「人は死したらまた他の世界で人として生を受ける。すなわち、転生する」と。
そして最後にこう遺した。
「ただしどこへ行くかまでは選べない」と――。
終わりがあるからこそ果敢無く美しいのが生命だ。それは人でも変わりはない。
さぁ、異世界転生という名の永遠の生を繰り返す者よ。
次はどこへ行く?
21世紀に入って数十年が過ぎた時。
ある脳科学者が疑う余地のない証明と共に発表した。
「人は死したらまた他の世界で人として生を受ける。すなわち、転生する」と。
宗教的、科学的に大いなる衝撃を与えた発表だった。
ヒンドゥー教におけるガンジス川になぞらえた輪廻転生、そしてその果ての目標である解脱などは無く、死すれば聖人も犯罪者もまた人としての生を受ける。
インフラ整備や簡単な仕事のほとんどがロボットに奪われていた無気力時代に、その発表が与えた影響は凄まじかった。
誰もが認識したのだ。
嫌な事があっても、リセットボタンがあると。
また違う世界でやり直せると。
自分の人生が完全に満たされていて一部の隙も無く幸せだという人間は思いのほか少なかったのだろう。
実は痛みも苦しみも無い自殺方法なんてものがあるもんだから、一人、また一人とこの世から人は消えていく。
完全に満たされて一部の隙も無く幸せな完璧人間が少ないように、誰からも必要とされない本当のゴミという人間もまた少なかった。
人が一人この世に絶望して消えるとき、残された人間は考える。
自分がいたとしても、彼・彼女にとってこの世は捨ててしまいたいほどに絶望と退屈に溢れていたのか、と。
特に親や恋人、兄妹など、近しければ近しいほど消滅は彼らに絶望を与え、消えた者を追って簡単に一人、また一人と、次の世界へ。リセットされて行く。
そしていずれは満たされた人間にも亀裂を入れていく。
人は一人では存在しない。弟の後を追って無くなった兄の母親が絶望して死んだ。その母親はある富豪の家政婦で、密かに彼女に初々しいまでの想いを寄せていた執事は辞表を残すことも無く消える。
どんどん消えていく。完璧な自分の世界からも人間が――。
世界富豪ランキングにも乗るある富豪の名が、自殺したとしてテレビに流れた時が決定的な崩壊となったか。
あんなにも満たされて何不自由のないように見える人ですら絶望するこの世界に留まる理由など――。
ニューヨークから、ロンドンから、渋谷から、次々に人が消えていく。
ある精神学者はこの現代の精神疾患をこう名付けた。
『転生病』と。
そして、この転生の事実を発見した脳科学者は妻の後を追って死ぬ前に遺書にこう残した。
「ただしどこへ行くかまでは選べない」と――。
永遠の命の始まりだ。
【最終章:滅びゆく世界を歩く】
≪七つの日夜で作りしこの世界を≫
≪七つのラッパを以て滅ぼさん≫
≪さぁ、最後の人間よ≫
≪汝の行いが最後の審判を決めん≫
目を覚ましたらもう昼を過ぎていた。
昔は習慣のように起きたらテレビを付けて4chを見ていたが今はただ砂嵐が流れるばかり。
ああ、ミス東大の美人アナウンサーがいきなり登場しなくなった時に実感したっけな。
本当にこの世界は終わりなのかもって。
「タロっ、タロっ。おいで、ご飯だよ」
毎日几帳面に剃る意味も無くなった顎髭を擦りながらその名を呼ぶとリビングから柴犬が尻尾を振りながらやってきた。
タロと名付けたその犬は数カ月前に誰も住んでいない家の庭先に繋がれて飢えていたところを拾った。
前のご主人のことを忘れてはいないのか、散歩でその家の前を通る度に立ち止まるが、恐ろしいほど透き通った眼で悲し気な色を一瞬映したあと、自分の元に尻尾を垂れて戻ってくる。
分かってはいるのだろう。彼の愛した家族はもうこの世界にいないことを。
