東方悲恋録〜hopeless&unrequited love〜   作:焼き鯖

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Diavolul cărămiziu este ud cu lacrimi

 私はあいつが嫌いだ。

 あの横暴な性格も、気まぐれなところも、なのに全然自覚がないところも、とにかくあいつの全部が嫌いだ。だけど、あいつの全てを否定すれば、必然的に自分の事も否定することになる。そうなる事は分かっていたから、私はいつも自分の事が嫌いだった。

 朝も早い時間帯に、お姉様がみんなを食堂に呼び出した。なんでも、私達みんなに知らせたい事があるらしい。

 お姉様がみんなを呼び出す時は、大抵ロクでもない事を報告する時だ。この前なんて、いきなり叩き起こされたかと思ったら、「これからは、健康の為にみんなで毎朝一杯のしぼり野菜のジュースを飲むわよ!」なんて大見得切って、みんなを呆れさせたのは記憶に新しい。その試みも、三日と経たずに断念したから、今度の呼び出しもお姉様の下らない思い付きに違いないと思う。

 ドアを開けると、私以外のみんなは既に到着していた。みんな横一列に並んでお姉様の方を見ている。当のお姉様は、誇らしげな笑顔を浮かべて、ない胸をこれでもかと張りながらみんなを見ていた。

 私の姿を認めると、お姉様は手招きして私を呼び寄せた。

 

 

 

「あら、フランも来たわね。こっちに来なさい。紹介したい人がいるの」

 

 

 

 言われるがままに美鈴の隣に立つと、扉に立っていては見えなかったが、お姉様の隣に一人の男の人が立っていた。

 イタリア人みたいな彫りの深い顔つきに、短く刈り上げた少し淡い黒髪。清潔感のあるコックスーツに身を包んだ彼の立ち姿は、何処かで料理人を務めていたのかと思わせる程決まっていた。

 

 

 

「さて、これでみんな揃ったかしらね。紹介するわ。今日からこの紅魔館のコックを務めてもらうハンスよ。彼は紅魔館に来る前まで、世界中で旅を続けた流離の料理人なの。ハンス、自己紹介をして頂戴」

 

 

 

 嬉しそうに語るお姉様に促されて、ハンスは軽く頭を下げた。

 

 

 

「皆様、お初にお目にかかります。私はハンス・カッペリーニ。イタリアのトラットリアでコック長を務めておりました。トラットリアを辞めた後は、レミリアお嬢様が仰った通り世界各地を巡り、料理の修行を続けていました。若輩者ではございますが、皆様、どうぞよろしくお願い致します」

 

 

 

 再び彼が頭を下げる。それと同時に私以外のみんながそれぞれ拍手をした。

 

 

 

「こら、フラン。貴女も拍手をしなさい。相手に失礼でしょ?」

 

 

 

 お姉様が窘めたけど、私はそっぽを向いて結局拍手をしなかった。これ見よがしにお姉様が大きなため息を吐く。

 私は、こんな人間なんか別にどうだってよかった。どうせお姉様の思いつきだし、精々三日。長く保って一週間。その間には飽きられて、本物の食料に変わる。今回も、多分そうだ。そんな奴に拍手なんか送ったって、単なる皮肉にしかならない。だったら、初めから拍手なんかしない方がいい。

 だけど、何だろう? 初対面なのに、何処かで会ったことがあるような気がするのは、私の気のせいなのだろうか? 

 

 

 

「あのねぇ、レミィ。こんな時間に叩き起こされたら、誰だって機嫌が悪くなるわよ。今何時か知ってる? 昼の十二時よ」

 

 

 

 不機嫌そうなパチュリーに、私は心の中で頷く。そうだよ。昼の十二時なんて、吸血鬼の生活リズムじゃ深夜もいいところ。私達姉妹に合わせて生活してくれているみんなにも迷惑がかかっているのを、お姉様は気づいているのだろうか? 

 

 

 

「ま、まぁ……そうね。確かにこんな時間にみんなを起こしたのは悪かったわ。だけど、それを差し引いてでも、私はハンスの腕をみんなに見せたかったのよ。今日の朝食は全部ハンスに作らせたわ。咲夜、悪いけど、料理を全てキッチンに──」

 

 

 

「お待ち下さい」

 

 

 

 普段滅多に意見を言わない咲夜が、お姉様の命令を遮って口をひらいた。

 

 

 

「お嬢様、もしかして、私に何の断りも入れずにこの方に料理を作らせたのですか?」

 

 

 

「えぇ、そうだけど……」

 

 

 

「どうして一言私にお申し付けをしなかったのですか? 確かにお嬢様のお気持ちは分かります。私も新しい料理人を雇うのに文句はありません。しかし、これまでの食事は、全て私が作っておりました。私に何の断りも入れず、正体不明の輩を厨房に招き入れるのは、私のプライドが許しません。もしかすると、お嬢様に毒を盛るかもしれないんですよ?」

 

 

 

 それはどのように考えていたのですか? 

 青く輝く咲夜の瞳が、彼女が普段使っている鋭いナイフみたいにお姉様を刺す。けど、お姉様は動じず、不敵に笑って空威張りの威厳を保った。微かに体が震えていて、若干涙目になりながら、気づかれないようにハンスの服の裾を掴んでいたけど、それは見なかった事にしよう。

 

 

 

「と、とにかく! そんな細かいことはどうだっていいじゃない! 私も一緒に厨房に入って見張っていたから、毒物は入ってないって確信を持って言えるわ! それより! 早いとこ食べましょうよ! 折角のご飯が冷めちゃうわ! ハンス! 咲夜と一緒に運んで頂戴!」

 

 

 

 誤魔化すようにまくしたて、お姉様はさっさと席についてしまった。すっかりカリスマがブレイクしたお姉様の姿に、私とパチュリーは呆れ、美鈴と小悪魔は苦笑いしながら、めいめい自分の席に座った。

 私達が席についてから、料理が次々に運ばれて来る。咲夜はまだ不満そうに、ハンスは淡々としながら皿を運び、その様子をお嬢様は嬉しそうに眺めていた。

 

 

 

「……ねぇ、これって……」

 

 

 

 運び込まれていく料理を見て、パチュリーが意外そうにお姉様を見た。パチュリーだけじゃなく、私も美鈴も小悪魔も、咲夜ですら、運んでいる時に不思議そうな顔をしていた。

 

 

 

「それでは、皆さんに本日のメニューのご説明を始めさせて頂きます」

 

 

 

 全ての皿が机の上に置かれると、ハンスは微笑みを浮かべて説明を始めた。

 

 

 

「本日のメニューは日本の朝食です。お嬢様から、皆様は自分達と同じ生活をしているとお聞きしましたので、消化がよく、身体の温度を上げる為におかかのお粥。良質なタンパク質をとる為に鮭の塩焼きと卵焼き。副菜として、紫蘇や梅干し等の濃いめの物を選びました。飲み物は美肌効果のある甘茶です。お味噌汁も作りましたので、お申し付けくだされば配膳致します」

