげるという、一周回って心配になるようないい子である。

 

(最近は大分マシになってきたけど、まだ早く漕ぐなら逆漕ぎの方が……でも、切り返してる間に見失っちゃう……)

 

 舟の漕ぎ方をバーチャル教材で勉強した際、漕ぎ手の背中向きに進むボートの漕ぎ方で覚えてしまった灯里は、実は切り返して後ろ向きに漕いだ方が速くて正確だ。

 だが、灯里たちが追う黄色い小さな妖精はどんどん奥へ飛んでいく。追うほどに奥へ奥へ。暗い方へ暗い方へ。段々水路の細まっていく方へ。この細い道では切り返しもできない。

 

「くっそー、小癪なやつめ! ハネジロー! こら! 待て!!」

 

 狭い水路に響き渡る大きな声。しかし小さな背中は丸でその声が聞こえていないかのような様子でぎゅんぎゅんと先へと進んでいく。

 そのうちに、灯里は奇妙な感覚に陥った。

 

(なんだろう……まるで、どこかに誘われているみたい……)

 

 黄色い背中はこちらを振り返らない。速すぎず遅すぎず、振り切らず捕まらず、一定の距離を保ってふわふわと飛び続ける。アスカの言う通りなら、アスカとハネジローはこのアクアのことをよくは知らないはずだ。それなのにあの黄色い妖精は際どい角度の曲がり角をひらひらと避け、灯里が練習コースとして使っている難易度の高い船道を狙い済ましたように飛んでいく。

 

(ハネジローくんは、私たちをどこかに誘ってる……?)

 

 あっと思って舟の先端に座るアリア社長を見てみれば案の定と言うべきか、海の女神が宿るアクアマリンの瞳がなにか超然と灯里を見つめていた。

 ときどき灯里を連れ立って摩訶不思議なところへ迷い混ませるその眼差しは、ここが既に一種のアンバランスゾーンであるかのように錯覚させる。

 

「おっかしいな、あいつ俺のこと無視するような奴じゃ……あ!」

 

 灯里がアリア社長の瞳からなんとか目を逸らして黄色い妖精に目を向けると、妖精は一度だけこちらを振り返って、右前方6つめの建物の陰に隠れてしまった。

 あの建物のあの辺では、この水路と十字になるように横向きの水路が通っている。ついに彼の目的地についたのだろうか? 灯里は慎重にオールを漕ぐ。

 

 ひとかき、ふたかき、みかき。細い水路を包む背の高い建物の陰になにかが住み着いているような不安を煽られる。周囲には昼間らしからぬ陰気な背の高い建物と、それが水面に写って揺らめく水路。

 

 暗さの先に横あいから差す陽光。十字路だ。

 

 そして、件の建物の影を流れる横道の水路に差し掛かった瞬間。

 

 どんっという衝撃がボートを揺さぶった。

 

「きゃあっ!」

 

「ぎゃーす!!」

 

「ぷいにゅい!」

 

「ふにゃあ!」

 

「ぱむっぱむっ」

 

 ついで、なにか重いものが水のなかに落ちたような音。

 

「すいません! 声かけをすっかり……って、灯里ぃ!? 横道のある水路にさしかかったときには、声かけないとダメでしょう! ……私もだけど!」

 

 左前方から聞き覚えのある声。灯里が聞くだけで嬉しくなる声の一つ。

 

「ご、ごめんなさい、藍華ちゃん……探し物してて……」

 

「探し物ぉ?」

 

 藍華(アイカ)・S・グランチェスタ。青い髪を三つ編みの長いお下げにした快活な少女。白い制服に赤いラインの老舗『姫屋』の見習い水先案内人(シングル・ウンディーネ)。『姫屋』の後取り娘であり、なにより灯里がアクアでできた初めての友達だった。

 藍華の黒い舟には、上品なダークグレーと青い瞳(アクアマリン)の洗練された猫のヒメ・M・グランチェスタ社長がいて……そして今日は見慣れない黄色いのを乗せている。

 その黄色いのは紛れもなく。

 

「あぁー! ハネジローくん!!」

 

 灯里が大声を上げると、ハネジローは愛くるしく首をかしげて

 

「ぱむぅ」

 

 と言った。藍華はそんな様子を呆れたように見ながら声をあげた。

 

「なに、灯里、この子の知り合い? ()()()()()()()()()()()()てさぁ」

 

 それを聞いて刹那に疑問が浮かびながらも、灯里はアスカに喜び勇んで報告した。

 

「アスカさん! ハネジローくんいま……はれ?」

 

 明日香さん!? と飛び上がって姿勢をただす藍華だったが、灯里は藍華の誤解を解くどころではなかった。

 今しがたまで灯里の舟に乗っていたアスカが忽然と姿を消している。そして水面には、なにかが落ちた跡らしき波紋。ぶくぶくと絶え間なく下から湧いてくる気泡は、アスカの行方を雄弁に物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「誠に申し訳ありませんでした! 我が社の若い者がご迷惑をお掛けしまして!」

