ARIA The NEOFRONTIER   作:ブラッディ

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ニコ生一挙で特撮オタがARIAにドハマりしたらこうなる。


その 不思議な出会いは…

 白い壁の建物が並ぶ一帯の隙間の、裏路地染みた通路のほんの先。

 それなりの幅の水路に面する桟にて。

 

『アイちゃん、ネオ・ヴェネツィアはもうすぐ夏。火炎之番人(サラマンダー)さんたちが本格的に頑張ってるみたいです』

 

 桃色の髪を前髪の横だけ伸ばした一種奇妙な髪型の少女が、青い手袋のついた右手を差し出している。

 柔らかな印象の少女だが、桟に寄せた黒い(ゴンドラ)に片足を乗せながらもう片足を桟に踏ん張り、手袋のついていない左手が桟の脇に立った木の棒(パリーナ)をガッチリ握っている様はアンバランスに逞しい。

 

「お手をどうぞ。お足元、お気をつけください」

 

 白地に青を流す爽やかなマーメイドラインの制服を身に纏う少女は、青いリボンを揺らしてふわりと微笑む。

 

『春から渡った季節のバトンを夏が受け継いで、秋が受け継いで、冬が受け継いで。そして前とはきっと違う春が、冬からバトンを受け継ぐ』

 

 手を差し出されるお客はまだ若く活力に溢れ、それなりに整った顔の青年。細身な印象ながらがっちり鍛えられた体に、野球チームのユニフォームを模した私服がよく似合っている。

 

「あ、こりゃ、どうも」

 

 少女の細くしなやかな脚がスリットから覗くのをチラッと見て、慌てて目を逸らしつつ手をとる。

 

『そのなかで、虫も、猫も、潮も、そして人も、営みを継いでいってる』

 

 青年は慣れない様子ながらも、立つ分には意外と狭くて足場が悪い舟にさらりと乗り込み、座席にすっと座った。舟には慣れなくても、狭くて足場が悪いところに乗るの自体は慣れているようだ。

 

『アクアは常に、なにかがなにかを継いでいく星なの』

 

 座席の後ろの所定位置に立ちオールを握った少女は、興味深げに舟の縁をコンと叩いたりする青年に微笑み、

 

「私は、『ARIAカンパニー』の水無(ミズナシ)灯里(・アカリ)と言います。ようこそ、ネオ・ヴェネツィアへ」

 

 若き水の妖精(ウンディーネ)は、光る波と夢の広がる水面を掬い、漕ぎ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 地球西暦2301年。

 

 抜けるような青空と、歴史ある白い町並み。

 そよふく優しい風と、綺麗な空気と、たおやかに澄み渡る水。

 そして水と空気と同じくらい綺麗で澄んだ、そこに暖かく息づく人々。

 水路を行き交う舟は飛沫を上げて、いつものありふれた朝を人にもたらし、今日もゆっくりと進む。

 

 独自の暦が生まれるほどに人間がこの星に根を下ろしてから、地球西暦で150年。

 公転に地球の倍を要するこの星の暦『火星暦』では75年。

 

 A.D.2301. = A.C.0075.

 

 ここは命と水の惑星、AQUA。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは、ネオ・アドリア海の島に旧ヴェネツィアの建築物や町並みを移した街、ネオ・ヴェネツィアです。ご覧の通り古い町並みと歴史を残すこの街では、開拓基地から湧き出した水を水路に流して行き渡らせ、インフラに利用しています。舟にお客様をお乗せして水路を渡り御案内させていただく私たちを水先案内人(ウンディーネ)と呼んでいます」

 

 舟に乗ったお客様は気の抜けた顔で、へー、と言った。

 水先案内人会社ARIAカンパニーに勤める水先案内人見習いの水無灯里は、オールを握る手をきゅっと握った密やかなガッツポーズで日頃の練習の成果を実感していた。白い水先案内人の衣装に陽光が反射し、曇りのない笑顔と合わさってなんとも眩しい。桃色の髪が波とともにさらりと揺れている。

 同乗する青い瞳の白い火星(アクア)猫のアリア・ポコテンも、ぷいぷいにゅー、と灯里にエールを贈る。

 

「その年で立派なもんだなぁ。俺も教習所じゃ若き天才とならしたもんだけど、ちゃんと動かせるようになるまでにはやっぱり随分かかったんだ。ま、水の上を行く槽じゃなくて、空の上を行く飛行機だけどな」

 

 今日の灯里のお客様は引き締まった体躯を締まりのない有り様にして座ってはリラックスしきった顔で間の抜けた感想を漏らす、なんともゆったりした青年だ。

 周囲の町並みや水路を見るともなく見ながら、気持ち良さそうに船に揺られている。

 

「いえ、私はまだまだ、師匠に色々と教えてもらって一人前を目指す『シングル』という見習いなんです。師匠の隣に並べるような一人前と認めてもらえるまで、水先案内人は指導員や師匠の同乗のもとでしかお客様をお乗せしてはいけないんですよ。……本当はアリシアさんも皆も予定が入ってる今日は個人練習のつもりなのに、ぐいぐいどうしてもって言うから……」

 

「通りかかったのが灯里ちゃんだけだったんだからしょうがないじゃん? いやぁ、あとちょっと灯里ちゃんが遅かったら水も滴るいい男になってたところだったぜ」

 

 控えめに文句を言う灯里だが、お客様はゆるーい顔をして平然としたものだ。締まった顔をすれば精悍な青年なのかもしれないが、ジュースを傍らに水路を睨んでいたのを発見した時から、彼はこんな感じだった。

 

「びっくりしましたよ……。ちょっといつもの練習コースから逸れた脇路に入ったら飛び込み体勢バッチリで……」

 

 ……人通りも土地勘もなく音信も不通。歩道も途切れて先にあるのは水路のみ。ヤケを起こして生身で漕ぎ出そうとする気持ちはわかるが、しかしいままさに飛び込まんと桟に屈伸したその姿と目があう初対面の気まずさをなんと形容しよう?

