東方悲恋録〜hopeless&unrequited love〜 作:焼き鯖
単なる協力関係だ。
その時のあたいはそう考えていた。
あいつが何者かは分からないが、少なくとも幽霊か人間で、あたいは死神。よくて友達になれる程度の関係で、それ以上でもそれ以下でもない。何より幽霊と分かれば即日ででも彼岸に連れて行くんだ。仲良くなれるはずがない。いや、仲良くなっちゃいけない関係なんだ。
それなのに
「こんにちは小町さん。その……結果はどうでしたか?」
どうしてこいつの笑顔を見ると顔が熱くなるのだろう? どうしてこいつの声を聞くたびに胸が大きく高鳴るのだろう?
「ダメだね。相変わらず四季様の手帳にも載ってないし、事務課の連中は頭固いしで全然進んでないんだよ」
赤くなった顔を隠すように、首を横に振りながらそう報告すると、エータも残念そうに首を振った。
「そうですか……僕も何度も思い出そうとしてはいるんですが、どうにも頭の中に靄がかかったような感覚がして、中々思い出す事が出来ません」
「今回も空振りか……これで三ヶ月近く収穫なしってことになるねぇ」
残念そうに呟くあたいを見て、エータは申し訳なさそうに身を縮ませた。あぁ、もう。そんな顔、あたいに見せないでおくれよ。あんたは笑ってる位が丁度いいって、前に言ったじゃないか。
「ほら、何しみったれた顔してるんだい。早く私の絵を描いておくれよ。まだ一枚も完成してないじゃないか」
ハッパをかけるように手を叩きながら言うと、エータはハッとした表情を浮かべた後、すぐに元の笑顔に戻った。
「そうでしたね。僕は小町さんへのお礼をまだ果たしてませんものね。それでは、あそこの岩に座ってください。あっ! 小町さんが楽だと思う格好でいいですからね!?」
あたいが買ってきたキャンバスをイーゼルにセットしながら、慌てて付け足すエータ。あの一件があって以来、エータは私に気を使うようになり、あたいを描く時は決まってこの言葉をかけるようになった。
「はいはい。分かってるよ。今日こそは絵を完成させてくれよ?」
「うっ……はい、善処します……」
からかうように言うと、エータは若干渋い顔になったが、すぐに真剣そうな面持ちでキャンバスに線を引き始めた。
……正直に言うと、絵を描いている時のあいつは本当にカッコよかった。普段はあんなにおどおどしてるのに、この時だけは別人なんだ。濁った灰色の黒目に生気が宿り、青白い顔が生き生きとして、もう絵を描く事が楽しいって感じ。多分こいつがもし幽霊だったら、あたいはその手腕を笑いながら惜しんでいただろうし、生きていたら人里での活躍を肴にしながら話に花を咲かせていたと思う。
それに加えて、あの真剣な顔つきからは想像もつかない程の柔らかな笑顔。最初こそ何も思わなかったけど、何度も何度も顔を見合わせ、他愛のない話をするうちに、いつしかあの笑顔の魅力に取り憑かれてしまっていた。
「……どうしたんです? そんなにうっとりとした表情をしろ、なんて僕は言ってませんよ」
無機質な声でエータは冷たく言い放ち、慌ててあたいは元の表情に戻す。相変わらず、この自分本位な性格は改善されていない。寧ろ少しだけ酷くなってる気がする。それが絵を描いている時にしか出ないからまだ救いだけど、これが普段の会話の中でも顕著だったら、こいつが生きてようが死んでようが御構い無しに彼岸に直行していたと思う。
いつの間にか、エータの口には見慣れた絵筆がいくつか咥えられており、素早く灰色の油絵の具がついた筆と新品の筆を交換しながら、赤い絵の具を筆先に付け、鮮やかな手つきでキャンバスに色をのせている。痩せて骨ばった弱々しい腕からは想像もつかない力強さは、いつも私を魅了させる。かっこいいだけじゃない。その時のあいつはとても美しいんだ。
そのうちエータは難しい顔をするようになり、筆を動かしては首を傾げるようになった。これも三ヶ月近く見て分かった事だが、この仕草をする時は決まって何処か納得がいかない箇所があり、制作に難航している証拠だ。
