━海軍本部━
カッ!コッ!カッ……!
海軍本部の廊下を足早に歩くのは1人の海軍将校。スラリと伸びた肢体を仕立ての良いスーツに包み、肩にかけるのは“正義”が記す白いコート。
眉間には深い皺が刻まれ、目の下には濃い隈が浮き出ているが、その秀麗な面差しは全く損なわれていない。
モンキー・D・ターニャの義兄弟にして海軍本部・准将、トラファルガー・ロー。彼は今、彼自身とも関わりの深いとある人物の下へと向かっていた。
コンコンコンッ!
ガチャッ……!
ある扉の前で立ち止まり、ノックをするなり返事も待たずに扉を開ける。
「なんじゃ、ローか。ノックをしたなら返事するまで待たんかい。」
何事かと奥のデスクで書類から顔を上げたのは“海軍の英雄”とも謳われる老将、モンキー・D・ガープ。
それに構わず、ガープの下へと歩み寄ったローがガープに囁く。
「ターニャと連絡が取れた。」
「!無事じゃったか!!」
謝罪も前置きも一切省いて簡潔に告げたローだったが、その知らせは何よりもガープが待ち望んでいたものだった。
「こっちの気も知らずに呑気に寝ていたらしい。まぁ、ターニャは一旦海に出ればほぼ不眠不休での航海だから、仕方無ェと言えばその通りだがな。」
「そうか…。それで、伝えたのか?」
「何も知らなきゃ、自衛も出来ねェだろう?伝えたさ。驚いちゃいたが冷静だったぜ。まぁ、ショックはでかかったようだが…。一旦マリンフォードに戻ってきて、しばらく滞在するとさ。おれかあんたが本部にいるかどうかを確認してきた。」
「そうか…。到着はいつ頃になる?」
「早くて5日。ターニャの船ならもっと早いかもしれねェが、こればっかりは海次第だな…。7日以上かかるようなら連絡を寄越せと念を押しておいた。」
「そうか。そうか……。」
大きく息を吐きながら、革張りの椅子に背を預けたガープにローが尋ねる。
「…話には聞いていたが、ヴェルゴってのはターニャにとってそんなにトラウマなのか?」
「トラウマにもなるわい。一歩間違ったら殺されとった。…助かったのは運が良かっただけじゃ。」
「?!…一体何があったってんだ?」
ガープの言葉に一瞬息を呑んだローだったが、下手に義妹のトラウマを押さない為にも把握しておくべく尋ねた。
そして、ガープは語る。11年前の、あの日の事を―――――――。
━11年前、マリンフォード━
その日、ターニャはいつもの如く鍛錬場で素振りを終えた後、持参した弁当を食べた後で強烈な眠気と戦っていた。前日の夜にうっかり本に夢中になって夜更かししてしまい、満腹になった途端に瞼が重くなってきたのである。
「…ダメだ、眠い……。」
普段よりも2時間足りない睡眠では、子どもの体力などすぐに尽きてしまう。マリンフォードの祖父の家は中心街からは若干距離があり、今の状態で無事に帰り着ける気はしなかった。
生憎祖父は今朝早くから遠征に出ており、帰るのは明日の夕方。今日はつる中将の家に世話になる予定だったが、1人で勝手にお邪魔する訳にもいかず、肝心のつるも現在は仕事中。まさか執務室を訪ねて昼寝させて欲しいとも頼めない。
いや、つるならば子どもが遠慮するんじゃない、とすんなり寝かせてくれるだろうが、仕事の邪魔をするのは本意では無かった。
どこか邪魔にならないような所は無いか、と辺りを見回したところで、鍛錬場の隅に植えられた枝振りの良い樹が目に入る。
「あの上なら、まぁ邪魔にはならないかな…?」
独り言ちて愛用の木刀をベルトに差し、スルスルと樹に登る。ちょうど良さそうな太い枝を跨ぐようにして座り、幹にもたれて眠気に身を任せる。
―――――――それからどれくらい経ったのか。
ターニャは誰かの話し声で目を覚ました。
「……?」
まだぼんやりとしている意識の中、ぐしぐしと目を擦り耳を澄ます。辺りを憚るような会話だったが、周囲に他に人気は無い為、意外にも会話が正確に聞こえてくる。
ちょうど昼過ぎから夕方までの間は、訓練時間からはズレており、鍛錬場を使う者はおらず、ターニャ自身もこの時間ならば、と祖父が特別に使用許可を取ってくれたからこそこの場にいるのである。
(誰だろう。サボり…?)