 

 

 

 では、どうぞお召し上がりください。

 深くお辞儀をした後、彼は一歩後ろに下がった。

 

 

 

「じゃあ、頂きましょうか。咲夜も座りなさい」

 

 

 

「お言葉ですがお嬢様、私は──」

 

 

 

「ハンスの腕が信じられないのでしょう? なら、実際に食べてみて判断しなさい。料理人は皿で語るわ。それが礼儀ってものよ」

 

 

 

 そう言ってお姉様は、まだ渋っている咲夜を座らせると、みんなを見渡してから、「じゃあ、改めて頂きましょう」と言ってお粥を口につけた。お姉様の顔から幸せが広がり、それに触発されるようにみんなも鮭や梅干しを口に運んでいく。最初こそみんな半信半疑って感じだったが、料理を食べた瞬間、その表情が驚きに変わった。

 

 

 

「……美味しい! こんなにしっかりした味付けの野菜は初めて食べたわ!」

 

 

 

 まず口火を切ったのはパチュリーだった。綺麗に漬け込まれた青いきゅうり(浅漬けというらしい)に舌鼓を打っている。これを皮切りに、みんな思い思いの感想を口にした。

 

 

 

「この卵焼き、すごく美味しいです! 甘くてしょっぱくて、食べた瞬間口の中が蕩けそうです!」

 

 

 

「ハンス様、後から甘茶の作り方を教えて下さりませんか? 長く図書館に篭っていると、肌荒れが少し気になりますし、パチュリー様にお出しするお茶のバリエーションも増やしたいので」

 

 

 

「……何よこれ……私が焼いた鮭よりも塩気がきいてて美味しいなんて……」

 

 

 

 悔しそうにする咲夜を除けば、みんなとても嬉しそうに朝食を食べていた。美鈴なんかお味噌汁まで注文した挙句、お粥を五杯もお代わりしたくらいだ。だけど、みんなの無茶な注文にも、ハンスはニコニコしながら応え、ニコニコしながらみんなの様子を見ていた。

 これならいけるかも。

 今まで出された物は全部食べられなかったけど、ハンスが作った物なら食べられそうな気がする。大丈夫だ。ただ一口、スプーンで掬った物やフォークで刺したものを口の中に入れるだけ。今回はいける。絶対に食べられる。

 高価な花瓶を運ぶように、私はお粥を慎重に運び、ゆっくりと口の中に入れた。お粥の温かさと共に、柔らかくて甘いご飯と、おかかのしょっぱさが、口の中一杯に広がった。美味しい。いくらでも食べられそう。

 そのまま二杯、三杯とお粥を飲み込んでみる。いつもなら現れる、あの嫌な感触はない。

 よかった。治ったんだ。これで好きなものをお腹一杯食べられる。

 そう感じたのが嬉しくて、今度は赤く照り輝く鮭の身をほぐして口に入れた。油に溶けた塩の味がした瞬間、胸を突き上げるような嫌な感じと共に、強烈な嘔吐感が私を襲った。例の発作は、治ってはいなかった。

 すぐに席を立って、トイレに向かった。断りも何も入れず、いきなり出て行ったから、ハンスはとても驚いた顔をしていた。同時にお姉様が、今回も駄目か見たいな目をしていたのが、少しだけ私を悲しい気持ちにさせる。

 便座に手をついて喉の水門を開いた瞬間、堰きとめられていた物が一気に流れ出す。液体と液体が混ざって一体化する音が聞こえる度に、私の心の秤はどんどん「不安」に傾いていく。

 中の物を全て吐き終えると、胸の中の嫌な感じは綺麗さっぱり消え去った。代わりに、どうしようもない程の大きな喪失感と、言いようのない悲しみが、空いた隙間を埋めるように入り込んでいく。目尻に溜まった涙の粒は、悲しみからなのか、嘔吐の苦しさからなのか、今となっては分からなくなってしまった。

 何百年も前から始まったこの「発作」は、私だけじゃなく、紅魔館の全員に沢山の傷を残している。最初に大きな傷跡を残したそれは、今度は衰弱させるように小さなダメージを積み重ねている。害はないけど処理されずに身体にたまり、やがて致死量に達してしまう毒薬みたいに、少しずつ、私達の心を殺している。

 一体、私たちはいつまで、この薬を飲まされ続けなければならないのだろうか? 

 水に浮いた、胃液で溶かしきれていないお粥を見続けているうちに、その考えはたちまち虚無感に掻き消されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 拒食症。

 それが私が飲んでいる毒の名前らしい。厳密に言えば、私はそれと類似した症状が出ているので、仮の名称という事でこの名前をつけられた。本当の拒食症は、自ら進んで食べない事が特徴らしい。

 拒食症になる原因は色々あって、自分の中にある痩せ願望が強くなったり、太った見た目を笑われたり、そのせいでいじめられたりと、理由は様々だ。

 私は──自分の羽を触る。ひんやりとして色とりどりのクリスタルは、まるでキリスト様に打ち付けられた杭みたいに、私の羽の至る所に突き刺さっている。

 やっぱりこれが原因なのかな……心の中でそうつぶやく。あの事件があってから、私はご飯を食べる事が出来なくなった。食欲はあるのに、物を食べるとすぐに吐いてしまう。酷い時は食欲そのものがなくなる時もあった。思えば、お姉様の事が嫌いになり始めたのもこの頃だったっけ。

 食堂には戻らず、部屋に戻ってそんな事を考える。すると、煙が舞い上がるみたいにふっと、あの時の記憶が舞い戻ってきた。

 纏わりつくような視線、荒い息遣い、皮膚の感触。そして、羽をむしり取られ、切り裂かれた、あの尋常じゃない程の痛み。

 恐怖で体が震えた。ベッドの端に身を縮こませ、掛け布団を被ってなんとか落ち着かせようとする。その後の事もはっきりと記憶している。確か、嫌だって何度も心の中で叫びながら手を握ったら、何かが弾ける音がして、そしたら私の顔に暖かい飛沫が飛んで、お姉様が慌てて私の様子を見に来て……

 

 

 

「フラン様、ハンスです。今、お時間よろしいでしょうか?」

 

 

 

 バリトンが効いた深い声が、部屋の外から呼びかけた。一瞬にして現実に引き戻された私は、慌てて布団と髪を整え、平静を装ってドアを開けた。見上げると、さっきと同じ穏やかな笑顔を浮かべたハンスが、クロッシュを持って立っていた。

 

 

 

「よかった。ご気分が優れないようでしたら、このまま外に置いておこうと思ってましたよ」

 

 

 

「……どうしたの、それ」

 

 

 

「はい。フラン様がお腹を空かせているかなと思いまして、不躾ではございますが、一品作ってまいりました」

 

 

 