それを裏付けるように、エータは頭を掻きながら持っていた筆を下ろし、盛大に溜息をついた。
「……今日もダメかい?」
諦めるように問いかけると、エータは強く首を横に振った。
「……いいえ。このまま完成まで描き進めます。もう少しポーズをとっていて下さい」
驚いた。いつもならここで「そうですね。もう無理です」と、申し訳なさそうに筆を置くのに。
大きく伸びをしたエータは、再び真剣な顔つきに戻り、ダイナミックに筆を動かしながらキャンバスに色を付けていく。鬼気迫る勢いというのはこう言う事かと内心納得したが、それ以上に集中力の塊と化したあいつの迫力に圧倒され、口を開くことが出来なかった。
この時のエータの姿は今でもはっきり覚えている。残った力を込めるように歯を食いしばり、筆を動かすその姿は、まるであいつの周りだけ地獄の炎が静かに巻き起こっていて、それを振り払ってるんじゃないかって思うくらいに凄まじかったんだ。
その表情のまま、エータは何度も何度もキャンバスに筆を走らせては絵の具を筆先に馴染ませていく。激しく筆を動かすたびに溶けた絵の具が周りに飛び散り、足元にある彼岸花やあいつの顔をカラフルに汚していく。
最後の一振りを叩きつけるように走らせた彼は、そのままだらんと項垂れて、肩で大きく息をしながら、
「……出来ました」
と言い、フラフラな状態のままイーゼルからキャンバスを外してあたいのところへ持ってきた。
「……すごい……」
言葉が出なかった。
絵の中のあたいは本当に綺麗で、惹きつけられるような魅力に満ち満ちていた。均整が取れた体に釣り合う陶器みたいに透き通った白い肌は、この世の物とは思えないほど光り輝いていて、けど決してそれ自体が独立して一人歩きせず、あくまでも現実に実在すると思わさせるような雰囲気も醸し出していて、少しでも色を加えようものなら一瞬にして別物に変わってしまうほどに繊細なバランスで成り立っている。
顔つきも見事なものだった。微笑みを浮かべて此方を見るあたいの顔は驚く程精密に描かれていて、特に印象的なのは見るものに何かを問いかけるような赤い目。なのにきつく刺すような視線では全くなくて、いわゆる母親が子供を見るような、温かくて優しい光で溢れていた。
一番驚いたのが色彩の絶妙なバランス感覚だ。うねるようなタッチで遠くまで激しく描かれた灰色の空は、それだけだと不安を濃く強く煽らせてしまうほどに不気味な存在で、並みの色ではかき消せない位異様だったが、厚く塗り重ねられた制服の白と青、鮮やかに咲き乱れる彼岸花と、それより少しだけ色が淡いあたいの髪の赤が暗い空模様よりもくっきりと描かれていて、さらによく見て見ると元凶であるその空の色も少し灰色が薄く、強すぎる明るい色を最大限まで弱くしてバランスを保っている。
やっぱりエータは天才だった。神様は絵が好きなこの青年に然るべき才能を与えてくれたかと思うと、無性に感謝したくなってきた。同時にとても恨めしく感じた。
「気に入って……くれましたか?」
「気にいるも何も! こんなに素敵な絵を描いて貰って気に入らないなんて言う方がおかしいさね! ありがとう! お前は天才だよエータ!」
食い気味に飛び出たあたいの答えに、エータは満足そうな笑顔で「それなら良かったです」と言った。あぁ、やっぱりあんたの笑顔は最高だよ。願うならずっと見ていたい。
「それじゃあ、この調子で二枚目も描きあげちゃいましょう! 今から準備するので、その間に小町さんは休憩していて……」
でも、ダメだ。これ以上ダラダラとこんな事を続けていたら四季様に怒られちまう。何よりあたいの方が離れられなくなりそうだ。
「なぁ」
鼻歌を歌いながら絵の具をパレットにのせるエータに「話があるんだ」と声をかけた。
「どうしたんですか? まさか休憩をもう少し伸ばして欲しいって言うんじゃないでしょうね? 申し訳ありませんが、今のこの状況を保たないと今まで溜まった貴女へのお礼が返せないんです。ですのできついとは思いますが、僕としてはこのまま止まらないで描いていきたい──」
