ザザザザザザザ…………!!!
夜の海を1艘の小型船が走る。
煌々と輝く月と、空一面に煌めく星の光を頼りに、ターニャが海を渡る。もし、その光景を見る者がいたならば驚愕しただろう。
ターニャの船は、一言で言うならば帆と舵の付いたカヌー。船体を安定させる為に、船本体の横に“アウトリガー”と呼ばれる特殊な浮が固定されており、その浮と船体を筏のように組まれた木材が繋いでいる。
居住性を一切無視しているが故に、扱いが酷く難しい代わりに機動性を重視したこの船は、使い熟す事さえ出来れば通常なら1日かかる航路でも数時間で走破する事が出来る程に船脚が速い。扱いの難しさ故に数は少なくなったものの、未だにこうしたカヌーを使用している漁村も存在し、“南の海”の1部の島や、“偉大なる航路”でも時折見る事が出来る。
しかし、それはあくまでも短期間の航海の話である。居住性が全く無い為、はっきり言って、長期間の航海には全く向かない上に船が小さい為に波や風の影響を受け易い。
まして“新世界”を単身航海するなど、正気の沙汰では無かったが、ターニャは15歳の時に旅立って2年、この船で“新世界”を渡っていた。
その並外れた航海術、並びに操船技術がそれを可能としていたのである。
ザザザザザザザザザザザ……………!!!!!!
時刻は既に深夜と言っても良い時間帯だったが、1度海に出ればターニャは何があっても眠らない。24時間、風と波を読み舵を取り続ける。今も、星と“ビブルカード”を道標にマリンフォードを目指していた。
傍らには、相棒の小虎‐ドゥーイが眠っている。
その寝顔を見下ろしてクスリ、と笑みを1つ溢し、星の位置を測っていた時だった。
不意に前方に巨大な船影を見付ける。
「あれは…、“白ひげ”?」
距離にしてまだ数km離れているが、その船は遠目に見ても目立つ。鯨を模した巨大な本船に先行するように進む、3隻の船。旗印は同様に“白ひげ海賊団”のもの。
「そう言えば、この辺に“白ひげ”の縄張りがあったっけ?」
職業柄“四皇”の縄張りにはあまり近付かないようにしてはいたものの、補給の為にそう言っていられない事もある。そうした際には、出来るだけ“白ひげ”か“赤髪”の縄張りを利用するようにしていた。実際に縄張りしている者の性格によるのか、はたまたそういった所を選んで縄張りにしているのか、“白ひげ”や“赤髪”の縄張りの人間は基本的に大らかで懐の広い者が多く、実際に島で悪さをしない限りは他の海賊や賞金稼ぎの入島を拒みはしない。
彼らの船の進んできた方向は、ちょうど以前ターニャ自身も寄った事のある縄張りの方向である。
大きな船の近くでは波に呑まれる危険もある。何よりも下手に警戒されるのはゴメンだった。“白ひげ海賊団”は小物にかまける程喧嘩っ早くは無いが、何しろ1000人を優に超える大所帯である。中には例外もいるだろう。
白ひげ海賊団がターニャを見付けるより先に迂回するに限る。
そんな思いの下、手早く方向を変えた。10分程走らせれば、ターニャの船はちょうど“白ひげ”の本船‐“モビーディック号”の後方を横切るように回り込む形となる。
間も無く“モビーディック号”と平行に並ぶだろう、という頃。
ターニャが風が変わったのを肌で感じ取る。
「…嵐が来る。」
“新世界”の海にしては珍しくも穏やかな夜だったが、ここへきて空が陰り始める。
波も徐々に高くなり、風も強くなるがターニャは至って冷静だった。“サイクロン”が吹き荒れる真横をギリギリで回避した経験も数え切れない。それに比べれば何と優しい事か。
“モビーディック号”の後方2km程を横切る頃には波風は激しさを増し、ぐっすりと眠っていたドゥーイも目を覚ましていた。
「ドゥーイ!今のうちに“中”に入って!!」
「ガウッ!」
ターニャの指示にドゥーイが即座に従い、船体の前方の“蓋”を外す。ターニャの船は居住スペースが無い代わりに、船体の1部が空洞になっており、食料や荷物が収納出来るようになっている。普段は海賊などに襲われても分からないように“仕込み蓋”で隠されているが、こうした嵐の時などにはドゥーイの避難先としても重宝していた。
器用に爪を引っかけてドゥーイが再び蓋を閉めた事を確認し、風を受けて加速するべく帆を調整しようとした時だった。
波と風の音しか聞こえなかった真夜中の海の中、突然異質な音を聴き取った。
「!今のは…。」
ゴォオオオオオオ………!!
