日もどっぷりと暮れた夜。
青白い月肌はその窪みですらしっかりと肉眼で確認できる。
透き通る空気。汚れのない清潔な空気の証であった。
伊烏は空に“はな”をかざし徒労を共にする半身の姿を見ていた。
その姿はあまりにも、あまりにも汚れ、刀本来の美しさを欠いていた。
刃には微細な刃毀れが目立ち、鉄製の鈨は僅かに錆が浮き、鯉口は幾度の抜刀で微かに緩くなっている。見るに耐えないほど不様な姿に堕ちていた。
伊烏自身ある程度は手入れをしている。が、“はな”適した油に砥石、打粉の入手が困難なのだ。
一度、鉄製の中華庖丁を入手した。それの手入れのため砥石を探したのだがどれも荒砥石ばかり。
現代のように研磨剤と結合剤を押し固めた人造砥石は存在しない。したとしても使いたくはないが。日本刀を研ぐのに適した砥石が見当たらないのだ。
それに加え伊烏は剣士ではあるが砥師ではない。ある程度の知識を有したどぶの素人だ。
下手に手を加え変な歪みを“はな”に付けるのは避けるべきだ。
手入れをしようにも出来ず、研ぐに研げずにいた。
半身を汚れたままにしておくのは憚られる。この剣を万全な状態に。
城壁の石垣に凭れかかり、刀を月夜にかざす
「剣を月に透かすなんて、やめた方がいいわよ」
孔融との兵分担を話し合っていた太史慈が城壁上に現れたという事は、ある程度迎え撃つ算段が告いだのだろう。そうであれば得策だが、疲れた様子を見ると案もで難だようだ。
伊烏も刈流を修める折、兵学も学んだが古代中国兵法とは共通する物もあるが、違いもある。
口出しはしないほうがいいだろう。
伊烏は刀を傾け、太史慈の云った事を何故かと訊く。
「何故、剣を透かしてはいけぬのだ」
太史慈は向かいに座る。
「剣に魅入られる。剣の本質は斬る事、どう言いつくろうとも変わらない。その本質に忠実さは人を剣に惹きつける――魅了されるのよ」
「俺が、“はな”に魅了されている?」
「魅了、と云うより一体化している。あなたの体そのもの様に」
一体化ある意味では間違いではない。
俺にとってこれは魂魄にも等しい。
剣に捧げる人生、この剣は俺の今までを成し得た剣なのだ。
一輪よりこの一振りを貰い受けたときより、赤音が三十鈴を斬った時より。
「昼の月」を作り上げたときより――既にこの刀は伊烏義阿なのだ。
ともに穢れを吸った鬼。今では打ち上がったあの美しさはどこぞに消えた。
「その剣に思い入れがあるの?」
「俺の国の刀だ。今は手入れの方法がなく汚れが目立つ」
太史慈は立ち上がり伊烏の隣に座った。
鯉口を切り“はな”を太史慈に見やすい位置へ傾けた。
月に照らされた白刃が青く輝き、煌きが眼に差した。
「本当に綺麗な剣...素材はなにを使っているの? 青銅、ではないね」
「鋼を使っているそうだ」
「鋼? 鉄じゃなくて?」
「鋼は合金だ。鉄と、炭素...分かりやすく言うなら木炭を練り合わせたものだ」
「鉄と木炭を練り合わせるの? 鉄だけじゃ駄目なの?」
「純正では硬さを持たせられぬそうだ。これには一級の玉鋼を使ったと一輪は嘯いていたが」
果たして真か。
一介の女鍛冶師が一級の玉鋼を手に入れるものか。
砂鉄を原料とし踏鞴製鉄により造られる和鋼。玉鋼と呼ばれるものには等級が付けられている。
一級A、一級B、二級A、二級B、銑鉄、卸鉄の順に等級が付けられている。
玉鋼の生産は大戦中に一時低下したが、石馬が声を上げたことで日本の思想が蘇った。男は剣術を修め、女は茶道を学んだ。和服を皆好み刀を腰に差せる時代に石馬は変えたのだ。
無論そのようなことになれば現存する刀の本数では需要に応えられない。
必然として刀鍛冶師や研師の人口は増大し、更には刀の素材、「玉鋼」を作る施設や職人、それに順ずる者たちも増えるわけだ。需要と供給のバランスだ。
刀鍛冶師はより良い刀を打ち上げる為に素材が居る、そしてそれに等級があるのなら精度の高いもの。鶴を一級の玉鋼を欲しがるのが必然だ。
だがそういったものは高名な刀工に渡るのが世の常。
一輪が一級の玉鋼を手に入るわけはないのだ。
しかしながら一輪は良き刀を打った。
“はな”もそうだが“かぜ”も――
「思い入れがあるのね。これを打った人が知りたい」