「あたいはさ」
あたいの気持ちを知ってか知らずか、近づきながら矢継ぎ早に喋り始めたエータの話をぶった切ってあたいは話始めた。普段の調子と違う事が分かったエータは、そのまま口を閉じ、あたいの言葉を待っている。
「この三ヶ月の間、是非曲直庁中を走り回ってお前さんの事を調査してきたけど、今日のこの日までなんの情報も得ることが出来なかったって、ずーっと言い続けてきた」
「……そう、ですね。僕自身も、何度も何度も自分自身の事について考えたり、思い出そうと努力してきました。まぁ誰からも情報が貰えないから、結局徒労に終わる事になりましたけど」
自嘲気味に吐き出されたエータの言葉は、あたいの心を強く締め付ける。同時に言いたくないという思いが強くなった。けど、言わなきゃいけない。言わないと終わらせる事が出来ない。
「あたいはさ、本当はずるいんだよ。凄い自分勝手なんだ。仕事が終われば他の奴らの事なんか知らず存ぜずで昼寝するし、こっそり庁内を抜け出してサボることなんてしょっちゅうだし、あんたの描く絵が見たいからって理由で何日も何週間もホントの事言わないで黙ってるし。あんたにあたいがどんな風に映ってるかはわからないけどさ、あたいはそんな奴なんだよ」
エータの顔つきが変わる。驚いたような、あたいに何かを言いたげな顔だった。それを無視してあたいは話し続ける。
「今日だってそうさ。このまま黙ってればもっとあんたの絵が見れる。もっと絵が貰えて仲間の死神に自慢出来る。だから言いたくなかった。でも、言わなきゃダメなんだ。そうしなけりゃ誰も前には進めないんだよ」
そうは思わないかい?
「きりゅう……くり……と……?」
「そう。それがあんたの本当の名前さ」
エータは、最初こそ反芻するように自分の名前を呟くだけだった。が、
「あ……あ……? ……っ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! そうだ! 思い出した! 僕は! 僕はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
あたいの言葉をきっかけに全てを思い出したらしい。頭を抱え、発狂しながらその場にうずくまってしまった。
崩れ落ちるエータを見ながら、あたいは妙に冷静な頭でこう思った。
これでもう、後戻りは出来なくなったと。
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きっかけは、あたいとエータが出会ってから一ヶ月後、エータが筆を置いた後恒例の何気ない会話からだった。
「そういえば、小町さんは好きな人っているんですか?」
「んぶ……!? いきなりそんな事聞かないでくれよ。びっくりしちゃったじゃないかい」
たまたま飲んでいたお茶を吹き出しそうになるのをこらえ、ゆっくりと飲み込んでからエータを睨みつける。エータはすぐに「ごめんなさい」と謝って下を向いた。
「いないよ。死神の仕事は暇じゃないんだ。出会いなんてろくにないのが現状さね」
ぶっきらぼうにそう答えると、エータは遠慮がちに「そう……ですか」と返した。
「珍しいじゃないか。エータの口から色恋の話が出るなんてさ。どういう風の吹きまわしだい?」
微妙になった空気を変えるために質問すると、あいつは少し恥ずかしそうな顔で訥々と語り始めた。
「その……小町さんもやっぱり女性ですから。職場にも男の死神さんはいるだろうし、これだけ綺麗な顔つきなので、小町さんと同じくらいかっこいい人に恋してるんじゃないかな〜なんて思っただけです……本当にごめんなさい……」
ぼそぼそと喋る口から出る褒め言葉の数々に、あたいの顔は茹でられたタコみたいになった。こんなのただの社交辞令だろ。なんで間に受けて恥ずかしくなるのさ。
「そ、そうかい。そんなに褒められても何も出やしないよ。嬉しいには嬉しいけどさ」