 

 そこはネオ・ヴェネツィアの中心に位置し、四方をカフェや噴水に彩られた明るいサン・マルコ広場。昼時にコーヒーと日の光を嗜む紳士淑女のなかに似つかわしくないその声は、厳めしく響きながら一際の華を周囲に知らしめる。

 

 イタリア料理店『ウィネバー』に席を囲む四人。

 肩に黄色い迷子珍獣ハネジローを乗せて、しっとりと濡れた黒髪の青年アスカ・シンに、『姫屋』の制服に身を包んだ気の強そうな女性が、その烏の濡れ羽色をした艶やかな髪の頭を下げている。

 『水の三大妖精』の一角である『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)(アキラ)・E・フェラーリその人だ。

 その横で一緒に頭を下げるのは、膝にヒメ社長を乗せた藍華・S・グランチェスタ。さらにその横に深々と頭を下げる、膝にアリア社長を乗せた水無灯里。

 四人席に男女比1:3で座るその3が低頭に自身を囲むなんとも奇妙な状況で、アスカは慌てたように言った。

 

「いやそんな、大丈夫っすよ。別にどうってことないし、タダ乗りだし、替えの服まで用意してもらって。そもそもこいつが悪いわけですから」

 

 言って、ハネジローにでこぴんをする。

 調子にのってガッツゴンドラなどと無駄に洒落込んだために、ライドマシンに乗る度に墜落するジンクスが発動したのであろうか。藍華の舟と玉突きになったとき、灯里とアリア社長はこらえたにも拘らずアスカは無様に水路に墜落したのだった。ちなみに新しい服は晃の奢り(後で藍華の給料から天引きされて晃に補填されるのだとか)であり、濡れた服は舟に乗せて乾かしている。黒い練習用舟は輻射熱により高温になるので、ものを乾かすにはもってこいだった。

 それでも晃は食い下がった。

 

「いえ、実際にそうした事態になったのは二人の未熟ゆえです。状況を聞く限り、二人が基本通り声をあげていれば防げていました。二人のミスであり、藍華の指導員かつ灯里を指導したこともある私の不徳でもあります。申し訳ありませんでした」

 

 真摯に頭を下げる晃に、いよいよアスカが慌て出した。

 

「あの、私も注意不足で、本当に申し訳ありませんでした!」

 

「……わ、私もいつもみたいにもっと気をつけてたらこんなことには……折角のお洋服も、その、申し訳ありません!!」

 

 消沈した灯里と、悔いた藍華の俯いた顔。別に晃を詰ったわけでもなんでもないアスカだが、妙に押しの強い陳謝に居心地が悪そうである。

 と、そこで顔をあげた晃は、申し訳なさを滲ませつつの笑顔で言った。

 

「……と、そういう謝意を込めて、お茶と言わずお昼をごちそうさせていただきたいと思いますが、如何でしょうか? ちなみにこちらの店は私のイチオシとなっております」

 

 途端、アスカは顔を輝かせた。

 

「マジっスか!?」

 

「マジですとも。それにて平にご容赦を、と」

 

「いや、許すとか別に……けど、そこまで言うなら、奢って貰っちゃおうかなー!」

 

 おどけたアスカの態度が場を一気に明るくした。太陽みたいな人だなと灯里は思った。安堵と共に目を会わせる愛弟子達に晃が意味ありげに二人にウインクしてみせる。二人はきょとんとした後、その真の意図に気が付いた。

 そもそもアスカが指導員と嘯いて舟に乗った以上、転落してもここまでしっかりと謝る謂れはないのだ。そういう未熟さ込みでの『指導』なのだから。そういうものの道理にはしっかりしている晃がこうまでしっかり謝ること、思えば違和感がある。これでアスカがごねるような厄介な人なら交渉の一環として謝ることはあり得ただろうが、そういうわけでもないのに。

 つまるところ、

 

「……あの人がお腹空いてるって気付いてたのね、晃さん。そのために謝るって形を取って、スムーズに奢れるようにしたわけか」

 

「すごいよねー。アスカさんが太陽みたいな人なら、晃さんはその太陽の明るさをコントロールできる雲みたいだよ」

 

「恥ずかしい台詞禁止!」

 

「え~!」

 

 うきうきとピザを選びながら晃とすっかり打ち解けて話すアスカ。アスカがネオ・ヴェネツィアに来たのが初めてで二人が初対面だなんてこと忘れてしまいそうだ。それもまた磨きあげられた晃の技の賜物。

 小さなことでも、灯里と藍華は改めて目の当たりにする先輩の力に、感服したのだった。

 

「でも、晃さん、初対面のアスカさんに服だけじゃなくて、ご飯も奢ってあげるなんて、優しいですねー」

 

「恩を売って評判あげて、SUPERGUTSの団体のお客様に繋げようとしてるのよ、きっと」

 

「すわっ!」

 

「ぎゃーす!」

 