「...この時代にはいないだろう」
「どういうこと?」
「それは...」
伊烏は言葉に詰まる。
自分はこの時代の人間ではない未来人なんだ――ふざけるのもいい加減にしろ。
それではまるで物狂いではないか。
伊烏は慎重に言葉を選んでいると、太史慈は伊烏の態度を独自し答えを導いた。
「死んだってこと?」
「似たようなものだ」
産まれてすらいない人間に生を問うのは愚かしくある。
伊烏は“はな”を鞘へ納める。
話す事もない。二人の間には沈黙が流れる。
俺はそれでも一向に構わない、その間を使い黙想をしてもいいくらいだ。
だが太史慈の方が耐えられなかった。
「あー無理。こういう雰囲気、酒なしじゃ耐えられないよ」
「うむ...そうか...うむ...」
話題を搾り出そうとするが如何に考えても会話の節は見当たらない。
元より武芸の事でしか語れぬ根暗男に、喋りを求めるのがまず始めの間違いである。
「伊烏は弓を扱った事はある?」
「達者ではない。毛が生えた程度だが」
悪戯子供のような顔を浮かべた太史慈は伊烏の手を取り、城壁の下へ降りた。
伊烏はなされるがまま弓場へと連れて行かれる。
兵は既に居らず、宿舎に戻り寝るか起きている者たちは最後の宴と言わんばかりに酒を呷っている。
静まり返った弓場の奥に入った太史慈は物置部屋とも見れる小屋から、弓を二張りと酒瓶を片手に戻ってきた。はっきり言って良い予感はしない。
二つの杯に酒を注ぎ、片方を太史慈は飲み干した。
「どっちがより多く的に矢を当てれるか賭けない?」
「......酒を呑みながらか?」
「酔わされながら、的確に...やってみない」
挑発的で挑戦的な表情を浮かべる。
注がれた杯を飲みながら、一張りの弓を手に取った。
「やるきになった?」
「俺が扱えるものはこれではない」
太史慈の持ってきた弓は中国ではスタンダードな短弓であった。
伊烏が過去に扱った弓は所謂和弓、長弓と呼ばれる分類もの物だ。
弓矢と云う大きな括りでは同じであるが弓の扱い方、流派が違えば大きく変わる。同じである事はありえないのだ。同じと云う輩は弓道とアーチェリーが同じと言っているようなものだ。
道具の違いはその文化や地域他に流派を大いに現す。
そして道具が同じ用途の物で扱いが変わってくるもの。例えるなら日本刀とロングソードだ。
日本刀は切断に主眼を置きその切れ味を追求した結果、突刺を犠牲にしてでも反りを生み出した。
ロングソードは中世世界の特色をよく現している。
馬上戦や甲冑戦、その他諸々を一挙に相手に出来る万能性、全てが一振りの剣に収束されている。
その代わりにどの分野でも平均止まり。切断力では日本刀には勝てないのだ。
扱ったことのない短弓を手に持ち、感覚を確かめるがやはり道具の違いは大きい。
弦は軽く張っているのかも疑わしく思える。
そうこう考えている内に太史慈は的に一矢目を放った。
的の真ん中を見事に射抜き、夜目は良好である事を示していた。
「次、どうぞ」
杯に酒を注いだ太史慈は再度それを飲み干した。
伊烏は渋々弓を射ることにした。矢を持ち二、三度やった弓道の通り弦を引く。
途端、弓の弦が勢いよく弾けた。
原因は明らかであり、伊烏が弦を強く引きすぎた為だ。
太史慈は驚きのあまり呑みかけていた酒を吹き出していた。
糸の千切れた棒切れを見ながら伊烏は訊く。
「大きなものはないか...」
「あ――ああ、うん。一応大弓がある取ってくるよ」
太史慈は物置の奥より長弓を持ってきた。
七尺二寸の竹で出来た長弓である。素材、長さ大まかには和弓と同じである。
矢が短い為にこの弓を目一杯引く事はないだろう。
弓の中心より僅かに下を持ち、矢を持ち弦を三分の一程度引く。
射法八節などあるが、元より兵法綾瀬刈流は弓術を邪道としていて学ぶ機会も少なかった。
数度だけ学んだモノは出雲流と言われる流派のもの。
記憶の片隅にある射法を手探りで思い出し――射る。
伊烏の放った矢は、狙った位置より僅かに右寄り数センチ上を射抜く。
素人同然の伊烏にはよくやったほうだろう。これでは賭けにもならないと太史慈は落胆しているだろう思ったが、その反応は真逆であった。