 そう言って彼がクロッシュを開けると、暖かい蒸気と沢山の野菜の甘い匂いが、部屋一杯に広がった。お皿を覗いてみると、綺麗な赤色をした野菜のスープが、トレーの中心に乗っていた。

 

 

 

「トマトスープでございます。胃腸が傷ついているかもしれないと思いまして、肉やジャガイモは入れず、キャベツや大根等の、消化の良いものを沢山入れました。冷めないうちにお召し上がり下さい」

 

 

 

「……貴方、見てたんじゃないの? 私は──」

 

 

 

「大丈夫です。フラン様が吐いてしまわれないように、私が魔法をかけておきました」

 

 

 

 笑顔で言われた。言いかけた言葉が、喉の奥に引っ込んだ。

 その笑顔のまま、ハンスはお皿とスプーンを机の上に置き、半ば強引に、それでも優しい手つきで私を椅子に座らせた。

 さぁどうぞ。と促され、流されるままスプーンを手に取る。どうせ今回も駄目だろう。また吐いたら罪悪感が増すだけだ。

 半分諦めるようにスープを流し込むと、そんな気持ちは一気に吹き飛んだ。よく煮込まれた野菜は柔らかく、スープも沢山の旨味が染み込んでいて、何度でも食べたくなりそう。

 気がつけば、目の前には空っぽのお皿が残り、満腹感と満足感が体中をゆっくりと巡っていた。

 

 

 

「ほら、言った通りでしょう?」

 

 

 

 優しくハンスが問いかける。確かに、いつもなら来るはずの吐き気がこない。ハンスが何をしたかは分からないけど、今はそんな些細な事より、何年も続いている発作がなくなった事が嬉しかった。

 

 

 

「凄いよハンス! どうやったの? 何を入れたの? 咲夜にも教えてあげてよ!」

 

 

 

 はしゃぎながら、ハンスの周りをクルクル回る。ハンスは照れ臭そうに笑いながら「それは企業秘密です」と、茶目っ気たっぷりに言った。

 誇張でなしに、本当に魔法かと思った。何年かけても治らなかった症状が、一瞬で収まったのだから。

 そんな魔法使いの顔が、気づいたら暗く曇っていた。

 

 

 

「……どうしたの?」

 

 

 

「……フラン様、私は貴女に謝らなければなりません。先程、貴女が食堂を出ていかれた時、私は思わず驚いてしまいました。いくらフラン様に嫌な過去があったとはいえ、あの様な失礼な顔をしたのは無礼千万な事。礼儀知らずな私をお許し下さい」

 

 

 

 神妙そうな顔で何を言いだすかと思ったら、少し拍子抜けしてしまった。気にしなくてもいいのに。あんな場面を見たら、誰だってびっくりすると思うし、ハンスはここに来たばかりだ。知らなくて当たり前だし、むしろ知ってる方がおかしい……あれ? もしかして……

 

 

 

「ねぇ、嫌な過去って言ったけど、ハンスは私に何かあったか知ってるの?」

 

 

 

「はい。紅魔館にスカウトされる際、レミリア様から色々な事を聞きました」

 

 

 

 イタズラをして叱られた子供みたいに、ハンスは申し訳なさそうに笑って、頰を掻いた。それと同時に、あの時感じた違和感も、蒸発するようにふっと解消された。

 そうだ。確かあれは三ヶ月前。たまたまお昼(夜中)に目が覚めて、そのまま眠れそうもなかったから、適当に館内をぶらぶらしていた。そしたら、お姉様と男の人と話している声が聞こえたから、見つからないようにそっと覗いてみたら、お姉様が真剣そうに私の事を話してたっけ。あの時話してた男の人はハンスだったんだ。

 

 

 

「へぇ。じゃあ、どうして私がこんな羽になったかも聞いてるんだ」

 

 

 

「はい。それも存じ上げております。しかし、それを知ってなお、私はあのような失礼な態度をしてしまったのです。さぁフラン様、この無礼な料理人に何なりと罰をお与えください」

 

 

 

「ちょっとハンス、頭を上げてよ。私はそんな事したくないし」

 

 

 

「しかし……」

 

 

 

 性分なのだろう。私が苦笑しながら止めても、彼は納得のいかなさそうな表情をした。

 

 

 

「あれは誰が見たって驚くから。紅魔館のみんなが慣れちゃっただけで、ハンスの反応の方が普通だよ」

 

 

 

「左様でございますか……」

 

 

 

「まぁでも、それでハンスが納得しないって言うなら……」

 

 

 

 その時、急にあの時の光景がフラッシュバックしてきた。どうして今になって? ……そうだ。あの時と状況が同じなんだ。気づいた瞬間、さっきの恐怖が何倍にも膨れ上がって襲いかかってきた。

 

 

 

「フラン様……?」

 

 

 

 様子がおかしい事に気づいたのか、ハンスが心配そうに声をかけた。

 

 

 

「大丈夫……ねぇ、それでも貴方が納得していないなら……私を裏切ったりしないって約束して……それで私は許すから……」

 

 

 

 声が震えているのが自分でも分かった。どれだけ強がろうと気を張っていても、それよりも大きな恐怖でそれがかき消されていく。人々から恐れられる吸血鬼がこのざまなんて、自分でも笑えてくる。

 そう思った時、

 

 

 

「え……?」

 

 

 

 いきなりハンスが私を抱きしめた。でもそれは、雑で乱暴な抱き方じゃなくて、泣きそうな子を慰めるような、優しくて温かい抱き方だった。

 

 

 

「……分かりました。私はフラン様を決して裏切ったりしません。私の命が尽きるまで、紅魔館を、フラン様の元を離れないと約束しましょう」

 

 

 

 そのままハンスは、ゆっくりと宥めるように私の頭を撫でる。彼の体温がこっちにも伝わって、本当だったら安心出来るはずなのに、胸が大きく高鳴って、全身がふわふわとした高揚感に包まれる。何故かは分からないけど、顔が熱くなった気がした。

 体の震えが止まった後も、ハンスは私の背中や頭を優しく撫で続けた。その間中、私はずっと夢の中を歩いているような感覚に浸っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私は、人に裏切られた事がある。

 咲夜やハンスが生まれるずっとずっと前の事だった。当時雇われていたお姉様の執事に襲われたのだ。テキパキと仕事をこなし、何より表情も豊かで笑顔が多い好青年だったから、当時の私もその執事をとても慕っていた。

 あの日の事はよく覚えている。自分の部屋で寝ていたら、急に激痛に見舞われて目が覚めた。普段とは違う、下卑た目で馬乗りに私を見下ろしている執事を見た時は、何かの間違いじゃないかと疑った程衝撃的だった。

 すぐに彼を突き飛ばそうとしたけど、灼けるような痛みで全身に力が入らない。後でパチュリーに詳しく話を聞いたら、吸血鬼が苦手な魔力を大量に含んだ短剣で、何度も羽を滅多刺しにされた後、強引に引きちぎられたという。毒素は抜いたが、羽は治療した時にはもう手遅れで、もう元の状態には戻せないらしい。

