「先生にお客様なんて珍しいこともあるものですね」
日もどっぷりと暮れ、云台山の剣士“
山の奥深く、獣の気配漂う中に伊烏義阿の家はあり、みすぼらしいながら家としての機能は果されていた。
云台山の剣士――“
趙雲の見立てには、この男は秀でて脅威と感じるモノが欠けていた。
体もしっかりとして居り、歩きも、姿勢も武人のもの。だが茶屋の娘に手懐けられ見事に尻に敷かれている。
「私とて天涯孤独と言うわけでは」
陰雲な色のある声で、彼は抵抗しているが。
女子には弱いのであろう。抵抗し切れていない雰囲気がヒシヒシと伝わってくる。
静かに視線を家の裡へ走らせるが、「見たことのない剣」は見当たらない。
剣の所有する雰囲気はある、もしないなら熊にでも家を潰されている筈だ。
何よりもの証拠として剣用の砥石があった。
中国にて刃を研ぐという事はあまりない。しかし決してないわけではない。
狭い地域であれ、剣を研ぐと言う文化は存在する。
決定的な証拠はある、だが肝心なモノが存在しないのは歯痒い限りである。
「趙雲さん。どうぞ」
少女は底の深い八角皿に粥をよそう。
どこにでもある粥だ、|山菜が薬味となる粥。だが匂いが違が違った。
けっして臭いと言うわけではない。食欲をそそられるいい匂いだ。
レンゲで掬い、食す。
「っ」
初めて感じる。味の奥ゆきとでもいうもの。
今まで食べてきた薄味を基とするモノではない。これ自体が主菜であった。
「驚きました? 雑炊って言うらしいですよ」
「雑炊?」
「先生の故郷で食べられていた料理らしいです」
少女は確認を取るように伊烏の顔を見る。
黙々と食べていた伊烏が静かに言う。
「...のようなものだ」
「ようなものだと」
「味噌や醤油を使っていない。魚醤と椎茸のだし汁で味を似せているだけのものだ」
伊烏は雑炊を腹に流し込み、思慮し言う。
「今日は毛湯と椎茸のだし汁を混ぜたものだ」
「どうりで食べた事がある味だったんですね」
言葉数は少ない。話す話題がないというわけではなさそうだが。
伊烏と云う男は寡黙である。
趙雲は八角皿を置き、伊烏と向き合う。
気の変化に敏感に反応した伊烏は、食事の速度を落す。
迎え撃つような気が感じられる。
武器を帯刀していないにしてもこの雰囲気は勝てない。蛇に見込まれたとはまさにこのことである。
意を決し訊く。
「伊烏殿。貴公はどこの出身で?」
「......遥か東方。揚州の海を越えた島国の出身だ」
「漢民族ではないのか。どうりで字や真名がないのか」
「
「血の始祖など私は気にしない。気になるのは――」
伊烏の目が細まる。まただ。
心臓を握られるような気迫。刺さるような雰囲気。
息が詰まるような闘気で圧迫される。
冷たい汗が背筋を伝うが、恐怖心を押し殺し言う。
「伊烏殿。貴公と手合わせがしたい」
「何故に」
「己の練武を至極の物とするために」
「......」
伊烏は沈黙した。
ふと雰囲気が変わっている事に気づく。
悲しみ、喜び、懐かしさ。悲哀、歓喜、里心。
愛憎。
対極にあるもの同士が鬩ぎあっている。
武人として何を思っているのか、何を得たのか。刃を通し見定める必要がある。
どのような剣であれ、其処には練磨があり思いがある。
声を発さない言語のように剣には剣の、仕手の言語が存在する。
読み取る事は困難だ。だが同じ立場へと行けば――
「時間をくれ」
「日取りは」
「逃げはしない。今は都合が悪い」
会話の少ない食事が続く。
+ + +
「まさかここで綺麗な風呂があるとはな」
木製の桶風呂に浸り、天に満の星の下で伊烏の嗜好という風呂を嗜んだ。
風呂に入ることが少ない土地柄、こうしたモノは非常に珍しい。
けっして風呂に入らないというわけではない。水浴みなどで身を清める事はあるが、こういった温水に肩まで浸ることはなかった。
公衆浴場などは南東にあるとは訊くが、良き噂はこれといって聴かない。
大衆が一度に入るのだ。淋病に梅毒、瘴気の温床と云うことは幾度か耳にする。
嫌厭すべき事だが、こうした一人用の清潔な水を使ったものは初めて浸る。
体の芯にある強張りのようなものが溶け出るような感覚がある。
「湯加減はどうですかー?」