 いつも通り晃に詰問される藍華に苦笑する灯里。その足元ではこれまたいつも通り、ヒメ社長にアプローチをかけては袖にされて瞳を(アクアマリン)でいっぱいにしたアリア社長がいたのだった。

 

 

 

 

 そして、半時ほど過ぎたあと。

 

「いやぁ、旨かった! ほんとすいません、なんか普通に奢って貰っちゃいまして!」

 

「いえいえ。ほかでもない()()()()喜んでいただけたなら、身に余る光栄です。またネオ・ヴェネツィアにいらした際には是非、『姫屋』の水先案内人をご利用ください。こちら、日本語のネオ・ヴェネツィア観光ガイドブックも、よろしければ」

 

「あぁ、どうもどうも。帰ったら仲間にも奨めておきますよ!」

 

 ほら商売じゃん、と呟く藍華の背中をばしっと叩いて、晃は、

 

「では、基本を忘れた不出来な愛弟子への厳っしい指導がありますので、これで失礼致します」

 

 青ざめて固まった愛弟子を引きずって、颯爽と歩き去っていった。

 

「晃さん、かっこいいなぁ。私も藍華ちゃんもついでに奢って貰っちゃいましたよ」

 

「うんうん。ちょっと雰囲気がリョウに似てるけど、乱暴さ控え目で美人さ増量。交換してほしいくらいだぜ。……あ、今のはリョウには内緒な」

 

「ぱむ? ぱむ、ぱむぱむ!」

 

 満腹になった二人は晃からもらったネオ・ヴェネツィア観光ガイドブックをめくりながら、灯里のゴンドラに戻るのだった。

 

 ちなみにアスカ・シンは晃・E・フェラーリより2つ年上である。

 

 

 

 

(……はぁ……、流石に緊張した……)

 

 舟に座って心中でこっそり息をつく晃に、その舟を漕ぐ藍華が問う。

 

「晃さんはどうして、アスカさんに奢ってあげたんですか? OGの明日香さんと同じ名前だから?」

 

「おいおい、親切に理由が必要か?」

 

 純粋に裏の意図があるものだと信じている藍華に、晃がちょっと呆れて問い返せば、

 

「うーん、アリシアさんならともかく、晃さんはそこまで親切じゃ」

 

 自分が弟子のなかで思ったより血も涙もない人間になってしまっていることに晃は鼻白む。

 

「ほほう、そんなに無限32キロゴンドラマラソン(ヴォガ・ロンガ)がしたいか? 藍華」

 

「いえいえごめんなさい晃さんはとっても素敵で親切な女神様です!」

 

 青筋をたてた提案にぶんぶん首を降って拒否する藍華。

 

「まったく……。そうだな、あえて言うなら……歴史をちゃんと勉強したから、かな。二人とも勉強が足りん」

 

 水平線の向こう、晃が見つめる先は、伝説の光の地。

 

「え?」

 

 勿論、藍華には突然遠い目をしたようにしか見えなかった。そんな藍華に、まだまだ教えてやるべきことは多いなと実感する。

 

「いや……しかし、水先案内人の基本的なルールも忘れるとはな、藍華」

 

 まだまだ教えられるということにほんの少しの安らぎさえ感じながら、晃は舟の淵に置いた手をぐっと持ち上げ、鋭く愛弟子を指差した。

 

「今日はみっちりやるぞ!」

 

「ぬなっ!? あ、あれは灯里も不注意でしょう!?」

 

 友人を巻き込もうとする藍華に、しれっと。

 

「灯里ちゃんは今日は免除。後日、アリシアに任せる。なにしろ今日は特命があるからな」

 

「えぇー!? ずーるーいー!」

 

「すわっ! 問答無用! さしあたっては発声練習! はじめ!」

 

 ぶつぶつ言い出す藍華をじろりと見れば、やけくそに発声を始める。

 その大きな声に紛れて、小さく呟いた。

 

「……藍華といい灯里ちゃんといい、一応アクアの歴史を紹介する立場なら覚えておくことだな。

 

 アスカ・シンの顔と名前……そして彼が何者であるか、くらいは」

 

 

 

 

 

 ――彼に、素敵な時間を過ごしていただくんだぞ。いいな、灯里。

 

(晃さん、どうして知ってたのかな。アスカさんが、普通の人じゃないって……)

 

 灯里はアスカをまた舟に乗せてあげることになった。それは灯里がアスカの持っているお金を見て「なんて古いお金……」と言ったためであり、晃が「これでは両替はできませんね」と言ったためであり、藍華が「お金ないんじゃゴンドラ乗れないわよ」と言ったためであり、それを受けてアスカが「じゃ、臨時指導続けようぜ!」とやけくそ気味に言ったためでもある。

 

(アスカさんはきっと、この時代の人じゃない。今から300年近く前の、ネオフロンティア時代の人。マンホームとアクアと太陽系を守っていた、一番危ない時代のSUPERGUTSの人……)

 

 そう確信を持てたのは晃が言葉に含ませた意味からだが、やはりアスカの言葉は節々にそれを伺えていた。

 そして、アスカ自身がそれに気がついていないことも。

 