「凄い...伊烏あなたホントに凄い」
「精度は低い。――まだまだ程遠い」
「そうだとしても、その弓を引ける事が凄いのよ」
話の意味が見えなかったが、太史慈と手に持つ矢を見比べようやく理解した。
簡単な理屈。短弓と長弓では弦の反発力が違いすぎたのだ。
短弓は弦が短い代わりより早い時間で最大威力を発揮する。小型でもあり取り回しが利くのだ。
そして長弓は連射性を犠牲にしたがより大きな反発力、威力を発揮するのだ。威力は発揮する、だがその弦の硬さゆえに弓を引けるものは限られてくる。
太史慈のように馬上で短弓を扱いなれていれば長弓は扱い辛いのだろう。
だが伊烏は長弓しか扱ってこなかった。故に短弓を和弓と同様に扱えば弦が切れて必然。
酒を噴出すほど驚いた太史慈の反応も頷ける。
太史慈はより楽しみが増したといった表情で空の杯に酒を注ぐ。
「呑まないの?」
伊烏はなみなみと注がれた杯を取り、一気に飲み干す。
「そう来なくちゃね」
太史慈はそういい二矢を構えた。
+ + +
「わたぃしは、まけーていましぇーん」
「...そうだな」
おぶさる太史慈の体温は高く、そして舌は回っていなかった。
完全な泥酔だ。
的当て対決とでも言うのか、ただ単に飲みに付き合わせたかったのかもしれない。
取っ掛かりの少ない伊烏を誘うのは太史慈には至難の業だったのだろう。
幾度も矢を射り、杯を乾かした。結果がこうだ。
動き回った太史慈は伊烏よりも早く酔いが回り、絡み酒へと陥っていた。
他人に絡む酔い方をする人間は自己主張を押さえているというが、これはただ面倒だ。
「太史慈、寝所はどこだ」
「やー伊烏、わたぃしをー...おし倒すき、だみゃー」
「......」
こうも人が変わると哀れみが湧く。
何時も活力が溢れているが、苦労をしているのだろう。
孔融が机に齧りついている御所まで行くが居らず、副官に太史慈の寝所はどこかを聞き出し連れて行く。その間は背中の酔っ払いは支離滅裂な狂言を言いながら、暑い暑いと服を脱ぎだす始末。
出来るだけ早足で寝所へつれて行き、寝台へ投げ込む。
「やー、伊烏ごーういん」
「もう...寝ろ」
投げやりな言い方で半脱ぎの太史慈に上掛けをかける。
「戦は明日かも知れぬ。ゆっくり寝るのだ、太史慈」
「...梨晏」
「......」
「真名で呼んで...梨晏」
太史慈は、いや梨晏は枕に顔を埋めながらそういった。
真名で呼ぶことを許すという事はそれなりに心を許しているという事になる。
信用に叶うという事はいいことだ。
「また明日、梨晏」
伊烏は静かに寝所を出る。
一人分の重さが消えた事により体が軽く、足も覚束無い。
酒の呑み比べで酔いが回ったこともある。千鳥足で外へ向かう。
向かった先は城郭の上、始めに居た場所に戻る。
櫓の柱に凭れかかり、酒に火照る体を鎮める。
夜風に冷やされた石がひんやりとしている。休むにはいい場所である。
この城はもともとは城塞都市であったようだが、市民の気配はない。
理由を探ろうと考えるが、酒の回りもあり思考がはっきりとせず眠くなる。
瞼が自然に降りて暗闇になる。
体の力が抜け、徐々に感覚が消えてゆく。
――おれを斬るか――
「――罪なき...鼎の無念...晴らして...」
――おれを斬るか――
「...斬...る」
――は、ははははははは――
「だまれ...喋るな、口を利くな声を...出すな!!」
反射的に飛び起きた伊烏は瞬時に抜刀していた。
無意識のうちに虚構の宿敵に向かい刀を振り上げ、袈裟懸けに切り込む。
空を斬った“はな”は風を切り裂き夜光に輝く――筈であった。
――空を斬る筈でる刀には手答えがあった。
短い悲鳴が上がり、夏の暑い日の雨のように温い血が吹き上がり城郭の石を濡らした。
斬った相手はくるりと背を向けてうつ伏せに倒れ臥した。
やってしまった。味方を斬ってしまった。
血振るいし納刀した伊烏は斬った相手に駆け寄った。
止血か、いや袈裟懸けより切り込んだのだ助からない。
傷の度合いを確かめるべく、うつ伏せに倒れた相手を仰向けにする。
そして僅かに安堵した。
伊烏が斬った相手、それは――
軽装の黄巾党の斥候であった。