「ドッグフードの賞味期限切れたらどうすっかなぁ。犬って何が食えんだろ」
「アンッ、ワンッ!」
「ワンじゃねーよ。ははっ。ま、なんとかなんだろ」
タロと名付けても自分の名前を彼の前で語ったことは無い。
名前なんて、呼ぶ人がいて初めて意味がある物だ。もうこの世界では名前の意味が――。
「畑仕事するかぁ」
ミートソースの缶詰とポテチを一袋平らげて大きな伸びをしてから立ち上がる。
リビングに土も払わずに置いていた農作業道具を手に取って外に出た。
「よし……。明日らへんから種を植えてみるかな」
22歳の自分が住むには大きすぎる屋敷にある庭を耕し終わってから独り言をつぶやく。
その言葉の意味を理解しているのかどうかは分からないが、農作業を楽しそうに見ていたタロが尻尾を振った。
電気もガスも水道もロボットが管理しているから問題ない。いずれ壊れる日が来るかもしれないがその時はその時だ。
問題は野菜が早々に食べられなくなったことか。無味乾燥なサプリメントのお陰で栄養が偏っているわけでは無いが、赤々としたトマトにマヨネーズをかけてまたかぶりつきたい。
「タロ、スーパー行くぞ。種を持って来よう」
キャンキャン吠えて着いてくるタロに首輪も付けずに門の外に出る。
この家の住人はどんな人だったのかは知らないが、自分が以前住んでいた6畳一間の部屋よりもずっと暮らしやすいし、女の子が使っていたらしいベッドはふかふかでいい匂いなのでありがたく使わせてもらっている。
「ふっふっふ。なんかワクワクするな……」
ここから徒歩五分のスーパーは自分の大きな倉庫みたいなもんだ。
あれが近所にあるから、という理由もあってここに暮らしている。
自分の周りを走り回るタロは律儀に電信柱に小便をひっかけている。
首輪を付けなくても怒られないから彼も自由を満喫できるだろう。
≪汝の行いが最後の審判を決めん≫
(うるせぇな)
静まり過ぎた世界に対して自分が作った幻聴なのか。
気味の悪い声が頭に響く。ふざけんな。シンナーはまだ楽しみに取っておいてるのに今からラリっていてどうするんだ。
頭に響く声は急に来る頭痛のように、出るのと同じくらいすぐに消えてしまった。
行く場所を理解しているように見えるタロの後ろを誰もいない道路の真ん中を歩きながら着いて行った。
《教えてあげるよ あそこで暮らせば どんな気持ちになるのか》
腰からぶら下げた携帯音楽プレイヤーからお気に入りのアーティストの歌が大音量で響く。
どうせ一人なんだ。誰にかまうことも無い。気分がいいな。
「タロっ、おら、ちんちんしてみろ!」
「アンッ!!」
「よーしよしよしよしよし、良い子だ! そのままなっ!」
ヒビの入ったウインドウに向かってちんちんをしたタロに肩を回して抑える。
自分もチンポを丸出しにしていた。
《よく見て》
「はい、ピース!」
スマホの写真でウィンドウガラスに映るちんちんを出す自分達をぱしゃりと撮る。
平和を願ってピース、と言うが今ほど平和な時はあるまい。
「あっはっはぁ! 映ってねーじゃん!」
スマホのアルバムを見ると、ウィンドウの向こう側の暗いスーパーの中が見えるばかりで、ちんちん丸出しの自分達は写っていなかった。
それだけのことが面白くて爆笑しながらズボンを上げる。
自由だ。どこでチンポ出してどれだけ騒ごうと誰も何も言わない。
《あなたと 彼方の 間に昇った》
「中に入っか! ついて来ぉおおおい!」
躁うつ病の患者のようにテンションを馬鹿みたいに上げて夕陽に向かって叫ぶとタロも嬉しそうに吠えた。
一人暮らししているときにも部屋で突然歌い始めたり、意味なくチンポを出したりしてたが、それが外の世界にまで広がった。
「スィーッ、スィーッ! うぃひひひっ! たのスィー!!」