「なぁ、オレンジぷらねっとってアテナさんたちの会社だっけ? ガイドブックに載ってる新社長『まぁ』ってこれ、猫じゃなくてパンダじゃないか?」

 

「ぱむぱむ」

 

「ぷいにゅー」

 

「うんうん、だよなぁ」

 

 ガイドブックをぱらぱら捲るアスカの能天気な顔を見て、灯里は苦笑した。

 

(マイペースな人だなぁ)

 

 そこでアリア社長が灯里を見て「ぷいにゅー」と鳴いた意味が「お前が言うな」であったことに、当然ながら本人は気づかなかった。

 アスカは欠伸とともに全身で延びをした。舟の中に足を伸ばして天に掲げるようにガイドブックを持ち上げ、首に悪そうな感じに眺め始める。

 

「しっかし、こうして水路図なんてみてると、ネオ・ヴェネツィアって凄いところだな。火星に人間が拠点を作り始めたのが確か……10年前くらい? だから、TPC基地と並行作業のはずなんだけど……人間ってすげぇぜ」

 

「は、はひ! そうですね!」

 

(不満……じゃないんだよね?)

 

 アスカが()()()()()だと思った途端、彼がネオ・ヴェネツィアを見る視線が怖く思えてくる。

 彼らが力の限り守り繋げてきたアクア。彼らから受け継いできた火星という星。

 

「それでは引き続き、『ARIAカンパニー』の水先案内人をご利用いただきまして、ありがとうございます。ご一緒させていただきますのも、引き続き、水無灯里です」

 

 もし、彼がこの街を見て、幻滅したりしたら? この星を守ってきてくれた彼らの結果として存在しているこの街を、彼が認めてくれなかったら?

 

 この素敵な街を作ってきた礎であるこの人が、この街を素敵だと認めてくれなかったとしたら。それほどに悲しく情けないことがあるだろうか?

 

(この星は、この街は、……アスカさん、あなたたちに胸を張れる街になっていますか?)

 

 もし、否と言われたら……それでも灯里は胸を張って、この街を素敵な町だと言えるだろうか。

 

「なんかちょっと、昼食べる前よりゆっくりじゃないか? 昼下がりモードってこと?」

 

「え、あ、はい、そんな感じ、です……」

 

 灯里には、緊張すると舟の速度が遅くなる癖がある。

 アスカを乗せた灯里の舟は限りなくゆっくりだ。

 かちこちになった灯里を反映したかちこちの舟は、かちこちに進んでいくのだった。

 

「ぷいにゅー……」

 

 ダメかもな、と言いたげなアリア社長の声が、水路に響いた。

 

 

 

(ダメだ……なにを紹介したらいいのか全然わからない……)

 

 無理矢理作った笑顔の頬をひくひくさせながら、灯里は半ば無意識にオールをぐりぐりやっていた。

 

(マンホームの旧ヴェネツィアの伝統を受け継いだネオ・ヴェネツィアの文化を話す?)

 

 職人さんたちの魂と誇りと思いに磨かれた綺麗なネオ・ヴェネツィアン・ガラス。ヴェネツィアから発掘された悲喜こもごもが込められたオペラ。移された建物にまつわる話。

 

(それとも、アクアの行事?)

 

 カーニヴァル。ボッコロの日。レデントーレ。カウントダウン。アクア・アルタ。

 

(アクアの風習とか?)

 

 火炎之番人(サラマンダー)水先案内人(ウンディーネ)地重管理人(ノーム)風追配達人(シルフ)の役割。ほかの色んなお仕事。いっそ、猫の王国の話をしようか?

 

(アクアの歴史……食べ歩きツアー? 単なる名所巡りでもいいのかな。ネオ・ヴェネツィアに伝わる言い伝えとか。でも……)

 

 でも、怖い。

 ネオ・ヴェネツィアをヴェネツィアの二番煎じだと言う人はいる。マンホームから来た人には大して管理されずにのんのんとやってるアクアのなにがいいのかと言う人もいる。心ないことを言う人はどこにも、何にでもいる。でも、それは分からないその人の視野が狭いんだと思えた。よく知りもしないで酷いこと言わないで。あなたがこの街を好きになれるように、私がこの街のことを教えてあげるから、と。

 でも、アスカ・シンの場合は話が別だ。彼もネオ・ヴェネツィアを知らない。アクアを知らない。でも、彼にだけは……この素敵な世界を作ってくれた恩人の一人である彼から同じ事を言われてしまったら、灯里はきっと立ち直れない。

 灯里は、アクアを作り上げた色んな人とその想いに触れてきた。その人たちが積み上げたものの上にその人たちが願ったものを、アクアの人たちは実現してきたと信じてきた。その人たちに恥じないこの素敵な街で、素敵な生き方をできていると思ってきた。