 

「それにしても、()()()()なのに一人(シングル)でやっちゃダメって、変じゃないか?」

 

 しれっと話題を変えた彼に特に、灯里もしれっと追従した。

 

「『シングル』というのは、見習いの水先案内人がつける手袋の数なんです。こうして片方しか手袋をつけていないでしょう? その前、お客様を乗せてはいけない研修生は『ペア』と言って、両手に手袋をつけてるんですよ」

 

 ほー! と青年は腕組みをして面白そうに相槌をうった。リアクションが心なしかわざとらしい。

 なんとも間の抜けた青年であるが、それが同じくらい間の抜けている灯里と一緒にいると弛緩した雰囲気が延々と続く。頑張れよな!と当然のように居直る本来乗せてはいけないお客様が灯里に言えば、はひ、と灯里も当然のように答えて機嫌よくオールを漕ぎだす。

 こういう気ままというか気をおかない態度の青年は、灯里としては出雲(イズモ・)(アカツキ)という知人で慣れたものだ。むしろ灯里の舟をすごくリラックスして楽しんでいる様子は、水先案内人の端くれとして気分がよかった。

 気分はよかったが、もしこれが知り合いの水先案内人に……特に灯里や友人たちに厳しい指導をしてくれる(アキラ)・E・フェラーリにでも見つかったらと思うと、灯里も気が気ではなかった。

 するとお客様は、じゃあこうしようぜ、と言い出した。

 

SUPERGUTS(スーパーガッツ)の俺が、今日は灯里ちゃんの臨時の指導員ってことで」

 

 自然に何気なく言ったつもりでも鼻高々な調子が出てしまっているお客様……臨時指導員に、灯里はぱちくりとまばたき。

 

「お客様は――

 

「アスカでいいよ。俺、アスカ・シン。よろしくな」

 

 ――あ、はひ! じゃあ、アスカさんはSUPERGUTSの方なんですか?」

 

「そう、TPCに聞こえたSUPERGUTSの若きエース、不死身のアスカ様とは俺のことだぜ!」

 

 胸を張って誇り高く、アスカは言った。

 うわー、と灯里は感嘆の声をあげる。

 

 地球平和連合TPCは、惑星開拓(テラフォーミング)期初頭、ネオフロンティアと呼ばれる時代以前から存在していた地球統一組織だ。元々は地球上での紛争の根絶のためにサワイ・ソウイチロウが交渉術により全ての国家をまとめあげた組織だったが、いつしか地球内外からの脅威に立ち向かい、人類の活動圏を拡げる活動を行う組織となった。

 アクアの開拓でも中心として機能し、現在は太陽系全土に拠点をおいて惑星開拓を行っている。

 SUPERGUTSは、元はTPCの治安維持部門だったGUTSを基にネオフロンティア時代に地球と太陽系を襲う脅威への対抗部門として再編された武装組織だ。

 地球がマンホームとなり火星がアクアとなったこの時代では、Neo・SUPERGUTS、SUPERGUTS・Aqua、SUPERGUTS・Luna、SUPERGUTS・Jupter、SUPERGUTS・Cosmoなど主要任務圏で別組織として展開し、定められた管轄を防衛している。任務圏の秘匿のため、所属隊員は単にSUPERGUTSだと名乗るのが慣例となっていた。

 

 というのを灯里は実は半分も理解していないが、とにかくTPCとSUPERGUTSが凄い人達であることだけは理解していたので喜んだ。

 が。

 

「……でも、アスカさんは舟を漕いだことはありませんよね?」

 

「……ガッツマリンなら……」

 

「マリン? もしかして、SUPERGUTSにも舟があるんですか?」

 

「まぁ、同じようもんかな。……潜水艇だけど」

 

「ほへ? すいません、声が小さくて……」

 

「気にせず行こうぜ!」

 

 アスカの先輩隊員がいたらここまででアスカが何回殴られてることやらわからないし、灯里の知人がいたら何度額に手を当てて溜め息をつくかわからない会話だが、灯里は真剣に考え出した。考え出した末に、

 

「どうしましょう、社長~」

 

 と猫のアリア社長に指示を仰ぐ。

 しかし、アリア社長はわかっているのかいないのか、即断で

 

「ぷいにゅー」

 

 と頷いてみせた。

 

「うーん……じゃあ、行きましょうか。目的地はお食事ができるところ、でよろしかったですね?」

 

 猫の指示を当然のように受け入れた灯里は、ほんとに気にせず漕ぎ出してしまったのだった。

 