「極楽だ。だがこれ以上は熱いな」
少女は桶ので火を焚き、湯を適度な温度に調整していた。
溶ける疲れが吐息となって暮夜の空に消える。
「主の先生とやらは疲れを消す方法を心得ているようだ」
「五右衛門風呂って言うらしいですよ」
「五右衛門風呂とな?」
「ええ、もともとは五右衛門っていう盗賊の首長が釜茹での刑からこういったものが出来たそうですよ」
「という事は元は刑罰という事か」
「庶民に浸透した形って言ってました」
毒も転ずれば良薬となるというが、苦悶も使いようによっては快楽に変容することを知る。
物は使いよう。伊烏という男は陰暗ではあるが知識人でもあるようだ。
武芸を極めながら、医食同源をも心得ている。心体を労る事も知っている。
底の知れない、と云うより底がないのかもしれない。
ぽっかりと空いた洞の穴のように、伊烏義阿は何かが欠落しているように感じられた。
闘争心、対抗心。武を窮める故の慢心か――それとも。
「主の師は底が見えぬな」
「そうでもないですよ。洗物と下手くそですし、苦手なものも」
「ほう、伊烏殿が。何が苦手なのだ?」
「女の人と、沸騰した水の音」
「ほう、沸騰した水の音とな?」
意外な回答に趙雲は興味を持つ。
少女は伊烏の沸騰した水の音を嫌厭する経緯を言う。
それはあまりにも下らなく、幼心からの過ちからくるものであった。
「昔先生が子供の頃、やかんって鉄の器具で沸かしているのを見るのが好きだったそうです。沸くとやかんの煙の吹き口から湯気が出てピーって音が鳴るそうです」
「ほう、それで」
「それであるとき音がなっているやかんに触ったそうです。それからだそうです」
思わず噴出し、大声で笑ってしまう。
幼心からの過ち。当然の結果と言える。
沸騰しているのだから、そのやかんと言う器具に触ってしまうと熱いに決まっている。
沸騰の恐怖、苦手と言うよりは
気迫で趙雲を押さえつけた武人にしては、余りにも他愛もない話だ。おそらく女に対する恐怖も、その沸騰に絡まっていると思われた。
沸騰した女ほど手の付けられないモノはこの世に存在しないからだ。
伊烏がこの少女の尻に敷かれる理由も頷ける。
「名を聞いていなかったな。なんと言う」
「
「
「どうって?」
「もし私が討ち果たしたなら。主は私と刺し違えるか?」
不仕付けな問いである事はわかっている。
しかし知らなければならない。
伊烏をもし殺してしまったら
初潮を迎えたばかり娘を手に掛けるのは気が引けたが、
「負けませんよ。先生は趙雲だって倒します」
翌朝早く伊烏が始めて剣に近いモノを持っていた。
竹を二尺四寸程に切り、柄に皮を巻き付けたものだった。
刃渡りに当たる部分は幾本かの割れ目を入れ、切っ先を布で覆っていた。
鼎に稽古を付けているのだろう。岩に腰を下ろした伊烏は時折立っては剣の型を指南するだけ。
「ふにゃああああああ」
「声は要らん。腕に力が入っているぞ、力を抜け」
一連の稽古を見ていてわかるのは一言。
典型的な形稽古であった。
剣を握る上で形稽古は誰しもが一度は通る道だ。だが無意味に等しい。
戦場や決闘の場において自分の想定した動きをする者など誰がいる。
架空の幻想を斬り勝ちを得たところで何もない。誰しもができる。
万夫不当の英雄であれ、掃天を翔る龍であれ、力の長「帝釈天」でさえ切り倒せるだろう。
だが現実とは非情だ。相手は想像もしえない手で攻めてくる。
無意味な形稽古をつける理由は無意味――とも云えないのも現実。
極一握りである形稽古を練武への道筋にできる者たちは。
その者達はいう。
――形稽古とは思い通りに進めるものではない。思い通りに進むように仕向ける稽古。
それは馬鹿馬鹿しいほど莫大な過程と予想を繰り返さなければならない。
背後から来るか、右か左か、前か下か、それともそれら全てか。
想定し、肉体にそれらを捌き自身の思い描く勝機の動きを定着させる。
その動きは低速などではない。人知を超える速度でなければ仕手自体が理解し得ない。
自分自身に都合のよく動く敵を作らず、自分自身に都合よく敵を動かす為の敵を作るのだ。
果てのない稽古。鼎にそれが理解できているのは別として、伊烏はのその領域へ達しているのか。
「にゅああああ」
