吾輩は物陰に隠れて体をぷるぷるさせるのだ。
ちゃんと吾輩が飛ばした水滴が誰にも当たらぬようにせねばらならぬ。吾輩は紳士であるからして、誰にも迷惑をかけてはならぬのである。
どこかで吾輩を呼ぶ声がするのである。声というか、
にゃあー?
こがさが吾輩を呼んでいると思わしき鳴き声を発しているのである。吾輩は岩の影からそれをちらっ、ちらっと見るのである。
近くにはお湯の川が流れているのである。それがゆぶねにそそいでいるのであろう、吾輩は前足でちょっとそれに触ってみるのである。うむ、なかなかいいゆかげん。ちゃぷちゃぷ音を出してお湯が入っていくのである。
何もやることがないのである。
吾輩はその場で座り込んでみる。おお、床があったかい。吾輩は寝そべって、ごろごろしてみるのだ。これは、なかなかいいではないか。くるしゅうないのである。
吾輩は特に意味もなくその場で寝がえりをうったり、ちょっとあくびをしてみたりのんびり過ごすのである。吾輩はここにはじめてきたのであるが、もう吾輩の庭のようなものであるな。
ちょっとねむたくなってきたのである。
こくりこくり、いやいかぬ。吾輩はあたまをふって眠気を払うのである。こんなところで寝てしまっては紳士としてはしたないのである。そうであるな、あのひときわ大きな岩の上で寝そべってみたいものである。
吾輩はそう思ってのそのそと歩いてみるのだ。おゆだまりをふむとぴちゃっと音がするので、何度か踏んでしまったのである。
うむ。なんであろうか、これは。
吾輩はぽつんと置かれた桶を見つけたのである。いっぽんのこれは、うむ。ひしゃくも入っているのだ。はっぴーせっとかもしれぬ。りんのすけがいい物が一緒になっているとそういうと教えてくれたのである。
周りには誰もおらぬ。誰かが使ったのにそのまま置き去りにしたのかもしれぬ。吾輩はこうきしん、いやいやどこかでなにか手掛かりがあるかもしれぬと思い、中に頭を入れてみるのである。
なかなか広いのである。ひしゃくもこうなんとなく吾輩持ちたくなってしまうのだ。
吾輩がすっぽりとはいってしまった。おちつく……。
はっ。この桶のみりょくを満喫している場合ではないのである。おお、誰かに持ち上げられたのである。誰であろうか、吾輩は体を起こしてみようと思ったのであるが、引っかかって動けぬ。
もぞもぞ、もぞもぞ。
やっと顔を出した瞬間に、ばしゃんと水に何かが飛び込む音がしたのである。一体何が……たいへんなのである。吾輩は温泉に浮いているのである!
桶がゆらゆら吾輩をのせて進んでいくのである。吾輩にはどうすればいいのかわからぬ。焦ってうごいてみれば、あやうくちんぼつしそうになったのである。
吾輩は意味なくひしゃくに縋っているのだ。
吾輩はこがさを探してみるのであるが、おらぬ。もみじは遠くでしゃんぷーをしているのが見えるのだ。吾輩のことに気が付くとは思えぬ。
ま、なるようになるのである。
吾輩、ふなたびは初めての経験なのである。そういえば空の上にはいったことがあるのであるが、温泉を桶に乗って旅するのは初めての経験なのである。
空を見ればふよふよと綺麗なひかりが飛び交っているのである。こがさが「おんりょう」といっていたのであるが、おんりょうとはなんであろうか。
――ひしゃくをおくれ~
びくっ。吾輩は驚いた。
吾輩の頭の中で変な声がしたのである。なにかわからずにまわりを見渡してみるのである。うむ? なんかお湯の下に沈んでいるのである。ひとであるな。黒髪のしょうじょのようなものが吾輩の桶の下に沈んでいるのである。
――ひしゃくをおくれ
にゃあー。
吾輩はこんどこそ挨拶をできたのである。相手がだれであれ挨拶を欠かしてはならぬ。吾輩は紳士なのである。そう胸を張るのだ。