 

 

 陽光に煌めく水面の上を他の舟とすれ違いながら、灯里の見習い用の黒い舟が進む。

 

 

「さっきから気になってたんだけど、あの丸いのなんだ?」

 

「あれは浮島といって、アクアの気候を操作しているものです。中で火炎之番人(サラマンダー)さんたちが炉から熱を放射してるんですよ。ネオ・ヴェネツィアからだと小さく見えますけど、中には町があるくらい大きいんです」

 

「へぇー、やっぱ、太陽系全部ってなると本物の太陽と人工太陽カンパネラだけじゃ足りないってことか。でも俺は、どうせ空なら自由に高くどこまでも遠くまで飛びたいぜ」

 

「じゃあ、アスカさんは風追配達人(シルフ)さんですね」

 

「シルフ?」

 

「空を飛ぶ乗り物で配達とかをしてる人です。あ、ほらあそこ! ウッディーさぁーん!」

 

「ぷいにゅー!」

 

 

 会話しながらオールを漕ぐ手を緩めつつ、灯里が目指すはお目当てのピザ店だ。

 

 

 

「なんだか猫ばっかじゃないか?」

 

「ネオ・ヴェネツィアは猫の街ですから。どこかに猫の王様が治める、人間の踏み込めない猫の王国があるらしいですよ」

 

「猫の王様って……それ、猫そっくりの宇宙人とかじゃないの?」

 

「うーん……宇宙人、なのかなぁ。確かに、言われてみれば宇宙人っぽいかも……」

 

「ぷいにゅ!? ぷいにゅ! ぷいぷいー!!」

 

「おわっ、どうしたどうした!」

 

「ご、ごめんなさい、アリア社長! 誤解ですからー!」

 

「ぷいぷいにゅー!!」

 

「だぁ、やめ、揺らすな、うわぁ! あっぶねぇなこいつぅ!」

 

 

 

 アスカはワクワクした顔で、水路に行き交う舟や白い街並みをキョロキョロと興味津々に見回す。

 

 

 

(ゴンドラ)、通りまーす!」

 

「ぷいにゅー!」

 

「それにしても、折角火星に建てたのになんか古っちくないか、この街」

 

「ネオ・ヴェネツィアの建物は、水没したヴェネツィアの建物を移築したものが多いんです。名のある建築物から名もない単なるお家まで。古いって言ったらそれまでですけど、歴史とそこに過ごした人たちの想いを感じられると思えば、その古さも愛おしくなるように思いませんか?」

 

「なるほどな。地球から宇宙にそういうのも受け継いでいくのか。カリヤ隊員とかそういうの大好きだぜ、きっと。……そういえば、前にティガについて調べたとき、7年前の古代遺跡隆起のときの波に飲まれたりして沈んだ都市があるって……そのときのを火星に持ってきたのか?」

 

「7年ですか? うーん、もっとずっと前だと思うんですけど……」

 

「え? ベネチアってそんな前になくなったの?」

 

「え?」

 

 

 町並みが徐々に住宅街から商店街へと変わっていき、街に満ちる活気に灯里もうきうきと高揚する。大きな水路に差し掛かった黒い舟は、白い舟を避けて水路の脇に寄せた。

 

 

「あれ? あっちの舟、なんかデカくない?」

 

「これはシングルとペア用なので少し小さいんですが、あちらは『プリマ』、つまり一人前の水先案内人の舟なんです。『プリマ』は素手という意味で、両手に手袋を着けていません」

 

 説明に、アスカは真面目ぶって頷いた。

 

「ウイング・ゼロとイーグルみたいなもんか。あれだけデカいと漕ぐの大変だろうなぁ。手袋ないんじゃ冬は手がかじかみそうだし」

 

「そうですね。一回だけ漕がせてもらったことがあるんですけど、やっぱり感覚が違って。それに観光案内も舟謳(カンツォーネ)もこなさなきゃいけないので、一人前の水先案内人って大変だなぁって」

 

「カンチョー? それなら俺も入隊直前くらいに訓練学校でさぁ」

 

 真面目ぶったままとんでもない話を続けようとするアスカに、灯里は思わず声を張り上げた。

 

「カンツォーネ! 水先案内人の修めるべき技術の一つで、オールさばき、話術と並んで重要なもの! 歌です!!」

 

「あ、あぁ、ごめんごめん。けど、なんで船を漕ぐのに歌えなきゃいけないんだ?」

 

「うーん……ゆったり船に揺られながら歌ったり、逆に綺麗な歌を聞いたりすると気持ちいいじゃないですか。特にネオ・ヴェネツィアの綺麗な景色を見ながら綺麗な歌を聞ければ、とっても素敵でしょう? だからだと思うんです」

 

 アスカはそれを聞くと、周囲を見渡した。

 光に満ちた青い空と、それを写し取った青い水路に挟まれた街だ。

 色とりどりの街にゆったりと行き交う舟と、人々の明るい笑顔。白い舟は日を浴びて眩しく目に映え、鮮やかな街並みにさらなる輝きを増して見える。舟に揺られてちょっとずつ次の景色を見せてくれ、その景色はひとつの例外もなく美しい。