「そんな事はありません! 小町さんは綺麗です! 僕は本気で言っているんです!」
射抜くように真っ直ぐな瞳が、あたいの顔を貫いていく。その目で見つめられては、あたいは何も言えなくなってしまって、ただただ黙って俯くしか取れる方法がなくなってしまう。
「……無茶を承知で聞くけどさ、あんたにはそう言う人がいたのかい?」
俯いたままそう質問すると、彼は残念そうにこう答えた。
「残念ながら分からないです。僕の事を好いてくれる人がいる事も、逆に僕が好いた人がいる事も、全部が忘却の彼方に消えていますから。ですが、一つだけ思った事があります」
「思った事?」
「はい。仮に僕の事を好いてくれる人がいたとして、もし僕が死んでいるのならどんなに悲しんでいるんだろうか? もしくは僕が生きているのならば今頃幻想郷中を探し回っているのではないか? そんな事を考えるようになりました」
「ふーん……」
一瞬、聞き流そうとしたあたいだったが、突然稲妻のような衝撃が脳髄から駆け巡り、ある一つの天啓が舞い降りた。
そうだ。今までエータの事について
エータとの雑談を終えたあたいは、早速受け取り担当の死神の元へ赴き、「大至急、ここ一ヶ月で彼岸に運ばれた死人のリストを作ってくれ!」と猛烈な勢いで頭を下げた。いきなりの事だったから断られるだろうと予測しての駄目元な行動だったけど、その死神は一瞬だけキョトンとした顔になった後、全てを察した声で「任せろ。三日待っててくれ」と言って、本当に三日で作ってくれた。徹夜漬けだったのか、会った時のそいつの顔に大きなクマが出来ていたから、感謝の意を込めてその日の昼飯を奢ってあげた。
そのリストを持って次に行ったのは、あたいが散々エータに悪口を言っていた事務課だった。受付担当の死神の前にリストを置いて一言。
「このリストに書かれた人達の情報を知りたいんだ! 最悪生前の情報だけでもいい! 頼む!」
と言った。
いつもなら機械仕掛けに断るはずが、今回ばかりは上手く対応してくれた。
いきなりの事に目を白黒させる受付担当だったが、すぐに「分かりました」と言い、今月分のファイルからリストに書かれた死人をピックアップし、簡単にクリップして纏めてくれた。「返却期限は厳守ですよ」と釘を刺されたのには参ったが、まぁそれはご愛嬌というものだろう。そこからあたいは死人の家族友達恋人なんかを徹底的に洗い流し、交友関係で共通点があった名前を数の多い順に順番付けていった。
……自分にも出来そうって顔してるけど、これが結構大変だったんだ。こういうのは数を合わせなきゃいけないから正確に数えなきゃいけないし、死人の数は膨大だから、手作業でやるととてつもない集中力と根気と労力が必要になってくる。加えて本来の業務にエータへの報告もあって、この時はろくに昼寝すら出来なかったね。この頃のエータに「僕よりも顔色悪いですけど大丈夫ですか?」なんて言われるくらいだから相当きついと思う。
かかった日数は実に三週間。休む間も無くこの期間の死人も含めて絞った名前を纏め、再び事務課へ赴き、もう一度同じ事を頼んだ。
数十枚の死人の情報を舐め回すように見聞していった末、ついにエータの……桐生栗斗の名前を発見した。嬉しさのあまりその場で飛び上がっちまって、受付含めた周りの奴らに白い目で見られたけどね。
だけど、仕事場に戻ってじっくりと見てみると、栗斗の人生は、あたいにとって目を疑うほど酷いものだった。
桐生栗斗。年齢二十五歳。飴細工師の家の長男として産まれた彼は、両親の愛情を沢山受けて育っていった。幼い頃から絵の才能はあったようで、十八歳になる頃には里の中で知らないものはないと言われるくらいの芸術家として名を馳せていた。
しかし、代償として性格が悪くなり、傲慢で不遜。画家として独り立ちしてからは、急に人の絵を描く予定をいれてモデルを困らせることはしょっちゅうで、多数の人間に金の無心をしていたらしい。周囲の人間は改めるように言っていたが、「才能のない人間の嫉妬」という理由で聞く気なんてさらさらなかったようだ。