この前レンガを投げてぶっ壊した自動ドアを抜けて入り、買い物カートのカゴを入れる場所にタロを入れて、後で親に怒られるのが確実な子供のように暗い店内を滑って走り回る。
何も気にせず遊んでいるとタロがキュンキュンと鳴き始めた。
「おっ、おっ! なんだ? これか? これが欲しいのか!?」
そういえばここに来るたびにあげていた犬用ビーフジャーキーの事を思い出し、棚から取る。
ついでに陳列されていた商品を無意味に散らかしてみた。
「アンッ!」
「いいぞぉ、食え食え!! ハッハー!!」
乱暴に袋を千切りタロの前にジャーキーを差し出すと嬉しそうに食べ出す。
試しに自分で食べてみたら味が薄かった。
《歪んだ朝日に書かれているから》
「俺もジャーキー食いたくなってきた!」
人間用のビーフジャーキーを見つけて一気に口の中に詰め込む。
500円以上もするジャーキーをこんなふうに食べるなんて昔ならあり得ない贅沢だ。
目的の種と、アイスを手に入れたのでレジに向かう。その時、レジのすぐそばに置かれている雑誌コーナーが目に入った。
(二月号……)
女性誌の表紙の女優の隣に書いてある数字を見る。今は多分七月だと思う。
そうか、もう雑誌が刊行されなくなってからそんなに月日が経っているのか。
文明が崩壊する速度はまるで指数関数的だった。
《答え以外はなんでも》
「かいっけーはぁ、えー、ゼロ円でーす!! うはっはははは!!」
女性誌の横の青年誌を手に取ってレジを滑りぬける。
最早金などケツを拭く紙にもなりゃしない。掠めとったレジ袋に適当に戦利品をぶち込んで雑誌を捲る。
グラビアの女優はいつ死んだんだったか。
「あー……クソ、セックスしてぇなぁ……クソセックス……」
もしかしたらそれが一番の悩みかもしれない。しっとりと濡れる女の肌を思い出すも、もうこの世界に人の影は無し。
自分以外にも生きている人間はいるのかもしれないが探すのも面倒だ。
一度、自分には買えないような高級ラブドールでオナニーしたときはかなり気持ちよかったが、虚しさが半端なかったしタロが見てくるもんだからウザくなって学習塾の入り口に捨てた。
「つーか、ああー……ハンバーグ食いてえー……」
外に出て目に入ったレストランの看板を蹴っ飛ばす。
病気になったらどうすんだろう。
賞味期限が切れている物もかなり多くなってきた。
街に自分の声しか響かない。
ふとした瞬間に泥が流れ込むように心が抗えない不安に抱かれた。
『YOU DIED』
「ファァアアック!! クソゲーだねぇえええ!!」
80インチのこのテレビはもっぱらゲームとBD観賞用だ。
難しいと噂されていたゲームをゲーム屋からパクってきて始めたが、同じところで五回死んでコントローラーをソファに投げる。
もう今日はこのゲームはやめだ。明日にしよう。
「ホラー映画でも……タロ、タロ、おいで」
ポップコーンを皿に入れて、1.5L の炭酸ペットボトルの蓋を開ける。
一人でホラー映画はちょっと怖い。だが感動的なヒューマンドラマは見たくなかった。そんな物見たら人恋しくなるに決まっているが、感想を共有する者もいない。
(うわー……こんな世界ならさっさと次の世界に行くかなぁ)
走るゾンビが次々と人間を食い荒らしていく。
親だったモノが噛み裂かれた腹から腸をぶら下げながら全力疾走で追いかけてくる。
これに比べれば今いるこの世界など天国だ。
――あの研究者の最後の言葉が怖かった。
『ただしどこへ行くかまでは選べない』
どいつもこいつも簡単にリセットしたが、馬鹿だろう。
平和な王国の王子になって、巨乳の姫達とお気楽なハーレムを築ければいいが、次に行く世界がバイオハザードだったら?サイレンの世界だったら?