 それでも必死に抵抗した。だけど、当の本人はそれすら愉しむように、無造作に私の服に手をかけていく。

 最後のボタンが引きちぎられて、私の素肌が露わになる。白いブラジャーに覆われた小さな胸が見えた時、生唾を飲む音が一際大きく聞こえた気がした。

 ゆっくりと、震える手が私のブラを取り外そうと近づいていく。恐怖で声が掠れ、抵抗も出来なかった。ただ心の中で嫌だ、嫌だと叫ぶ事しか出来なかった。

 彼の手が、僅かに皮膚に触れる。嫌悪感が身体中を駆け巡り、私は怖くて目を固く閉じて、強く手を握った。その瞬間、風船が割れるような破裂音が響き、それを追いかけて、私の顔と体に暖かい飛沫が飛んだ。

 むせ返るような鯖鉄の匂いが部屋中に充満し、半ば吐きそうになる。程なくして、騒ぎを聞きつけたお姉様が大急ぎで部屋に入った時、執事の体が力なく倒れ、私の体に覆いかぶさった。リネンに染み込んだ生暖かい血で、初めてあの時の音の正体が分かった。

 発作が出始めたのは、この頃からだった。計ったようなタイミングで、お姉様の事も嫌いになった。

 最初は、なんであんな男を雇ったのか、なんで本性に気づかなかったのか、色々な理由をつけてお姉様を責めていたけど、そうしていくうちに、段々とあいつのダメな部分が鮮明に見えてくるようになり、とうとうそれすらしなくなって、心の中であいつの事をずっと罵倒し続けるようになった。お姉様も、あの一件で能力に目覚めた私を持て余し気味だったし、多分それに気づいていたのかもしれない。

 噂はすぐに広がった。「吸血鬼の妹が、執事の頭を粉々に砕いた後、狂ったように笑って血を吸った」なんて大きな尾ひれもついて。

 体裁を気にするお姉様が、私を館に閉じ込めるのにさほど時間はかからなかった。普段は、私に対して何事もないように接しているけど、来客が来た時は大急ぎで私を部屋に押し込み、厳重に鍵をかける。館のみんなは私を恐れているようで、どんなに明るく振舞っていても、何処かよそよそしく、顔色を伺うような話し方をしている。あの事件は、この館全体に消すことの出来ない呪いを残した。

 ハンスの魔法は、長く掛かっていたその呪縛をも、簡単に解いてくれた。

 前までは、みんなどことなくよそよそしい態度を取っていたのに、ハンスが来てからはみんな笑顔が増え、全体的に明るくなった。それだけじゃない。美鈴は仕事中に眠る事がなくなった。ハンスが淹れるコーヒーを飲むと、立ち所に眠気が吹っ飛ぶらしい。荒れ気味だったパチュリーの肌も、ハンスの甘茶のおかげで、すっかり綺麗な卵肌になった。咲夜も口では彼の事を認めてはいないけど、彼のおかげで仕事の量が大幅に変わったから、内心ではかなりありがたいと思っているはずだ。

 ハンスが来てから全てが変わった。勿論、それは私も同じ。あれからすっかり発作は治ったし、みんなと一緒に食事をする事も増えた。パッと見たら良い方向に向かっていると思えるけど、実はハンスが来た事で、新たな問題が一つ出て来た。

 その原因は……また、私だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「……ご馳走様」

 

 

 

 食事を済ませ、席を立とうとした時、お姉様が咎めるような声で私を呼び止めた。

 

 

 

「フラン、もうおしまいなの? まだこんなに残ってるじゃない」

 

 

 

 言うなり、お姉様は私のお皿を指差す。私のお皿には、咲夜が作ったチキン南蛮が、殆ど手をつけていない状態で残っていた。

 

 

 

「咲夜が久しぶりに作ったのよ。好き嫌いせずに食べなさいな」

 

 

 

「……もうお腹いっぱいなの」

 

 

 

「だけど……」

 

 

 

「そんなに残すのが嫌なら、美鈴にあげるわ。私はお部屋に戻ってるね」

 

 

 

 言い残して、食堂を出る。お姉様が大きな声で呼び止めたけど、そんなの御構い無しで部屋へと戻った。

 ベッドに腰掛けた瞬間、お腹の虫が空腹を告げる。やっぱり、半分くらいは食べておいた方が良かったのかな。部屋を出て行く時チラッと見えたけど、咲夜、とても残念そうな顔をしていたし、ちょっとワガママが過ぎたかな。

 自然と口から溜め息が溢れる。と、

 

 

 

「フラン様、お料理をお持ちしました」

 

 

 

 ハンスの心地いい声が、部屋の外から聞こえて来た。すぐにでも扉を開けて抱きつきたい気持ちを抑え、冷静な声で「いらっしゃい」とだけ言って彼を招き入れた。

 

 

 

「今日は遅かったね」

 

 

 

「申し訳ありません。お嬢様からこれを持っていけと言われまして」

 

 

 

 言いながらハンスは、私が残したチキン南蛮を机の上に置いた。

 

 

 

「フラン様、確かに私の料理を食べて下さるのは嬉しいですが、ちゃんと咲夜さんの料理も食べなきゃいけませんよ?」

 

 

 

「……だって、ハンスの作ったものじゃないと食べられないんだもん」

 

 

 

 いじけたように私は言う。それを見たハンスも、困った顔をして笑った。

 ハンスの料理を食べてから、私は他の物を食べなくなった。どんなにお腹が減っていても、どんなに私が好きな料理でも、ハンスが作ったものじゃなければ喉を通らない。最近ではハンスが作っていないと聞いただけで食欲が失せてしまう程だ。今日だって、死んでしまう程お腹が空いているのに、肉を口につけただけでフォークを置いてしまったのだから。咲夜には本当に悪いと思う。

 それに比例するように、ハンスに対しての執着が強くなった。

 最初は、ふとした事でなんとなく彼の顔が思い浮かぶ程度だったんだけど、気がついたら彼の全てが欲しくなっていた。願う事ならば、彼の肉体全てを自分の体内の一部にしてもいいとさえ、今では思うようになった。

 

 

 

「それより、このチキン南蛮にも、魔法をかけてあるんでしょうね?」

 

 

 

 そんな事は顔には出さず、あくまで淡々と訊ねる。ハンスは苦笑しながら「勿論です」と答えると、慣れた手つきでワゴンからお皿を運んでいく。今日のメニューは、バターを塗ったパンと、タコのカルパッチョだ。

 

 

 

「いっただっきまーす」

 

 

 

 準備が終わると、私は意気揚々と手を合わせ、カルパッチョに手をつける。

 

 

 

「ん〜! 美味しい! タコのコリコリとした食感にドレッシングが絡み合って、とっても癖になりそう〜!」

 

 

 

