三度目の夜に。   作:晴貴

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10話

 

「そういえばさ」

 

 三葉をあぐらの上に乗せてから小一時間ほど。

 組紐と三つ編みを解き、ストレートになった三葉の黒髪を()きながらそのサラサラとした手ざわりを楽しんでいた俺は、思い出したようにそう切り出した。

 

「なぁに?」

 

 三葉にしてはめずらしく、鼻にかかった、甘えるような声。

 まるで猫みたいにスリスリと俺の首筋辺りに後頭部をこすりつけてくる。三葉の香りなのか、シャンプーの香りなのか、とにかく甘い匂いが俺の鼻孔をくすぐる。無性に顔をうずめたい。

 

「確認するの忘れてたけど、三葉も全部覚えてるのか?」

 

 全部、というあいまいな言葉。

 もしかしたら俺と三葉では“全部”に含まれるものが違うかもしれない。

 三葉が指を折りながら数えていく。

 

「……瀧くんと入れ替わってたこと。彗星の落下で死んだはずの夜をくり返して生き延びたこと。でも瀧くんの名前も思い出も忘れちゃったこと」

 

 三葉が穏やかな声で、過去の出来事を思い返して滔々と語る。

 腕の中にいる三葉。その体温と鼓動に三葉の存在を、命を、俺は実感する。

 二度と離すものか、と少しだけ強く抱きしめた。

 

「大切なものを忘れてしまったことさえ忘れたこと。それからずっと誰かを、何かを、探していたこと。それを長い間追い求めて、東京を走る電車の中でやっと見つけたこと。桜が咲いていた雨上がりの路地で出逢えたこと。その相手が瀧くんだったこと。――覚えてる。全部、思い出したよ」

 

 三葉が語った“全部”は。お互いに惹かれ合い、けれどすべてを忘れて、それでも探し求め、ついに出逢えた、俺たちの八年間。

 

「そうか。じゃあ俺と大体いっしょだな」

 

「大体?……あ、そっか。瀧くん、なんで私と同い年になっとるん?」

 

「わからん。目が覚めたらそうなってた」

 

 入れ替わりだけでも謎現象はお腹いっぱいだというのに、その一連の記憶すべてを思い出したうえでのタイムスリップ。

 ……いや、二十三歳の体は置いてきてるから時間遡行か?まあなんにせよ若返って、本当なら三歳年上のはずの三葉と同い年になっている。わけがわからないことだらけだ。

 

「三葉はいつからこっちにいるんだ?」

 

「まだ二週間くらいだよ。瀧くんは?」

 

「俺は二〇一二年の十月、半年前だな」

 

「えっ、そんなに前から?あ!だからあんなに色々考えたり行動したりしとったんやね」

 

「そういうこと。一番大変だったのは父さんを説得することだったけどな」

 

 思わず苦笑が漏れる。

 しかし三葉の話を聞いていて疑問も残った。

 

「なあ三葉、俺の記憶だとあの彗星災害で死者が出なかったのはその日たまたま町全体の避難訓練だったからって報道されていた」

 

 真剣な話に、三葉が神妙そうに頷く。

 

「ならテッシーたちと大目玉を食らった記憶とか、その辺の事実関係はどうなってるんだ?彗星の落下前に変電所が爆発した痕跡があるって記事を読んだ覚えもあるから、あの避難計画自体がなくなったことになってるわけじゃないんだろ?」

 

「確かに私たちは計画を実行したし、犯人だってバレてお叱りを受けたんやよ。けどそれが彗星による人的被害を最小限に抑えたことと、何より明確にその意図を持って行動を起こしてたからこの問題をどう取り扱うか困ったみたいで」

 

 まあ学生が爆破テロと電波ジャックってだけでも世間には公表しづらいのに、それが世界の誰も予想してなかった彗星の落下を予見して起こした行動となるとな。

 どう考えても三葉やテッシーに奇異の目が向くし、それが三葉たちに悪影響を与えることは容易に考えられる。

 

「それで結局厳重注意のみ。私たちが犯人だって知ってたのは先生と役場の人の数人だけやったからそこで緘口令を敷くことにしたんやって。まあそれぞれの親には話がいって、特にテッシーは大変やったみたいやけど」

 

「じゃあ事の真相を知ってるのは三葉たちを含めて十人ちょいなのか」

 

「うん。私はお父さんにどうして彗星が落下することを知っていたのかを聞かれたくらいで、事故後の調査で私たちが聴取されることはなかったし、時間が経つにつれてその辺りの記憶が思い出せなくなっていったから……」

 

 俺が三葉に逢いに糸守町まできたときと似たような感じみたいだな。いっしょにきた司や奥寺先輩と別々に東京に帰ったこと、どこかの山で一夜を過ごしたことくらいしか思い出せなくなって、いつしかそれを思い出すことすらなくなっていった。

 三葉だけじゃなくテッシーやサヤちん、そして他の人もそうなったんだろう。

 