ハズレを引くってことを考えないのか。
行った先の世界では人が転生すると発見されていないかもしれない。それならなんとか死なないように足掻くしかないだろう。
前世の記憶を都合よく引き継ぐなんて保証も無かった。
何もかもを忘れて地獄のような世界で生きるしかないとしたら……冗談じゃない。この世界で十分だ。
考えてもみろ。
この世界にいったいどれだけ幸せだけが溢れている作品があった?
大抵の世界で戦い、傷つき涙を乗り越える主人公たちがいただろう?
彼らは何故主人公なのか?
精一杯生きているからだ。
どうして今の生を受け入れられなかった弱い人間が次は一生懸命に生きれると言える?
そのまま続けてAVを流してタロと一緒に見ているうちになんだが眠くなって、一体いくらするのかも分からない高級ソファの上で寝てしまった。
手にしたナトリウムの塊を掲げる。見た目ほどの重さは無い。
太陽の光を受けて照っている。どうせ誰も見やしないのだから、と履いた女物のスカートが風に絡まれスースーする。
「ほらっ!!」
川に向かってぶん投げたナトリウムをタロが目で追う。
川の上で何度か跳ねたナトリウムが爆発を連鎖的に起こし、タロが立ち上がって脚にしがみ付いてくる。
なんという環境破壊だ。今は自分以外の誰もしていないから地球規模で見れば微々たるものだろうが。
「ははっ。えーと……2Na+2H2O→2NaOH+H2、だっけ? へぇー……」
行きたくもない文学部に通っていたド文系の自分だが、最近妙に退屈なのでコツコツと中学レベルから勉強を始めた。
誰にも強制されずにのんびり自由に学べるということは素晴らしいことなのだと最近気付き始めた。
この前は半田ごてで回線が切れた機械を直せた。あの時は自分の事を天才だと思った。
「もしかしたら自家発電機とかも作れるかも! いや……無理かなぁ」
所詮猿真似だということは分かっていた。
暇つぶしでなく、本気でやっているのならまだしもいずれ限界は来る。
「はははっ。なんか……川が綺麗になっている気がするな」
震えるタロを抱きながら流れる川を見る。
そういえば空気も綺麗な気がする。人間が消えてわずか数カ月でこうなるのか。
(ああ。なんとなーく……自分という人間の本質が分かってきたな……)
単純に、人間が好きでは無かったんだろう。今のこの世界の方がずっと暮らしやすい気がする。このまま人がいなくなれば暮らしやすいな、と死んでいく世界を見ながら思っていたくらいだから。
セックスは好きだったが女はあんまり好きじゃなかったかも。さっさと寝かせてほしかったんだよな。その後世話を焼かれるのもウザかった。
ヤったらとっとと帰ってほしかった。我ながらゴミ人間だ。このクソ広い世界に一人ぼっちの今がなんて過ごしやすい事か。
「面白かったんだよなぁ、実際」
だんだん大学の授業に人が来なくなって、教授が消えて。
そして学期末のテストも曖昧なまま大学特有の長い春休みに入った。
インターネットで買っておいたカップラーメンとパスタの詰め合わせとジュースと共に、一カ月ほど家に引きこもってゲームをしていた。
気が付くと近所のコンビニがやっていなかった。信号が変わっても車は通らなくなっていた。
――世界から人が消えていた。
≪さぁ、最後の人間よ≫
(まったくもう)
これさえ無ければ最高なのに。変な幻覚まで見える。
昔、無人島にバレーボールと一緒に流れついてそのボールに名前を付けて話しかけながらなんとか暮らしていく男の映画を見た事がある。
孤独が作り出す幻覚、幻聴。人間は案外脆いのかもしれない。
「孤独じゃねーもんな。なっ」
お日様のにおいがするタロの頭に鼻を押し付ける。
確かに何も喋ってはくれないが幻覚を見る程までに孤独では無い。