当然のように絵を依頼する者は減り、それと比例するように彼は酒に溺れた。それでも絵の才能を無駄にしないために、狂ったように絵を描き続けていった。その結果、自分自身に対しても厳しくなり、自分が納得いかない作品は価値がないという考えが出来上がっていった。初めて絵筆を置いた時の言動はここから来ているのかと少し納得した。
そこからまた数年経ったある日、何を思ったか彼は弟の娘……つまり姪を殺してしまい、三年間投獄される。出所した時にはもう、天才と呼ばれた彼の面影はなかった。周囲には「堕ちた神童」「狂気に染まった画家」と揶揄され、身も心もやつれ果てた栗斗はついに大量の毒キノコを食べて自殺した……しかし、毒が弱かったのか完全に死に切れる事は出来ず、現在は植物状態で療養中だという。
成る程。植物状態なら全てにおいて納得ができる。何処ぞの半人前と同じように半死半生な状態だから、霊感がないのにあたいが見えて会話ができるし、死神の目を通して見ても寿命が見えたのか。
道理で四季様の帳簿には載ってないわけだ。あの帳簿は、あくまでもこれから裁かれる死者の事しか書かれていない。エータの記憶喪失があったとはいえ、四季様や受け渡し担当の死神だけの情報では絶対に分かることはなかったと思う。
ともあれ、これであいつの正体が分かった。後は報告してあいつに今後の事を決めて貰おう。あたいの非日常はこれで終わりだ。やっと昼寝が出来るいつもの日常に戻れる……はずなのに。
「……なんだい、この胸に残りそうなしこりみたいな感じは」
ちくちくとむず痒い感情が、心の隅からどんどん広がってあたいの心をかき乱す。これをあいつに言ってしまったら、もう会う事もなくなるだろう。いや、あいつが生き返る事を選んだらまたもう一度会えるけど、気軽に会いに行ける事はこの先ないと言ってもいい。何よりこれを報告したらあいつはどうなる? 最悪これまでの事を全て忘れるかもしれない。
それは嫌だ。そうなった時のあいつの姿なんて見たくない。何よりあたいはもっとあいつと一緒にいたい。何故かは分からないけど、もう少しエータの笑顔を見ていたい。
「……少しずつ、少しずつでいいから伝えていくとするかねぇ……」
本当にあたいはずるいと思う。自分の為だけに本当の事を隠すんだから。
結局、そう決めてから二ヶ月の間、一度だってこの事を口に出す事はなかった。
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今日の彼岸は、エータの絵に描かれている通り、うねるような曇り空だった。庁内にある天気予報図では雨の予報は出ていなかったから、絵の具が溶けて折角の絵が台無しになるなんて事は多分ないと思う。多分、あの時の空模様は当時のあたいの心をそのまま具現化していたんだと今になって感じる。
「……落ち着いたかい?」
叫び終え、しゃがみこんだまま肩で大きく息をするエータにあたいは声をかける。自分でもびっくりするくらい感情の篭っていない声。あたいの豹変っぷりに一番驚いていたのは、他でもないあたい自身だった。
「……えぇ。おかげさまで全部思い出す事が出来ましたよ」
皮肉交じりにエータは答えた。言葉尻には若干ながら怒りが滲んでいる。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか。仮に言いにくかったとしても、それとなく伝えてくれればよかったじゃないですか。なのにどうしてこんな間の悪い時に……」
続けて放たれる責めるような声。初めて聞くあいつの怒りが篭った声に、あたいの胸はどんどん締め付けられていく。
「……言ったろ? あたいはずるいんだよ。あんたの描いた絵を見が見られればそれでいいんだ」
あんたがどうなろうが知ったこっちゃない。