「脱力しろ、腕に力は入れるな。腕に振り回されるな、体で振るのだ」
再度指示を入れる伊烏。
腕で振るのではなく、体で振る。
趙雲の修行において初めて聞く言葉であった。
腕で振るのではなく体で振る――理解が出来なかった。
剣を握るのは腕あるからどうやっても腕で振ることになる。それをどうやれば体で振るのか。
伊烏は一度、鼎の稽古をやめさせ自身が振る姿を見せる。
担ぐように構えた伊烏。刃元近くを右手で掴み、柄頭を左手で握る。
踏み込む、草鞋が地面を叩き、竹剣が振り下ろされる。
「.....ほう」
その振りは伊烏の修める流派特有の物に見える。
趙雲の長柄武器は腰の回転を重点とする。対し伊烏の流儀はその回転がなかった。
正中線を一線に固定し、体の動きに合わせ竹剣を振っていた。
切断力を刃に伝播させるという事を言っているであれば、伊烏のやって見せた動きは、体の重みを使い振っている。腕は体重を伝える経路でしかないからだ。
遠間で見ながら、趙雲も伊烏の言う体で振るという事を実践してみる。
小枝を拾い両手で構える。
踏み込み振る瞬間、その困難さに気づく。
「........ふむ」
伊烏の言う体で振るという行為。人間の体構造を完全に否定した理論であった。
振っている最中に理解できた。もし腕の力を抜いた状態で振っていたなら、体感覚が崩壊し転んでいただろう。人間の体は「立つ」と動物的には困難極まる体位で生活しているからだ。
立つ事を可能にしたのは非常に優れた足、体幹、そして腕だ。
足は支えだ。体幹はいわば重しだ。そして腕は
片腕程度ならなくとも日常生活には支障はないだろうが。もし両腕が機能せず得物を持った状態で、それを振るとなれば、転倒してしまう。
咄嗟に腕のを機能させ感覚を戻したが、どれだけ難しい事か。
一介の村娘に理解させるには少々酷に思える。
武人である趙雲がこの理を会得するには、今までの積み重ねて来た物をすべて崩さねばならない。
舌を巻くような稽古、だがこの先にあるモノがどのようなものかは理解できる。
この術理を会得したのなら恐らく、体格の劣る者でも英雄に勝る剣を奮える。
体重と威力が直結している。ならば伊烏の剣は――想像しただけでもぞっとしない。
痩身ではあるがしっかりとした体、背丈も申し分ない。
そして茶屋の店主が言うように、長柄武器の穂先後と切り落とす剣が存在するのならば。
伊烏は無敵かもしれない。
「ふにゅああああ」
「また腕に力が入っている。腕の力を抜くのだ」
素性の知れぬ剣士は争いを望むのか。
欠落した闘争心の在り処が、燻ぶる暴虐性があるのか。
もしあるのなら趙雲は伊烏に勝てる予感は感じられなかった。
+ + +
「........」
朝焼けに染まる早朝、一人小屋より出立する者がいた。
小屋の奥、床板を剥がしその下より得物を取り出す。腰の帯びに得物を差し込み、外へと向かう。
「ようやくか」
いち早くそれに気取るのは趙雲であった。
壁に掛けられた愛槍「龍牙」を担ぎ、後を追う。
葉や枝には霜が振り、寒さが残る朝であった。山村の反対側の麓へ伊烏義阿は足を伸ばしていた。
何があるのか、それは察しが付いた。
間違いない。雰囲気然り、得物の匂いで。
幾ら丁寧に手入れをしようと隠し切れない血油の匂いが刃より漂っている。
(ついに見られる。...伊烏義阿の剣を)
欠落した闘争心が満ちる時が来たのだ。
趙雲は外にも聞えるほど心臓が高鳴った。
知らぬものを知る、純粋な探求心――それをも越える闘争本能。
伊烏義阿の本性を。
そこは見晴らしもよく、木々も少ない。ただ山の気配は消え、酷く臭う体臭が立ち込めていた。
それを察知しこの先何が起こるのかを知る
身を隠す者共が現れる。
黄色の頭巾で頭を覆う、手には直刀や槍を握っていた。
近頃勢力を伸ばし始めた農民達、張角を指導者とする逆徒。
(黄巾賊...武を知らぬ獣ではあるが)
数がいる。どこに身を隠したのか二十を越える数が伊烏を取り囲んだ。
手出しをする気はなかった。見通しの利く木へと登り、観戦を決め込む。
(さあ、秘めおきし剣。私に見せてくれ)
伊烏は腰にある、僅かに反りを描く剣に手を掛けた。
次回はすべて戦闘描写です。