だが薄々この世界には本当に自分以外人間がいないという気がしてきた。
あれはもう何カ月前の話だったか。
サバイバル物の映画を見てテンションが上がった自分はサングラスとマスクを付けて色んな家に忍び込んでは適当な物資を集める『ごっこ遊び』をしていた。
特に欲しいものなんか無かったが、美人が住んでいたらしい家に押し入って枕の下からコンドームを見つけたり、パスワードもかかっていないパソコンに入っていた違法ポルノの山を見るのが楽しかった。
そして入った3件目の家。そこはどうやら敬虔なキリスト教信者が住んでいたらしいということが装飾や壁にかけられている物からすぐに分かった。
異常に気が付いたのは入ってすぐだ。ワンワンと耳に響く音。暗い部屋の中でビビりながら懐中電灯を点けたらその正体はすぐに分かった。
大量の蠅が飛んでいたのだ。マスクの上からも臭ってくる異臭が死体の臭いだと気がつく前に、目の前に悲惨な自殺を遂げた男の姿があった。
腹に何度も刺したのであろうナイフを握ったまま腐り果てた男は指で床に血の文字を書いていた。
【Apocalypse】
【Catastrophe】
【Eli, eli, lema sabachthani?】
絶叫して転がる様に逃げた。
そこからはスーパーやコンビニなどの店以外には入らないようにしている。
(何も、そんな死に方するこた無いだろうによ……)
楽な自殺の仕方なんかインターネットで調べればすぐに出る。
ああ、クソ。思い出したくも無かった。更に強くタロを抱きしめる。
転生したからと言って死体が消える訳では無い。静かに、平和に見える家々の中にはじゃんけんで勝てないくらいの確率で死体があるのだろう。
「黙示録……大破壊……」
最後の言葉の意味は分からなかったが、ApocalypseとCatastropheの意味は知っていた。
そりゃ確かにこんな世界になっちまったんだから、神にも祈ってみたくなるかもしれない。
これが黙示録に示されたカタストロフィかもしれない。あるいはあの脳科学者の発見こそ、この世界から緩やかに人間を排除しようとする終わりの始まりだったのかもしれない。
「……ゲームも漫画もなー……飽きたんだよな……」
働かなくてもいいけど、誰一人いませんよ、か。
だんだんだんだん、この一人ぼっちの世界も楽しく無くなってきた。
まぁ、とうとうやることも無くて食料も尽きて、ここが地獄に感じるようになったら死ねばいい。
次の世界に行ってみようじゃないか。そこがいい世界であることに賭けて。
ふらふらと店主のいない書店に入る。ここだけでもこれだけの量の本があるのだ。
飽きることなんかそうそう無いと思う……が。やはりなんだろうか。公園の遊具が錆びて行くように日増しに退屈を感じるようになってきた。
「異世界転生の説明書……はっ」
ラノベの棚の中にあった一冊の本を手に取る。
あまりにも多い異世界転生もののテンプレを纏めて解説、分析した本のようだ。
これは面白い。何となく感じるのだ。真面目ぶって畑を耕してなんかいるが、一年後には自分はこの世界にいないだろう。
簡単なリセットボタンがあるのに苦労を背負いこむ理由がない。特にヒロインも目的も無いこんな世界では。
「かいっけーはぁ……」
「アンッ、ワンッ!!」
「そ。0円なー」
最初の頃は欲張って持てるだけの物を持ち帰っていたが、今はそんな事もしない。
言ってみればここは自分の書斎だ。今や世界が自分の庭だ。
小走りに家に向かう。そう言えばこうなる前も、ゲームをやる前に高評価をしているネタバレ無しのレビューを読み漁って期待を限界まで膨らますのが好きだった。
≪七つのラッパを以て滅ぼさん≫
(勝手にやってな!)