寝起きでぼんやりとした頭では分からなかったが、徐々に頭がはっきりしていくにつれてターニャの顔が青褪めていく。
「ああ。問題無いよドフィ。“潜入”して間も無く1年…。そろそろ次の手を打っても良い頃だ。」
『フッフッフ!!!それは何よりだ。ヴェルゴ、やっぱりお前に任せて正解だったよ、“相棒”。』
“ドフィ”、“潜入”、“ヴェルゴ”。
マズい。状況を理解して、最初に思った事がそれだった。
聞いてはいけない会話を聞いてしまった。見つかったら間違い無く殺されるだろう。
「取り敢えず、“異動願い”を出しておく。G5ならばちょうど良いだろう。」
『フフフ、フッフッフ!!!この件はお前に一任してるんだ。お前のやり易いようにやってくれ!』
口を両手で塞ぎ、ターニャが樹の上に隠れたまま必死に息を殺すが、結果的にそれが裏目に出てしまった。
それまでターニャが見付からなかったのは、眠っていた為に気配がほとんど消されていた事にある。
しかし、状況を理解してしまったが為に緊張のあまりに体が強張り、呼吸も乱れて気配を察知されてしまったのである。
「!すまない、ドフィ。また改めて連絡しよう。」
『?どうした、ヴェルゴ。』
「おれとした事が、ネズミが1匹紛れていた事に気付かなかったようだ。」
(ヤバイ………!!!!)
ガサササッ!!
その瞬間、ターニャを突き動かしたのは、圧倒的強者に対する恐怖から来る生存本能だった。
考えるよりも先に、樹から飛び降りて全力で走る。伊達に物心付く前から祖父に鍛えらえてきた訳では無い。その身の軽さを最大限に生かした瞬発力は侮れず、状況によっては鍛えられた海兵相手であっても振り切る事が出来る。
だが、今回ばかりは相手が悪かった。
ドゴンッ!!
「っ!!!?」
激しい衝撃と共にメキャリ、と嫌な音が響いたと思った瞬間には、地面に叩き付けられていた。
「あ‶っぐぅ……!!」
叩き付けられた衝撃で声が洩れるが、更に一拍置いて激痛がターニャを襲う。顔の左半分は、既に痛み以外の感覚が無い。
信じられない程の力で殴られたと気付いたのは、ヴェルゴの言葉を聞いた後だった。
「子ども…?ああ、君がガープ中将の孫か。全く、運が無いな。」
「っ………!!!」
感じた事の無い激痛に声も出せなかったが、直後に右足に衝撃が走る。
「ぎっぃ……!!!」
喉に引っかかるようにした“音”が洩れ出るが、間髪入れずに腹部を蹴り飛ばされた。
「がふっ………!!!ゲホッゲホッガハッ!!!」
蹴られた瞬間に、ターニャが嘔吐し、血の混じった吐瀉物が周囲を汚した。
「っち…!掃除が面倒だな。君も、こんな場面に居合わせなければ、死なずに済んだものを。悪いが、このまま“消えて”もらう。」
一片の慈悲も無い言葉に、既に身動きすら儘ならないターニャが辛うじて目でヴェルゴを仰ぎ見た瞬間、ターニャに向かって振り下ろされる拳が目に入った。
(あぁ、しんだ……。)
ターニャが一瞬、自身の生を諦めた瞬間だった。
パキキキキキ…!
パキイィィイイン………!!!