「ちなみに彗星の落下を知ってた理由はなんて答えたんだ?」

 

「『彗星が落ちてくるのをこの目で見たの!』って」

 

「ははは、そりゃみんな面食らっただろうな」

 

「テッシーだけは笑っとったけどね」

 

 二人きりの空間で、声を出して笑い合う。

 わからないことばかりで、正直困惑してる部分もまだある。

 けどこうして三葉と同じ場所、同じ時間を生きられるというだけで、そんなことはどうでもよくなってしまう。

 

 他愛のない会話をし、下らないことで笑う。腕の中にいる三葉の温もりを愛おしく感じ、ふと会話が途切れて無言になると、どちらからともなく示し合わせたようにキスをする。

 そうすると三葉は顔を赤くしながら、でも幸せそうにはにかむ。俺はその顔が見たくて何度もキスをした。

 

 あとすこしだけ。もうすこしだけ。

 そう思いながらやめられない。やめなければと思うと、湧き上がる名残惜しさに負けてこの手を離せなくなる。

 明日も、明後日も、これから先もいっしょにいられると頭ではわかっているのに、心が三葉を求める。五年間の寂しさを埋めるように。

 

「あ……」

 

 三葉がかすかな声を漏らした。

 制服のブラウスがスカートからはみ出している。俺の右手はその裾をまさぐり、ブラウスの中へ侵入しようとしていた。三葉が声を上げなければこの手は止まらなかっただろう。

 ……まだ、早いか。

 

 すこし気まずく思いながら、手のひらくらいまで侵入していた右手を引き抜く。

 そんな俺に、三葉はあきれたように言う。

 

「……瀧くん、そんなんやから奥手って言われるんやよ」

 

「うっ……」

 

 そりゃそうかもしれないけどさ。

 付き合って二週間でそういう行為は早いんじゃないのか?そうでもない?むしろ遅いの?

 女と付き合った経験がないからぜんっぜんわかんねぇ……。

 そんな俺の苦悩など知ったことかと切って捨てるように、三葉は言った。

 

「――いいよ」

 

「え?」

 

「瀧くんなら、いいよ」

 

 耳が痛くなるような静寂の中にあって、それでも聞き逃してしまいそうなほど小さな声。

 けれど確かに、三葉は「いいよ」と言った。いいって、つまり、そういうことか?

 言葉の意味を理解して急激に心音が上がる。カラカラに乾いたのどが、つばを飲み込んでゴクリと音を鳴らした。

 

 依然こちらに背を向けて俺の体の上に座っている三葉の表情はうかがい知れない。

 そんな三葉の手が、尻込みした俺の右手を捕まえるように伸び、手が重なる。そしてダメを押すような言葉を口にする。

 

「瀧くんのしたいこと、して?」

 

 ブチン、と。

 俺の頭の中で、理性の鎖が音を立てて千切れた。

 

「みつは……」

 

 そして俺はそのまま、腕の中にいた三葉を押し倒――

 

 

 ヴーヴーヴー!

 

 

「うおわぁ!」「ひゃあ!」

 

 ものすごい声を上げながら、お互い跳ね飛ばされたように飛びすさる。

 呼吸が荒い。バクバクと心臓の音がうるさい。おまけにひじを棚にぶつけて痛い。

 いいところで邪魔しやがって、という思いと、先走らないでよかった、という安堵感が混ざり合う。……後者の気持ちがあるから奥手とかヘタレって言われるんだろうな。

 音の正体は、テーブルの上に置かれた三葉のスマフォだった。三葉は腹部が露わになっていたブラウスを正してから、スマフォを耳にあてる。

 

 直後、電話口じゃない俺の耳にも届くほどの甲高い声が響いた。

 

『ちょっとお姉ちゃん!こんな時間まで何しとるん!?』

 

「よ、四葉……えっと、あのね……」

 

『今どこ!?もうご飯やよ!はよ帰ってきない!』

 

 説明や釈明をする間もなく電話は切れたようだ。

 そう言えば今は何時なんだと時計を見れば時刻は午後六時半過ぎ。気が付けば部屋の中はかなり薄暗くなっていた。

 三葉がこの家にきてからもう三時間近く経過している。

 

「……瀧くん」

 

「お、おう」

 

「ごめん!帰らなきゃ……」

 

 心底申し訳なさそうに三葉は俯きながらそう言った。

 間違っても送ってく?なんて言えそうな雰囲気じゃないな。

 結局俺は慌ただしく身だしなみを整えて去っていく三葉を見送ることしかできなかった。

 そして一人になった居間で、俺はどはああああっと盛大にため息を吐き出す。

 

 き、緊張した……。

 どうしよ、俺、しばらくアイツの顔まともに見れねぇかも。

 

 未だに心臓は暴れ、ひじから伝っている一筋の鮮血にも気付かず、情けなくも俺はそんなことを思った。

 

 


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