こんな話もあった。
赤子の頃に捨てられ、狼に育てられた少年がいたそうだが、薬物を使用していたわけでも無いのに脳――特に言語野が萎縮してしまっていたと。
人と話さなければ人は人ではいられなくなるらしい。
この幻聴と幻覚が本格的になる前にさっさと異世界転生の作法を覚えて次の世界へGOだ。
「えー……なになに……記憶がないまま異世界で生を受ける者もいる……はっはぁ、んだそりゃ」
それって俗に言う輪廻転生じゃないか。異世界転生なんかじゃない。……とはいえ、死んでもまた次があると知っている自分達は幸福なのかもしれない。
次のページ乱暴に捲りながらジュースを飲む。
『異世界転生では死ぬはずの無かった人間が死ぬことも多い。特に多いのが交通事故に遭いそうな子供を助けるパターンだ。初っ端から主人公が人助けに命を張れる善人だとお手軽にアピールできる』
『都合よく目の前で車に轢かれかけている子供を助けて自分が死ぬ。神様がそれに感心、あるいはその行動が神の予測のイレギュラーだとして転生させるのだ』
「あー……あるね、あるある」
商業作品でも古くから多くに見られていた。
不良少年が子供を助けて死んだが予定と違うので蘇るために東奔西走するなんて話もあったっけ。
『また、神様がやたらと転生者にへりくだっているパターンも多い。その場合特典として特殊能力を貰えたり行き先を選べたりする。きっと転生者は神様にとって元から特別な人間なのだろう。神に愛され過ぎて兄であるカインから嫉妬を買い、世界で最初に殺された人間となったアベルのように』
(特別ねぇ……?)
こんなにポンポン異世界に行っているんだ。特別もクソもあるまい。
そう言えば、考えても仕方が無いことだから考えなかったが何か変だ。
この世界はスカスカすぎる。そして平和の様相がそのままに残り過ぎている。
次々と自殺したとして、残った人間はいないのだろうか。それに一斉に死んだわけでは無いのだから、流通が止まってからも死ぬ踏ん切りが付けられなかった人間が街を荒らすはず。
つまり、もっと街は荒らされていてもいいはずなのに、綺麗すぎる。車の窓は割れていないし、自分が破壊したスーパーの一角以外は腐った食物があることを除けば綺麗なままだ。埃は積もっているが。
商品棚から商品が消えていてもおかしくないのに。
「タロ、お前見てたの? 誰も盗みとかしなかったん?」
「キューン……?」
外に繋がれていたタロなら見ていたかな、と思ったが仮にそうだとしても答えるはずも無い。
まぁいいや、と次のページを捲る。
『憑依ものも異世界転生としてはメジャーだ。登場人物の一人に憑依する、つまり乗っ取るのだが、それまでの人物の記憶・人格を消してしまう場合が多い。だが、憑依した人物が原作の展開を知っていれば、憑依された人物の力を使って非常に有利に立ち回れる』
「勝手な……」
こんな人物になれたらなぁ、という憧れが暴走した結果か。
中身だけ入れ替わって後の全てを乗っ取るのか。乗っ取られた側も報われないな。
『転生ではありがちだが、自分がどのように死んだかは覚えていないパターンもある。死んだ瞬間の痛みや苦しみを受け継ぎたくないという都合の良さだろう』
「それもあるか」
目が覚めたらいきなり女の子!?
あれ!?これは〇〇〇の×××ちゃんじゃないか!なんてこった!僕は▽▽▽の世界に来てしまったのか!!
というよく見る展開でも、前世をどうやって終えたのかを覚えていないパターンが非常に多い。
思い出すのはやれ学校関係で苦労していただの、やれ残業続きで疲れ果てていただのというありきたりな悲しい思い出ばかり。
『完全に記憶がないまま転生、憑依した時の脳活動』
「ん?」
最初に『輪廻転生じゃねえか』とツッコんだアレか、とページを捲るが何故か背筋がゾワゾワとした。
思わず抱き寄せたタロがキュンキュンと不安げな鳴き声を出す。
『例えば盲点などで知られるように、人間の目は意外と見えていない物だ。だが、現実生活で視界の一部が見えていないと認識することは無い。これは何故か?』
『脳がその部分を補完しているからだ。記憶に関してもそうで、思い出すたびに脳が現実には体験していないことをはめ込んでいく。脳ほど曖昧で解析の進んでいない物も無いだろう。ニオイや音、ちょっとしたきっかけで脳が刺激され何かを思い出す現象は日常でも多く見られるが、それは前世に関する記憶でも同じではないか』
≪七つの日夜で作りしこの世界を≫
≪七つのラッパを以て滅ぼさん≫
≪さぁ、最後の人間よ≫
≪汝の行いが最後の審判を決めん≫
「あ……あ、れ……?」
ページを読み進めていく毎にはっきりとあの声が思い出される。
何か、幻覚が見える。灰色の雲の向こうに浮かぶもう一つの太陽。
狙い撃つかの様に人を貫き消滅させる紅い雷。
まさか。これは。
(前世の記憶……?)