「それは何よりでございます」

 

 

 

 と、ハンスは嬉しそうに目を細めた。

 

 

 

「ねぇ、どうしてハンスはこんなに美味しい料理を作れるの? なんか凄い調味料でも使ってるの?」

 

 

 

「うん? ……そうですねぇ……」

 

 

 

 少し悩んだ表情を浮かべると、それしかないと決意するように頷いた。

 

 

 

「大切な人が、私の料理を食べた時の笑顔を考えながら、それに応えられるように血が滲むような努力し続ける事……ですね」

 

 

 

 それが、私の料理の原点ですから。

 彼は本当に料理と、同時に食べる人の事を愛しているんだと思う。私達が美味しそうに彼の作った物を食べてる時は、いつだって嬉しそうに笑っていたのだから。ふとした事でその笑顔を見るたびに、私はどうしようもなく、彼を食べてしまいたくなるほど愛おしく感じてしまう。

 

 

 

「さて、私は皆様のお皿を片付けに行って参ります。ワゴンは部屋の外に置いておきますので、食べ終わったら乗せて外に出しておいて下さい」

 

 

 

「……ねぇ」

 

 

 

 ハンスが部屋を出て行こうとした時、私は彼を呼び止めた。

 

 

 

「はい?」

 

 

 

 ハンスが振り返ったところで、私はふと気になった事を彼に尋ねた。

 

 

 

「その怪我、どうしたの?」

 

 

 

 そう言って私は、左手を指差す。その指先には、新しい絆創膏が丁寧に巻いてあった。

 

 

 

「……調理している時に、不注意で少し切ってしまいまして。疲れているのかもしれません」

 

 

 

「ふぅん……」

 

 

 

「用がないようでしたら、私はこれで失礼致します」

 

 

 

 そう言って彼は、逃げるように部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 ハンスが運んだ料理を食べ終えた私は、何をするともなく、ベッドに腰掛けていた。あれほど食べられなかった咲夜のチキン南蛮も、一口でペロリと平らげる事が出来たし、お皿も全部ワゴンに運んじゃったから、後はハンスが来るまで待つだけだ。

 

 

 

「……つまんない」

 

 

 

 漏れた言葉が、部屋に溶けて消える。

 今までずっと部屋の中で過ごしてきたはずなのに、ハンスが来てからそれがつまらなく感じる事が多くなった。試しに好きな本を読んで見たけど、一向に頭に入らない。パズルを解いていても、ぬいぐるみや人形で遊んでいても、それを楽しいと感じる事がなくなった。

 

 

 

「……早く来てくれないかな」

 

 

 

 そう呟いて、ふとある事を思いついた。

 探検に出よう。部屋にいてつまらないなら、部屋の外で何か面白い事を見つければいい。近くにはパチュリーに小悪魔もいるし、外に出て美鈴の仕事を見学するのも楽しそうだ。

 思い立ったが吉日。私は念のため日傘を持って、部屋を飛び出した。

 久しぶりに食事以外で外に出た気がする。普段見慣れている景色が凄く新鮮に見えた気がした。全てが赤く塗られた壁も、窓も、全部初めて見るような目新しさに心が踊った。

 館のみんなは、私が外に出た事に驚いているみたい。パチュリーと小悪魔はハンスの料理を食べた時みたいな顔になってたし、普段滅多に感情を表に出さない咲夜も、微かに驚いた顔をしていた。他の使用人達も、おっかなびっくりな顔をする人、私を怖がって近づいて来ない人と様々。大体の人は私を受け入れていないようだったけど、色んな反応を見るのが楽しくて、少しいたずらして怖がらせたりもした。

 次は美鈴の所に行こうかな、なんて思っていた時、お姉様の部屋の前に差し掛かっている事に気がついた。この際だ。お姉様ともお話ししてみようかな。そう思ってドアに手を掛けようとして……中から聞こえた声に一瞬動きが止まった。

 そっと壁に耳を当てて聞くと、お姉様のイライラした声ともう一人、ハンスの声が聞こえた。小言を言われているのだろうと思ったけど、お姉様の小言はもう少し子供っぽい事を言うはずだ。ここまで怒るなんて滅多にない。

 

 

 

「……どう言うことかしら? 言ってる意味が私には分からないのだけど」

 

 

 

「……分かりました。それではもう一度ご説明します。私はフラン様の料理にだけ、私の血を混ぜて出しました。フラン様の話を聞いた時、人の血を混ぜていれば、フラン様でも食べられると思ったからです」

 

 

 

「道理で貴方の手が傷だらけ絆創膏だらけだったわけね。だけど、貴方分かっているの? とんでもない事をしでかしてくれたのよ?」

 

 

 

「それはもう。料理人が自分の作った物を汚すことなど、言語道断で──」

 

 

 

「違う! 貴方も分かっているのでしょう? ここ最近のフランの様子がおかしい事は!」

 

 

 

「……はい。私の料理以外の物を口にしないようになりました」

 

 

 

「ここ数百年、この現象を聞いた事がなかったから、私も御伽噺だと思って油断していたわ。だけど、もしこの話が本当ならあの子は……!」

 

 

 

「……黙っていた事に関しては、本当に申し訳ないと思っております」

 

 

 

「綺麗事なんていくらでも言えるわ。そんな安っぽい謝罪なんかいらない」

 

 

 

「……その通りです」

 

 

 

「もしかして貴方、こうなる事を予測していたのかしら? 貴方の正体は、実はもう殆ど居なくなったヴァンパイアハンター。それを隠しつつお得意の料理で私を籠絡し、フランの情報を得た後に紅魔館全員を味方につける。後は仮面を被りながら演技を続け、伝承通りにフランを殺そうとした……」

 

 

 

「それは違います! 私はただ、純粋にお屋敷の皆様の為に料理を作って参りました! この件だってそうです! フラン様のお心を少しでも軽くしようと私が考えたのです! 決して謀反を起こすような真似は……」

 

 

 

「それでも事は起こってしまった。それは覆す事が出来ない事実よ。貴方の腕は出会った時から認めているけど、これだけは見過ごす事は出来ないわ」

 

 

 

 貴方はクビよ。明日までに荷物をまとめて出て行きなさい。

 冷え切ったお姉様の声が、真っ直ぐに私の耳を通り抜けた。

 

 

 

「そんな……それじゃあフラン様はどうなるんですか!」

 

 

 

「幸い、症状はまだ初期の段階で留まっているわ。私が説得して納得させる」

 

 

 

「ですが私には……」

 

 

 

「何? 私の命令が聞けないのかしら?」

 

 

 

「……分かりました」

 

 

 

 壁越しからでも分かるほど落胆し、項垂れているハンスの声に、お姉様の「今までご苦労様」が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「フラン? ちょっといいかしら?」

 

 

 

 嫌な気分で部屋に戻ってから数時間後、聞きたくないあいつの声が聞こえてきた。どうせ嫌だって言っても勝手に入ってくるし、無愛想な声で「何?」と聞くと、貼り付けたような心配顔であいつが入ってきた。