敢えて突き放すように答え、あたいは顔をそらすように三途の川の方へ体を向ける。こうでもしなきゃ、あたいの胸は罪悪感で潰されてしまいそうだからね。
「一つ、聞きたい事があるんだ」
「……なんでしょう?」
「あんたと出会う前、一人の女の子を彼岸に連れて行ったんだ」
あたいはその時の事を思い出す。よく考えてみれば、答えは初めから近くにあったわけだ。灯台下暗しとはまさにこの事。
「調べて見てびっくりしたよ。あの子がエータの……桐生栗斗の姪だったなんてね。どうしてあの子を殺したんだい? 仮にも可愛い姪っ子だろ?」
何より、あんたが人を殺せる度胸があるとは思えないし、そこまでする程悪人じゃないと思うから。
「……はは。流石死神。全てお見通しってわけですか」
皮肉交じりに答えた後、彼は立ち上がって訥々と語り始めた。
「当時の僕は孤独でした。驕り高ぶった性格が災いして、頼りになる友人も、心の拠り所となる家族も、全て失った状態でした。だけど理恵は……僕の姪だけは違いました。子供だからという事もあったかもしれませんが、あの子は僕によく懐き、僕自身も我が子のように可愛がりました」
まぁ、妹は僕のところに行っちゃいけないって姪の事を叱ってましたけどね。とエータは自嘲気味に笑った。
「あの日の事は、今ならはっきりと思い出せます。あの日、僕は魔法の森で採ったキノコをスケッチするつもりでした。僕の家は狭いので、いつも居間の机に物を置いて描いているんです。さぁ描き始めようと思った時、あの子が訪ねて来たんです。何も言わずに席を立ったのがいけませんでした。お茶を淹れて戻って来た時、姪は青い顔をしながら倒れていました。すぐに病院に駆け込みましたが手遅れでした。どうやら採ってきたキノコの中に致死毒キノコが入っていたらしく、姪はそれを齧ってしまったようです。周囲は僕を責めました。口減らしのチャンスだと思ったのでしょう。有る事無い事自警団に吹き込み、僕を姪殺しの犯人に仕立て上げ、死刑にしようとしました。結局は懲役程度で済みましたが、あの人達の目論見は成功しましたね。散々自己嫌悪に陥った挙句、採ってきたキノコを食べて自殺しました」
「……そうかい。残念だけど、あんたはまだ死んじゃいないよ」
「……え?」
あたいはもう一度エータの方へ向き直り、今エータが置かれている状況を話した。
「植物……状態……」
「そう。言ってみれば半死半生。生き返る事も死ぬ事も出来る状態なんだ。選択はあんたの自由……なんだけど」
言うべきか迷った。言ったら今度こそあいつは遠くへ行ってしまうから。けど、
「あたいは、あんたに生き返って欲しいと思う」
面と向かってあたいは言った。当のエータは驚きで目を見開いたままだったが、すぐに気を取り戻し、首を横に振った。
「……嫌ですよ。どうしてまた辛い思いを味合わなくちゃならないんですか。それに、小町さんの話では、もう父も母もいないのでしょう? もう僕の居場所なんて何処にも……」
「何弱気な事を言ってるんだい。生き返ってから作ればいいじゃないか。あんたの絵ならたくさんの人を魅了出来る。そりゃあ最初はきついかもしれないけど、諦めなければ絶対に立ち直れるよ。あんたなら出来るってあたいは信じてるよ」
さっきと同じくハッパをかけるように言うと、エータの顔に活気が戻った。
「そう……ですね。なんだか勇気が湧いてきました。やっぱり小町さんは凄いです。僕、頑張ってみようと思います。落ち着いたらまた連絡しますから、その時はまた会いに来てください」
にこやかに言うエータだったが、あたいの憂かない表情に気づくとすぐに「どうしましたか?」と尋ねてきた。
「……悪いんだけど、あたいはもう二度とあんたに会えることは出来そうにないよ」
「え……どうしてですか? あ、仕事が忙しいとか、そういうことですか? 大丈夫です。僕はいつでも待ってますから小町さんが都合のいい時で──」
「違う。そんなんじゃない。あたいら死神が勝手に人里に行くことは禁止されてるんだ」