 この星で出会った人たちもそうだ。この星に一緒に過ごしてきた人たち。この星に積み上がった心に、また新しい心を積んでいく人たち。

 だからこそ、怖い。彼がこの世界を否定したその瞬間に、この世界に積み上げられてきた想いを灯里たちが裏切ったことになってしまいそうで。彼と仲間たちが命がけで作ってきた礎に築かれた想いの形作るこの星が、根底から覆ってしまいそうで。そして灯里自身の心のどこかに、そういうものが澱のように残ってしまいそうで。

 

「うーん、ガイドブックだけ読んでてもわからないな。ここはやっぱり、水先案内人さんのお薦めでお願いしようかな!」

 

「ぱむぱむ!」

 

 未来のことを話して、見せて、触れさせる。そうすることで歴史が変わってしまう……実のところ、灯里にはそういう恐れはなかった。灯里が無意識にもつ()()()がその恐れを否定している。

 その胸にあるのは、この水路に流れる血と汗と泪が……300年分の心が否定されてしまうことへの恐怖。

 それ以上に、なによりも。

 

「……あ、えっと、では、」

 

(もし、私のせいでアスカさんが、早く帰りたいとかマンホームがこうじゃなくてよかったとか思っちゃったとしたら……。そうしたら、あの人たちの想いを踏みにじったのは私に……。あの人たちの、そして300年前のアスカさん自身の想いを受け取ったはずなのにちゃんと受け継げなくて、ちゃんと返せない……そんなの……それが……)

 

 それが、怖かった。

 

 堂々巡りの末に蒼白になっている灯里にぎょっとするアスカ。

 

 この純粋で優しそうな顔で、アクアの奇跡が全部余計なものだったって、そう言われて……()()()()しまったら。

 

 堂々巡りする灯里を、アリア社長がじっと見つめていた。

 

(いけないのに……こんなんじゃ、私がこんなじゃそれこそ……)

 

「あ、あの……!」

 

 やぶれかぶれに灯里が口を開いた、そのときだ。

 

 

 

「あらあら、灯里ちゃん? どうしたの?」

 

 

 

 灯里自身の喉からひゅっ、と空気の抜けるような音がした。そして舟の中からはアスカが頭を打つような音も。

 高く、人を無条件に安心させる柔らかな声は、今度ばかりは灯里の全身をさらに引き締める効果をもたらした。

 

 灯里の舟の後ろにつけたのは、

 

「あ、アリシア、さん」

 

「さっきからゴンドラが全然進んでないわよ? アリア社長も教えてあげてくださいな」

 

 灯里の師。『ARIAカンパニー』唯一の正社員にして経営者。そして『白き妖精(スノーホワイト)』の通り名をもつ『水の三大妖精』の一角。

 彼女の名は、アリシア・フローレンス。

 三大妖精の中で最も優れたオールさばきを誇る彼女は、茶色の紙袋が座席に乗ったのみで空席の白い舟をするりと黒い舟の横につけた。

 光そのもののような金髪と白い制服が舟と陽光に反射して眩しいばかりの色彩を放つ様は、妖精というよりは聖母のよう。そんなアリシアの美貌には、労るような微笑みが浮かんだ。

 

「あらあらあら……灯里ちゃん? どうしたの?」

 

 開口一番とほぼ同じ言葉なのに込められた意味の違いがありありと感じ取れる。驚くべき言葉の表現力である。

 そこで初めて呼吸もほとんど詰まっていた自分に気が付いた灯里は、手袋をつけた手で胸を押さえ大きく息を吸った。潮の匂いが熱い胸に心地よい。

 そんな灯里とあわあわしているアスカとを見比べたアリシアは、殊更迫力のある笑顔をアスカに向け――ようとして、

 

「……あらあらあらあら、まぁ!」

 

 目を見開いて驚愕を露にした。

 そんな驚愕の表情に灯里も内心仰天した。いつも悠然としたアリシアがそこまで感情を示したところを見たことはなかったからだ。

 もっとも、短くはない付き合いの灯里や長い付き合いのアリア社長こそそれが驚愕のサインだと気付けたが、初対面のアスカにはアリシアほどの美人が目尻を吊り上げ語気を強める様は無言で詰っているように見え、生きた心地がしないだろう。

 アスカは手元のガイドブックに目線を落とした。『水の三大妖精』特集ページに写っている金髪の美人をちらと見て、目の前にいるまったく同じ顔の女性を見た。そして蒼白になった灯里を見て、目を丸くしたアリシアを再度見た。

 

「……! いや違うんスよ! 俺はなんにもしてないです! ただ観光をですね! いじめたとかそういうことではなくて!」

 

 とドギマギしながら身ぶり手振りで言い訳を始めた。

 アスカからしてみればとんでもない災難であろう。勝手に緊張して真っ青になった灯里とそれを見ておろおろしていたアスカの二人。端から見たら、アスカが灯里をいじめて泣かせて後始末に困っているようにしか見えない。灯里の不甲斐なさのせいでとんでもない誤解を招いてしまった。

 一度のネオ・ヴェネツィア来訪で『水の三大妖精』全員と立ち会えたという折角の幸運が、こんな風になってしまった。こんなに素敵なアリシアに、灯里の招いた誤解のせいでアスカが悪印象を持ってしまったら……。