 

 

 

「ハンスに持って行かせたご飯を食べたかなって思って様子を見に来たんだけど……よかった。ちゃんと食べてるじゃない。次からはあんな事言わずにしっかりと食べなさ──」

 

 

 

「用はなんなの? そんな話をしに来たんじゃないんでしょう?」

 

 

 

 お姉様は大事な話をする時、いつも大きく逸れた話を先にする。それを知っているから、わざと面倒臭そうな声色で尋ねた。

 

 

 

「……貴女に聞きたい事があるの」

 

 

 

 一瞬でしゅんとなったお姉様は、遠慮がちそうな演技をしながら話を切り出した。「嫌なら別に答えなくてもいいから」という前置きもして。

 

 

 

「貴女、最近何か変わった事はあるかしら? 誰かの血が無性に飲みたくなるとか、必要以上に特定の人を欲しくなったりとか、そう言った事はないかしら?」

 

 

 

「……何それ。どういう事?」

 

 

 

「ほら、貴女も色々変わったじゃない? 発作も治ったし、何より笑顔が増えた。それは私も喜ばしい事だけど、ハンスの料理以外は食べようとしないし、部屋に戻って篭ることは相変わらずだから、少し心配になって……」

 

 

 

「へぇ。だから私が一番慕ってるハンスを怪しんで、クビにするわけね」

 

 

 

 さらりと、言ってやった。お姉様の顔に、驚きと焦りの表情が浮かんだ。

 

 

 

「貴女、どうしてそれを……」

 

 

 

「館の中をぶらぶらしてたら、たまたま聞いちゃったの。今度からは誰も来ないように運命を操っておくのをお勧めするわ」

 

 

 

 皮肉交じりの物言いに、お姉様は悔しそうに歯噛みした。それに気づかないフリをしながら、私は更に言葉を突きつける。

 

 

 

「なんでハンスをクビにするの? 確かに何も言わなかったのは悪い事だけど、毒を盛られなかっただけマシでしょ?」

 

 

 

「そう言う問題じゃないの。このまま行ったら、フランは確実に死んじゃうのよ?」

 

 

 

「絶対に裏切ったりしないってハンスと約束したわ。彼は絶対に約束を守ってくれるって信じてる。それに、ハンスがいなくなるくらいなら、自分から死んだ方がマシよ」

 

 

 

 嘘じゃない。私にとって、ハンスはとっても大きな存在になった。彼がいたから私はここまで変わる事が出来た。これから先の克服すべき事も、ハンスがいれば乗り越えられる気がする。この心の拠り所がなくなれば、私は多分狂ってしまうだろう。そうなるくらいなら、自分から死んだ方がいい。その方が、お姉様にとっても、館のみんなにとっても一番いい選択のはずだ。

 だけど、私の言葉を聞いたお姉様は、驚きで大きく目を見開いた後、「ここまで症状が進んでいるなんて……」と意味不明な事を呟いて、厳しい顔つきで私に向き直った。

 

 

 

「フラン、冗談でもそんな事言わないで頂戴。私は貴女の為を思って言ってるのよ? どうしてそれが分からないの?」

 

 

 

 その物言いに、カチンと来た。私は思わず立ち上がって声を荒げた。

 

 

 

「分かってないのはそっちでしょ!? いつもいつも私達を振り回して! そのくせ自分は知らぬ存ぜぬで関係なさそうなフリを決め込んで! 発作で私が苦んでる時も、あの日の事があって嫌な噂が立った後も! お姉様は遠くから心配そうに見つめるだけで、声をかける事は一つもなかった! それで私の為を思って言ってる? 冗談は張りぼてのカリスマだけに──」

 

 

 

 パンッ! 

 頰に軽い衝撃が走り、私の顔は右を向いた。あまりのことに驚いて、震えながら頰を触る。尾をひくような痛みが、ゆっくりと広がっていった。

 

 

 

「さっきから黙って聞いていれば……分かってないのは貴女の方よ! 私がどれだけ貴女の事を考えてるか分からないの!?」

 

 

 

 いつの間にか、お姉様も同じように立ち上がっていて、ヒステリックに喚き立てていた。

 

 

 

「今まで一度だって、貴女の事を心配しない日はなかったわ。発作を少しでも和らげようと方々の医者を探し回ったし、パチェに頼んで精神安定のクリスタルもつけた! たった一人の大切な妹を守る為に、私はあらゆる手を尽くして来たわ! なのに! どうして貴女はそれが分からないの!? なんで分かろうと歩み寄ってくれないの!?」

 

 

 

 叫びながら、お姉様は何度も私を叩く。「なんで」と連呼しながら、その声がくぐもり始めてもなお、お姉様は手を休める事はなかった。その度に、私の心の中で、何かが音を立てて崩れ始める。お姉様のくぐもった声を一つ聞くたびに、お姉様の手が私の頰を叩くたびに、大切な何かが崩れて、崩れて、崩れていって……

 

 

 

「あああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 

 

 気付いた時には、お姉様の首を両手でギリギリと鷲掴みにしていた。

 

 

 

「あ……あが……か……」

 

 

 

 普段被ってる仮面が外れて、苦悶の表情がお姉様の顔に浮かぶ。苦しげなうめき声が微かに私の鼓膜をくすぐって、その音もまた、私の大切な何かをわずかながらに削り取っていく。

 鷲掴みにした手からは、お姉様の温かい血流がうめき声と一緒に伝わって来くる。それがなんだかうっとおしくなって、握る手に少し力を込めた。すると、何かが外れるような音がして、抵抗していたお姉様の手が力なく下に落ちた。手を離すと、お姉様の体はドサリと地面にへたり込んで動かなかった。

 あぁ、死んだのか。あの音は首が外れる音だったんだ。

 人ごとのようにそう思った。悲しいとかいう気持ちも、罪悪感も、ただの一片すら湧かなかった。だって、これで死んでしまったら、吸血鬼として生きていくことが出来ないだろうから。

 

 

 

「……かひゅう……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 パキンという軽い音と共に、苦しそうに息をしながら、お姉様はよろよろと立ち上がる。目には怒りで満たされていて、つま先に至るまでの全身の毛が、殺意で逆立っているように見えた。久しぶりに見るお姉様のこの姿に、私は思わず身じろぎしてしまった。

 その一瞬を、お姉様が見過ごすはずがなかった。目にも止まらぬ速さで鋭い爪を迷いなく私の喉元に突き立てようとした。

 咄嗟に後ろに避けたけど、バランスが崩れて尻餅をついた。瞬間、お姉様の足が私のお腹めがけて右足を振り上げる。なんとか臨戦態勢を整えた私は、飛んでくる足を受け止めると、思いっきり力を込めて折った。耳障りな嫌な音とともに、お姉様の顔が苦痛に歪む。