そう。長い事引っ張って来たけど、これがもう一つの理由なんだ。
彼岸にはいくつかの暗黙のルールがある。今はそれ程でもないけど、当時はこれを破ったら出世は絶望的だと言われるくらい厳しいもので、現に何人もの死神が出向したり、左遷されたりと悲惨な運命を辿ったのを何度も見て来たもんだよ。
その中でも特に重かったのがこのルールだ。なんでも里に死神が出入りすると、お迎えが来ただの里が滅びるだのと変な噂がたって仕事がやりづらくなるらしい。それを防ぐ為、別部署の死神は勿論、担当する死神ですら仕事以外では人里の出入りは禁止されていた。いくら生きてる奴らに見えない術を施しているとはいえ、万が一見つかってしまったら余計な面倒を起こしかねないという上の意向らしい。
それを聞いたエータは意外な事を口走った。
「そんな……それだったら死んで彼岸に連れて行ってもらった方がまだマシです」
急な手のひら返しにあたいは驚いた。言った事は頑として曲げないエータにしては珍しい。
「どうしてだい? 急に考えを変えるなんてあんたらしくないじゃないか。何か理由があるのかい?」
「どうしてって……そんなの、決まってるじゃないですか」
貴女がそばにいないのが嫌なんです。僕は、貴女がずっと隣に居て欲しいと思っているんです。
「……は?」
あまりに唐突な事に、理解が追いつかなかった。この時程あたいは間抜けな顔をしていなかったと思う。
「……僕は、僕は貴女が好きなんです。貴女の底抜けに明るい性格に僕は救われました。貴女に励まされるたびに、貴女の笑顔を見るたびに、僕の胸は大きく高鳴りました。小町さんがいなければ今の僕はいなかったと思うくらいです」
──あぁ。そういうことか。
必死に自分の想いを伝えるエータを見ているうちに、あたいの中にあるもやもやとした疑問がどんどん氷解していった。同時に隠されていた自分の気持ちも現れていく。
出来ることなら伝えたい。そうすれば楽になるだろう。きっとあいつは笑顔になって、それならいつでも待ってますから、絶対に来てくださいなんて言うんだろう。そしたらあたいも笑顔になって、出来もしない約束事を交わすのだろう。
だから、
「あたいはあんたの事、嫌いだねぇ」
ずるいあたいは、あっけらかんとした笑顔で嘘をついた。
「この三ヶ月、あたいはどれだけあんたに振り回されたと思ってるんだい? あんたの為に寝ないで情報を集めたり、あんたの為に何回もキャンバスを買いに行ったり。それに対してあんたはお礼はおろか、それがさも当然のように振舞ってたじゃないか。それだけならまだしも、時折あたいに無茶な事言ったり横暴な態度を見せたりして、もううんざりだったんだよ」
嘘をつくたびに、心の中で何かが崩れていく音が聞こえる。エータのショックを受けた表情を見るたびに、あたいの目尻に熱くて苦いものが込み上げてくる。それらを無視して、あたいは退路を断ち切るように嘘をつき続けた。
エータが何かを言いかけたが、先制してくるりと踵を返し、停めてある船に向かいながら別れの言葉を口にした。
「明日までにはここから消えていろ。回れ右して声のする方へひたすら歩けば生き返るから、振り返らずに歩きな。報酬の事なら気にしなくていい。あの一枚だけで十分さね。それ以前に、あたいはあんたを彼岸に連れて行きたくはない。彼岸へ渡りたいんなら他の死神に頼むことだね」
それじゃ、あんたの行く末を祈っておくよ。
おざなりな挨拶を残して、あたいは船を漕ぎ出だす。ゆっくりと櫓を動かすたびにどんどん此岸の岸辺が遠くなり、ついには水平線の彼方に消えた。
「……帰ったら四季様に怒られるんだろうなぁ」
つくづく思う。あたいは自分の気持ちを誤魔化す事は得意でも、嘘をつくのは下手なのだなと。
溜息交じりに出た苦笑いは、誰に聞こえるともなく風に溶けて消えた。
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────三途の川。此岸と彼岸を繋ぐ川。一度渡ってしまえば、生者だろうが死者だろうが問答無用で閻魔の裁判所に直行してしまうというそら恐ろしい川でもある。