 風にのって漂ってくる潮の匂いと、木の匂い。そしてちょっと美味しそうなコーヒーと、食べ物の匂い。

 灯里の「ね?」といわんばかりの笑みに、アスカもにっこり笑った。

 

「なるほど。言われてみれば、俺も空から絶景を見下ろしたときには歌でも歌いたくなるときがあるよ」

 

「でしょう? でも、オールさばきとお話はともかく、舟謳はあんまり練習する機会も少ないからなかなか上達がなくって」

 

 水先案内人の技術に興味をもったのか振り返ったアスカは、灯里の仕事を上から下までじっと見た。

 

「そもそもそこ立ってるのもバランスとか大変そうなのに、あのデカいのなんてもっとだろ。それ漕いで観光案内もしてって謳って、水先案内人も大変だなぁ」

 

 水先案内人が立って操舵を行う部位は、波間に揺られて行くには不安定感が否めない程度には細い。幅にして灯里の華奢な肩幅の倍程度、奥行きは灯里の一歩分に僅かに満たないといったところだ。舟である以上濡れることはままあり、また障害物にぶつかって衝撃が加わることもある。漕ぐために腕に力を入れているわけだから、いざというとき足の踏ん張りがきかないこともある。滑りにくい専用のブーツを履いているとは言っても、未熟な水先案内人はときどき足を滑らせたりする。

 という事情が、アスカにも察されたらしかった。

 

「えへへ。でもとっても楽しくて、やりがいがあるんですよ。ネオ・ヴェネツィア中を巡る水先案内人だからこその出会いがいっぱいあって。水先案内人だからこそ見付けられる素敵なものもたくさん。だから私、ネオ・ヴェネツィアを一番楽しめて、一番好きになれるのは水先案内人なんだって思います」

 

 決して、大変なだけの仕事じゃないんだと、灯里は伝えられただろうか。

 

「素敵を一番見付けられる仕事、かぁ。じゃ、俺のSUPERGUTSは、素敵を護る仕事だな!」

 

 その熱く輝くような引き締まった顔自体、灯里は素敵だと思った。

 

「はい! ……あ、アテナさんだ!」

 

 素敵な出会いは重なる。そんな実感に嬉しさが抑えられない灯里の視線の先に、アスカも目をやる。

 

 白とオレンジのラインの舟に乗る褐色の肌の女性だ。穏和、というよりはどこかオリエンタルな微笑を浮かべ、オールを漕いでいる。白とオレンジの水先案内人制服が目に明るい。

 その大きめのゴンドラには6人ほどのお客さんが乗っていて、灯里は仕事を邪魔しないように声をかけるのを自粛する。

 

「なになに、有名人?」

 

「アテナ・グローリィさん。業界大手のオレンジぷらねっとの水先案内人で、現在の業界でトップ3の成績を誇る『水の三大妖精』の一人です。人気者だからお客さん一杯ですね~」

 

 周囲の視線が彼女に集まってきたのを見て野次馬根性を出してきたアスカに苦笑するとともに、灯里はアテナの後ろの少し離れたところに黒い舟の少女を見つけた。アテナと同じ制服を着た両手に手袋(ペア・ウンディーネ)の少女アリス・キャロルは、こちらに気付いて軽く緑の髪の頭を軽く下げた。

 とても優秀な後輩であるところの彼女は、今日は師であるアテナを横から見て実地で学んでいるらしい。

 

 お客の女性がアテナに何かをせがむような気配があるのを見て、周囲はにわかに色めきだった。

 

「アスカさんラッキーです! アテナさんの舟謳を聞けるなんて!」

 

「お、マジで? じゃあ、トップ3のお手並み拝見といこうじゃないの!」

 

 偉そうな言い方だが、アスカは実に興奮した様子だった。

 

 

 その女性が水の生気を取り込むかのごとく息を吸い込んだ瞬間、灯里はオールを握りしめた。アクア中が彼女の瞳に捕らわれたような錯覚に陥る、圧倒的な期待感。

 そして彼女が口を開けば、アクア中の音という音が道を譲る。

 舟を漕ぎながら謳われるそれはまさに天上の謳声。ネオ・ヴェネツィア中を響き渡り、暫し時間を忘れさせる。それはまるで時の神さえもこの謳声が終わりに近づくのを拒んでいるかのような。

 眩しい日差しがスポットライトのように彼女だけに降り注ぎ、オペラハウスに迷い混んだような感覚。水面に反射された陽光が全て彼女に――アテナ・グローリィだけに集まり、昼前の明るいネオ・ヴェネツィアのなかにくっきりと照らし出される。

 この星そのものが喜びを発散するような、そんな数分だけの奇跡。

 全身で、全霊で歌う彼女はその名の通り、女神だった。

 

 

 天国のような時間が終わると、皆は洗い立てのシーツにくるまれたような暖かく清浄な気分で万雷の拍手を贈った。灯里とアスカもそうだった。

 

「素敵ですよねぇ、アテナさんの歌……」

 

「は~~、流石、火星の歌の名手は違うなー。マイが聞いたら一発でハマっちゃいそうだ」

 

 灯里、というか周囲の水先案内人も、それどころか見渡す限りほとんどの人が感激に立ち尽くしている。アスカも満足げに腕を組んでうんうん頷いている。

 が、当のアテナは微笑し、そのまま漕ぎ続ける。慣れたものというか、浮世離れしてるというか。

 