ザァアアアアアア……!!
吹き荒れる風と荒れ狂う波の音の中で耳を澄ます。
「っ…!!!」
微かに聞こえる、人の声と必死に波の中で踠く音。
「!誰か落ちた……?!」
周囲を見渡す限り、他に船影は無い。何よりもこのタイミング、間違い無く“白ひげ海賊団”の誰かだろう。
だが、“白ひげ”の船が止まる様子は無い。巨大な帆船は嵐の大風を追い風に速度を増している。もう人の身では追い付けまい。このまま真夜中の海を泳ぎ続ける事はまず不可能。この海域は“秋島”が近く、水温も低い。ましてここは“新世界”で今まさに嵐の真っ只中。このまま放置すれば1時間どころか10分と保たずに沈んでもおかしく無い。
「気付いていない…?!見張りは何をしてるの!?」
どうする?相手は海賊。助ける義理も無い、しかし……。
迷ったのは一瞬。
「っしょうがない!!」
海賊相手とは言え、見殺しにするのは寝覚めが悪い。
海軍に引き渡したところで、“白ひげ”が黙っていない事は分かりきっており、気絶させるなりしてこの近くの縄張りに送り届けた方が無難だろう。
とんだ寄り道だと内心舌打ちながらも、船首目がけてジャンプする事で船の方向を変える。
ザザザザァ……!!
2分と経たないうちに声がした付近へ辿り着くが、辺りに人影は既に見当たらなかった。
「全く……!!」
手早く飾りベルトから帯刀していた鬼徹を抜き、ドゥーイが隠れている収納スペースからロープを取り出す。
「ガウ?」
中に入ったまま、何事かと見上げてくるドゥーイに「ちょっと寄り道するね。」とだけ告げ、再び蓋を閉めた。
「良し。」
取り出したロープをマストに結び付け、逆側を自分の腰に結ぶ。
そして呼吸を整えると同時に海へと飛び込んだ。
バッシャアァンッ!!!
漆黒の海の中、潮の流れに流されないように水をかき分け、見聞色の覇気を駆使して沈んだ相手を探す。
(!いた……!)
肉眼では全く捉えられないが、10m程潜ったところに漂う人間がいる。
(まだ生きてる…!)
思い切り水を蹴り、腕を伸ばした。
(もう少し…!良し、届いた!!)
海中を漂っていた男の腕を掴み、一気に海面を目指す。自身の腰に結び付けたロープを辿り、浮上する。
「ぶはっ!!!」
掴んだ腕を離さないように船へと這い上がり、男を引き上げる。
「せぇのっ!!!」
激しい風と波に翻弄されながらも、何とか引き上げる事に成功した。
「やれやれ…。」
引き上げた男を見れば完全に意識が堕ち、腹部から出血しているのが分かる。幸い急所からは外れているようだが、海に落ちたのが悪かったのか体温が下がり、出血も止まらない。
このまま揺れる船の上での手当ては難しい。何よりもこれ以上舵を放っておけば、完全に方向を見失ってしまう。
取り敢えず収納スペースからタオルを取り出し、服の上から傷口に当てて解いたロープをその上に巻き付けて圧迫した。
「ガルル…。」
「さ、もっかい“中”に入って、ドゥーイ。ちょっと強硬突破するから揺れるよ。」
胡散臭そうな目で男を見るドゥーイに、声をかけ再び船の方向を変えた。
手元の“ビブルカード”を見て、方向を確かめる。
「マリンフォードがこっち、って事はこの方向で合ってるね。さぁ、行くよドゥーイ。早く入って!!」
言うや否や、帆を張り風を受ける。
ザザザザザザザ………!!!
一気に船が加速し、“白ひげ”の縄張りを目指して走り出す。
ターニャが、自身が助けた海賊の正体を知り、驚愕するのはそのわずか1時間後の事である。
――――――――――――再び運命が動きだそうとしていた。