「……とまぁ、これがあたいの経験した最初で最後の恋……かねぇ」
そんな危険な川を、小野塚小町は思い出話を語りながら軽い手つきで櫓を動かし、是非曲直庁へ向かって船を進めていた。今日は少し風も強く、若干ながら川面に波がたっているが、それを物ともせずに進路を保ち続けている。熟練の技と言わざるを得ない程の手さばきは、誰が見ても見事なものだった。
船に乗っているのは、立派な髭を蓄えた老人だった。仙人のようなこの老人は勿論霊魂で、これから四季映姫の元で裁判を受けに行く最中なのだ。
物言わぬ老人は、小町の思い出話を静かに聞き終えると、身振りで続きを促し、それに呼応するように再び小町が語り始める。
「その後の庁内は結構変わったよ。意外な事に、四季様が先陣切って待遇の改善を要求したんだ。『そんな硬い考えでは、多くの人を極楽に連れて行く事は出来ませんよ!』って啖呵を切ってさ。押し問答の末、とうとう十王様達が折れて人里への行き来が可能になったんだ。あの時はみんなして踊りながら人里の酒屋で宴会と洒落込んだねぇ」
促されて調子付いたのか、小町の口は更に饒舌になった。
「それと同時に天狗から新聞が来るようになった。これが結構便利で、色んな事が書かれてるから書類仕事も凄く楽になった。これがあったらエータの……桐生栗斗の情報も簡単に集められたのかなって考えると、少し勿体無く感じるねぇ」
老人は尚も口を開かない。と言うか、霊魂自体直接口を聞く事は出来ない。それを知っている小町は、独り言のように話し続ける。
「新聞にはエータの記事も載ってた。『堕ちた天才画家、堂々の復活!』なんて大きな見出しでさ。写真の中のエータは生き生きしてて、漸く自分の居場所を見つける事が出来たんだなって少し安心した。だけど、あれからあたいはエータの記事を見ないようにした。勿論個展にも行ってない。未練がましいし、あんな大嘘言った手前、どんな顔してあいつに会おうって言うのさ。きっとあいつはあたいの事を恨んでるはずだし、あたいだって自分の本心を隠したんだから、会う資格なんて最初からあってないようなものだからね」
それでも自分の気持ちを抑えられなくて、何度も会おうかなって考えたけどね。と自嘲気味に小町は語った。
「そういえば、あいつに告白されたのも、今日みたいな曇り空だったねぇ……」
そう言いながら一人ごちると、不意に老人が船床をトントンと叩き、一枚の紙を差し出した。
「なんだい? あたいに何か言いたい事でもあるのか……!」
振り返った小町に手渡された紙には、一人の少女のスケッチが書かれていた。大きな鎌を背中に携え、輝くような眩しい笑顔を浮かべたツインテールの少女。細やかな柄の制服に身を包んだその少女は、紛れも無い小町そのものだった。
震える手で小町は老人を見た。老人は優しい笑顔のまま、手振りで裏を返すように指示した。言われるがまま紙を裏返すと、そこには弱々しくもしっかりとした字でこう書かれていた。
『ありがとうございます。貴女のおかげでここまで生きる事が出来ました。感謝を込めて改めて伝えます。貴女の事が好きでした。また何処かで会えたら声をかけて下さいね。
桐生栗斗』
「……はは、おかしいね……今朝の天気予報じゃあ、今日は曇っていても雨なんか降らないって出てた筈なのに……大外れじゃないかい……これじゃあずぶ濡れになっちまうじゃないか……どうしてくれるんだよ……どうしてくれるんだよ……」
いつの間にか紙の上には大粒の水滴が零れ落ち、それと同時に少女の慟哭が彼岸中にこだました。
これは、彼岸に伝わるちょっとした小噺。その後の二人がどうなったかは、また別の機会に語る事としよう。
はい。どうもこんばんは。焼き鯖です。ゴールデンウィークが始まりました。私は課題に追われそうでこわいです。まぁ殆ど予定ないけどな!
これが少しでも暇潰しの材料になれたら幸いです。