「アテナさんは見習いの頃から舟謳の上手さで業界の話題になってたんだそうです。プリマになるまでにもっと研鑽を積んで、今ではこの歌を聞くためだけに何度もネオ・ヴェネツィアに足を運ぶ人も多いんですよ」

 

 アスカは納得した顔だった。

 

「よくわかったよ。こういう歌を聞くと聞かないとじゃ、来た人のネオ・ヴェネツィアの印象が違ってくる。野球するとき、チアや吹奏楽部の応援歌があるとないとじゃテンションが違うもんな。舟謳って重大だ」

 

「アテナさんの舟謳は、『天上の謳声(セイレーン)』の通り名の通り、聞いた人の魂をこの街に縫い付けて夢中にさせてしまう女神様の謳なんですよ。

 ほら、素敵なこと、見付けられるでしょう?」

 

 そのやりとりを聞いてか聞かずか、舟ですれ違うアテナは一瞬、殊更ににっこりと笑ってこちらを見た気がした。

 

 

 

 アテナが通りすぎたあと、その後ろにいた少女が灯里の舟に近付いてきた。

 

「灯里先輩、おはようございます」

 

 業界大手『オレンジぷらねっと』の水先案内人にして、一般ミドルスクールの舟部からスカウトされた若手注目株のアリス・キャロルだ。

 

(パンダのぬいぐるみが転がってる……)

 

 アリスの舟に仰向け大の字で寝転がる小さな白黒のものをちらっと見て心中でもらすアスカをよそに、灯里はアリスに挨拶を返す。

 

「アリスちゃん、おはよう。アテナさんを見て勉強してるんだね」

 

「はい。たまには同じ舟に乗るのでなく、横から追っかけて見るのもいい勉強です。仕事中のアテナ先輩はでっかい別人のようで、安心ですね」

 

 言いながら、見事な操舵でアリスは灯里の舟に並んだ。

 

「勉強中なら、着いていかなくていいのか?」

 

「いいんです。コースは確認済みですし、たまに離れないとお客様が私を気にしてしまいますから。ところであなたは……」

 

 と、普通に会話していた青年を見て、口をポカンと開けた。

 それをシングルなのにお客を乗せていることに対する反応だと思った灯里は、慌てて口を開いた。

 

「あ、アリスちゃん! 違うの、この人はアスカ・シンさんって言ってね!」

 

 アリスは口どころか目までかっ開いた。

 

「SUPERGUTSの方で、今日の臨時指導員としてね!」

 

 アリスはそのままぶるぶると震え出した。

 見ようによっては彼女の先輩のアテナ・グローリィの異様な笑い方にも似るが、アリスのそれは間違いなく動揺による震えだった。

 

「……アリスちゃん?」

 

 流石に意味不明な反応に戸惑う灯里だが、アリスはむしろ「あなたなんで平気なんですか!?」みたいな顔で灯里をガン見している。

 

「あ、聞いての通り、俺、アスカ・シン。今は休暇中だけどSUPERGUTSの隊員だ。よろしくな」

 

 アスカが自己紹介すると、アリスはとうとう、オレンジぷらねっとの火星猫のまぁ社長に噛みつかれたアリア社長の如くすっ飛んだ。――ちなみに、アスカが発見した『パンダのぬいぐるみ』が、件のまぁ社長である。遊びと食事と成長で忙しいこの新社長は目下をもっておやすみ中。

 ともあれ、アリスのあまりにもあまりな反応に、今度はアスカと灯里が目を丸くする。

 

「照れ屋なのか?」

 

「えぇ、まあ……でも、最近はずいぶんマシになってきたはずなんですけど……」

 

 今にもオールをへし折りそうなほど変に力の入った手を見て不安にかられた灯里は、アリスの顔が紅潮していることに気がついた。

 

(まさか一目惚れ!?)

 

 灯里の思考までどこかに飛び退きそうになったとき、遠くから、また歌が聞こえてきた。

 

 先程と同じ天上の謳声。しかしその謳は「元気をだしていこう、気にしないでいこう」という歌。アスカには歌詞はわからないが、曲調で伝わる明るい謳。

 遠く曲がり角に消えていく白とオレンジの舟を見やれば、優しい眼差しが確かに注がれていた。

 

 その眼差しの先――彼女の愛弟子であるアリスは、震えが大分収まり、オールを握る手も柔らかなものになっている。

 まだ頬を紅潮させながらも、おずおずとアリスは口を開いた。

 

「……アリス・キャロルです。でっかいよろしくお願いします……」

 

 灯里とアスカは笑って応えた。アリスはますます赤くなるが、先程のような緊張はない。

 

「よろしく。いやぁ、歌って凄いな」

 

 アスカが言うと、アリスも

 

「……でっかい、凄いです」

 

 と応えた。そしてぎこちな会話が続いていく。

 アテナとアリスの関係はいつもこう。小生意気なことを言いつつ本当は緊張しいで寂しがり屋で肩書きほど強くないアリスを、アテナはぼんやりした素振りながら見守っている。敏感にアリスの機微を察し、ただ歌って、こっそりその小さな背中を支えるのである。

 

「まるで、歌でアテナさんの心をわけてあげているみたいだよね」

 