 今度は私が爪でお姉様のお腹を斬り裂こうとした。けど、お姉様はそれを読んでいたのように掴み、お返しと言わんばかりに無造作に捻った。指だけじゃなく、腕までもが一回し、至る所から折れた骨が突き出てくる。あまりの激痛に思わず悲鳴を上げた。それで容赦してくれるほどお姉様は甘くない。すぐさま首筋に噛み付いてきた。それに対抗するように、私も負けじと同じように噛み付き返す。

 ベックリンが描いたケンタウロスの戦いのように、私達は揉みくちゃになって戦った。戦いながら、何度も死んだ。心臓を握り潰され、頭を貫かれ、それでも私達は戦った。それが私達姉妹の喧嘩の仕方だった。いや、私達だけじゃなく、世界中に散らばった全ての吸血鬼達は、誰かが負けを認めるまで、きっとこんな風に、互いに本気の殺し合いを疲れ果ててなお、行うっているのかもしれない。

 だからこそ、なのだろう。夢中になって取っ組み合いを続けていたせいで、乱暴に開かれたドアの音も、驚いて私を呼ぶ叫び声さえも、私達の耳には届いていなかった。

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 揉み合いの末、お姉様は私を馬乗りにして、先程の私がやったように首筋に手を掛けていた。吸血鬼の闘争本能に汚染された目には情の一欠片もなく、目の前の敵を殲滅することにのみ関心が向けられている。

 お姉様の手に力が込められた。気道が塞がれて、酸素が十分肺に送られなくなってくる。息苦しくなって、力ずくでお姉様を押し退けようとしたけど、元々お姉様の方が力は強い。すぐに押し返されて、首への負荷が更に強くなった。

 その時、私の心はあの時と同じ恐怖に取り憑かれた。お姉様に同じ事をした時、さっきまでの殺し合いの時には感じていなかったのに、急にあの時のことがフラッシュバックされて、アドレナリンが消えて戦意が喪失した。死にたくない。嫌だって思いが本能的に湧いてきて、それが余計に恐怖心を助長させた。

 お姉様の手に、更に力が込められる。あとほんの少し押し込めば、その時点で首の骨は折れてしまうところまできて、私の顔から血の気が引いた。嫌だ、嫌だ、死にたくない。お姉様は本気で私を殺す気だ。早くここから抜け出さないと。

 しゃにむにになって抵抗した。腕も足もばたつかせて、必死になって抜け出そうとした。しかし、いくら足掻いても、いくらお姉様を押しても、キリストに打ち付けられた杭のように、お姉様の腕は、私の首ただ一点を押さえつけて離れない。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない死にたくない死にたくない……

 何かが弾ける音が聞こえた。遅れて液体がそこら中に飛び散るような音も聞こえてきた。お姉様の手が緩む。悪い夢を見ていた言った青い顔で私を見つめている。私だって、悪い夢だと信じたかった。だけど、私の目線の先にある人影を見たら、お姉様でもこれは現実だと理解せざるを得ないと思う。

 人影には頭がなかった。吹っ飛ばされた頭部の名残を残す首からは血が噴き出し、部屋の至る所を紅く染め上げている。誰かを助けるように差し出された手は、そこだけ時が止まったかの如く微動だにしていない。

 人形のみたいに固まったそれは、重力に従って後ろに倒れていった。開いたドアからロウソクの光が部屋に差し込んできて、倒れた死体を仄かに照らす。赤く染まったコックスーツが光の中に入った。

 

 

 

「は……ハンス……?」

 

 

 

 ドアの方を振り返って、お姉様は息を飲んだ。首のない人影は、その問いかけに応えることはなく、ただ体内の血液が流れる音だけが部屋の中で反響するのみだった。

 

 

 

「何やってるのよ……どうして貴方はここに来たのよ……そんなところで倒れてないで答えなさいよ! ねぇ! 起きて! 起きなさいよ!」

 

 

 

 完全に戦意が失せたお姉様は、私の事などそっちのけでハンスの亡骸に近づき、喚きながら体を揺すったり、腕から血を出して首の断面に垂らして再生を促そうとしている。けど、いくら吸血鬼の血を使ったって、首を吹き飛ばされて即死した人間を生き返らせる事は出来ない。

 その様子を、私はただ呆然と見つめていた。今まで起こっていたことが全て、劇の中の一幕か何かだと思ってしまった。

 最初は何が起こったか分からなかった。けど、固く握られた右手と、それを開いた時に見えた凄く小さな壊れた丸いものを見た時、妙に頭が冴えて、同時に何が大きく壊れたような音も聞こえた。

 そうか、私がハンスを壊したんだ。あの時、抜け出そうと必死にもがいていた時にはハンスが来ていて、伸ばした腕の先にハンスが居たんだ。それに気づかないで私が手を握った時には、もう彼の()は私の掌の中で……

 

 

 

「……アハ」

 

 

 

 その事を自覚し、咀嚼して細かく理解するたびに、壊れた何かが土砂崩れになって私の心を埋め尽くす。

 もうハンスはいない。私が壊してしまった。あの陽だまりみたいな笑顔も見れない。あの大きな背中に、あの逞しい腕に触れることも出来ない。私の能力のせいだ。愛しくて暖かい居場所を自分から無くしてしまった。私のせいだ。私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ……

 

 

 

「…………アハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…………」

 

 

 

 最後に砕けた心のカケラが、僅かに残っていた理性の隙間を完全に塞いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私は自分が嫌いだ。

 大それた能力(ちから)を持ちながら大切な妹をしっかり護れなかった事も、彼女の気持ちを無視して一人で行動していた事も、それが却って彼女に嫌な思いをさせていた事に気づかないでいた事も。

 叶うならば、過去に戻ってその時の自分を抹殺してやりたい。そう思う程、私は自分が嫌いになっていた。

 

 

 

「……パチェ、状況はどう?」

 

 

 

 図書館の扉を開いた私は、丁度詠唱を終えたパチュリーに声をかけた。彼女には、今回の計画を遂行するにあたるものを、私と共に発生させるという重要な役割を課している。

 

 

 

「問題ないわ。魔力の供給も安定化させたから、いつ発動してもいい状況よ」

 

 

 

 あれだけ大きな魔力を使ったにも関わらず、パチュリーは涼しい顔をしながら答えた。

 

 

 

「フランの方は……」

 

 

 

「念のため小悪魔に様子を見に行って貰ったわ。何かあったらクリスタルが壊れる筈だけど、今のところそれは起こってないし、多分寝てるから大丈夫よ。そっちは?」

 

 

 

「美鈴も咲夜も、所定の位置につかせたわ。こっちも準備は万端よ」

 

 

 

「『妹様を救うなら、こんな事は造作もない事です』って、二人とも張り切っていたものね」

 

 

 

 労うようなパチェの声色に、不覚にも涙が溢れそうになった。

 

 

 