 そう思った灯里はますますたじろぎ、アリシアもらしくなく戸惑いと困惑の様子を見せた。そのとき。

 

「ぷいにゅー!」

 

 一声鳴いたアリア社長がアリシアの胸に飛び込んだ。

 アスカが顔だけで羨ましいと訴えているのがなんとも場違いだが、アリア社長はアリシアと視線を交わした。あたかも「冷静になれ」と言うように。

 

 アリシアは暫し考えると、アリア社長を抱き上げたまま灯里に向き直った。

 

「灯里ちゃん、おやつにしましょうか」

 

「はひ?」

 

 間の抜けた灯里の返事にふふっと笑みを返すとちょっと屈み、空席になっているゴンドラの座席にアリア社長を下ろす。

 そしてアリシアは灯里のオールをとるや、自身のオールと一つずつ片手で器用に漕ぎ出す。二つの舟はまるで当たり前のようにぴったりとくっついたまま水路を泳ぎ、脇に寄った。 なんでもないように凄いことをやっておいて、灯里側の舟にもまったく不愉快な揺れがない。その手際と技術にアスカはハネジローと一緒に唖然として、華麗な操舵技術、とガイドブックに載っていたアリシアのキャッチコピーを呟く。

 舟を水路の脇に落ち着かせたアリシアは、アリア社長が興味津々に覗いている紙袋を取ると、中から美味しそうなパンを4つ取り出した。

 

「灯里ちゃん、社長、それにアスカさんと、あなた。美味しいくるみパンですよ」

 

 順に、灯里、アリア社長、アスカ、ハネジローに、くるみパンを配っていく。

 その香ばしい香りと好物への欲求に、半ばオーバーヒートしかかっていた灯里の頭は敏感に反応した。とりあえず目先の問題を後回しにして、パンにぱくつく。

 一方、アスカは手を中途半端に伸ばしかけたまま目を丸くしている。

 

「俺、名乗りましたっけ?」

 

()()()()()()()、アスカ・シンさんは」

 

 語尾を跳ねさせるように言ったアリシアからパンを受け取って、アスカはデレデレな様子。ちなみにアスカ・シンはアリシア・フローレンスより2つ年上である。

 

「そ、そうスかね~? いやぁ、参っちゃうなぁ! 小うるさいのもいないし、今日の俺ちょっとラッキーすぎない? あ、じゃあ、遠慮なく、いっただっきまーす!!」

 

 と飛び付いた。調子のいい男である。先程のアリシアとの初対面のことは気にしないことにしてくるみパンを嬉しそうに頬張る姿は、アンニュイな雰囲気が残っている分灯里の方が年上に見えるくらいだ。

 

「あっ! これ超旨いっスよ! ありがとうございます!」

 

「ぷいにゅー!」

 

「ぱむぱむ!」

 

「あらあら」

 

 次々と感想を告げる者たちに微笑んだアリシアは自分も一つ、手で千切って口に運ぶ。

 

「美味しい。これだけ美味しそうに食べてもらえたら、あげた甲斐もあるわね」

 

 パンを持つだけの手つきから千切る指先、口に運ぶ動き、口に含む仕草、嬉しそうな笑み、感想を述べる声に至るまで、全てがたおやかに美しく洗練されている。アリシア・フローレンスはそういうエレガントな女性だった。

 

 高かった日はちょっと傾きを増し、ちょうどおやつ時に差し掛かっていた。

 忙しない日常業務が一段落ついたネオ・ヴェネツィアにまったりとした雰囲気が漂っている。尤も、ネオ・ヴェネツィアは平素からしてそれなりにまったりとした街ではあるのだが。

 アリシアは水筒からお客様用のカップにアイスティーを注ぎだして、アスカ、ハネジロー、灯里に配った。自身のカップとアリア社長用の大口カップにも注いで微笑めば、流石のアスカも顔を赤らめ、照れ隠しにガイドブックをがばっと取り上げる。その拍子にハネジローをひっ叩いてしまい喧嘩になる。

 ちょっとだけある水の流れに乗って実にゆっくりと動きながらの、くるみパンとアイスティーのティータイム。アスカとハネジローの小突き合いもちょうどいい賑やかしだ。

 そんな舟でも物思いに耽って無言でくるみパンにかじりついている灯里に、タイミングを見計らってアリシアは問うた。

 

「ね、灯里ちゃん。くるみパン、美味しい?」

 

 灯里は頷いた。

 

「はい、とっても」

 

 首肯すると、今度は、アスカに。

 

「じゃあ、アスカさんは、いかがでした?」

 

 アスカは、親指だけを立てた拳を突き出す例のポーズとともに答えた。

 

「ばっちりですよ!」

 

 アリシアは、にっこりと灯里に向き直った。

 

「ね?」

 

「あ……」

 

 どうしてこの人は、私の考えていたこと、悩んでいることを、こんなにも正確にわかるのだろう。そう灯里は思った。

 