「恥ずかしい台詞、でっかい禁止です」

 

「えー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫くして。 

 

「では灯里先輩、ファイトです。……アスカさん、でっかい、でっかいでっかい、()()()()()()()()()()()。そのCD、大事にしてくださいね」

 

 挨拶と共に、見苦しくない流麗さを伴う驚くべきスピードで通りすぎたアリスの舟とすれ違いに、灯里の舟もゆっくりと発進した。

 

 ――なお、アリスの舟に転がっていた『パンダのぬいぐるみ』らしきものが、実は仰向け大の字で寝ていただけの生きた火星(アリア)猫であることに、アスカはついに気が付かなかった。小さなお腹を風船のようにぷーぷー膨らませて、結構大きな寝息だったのにも関わらず。

 ましてやそれが、黒ぶち模様でよく見えなくなっているものの確かに米粒のような青い瞳(アクアマリン)をもつオレンジぷらねっと子猫社長の『まぁ』であることも、当然知らなかった。

 もっといえば、アリア社長がひとたびまぁ社長と顔を会わせればたちまちじゃれつかれ、白いもちもちぽんぽん(お腹)を噛まれて痛い思いをすることも知らず終い。

 そういうわけでアリア社長が二艘の接近からずっと息を潜めて大人しくしていたことや、その甲斐あって寝こけたままアリスとともに去っていったまぁ社長を滝のような大粒の汗(アクアマリン)と安堵の溜め息で見送っていることなど、知る由もなかった。

 

「もらっちゃってよかったのかな?」

 

 アスカの手の中にある一枚のCD。アリスからもらった、アテナの舟謳のCDである。

 

「アリスちゃんがくれるって言ったんですから、いいと思いますよ」

 

 アスカの凄く腑に落ちない顔は察するに余りあった。アテナの舟謳がいつでも聞ける素晴らしいCDを人に譲るなんて普通は考えられない。が、アリスは会社の寮がアテナと同室なので生で聞き放題なのだということを説明すると、アスカはまだちょっと訝し気ながら頷いた。

 

「うーん……あ、そういえばさっきの『水の三大妖精』って、ほかは誰なんだ?」

 

 CDのカバーに映る神々しいばかりのアテナの写真を見て、アスカは聞いた。

 

「先程の、大手『オレンジぷらねっと』の『天上の謳声(セイレーン)』アテナ・グローリィさんのほかには、老舗の『姫屋』の『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)』晃・E・フェラーリさんと、私の『ARIAカンパニー』の『白き妖精(スノーホワイト)』アリシア・フローレンスさんです。私たちの尊敬する先輩で、先生で、憧れの的なんですよ!」

 

 捲し立てる灯里を見て、アスカは首をかしげた。

 

クリムゾンドラゴン(ガッツウイング1号・ヨーロッパ支部機)(※聞き間違い)にスノーホワイト(マキシマオーバードライブ試作機)ってまた速そーな……って、最後のアリシアさん以外は商売敵なんじゃないのか? いや、俺はいいと思うけど、そういうのって仲良くしちゃうもんなのかってさ」

 

 灯里はなんとなしにアリア社長を見た。社長。社の象徴。

 

「うーん、そういえばそうなのかもしれませんけど……私はアリシアさんの弟子で、藍華ちゃんが晃さんの弟子で、アリスちゃんがアテナさんの弟子で……私と藍華ちゃんとアリスちゃんは一緒に練習してて、昔はアリシアさんと晃さんとアテナさんも一緒に練習してたんです。練習を三人まとめて晃さんに見てもらったこともあります。だから……」

 

 灯里は顔をあげ、我知らずに微笑む。

 

「それはそれ、これはこれ、なんです。だって藍華ちゃんとアリスちゃんとは友達だから。アリシアさんも晃さんもアテナさんもとってもよくしてくれます。あんな素敵な人たち、嫌いになんてなれませんよ。ずっと、もっと、いつまでも仲良くしたいんです。それにそもそも、」

 

 灯里の目には一点の曇りもない。陰りもない。ただ、水路に映る空の蒼だけを宿して輝いている。

 

「私たちは、同業の商売敵なんかじゃなくて……ネオ・ヴェネツィアの素敵をみんなでお届けする、仲間ですから」

 

 アスカは微笑みで応えた。

 

「なんかいいな、そういうの。ゴンドウ参謀に聞かせたいよ、全く。……けど、よっぽど凄い人たちなんだな、水の三大妖精って人たちは」

 

「はい! アテナさんは普段はドジだけど気が利くし舟謳が凄く綺麗で! 晃さんはちょっと教え方が怖いけどお客様を楽しませるのがとっても上手で! アリシアさんは優しくて料理もオールさばきも凄く上手で、それに包み込まれるみたいに柔らかくて! 三人とも、凄く素敵な人たちなんです!」

 

 頬を紅潮させて一生懸命に話す灯里を、アスカは囃し立てる。

 

「じゃあ、そんな素敵な三大妖精の弟子の灯里ちゃんたちは、次期素敵な三大妖精ってわけだ!」

 

「そ、そうですよね!」

 

「ウンディーネチームのエースと四番とキャプテンをそれぞれ引き継ぐみたいな感じだもんな!」

 

「が、頑張らなきゃです!」

 