「あの子達には本当に迷惑をかけてばかりだから、何処かで休暇を取らせた方がいいかもしれないわ……貴女もそうね。ごめんなさい。いくら親友でも、今までの事に加えてこんな大変な仕事を一手に引き受けさせてしまって。本当に申し訳ない気持ちで一杯よ」

 

 

 

 そう言って深く頭を下げると、パチェは笑いながら手を振ってそれを打ち消した。

 

 

 

「いいわよそんな事。貴女が、あの時からフランの事を第一に考えているって事は、美鈴も咲夜も、みんな分かってる事じゃない」

 

 

 

 私がフランの事を守ろうと考えたのは、あの事件が起こってからだった。

 あの時、執事に襲われた時のフランは酷く怯えていた。一番信頼していた人に裏切られたのもそうだが、突然に発現した自分の能力と、それが人を殺めてしまった事にショックを受けた事が一番大きかったようだ。あの出来事はまさにイレギュラーであり、予測のしようがなかったから、対応に追われるばかりでフランの心をケアする余裕なんてなかった。

 それが原因なのだろう。発作はすぐに発症し、私の事を責め立てるようになった。私は自分がした事を深く後悔し、これからはフランの事を一番に考えて行動しようと運命に誓った。

 しかし、動き出しが遅すぎたせいで、彼女の傷は引き返せないほど手遅れになっていた。来客に怯えるのではないかと部屋に戻しても、咲夜や美鈴を含めた、かつて雇っていた使用人達に言動には気をつけるように言っても、年月が経つごとに現れる稀代の名医とやらに見せても、パチェに頼んで治療ついでに精神安定のクリスタルを羽につけても、一向に治る気配はなく、それが却って彼女の心にどんどん傷を増やしていた事に繋がっていた。後からそれに気づいた時には、今まで見えていた、従っていた運命は間違いだったのかと膝から崩れ落ちそうになった。

 ハンスと出会ったのは、咲夜が紅魔館に入ってから数年後の事だった。行き倒れていた彼を助けた時、微かながら希望のような運命が見えた。初めはうっすらとしか見えなかったその運命は、彼の料理を食べた時にはっきりとしたビジョンを持って私の目に飛び込んできた。彼なら、きっとフランを救う事ができる。そう確信して彼を雇い入れた。

 実際、ハンスは私の期待以上の仕事をしてくれた。フランの顔に笑顔が戻ったし、美鈴や咲夜、パチェの健康や仕事のパフォーマンスにも良い影響を与え、前以上に紅魔館は活気付くようになった。私自身も、書類仕事や交渉ごとが劇的にやりやすくなり、早い段階で仕事を片付ける事も多くなっていた。あの時程体が軽かった記憶はないと思うくらい、ハンスの料理には力があった。

 このままフランが治ってくれればいいと思った矢先、私の目に最悪の運命が映された。

 現れた運命は二つ。フランが死ぬ運命と、フランが狂気に沈んでしまう運命。どう転んでも絶望しかない未来に、私は思わずパニックになった。

 一体なぜ? ハンスが来てからはフランも発作を起こしていないし、館全体が活気に満ちている。どうして今になってこんな運命が映されたのだろう? 

 その答えは、フランとハンスの様子を見ていて思い出されたある事によって氷解した。

 私達吸血鬼には、ある一つの禁忌がある。それは、人間に恋をするという事だ。もし人間に恋をしてしまった場合、その人の血しか欲することが出来なくなる。その衝動は日に日に強くなっていき、最終的には相手の血を吸い尽くして殺してしまうのだ。しかも、一旦この体質になってしまったら治す事は不可能で、後はもう餓死を待つしかなくなってしまう。仮に相手を吸血鬼化させたとしても、同族の血は猛毒であり、とても飲めたものじゃない。せめて出会った時に、ハンスを吸血鬼化させておくべきだったと今になって悔やんだ。

 フランが死ぬ運命を選べば、私の肉親はもういなくなる。逆にフランが狂気に沈む運命を選べば、彼女に深い傷を負わせてしまう。どちらを取ってもマイナスにしかならない状況。私は頭を抱えて悩んだ。悩んだ末に、私は後者を選んでしまった。たった一人の家族を失いたくはなかったし、生きてさえいれば何かしらの対策が打てるかもしれないという、私の身勝手で打算的な理由からだった。

 今にして思えば、フランの思い通りに選ばせてあげれば良かったのかも分からない。それほどまでに彼を恋しいと思うのならば、いっそその運命を辿らせてあげても良かったのかもしれない。だけど、あの時フランの口から出た言葉を聞いた時、私はそう思う事が出来なかった。ただ一点、裏切られたという思いしか湧き上がってこなかった。

 結果として、私が選んだ運命は、一番最悪な形でやって来てしまった。フラン自身がハンスを殺し、それによってフランは狂気の底深くに身を沈める事となった。情緒は不安定になり、新たに生じた破壊衝動が抑えられなくなって、遂には壊しても復活する魔法の檻を作って地下室に閉じ込めざるを得なかった。

 一度だって悔やまない日はなかった。自分が選んだ運命とはいえ、これ程までに酷いものは初めてだった。自己嫌悪と罪悪感でいっぱいになって、私も狂気に沈んでしまいそうだった。

 

 

 

「ねぇ、私を少し助けてくれないかしら?」

 

 

 

 そんな時に現れたスキマの依頼に、私は藁にもすがる思いで飛びついた。

 幻想郷という場所に行けば、何かが変わる。そう確信した。自分の力量に見合わない能力(運命を操る程度の能力)を持っていながら、私自身が間違った運命に翻弄され続けて来たけど、次はそうはいかない。今度は私の方が運命を従えて、必ずフランを救ってみせる。

 

 

 

「……私も準備出来たわ。そろそろ始めるわよ」

 

 

 

「分かったわ。それじゃあ、この魔法陣の中央に立って頂戴。合言葉を言えば発動するから」

 

 

 

 パチェに促され、私は魔法陣の中央に立って深く息を吸う。ハンスとフランへの贖罪の念が、急に胸の中に溢れて来た。

 ……ごめんなさい、ハンス、フラン。私が未熟なばっかりに、貴方達にとても酷いことをしてしまった。これで許して貰えるなんて思ってないけど、どうかこんな主人に、姉に、少しだけでいいから力を貸して下さい。

 

 

 

「……我が分身である紅い霧よ、幻想郷を覆い尽くし、我らが紅魔館に良き運命をもたらしたまえ」

 

 

 

 紅魔館を覆うように、真っ紅な霧が立ち込めた。

 

 

 




どうもこんばんは。焼き鯖とかいう青魚でございます。

まずは一言。遅れて申し訳ありませんでしたああああああああああ!

バイトを始めたりテストが近かったりとバッタバタで、あまり時間を割く事が出来ませんでした……

次はもう少し早目に投稿します(フラグ)これからも遅くなってしまいますが、見捨てないで頂ければ幸いです。

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