(私のいいと思った水先案内人の仕事も、アテナさんの舟謳(カンツォーネ)も、くるみパンも、アスカさんはいいと言ってくれた……)

 

 怖がらなくてもいい。アスカは、灯里の『素敵』を分かってくれる。例えアスカが一つか二つわかってくれなくても、アスカがわかってくれたものもあるのなら。

 灯里の凝り固まった心身をゆっくりとほぐすように、アリシアは言葉を繋いだ。

 

「ねぇ、灯里ちゃん。このくるみパンね、そこの通りで会った方にいただいたの。此間、買い物袋の底が破れてしまったときに灯里ちゃんのゴンドラに乗せてもらったお礼に、ですって」

 

 灯里の鈍くなった頭は、それを思い出すのに少しの時間を要した。大きな買い物袋を抱えたおじさんが目の前で袋の底を抜かしてしまって途方にくれていたので、荷物を全部とおじさん本人を乗せて家まで送ってあげたことがあった。

 

「ちょっとした出会いとちょっとした親切が、こうやってちゃんと返ってくる。それ自体、ちょっとした素敵だって思わない?」

 

「……」

 

「そういうちょっとした素敵を、灯里ちゃんは沢山、知っているでしょう? それを教えてさしあげたらどうかしら」

 

 わずかに目を開いた愛弟子の手にオールを戻しながら、アリシアは諭す。

 

「この星はそういうことが起こる素敵な所だって、素直に胸を張って言えばいい。灯里ちゃんが素敵だって思ったこと、知ってほしいと思えたところへご案内すればそれでいいじゃない」

 

「アリシア、さん……」

 

「私、灯里ちゃんの水先案内が好きよ。色んなお客様にそうやって素敵を分けて差し上げてきた、そうでしょう? お客様がアスカさんだったら、それは変わってしまうの?」

 

 大事なのはそれだけのこと。

 究極のところ、先人だとかこの時代のよさを証明するだとか、最終的には関係ないのだ。灯里がやるべきことも、できることも信じるものも、変わらないのだから。

 

「灯里ちゃんは、どうしたい?」

 

 アリシアの言葉は、狙いたがわず、灯里の真っ芯のところを呼び起こした。

 

「私……お客様に、この素敵な街をご案内して、知ってもらいたい。私が、私たちが見つけたいろんな素敵を、いっぱい、いっぱい知って帰ってもらいたいです! 私のご案内で、素敵なところだって、言ってもらいたいです!」

 

 思い直してみればなにも変わらない。

 灯里が素敵だと思った、水先案内人というもの。夢。目標。水先案内人としてできること。水無灯里としてしたいこと。人として挑戦し続けること。

 そこにアスカが何者であるかは関係ないのだ。アスカと他のお客様との間に、結局、どんな違いがあるものか。そこに線を引く必要などない。

 お客様が誰であろうと、その誰もにいいと思ってもらえるよう、水先案内人としてやるべきことをやるのだ。

 

 どこかクリアになった視界のなかにアリシアが殊更に微笑むのが見える。息を吐くアリア社長が見える。揺らめく水路が見える。煌めくこの星が見える。

 その視界にアスカを捉えたとき、彼との会話がよみがえった。

 

 ――だからこそ、肩の力を抜いてみるかって、先輩が言ってたよ

 

 それはアスカとアスカの先輩との間、灯里と灯里の先輩との間だけの理屈じゃない。アスカが先人であるなら当然、灯里とアスカの間にも通る教えであるはずだ。

 それ自体が先人からの大事な教えだった。

 アリシアと、くるみパンをくれたおじさんの二人と一緒に、この街の素敵を見せたられた今のように。

 それでいいのだ、と力を抜く。するとおのずと見えてくる。なにを見せれば、このお客様にご満足いただけるか。灯里がこのお客様にこそご案内したいものとはなにか。

 

 ――一人じゃ乗り越えられないものもあるけど、だからこそ、皆でやってけばいいんだ、ってことなんだと思う。俺たちは一人で戦ってる訳じゃない。先輩たちも、皆で作って、皆で守ったんだからさ。

 

 灯里がこの街を好きなのは……灯里がこの街を素敵だと思うのは、この街に()()人たちが、この星に()()人たちが、みんな素敵だから。

 思えばこの街にいる人たちはみんな等しく、アスカの後輩なのだ。ならば皆で見せたい。皆を見せたい。

 

 いつのまにか灯里は、灯里らしい、いつものワクワクとした姿を取り戻していた。

 

 それを見てとったアリシアは、もういいだろうと言いたげに目を伏せるアリア社長を抱えあげ、今にもオールを握って漕ぎ出してしまいそうな灯里に手渡した。

 

「行ってらっしゃい、灯里ちゃん」

 

 あまりにも多くのものを、アリア社長を通して灯里に託したようにも思えた。

 

 社の威信を。

 アクアの誇りを。

 火星の未来を。その証明を。

 アリシアの願いを、

 