「責任重大だぜ!」

 

「はひーっ」

 

「弟子の不始末は師匠の不始末だしな!」

 

「は、はわわわわ!」

 

 それはまだまだ遠い日のことだというのに、既に緊張してフラフラしている灯里。今しがたの一本気な力強さはどこへやら。

 アスカは笑いながら、口を開く。

 

「俺にも経験あるよ。野球部の先輩とか、地球を守ったGUTSの先輩とか、もっと()きくて偉大な先輩とか。それに……光の向こうを見に行った父さんとか。先輩から引き継だり肩を並べたりって、気が張るよな」

 

 どこか遠い空を……あるいはその向こうの星々の光を見つめるアスカ。灯里は、同じく空を見上げる。そこに広がるのは、今この時間の、明るい青空。

 

「……ほんというと、アリシアさんの弟子に相応しい水先案内人になれるのかなって、ときどき思うことはあります。ARIAカンパニーを継いでいけるようになんてなれるのかなって。自分があんなに素敵な人になれるなんて思えなくって……」

 

 心なしか速度が速まったゴンドラでちょっとバランスを崩しながら、アスカは言った。

 

「だからこそ、肩の力を抜いてみるかって、先輩が言ってたよ」

 

 灯里の手がちょっと止まった。

 

「一人じゃ乗り越えられないものもあるけど、だからこそ、皆でやってけばいいんだってことなんだと思う。俺たちは一人で戦ってる訳じゃない。先輩たちも、皆で作って、皆で守ったんだからさ」

 

 実感の込められたアスカの言葉は、まさしく自分で経験して、仲間たちと一緒に乗り越えてきたことの証左に思えた。

 

「灯里ちゃんも、一緒にやれる仲間がいるだろ?」

 

 そう、アリシアと晃とアテナは、三人で練習し、影響しあって成長して、三人で『水の三大妖精』と称えられるようになった。

 今、灯里と藍華とアリスは三人に教えられて、三人で練習を重ねている。だから、三人で成長すればいい。三人の技術を、三人で受け継いで、三人で乗り越えればいい。

 

「そうですよね。()()()先輩たちから受け継ぐんじゃなくて、()()()先輩たちから受け継ぐ……そう考えたら、なんだか、楽になりました。摩訶不思議ですね」

 

 ほんわりと、灯里らしい笑顔を浮かべる。オールを握る手に込めていた力が抜けていった。

 それを見るアスカは、親しみと実感のこもった笑顔だった。

 

 

 

 

「それにしても、アスカさんはアクアのこと、ほんとに知らないんですね。マンホームからいらしたんですか?」

 

 灯里が聞くと、アスカはぽかんという顔をした。

 

「……まんほーむ?」

 

「あ、えーと……――そう、地球のことです」

 

 不意をつく問いかけに思いがけず詰まってしまった灯里だが、言われたアスカはぽかんとしたまま数秒考えて、あぁ、と合点がいったように呟いた。

 

人間(マン)の家(ホーム)ね。ちょっと洒落てるじゃないの! 流っ石火星、いや、アクア!」

 

 一人勝手にテンションが上がっているアスカに、今度は灯里がポカンとする番だった。

 

「地球をマンホームって呼ぶようになったのはもう随分と昔のはずですけど……火星もアクアと呼んで随分と経ちますし……」

 

「え、火星ではそうなの? ……けど、確かに最初の火星入植は5年前だから、随分なのかな?」

 

 自分と同じ日本人のようなのに、なんだか変わった人だな、と灯里は自分を棚にあげて思う。

 

「うん、じゃあ、俺は()()()()()から来た。TPCの火星基地にみんなで来てさ、休暇がもらえたからぶらぶらしてたら、ハネジロー……えー、まあ、猫? を、追いかけて、そしたらここに出たんだ」

 

 猫を追いかけてたら、気がついたら覚えのないところにいた。

 身に覚えのありまくる経緯に、灯里はちょっと勢い込んで言った。

 

「猫さんですか?」

 

「そう、ちょうどこのアリア社長みたいな青い目で黄色い体のやつ。っていってもほんとに猫ってわけじゃなくて、猫っぽいのっていうか妖精っていうか、まぁー、チビの怪獣っていうか?」

 

「怪獣?!」

 

 SUPERGUTSという職業の人物から発された不穏な言葉に、灯里はちょっと青ざめながら聞き返した。100年以上前、入植開始前後の水採掘基地が海底怪獣を堀り当ててたのを最後に平和が続くこのアクアに、怪獣が出てしまったと思うとそら恐ろしい。

 しかし、アスカはアリア社長を抱き上げて、

 

「いや、ほんと、頭もいいしこれより小さいくらいのチビだからさ。いいやつだし大丈夫! なんならこっちの方が怪獣っぽいくらいだぜ?」

 

 うりうり、とアリア社長と戯れるアスカはほんとに気にしていない様子だ。不思議な感覚の鋭さをもつアリア社長もなにも感じた風ではない。専門家のアスカと、信頼する社長の様子に灯里も息を吐き出して安心した。

 

「じゃあ、そのハネジローくんを探さなくていいんですか?」

 

「それはそうなんだけどさ、腹も減ったし、地理も分からないのに歩き回ったってしょうがないじゃん? ハネジローならそう危ない目にもあってないだろうしさ」

 