この退屈な世界に来る前に。自分はどうやって死んだ?
そうだ。人が転生するということが証明されたのなら。この世界からどこかへ行くことが出来るように、どこかからこの世界に転生してきたとも言えるじゃないか。
前の世界の自分が何かしらの理由で死んで、この退屈な世界に。震える手でページを捲る。
『また、記憶に関する脳の補完性能は特に憑依の時に発揮されるのではないかと私は考える。古代アニミズムであらゆる現象に理由をつけその背後に神を見たかのように、人の脳は人を操り記憶と事実を書き換える』
『憑依した時に前世の記憶を失い、かつ、憑依先の人物の人格・記憶も削除していた場合、脳は急速に現状に関する理由付けを今までの脳と身体の経験からあたかも現実のように作り始め、新たな人格に見せつける』
『見たことも聞いたことも無い記憶を作り出す。整合性をとるために――』
「ああっ!!」
そこから先は読めなかった。
外からまるで巨大な工場から響くような重低音が鳴り響き本を投げてしまったのだ。
震える脚を叩き何度か転んで鼻血を噴き出しながら玄関の外に出る。
先ほどまで笑いたくなるくらいの青空が広がっていたのに、灰色の雲が圧し掛かるように広がり、西に沈む太陽とは別に頭上に明るすぎる太陽が紅い雷の渦巻く雲の向こうにあった。
≪さぁ、最後の人間よ≫
『ただしどこへ行くかまでは選べない』
響く声に、脳科学者の最後の言葉が重なり脳を揺さぶる。
「違う……自殺で人が消えたんじゃない……」
幻覚だと思っていた人々を消滅させる雷は『この世界の記憶』だったのだ。
(俺は……)
なんの世界に来たんだ?
一体『誰を』乗っ取った?
この世界に最後に残った人間という、間違いなく主人公であるだろう人間が俺だ。
何を成すべき人物で、どんな物語を作っていくことを期待されていたのか、もう分からない。
『主人公であるべき彼』は消えた。今は自分が全てを乗っ取った。
「タロ……タロ、なぁお前……いつから俺のそばにいたんだ? いやいつから俺はこの世界にいた……?」
記憶の整合性が取れなくなる。何かの理由で死んだ前世は思い出せないが、あの大学の退屈な授業は前世で受けた物だ。
この世界の記憶と重なってしまっている。タロとの出会いも、あるいは自分がしてきた行動も。どれが自分の脳が作り出した物か分からない。
分かるのは――。
≪汝の行いが最後の審判を決めん≫
(ハズレを引いた……)
見た事も聞いたことも無い、最後の人間と一匹の犬が歩く世界に来てしまった。
カタストロフィの中を何か重大な理由で生き残った彼の全てを奪い取ってここにいるのだ。
鈍色の空の向こうのもう一つの太陽が広がって全てを圧倒するような光となる。
終末のラッパが響き渡る。
何をすべきだったのかは分からないが、失敗したという事だけは分かる。
あの雲の向こうの光は確実な死を自分にもたらすだろう。
早鐘を打つ心臓と同じ速度の呼吸をするタロにしがみ付いて、ゆっくりと目を閉じた。
さぁ。
『ただしどこへ行くかまでは選べない』
次はどんな世界へ行くのだろうか。