 灯里の舟に降り立ったアリア社長は海の女神(アクアマリン)の瞳で灯里をじっと見つめた。もういいね? そんな声が灯里には聞こえた気がした。

 

「じゃ、行こうぜ」

 

 見届けたアスカが灯里を促す。彼はそのリレーにおける自分の立ち位置が正確はわからない。しかし、自分が立ち会ったそれが、一種の継承なのだということは、理解していたようだった。

 

「行ってきます、アリシアさん」

 

 師弟がとびきりの笑顔を交わし。

 灯里の黒い舟は、ゆっくりと漕ぎ出した。

 

 アリシアの白い舟は、しばらく黒い舟を見守っていた。ゆるく手を振って灯里を見送るその姿には信頼と誇りが感じられる。

 アリシアの微笑みに背を包まれて、灯里は今度こそ行くべき方向へ漕ぎ出すのだ。

 灯里の脇の向こうに小さくなるアリシアへ、アリア社長が鳴き声とともに手を振り返した。

 

「いい人だな、灯里ちゃんの師匠。一瞬、ヒビキ隊長の三倍は怖かったけど、同じくらい凄え人だと思う」

 

 座席に背をそらせて灯里を見上げたアスカが感無量と言った風情で言った。

 にっこりと頷いて応えた灯里は、まだ見守っているアリシアの耳に届くように切り出した。

 

「さて、お騒がせしました。改めまして、ネオ・ヴェネツィアへようこそ」

 

 灯里はこれから、なにをアスカに見せてあげられるだろう?

 

 未来への希望を持って帰ってもらえるだろうか?

 

「『ARIAカンパニー』の水先案内人、水無灯里が引き続きご案内させていただきます」

 

 この未来に、彼が命を懸けられる価値を証明できるだろうか?

 

「素敵な時間を、ご一緒しましょう!」

 

 そうして最後に、この大好きなアクアは、あなたたちのおかげで大好きになれる星になりましたと、胸を張って言えるだろうか?

 

 ――さあ、伝えよう、この星のトキメキ。時を越えて、あなたのもとへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛弟子の力強い声を聞き、アリシア・フローレンスはほっとため息をついた。

 

(ちょっとだけ羨ましいわ。灯里ちゃん)

 

 本当のことを言えば、自分こそが彼を案内したいと思う部分がないではない。勿論、ミーハーな思いはひとつもなく。

 歴史をきちんと学び、覚えていて、彼の正体に見当がついたとしたら、そう思わない水先案内人は一人もいないはずだ。それが真に一人前の水先案内人であるなら。

 

(ほんとうは、私がこの星をあの人に案内して回りたい。私の手で、あの人にここを『素敵な所だ』って言わせたい。そして、お礼を言いたい。この星を遺してくださって、守ってくださって、ありがとうって。でも……)

 

 ただ、アリシアは知っていた。

 アクアで起こることには、往々にして意味がある。大いなる意思がある。なにかが中心となって回っている。

 

(今、この星の輪の中心は、きっと灯里ちゃん。どこかで皆……そして私もそう思ってる。そこに彼が現れたのなら、そこにはアクアの意思があるの、きっと。

 

 灯里ちゃん、あなたはまだ気づいていない……ひょっとしたら覚えてさえいないのかもしれないけれど)

 

 そう、彼こそは。 300年も前、この宇宙のために戦ったSUPERGUTSの隊員であり、闇の彼方へ消えていった巨いなる英雄なのだから。

 

「……アスカ・シン。その、またの名を――」

 

 




こういう葛藤は灯里のキャラではないかもしれませんが、『ARIA』では、彼女が先人の時代に行くことはあっても(まあそれも原作ではありませんが)、先人が彼女の時代のネオ・ヴェネツィアに来ることはなかったわけで。
自分が「受け継ぐ存在だ」と意識した上でのそういう特異な状況を想像したら、こうなりました。
別段、来たのがアスカ・シンでなくても、例えば明子やアレンであっても、灯里は多かれ少なかれ、ネオ・ヴェネツィアへの誇りと愛、アクアの先人への憧れと敬意を、その先人自身に揺るがされるかもしれない、先人たる彼らが作り上げてきたものを、自分の未熟がゆえに彼ら自身に説明できず、その価値を貶めてしまうかもしれない、という種類の緊張をしそうだと、私には感じられました。

ちなみに『ネオ・ヴェネツィアはもうすぐ夏』なので晃の誕生日のちょい前くらいとして

アスカ・シン(22)

アリシア・フローレンス(20)
晃・E・フェラーリ(20)
アテナ・グローリィ(21)

と考えます。
火星(アクア)の公転周期とか裏誕生日とか劇中の日付とか経過時間とか誕生日や年齢の設定は地球の日付に換算されたものだとか月刊ウンディーネの年齢表記とか色々あってどう考えたものかわけわからんのですが、一応、灯里がアクアに来てから一回りした夏で、アリシアは初登場からひとつ上、晃とアテナは初登場時のまま、ということに。
細かい訂正歓迎。

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