ヴェルゴの体が、一瞬にして凍り付く。
「オイオイオイ、こりゃぁ一体どういう事だ?」
不意に訪れた静寂の中、1人の男の声とザリッ、と靴底で砂が擦れる音が響いた。
「ターニャ、大丈夫か?まだ生きてるな?」
自身が凍らせた下手人を一先ず放置し、顔見知りでもある被害者をそっと抱き上げる。
「く、ざ…、じさ……?」
「ああ、“クザンおじさん”だ。良く頑張ったな。今、救護室に連れていってやる。」
ターニャの途切れ途切れの声を正確に聴き取ったクザンが、安心させるように告げる。
「そ、かいへ…。」
「ああ、大丈夫だ。殺しちゃいない。」
その海兵、と安否を気にするように訴えるターニャに伝えるが、否定するようにほとんど動かせない体を酷使するかのように、僅かに頭を振った。
「ん?どうした?」
「かいぞ、…パイ…。」
絞り出すようにクザンに伝え、ふっと意識を失ったターニャを負担がかからないように抱え直し、極力揺れないように救護室に走りながら、クザンがターニャの言葉を反芻する。
(海賊、スパイ、だと……?)
こんな洒落にならないような嘘を吐くような子どもでは無い。何よりも、あの海兵が本当に海賊のスパイだと言うならばそれを知ってしまったターニャを口封じに殺そうとしたのだ、とあの異様な状況にも納得する事が出来る。
(コング元帥に報告しなきゃならねェな。)
真夏という訳でも無い現在の気候なら、氷が解けるまでには時間がかかる。逃げられる心配は無いだろうが、長時間放置してしまえば死ぬだろう。せいぜい保って10数分。ターニャを救護室に預けた後、元帥に報告する前にあの海兵を回収して解凍せねばならなかった。
――――――――それからの騒ぎは、筆舌に尽くし難いものだった。海軍本部内に海賊からのスパイが入り込み、一般人の子どもを虐殺しかけたのである。
この事件は、その衝撃性から世界政府幹部や一定以上の海軍将校以外には完全に隠匿される事となった。もし、外部に洩れてしまえば、海軍の信用は地に堕ちる。海軍本部史上、最悪のスキャンダルになりかねず、公表するにはリスクしか無かった為である。
―――――――ガープから伝えられた、秘められていた“真実”にローの驚愕は大きかった。
「……たまたまクザンが居合わせとらんかったら、そのままターニャは殺されて海にでも投げ込まれて“行方不明”として処理されておっただろう。クザンがターニャを見付けた時、既にターニャは虫の息だったらしい。顔の形が変わる程殴られ、折れた肋骨が胃や腸に刺さってぐちゃぐちゃになっておったそうだ……。」
「…当時、ターニャはまだ6歳かそこらだろう?!大の大人、それも海賊ならそこまでする必要はねェ筈だ!!!」
何よりも、義妹に降りかかった、想像していたよりも遥かに凄惨な行為に、思わずローが叫ぶ。
「ああ、その通りだとも!!センゴクの奴に力尽くで止められなかったら、わしがあの男を殺していたところじゃった!!!」
ズンッ!!!
「……!」
当時を思い出し激昂するあまりに覇気すら洩れ出ているガープに、ローが息を詰めた。
執務室の床や壁、天井や扉がミシミシと軋む音がする。
「ぐっ…!おい、落ち着け爺さん!!」
全く制御される事なく放たれる覇王色の覇気を間近で浴びせられ、堪らずに膝を付いたローがガープに声を張り上げる。
「……幸い、虫の息ではあったもののターニャは生きていた。もう殉職してしまったが、当時海軍に所属していた“チユチユの実”の能力者によって傷も完全に癒えたが、心の方はそうはいかん…。」
数回深呼吸を繰り返して何とか自身を落ち着かせたガープが続けた。
「それ以来、男の海兵を異常に怖がるようになっての…。既に克服してはいるが、当時は酷いものじゃった。わしやセンゴク、クザンやロシナンテなど付き合いの長い海兵は大丈夫だったが、他の者は全くダメでな…。顔を合わせたら最後、過呼吸を引き起こす程じゃった。…その辺りの事はお前も良く知っとるじゃろう?」
「ああ…。」
自身が初めて逢った頃の義妹を思い出し、納得する。それだけの事が身に起こっていたのなら、無理も無いと言えた。
11年前、恐らくその事件から3ヵ月程経った頃だろう。その頃のターニャは、今と比べ物にならない程に表情が無く、唯一表に出す感情は“怯え”だけだったのだ。