――ひしゃくをください
丁寧になったのである。挨拶の効果であるな。吾輩は満足である。
ひしゃくといえばこれのことであるな。ううむ、くれと言われてもうまく持てぬ。吾輩はひしゃくの取っ手に力強くかみついて、ふらふらと持ち上げてみたのである。別に吾輩のものでもなし、あげてもいいのである。たぶん下にしずんでいる少女が欲しているのであろう。
うんしょ。
いや、今のは違うのである。思わず子供のように思ってしまったのであるが、吾輩は紳士なのである。
吾輩はどうにかこうにかひしゃくを咥えたままさきっぽをお湯につけてみたのである。お湯をくむところが一番重いのである。
早くとるのである。吾輩は少女の前でゆらゆらひしゃくをひらしてみたのだ。……これは、うわさに聞く釣りかもしれぬ。吾輩これも初めての経験なのである。
おう。ひしゃくのさきっぽのお湯をいれるところが少女のでっぱりに引っかかったのである。うむうむ。ひっぱってもとれぬ。いや、よく考えてもとる必要はないのである。
取られたのである。ひしゃくがお湯の中にしずんだのだ。吾輩はちょっと寂しいのである。
するとすぐに白い手がひしゃくをもって飛び出してきたではないか!
吾輩は驚いてにゃあと叫ぶんでしまったのだ。
脅かすではない……なんであろうか、吾輩の桶にひしゃくがお湯を入れ始めたのである。お湯が吾輩を包んでいくのだ。あったかい……ではないのである。このままでは沈んでしまうのである。やめるのである。
おゆが、お湯が桶にいっぱいになって、吾輩の肩まで浸かってしまったのだ……
うむむ? しずまぬ、これはいい湯である。吾輩は満足である。
「ちょっと」
びくっ。
みればお湯から顔の半分だけ出している少女がいるではないか。くせっ毛がお湯にぬれているのである。
「そこはしずまないとだめじゃない」
いや、しらぬ。駄目といわれても吾輩は悪くはないのである。いい湯であるから、いいではないか。
「せっかく桶とひしゃくをつかっておびき寄せたのに、あー。これじゃあ欲求不満だわ」
勝手言っているのである。さっき吾輩を持ち上げたのはおぬしであるか。
「このままじゃあこの村紗船長の名にかかわりますし」
せんちょうであったか、吾輩ははくがくたさいであるから知っているのである。たしかあれである、ううむ。そうあれなのだ! 吾輩ちゃんとわかっているのである。……いや、すまぬ。しったかぶりはいかぬ……。どわすれしたのだ。
それでも、せんちょうは吾輩ににっこり笑いかけてきたのである。
「沈めますね」
桶に手をかけようとしてきたのだ。いや、かけて下に引きずり込もうとしているのである。
な、なんでそこまでして吾輩を沈めようとするのであろうか。りふじんである。吾輩は納得がゆかぬ。
ただではやられないのである。吾輩は桶を蹴ってきゃぷてんの頭に着地したのである。
おお、不安定である。せんちょうよ、暴れてはいかぬ。捕まえようとしてもいかぬ。
「こら、おりてください」
ばしゃん、吾輩は落ちたのである。
ごぼぼ、ごぼぼ。吾輩は必死になってその場で足を動かしてみるのだ。もうしにものぐるいである。吾輩はここで沈むわけにはいかぬ。
ぱしゃぱしゃ。
意外と泳げるものである。吾輩は前足をぱたぱたさせて風呂の縁へ向かって泳ぐのである。
「そりゃあないですよ……」
せんちょうの声が聞こえるのであるが、吾輩にはよくわからぬ。
ばたばた。
吾輩、温泉で泳いだのは初めてである。しかし、吾輩は知っているのだ。お風呂で泳いではいかぬ……
「わーい」
真横をこがさが泳いで行ったのである。
……。見なかったことにするのだ。