 要するにまずはお昼御飯を食べてから、らしい。

 それなら言うまい、だ。

 

「TPCのお仕事って大変ですか?」

 

「まぁね。厳しい訓練、怖い隊長、鬼のような先輩、手強い怪獣。けど楽しいことだっていっぱいあるぜ。この力の限り空の彼方まで飛ぶ。その度に新しい発見と出会いがある。俺たちのいたTPC基地の辺りはまだまだ真っ赤な岩と砂がいっぱいでさ。火星のこっち側がこんなに綺麗になってて、地球をマンホーム、火星をアクアって呼ぶのも新しい発見さ。コウダ隊員とかには勉強不足だって怒られそうだけど」

 

「わー、私、アクアってもう全部が水に満ちてると思ってたんですけど、そういうところもあるんですね。知らなかったなー。まだこの星を作る人の手は止まってなくて、アクアはずっと手作りの星なんだぁ」

 

 まだ見ぬ水無き赤い大地に想いを馳せ、ね?と笑いかける灯里に、アスカも笑みを返す。

 

「手作りの星、かぁ。そうかもな。まだまだ水でいっぱいのここみたいなところの方が珍しいくらいだけど、みんなの夢と希望の光で照らし出した道の先にみんなで作り出す星。宇宙、そして未来。それがネオフロンティア時代、ってものなのかもな」

 

 まだ昼には見えない星の光を仰ぐように空を見上げ、感無量と呟くアスカに、え、と灯里は小さく声を漏らす。

 

(ネオフロンティア時代……って、惑星開拓(テラフォーミング)の初め、人間が火星に足を踏み入れて拠点を作って太陽系を切り拓こうとした時代だよね。もう300年近く前の……)

 

 

 歴史のテキストを思い出す。

 

 ――A.D.2017

 

 そこは氷と岩の星、「火星」。

 

 赤く染まった空。凍りつき渇ききった燃えるような紅の大地。何世紀もの間眠り続ける海。

 太陽から僅かに遠かったために豊かになれずおよそ生命の営みのない太陽系第四番惑星を、太陽系第三番惑星で生まれ育った生命たちははるか昔から見詰めてきた。

 

 彼らは谷底から頂を目指した。何人も仲間を失いながら。何人も仲間を作りながら。

 彼らは大地から空を目指す。何回もの失敗を重ねながら。何回もやり直しながら。

 彼らは新天地(ネオフロンティア)を目指していく。何度も道半ばに倒れながら。何度も立ち上がりながら。

 

 「人間」という名のその生命体たちの夢と希望は、果てしなくこの大宇宙へと広がる。未来という名の輝きを求めて――

 

 地球から月へ。火星へ。金星へ。木星へ。冥王星へ。太陽系全体へ。そしてその外へ。

 新たな希望に満ちた人々。新たな脅威と、奇跡の星火星(アクア)に顕れた最初の奇跡(ウルトラマンダイナ)

 

 21世紀に光り輝く宇宙開拓の初頭のその時代を、世は「ネオフロンティア時代」と呼んだのである。

 

 

 ……尤も、灯里はそのもう少し後の時代の歴史の方が好きだったので、ネオフロンティア時代のことは大掴みにしか覚えていないが……。

 

(ネオフロンティアっていう言葉は好きだけど、もう随分前のことで……人工太陽だって、今動いてるのはカンパネラって名前だったっけ? 水で溢れたところの方が珍しいっていうのも……)

 

 思い返せば、灯里はずっと、なにかの認識がアスカと決定的にずれている気がしていた。

 

「ていうか、『社長』って、名前?」

 

 物思いに耽っていた灯里は、アリア社長のもちもちぽんぽん(お腹)をむにむにしながらのアスカの問いに、はひ、と意識を戻した。

 

「昔からアクアマリンは海の女神様として、航海の安全を祈る御守りとして使われていたんです。それが転じてアクアマリンの青い瞳を持つ火星猫を社長にするのが、水先案内店の伝統なんですよ。そして我がARIAカンパニーの社長がこのアリア社長なんです」

 

「へー、神様! 昔って、地球……マンホームからってこと?」

 

「ぷいにゅー」

 

「それはそれは。お見それしました、社長! ……意外と、青い瞳のハネジローも神様だったりしてな?」

 

「ぷいにゅーい!」

 

 

 

 アスカ・シン。マンホームから来たにしてもあまりにもズレている青年。

 

 こうして触れあって思う。灯里の身に覚えのあるこの“ズレ”の感覚は……

 

 ――猫は、過去と未来をつなぐ動物と言われているわ。

 

 ――さようなら、私のアッヴェニーレ(未来)

 

 不意に脳裏に甦るその声。それが答えなのか。

 

(アスカさん、あなたはもしかして、過去から来た人なんですか?)

 

 この星に潜み、ときどき猫とともに灯里の目前に現れては、歴史と世界の裏側に誘うもの。

 綺麗なもの、暖かいもの、優しいもの、楽しいもの、怖いもの。あらゆるこの世界の素敵を感じさせてくれる“それ”。

 

 灯里は、火星(アクア)に巻き起こる“摩訶不思議”の気配を感じ始めていた。

 

  A.D.2301. encounter A.D.2017.


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